◆八幡の歴史を探究する会

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 本会では、2010年より京都府八幡の歴史についての探究と共有を目指して、講演会や歴探ウォークの開催、会報の発行等の活動を積極的に続けています。

8/6 お蔭様でこのサイトへの来訪者が “のべ4万人” を越えました!


8/1 アクセスtop3を更新、7/24 新しい会報記事が7件、7/19 新掲示板に投稿が1件、6/17 新しい集いの案内が1件  追加されています。

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お急ぎの方は 最新の 《会報記事集いの案内》 に直行 できます。
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本会では定期的に会報を発行し現在 80号 を数えていますが、このサイトには
そこから 370件 の記事を掲載しております。

f0300125_23565324.jpgf0300125_23575995.jpg"7月度の記事別アクセス数 TOP3"
第29号:石清水祭祀と神人の経済活動
第72号:石清水八幡宮 山上伽藍の探訪
第12号:神仏習合の実像に迫る
7月度の人気タグ top3⇒  八幡宮の神人  八幡八景  二宮忠八

“アクセスtop3” コーナーについての 《解説とご案内》をこちらに 入れております。

なお個々の記事には以下の四つのルートから簡便にアクセスして頂けます。f0300125_20584995.jpgf0300125_20591768.jpgf0300125_20594243.jpgf0300125_210420.jpg

7/24 以下の朱書き部の連載や個別記事を追加掲載しました。
(前回更新日は 5/20)

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会報号番をクリックして頂くと、後はスクロールのみでその号の記事を一気にお読みいただけます。
なお朱書きが追加された号を示しております。

ブログ管理会社のシステム変更の影響で、現在以下をクリックすると、各号報のトップではなく記事一覧が出ます。お手数ですが その一覧ではクリックせず、そのまま下にスクロールしてご参照ください。
(各号のトップやエンドから前後の号報に移る場合も同じです)

《お知らせ》 第73号より会報は奇数月の隔月発行となっています。

2017年07月 第80号     2017年05月 第79号
2017年03月 第78号     2017年01月 第77号
2016年11月 第76号     2016年09月 第75号
2016年07月 第74号     2016年05月 第73号
2016年03月 第72号     2016年02月 第71号

2016年01月 第70号     2015年12月 第69号
2015年11月 第68号     2015年10月 第67号
2015年09月 第66号     2015年08月 第65号
2015年07月 第64号     2015年06月 第63号
2015年05月 第62号     2015年04月 第61号

2015年03月 第60号     2015年02月 第59号
2015年01月 第58号     2014年12月 第57号
2014年11月 第56号     2014年10月 第55号
2014年09月 第54号     2014年08月 第53号
2014年07月 第52号     2014年06月 第51号

2014年05月 第50号     2014年04月 第49号
2014年03月 第48号     2014年02月 第47号
2014年01月 第46号     2013年12月 第45号
2013年11月 第44号     2013年10月 第43号
2013年09月 第42号     2013年08月 第41号

2013年07月 第40号     2013年06月 第39号
2013年05月 第38号     2013年04月 第37号
2013年03月 第36号     2013年02月 第35号
2013年01月 第34号     2012年12月 第33号
2012年11月 第32号     2012年10月 第31号

2012年09月 第30号     2012年08月 第29号
2012年07月 第28号     2012年06月 第27号
2012年05月 第26号     2012年04月 第25号
2012年03月 第24号     2012年02月 第23号
2012年01月 第22号     2011年12月 第21号

2011年11月 第20号     2011年10月 第19号
2011年09月 第18号     2011年08月 第17号
2011年07月 第16号     2011年06月 第15号
2011年05月 第14号     2011年04月 第13号
2011年03月 第12号     2011年02月 第11号

2011年01月 第10号     2010年12月 第09号
2010年11月 第08号     2010年10月 第07号
2010年09月 第06号     2010年08月 第05号
2010年07月 第04号     2010年06月 第03号
2010年05月 第02号     2010年04月 第01号

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連載企画の記事はこちらから直接初回記事に入り、以降は文末でクリックすることで
連続参照して頂けます。 今回の号では朱書きの連載記事が追加 されています。


《連載》 “四條隆資卿物語” (第79号~継続中
《連載》 “八幡の古墳と鏡” (第77号~継続中
《連載》 “八幡に見る古代植物” (第74号~第77号)
《連載》 “詩歌に彩られた八幡の歴史” (第73号~継続中)
《連載》 “宮廷と歌合、そして石清水宮寺” (第71号~第72号)
《連載》 “心に引き継ぐ風景” (第70号~継続中
《連載》 “五輪塔あれこれ” (第70号~第79号)
《連載》 “『三宅安兵衛遺志』碑と八幡の歴史創出” (第70号~継続中)
《連載》 “八幡の道を「高野街道」となぜ呼ぶのか?” (第67号~71号
《連載》 “松花堂昭乗が詠んだ八幡の町"  (第63号~第68号)
《連載》 “川の旅日記"  (第62号~第64号)
《連載》 “八 幡 八 景”  (第58号~第60号)
《連載》 “『歴史たんけん八幡』の発行"  (第56号~第68号)
《連載》 “御園神社考”  (第55号~第58号)
《連載》 “ひょっこり訪問記 ”  (第53号~継続中)
《連載》 “古代の声を聞く ”  (第53号~第54号)
《連載》 “自転車で巡る名所案内 ”  (第52号~第56号)
《連載》 “ 物語はどのように生まれたか ”  (第51号~第56号)
《連載》 “ 石清水八幡宮の歴史Q&A ”  (第50号~第57号)
《連載》 “ 伊佐家のしきたりとくらし ”  (第48号~第51号)
《連載》 “ 謡曲のふるさと八幡 ”  (第41号~継続中)
《連載》 “ 大谷川散策余話 ”  (第38号~第50号)
《連載》 “ 御文庫とエジソン碑 ”  (第36号~第45号)
《連載》 “ 墓石をたどる ”  (第33号~継続中)
《連載》 “ 八幡の歴史スポット ”  (第30号~第32号)
《連載》 “わが心の風景 ” (第28号~第69号)
《連載》 “八幡太鼓祭り ”  (第28号~第29号)
《連載》 “八幡に残る昔話と伝承 ”  (第26号~第30号)
《連載》 “ 八幡文学碑巡り ”  (第22号~第26号)
《連載》 “八幡神と神仏習合 ”  (第21号~第25号)
《連載》 “ 一枚の写真から ”  (第16号~第19号)
《連載》 “ 八幡の歴史の謎とは何か”  (第15号~第16号)
《連載》 “古歌に詠まれた南城山”  (第11号~第15号)
《連載》 “八幡の祭りについて”  (第5号~第17号)
《連載》 “八幡の歴史を彩る文化”  (第4号~第9号)
・・・
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現在掲載しているスポット記事は以下の通りです。クリックで直接お読み頂けます。

“八幡の京街道は川底に沈んだ " (第80号)
“消えた踏切道に思う " (第80号)
“今年白寿を迎えました " (第80号)
“『太平記』 八幡合戦の石碑を訪ねる " (第79号)
“「八幡の歴史を学ぶ連続学習会」2016年 " (第79号)
“石清水八幡宮を指し示す「八幡宮道」の道標の数々 " (第78号)
“大阪府下の東高野街道に「やわた道」の道標を訪ねて" (第77号)
“歴探サイト(ホームページ)の現況報告" (第77号)
“第44回八幡市民文化祭展示発表を終えて" (第76号)
“御幸橋南詰「石清水八幡宮鳥居通」道標は何処に?" (第75号)
“『茶揉み歌』を復活"  (第73号)
“「八幡大縁起」に参加して"  (第71号)
“上津屋橋(流れ橋)の復旧に向けて"  (第71号)
“新刊案内「戦国大名の正体"  (第70号)
“本妙寺文書「沢庵の書状」と紫衣事件"  (第69号)
“「古寺巡礼」で出会った仏さま"  (第69号)
“八幡の文化財(国宝指定)"  (第69号)
“国宝指定の答申に思う"  (第69号)
“京の街角の「湯たく山茶くれん寺"  (第69号)
“旅人は何故片手を挙げているのか"  (第67号)
“「八幡の道 探究部会」が発足しました"  (第67号)
“石清水八幡宮が国宝に!"  (第67号)
“第119代光格天皇と大江磐代君とその母"  (第64号)
“クイズ「私は誰でしょう」"  (第62号)
“西国三十三所観音石仏群の墓所"  (第61号)
“陸橋の名前"  (第61号)
“九州の横穴・近畿の横穴"  (第60号)
“二宮忠八掌話"  (第60号)
“会の旗が出来ました!"  (第60号)
“松井横穴群に学ぶ"  (第59号)
“平野山・西山はミステリー"  (第59号)
“ずいき祭り"  (第58号)
“小特集: わがまち 八幡"  (第57号)
“流れ橋存廃の意見表明"  (第56号)
“磯田道史氏の講演に学ぶ"  (第56号)

これより古い号の個別記事インデックスはこちらに

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◆八幡のおすすめキーワードで関連記事を◆
この画面の右上の “タグ” 欄のおすすめキーワードをクリックして頂くと、ブログ内の
関連記事をまとめてご参照頂けます。
最初に記事一覧が出ますが、そこではクリックせずスクロールでお読みください。
なおタグ記事閲覧後に元に戻る場合は、一旦上端までスクロールし画面左上隅の
“Y-rekitan八幡”の文字をクリックしてください。

任意のキーワードで記事を検索
右上の “検索ボックス” に八幡に関わる任意のキーワードをセットして頂きますと、
このブログに収納している関連記事の一覧が出ます。合わせてご利用ください。



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# by y-rekitan | 2018-12-31 20:00 | Comments(0)

◆コーナー・講演会の記録

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「八幡の歴史を探究する会」では、定期的に講演会や歴探ウォーキングの集いを実施していますが、このコーナーでは、その講演会のレポートを紹介しております。

 5/20 朱書きの記事を追加掲載しました。 現在の記事数は 57件です。 

下記の任意の記事をクリックして頂くと、それ以降は記事下端で“次のレポート”をクリックして頂くことで連続参照して頂けます。 

  《講演会録》 79号 2017年04月 三川合流の変遷と周辺都市
  《講演会録》 78号 2017年02月 謡曲から見た八幡
  《講演会録》 76号 2016年10月 八幡の古代遺跡と道
  《講演会録》 75号 2016年08月 石清水八幡宮の成立と機能
  《講演会録》 73号 2016年05月 石清水八幡宮の由緒と建築様式
  《講演会録》 71号 2016年02月 中世都市 八幡
  《講演会録》 70号 2016年01月 『三宅安兵衛遺志』碑と八幡の歴史創出

  《講演会録》 68号 2015年11月 継体大王の謎を追う
  《講演会録》 67号 2015年10月 弥生時代の八幡市とその周辺
  《講演会録》 66号 2015年09月 江戸時代の村の暮らし
  《講演会録》 63号 2015年06月 酒麹作りがビジネスの八幡神人がなぜ奉納詩歌に
  《講演会録》 62号 2015年05月 知っているようで知らない松花堂昭乗のこと
  《講演会録》 61号 2015年04月 幕末政治と攘夷―長州・京都・八幡
  《講演会録》 59号 2015年02月 二宮忠八と八幡
  《講演会録》 58号 2015年01月 史跡 松花堂庭園の成立
  《講演会録》 57号 2014年12月 中村家住宅の国登録有形文化財指定
  《講演会録》 56号 2014年11月 中世大山崎の商業活動について

  《講演会録》 55号 2014年10月 「安居頭諸事覚」を読む
  《講演会録》 54号 2014年09月 地誌に見る八幡
  《講演会録》 54号 2014年08月 神国論の系譜
  《講演会録》 51号 2014年06月 八幡を掘る
  《講演会録》 50号 2014年05月 門前町の八幡「今」「昔」
  《講演会録》 49号 2014年04月 石清水八幡宮の年中行事と庶民信仰
  《講演会録》 47号 2014年02月 松花堂昭乗の茶の湯
  《講演会録》 46号 2014年01月 歌人吉井勇の歌行脚
  《講演会録》 44号 2013年11月 八幡の歴史と土器
  《講演会録》 43号 2013年10月 八幡における浄土信仰

  《講演会録》 42号 2013年09月 江戸時代の村の暮らし
  《講演会録》 41号 2013年08月 武家政権と石清水八幡宮
  《講演会録》 39号 2013年06月 八幡社士総代「江戸尾張年頭御礼日記」
  《講演会録》 38号 2013年05月 天下人の時代と八幡
  《講演会録》 37号 2013年04月 南山城の地域史を学んで
  《講演会録》 35号 2013年02月 松花堂昭乗の江戸下向
  《講演会録》 34号 2013年01月 八幡・山崎の警備体制と鳥羽伏見
  《講演会録》 32号 2012年11月 松花堂昭乗と近世前期の文芸
  《例会報告》 30号 2012年09月 「八幡歴史カルタ」読み札の決定
  《講演会録》 29号 2012年08月 石清水際と神人の経済活動

  《講演会録》 28号 2012年07月 良いまちには良い川がある
  《講演会録》 27号 2012年06月 八幡の町の成り立ち
  《講演会録》 26号 2012年05月 庶民信仰と八幡大菩薩
  《講演会録》 25号 2012年04月 男山文化園の中心・八幡
  《講演会録》 23号 2012年02月 古代の八幡を探る
  《講演会録》 21号 2011年12月 高度経済成長期の八幡を語る
  《講演会録》 20号 2011年11月 八幡八景の成立とその背景
  《例会報告》 19号 2011年10月 八幡の歴史を次代に遺そう!
  《講演会録》 18号 2011年09月 墓地で探る八幡の歴史(1)
  《講演会録》 18号 2011年09月 墓地で探る八幡の歴史(2)

  《講演会録》 16号 2011年07月 地名で学ぶ八幡の歴史
  《講演会録》 14号 2011年05月 中世都市橋本を学ぶ
  《講演会録》 13号 2011年04月 八幡の古墳とその特徴を学ぶ!
  《講演会録》 12号 2011年03月 神仏習合の実像に迫る
  《講演会録》 11号 2011年02月 近代の門前町と参詣路を語り合う
  《講演会録》 10号 2011年01月 南北朝の争乱と八幡
  《講演会録》 08号 2010年11月 淀屋の歴史をたどる!
  《講演会録》 06号 2010年09月 石清水八幡宮の絵図を読み解く!
  《講演会録》 04号 2010年07月 松花堂昭乗の出自を追う!
  《講演会録》 02号 2010年05月 古代の遺跡から八幡の歴史を学ぶ

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# by y-rekitan | 2018-12-31 18:00 | Comments(0)

◆コーナー・歴探ウォークの記録

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「八幡の歴史を探究する会」では、定期的に講演会や歴探ウォーキングの集いを実施していますが、このコーナーでは、その歴探ウォークのレポートを紹介しております。

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 7/24 朱書き記事を追加掲載しました。 現在の記事数は 19件です。 

下記の任意の記事をクリックして頂くと、それ以降は記事下端で“次のレポート”をクリックして頂くことで連続参照して頂けます。

  《歴探散策》 80号 2017年06月 東山寺と伊弉諾神宮を訪ねて(バスツアー)
  《歴探散策》 77号 2016年12月 八幡の古寺巡礼 第4回
  《歴探散策》 74号 2016年06月 丹後を訪ねてのバスツアー報告
  《歴探散策》 72号 2016年03月 石清水八幡宮 山上伽藍の探訪
  《歴探散策》 69号 2015年12月 八幡の古寺巡礼 第3回
  《歴探散策》 64号 2015年07月 長岡宮を訪ねてのバスツアー報告
  《歴探散策》 60号 2015年03月 橋本の歴史(2)「平野山・西山を歩く」
  《歴探散策》 57号 2014年12月 八幡の古寺巡礼 第2回
  《歴探散策》 52号 2014年07月 対岸の町「山崎・大山崎」を訪ねる

  《歴探散策》 48号 2014年03月 橋本の歴史(1)「京街道を行く」
  《歴探散策》 45号 2013年12月 八幡の古寺巡礼(第1回)
  《歴探散策》 40号 2013年07月 二つの資料館をめぐる
  《歴探散策》 36号 2013年03月 春爛漫の歴史探訪ウォーク
  《歴探散策》 33号 2012年12月 男山参詣路を歩く
  《歴探散策》 31号 2012年10月 八幡の古建築の探訪
  《歴探散策》 25号 2012年04月 歴史探訪「男山参詣路を歩く」
  《歴探散策》 15号 2011年06月 東高野街道を歩く
  《歴探散策》 07号 2010年10月 上津屋の名所をめぐる
  《歴探散策》 03号 2010年06月 八幡の名所・旧跡を歩く

なお歴探ウォークの自転車版、サイクリングツアーについても概要を連載記事として掲載していますので、併せてご参照ください。
《連載記事》 “自転車で巡る名所案内 ”

# by y-rekitan | 2018-12-31 16:00 | Comments(1)

◆コーナー・新しい集いのご案内

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本会では八幡の歴史の探究と共有を目指して、講演会や歴探ウォーク等の集いを定期的に催しておりますが、このコーナーではそのスケジュール等を掲載しております。
併せて本会のトピックスや出版物等についても掲載しておりますのでご参照ください。

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ただ今、以下の集いやイベントを案内中です。詳しくはリンクのパンフレットをご参照のうえ、ご参加ください。 7/25更新


f0300125_1833548.jpg◆講演と交流の集い(2017年8月)

   ・概要  石清水八幡宮の牛王宝印
   ・日時  2017年8月26日(土) 午後2時~4時
   ・場所  さくらであい館 イベント広場「淀」



f0300125_1833548.jpg(2017年度)八幡の歴史を学ぶ連続学習会

   ・概要  2017年度 八幡の歴史を学ぶ連続学習会(隔月開催)
   ・日時  2017年 5月18日(木) 「八幡神と男山遷座」
《終了しました》 参加者は47名でした。 空白空白
        2017年 7月20日(木) 「元寇から南北朝の争乱まで」
《終了しました》 参加者は43 名でした。 空白空白
        2017年 9月21日(木)  「天下人と八幡」
        2017年11月16日(木) 「鳥羽伏見の戦いと八幡・橋本」
        2018年 1月18日(木)  「八幡東部の神社(川口天満宮、内神社)」 
        2018年 3月16日(木)  「近代化の八幡と戦時下の八幡」    
       ※何れも午前10時~11時半
   ・場所  ふるさと学習館2階研修室



f0300125_1833548.jpg◆歴史探訪バスツアー

《終了しました》 参加者は39名でした。

   ・概要  歴史探訪バスツアー
   ・日時  2017年 6月15日(木) 午前7時50分~午後6時頃
   ・場所 《訪問先》バスで淡路島に向かいます
         伊弉諾(いざなぎ)神社⇒(昼食:海鮮料理)⇒東山寺
        ー詳細はバスツアーのパンフレット参照ー



f0300125_1833548.jpg◆年次総会及び講演と交流の集い

《終了しました》 参加者は58名でした。
   ・概要 (八幡の歴史を探究する会) 年次総会
        (講演と交流の集い)   「淀川・三川合流の歴史とその周辺」  
   ・日時  2017年 4月23日(日) 年次総会:午後1時30分~2時10分
                   講演と交流の集い:午後2時30分~4時30分
   ・場所  さくらであい館(イベントホール)



f0300125_1833548.jpg◆八幡の歴史を学ぶ連続学習会>

《終了しました》
   ・概要  八幡の歴史を学ぶ連続学習会(隔月開催)
   ・日時  2016年 5月19日(木) 「大むかしの八幡」(29名参加)
        2016年 7月14日(木) 「町の成り立ちと神人の活躍」
                             (37名参加)
        2016年 9月15日(木)  「松花堂昭乗という人がいた」
                             (32名参加)
        2016年11月17日(木) 「淀屋と八幡」(34名参加)
        2017年 1月19日(木)  「河川と歩んだ八幡」(30名参加)
        2017年 3月16日(木) 「昭和から平成へ」(28名参加)     
        ※午前10時~11時半
   ・場所  ふるさと学習館2階研修室



f0300125_1833548.jpg◆会員研究発表

《終了しました》 参加者は40名でした。
   ・概要  謡曲から見た八幡
   ・日時  2017年 2月15日(水) 午後1時30分~
   ・場所  松花堂美術館 講習室



f0300125_1833548.jpg◆歴史探訪ウォーク

《終了しました》 参加者は46名でした。 
   ・概要  八幡の古寺巡礼
        ー第4回:男山山麓の寺を巡る(Partー3)ー
   ・日時  2016年 12月8日(木) 午後1時~4時頃
   ・場所  京阪八幡市駅→法園寺→正福寺→単伝寺



f0300125_1833548.jpg◆「八幡の道探究部会」の展示発表

《終了しました》 2日間とも多くの来場者がありました。
   ・概要  「八幡の古道」展示発表(八幡市民文化祭)
   ・日時  2016年 10月29日(土) 午前10時~午後5時
        2016年 10月30日(日) 午前10時~午後4時
   ・場所  第44回八幡市民文化祭
         八幡市文化センター 3階エレベーターホール



f0300125_1833548.jpg◆講演と交流の集い(10月)

《終了しました》 参加者は33名でした。
   ・概要  八幡の古代遺跡と道
   ・日時  2016年 10月16日(日) 
   ・場所  八幡市文化センター第3会議室



f0300125_1833548.jpg◆講演と交流の集い(8月)

《終了しました》 参加者は42名でした。
   ・概要  石清水八幡宮の別宮の成立と機能
   ・日時  2016年8月27日(木) 午後2時~4時半
   ・場所  八幡市文化センター 第3会議室



f0300125_1833548.jpg◆歴史探訪バスツアー(6月)

《終了しました》 参加者は38名でした。 
  ・概要  丹後を訪ねて
  ・日時  2016年6月9日(木) 午前8時~午後6時頃
  ・場所  《訪問先》 丹後郷土資料館 ⇒ 籠神社 ⇒ ちりめん街道
       ―バスツアーの詳細はパンフレット参照―



f0300125_1833548.jpg◆年次総会及び講演と交流の集い(4月)

《終了しました》 参加者は38名でした。 
   ・概要 (八幡の歴史を探究する会)年次総会
       (講演と交流の集い)  「石清水八幡宮の由緒と建築様式」  
   ・日時 2016年4月21日(木)  年次総会:午後1時~1時40分 
                   講演と交流の集い:午後2時~4時
   ・場所 石清水八幡宮研修センター(男山山上)


f0300125_1833548.jpg◆講演と現地探訪の集い(3月)

《終了しました》 参加者は52名でした。 
    ・概要  石清水八幡宮 山上伽藍の探訪
    ・日時  2016年3月13日(日) 午後1時~4時頃
    ・場所  石清水八幡宮研修センター(講演)及び男山山上探訪


f0300125_1833548.jpg◆男山考古録を読むパートⅢ(第12回)

《終了しました》 参加者は23名でした。 
    ・概要  男山考古録」を読む パートⅢ第4回(通算:第12回)
    ・日時  2016年2月17日(水) 午前10時~11時30分
    ・場所  八幡市立生涯学習センター 会議室

f0300125_1833548.jpg◆講演と交流の集い(2月)

《終了しました》 参加者は58名でした。 
    ・概要  中世都市 八幡
    ・日時  2016年2月14日(日) 午後1時30分~4時
    ・場所  松花堂美術館 講習室


f0300125_1833548.jpg◆講演と交流の集い(1月)

《終了しました》 参加者は78名でした。 
    ・概要  「三宅安兵衛遺志」碑と八幡の歴史創出
    ・日時  2016年1月17日(日) 午後1時30分~4時
    ・場所  八幡市文化センター第3会議室


f0300125_1833548.jpg◆男山考古録を読むパートⅢ(第11回)

《終了しました》 参加者は30名でした。 
    ・概要  男山考古録」を読む パートⅢ第3回(通算:第11回)
    ・日時  2016年1月13日(水) 午前10時~11時30分
    ・場所  八幡市立生涯学習センター 会議室



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◆2016年10月29日~30日 第44回八幡市民文化祭に出展
 今年の文化際には、昨年10月発足した専門部会『八幡の道探究部会』の1年間の活動成果を展示発表しました。展示のテーマは「八幡の古道」で、①古地図(6枚)、②古道の作製地図(2枚ー写真6点)、③江戸時代の道標地図(2枚ー写真27点)などを展示しました。
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 展示会場の八幡市民文化センター3階ロビーには、2日間で約200人の大勢の方が訪れられ、展示物を見ていただきました。また、部会員の説明を熱心に聞いておられました。今回の展示発表は当初予想より皆様の古道や古い道標への関心は高くて、準備していた古道や道標地図及び道標リストは多くの方が求められてたので途中で増刷しました。中には関心のある道標を今から見に行くと仰る方も居られました。
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◆2016年6月12日 『八幡の歴史カルタ』の関連史跡めぐり
 「安居塚ブロック福祉委員会(ふれあいサロン)」の皆様が本会制作の『八幡の歴史カルタ』に詠まれている史跡巡りをされている様子が、八幡市社会福祉協議会の広報誌「やわたし社協だより」第108号(2016年6月1日発行)に紹介されました。
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 催しを主催された福祉委員会の安居塚ブロック長 中崎幸子様から「八幡の歴史カルタ等に紹介されている名所巡りを今年3月と5月実施しましましたが、皆様に好評なので11月にも計画しています」と伺いました。

◆2016年6月12日 カルタ資料館に『八幡の歴史カルタ』を寄贈
 この度、福岡県大牟田市立三池カルタ・歴史資料館から、当会制作の「八幡の歴史かるたカルタ」の寄贈依頼があり1セットを寄贈しました。f0300125_1521852.jpg この資料館は日本及び世界のカルタ(歌カルタ・いろはカルタ・トランプ・タロットなど)を専門に収集・展示・研究をする日本で唯一の資料館です。
 資料館の館長から「礼状」と資料館のパンフレットが届きましたので、ご紹介します。
(注記)
 日本のカルタは、ポルトガルからの影響を受け、16世紀末頃、筑後の三池地方で作り始められたと言われている。その関係で大牟田市が1991(平成3)年に日本で唯一のカルタ専門館を開館した。
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2015年10月31日~11月1日第43回八幡市民文化祭に出展
 今年も八幡市文化センターでの市民文化祭に出展しました。「八幡の歴史クイズ」の実施と「歴史カルタ」及び「歴史たんけんマップ」を掲示しました。約100名の方が歴史クイズに挑戦されました。
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◆2015年9月27日 「歴史たんけん八幡」出版記念の集い
 松花堂庭園・美術館別館において実施された、第Ⅰ部記念講演、第Ⅱ部「出版記念」交流の集いは、堀口八幡市長をはじめ多くの方が参加されて盛況でした。
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 ◆2015年5月9日 八幡市生涯学習センター「わくわくドキドキ縁日」に出展。
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 ◆2015年04月18日 発足5周年記念で会の旗製作の記事が京都新聞に。
 ◆2015年02月13日 2月例会「二宮忠八と飛行神社」が京都新聞に掲載。 
 ◆2014年12月23日 「やましろのタカラフェステバル」(文化パルク城陽)に出展。
 ◆2014年11月1~2日 第42回八幡市民文化祭に出展
 ◆2014年08月15日 会報50号達成記念(バックナンバー増刷)が京都新聞に掲載。
 ◆2014年06月09日 KBS京都ラジオで本会活動紹介の放送がありました。
 ◆2014年06月01日 八幡山柴公民館フェスティバルで、歴探クイズの展示。
 ◆2014年05月28日 「歴史探訪サイクリング」が京都新聞で紹介されました。


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◆歴史と文化の本、『歴史たんけん八幡』は好評のうちに完売。

2015.9.1 大人も子供もこの一冊で、八幡の歴史と文化がよくわかる本、『歴史たんけん八幡』が発刊されました。
 発行日の9月1日にはこの本を八幡市に贈る贈呈式が行われ、その後ミュージアムショップやイベント会場で販売を行ってまいりましたが、好評のうちに販売を完了しました。
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『歴史たんけん八幡』、発刊よもやま話

f0300125_0485928.png 本会ではこの本の一年半にわたる企画から編集、発刊に至る経緯や本の概要を、シリーズ記事として会報で紹介してまいりました。
以下にその記事をリストアップしていますのでご参照ください。
(写真は制作委員会の風景です)


発刊に向けて ▼『歴史たんけん八幡』の発行にむけて
 ▼本の紹介として「特別連続講座」を開設
 ▼本の紹介としての「特別連続講座②」を開催
 ▼いよいよ『歴史たんけん八幡』の発行が迫る

発刊に寄せて ▼刊行に寄せて・・・『歴史たんけん八幡』と私
 ▼『歴史たんけん八幡』が発行されました
 ▼八幡の歴史にこの本の刊行が刻み込まれた
 ▼出版記念の集いが開かれました!
 ▼『歴史たんけん八幡』の普及と活用 / 読書感想

                    


◆本会制作の 『八幡の歴史カルタ』 を販売中です。
2013年2月に発売した《初版》は好評のうちに完売しました。現在は装いを新たにした改訂版を販売中です。

発行:2013年5月25日
販売価格:1,000円
制作:八幡の歴史を探究する会
絵札:森川 修
ケース:石瀬謙三
句:歴探会員応募作より
句の解説:歴探会員有志 (読み札の裏はその句の歴史的な解説になっています)
       
販売所:松花堂ミュージアムショップ、
・歴探事務局 takata@cd6.so-net.ne.jp
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◆本会の会報のバックナンバーを販売しています。

f0300125_15224688.jpg  ご要望が多いこともあり、会報50号を発行した記念にバックナンバーを増刷し販売しております。
  • 各号とも1部100円です。
  • 体裁は白黒A4版で、各号ともおおむね10~20ページの構成となっております。(但し古い号では10ページ未満のものもあります)
  • ご希望の方は講演会等の例会の際にお買い求め下さい。
  • また非会員の方を含め郵送をご希望の方は、下記「歴探事務局」まで希望会報の号番号、送付先等の必要事項をメールでご連絡ください。会報を10号分(部)以上まとめて購入される方の郵送料は、当会で負担させて頂きます。

    なおお支払方法は下記口座あての郵便振り込みとさせていただきます。
       申し込み: 歴探事務局 takata@cd6.so-net.ne.jp
       支払振込: 郵便振込口座番号:00970-2-322353
              (加入者名:八幡の歴史を探究する会)
       

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# by y-rekitan | 2018-12-31 15:00 | Comments(0)

◆統合版・・・集いのパンフレット

新しい集いのご案内 パンフレット集


◆講演と交流の集い(8月)

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《終了》◆歴史探訪バスツアー

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◆(2017年度)八幡の歴史を学ぶ連続学習会

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《終了》◆年次総会及び講演と交流の集い

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《終了》◆会員研究発表

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《終了》◆歴史探訪ウォーク

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《終了》◆「八幡の道探究部会」展示発表

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《終了》◆講演と交流の集い(10月)

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《終了》◆講演と交流の集い(8月)

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《終了》◆歴史探訪バスツアー(6月)

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◆八幡の歴史を学ぶ連続学習会

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《終了》◆年次総会及び講演と交流の集い(4月)

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《終了》◆講演と現地探訪の集い(3月)

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《終了》◆男山考古録を読む会パートⅢ第4回

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《終了》◆講演と交流の集い(2月)

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《終了》◆講演と交流の集い(1月)

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《終了》 ◆男山考古録を読む会パートⅢ第3回(通算第11回)

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# by y-rekitan | 2018-12-31 14:00 | Comments(0)

◆コーナー・本会の概要と入会のご案内

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このコーナーでは「八幡の歴史を探究する会」の概要紹介や、入会のご案内を掲載しております。
2015.09.10 本会の沿革コーナーに追記    2015.04.21 本会の会則を更新
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 「八幡の歴史を探究する会」は2010年4月に 発足しました。
 八幡は、弥生時代の遺跡をはじめ、さまざまな古墳や、石清水八幡宮、善法律寺、正法寺、松花堂などすぐれた文化遺産に恵まれています。ところがその歴史的意義や文化的価値が必ずしも明らかにはされておらず、そこに暮らす私たち自身もその存在にすら気づいていないという現実があります。 

 そうした中で私たちは「八幡の歴史を探究する会」を設立し、①講演会、②現地見学会、③会員の研究発表、を事業の3本柱として各種イベントを開催するとともに、その活動内容を市民内外に広く知ってもらうために、「会報」を発行しております。
 私たちは関係団体や機関とも連携しながら、歴史探究の活動を通して市民の誰もが郷土の歴史と文化に誇りをもち、未来の町を築いていくことに貢献できればと願っております。
 「八幡の歴史を探究する会」 代表幹事 安立 俊夫空白

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 本会の概要や会則にご賛同いただき、ともに活動して頂ける会員を募っております。
  • 八幡市以外にお住まいの方も会員になれます。
  • 会員には、「会報」及び例会案内チラシ等を郵送いたします。
  • 会費:年会費は(4月~3月締めで)1,500円  
      10月以降入会は、1,000円、
  • お申し込みは下記の事務局までメールで、また会費の振込は下記の郵便振込みをご利用ください。
       申し込み: 歴探事務局 takata@cd6.so-net.ne.jp
       支払振込: 郵便振込口座番号:00970-2-322353 
             (加入者名:八幡の歴史を探究する会)
     

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 以下の会則(2改)は、2015年4月19日の総会にて承認された。

第1条 名称
本会は「八幡の歴史を探究する会」と称する。

第2条 目的
八幡の歴史を探究し、事業を通じて会員相互の交流を深めるとともに、地域文化の進展と次世代への継承に貢献する。

第3条 事業
1、講演会の開催
2、現地見学会の開催
3、会員の研究発表
4、会報を発行し,会員の情報交換・投稿の場とする。
5、その他第2条の目的を達成するための事業

第4条 会員
前条の趣旨に賛同する人々をもって構成する。

第5条 幹事及び幹事会
1、会員中より選任された幹事により幹事会を構成する。
2、幹事の任期は設けない。

第6条 代表幹事
幹事の中から互選により代表幹事、副代表幹事を選任する。

第7条 事務局長
1、幹事の中から互選により事務局長を選任する。
2、事務局長は幹事会を主宰する。

第8条 会議
この会の活発かつ円滑な運営を図るために、次の会議を開催する。
1、総会
   年1回開催し、会務・会計を報告するとともに必要
   事項を審議する。
2、幹事会
   必要に応じ開催し重要事項を審議する。

第9条 会費及び会計年度
1、会の運営のための年会費を徴収する。額については
  幹事会で決定する。   
2、会計年度は毎年4月1日より翌年3月31日までと
  する。 
3、会計監査は会員の中より選出し、総会にて会計監査
  報告を行う。

第10条 その他
本会則に定める以外の必要事項は幹事会で協議し、本会の必要な場合は細則を別に定める。

第11条 付則
この会則は2011年度(平成23年度)総会開催後から施行する。
   1改)2012年度(平成24年度)総会にて一部改訂。
   2改)2015年度(平成27年度)総会にて一部改訂。

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本会の沿革に代えて、ここに代表の折々の年次総括やイベント報告の記事を紹介させて頂きます。
        2015年09月 『歴史たんけん八幡』を発刊しました!
        2015年04月 2015年度の総会が開かれました
        2015年04月 発足からの5年を振り返る
        2015年03月 発足5年周年を記念し、会の旗が出来ました
        2014年06月 会報50号 発行の節目を迎え
        2014年01月 新年を迎え、5年目の節目を大切に
        2012年04月 発足以来 3年目の節目を迎えて
        2010年04月 なごやかに、探究する会が発足


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8/6 お蔭様でこのサイトへの来訪者がのべ4万人を越えました!
先月(7月)末で39,713人

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2017.01.10…お蔭様でこのサイトへの来訪者がのべ3万人を超えました。
2016.02.26…お蔭様でこのサイトへの来訪者がのべ2万人を超えました。
2015.06.10…お蔭様でこのサイトへの来訪者がのべ1万人を超えました。
2014.12.05…併設の歴探掲示板をリニューアルし、画像やリンクの投稿が容易になりました。
2014.11.05…開設一周年を迎え関連サイトリンクのコーナー新設、歴探掲示板へのリンク等の機能アップを実施しました。
2014.07.07…本会概要紹介やイベント案内等、本会の活動を総合的に紹介するサイトとしてリニューアルしました。
2013.11.01…本会の会報記事を紹介するブログとして発足しました。

《備考》 来訪者数は、携帯やスマートフォンを除きパソコンからの来訪のみをカウントしたものです。また同じ人が一日に何回訪れてもその日は1 回としてカウントする方式としています。

《改定》 2016.11.15よりアクセスカウントにモバイル端末からのアクセスも加えることになりました。これにより今後はカウント値が3割ほど大きくなる見込みです。

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f0300125_1548513.jpg この歴探サイトではH26年10月から「先月の記事別アクセスtop3」と称するコーナーを設け、会員の方だけでなく全国からの検索来訪を含めて1か月間のアクセスが多かった記事を紹介させて頂いております。

 おかげさまでこのサイトの掲載記事数は順調に増え続けておりますが、せっかくの熱のこもった会報記事も数が多くなり時間を経ると、昔の記事を改めて読み返す機会は少なくなるものと思われます。そこで月替わりのアクセスランキングに名を借りたこのコーナーを設け、クリックして頂くことで毎回3件のなつかしい力作記事を改めて味わっていただく機会になれば・・・ そんな思いでこのコーナーを設けておりますので、ぜひご利用ください。

《追記》 H29年1月より、アクセスtop3欄の下に“人気タグtop3”のコーナーを付設しました。毎月のアクセスが多かったタグ(キーワード)のtop3です。合わせてご利用ください。

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# by y-rekitan | 2018-12-31 13:00 | Comments(0)

八幡歴探 リンク集

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このコーナーは八幡の歴史にかかわる情報が網羅的に閲覧できるサイトや、本会に縁の深いサイトのリンク集です。


f0300125_12175720.jpg八幡市観光協会
“みどころ”コーナーの各スポットの写真と解説は圧巻です。

f0300125_21374037.jpg八幡市公式サイト/観光情報のコーナー
八幡の名勝の情報が満載。また、祭り等の動画も見られます。

f0300125_2543626.jpg枚方市公式サイト/歴史のコーナー
枚方の文化財や歴史に関する催しの情報が満載です。

f0300125_2244728.jpg城陽市公式サイト/文化財のコーナー
市内にある国、府、市の史跡、文化財が網羅されています。

f0300125_246395.jpg久御山町公式サイト/文化財のコーナー
久御山町の文化財が写真、解説付きで閲覧できます。

f0300125_23464785.jpg宇治市公式サイト/文化財のコーナー
世界遺産を含め市内にある国、府、市の史跡、文化財の一覧です。

f0300125_21385651.jpgサイト「八幡散策」の “八幡ぶらりゆく”
神社仏閣、伝説、道標等、広範囲に網羅されています。

f0300125_23474058.jpg松花堂庭園・美術館
松花堂昭乗のデータベース、催し物案内等が掲載されています。

f0300125_063725.jpg石清水八幡宮
860年に都の裏鬼門を守護する鎮護の神として創建されました。

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# by y-rekitan | 2018-12-31 12:00 | Comments(0)

◆スポット記事インデックス《続》

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60号以前の会報のスポット記事は以下の通りです。クリックで直接お読み頂けます。

“代々つづく神原の講 =秋編="  (第55号)
“八幡森の石仏と地蔵盆"  (第54号)
“お気軽歴史講座に行きました"  (第54号)
“地誌には、どんなものがあるか?"  (第53号)
“松花堂庭園とその魅力"  (第52号)
“島崎藤村と八幡"  (第52号)
“神領墓地は何を語るか”  (第49号)
“水月庵 藪を抜ければ円福寺”  (第49号)
“変わりゆく橋本”  (第48号)
“芭蕉と遊女との巡合い”  (第48号)
“遊女 江口の君”  (第47号)
“八幡の浄土宗寺院にみる地蔵菩薩 ”  (第45号)
“ 三昧聖と八幡の墓地  ”  (第45号)
“ 五榜の掲示  ”  (第44号)
“個人所有重文民家の課題について ”  (第43号)
“重文「伊佐家住宅」について ”  (第43号)
“ 昭乗の下馬碑を探る ”  (第42号)
“ 京大博物館にある八幡の遺跡・遺物 ”  (第40号)
“ヌートリア考、そして「郷土囗史物語」”  (第37号)
“ 狛 犬 考 ”  (第37号)
“ 探訪会のしおりを作成して ”  (第36号)
“歴史探訪ウォーク参加記”  (第36号)
“代々続く神原の「講」”  (第36号)
“「八幡の歴史カルタ」に驚く”  (第36号)
“女坂・荒坂横穴古墳群から学んだこと”  (第35号)
“魅力的な八幡東部の集落と神社”  (第34号)
“ 二宮忠八翁と飛行神社 ”  (第31号)
“ 石清水臨時祭と平清盛 ”  (第31号)
“「八幡椿は」何処に”  (第24号)
“陣屋と鳥羽伏見の戦い”  (第22号)
“八幡八景解説奮戦記”  (第20号)
“色恋に愛づる花心ー謡曲「女郎花」”  (第20号)
“俄神人ニ成候”  (第18号)
“八角院地蔵尊の碑文を読む”  (第15号)
“長宗我部盛親が潜んだ家”  (第15号)
“「やわたものしり博士」検定にチャレンジ!”  (第10号)
“木津川・宇治川沿いの屋並みを巡る”  (第9号)


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# by y-rekitan | 2018-12-31 08:00 | Comments(0)

◆会報第80号より-top <スクロールだけで全記事が読めます>

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この号の会報からは現在、下記の記事が掲載されています。
このまま下にスクロールして頂くと順次連続してご参照頂けます。

この号が最新号です。

◆シリーズ:“心に引き継ぐ風景” ⑪◆
◆《歴史探訪バスツアー》伊弉諾神宮と東山寺を訪ねて◆
◆シリーズ:“八幡の古墳と鏡” ④◆
◆シリーズ:“四條隆資卿物語” ②◆
◆八幡の京街道は川底に沈んだ◆
◆消えた踏切道に思う◆
◆今年白寿を迎えました◆



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# by y-rekitan | 2017-07-24 15:00 | Comments(0)

◆会報第80号より-01 豊蔵坊信海

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心に引き継ぐ風景・・・⑪

豊蔵坊信海と北村季吟きたむらきぎん


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 豊蔵坊信海(孝雄)は松花堂昭乗の門人であり、藤田友閑、中村久越らと共に
歴史に登場する。後年は狂歌作者として名を馳せ「豊蔵坊信海狂歌集」がある。
豊蔵坊は三河以来の徳川家の祈願所であった為、107石の領地朱印状を有し、年に3度、将軍に拝謁している。他に伏見奉行所より300石を支給されており、壮大な坊舎が絵図から見て取れる。今、跡地には「豊蔵坊跡」の三宅碑が建ち、石垣のみが往時を偲ばせる。
 信海、終生の友として、北村季吟がいる。季吟は現在の滋賀県野洲市の出身で
父宗円が京都に出て医や連歌を学んだ為、季吟も早くから医業を学び、長じて山城長岡藩の藩医であったことが知られている。俳諧は初め安原貞室(やすはらていしつ)に学び、後に松永貞徳の門に入る。貞徳没後「宗匠」として独立後の門人には、かの松尾芭蕉がいる。季吟が八幡豊蔵坊を直接訪れたのは寛文元年(1661)8月28日、季吟38歳、信海36歳の時であった。5日間逗留し、その時の贈答歌が残る。
信海が元禄元年(1688)9月13日に63歳で没した翌年、季吟は幕府歌学方として五代将軍綱吉に仕える。神應寺19世・廓翁鉤然(かくおうこうねん)に帰依する大奥総取締「右衛門佐(えもんのすけ)」はこの時期に多くの上方文化人を江戸に呼び寄せたが、季吟の推挙にも関わった事が容易に想像できる。

(写真と文 谷村 勉)空白



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# by y-rekitan | 2017-07-24 12:00 | Comments(0)

◆会報第80号より-02 淡路島バスツアー

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《6月例会 歴史探訪バスツアー》

伊弉諾神宮いざなぎじんぐう東山寺とうさんじを訪ねて~


  藤田 美代子 (歴史探訪担当幹事)



 昨年よりさらに遠く淡路島へと企画いたしました。
 従来通り市内4ケ所の集合場所にお集まりいただき、順次バスに乗車、4番目の一の鳥居を予定より10分早く、総勢39名にて出発致しました。当初見込みの参加人数を越えましたので参加費を8,500円から8,000円に値下げさせて頂きました。
 今年度は当日の不参加者は居られず、遅刻される方もなくスムーズな集合で出発することができました。
 途中名塩でお手洗い休憩を取り、伊弉諾神宮へと向かいました。

 伊弉諾神宮は、古事記・日本書紀に、国生みに始まるすべての神功を果たされた伊弉諾大神が御子神なる天照大神に国家統治の大業を委譲され、最初にお生みになられた淡路島の多賀の地に「幽宮(かくりのみや)」を構えて余生を過ごされた、と記されていることに由来するそうです。f0300125_1194210.jpg
 境内地は約一万五千坪、日本最古の社です。江戸時代の地誌によれば二丁四方の社地を領したこともあり、広大な神域でありました。
 バス到着後、神明鳥居の一の鳥居・二の鳥居をくぐり、神地の反り石造りの神橋を渡り、手水舎を経て、重厚な檜皮葺きの表神門に至ります。

 拝殿にて宮司様に厳粛に祝詞(のりと)を奏上頂き、f0300125_11142154.jpg巫女さんによる雅な神楽を堪能したのち、割り拝殿形式であるため、改めて本殿に向き直し、皆さん一同の二礼二拍手一礼の参拝をさせて頂きました。その後宮司様より、神社のこと、また、石清水八幡宮の別宮であったことがあり、今では当社の宮司様が兼務をされている鳥飼八幡宮の説明を頂きました。鳥飼八幡宮には美福門院から石清水八幡宮へ御造進され、f0300125_1119463.jpg安貞二年(1228)に贈与せられた重要文化財(昔は国宝)御鳳輦が安置されていること。現在も石清水八幡宮の放生会に際し、毎年土地の名産「鶏冠海苔(とさかのり)」が奉納されていること、例祭には勇壮な神輿が出ること等々興味深いお話でした。そして境内に出て二班に別れて末社、樹齢九百年の夫婦大楠、神幸式に召される六角鳳輦型の豪華な御神輿、その格納神輿庫、神馬の銅像や御手植えの松、元禄元年(1688)以前に藩主蜂須賀家の寄進した東西神門等の説明を受けました。面白かったのは、神池のそばに伊弉諾神宮を中心とした太陽の運行図という石碑があったことです。当神社を中心として主要な神社が日本全土に意図的に配置されているというものです。
 「夏至日の出」の方角に「諏訪大社(信濃国一宮)」
 「夏至日の入」の方角に「出雲大社(出雲邦一宮)」
 「冬至日の出」の方角に「熊野那智大社」
 「冬至日の入」の方角に「高千穂神社(天岩戸神社)」f0300125_11255858.jpg
 淡路島を中心につまり、夏至のとき太陽は「諏訪大社」の方角から昇り「出雲大社」の方角へ沈む。冬至のとき太陽は「熊野那智大社」の方角から昇り「高千穂神社」の方角へ沈む。東へまっすぐいったところは「伊勢神宮」となっております。太古の昔天文学・測量技術がそんなにも発達していたのでしょうか?

 伊弉諾神宮を後に昼食会場「きとら」へと向かいます。こちらはツアー下見時案内頂いた伊弉諾神宮権禰宜様より教えて頂いたお店で、海鮮料理がおいしく、団体でも可能とのことで、試食もした上で決めたレストランです。 今までのバスツアーでは昼食は各自の好みで取って頂くことを原則としておりましたが、今回は近くに十分な数の店もなく、たまには交流を兼ての合同の昼食も良いのではということの結果です。皆さんから印象は悪くなかったという感想を頂いており、企画した者として胸をなでおろしているところです。

昼食後は東山寺へと向かいます。
 高速道路を降りた後、東山寺への道はせまく、険しいもので、最後はバスを降りて歩かざるを得ませんでしたが、歩くのはさしたる距離ではありませんでした。
f0300125_11343274.jpg 山門及び本堂は室町時代淡路守護職細川家の寄進とされ、淡路最古の木造建築です。
 石清水八幡宮護国寺にあった薬師如来と十二神将は現在国の重要文化財ですが、かっては国宝に指定されていたものです。
 今回のツアーの大きな目玉であることからも、皆さんは逸るこころで東山寺の階段を駆け上られたのではないでしょうか?私も下見時の気持ちの高鳴りを再び覚えました。
f0300125_1137244.jpg ここでも二班に別れて、本堂と薬師堂を見学させていただきました。
 御本尊は十一面観音で一木三体の名作と伝えられ、常隆寺・千光寺とは木兄弟です。
薬師如来及び十二神将は現在鉄筋コンクリートの近代的建物の薬師堂内に安置されております。これは旧木造薬師堂が昭和40年の秋の台風により倒壊寸前の状態に陥り、津名・一ノ宮両町教育委員会のご尽力により、文部省・県・町のご厚意により建設されたのだそうです。
 尊像が大切に保存されており、有難いことだと思わずにはいられませんでした。
 これ等の仏像が何故に淡路の地に来ることになったのかについて以下のように伺いました。
 1867年幕府は政権を朝廷に返上し、鳥羽伏見の戦いを経て、明治維新を迎えました。明治新政府は王政復古の名のもと、神道を重んじる政策を打ち出し、廃仏毀釈の嵐が吹き荒れます。石清水八幡宮・護国寺の別当であった道基上人は何年もお祀りしてきた仏像が捨てられることが耐えがたく何とかしたいと思っておられました。幕末動乱の中、密使として働いていた佐伯心随尼僧が東山寺復興を目指していることを聴き、復興の手助けになればと当地に仏像を運ぶことを決意されたようです。険しい山道を仏像を背負ってこの地に持ち込まれたそうです。明治二年六月十二日のことです。
 どのように運ばれたのか質問してみますと、樽に入れて運ばれたとのことでした。
其の後道基上人は淡路島に移り住み、永寿寺という小さな寺の住職となり、明治二十二年心随尼の東山寺復興を見届け、七十四才で生涯を閉じられたそうです。

f0300125_11395768.jpg 別れていた二班が一緒に本堂に入り、高野山尼僧学院で教鞭を執ってこられた住職様より、講話を頂きました。感謝して生きることの大切さを教えられました。
 東山寺に心惹かれながら、帰路に向かいました。ハイウェイオアシスで小休止して、予定通り全員無事八幡に到着しました。

 皆様お疲れ様でした。
 最後になりましたがこの場をかりまして、下見時、当日とご丁寧に御案内並びに御説明頂きました、伊弉諾神宮、東山寺の皆様に心より御礼申し上げます。
 来年もまた、八幡にゆかりのある旅の企画ができればと思っています。


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# by y-rekitan | 2017-07-24 11:00 | Comments(0)

◆会報第80号より-03 古墳と鏡④

シリーズ「八幡の古墳と鏡」・・・④
八幡の古墳と鏡 (4)
-東車塚古墳について-

濵田 博道 (会員) 


東車塚古墳とは

 東車塚古墳は国史跡名勝に指定されている松花堂庭園(八幡市大字女郎花)内にある古墳です。というより、もともと古墳があったところを開発、利用して名勝松花堂庭園ができたという方が正確でしょう。この付近は江戸時代の終わりごろから畑地として開拓が始まっています。
『男山考古録』(1848年)巻14「東車塚」に概略次のような記述があります。
f0300125_171013.jpg「女郎(花)塚(おみなえしづか)といふ処の東に、四十間(約73m)ほどの小山のような塚があり、このことである。
(中略)この地は社士神原氏の所領だったが、志水町の民小衛門と儀右衛門という人が40年ほど前、山頂の樹木を切りここを開拓し畑にしようとして、鋤鍬で耕そうとしたが、皆その夜から病に伏して掘り崩すことはやんだ。
儀右衛門の子どもの清兵衛という人が恐れおののいて丘上に小祠を建てて祭った。このようなことは西車塚でもあった」。
 梅原末治氏の『久津川古墳研究』(大正9年(1920年)、水木十五堂発行)には次のような記述があります。
「(東車塚古墳は)北北西面の前方後円墳にして、北西にある西車塚と相去る約一丁(約109m)なり。後円部の西方に女郎花塚なる小円墳を伴ふ。f0300125_1743012.jpg古墳の全部は今全く井上氏の別荘の内に入て、大部分は地均を行ひ庭を形造り、ために原形を明にする能わざる(後略)」。
 古墳は「推定全長90m、後円部径50m、前方部50m、前方部幅30m、葺石・埴輪列、粘土槨(後円部)、木棺直葬か(前方部)」(注1)とされています。前方部は削平されており、現在その痕跡はなく、詳しい墳形や何段築成の古墳であったのか不明です。古墳としてはわずかに後円部が松花堂庭園の築山として残っているのみです。

東車塚古墳の埋葬施設・埋葬状態

 前書で、梅原末治氏は別荘工事を観察していた西村芳次郎氏より話を聞き、次のように記しています。「古墳の外形すでにこの如きを以て内部の構造、遺物の埋葬状態等は既に明瞭にする能わざる点多きも、(中略)この塚においては前方部と後円部との両者に埋葬物存せりが如く、最初前方部の地均の際古鏡一面と剣身一口を発見し、(中略)地表下約二尺(約60cm)にして、土砂に混じ偶然上記の二品を得たるものにして、なんらこれに特殊の造構を認めざり」。
 前方部に於いては「何らこれに特殊の造構を認めざり」とありますから、きちんとした埋葬施設があったのか、不明です。それゆえ、『八幡市遺跡地図』も「木棺直葬か(前方部)」と記述しているのでしょう。この前方部から出土した鏡が三角縁神獣鏡です。
 後円部の埋葬施設については、封土の下、約150~160cmの所に「やや前者(前方部)と様子を異にして、一種の粘土と礫石(れきせき)とより成る槨(かく)の如きものあり」。底に栗石を一列に並べた礫床(れきしょう)があり、次に朱層があってその上に粘土層を置き、「遺物はこの朱層中に存せり」とあります。「西に偏して長宜子孫内行花文鏡(ちょうぎしそんないこうかもんきょう)一面存し、それに隣て東にほぼ相重なれる位置に古鏡二面あり。両者の中間より硬玉製勾玉(こうぎょくせいまがたま)二個を発見せり。刀剣、斧頭、鏃(やじり)の類は鏡よりさらに東に並列し、鏃、甲冑(かっちゅう)の類は刀剣の北側、二面の鏡の東に位置せりと伝へ、鏡は三面共表面を上にして存せり。」(注2)と記されています。
 礫床(れきしょう)・朱層・粘土層を敷いた埋葬施設が一基あり、豪華な副葬品を持つことから、後円部の被葬者がこの古墳の主体であり、遺物も大切に埋葬されていることがわかります。

東車塚古墳出土の副葬品

 さらに「遺物の中にて最も貴重なる鏡にしてその中(中略)長宜子孫内行花文鏡は京都帝国大学に蔵せられその他は個人の有に帰せり」(注3)とあります。現在、鏡4枚のうち京都大学総合博物館(内行花文鏡1枚)と泉屋博古館(三角縁神獣鏡及び仿製六神像鏡の2枚)に分散、所蔵されています。残りの鏡1枚(鼉龍鏡(だりゅうきょ))、碧玉製勾玉(へきぎょくせいまがたま)二個、甲冑などは不明です。甲冑は衝角付冑(しょうかくつきかぶと)及び短甲(たんこう)であることがわかっています。梅原末治氏は大正5年(1916年)にこの古墳を訪れ実見し、「副葬品はその後四散して今行方を失せるもの少なからず。」(注2)と記しています。
 副葬品の刀剣「素環頭大刀」「大刀」(計9本)(注4)の写真が『八幡市誌第1巻』に載っており、松花堂資料館蔵とあります。この「素環頭大刀」とは何か。どのような意味を持った大刀なのか。そのことに関して松木武彦氏の『人はなぜ戦うのか』(講談社選書メチエ)に興味深い記事があります。
 “『魏志』倭人伝によると卑弥呼は晩年、「南」にある狗奴国(くなこく)と仲が悪く交戦していた。狗奴国を攻めあぐねた卑弥呼側は中国・魏の皇帝に援助を求める。皇帝はこれに応え、使者を立て、詔書(しょうしょ)と軍旗をつかわす。武器が供与された可能性がある(京都大学、岡村秀典氏)”(要約)。「その治世の後半頃に卑弥呼を支えたとみられる有力者たちの墓からは、把(は)(=つか)の先をリング状にした大刀が出る。素環頭という中国王朝風の大刀だ。これら素環頭のなかに、247年の軍事支援の折に魏から卑弥呼側にもたらされたものがあると考えている。素環頭は、卑弥呼側の最新兵器として威力を発揮しただろう」。
 東車塚古墳から大刀と共に出土した素環頭大刀(数本)ですが、“古墳の築造は4世紀末~5世紀初頭で、卑弥呼の時代は3世紀前半~半ばだから時代が違うし、関係ないではないか”と思われる方もおられるでしょう。もっともです。しかし、この古墳からは弥生時代後期の鏡(内行花文鏡)も出土していますので、この素環頭大刀が弥生時代後期・卑弥呼の時代のものでないとは断定できません。調査に値すると思います。また、“卑弥呼の側に立たなかった陣営(例えば出雲)の墓からは素環頭大刀は出土せず、そのリング(素環頭)を切り取った大刀が出土しており、陣営により区別していた”(注5)というのです。仮に素環頭大刀が弥生時代のものだとすれば、八幡の地域の勢力は卑弥呼側だったといえると思います。また、4世紀~5世紀の古墳に弥生時代の内行花文鏡と素環頭大刀が埋葬されているとすれば、そのことについてどう考えるか。それらは独自に手に入れたものなのか、伝世したものなのか、伝世したものであるとしても大首長やヤマト王権から配布されたのか、それはいつなのか、など興味深い点が多々あります。
 松花堂美術館で「大刀はどこで見られますか」と尋ねると、現在は所蔵していないとのことです。どこに所蔵されているのかについての最終確認はできていません。所在を市民が個人で訪問して調べたりすることの限界があります。八幡市民としては、市内出土の遺物を見学したいところですが、難しい状況です。

三角縁神獣鏡と甲冑

 東車塚古墳の副葬品の中に三角縁神獣鏡と甲冑(かっちゅう)が同時に存在するのは注目すべきことです。f0300125_9145539.jpg古墳時代前期(3世紀半ば~4世紀末)の有力古墳に共通してみられる三角縁神獣鏡の副葬は中期(5世紀)に入ると近畿を除いてほとんど見られなくなります。替わりに、中期には甲冑を含む多量の武器が河内の百舌鳥(もず)古墳群(堺市)や古市(ふるいち)古墳群(藤井寺市)を中心に出土するようになり、これらの古墳群からは三角縁神獣鏡は出土していません。三角縁神獣鏡が副葬されている古墳には甲冑は副葬されず、逆に甲冑が副葬されている古墳には三角縁神獣鏡は副葬されなくなります。ところが、東車塚古墳では古墳時代前期の三角縁神獣鏡と中期の甲冑、両方が出土しています(埋葬施設は異なりますが)。こういう古墳は珍しく、現在、近畿で7基しか見つかっていません(注6)。すべて前期から中期へ変化していく時期あるいは中期初頭、遅くとも中期中頃までの古墳です。大型古墳群は時代とともに、大和盆地東南部(3世紀半ば~4世紀半ば)→佐紀古墳群西群(4世紀半ば~5世紀半ば)→百舌鳥・古市古墳群(4世紀末~5世紀初頭)へと地域を移動します。それぞれの時期に主導権を握ったヤマト王権中枢の勢力の古墳と考えられています。大古墳群が移動するにつれ、古墳群の構成も複雑になり、副葬品も変化していきます。新時代の要請に対応する組織を作り出す勢力が主導権を握ります。東車塚古墳築造時期はまさに政権の移動の時期にあたります。東車塚古墳の勢力はそのキャスティングボートを握った勢力の一つであり(注7)、その結果、両方の威信財が埋葬されているのではないかと考えられるのです。しかし、そのことがよかったかといえばそうともいえません。八幡市域ではこれ以後古墳築造は衰退し、中期半ばの美濃山王塚古墳を最後に目立った古墳は築造されなくなります。西車塚古墳・東車塚古墳の時代は八幡における古墳時代の頂点の時期、東車塚古墳はその分岐点の古墳ともいえます。田中晋作氏はいいます。「西車塚古墳は、東車塚古墳より先に築造された古墳だが、周辺ではこれより古い古墳が現在のところ確認されておらず、また、東車塚古墳の後続古墳についても知られていない。南山城の古墳編年によると、久津川古墳群で久津川車塚古墳が築造されるころに、この地域(=八幡)の勢力が衰退する。この現象は久津川古墳群との関係によるのか、百舌鳥・古市古墳群を含めた畿内全体の動向の中でとらえるべきか、即断できないが、八幡東車塚古墳を最後に古墳の築造が停止する現象は注意しておく必要がある。」(注7)

三角縁神獣鏡の副葬状態

 東車塚古墳では前方部において「なんらこれに特殊の造構を認めざる」ところから三角縁神獣鏡が発見されました(前出)。このような状態で鏡が発見された例が他にもあります。第2回目でふれた徳島市宮谷古墳の発掘概要(『日本考古学年報42』、P541~P542』1989年)によると、三角縁神獣鏡は「3面分が第2トレンチ(前方部先端)より出土している。いずれも、本来鏡が副葬される内部主体から大きく離れており、後世の盗掘あるいは開墾などによる墳丘削平等によって原位置を移動したと思われる。」とあります。東車塚古墳の出土状況と似ているようにも思います。そのような埋葬状態から、三角縁神獣鏡はそんなに大事に扱われなかったのではないか、葬具、呪具ではなかったのか、という専門家の意見が出ています。

東車塚古墳出土の三角縁神獣鏡の銘文

 三角縁神獣鏡は「三角縁銘帯二神二獣鏡」といいます。『八幡市誌』には「尚方作二神二獣鏡」という名で載っています。次のような銘文があります。
銘文:尚方作竟佳且好 明而日月世少有 刻治今守悉皆右 長保二親宜孫子 富至三公利古市 告後世
 
(この鏡は尚方が作った鏡で立派で良い。明るく日月の世はまれだ。政治を刻み、今を守れば皆右。両親は長寿で子どもや孫に恵まれ 富貴になり出世し商売は繁盛する 後の世まで告げる。[訳:濵田] )
『尚方作竟』(竟=鏡)の「尚方」とは何か。松本清張氏は「漢の宮廷の鋳造所」といいます(注8)。森浩一氏は『考古学と古代日本』(中央公論社)の中で「『尚方作竟』の銘文も多くの三角縁神獣鏡にあるが、『尚方』とは国の官営工場のことで、漢から晋代にかけて中・左・右の三つがあり、魏では右尚方が鏡をつくっていた。」「また『尚方鏡』の銘文の中に『買此鏡者大富』(この鏡を買うものは大いに富む)とあるように、『尚方鏡』は私営工場でつくっていたことを示していて、三角縁神獣鏡の『尚方作竟』銘は尊大な虚詞」と述べています。『尚方作竟』と銘記されていても必ずしも官営工場で作られたものではない、というのです。いずれにしても、中国・魏の官営工房の銘が入った鏡が東車塚古墳から出土していることは事実です。

東車塚古墳出土三角縁神獣鏡の同笵鏡

 東車塚古墳出土三角縁神獣鏡の製作は舶載鏡C段階、260年代といわれています(注9)。同笵鏡は次の3枚が確認されています。  
 ①熊本県芦北郡出土(伝)
 ②奈良県新山(しんやま)古墳出土
 ③出土地不明(福原家所蔵)
 ①の芦北郡は八幡茶臼山古墳石棺・阿蘇溶結凝灰岩の産出地氷川(ひかわ)のすぐ南に位置します。八女市と水俣市の間にあり、八代海に面する南北に長い郡です。「鏡片」が出土したと報告されていますが、その場所の特定はできていません。他の出土品も不明です。
 ②の新山古墳は葛城地方最古・全長126mの前方後方墳です。4世紀前半の築造です。この古墳から鏡34、碧玉製管玉16、車輪石3、石釧1、金銅製帯金具24、鉄刀16、鉄剣16、鉄刀子16など数多くの遺物が出土しています。そのうち鏡は直弧文鏡(ちょっこもんきょう)3、三角縁神獣鏡9、画文帯神獣鏡3、方格規矩鏡(ほうかくきくきょう)4、内行花文鏡14と貴重な鏡が多いです。

長宜子孫内行花文鏡(ちょうぎしそんないこうかもんきょう)

 東車塚古墳出土の鏡の中で、「最も貴重なる鏡として」(注3)位置づけられ、「全面黒漆色を呈せる美麗なる鏡なり。」「外区は細密精巧なる直線と円の文様により成り、四葉座紐(ちゅう)の間に長宜子孫の銘を印す。」(注2)と記されています。面径22.3cmで大型に近い中型鏡です。内行花文鏡というのは日本独特の呼び名で、鏡の弧の連続模様を花弁と見て付けられましたが、真に花弁を表したものかは疑問とされています。鏡の中には宇宙が描かれていてその宇宙の幕(連弧文はその幕である)を開けたものともいわれています(注12)。中国では連弧文鏡(れんこもんきょう)といいます。(『広辞苑』に鏡の図)
 中国・新(しん)-前漢(紀元前202~紀元8年)と後漢(25~220年)の間に15年ほど存在した国(8~23年)-の“王莽(おうもう)の時代に出現した可能性が強い”(注10)といわれています。主に後漢時代―日本では弥生時代―に作られた鏡で、「もっともオーソドックスな(=正統的な、一般に認められた)鏡」(注11)といわれています。「卑弥呼の鏡」候補の一つです。この時代、倭・中国(楽浪郡)・朝鮮半島南部の間で結構交流がありました。白石太一郎氏は「古墳副葬鏡について、二種類の機能」があり、「一つは(内行花文鏡など)司祭者の象徴として祭器とされていた鏡、もう一つは三角縁神獣鏡など呪具として葬送にともなって使われていた鏡」(注13)であるといいます。
 鏡名のはじめにある「長宜子孫」というのは「長生きし、子孫に恵まれる(子孫繁栄)する」という吉祥句(きっしょうく)で、内行花文鏡をはじめ多くの鏡に記銘されています。上に出てきた三角縁神獣鏡の銘文「長保二親宜孫子」も似たような内容です。
 内行花文鏡をはじめ、舶載鏡(=中国鏡)はまず北部九州に入ってきました。弥生時代の鏡の約300枚中200枚ぐらいが舶載鏡で、そのうち150枚ぐらいの舶載鏡が北部九州から出土しているそうです(注14)。そうだとすると、残りの舶載鏡は50枚ぐらいということになりますが、東車塚古墳の鏡は舶載鏡です。当時の倭の首長たちは「司祭者の象徴としての祭器」であるこの内行花文鏡が欲しかったようで、舶載鏡を真似た小型(5~12cm)の仿製(=倭製)鏡が多数出土しています。京都府下で内行花文鏡をみると26枚出土(注12)していますが、仿製鏡が14枚と過半数です。大きさでは小型、中型がそれぞれ12枚ずつ、大型が1枚(椿井大塚山古墳、3世紀後葉、27.7cm)です。東車塚古墳の内行花文鏡は府下2,3番の大きさです。
 福岡県(伊都国(いとこく))の平原(ひらばる)遺跡(弥生時代末期~古墳時代初期)では内行花文鏡だけでも20枚、うち巨大な(46.5cm)仿製内行花文鏡が5枚(出土40枚の鏡はすべて国宝)出土しており、当時の北九州勢力の強大さがわかります。私は福岡県・伊都国歴史博物館-ここは『魏志』倭人伝にある伊都国のあったところ-を訪問し、これらの鏡を見、その大きさと数に驚き圧倒されました。

半円方形鼉龍鏡(だりゅうきょう)

 鼉龍鏡について、梅原末治氏は「四面の古鏡中最も見る可きものなり」と書いています。「鼉龍鏡:仿製鏡(=倭鏡)の一種。だというのは、わにの一種であるといわれている。首の長い獣形が、半肉彫りに表され、その頸部に棒状のものが出ている。獣と獣の間に神像を配したものもある。山口県柳井市の茶臼山古墳から直径44.5cmの大型のものが出土している」(ブリタニカ国際百科事典)。また「鼉」は「形は蜥蝪(せきえき=トカゲ)に似るとも、龍に似るともいわれる。また横に飛ぶが、上に謄(のぼ)ることはできないともいう。その声は恐ろしくて、気を吐いて雲をつくり、雨をもたらすともいう。」(樋口隆康『古鏡』新潮社)と説明されています。しかし『日本歴史大事典』には「鼉龍とは鰐(わに)の一種をさすが、本鏡の文様とは直接の関係がない。」とあり、なぜ鼉龍鏡という名が付けられたのかはよくわかりません。
 この鏡は「独創的な図像」で「文様の精緻なことと共に古墳時代の仿製鏡の製作技術の高さを示す鏡の一つ」(『日本歴史大事典』)とされています。残念なことに東車塚古墳出土の鼉龍鏡は「現物なし」と報告されています(注15)。なお、鏡名の最初にある「半円方形」というのは鏡の内区に棒をくわえる怪獣がおり、次に半円方形帯があるのでその名が付けられています。
 次回は「石不動古墳出土の鏡について」考えてみたいと思います。 
(つづく)

(注1)『八幡遺跡地図』,八幡市教育委員会,2005
(注2)梅原末治『久津川古墳研究』, 水木十五堂, 1920
(注3)佐藤虎雄「東車塚庭園」『京都府史跡名勝天然記念物調査報告第十三冊』,京都府,1932
(注4)「古く用いられた直刀(ちょくとう)を『大刀』と表記し、平安時代以後のものを『太刀』と書く」(広辞苑)。つまり「大刀」には日本刀のような「そり」がありません。
(注5)松木武彦『人はなぜ戦うのか』,講談社選書メチエ,2001
(注6)三角縁神獣鏡と甲冑が共存する7古墳は室宮山古墳・池ノ内5号墳・円照寺墓山古墳、八幡東車塚古墳・久津川車塚古墳・芝ヶ原11号墳・和泉黄金塚古墳。(注7)のP64参照。
(注7)田中晋作『筒型銅器と政権交替』,学生社,2009
(注8)福永伸哉『三角縁神獣鏡の研究』,大阪大学出版会,2005
(注9)松本清張「三角縁神獣鏡への懐疑」『遊古疑考』,河出文庫,2007
(注10)岡村秀典「後漢鏡の編年」『国立歴史民俗博物館研究報告第55集』,1993
(注11)大塚初重『最新日本考古学用語辞典』,柏書房,1996
(注12)森岡秀人「銅鏡を作り始めた近畿弥生人の捜索」講義ノート,古代学協会,2017
(注13)西川寿勝ら「考古学と暦年代」,ミネルヴァ書房,2003
(注14)西川寿勝「三角縁神獣鏡の研究」,古代学協会佛教大学提携講座,2017
(注15)『国立歴史民俗博物館研究報告第56集』,1994 





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# by y-rekitan | 2017-07-24 10:00 | Comments(0)

◆会報第80号より-04 四條隆資

シリーズ「四條隆資卿」・・・②

四條隆資卿しじょうたかすけきょう物語  その2
~四條隆資卿の出生秘話~

 大田 友紀子(会員) 



 f0300125_2139394.jpg今年も暑い夏、祇園祭のコンチキチンの祇園囃子の聞こえてくる時期になりました。この時期になると、ふと隆資卿の生涯について考えてしまいます。いったい何が、隆資卿の一生を決定づけたのか、今回は、隆資卿の「蟷螂=かまきり」に例えられるほどの一途な愚直さが、どのようにして形成されたのか、後醍醐天皇への忠誠心を育んだのか、考証してみようと思います。『蟷螂の斧』の話は、侮(あなど)る比喩に使われる方が多いようですので。


四条家の歴史(「四条家略系図」参照)

 四條隆資卿の出生についてですが、まずは「四条家」という特殊な家の歴史を知ることから始めなければなりません。院政を始めた白河上皇の乳母子(めのとご)であることから、引き立てられて、いつしか朝廷の中枢へと登りつめた遠祖・藤原顕(あき)季(すえ)が、母である藤原親子が建立した善勝寺を受け継いだことから、四条家の当主は「善勝寺長者」と呼ばれて、庶流を率いて行くようになりました。
 藤原北家の流れをくむ四条家ですが、その地位は決して高くはありませんでした。平安後期の貴族で美福門院得子(びふくもんいんとくこ)を嫌っていた藤原頼長は、その日記『台記』の中で事あるごとに得子を「諸大夫の女(むすめ)」と侮って書いています。確かに四条家流の遠祖である藤原顕季の父隆経も、早世しているとはいえ、美濃守で終わっていますし、生没年不詳です。隆経の父・頼任についても、藤原道長に家司として仕えていますが、その身分は受領です。「諸大夫」とは、受領階級を指しましたので、摂関家の出である頼長から見れば、そんな受領階級の出身の娘に、いくら鳥羽上皇の寵妃であったとしても、摂関家の我々が何故ご機嫌伺いをしなければならないのか、と激しい憤りを何度も吐露しています。
 ここで、公家(貴族が、武家に対して「公家」と称するようになったのは鎌倉時代からですが、総じて平安後期からも解かりやすいので使用します。)の家格について説明しますと、その成立は鎌倉初期です。それ以来、摂政関白に任ぜられる家としての「五摂家」を頂点に、その下に七家の清華家(江戸初期に二家が追加されて九家となる)、次は三大臣家、そしてその下が羽林家(うりんけ)で、約80家がありました。それから、羽林家と同列の名家は、武官の羽林家に対して文官として、朝廷の実務を担当しました。その下には最下位の家柄として、半家がありました。半家とは、「源平藤橘(げんぺいとうきつ)」以外の出自の家で昇進しても、非参議にしかなれないことが多かったようです。
 f0300125_21483196.jpg四条家は家格としては羽林家で、武官の家柄です。羽林とは「羽根の如く速く、林の如く多い」の意で、中国では北辰(北極星)を守護する星々の名称で、皇帝(日本では天皇)を護る宮中の宿衛の官名となり、日本では、近衛府の別称(唐名)となりました。武官の家である羽林家の男たちは、元服後に近衞府への出仕が決っていたので、幼い頃より武芸をたしなみ、その技をもって天皇に仕えました。行幸の時などには、200人余りの羽林家の者達が供奉することが先例で決められていました。そして、日頃から天皇の傍近くに侍るので、和歌のたしなみも必要とされるので、文武両道の道を究め、学問に勤しみました。
 そして、羽林家の娘たちはというと、御所の女官となり、天皇のお傍近くに侍り、日常生活を支えました。このように、羽林家の者たちは、常に天皇の傍らにいる直属の官人となり、警護を担い、天皇制を維持するために尽くしました。そして、天皇の御子の生母となる女たちも、だいたいが羽林家の出身者たちで占められ、それは江戸時代末まで続き、江戸時代の最後の天皇・孝明天皇の皇子(後の明治天皇)を生んだのも、中山家の娘(慶子)で、羽林家の家柄でした。

四条家を隆昌に導いた3人の娘たち

 そんな四条家(流)の栄達の歴史は、3人の女性を抜きには語れません。まずは美福門院得子、生母は村上源氏の出身です。次に挙げる四条貞子には、不思議な血の縁を感じてしまいます。貞子の父・隆衡(たかひら)の母は平清盛の八女で、彼女には平家の血が流れています。婿となった西園寺実氏の母・全子(またこ)は、坊門姫と呼ばれた源義朝の娘で、もちろん頼朝の実妹です。つまり、かつて相争った源平の血がここで一つになったことになります。その貞子は、関東申次である西園寺家の正室となって二人の娘を生みました。長女の姞子(よしこ)は後嵯峨天皇の中宮・大宮院となります。その姞子が生んだ二人の皇子が共に即位したことから、貞子は「今林准后」または「北山准后」と呼ばれ、その権勢は絶大でした。その縁からか、その弟の隆親は、後嵯峨天皇の乳母である源(足利)能子(よしこ)を妻に迎えました。
 貞子の娘・大宮院は、弟皇子の恒仁(後の亀山天皇)を可愛がり、その利発さを愛して、夫である後嵯峨天皇に働きかけ、恒仁親王の登極を実現させます。兄弟で皇位に就くことは、前帝である後鳥羽天皇が強く禁じ、遺言として残しています。皇統の分裂を防ぐことを目的として、書き残したのでしょう。そして、その恐れが現実のものとなり、兄の後深草天皇の持明院統(北朝)と、亀山天皇の大覚寺統(南朝)とに分かれた皇統の対立から、南北朝の戦乱が引き起こされたのです。ここに、時の申し子・大宮院姞子の中で混じりあった源平の血に災いの種をみるのは、私一人でしょうか。
 そして、三番目の女性こそが隆資卿の実母かも知れないといわれる四条識子(さとこ)です。亡き角田文衛氏の著『平家後抄』の終章に詳しく書かれているので、引用します。
 「『とはずがたり』に浮き彫りにされている通り、四条大納言・隆親は、権力者にありがちな厳しさ、気難しさを備えていた。「承久の乱」後、政略的な意味から彼は、平時政の外孫にあたる足利家の源義氏の娘・能子を本妻に迎えた。二人の間に生まれた隆顕は、父の威勢を背景に迅速な昇進を遂げ、早くも正二位権大納言に至った。しかし建治3年(1277)5月、彼は父・隆親との不和から官を辞し、出家した。このためもあって、隆顕の子孫は同じ四条家でありながら大覚寺統に走り、持明院統に属する同家の主流とは対立するに至った。隆顕の孫で、その養子となった大納言・隆資(1292-1352)とその子息たちの南朝方に対する尽忠は、壮絶を極め、周知されている。この結果、南朝に属した隆資の系統は断絶し、隆親の子で北朝方についた大納言・房名(1230-1288)の四条家と、権中納言・隆良(1296年薨)(鷲尾家)の孫の従三位権中納言・隆職(たかもと・1347年薨)の子孫が存続をみたのである。平清盛は、その絶大な権力を背景に娘の徳子(のりこ)を中宮に納(い)れ、安徳天皇の外祖父となった。しかし彼が強行した計画は稔らなかった。けれども徳子の妹は四条家の隆房の妻となり、その孫の貞子―北山准后―は、平和裡に清盛の血統を皇室に伝え、清盛の宿願を果たしたのであった。」と書かれています。
 要するに、表面上は源義朝の血統は鎌倉幕府3代将軍実朝の暗殺によって断絶するが、平清盛の血統は、『平家後抄』に書かれた如く、清盛の娘たちを堂上公家の家に嫁がせたことで途絶えることなく、現在の公家の末裔にまで受け継がれている、といういわゆる「女人平家」の系譜を語っているのです。私も、この角田説を土台にして考えていますが、そうとばかりいえないと思われるところも多々あります。西園寺実氏(さねうじ)の母系の存在により、源平の血が混じりあって受け継がれたと思われるからです。

権門家(けんもんけ)になった四条家の栄耀の果てに

 四条家4代目の隆親の識子(さとこ)への偏愛により、隆資の祖父で、育ての親である隆顕(たかあき)は早々と出家してしまい、四条家は次男・房名の系統に移ります。父・隆親の識子への思いによって生まれた禍根ですが、隆親の老いが生み出したものであると言えるでしょう。それはひとえに識子の地位の向上を願い、それのみに執着した結果、その後の多くの悲劇を生み出して行きます。そのことについては、またいつか、後深草院二条の生涯を書くことができたら、その時に触れてみたいと思っています。
 四条家の家祖は中御門家成、もしくはその嗣子である隆季というふうにいわれています。
中御門家成の父は藤原家保で、白河上皇の乳母子である顕季の次男で平清盛の乳夫(めのと)を務め、白河院近臣となり、『近習無双』といわれるほどの信頼を勝ち取りました。
 「天皇家では元来中級貴族が乳夫、乳母に充てられていた。但し、皇子女の外戚が権勢家であれば、乳父はその家司や身内であることが多く、落胤や皇位継承が期待出来ない皇子であれば、院近臣であることが多いという相違はある。(中略)天皇家に近習奉仕し、家司、蔵人、院司などとなって、その家政、雑事を奉行する彼ら実務官僚が「執事」たる乳父に最も相応しかったことをよく示している。また末茂流などの有力な院近臣の富福な家にも乳父が少なからずみられるが、これは彼らの豊かな財力による経済的な奉仕が期待されていたからに他ならないだろう。(後略)」(『史学雑誌』99編第7号「乳父について」秋山喜代子著)ここに出ている「末茂流などの有力な院近臣」は、まさに藤原顕季の流れであり、中御門家成の父である家保の立場を言っています。清盛の母は祇園女御の妹とされ、皇位継承の望みはなく、院近臣藤原顕季の次男の家保に白羽の矢が立ったようです。一説によると、祇園女御と顕季、平正盛は旧知の間柄であったとか言われていて、その辺も考慮されたようです。
 藤原顕季は白河上皇の唯一の乳母である藤原親子の息子で、「乳母子」にあたり、親密な繋がりが幼い頃からありました。顕季は白河上皇の近臣中の近臣で、大国の受領(=国司)を息子たち共々に重任して富を蓄え、白河上皇の法勝寺や鳥羽殿の造営などに成功(じょうこう)して官位を上げて行きました。それ故に、次男の家保が平清盛の乳夫となったことは書きました。そして、このような四条家の内情とは、つまり、常に天皇の傍らに仕える近臣となり、天皇の近くに侍る女房や乳母を出し続けたことから、隆資卿御落胤説が現実味を帯びてささやかれるようになった、のではないかと思われ、祖父の隆顕に養育されたことも、「乳父」としての奉仕であった側面があるのではないでしょうか。

四条識子の生んだ御子は隆資か?

 その頃の公家社会の慣例では、天皇の皇子女は男子の場合は元服するまで、女子の場合も裳着(もぎ)の式(婚姻が決まったことを受けてする儀式)を挙げるまでは、乳母の邸で育ちます。一人の皇子には5・6人の乳母が就いたこともありました。最初の乳母は「乳人(ちちうど)」つまり今日(こんにち)いうところの乳母で、自分の乳で「養君」を育てる女性を指します。そして、「養君」の成長の過程での儀式は、それぞれの乳母の元で調(ととの)えられて、元服の時を迎えるのです。
 その頃の子どもは5歳になるまでは男女とも同じ服装、つまり、尼削(振り分け髪)に薄衣(袿仕立ての衣)です。そのことについては、神隠しから男児を守るためとか、いろいろな理由づけがされ、そうすることで子どもを護れる、と強く信じられていました。
今日では理不尽この上ないことのように思われますが、天皇の后や大臣家の正妻などが生んだ子は、出産後すぐに乳母の家に連れて行かれ、生母は赤子の顔も見ず、なんてことが当たり前でした。そんなわけですから、主の邸などに奉公する女房たちの場合も、出産後すぐに決められていた乳母に自分の子を預けて、その女房は仕えている主の子の乳母になりました。その当時、自分で自分の子を育てることは、最も卑しい行為とされていました。
それから、特に正妻などの場合、出産後すぐに赤子を手元から離すのは、次の出産に備えるためでもあった、といわれています。
 f0300125_224327100.jpgさて、本題の隆資の生母についてですが、『祇園祭・蟷螂山由来記』(昭和61年11月改訂)では、四條隆資は「(伏見)天皇の乳母である四条識子(さとこ)が皇統の御子を孕み、出生した男子が四条本流の隆実の子として継承されたことは、後に(識子が)従一位に叙せられていることをみても」とあり、隆資卿は伏見天皇の御落胤である、とする書き方をされています。その証拠として、『常楽記』を取り上げて「観応二年辛卯 五月十一日 八幡宮方没落合戦。四條(一品)資卿他界。六十。今日此類多之」と引用しています。ただ「一品」の語は、常楽記にはありませんでしたが。
 ただし、『平家後抄』には、「貞子の弟で、四条家を継いだ隆親(1202-1279)は、妻が後嵯峨天皇の乳母の典侍であった関係も加わって、政界における実力者の一人となり、これまでの家格を破って大納言まで昇進した。後嵯峨天皇はしばしば彼の鷲尾の山荘(金仙院)に御幸された。また彼の娘の識子は、伏見天皇の乳母になり、後には従一位に叙され、「鷲尾の一品(いっぽん)」と呼ばれた。その関係から金仙院には、持明院統の上皇や女院の御幸が度々みられたのである。」と書かれていて、識子が「鷲尾の一品」と呼ばれていたことが判ります。この「一品」ですが、親王や皇室に関係が深い特別な人に贈られるもので、乳母であることだけで贈られることは考えられません。識子に「一品」が贈られていることは、天皇の御子の生母であるからかも知れません。あくまでも可能性の問題ですが。
 あれほどの権勢を誇った西園寺貞子は准后となっていますが、官位は従一位です。「正一位」は神に贈られる位ですので、人としては従一位が最高位なのです。

四條隆資誕生秘話

 『蟷螂山由来記』の著者は、一人で精力的にいろいろ調べられて書かれているので、その研究姿勢には頭が下がります。けれども、出典書籍などが不明で照らし合わせて考えることも出来ません。後深草院二条が書いた『とはずがたり』に、四条識子が登場するのは、建治3年(1277)3月13日の六条院での女楽の時です。二条が「明石の上の琵琶の役」をつとめるところ、末娘である今参り(=識子)は二条の叔母にあたることから、二条より下座に座るのはおかしい、と祖父の四条大納言・隆親が騒ぎたてました。そのことにより、二条は御所を出奔、行方をくらましてしまいます。
 行方をくらました二条を探し出して、隆顕は後深草上皇に奏上しました。二条の母である大納言典侍と同母弟である隆顕は、後深草上皇の臣下としての引き立てを受けていたことがわかります。父の隆親との不和に関係なく、上皇のお呼びがあれば、殿上人として院御所へ上がることが出来ました。実姉の娘である二条の世話をすることは、善勝寺長者である隆顕にとっては当然のことでした。
 75歳での隆親の大納言への還任は当時としては異例中の異例で、その度を越した振舞いは末娘の識子可愛さであっても、嫡男としてその地位を引き継いだ隆顕にとっては絶対に許せない行為でした。こんな父との衝突から、やがて、隆顕は妻の邸に引き籠りがちになって行き、隆親は次男の房名に四条家を継承させて、三男の隆良(鷲尾家祖)を引き立てて行くようになるのです。
 四條隆資は、父の早世のため、祖父である隆顕に育てられたことになっています。隆顕を頼ってやって来た後深草院二条の腕に抱かれることもあったのでしょうか。識子との因縁を思うと、複雑な気持ちになったのでは、と想像してしまいます。
 その隆顕が引き籠っていた妻女の邸は、出雲路神楽町か、俵町にあったようで、何度も二条が通っています。このことから、私は、隆資が幼児期を過ごしたのはこの辺りではないか、と思っています。六条院の女楽があった同じ年の5月4日に出家した隆顕を、二条は見舞っています。二条が、東二条院公子(後深草中宮)の命により御所を退出させられた弘安6年(1283)の秋、78歳で隆親は死去します。11月2日より石清水八幡宮寺に七日間参籠した二条は、その足で祇園社での千日籠もりを始めました。正元5年(1292)、二条35歳の9月、伏見殿に参り、後深草法皇と一晩中語り明かしたことを書き綴っています。実際は翌年のことですが、この年、隆資が生まれています。『由来記』通りであれば、乳母である識子と、伏見天皇27歳の時の子どもです。識子が14歳で御所に上がったとすると、二条の6歳年下です。
 同じく角田文衛著である『日本の後宮』には、「官女に手をつけるだけで、これを更衣その他の皇妃の列に加えぬやり方は、古くよりなかったわけではない。しかしこの無責任で行儀の悪い風は、『この世は、ただ御心なり』と言われた後三条天皇の時代から、繁く見られるようになった。(後略)」とあり、その子を孕んだまま母子共に、近臣に世話をさせる、という悪習が続いています。それから、『日本の後宮』の中で、私の注意を引いたのは、高倉天皇の乳人であり、天皇に性愛を指南したとある藤原某女の記述です。この女性は、「安元2年に皇女を産み、里第にあって他の男性と密通し、流産のため治承3年正月十日、死没」しています。このように、乳母が成長後の天皇とも関係を持ち続け、その結果、子を孕む、ということが、かなり特殊な出来事であったとしても存在したということに、伏見天皇の乳母であった識子が隆資を生みましたが、いななる訳か認められず、ということも在りえたのでは、と思われて来ます。この認められなかった、ということが、隆顕に持明院統との訣別を決意させたのではないかと思われてなりません。  (つづく)
(京都産業大学日本文化研究所 上席研究員) 空白

【参考文献】
『平家後抄ー落日後の平家』朝日新聞社、1978年、角田文衞著
『日本の後宮』学燈社、1973年、角田文衞著
『中世宮廷女性の日記「とはずがたり」の世界』中公新書、1986年、松本寧至著
『史学雑誌』99編第7号「乳父について」秋山喜代子著
『祇園祭・蟷螂山由来記』昭和61年11月改訂
『太平記絵巻』河出書房新社、1992年、宮次男・佐藤和彦編
                




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# by y-rekitan | 2017-07-24 09:00 | Comments(0)

◆会報第80号より-05 京街道

八幡の「京街道」は川底に沈んだ

谷村 勉(会員)



不適切な表現の八幡の「京街道」

 八幡市観光協会が発行している観光散策マップなるものを見て愕然とした。
 「科手道」と古くから呼ばれて来た道を「京街道」と書いてあった。これは大間違いである。歴史的無知もいい加減にしろというような代物である。
 八幡の京街道は大雑把に言って、橋本奥ノ町の楠木、現在、この楠木を伐る、伐らないと物議を醸している「ふるさとの木第1号」の大きな楠木辺りから宇治川に架かる「御幸橋」を結んだ線上にあった道が「京街道」であって、線上の伏見区淀美豆(旧八幡神領)には京街道が今でも残り、淀市街へと続いて、往時の街道の姿を偲ぶことができる。現在は明治初年から始まる木津川付け替え工事等によって、木津川と宇治川の川底を「京街道」が走っていることになる。
 f0300125_1130752.jpg
今の三川合流の姿に落ち着いたのは昭和5年になってからで、明治になるまでは木津川、宇治川(淀川)、桂川は淀城付近で合流していた。上記、江戸時代作成の「石清水八幡宮全図」から旧京街道の位置が判る。現在の木津川は「科手道」の直ぐ北側を流れ、府道13号道路が走り、「科手道」の南側を京阪電車(明治43年開通)が走っている。

歴史を刻んだ「科手道」

 「科手道」のシナデ(科手)とは古代より“水辺にあってその目印になるべき処”という意味らしい、桂川、宇治川、木津川が合流して淀川となる、まさにその喉仏に当たる重要地点であった。古くから科手郷に住む住民にとっては特に八幡宮遷座以来、「八幡宮参詣道」として、あるいは「生活道」として「科手道」の歴史を刻んできたのである。秀吉によって「京街道」が整備される遙か以前から「科手道」は存在してきた。観光集客のためと言って、八幡の道を歩いてもらうように仕向けるのは大いに結構であるが、「科手道」と「旧京街道」の名称や位置を記入して、きちっと説明しなければならないのではないか。
なぜ地元本来の名称を堂々と使用しないのか首をかしげる!
 八幡の歴史、「科手道」の歴史を知らない者が八幡の歴史を知らない観光者に間違った案内をするようでは、真の歴史を到底後世に伝えられない。これでは「科手道」の歴史的存在さえ危うくなりかねない。八幡は歴史の「宝庫」と愛着を持つ住民にとって、こういった軽率さには腹立たしく、憂えざるを得ない。八幡の歴史に誇りや愛着がなければ次世代の人は八幡から去るであろう。歴史や文化財を大切にと言うフレーズだけは耳にするが、実態はズレてしまっている。f0300125_20332170.jpg
 戊辰戦争の最終局面で八幡の表玄関の町々が焼かれ、新選組・幕府軍が敗走する道が「科手道」であり、その「科手道」を追走したのが官軍であった。幕府軍の兵士が斃れていった「科手道」の身近な歴史の一例がある。
 ボランティアのガイドが「観光散策マップ」から俄か仕立ての作文を言われるままに説明し、はたして本当の歴史を語れるものか心配である。石清水八幡宮参詣道を「東高野街道」と称して、僅か3kmの間に13基に及ぶ無駄な建碑を行った二の舞の感性や発想の繰り返しはお断りしたい!

「歩く人」増えたが

 石清水八幡宮の国宝指定によって八幡さんにお参りする人は、見た目にも増えている。ケーブル乗り場も以前よりにぎやかだ。しかし一度八幡を歩いた人がリピーターとして来るだろうか。八幡市にリピーターに足を向けさせるような環境整備が進んでいるだろうか。多くの人々に聞いても、疲れた足を休めるところもないと、落胆して帰る人が多いと聞く。
 さて、「京街道」と名がつけば5m前後の道幅が普通だが、橋本奥ノ町の幅2mギリギリの道を街道とは言えない。たまに通りかかった時、ここは「京街道」でしょうか、と聞かれることがある。ここは古来、科手郷の「科手道」であり、「京街道」は川の下ですと、説明する。歩く人も怪しいと感じるのでしょう。
 旧京阪国道(府道13号)である堤防道や河川敷のサイクリングロード?を「京街道」と言った方がむしろ納得できるが、「科手道」を指して歴史上一度も呼称したこともない「京街道」との表示は全く理解不能で、このように実際になかったことを事実のようにでっちあげることを一般に捏造と言う。八幡の歴史を知っている周辺自治体住民からも八幡の歴史や文化財に対する感覚は少し疑問?という噂を耳にするが、まさに肯定せざるを得ない一場面だ。
 最後に狭い道の「科手道」を歩く人にはマナーを守って欲しい。子供の頃に“人は右、車は左”と習った。今は学校では教えないらしいが、右側通行を実施して、道一杯に広がって歩かず、車や自転車が徐行して走れるように願いたい。また、個人の住宅に無断でズカズカ入る人もいるらしいが、これは論外である

主な参考文献
  『男山考古録』 長濵尚次 石清水八幡宮社務所
  『戊申役戦史』 大山 柏 時事通信社
  『京都滋賀 古代地名を歩く』 吉田金彦 京都新聞社 
  『巨椋池干拓誌 池本甚四郎』 巨椋池土地改良区
  『男山で学ぶ人と森の歴史』 八幡市教育委員会
# by y-rekitan | 2017-07-24 08:00 | Comments(0)

◆会報第80号より-06 踏切道

消えた踏切道を思う

野間口 秀國 (会員)


 朝夕の散歩道を歩いている時や、いつもの道で車を運転している時に、「あれ??」と思った経験をお持ちの方は少なからずおられるのではないでしょうか。「いつもと何か違うな」そう思って改めて確認すると、つい最近まであったお店や建物や道が無くなったり、新しくなっていたりと、その変化に気づくことがあります。いつもお世話になっている京阪電車の橋本駅近く、淀屋橋方面に3つあった踏切道のうち最も淀屋橋側の1つがこの3月末に消えてしまいましたのでそのことを記しておきたいと思います。

 拙稿「大谷川散策余話⑫」(会報「八幡の歴史を探る 第49号」2014年4月28日刊)にて、“平成26年(2014)4月10日時点で橋本樋門と小金川樋門近辺で京阪電車の線路と大谷川を一跨ぎする新しい道路橋工事の真只中である”と書き、引き続き翌月の「同第50号」にて“樋門の隣で眠る洪水の足跡”の写真も掲載させていただきました。それから3年を経過して周辺の様子はかなり変わって、同じ場所に立っても当時の様子を正確には思い起こせないほどです。今でも周辺工事は続いておりこの秋ごろまでかかるようですが、前述の「線路と川を一跨ぎする新しい橋」は既に完成して供用され、踏切道もその役目を終えて消えてしまったのです。
f0300125_20552893.jpg 歴史上の出来事などを語る時に「文字や図面などで記されたモノ(文書や地図など)」が最重要視されることは多くの方々に知られておりますが、今年6月の京都新聞の報道だけでも、国内関連では「龍馬最長の手紙あった」(16日・夕刊)、「戊辰の目安箱訴状」(9日、16日)、「東寺百合秘話」(23日)など、また国外関連では「世界最古のシリア古文書・オーロラ観察記」(16日)など枚挙にいとまがありません。
 このように新聞等の報道で取り上げられる事柄と同列に論じられないとは思いますが、橋本の町中に今でも残る「橋本の渡し場道標碑」のある場所の道を挟んだおうちの壁には、かつての町の賑わいを描くかのごとく、お店などが描かれた地図を確認できます。歳月を経て読みづらくなった文字を追うと、先に書きました橋の工事が始まってからこれまでにも、お風呂屋さんが、お医者さんが、そして理髪店さんが店を閉じられました。三店のいずれも地図にはその名は残されたままですが、いずれは町の歴史を物語るこの地図さえも消えてしまうのだろうと思うと複雑な気持ちにはなります。

 ところで、役目を終えた踏切道のことについてもう少し書いてみたいと思います。ご存知のように京阪電車は明治43(1910)年4月に天満橋・京都五条間が開通いたしましたので、既に100年以上を経過しています。開通後42年目の昭和27(1952)年3月にこの「小金川踏切道」は新設されていますので、鉄道を横切る道路がこの年に開通したのであろうことも分ります。幾多の列車を初め、歩行者や自動車などの通行の無事を見届けた「小金川踏切道」は、この平成29(2017)年3月末に65年間(ちなみに筆者はこの7月で68歳ですが・・)の役目を終えて閉鎖されました。「小金川踏切道」の役目は新しく完成した、線路上を横切る橋「橋本高架橋(はしもとこうかきょう)」に引き継がれています。またこの高架橋は線路にほぼ並行して流れる大谷川をも跨いでおり、川を跨ぐ部分は「橋本大谷川橋(はしもとおおたにがわばし)」と名付けられ、男山方面から塩釜を経由して走る多くの自動車などを淀川左岸の道路へと導いています。

 工事が始まってからおよそ3年の後に、京都・大阪府境の橋本のはずれで、役目を終えて閉鎖された踏切道のことはおそらく文章で残されて多くの人の目に触れることはないでしょう。だからこそ、せめて歴探の会報にはこの小さなできごとを書き留めておく意味はあるのではないでしょうか。掲載しました写真を撮っていると、踏切道の閉鎖を知らずに来た1台の車がその場でターンして新しい橋へ向かうのにも気づきました。 最後に「小金川踏切道」の歴史についてご教示いただきました京阪電鉄のご担当者の方には紙面より感謝申し上げます。
(2017.6.30)--
                             
# by y-rekitan | 2017-07-24 07:00 | Comments(0)

◆会報第80号より-07 歴探会員ヒストリー

歴探会員ヒストリー
「今年白寿を迎えました」

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1.関通夫さんの履歴
大阪北区の呉服商「銭屋与兵衛(5代目)」の長男として、大正8年(1919)4月27日に母の実家(八幡女郎花)で誕生、幼少期は大阪で過ごしていたが小学校入学の直前に自宅が火災に遭い八幡に移る。
大正14年(1925)八幡小学校に入学。13歳で父親が亡くなり小学校卒業後に八幡郵便局に就職。
昭和15~19年(1944)の5年間は軍役で中国に行き現地満期で帰国し、その後枚方の陸軍造兵廠に入隊し終戦を迎える。
終戦後は八幡郵便局に復職した後、大阪天満の「近畿郵政監察局」に転勤になり、近畿の各府県を転勤して昭和54年(1979年)に定年退職。

在職中は仕事一本槍で忙しく自分の住んでいる土地のことがよくわからなかったので、地域社会のことに奉仕しようと老人会に入り、地元の老人会会長を12~13年務めた。
また、写真クラブにも入り各地での撮影会に出かけ入選作品は専門誌に掲載された。
平成7年(1995)には、長年郵政事業に尽くした功績により「勲4等瑞宝章」を受章した。(伝達式に皇居へ出向き、勲章は郵政省よりいただいた。)
80歳(平成21年-2009)から独学でパソコンを始める、今では離れて住んでいる子供や孫たちと掲示板でやり取りをしている。パソコンは朝昼晩と3回開いてメールを確認している。

2.「八幡の歴史を探究する会」との関わり
会のことは知人から紹介されて、4年前の平成25年(2013)の講演会に参加してすぐに入会した。
現在は高齢のために会の催し物に参加出来ないが、会報や会のホームページを楽しみにしている。また、ホームページは横須賀に居る息子も閲覧しており、共通の話題となり最近は八幡に来たときはホームページに掲載されている記事の場所の訪問をしている。

 以上、ご自宅を訪問して約1時間程度お話を伺いしましたが、白寿を迎えられたご高齢とは思えない素晴らしい記憶力でお話もわかりやすく、確認質問することは殆どありませんでした。 これからもお元気で毎日を過ごされることを願いながらお暇をしました。
◆インタビュー:「八幡の歴史を探究する会」会報編集担当  高田昌史

# by y-rekitan | 2017-07-24 05:00 | Comments(0)

◆会報第80号より-end

この号の記事は終りです。


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# by y-rekitan | 2017-07-24 01:00 | Comments(0)

◆会報第79号より-top <スクロールだけで全記事が読めます

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この号の会報からは現在、下記の記事が掲載されています。
このまま下にスクロールして頂くと順次連続してご参照頂けます。


◆シリーズ:“心に引き継ぐ風景” ⑩◆
◆《講 演 会》三川合流の変遷と周辺都市◆
◆シリーズ:“八幡の古墳と鏡” ③◆
◆シリーズ:“五輪塔あれこれ” ⑩◆
◆『太平記』 八幡合戦の石碑を訪ねる◆
◆シリーズ:“四條隆資卿物語” ①◆
◆シリーズ:“『三宅安兵衛遺志』碑と八幡の歴史創出“ ⑧◆
◆「八幡の歴史を学ぶ連続学習会」2016年◆



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# by y-rekitan | 2017-05-20 15:00 | Comments(0)

◆会報第79号より-01 淀川三十石船

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心に引き継ぐ風景・・・➉
三十石船と淀二十石船
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 「都名所図会」淀三十石船は当時の船運隆盛の一端を伝えるが、三十石船の就航は比較的新しく、信長の時代に出現し、秀吉の時代には百艘程となった。伏見と大坂天満間を下り半日、上り一日で航行し、乗客定員が二十八人で四人の船頭が付く。
 しかし淀川で最も活躍したのは、淀の納所・水垂の淀二十石船であった。淀稲葉神社の『過書座二十石船由緒書』には「男山八幡宮に付随し、八幡宮社務支配となり、古くより男山八幡宮の御神役を務め、淀川舟運を専有し長くその伝統を伝えてきた」旨が記されている。淀二十石船と徳川幕府との結びつきは深く大坂の陣でも兵糧米や鉄砲、楯など御陣具の搬送を担っている。
『土佐日記』の一節に「ひんがしの方(かた)に、山の横ほれるをみて、人に問へば、“八幡宮(やはたのみや)”といふ。これを聞きて、喜びて、人々をがみたてまつる。山崎の橋みゆ。嬉しきことかぎりなし《原文はほぼ全てひらがな》」とあり、貫之は淀二十石船から八幡宮と山崎橋を目にしている。
 元禄七年(1694)十月、芭蕉は大坂南御堂前で臨終を迎える。遺言により遺体は膳所の義仲寺に運ばれるが、淀二十石船で淀川を上ったようだ。「遺体を長櫃に入れ、商人の荷物のようにして運んだ」と其角が伝えている。
(文 谷村 勉)



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# by y-rekitan | 2017-05-20 12:00 | Comments(0)

◆会報第79号より-02 三川合流

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《講演会》
三川合流の変遷と周辺都市

2017年4月 
さくらであい館(イベント広場)にて
福島 克彦(城郭懇話会会員)

 
 4月23日(日)午後1時半より、淀川三川合流域“さくらであい館イベント広場(淀)”を会場に、年次総会と例会を開催しました。新しくオープンした”さくらであい館”の会場には、多数の方々にお越しいただきました。総会の後、同じ会場で「淀川・三川合流の歴史とその周辺」の講演が行われました。なお講演の概要は、講師の福島克彦氏がご多忙中にも拘わらず新たに本会会報掲載用に首記のタイトルで新たに執筆していただきました。会報編集者として厚く御礼を申し上げます。 当日の参加者58名でした。

はじめに

 馬車が発達しなかった日本の歴史にとって、舟運は物流の歴史を語る上で不可欠な要素である。年貢、物資の運搬には、大小多様な船舶が使われ、生産地と消費地を結びつけていた。特に、淀川は、古代、中世最大の消費都市であった京都と西日本を結びつける重要な物流の幹線となっていた。16世紀以降は、大坂が発達し、その地で集積された物資が運搬され、京都へと届けられた。山崎や淀は、そうした物資を京都へ運ぶ際、中継地点となった都市であった。したがって、三川合流周辺の都市である、山崎、淀、八幡は京都の発展を常に支えていた存在であった。こうした中継地点は17世紀には河川沿岸の渡し場や問屋として展開し、淀川舟運と地域社会を結びつける重要な結節点となっていた。
 しかし、一方で淀川は洪水など、自然災害の元凶にも変わっていく。そのため、この地域の堤防普請や治水対策とも常に大きく関わっていた。ここでは、三川合流周辺の都市の歴史と、治水と河川の付け替えについて取り上げてみたい。

1 三川合流の様相

 淀川の三川合流といえば、桂川、宇治川、木津川の三つの河川の合流を指す。現在、三つの河川は山崎地峡で背割堤を挟んで並走している。左岸は八幡市・枚方市、右岸は大山崎町、島本町が接しており、今も雄大な景観となっている。f0300125_2047308.jpgしかし、これらは自然によって形成された景観ではなく、あくまでも近代以降において人工的に築かれたものであった。では、近代以前の景観はどのような雰囲気であったのだろうか。近世絵図や絵画が描くように、幕末までの三川は淀の町で合流していた。そして、山崎地峡部分は、合流した後の一本の大河が流れる景観となっていた。つまり、幕末まで淀川沿岸を見る場合、現在の地形で判断するのではなく、かつての景観を遡及的に考察して検討する必要がある。
 淀の上流は、16世紀中葉まで、宇治川が直接巨椋池に流れ込んでいた。この池の水がオーバーフローして、淀、そして下流の淀川へと流れていた。後述するように、豊臣秀吉の伏見城下町建設に際して、宇治川が巨椋池と分離することになった。
 以下、合流地点の都市について概観しておきたい。

2 周辺都市の展開

(1)山崎・大山崎

 神亀2年(725)、行基による山崎橋架橋があり、橋のたもとには集落が形成されていたものと推定される。以後、8世紀後半の長岡京、平安京の時代にかけて、山崎橋、山陽道、関所に加え、山崎津、山崎駅、国府、官営瓦窯などが設置されていく。平安中期になると、橋が消滅し、津は史料上登場しなくなる。一方で中世前期からは地縁的共同体たる「保」が街道沿いに配置され、街村状の都市へと生まれ変わった。保には八幡宮の神人が住んでおり、彼らは灯明油を八幡宮へ奉納していた。これを契機に荏胡麻油の製造が認められ、特権商人として君臨するようになる。原料たる荏胡麻も莫大な量が西日本各地から船舶によって運搬された。淀川交通は、こうした原料荏胡麻を運搬する重要なルートとなった。以後、大山崎は荏胡麻油の代名詞となり、中世商業に名を残すことになった。ただし、14世紀には新しい塩商売に手を出そうとしたが、既得権を持っていた淀の抵抗によって、その権限は結果的に返上している。これによって、大山崎は多角的な産業への発展への道が途絶えてしまう。以後、産業の多角化への転換は、うまくいかなかったようである。
 一方、都市の自治権は、朝廷や武家との交渉のなかで、着実に獲得していった。戦国期からは大山崎惣中という自治組織が形成され、近世期にも神人が社家へと転換して「守護不入」権を維持していた。

(2)淀
 古代の淀は「与等津」(延暦23年 804『日本後紀』)という港として登場してくる。永承3年(1048)には 山崎・淀の刀祢、散所が屋形船11艘を建造しており(『宇治関白高野山御参詣記』)、やはり船舶との関わりが見える。中世は、材木の備蓄、塩・塩合物を取り扱う「魚市庭」、 兵庫津と結びつく「淀十一艘」などが見られた。こうした点からわかるように、中世期淀は京都の外港的な役割を果たしていた。f0300125_20501948.jpg
 一方、永徳3年(1383)8月、大山崎が新市開設によって塩商売を進めようとするが、これは淀の強い抗議によって白紙にさせている。つまり、この当時から塩や塩合物に関する既得権を守る立場になっていた。「淀ハ皆以八幡領也、千間(軒)在所也云々、近来減少」(『大乗院寺社雑事記』延徳2年)と記されるごとく、八幡宮領であった。千軒の家があり「淀六郷」と呼ばれる六つの集落が形成された。これらは、桂川、宇治川沿岸の集落であり、やはり港と船舶で、外とつながっていた。
 一方、京都とは陸上交通でつながっており、淀の中心である島之内には納所から淀小橋が架けられ、京都との間を運送業者が中継していた。こうしたルートは、秀吉の時代に太閤堤が成立して、その堤防上に造られた。17世紀に淀城下町が成立すると、この街道は東側に張り出すように移転されていく。

(3)八幡
 石清水八幡宮膝下の都市である。貞観2年(860)、行教が八幡神を勧請した後、石清水八幡宮が成立していく。以後、その周囲に院坊、集落が形成され、発展を遂げていく。中世都市の空間構造としては、山上・山下、宿院、内四郷、外四郷と区分される。内四郷と呼ばれる山麓の町場は東高野街道(常盤大路、志水大道)が南北に走り、やはり街村状になっていた。
 石清水八幡宮寺の組織としては祀官中、山上衆、神官神人中、四郷中などがあり、祠官家(田中・善法寺など)が力を保持していた。
 八幡は直接は河川と接していなかったが、独自の外港橋本を通して舟運が西日本とつながっていた。延文5年(1360)大山崎神人井尻助吉が「橋本津」で八幡宮領播磨国松原荘の年貢を陸揚げしており(『井尻文書』)、対岸の大山崎とも強く関係していた。預物慣行、土倉の存在、徳政免除などの特徴があり、多くの金融業が発展していた。近世期も「守護不入」を存続していたことが知られている。
 このように、三川合流周辺には、大山崎、淀、八幡と、石清水八幡宮と関わりを持つ都市が成立していた。これらは河川交通ともつながる一方で、街村状の町場が続き、陸上交通とも深い関わりを持っていた。特に京都と陸上交通でつながり、運送業者とも関わっていた点は強調されてよい。また、淀川沿岸ともつながっており、古い時代から瀬戸内海の舟運を媒介にして、物資運送のルートとなっていた。

3 三川合流工事の要因

 16世紀後半より、豊臣秀吉の京都改造が進められ、宇治川と巨椋池の分離、それに伴う伏見城下町の建設、太閤堤の普請などが敢行された。この秀吉の改造は、近世期の交通体系と治水方針をほぼ決定づけている。特に堤防と街道が軌を一にしている姿勢は注目される。以後も京都開発は進められたため、流域における大量の樹木伐採も行なわれた。そのため、森林の保水能力が低下し、土砂が河川に流出して、山崎地峡の手前で土砂が川底に堆積した。これによって洪水が起こりやすくなり、江戸時代以降は、山崎地峡周辺はたびたび水害に見舞われた。三川合流地点における逆流現象もたびたび起こったため、地域としては合流地点の変更を求めるようになった。すなわち、洪水対策のため、合流地点を少しでも下流へ求めようと、寛永14年(1637)の木津川付け替え工事、さらに18世紀以降の小泉川、水無瀬川、放生川の付け替えが実施された。なかには、木津川を河内や大和へ付け替えようとする計画も見られたが、近世期段階では実行に移せなかった。

4 淀川改良工事

 明治元年(1868)5月に淀川の大洪水があり、同年12月~3年(1870)正月にようやく木津川付け替え工事が敢行された。これに伴い、周辺も近代における小泉川の付け替えなども行なわれた。以後、土砂堆積の問題を克服するため、オランダ人ヨハネス・デレーケなどの調査、計画による、淀川改良工事が進められ、砂防ダムの設置、水制による低水路の維持が図られた。当時水制には粗朶沈床も設置され、水の浄化作用に意識されていた。明治29~43年頃(1896~1910)の淀川改良工事では、桂川、宇治川の付け替え工事が進められた。このうち、桂川の付け替えでは、大山崎の淀川沿岸部の敷地を喪失した。そのため、当時の大山崎村長松田孝秀は「凡ソ大利ヲ起サントスレハ、小害ノ之ニ伴フハ数ノ免レサル所ニ付、府下公益ノ為メニ犠牲トナルハ甘ンスル所ニ候得共、之ヲ以テ大ニ利益ヲ享クルモノトシ、不均一ノ賦課セラルゝニ至リテハ黙止難致」と京都府に意見を述べている(『役場旧蔵文書』「上司進達綴」明治29年7月)。後に淀川改良増補工事(大正7~昭和5年 1918~1930)によって背割堤が拡張し、現在の景観に至っている。
 当時の村長の言葉のなかに、大山崎村が「府下公益ノ為メニ犠牲トナルハ甘ンスル所ニ候得共」と言っている点は、私たちは噛み締めたいと思う。

おわりに

 平成29年(2017)3月、三川合流の地にさくらであい館が完成した。今後、三川合流地点を考える重要な発信基地になると思われる。それは前述してきたような、周辺にある都市のあり方などを比較検討することを通して、各々の町の特徴を追究することができる。さらに淀川・三川合流を媒介とした自治体・地域の交流もさまざまな形で実施することができると考える。それは、言うまでもなく、淀川の歴史を考えることでもある。現代のように、大型河川を境界と考えるのではなく、物資を運ぶ舟運ルート、あるいは対岸を結ぶ渡し舟などの存在から、むしろ対岸は近い存在だったということを改めて認識すべきだろう。
 その意味でも八幡の歴史を探究する会の役割も大きいと思われる。皆さんの活動に期待したいと思う。

[参考文献]
西川幸治編『淀の歴史と文化』淀観光協会 1994
大山崎町歴史資料館『はるかなる淀川』2000
大山崎町歴史資料館『淀川と水辺の風景』2012
藤本史子「中世八幡境内町の空間復原と都市構造」『年報 都市史研究』7 1999
鍛代敏雄『戦国期の石清水と本願寺』法蔵館2008
福島克彦「近世前期における西国街道と淀川問屋」『山城国大山崎荘の総合的研究』2005
福島克彦「中世大山崎の都市空間と『保』」仁木宏編『日本古代・中世都市論』2016
 

『一口感想』より
三川合流の歴史や推移が、わかりやすく説明されていましたので、よく理解がすすみました。資料もよくまとまっており、大変よかったと思います。(O.S.)
三川合流の歴史を学んで、益々貴重な地域であると思った。八幡市はもっと、もっと三川合流を取り上げてほしいと思う。(I.J.)
八幡市に住んで50年、三川合流の歴史を初めて聞き興味を持ちました。有り難うございました。(K.T.)
三川の様子がよくわかりました。(T.K.)
八幡の土地一部が分断され(美豆、生津)ていたことは聞いていましたが、三川合流の改良工事により、山崎が多くの土地を失ったこと、はじめてお聞きしました。 改良工事の歴史を学ぶことの大切さがわかり、よい機会となりました。(F.N.)
興味ある内容の講座でした。本年も八幡にかかわるテーマでお願いします。昔はどうであったか、昔のものは残っているのか、痕跡、遺品・・(K.S.)
最初会場の天井が高いためか、講師のマイクが聞こえづらかった。しかし、途中からよく聞こえるように配慮していただき、よく聞こえるようになりました。(謝謝)
 講師の方は一生懸命大きな声で講演されました。受講者の一員として深く感謝申し上げます。本当に有り難うございました。受講者も静かに熱心に一心で聞く思いで受講、大へん有意義な講演であり、参加して大へんよく有り難かったです。(H.M.)
本日の講演、大変参考になりまいた。普段、三川合流の話は滅多に聞きませんでしたので、大山崎も八幡も大きな影響を受けていたことを知りました。
 江戸時代の資料の図に八幡の中に東高野街道の名称があって、東高野街道とは最近観光用に俄に言い出したことで、江戸時代の資料に適用するのはどうなのかな?と一つだけ疑問が残りました。(T.S.)

  
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# by y-rekitan | 2017-05-20 11:00 | Comments(0)

◆会報第79号より-03 古墳と鏡③

シリーズ「八幡の古墳と鏡」・・・③
八幡の古墳と鏡(3) 
-八幡出土の三角縁神獣鏡(2) 西車塚古墳-

濵田 博道 (会員) 


西車塚古墳とは

 今回取り上げる西車塚古墳は前回の内里古墳とは違い、以前からよく知られた古墳です。『以文會筆記』(文化年間(1804~1818)、京都文人による書)に次のような記事があります。

f0300125_10153298.jpg「おとこ山の麓を南へ河内国に行く道は右にも左にも車塚といふあり。いと平らなる畑の中に物をおきたらんやうに南は円にして広く北は方にして狭く、帝王の陵に似たればとてそのかみ、(中略)不知の異物なり。」(『京都府史蹟名勝天然記念物調査報告 第十三冊』)
 江戸時代の書物において車塚とは前方後円墳のことをいいます。“河内国へ行く道を挟んで西に西車塚古墳(後円部上に八角院[堂]のある古墳)、東に東車塚古墳(現在、後円部の一部は松花堂庭園の築山となっています。前方部は消滅。)があり、陵(みささぎ)に似ているがよくわからない”と述べています。
 『男山考古録』(1848年)巻14にも「西車塚」の項があり、かなり詳しく説明されています。「志水南山道より西にて、小山廻り(後円部)およそ半町(約60m)ばかりもあり、四手原(幣原)村へ行く道の北(中略)これは何れ名だたる人をや葬りたりけむ、未詳。」さらに『山陵志(さんりょうし)』(1808年、蒲生君平(がもうくんぺい)著)を引いて「前方後円、壇三成。溝環り、後円部の頂に葬むる場所あり」「皇后皇子若重臣の墓か」とあります。
 八幡市八幡大芝に所在し、古墳時代を通じ木津川左岸最大、全長120m、後円部径60m、三段築成の古墳です。盾型(たてがた)の周濠(しゅうごう)は現在、埋められて畑になっていますが、発掘調査の結果からも確認されています。円筒埴輪も二個確認されていて、埴輪列があったようですが現在は見当たりません。葺石(ふきいし)は「確認されていない」(『京都府史蹟勝地調査會報告書 第一冊』)、「あったと推定される」(『八幡市遺跡地図』)との見解があります。「古鏡5面、車輪石10個、石釧(いしくしろ)3個、鍬形石(くわがたいし)2個、石製品(合子(ごうす))1個、(瑪瑙(めのう))勾玉(まがたま)11個、管玉(くだたま)120個、小玉72個、木片4個、刀残片27個」が出土し、東京国立博物館に収蔵されています。(鏡は特別展の折、一度展示されましたが、常設展示とはなっていません。)
 報告書で京都大学の梅原末治氏は次のように述べています。「墳墓の構造の偉大なるより推し、またその埋蔵品の種類に考へ、当時の有力者なりは容易に知るを得べく、古鏡の年代推定にして当らむか、以て支那三国(原文のママ、中国の魏呉蜀(ぎごしょく)三国のこと、220年~280年)前後における山城文化の発達の一端をうかがうを得べき貴重なる遺跡なり。」

西車塚古墳の石室

 古墳時代前期(3世紀半ば~4世紀末)において八幡市で石室を有する古墳は茶臼山古墳と西車塚古墳の2基ありました。他の古墳は竪穴式石室の簡易型といえる粘土槨(ねんどかく)(粘土床)です。ですから、この2つの古墳は八幡市の中で格が高くかつ古い古墳といえるでしょう。とはいえ茶臼山古墳はすでに盗掘され石室も破壊された状態で副葬品もほとんど残っていませんでした。ただ石棺(近畿で最初に導入された熊本県氷川(ひかわ)の阿蘇溶結凝灰岩(ようけつぎょうかいがん)製の石棺)が残されていたのは貴重でした。一方、西車塚古墳の竪穴式石室について、梅原末治氏は石室が破壊された後になって調査し、次のように述べています。「明治35年(1902年)6月18日、(八角堂)境内の土坑に際し遂に石室を掘り当て、遺物を出すに至れり。この時出土の副葬品は東京帝室博物館の所蔵に帰して調査なし得べきも、室は全く破壊され終わりて尋ぬべからず。」「塚の主体をなす石室は後円のほぼ中央にあり。東西に長く塚の主軸とは直角の方向をとれるいわゆる竪壙(たてこう)なりしがごとし。この形状の詳細は全く知る能はざる(後略)」(『京都府史蹟勝地調査會報告書 第一冊』(1919年[大正8年])
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西車塚古墳の被葬者像

 副葬品として古鏡や腕輪型石製品などを多く有していることから被葬者が祭祀を司り宗教的呪術的性格であったことがわかります。また腕輪形石製品の最高品位といわれる鍬形石2個が出土していることから高い威信をもっていること、三段築成の古墳であることからヤマト王権と関係が深かったことがうかがえます。腕輪形石製品について奈良文化財研究所『日本の考古学』(小学館)で次のように述べています。「腕輪形石製品は銅鏡と同様に、所有者の威信を高める重要な物品であった。その背景として、当時の中心的な勢力によってこれらが製作・配布されていたとする説が有力である。しかも一定の格付けがあり、鍬形石、車輪石、石釧の順で重要視されていたようである。」出土品の石製合子(ごうす)と瑪瑙製勾玉(めのうせいまがたま)は東京国立博物館発行『日本の考古ガイドブック』にも掲載されているほど見事なものです。私が東京国立博物館を訪れた時、ちょうど合子が展示されており、八幡市西車塚古墳出土との解説を見て感動したものです。これらを持ち合わせた被葬者とはどのようでしょうか。

西車塚古墳出土の鏡

 出土した5枚の鏡は3枚が舶載鏡(はくさいきょう)(=中国鏡)、2枚が仿製鏡(ぼうせいきょう)(=倭鏡)とされています。舶載鏡は盤龍鏡(ばんりゅうきょう)、三角縁神獣鏡、画文帯神獣鏡(がもんたいしんじゅうきょう)各1枚です。
f0300125_20352491.jpg画文帯神獣鏡については石不動古墳からも出土しており、次々回とりあげます。
 盤龍鏡については、『八幡市誌』に櫛歯文帯龍虎鏡(くしはもんたいりゅうこきょう)という名前で記載されていますが、これは同じ鏡のことです。大塚初重『古墳辞典』(東京堂出版)によると「(龍虎鏡は)盤龍鏡のうち主文様が龍と虎の向き合う構図のもの、後漢(25年~220年から三国期(220年~260年)にかけてのもの」と説明されています。盤龍鏡の一部として龍虎鏡が存在するわけです。そして「各種の神獣鏡や盤龍鏡をもとに試作を重ね、三角縁神獣鏡が生まれた。」(注1)とされていますので、三角縁神獣鏡の母体となった鏡の一つであるといえます。盤龍鏡という三角縁神獣鏡が生まれる前の古い鏡である後漢鏡が三角縁神獣鏡とともに副葬され出土しているのも興味深いです。西車塚古墳の盤龍鏡は舶載鏡とする見解(梅原末治氏、『八幡市誌』、山城郷土資料館『鏡と古墳』)と仿製鏡とする見解(樋口隆康『古鏡』新潮社)がありますが、ここでは舶載鏡として扱いました。

三角縁神獣鏡などの副葬状態

 西車塚古墳の石室については、八角堂境内整備の際、専門家の立ち合いがなかったようで、石室の形や様子、副葬品の位置関係などの図面などが残されないまま、壊されました。そのためどんな石室であったのか、棺(ひつぎ)の外と内に石製品や鏡がどのように副葬されていたのか、とりわけ三角縁神獣鏡はどのように副葬されていたのか、これら威信財のうち被葬者が何を最も大事にしていたのか、などわからない状態です。ただ後年、石室調査に赴いた梅原末治氏は、発掘当時石室を実見した河井うのさんの話を聞いて次のように記述し感想を述べています。
 「室の大さは竪九尺(2.7m)、横二尺(0.6m)、高さ三尺(0.9m)内外にして、壁は積むに扁平なる水成岩を以てせり。今街道より八角堂に登る石階(段)に使用する石材是なりといふ。而して内部に於ける遺物副葬の状態は室の東方に接して鏡鑑類あり、付近より石釧などの石製品を発見し、勾玉小玉管玉の類は室の南辺に点在せりと云へり。然らば以外は頭部を東にして埋葬せるものと見るべきか。」(『京都府史蹟勝地調査會報告書 第一冊』)

西車塚古墳出土の三角縁神獣鏡

 三角縁神獣鏡の正式名は「三角縁天・王・日・月・唐草文帯二神二獣鏡」といいます。二神像・二獣像の外側の四方に「天」「王」「日」「月」という文字が方形枠で一文字ずつ銘記され、その外側に帯状に唐草文が描かれているからです。(注2)「『天王日月』の銘文は三角縁神獣鏡に時々見受けられますが、中国では後漢代の二世紀第三四半期(150年~175年)ごろに作成されたと推定される画文帯同向式神獣鏡に多くみられる」(注3)ようです。『天王日月』銘の起源はそのころまで遡るということになります。「天」は天子、「日」「月」は「太陽と月であるが、陽と陰の二元となり、天子と后をさす。」(注4)とされています。が、諸説あります。また、第一回の「八幡の古墳と鏡」で“西・東車塚古墳の三角縁神獣鏡はC段階の製作だから卑弥呼の鏡ではない”(卑弥呼の時代と合致しない)と述べました。この舶載三角縁神獣鏡の製作ABCDの四段階のうちC段階について、大阪大学の福永伸哉氏は次のように説明しています。「<舶載C段階>内区(ないく)四分割、六分割タイプ共存。捩文座乳(ねじりもんざにゅう)をもつ四神四獣鏡、三神三獣鏡、二神二獣鏡、三神二獣鏡など。外周突線の出土頻度さらに低下。銘帯もみられるがごく少数派。260年代の製作か。」(注5)西車塚古墳の三角縁神獣鏡は内区四分割の二神二獣鏡です。

西車塚古墳の三角縁神獣鏡の同型鏡

 この三角縁神獣鏡と同じ大きさ・文様のものが西車塚古墳のものを含めて9枚見つかっています。9枚もの同じ鏡をどうやって造ったのか。1つの鋳型から複数の鏡を造る同笵鏡による製作法では鋳型が破損していくので5枚が限度といわれています。同笵鏡による製作法で9枚は考えにくいというわけです。そこで原鏡から鋳型を造り、その鋳型から1枚の鏡を造り(踏み返し鏡)、その鏡から多くの鋳型を造って鏡を製作するという同型鏡による製作方法が考えられています。他にも同笵・同型両方の方法を使って製作したのではないか、あるいはさらに別の製作法もあったのではともいわれており、どうやってつくったのか意見がいろいろあります。同じ大きさ・文様のものが9枚見つかったというのは三角縁神獣鏡でも最多の枚数です。どういう古墳で見つかっているか調べてみますと、

ヘボソ塚古墳鏡(兵庫県神戸市東灘区岡本町、前方後円墳、古墳時代前期)
石切神社蔵鏡(大阪府東大阪市)
佐味田宝塚古墳鏡(奈良県北葛城郡河合町、前方後円墳、4世紀末)
長法寺南原古墳鏡A鏡(京都府長岡京市、前方後方墳、4世紀後半)
長法寺南原古墳鏡B鏡(     〃      )
西車塚古墳鏡(京都府八幡市、前方後円墳、4世紀後半)
長塚古墳鏡(岐阜県可児市、前方後円墳、4世紀末~5世紀初頭)
岐阜県円満寺古墳鏡(岐阜県海津市南濃町、前方後円墳、4世紀中~後半)
愛知県東之宮古墳鏡(愛知県犬山市、前方後方墳、3世紀後半~末葉)

 近畿から東海にまで分有が広がっているのです。ヤマト王権と同盟関係を結ぶ広範なネットワークが形成されています。また、長岡京市長法寺南原古墳からはこの鏡が2枚発掘されています。それは何を意味しているか。次のように考える説があります。“中国への遣使(卑弥呼・台与(とよ)の時代、数回の遣使記録がある)ごとに三角縁神獣鏡が輸入されたとすると、それによりヤマト王権は豊富に鏡を有していた。その鏡を同盟関係を結んだ各地の豪族に配布、分有し、特に重要な地域や功労のあった豪族には複数枚配布することもあったのではないか。”と。しかし「三角縁神獣鏡は百を単位に数えるほど多量に輸入されたとはいえ限りがあったから、それを補うかたちで仿製三角縁神獣鏡が日本列島において製作された。」(注6)男山・長岡・乙訓付近は水陸交通の要衝です。ヤマト王権としてはぜひともここを押さえる必要があったと思われます。それゆえ、淀川水系の両岸の勢力と強い同盟関係を結び、その証として三角縁神獣鏡を分有したといえるでしょう。また、椿井大塚山古墳から大量の三角縁神獣鏡が出土していますが、この木津川水系は北の桂川、東の宇治川それに巨椋池、西の淀川を通じて日本各地とつながっています。さらに王権の中枢に近く最重要拠点でした。だからこそ鏡の配布を担当する最高の役を持っていたのではないでしょうか。こうしてヤマト王権は山代(やましろ)や他の各要衝の勢力と同盟関係を結び、それらを押さえ支配を強め勢力を拡大していったと考えられます。

西車塚古墳の築造時期

 西車塚古墳の三角縁神獣鏡が配布されたのは、長岡京市の長法寺南原古墳築造とそれほど離れた時代ではなく、ヤマト王権がまだ鏡を多数保有していた初期のころで、鏡が足りなくなる時代=三角縁神獣鏡の仿製鏡を造る時代、までは下らない時期といえます。とすると西車塚古墳はいつごろ築造されたのか。西車塚古墳には舶載鏡と三角縁神獣鏡ではないですが仿製鏡がともに副葬されています。両方副葬されていたとなると古墳時代前期であっても初期ではないでしょう。そういうことと出土の腕輪型石製品、埴輪の編年、当時の王権中枢の古墳の形との相似性などを調べると、西車塚古墳の築造は4世紀の後半ごろと考えられます。しかし、後述しますがこの年代はまだ確定的ではありません。

ヤマト王権とのかかわり

 八幡に古墳が築造される4世紀後半という時代は、ヤマト王権に大きな変化がおきているときです。卑弥呼の墓といわれる3世紀中葉の箸墓(はしはか)古墳からはじまって、百数十年間大和東南部(天理市・桜井市辺り)に築造され続けていた200mを超す大型前方後円墳は4世紀中葉を最後に造られなくなり、かわりに奈良市北部・曾布(そふ)(添)の地域に大型前方後円墳が築造されるようになります(7基)。大和東南部から奈良市北部の地に移動していくのです(佐紀盾列(さきたたなみ)古墳群)。「なぜ移動したのか」については、(注7)の書籍が参考になります。今の平城宮跡の北側一帯、近鉄京都線・橿原線と国道24号線の間、その近辺にあります。
 葛城の地域にも大型の前方後円墳が次々と築造されます(馬見(うまみ)古墳群)。この古墳築造の時期が八幡での古墳築造の時期とピタリと重なります。奈良盆地北部は南山城とも近く、八幡の勢力とかなり関わりがあったと思われます。また、この時期は東アジア的にみれば中国の朝鮮半島出先機関だった楽浪郡(らくろうぐん)・帯方郡(たいほうぐん)が高句麗(こうくり)により滅ぼされ(313年)、高句麗の南下により朝鮮半島情勢が不安定になり、「広開土王碑(こうかいどおうひ)」(高句麗王広開土王=好太王(在位391~412年))にみられるように高句麗と百済(くだら)・新羅(しらぎ)・倭(わ)の勢力が盛んに争っていた時期でもあります。『三国史記』『日本書紀』にもその断片が記述されています。

八幡の古墳編年

 1986年に発行された『八幡市誌』の解説では、八幡での古墳築造編年(前後関係)は
茶臼山古墳→石不動古墳→西車塚古墳→東車塚古墳→ヒル塚古墳→王塚古墳

となっており、八幡の古墳築造はだいたいにおいて4世紀後半、ヒル塚と王塚古墳は5世紀前半~半ばと理解したものです。ところが、最近発行された文献をみると、4世紀後半という理解は多数としても、この古墳の編年に変化が生じています。八幡全体の古墳築造編年はまだまだ確定していないように思われます。例えば昨年(2016年)発行・発表された文献から、八幡の部分だけ抜粋してみますと次のようです。
茶臼山古墳→ヒル塚古墳→西車塚古墳→石不動古墳→東車塚古墳→王塚古墳(注8)
西車塚古墳→東車塚古墳→茶臼山古墳→石不動古墳(注9)
ヒル塚古墳→茶臼山古墳→西車塚古墳→石不動古墳→東車塚古墳→王塚古墳(注10)

 八幡で最も早くに築造されたのはどの古墳で、どういう勢力が掌握していたのか。茶臼山古墳だとすれば前方後方墳の勢力、西車塚古墳だとすれば前方後円墳の勢力、ヒル塚古墳だとすれば方墳の勢力ということになり、その勢力の基盤、格付けも変わってきます。全国の築造数は前方後円墳が約6400基に対し、前方後方墳は約500基(注11)といわれていますから、数としては前方後円墳が圧倒的に多いです。
 ちょっと古い資料ですが、1972年に発行された龍谷大学文学部考古学研究室『南山城の前方後円墳』に、男山グループの古墳の特徴がコンパクトにまとめられています。
「始原が前方後方墳であること。茶臼山古墳に引き続いて築造された古墳はいずれも100m前後の大型前方後円墳であり規模の点で南山城の最も大型の前期古墳であること、それに対し中期型の古墳はむしろ若干規模の縮小化を見ること、かつて前方後円墳ないし前方後方墳を築造してきた古墳群にあって、中期型の古墳はむしろ若干規模の縮小化を見ること、(中略)首長墓の系列のみで周辺に小規模な群集墓をもたないことなど、木津川を隔てた対岸の久津川(くつかわ)古墳群の様相と全く異り、むしろ淀川北岸の向日市古墳群に類似性が認められる。なお、首長墓が時期的に近接して築造される現象は、首長権の一系的な世襲制の未確定な様相を示すものとして注目されよう。」(『八幡市誌第一巻P133』)
 最初の古墳築造や古墳の編年をめぐっては、これからの研究を注視していく必要があります。(次回は「東車塚古墳とその三角縁神獣鏡について」考えてみます。)
 
(つづく)  


(注1)大塚初重『古墳辞典』,東京堂出版,1987
(注2)同じ天王日月と書いてあっても、方形枠内に「天王日月」とセットで描かれているもの、「天王」「日月」と2字ずつのものなどの三角縁神獣鏡があります。(小林行雄『古鏡』学生社)実際に鏡を見ると明らかに違いがわかるのですが、文字にすると似ているので注意が必要です。そこで研究者は「天王日月」セットの場合「天王日月」、「天王」「日月」の2字ずつの場合「天王・日月」、「天」「王」「日」「月」の一字ずつの場合「天・王・日・月」と区別して鏡名を表しています。
(注3)安本美典『三角縁神獣鏡は卑弥呼の鏡か』,廣済堂出版,1998
(注4)藤田友治『三角縁神獣鏡の謎をさぐる』,ミネルヴァ書房,1999
(注5)福永伸哉「三角縁神獣鏡と葛城の前期古墳」 『古代葛城とヤマト政権』,学生社,2003
(注6)岡村秀典「三角縁神獣鏡と伝世鏡」『古代を考える 古墳』,吉川弘文館,1988
(注7)白石太一郎「百舌鳥・古市古墳群出現前夜の畿内」『百舌鳥・古市古墳群出現前夜』近つ飛鳥博物館図録,2013
(注8)『平成28年度特別展山城の二大古墳群-乙訓古墳群と久津川古墳群』図録,京都府立山城郷土資料館、2016年10月
(注9)塚口義信『邪馬台国と初期ヤマト政権の謎をさぐる』原書房,2016年11月
(注10)岸本直文「山城の前方後円墳と古墳時代史」『文化講演会山城の王権の実像に迫る!!』,ふるさとミュージアム山城,2016年10月
(注11)大塚初重『「古墳時代」の時間』,学生社,2004


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# by y-rekitan | 2017-05-20 10:00 | Comments(0)

◆会報第79号より-04 五輪塔⑩

シリーズ「五輪塔あれこれ」・・・⑩
いかにして

野間口 秀國 (会員) 


 第1章「現場の解説板」を皮切りに五輪塔の不思議を探ってきました。しかしながら、当然と言えるかも知れませんがこれといった明確な回答は得られませんでした。だからと言って決して落胆している訳でもございません。「なぜ」、そう訊かれそうですが「明確な回答はそうそう容易には得られないのだ」と分かったからです。加えて、既に分かっているなら、図書館の書棚から回答が得られるのですから。そう言いつつも残された疑問が消えた訳では無く、「どのようにして造られたのか」、「どのくらいの費用がかかったのか」などに関する答えらしきものが無いのかとあがいてみたいと思います。

f0300125_20375992.jpg 第4章でピラミッドのことに触れましたが、あのような巨大な建造物がどのようにして造られたのか、について改めて書かれたことを読み直し、その一部を引用したいと思います(*1)。
「ピラミッドの建設方法についてもこれまで数多くの推測がなされてきたが、いまだに意見の一致はみられない。様々な仮説が挙げられているが、大きく分けると二つある。ひとつ目は大量の石材を運搬するために長い直線傾斜路を使用したという説、そしてもうひとつがピラミッドの周囲を取り巻くように傾斜路が渦巻形に造られたという説である」 さらに続けると「石材を曳くための道路を建設するのに、国民の苦役は実に十年にわたって続いたという」 とあります。

 また今日でも、大阪城にて見ることの出来る巨大な石が一体どのように積まれたのかを思う時、その作業がいかに困難を極めたかが容易に想像できるようです。瀬戸内の島々や沿岸の石切り場から切り出された石を、海岸まで移動して船で大坂へ運び、淀川を遡り、陸揚げ、さらに移動して積み上げる、そう考えるだけでも当時の最先端の土木建築や運搬技術が駆使されたであろうことが想像できます。石清水八幡宮の五輪塔も、橋本か八幡あたりで陸揚げされた石が大きな修羅(しゅら:運搬するそり状の道具)に載せられ、一ノ鳥居付近を経由して運ばれたのでしょうか。組み上げに際しては、クレーンなどの無かった時代のこと、五輪塔の部材の垂直方向への設置は、個人的には前述の「直線傾斜路を使用したという説」を取りたいのですが・・・・。

 ピラミッドや大坂城などの大規模建造物を造るのには、それぞれの時代に強大な力を持った為政者や集団の存在無しには語れませんが、五輪塔の造立もまた、規模が異なるとは言え中世においての寺社勢力の影響を考えざるを得ません。当時の石清水八幡宮も京の都の一角を護る宗廟として、公家や武家と並ぶ大きな力を有していたであろうことを思うと、五輪塔造立にも少なからぬ影響力があったのではないかとも思えます。

 ところで、この春の「探見 国宝 石清水八幡宮」と題する京都新聞の連載(*2)に五輪塔についての数々の逸話が書かれてあり、その最後にN氏の「どんな土木工事で完成させたのか」との思いも記されていました。私の最後の疑問でもある「いかにして / How」も、まさに氏の思いと同じであり、最大の興味でもありました。この最後の疑問に対して少しでも「回答」らしきものを得たくて、京都市内の滋賀越え道にあります石灯籠や各種石塔・京石工芸品などの創作を生業にされる西村大造氏を訪ねました。氏はご多用な中、私の疑問に専門的な立場でとても親切に教えてくださいました(*3)。

 素材となる原石は比叡山の山塊に存在する花崗岩が地表に出てきたものであり、白川の水流で削られ、洗われて原石が磨かれたものであること、また、不定形の原石は「石回し」と呼ばれる工程によって削られて、その体積のおよそ半分か3/5ほどしか商品には供せられないことなど、石材に関することから話は始まりました。また、原石のまま設置する場所へ運ぶには、重量を考えると不合理であり、石清水八幡宮の五輪塔の場合では、部品(地輪、水輪などの各輪)ごとの完成品もしくは半完成品(粗斫(あらはつ)り品、もしくは中斫(なかはつ)り品)の可能性が考えられること。加えて、完成品の場合には運送期間中に発生する破損のリスクなどを考えると、半完成品で運ばれたことが現実的と考えられる。などなどのことでした。

f0300125_20395890.jpg さらに、現地での組み立ては、現在のように大型重機やクレーンも無かった時代のことなので、それに代わる特別な道具が使われたようです。それは、二本の丸太を組み合わせて作る「フタマタ(ニマタとも呼ばれる)」と呼ばれる石の吊上げ用具であり、今でもクレーンの活躍できない場所での墓立てや記念碑などを建てるのに使用されているようです(*4)。フタマタに加えて、「麻ロープ」や「カッシャ(滑車)」や「ロクロ」などの専門用具を使用しながら、吊るしたり移動したりしてそれぞれの部品が設置されてゆくのです。また、五輪塔の組み立てに使われたフタマタの高さは、街なかの一般的な電柱の高さほどだったのではなかったか、とも、ロクロは人や牛の力で回しただろうことなども話していただけました。

 最後に、「費用はいかほどか」も尋ねましたが、現在でも「商品の大きさや設置場所、また素材の品質などで異なるので・・・」とのことでしたが、石清水八幡宮の五輪塔と同じような大きさ(20尺モノ)であれば、原石の手配が最も難しいこと、組み立てには建設用のクレーンが必要だろう、とのこともお話しいただけました。お話しの内容からは少なくとも8桁の数字ではないかと想像できました。ちなみに氏の手掛けられた最大の五輪塔は10尺モノ(約3.3m)であるとのことでした。

 前述の新聞連載(*2)にも「存在感、数々の逸話生む」と書かれていましたが、それぞれの塔には、それぞれのいわれが語り継がれています。そのことに関して氏は、「すべてが正しいとは言えないだろが、それなりの訳あって語られているのだろうから・・・」と語られました。そして最後に、とても興味深い話をいただき五輪塔のさらなる不思議を感じずにはおられませんでした。それは、「多くの五輪塔には確かに刻銘が見られないが、他の作品(彫像品や鋳造品)などと同じように、その体内に何らかの記録が残されている可能性はあるかもね」と語られたことです。

 最後に数々の貴重なお話をお聞かせいただきました西村大造氏に、そして、最後までお付き合いいただきました皆様に紙面をお借りしてありがたく感謝申し上げます。
 (本章をもってシリーズを終わります)--


参考図書・史料・資料など;
(*1)建築法の仮説例説明及びイラストは『ピラミッドの歴史』大城道則著・河出書房新書刊
(*2)京都新聞連載記事・2017.3.1付け(探見 国宝石清水八幡宮 五輪塔)
(*3)五輪塔関連事項は株式会社西村石灯呂店の西村大造氏に聞く
(*4)「フタマタ」の説明の一部、および写真は『牟礼・庵治の石工用具』香川県牟礼町教育委員会刊より引用


この連載記事はここで終りです。       TOPへ戻る>>>

# by y-rekitan | 2017-05-20 09:00 | Comments(0)

◆会報第79号より-05 八幡合戦

『太平記』八幡合戦の石碑を訪ねる

谷村 勉 (会員)


 「八幡合戦」の石碑は京阪八幡市駅から近く、男山山上の御本宮や護国寺跡より中ノ山墓地・正平塚まで凡そ片道4kmの距離にある。途中、歴史的な道標、
石碑を沢山目にするが、今回は「八幡合戦」(正平の役)に関連する道標をピックアップしました。八幡市民図書館横の⑥「園殿口古戦場」石碑を見た後はそのまま南へ旧街道の面影を残す旧道を歩き、突き当りを右に折れて、神原交差点から、さらに南の志水道に入るコースをお薦めします。
 なお、本記事で紹介の石碑等の場所は、下図に矢印と石碑番号を記入しています。
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① 護国寺薬師堂跡碑 (八幡高坊)
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 正平の役で山上における後村上天皇の行宮になったと思われるのが護国寺です。「八幡合戦」の終盤、ここから志水大道に下り、賀名生(あのう)まで多大な犠牲を払いながら脱出に成功した。明治の廃仏毀釈で建物は無くなるが、永く当山根本精舎の役割を担ったところで、八幡宮遷座以前、行基菩薩の開基と伝わる。本宮東門よりケーブル乗り場の道を左にみて、真直ぐ階段を下った左の広場が護国寺跡地になる。
 慶応2年(1866)発行の「八幡山案内絵図」にはほぼ中央に護国寺が描かれ、南側には琴塔や伊勢遥拝所が、西には大西坊へと案内する今も現存の大きな常夜燈が見える。護国寺本尊であった重要文化財の薬師如来や十二神将は廃仏毀釈以降、淡路島の東山寺(とうさんじ)に移され、現在も素晴らしい保存状態で大切に祀られている。

② 八幡行宮跡碑 (八幡市八幡土井)
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 飛行神社から南へ約30mの行宮碑、左に折れると後村上天皇行宮跡碑がある。

③ 後村上天皇行宮跡碑 (八幡垣内山) 
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 当時はこの周辺に石清水八幡宮祠官の田中家の広大な屋敷が在り、正平7年(1352)閏2月19日八幡宮別当田中定清の邸宅を行宮とした。

④ 青林院の正平役供養塔 (八幡旦所)
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 念仏寺の東隣、正福寺の向かいの「青林院」裏の墓地にある。表からは入れず、写真左の横道から南へ抜けると墓地に到る。青林院より東に信号を越えて行くと森堂口、薬園寺に続く道となる。
 この青林院は昭和19年(1944)「中ノ山墓地正平塚」を整備した今中伊兵衛氏が得度・隠居した寺です。

⑤ 正平役城ノ内古跡 (八幡城ノ内) 本妙寺
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 青林院から「八幡宮道」に戻り、更に南に進んで大谷川の「買屋橋」を越えて暫く行くと右手の「本妙寺」に到る。当時の実際の現場は城ノ内の南側からスーパー「コノミヤ」辺り一帯であったらしい。

⑥ 正平役園殿口古戦場 (八幡菖蒲池) 八幡市民図書館横
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 八幡市民図書館横の「園殿口古戦場」の三宅碑は本来の場所から移動している。「園殿口」とは江戸中期の「石清水八幡宮全図」等によると、現在の「法園寺」から東の川口方面に向かった大谷川の辺りを指すが、三宅碑は「小谷食堂」(八幡山本)近くの三叉路東南角付近(八幡菖蒲池)に設置されていた。道路工事等で現在の場所に移転したようだが、園殿口から大きくずれている。(図書館ロビーに江戸時代中期の「八幡宮山上山下惣絵図」あり)

⑦正平役馬塚古跡 (八幡東林)
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 志水道(八幡宮道)を登りきった「志水の四辻」にある内藤精肉店を左に入り、「ありあけ児童公園」を左に見てやや下り、二本目の筋を左に入ったところに「三宅碑」がある。八幡合戦では戦場の主力武器は弓矢であり、その死傷原因も殆んどが矢疵であった。四条隆資卿が斃れたのもこの道筋辺りであろうか。

⑧ 正平役血洗池古蹟 (八幡大芝)
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 志水道(八幡宮道)を松花堂庭園近く、「水月庵」の道標を見て右(旧道)に入り、八角堂を少し越した所に「三宅碑」がある。この古蹟からすぐ左の志水道を行くと中ノ山墓地に出る。血洗池とは古くは西車塚周濠溝の跡。「往古死罪人御成敗の時、太刀取刀をすすぎ候池と申伝え、其池茅原生茂りて名に呼びしか、血アライと称して、あやしき附言のさかしらを云伝えたるものならむ」と『男山考古録』(江戸後期の八幡の詳細な地誌)にあり。

⑨ 正平七年神器奉安所「岡の稲荷社」の道標 (八幡月夜田)
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 血洗池石碑から南に進み、中ノ山墓地を見て道路の坂を下りると、月夜田交差差点の東南の角に「岡の稲荷社」の三宅碑が見える。中ノ山墓地へは西に坂を登り返す。正平七年(1352)五月、八幡合戦に敗れた後村上天皇が賀名生に落ちのびる際、岡の稲荷社に神器を隠し置いたとするが全く不明です。

⑩ 中ノ山墓地東入口     ⑪ 正平塚遠景 (八幡中ノ山)
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 月夜田交差点から西に約50m坂を登ると中ノ山墓地東入口に到り、階段を登りきると、左方向に楠木の大木が目に入る。ここが正平塚です。

⑫ 四条隆資卿塔並びに将卒三百人墓
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 戦時中の昭和19年(1944)に慧俊信海(けいしゅんしんかい)(今中伊兵衛)によって、この正平塚は整備された。城ノ内町の畳商を営む今中伊兵衛は史跡松花堂の前所有者西村芳治郎氏の実弟でもある。今中の整備の20年前に西村芳次郎が東西20間、南北15間の敷地を定め、石柱を四方に立て保存に努めた。東口と北側にある「正平塚古墳」の石碑は昭和2年のいわゆる「三宅碑」である。
 昭和の初めころから塚は荒廃し、放置すれば南朝忠臣の四条隆資らを祀る塚が消滅することを危惧した今中伊兵衛は自費数千円を投じて整備した。
(この項のみ、京都府立大学文化遺産叢書第4集・中ノ山墓地の景観と庶民信仰:竹中友里代著から要約)

⑬ 三古碑      
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 正平の役で斃れた3人の公卿の古碑であるが詳しいことは判っていない。

【歴史を重ねた八幡宮道】

 最近、八幡東麓の道を「東高野街道」という人もいるが、近年観光客誘致の目的で、平成の歴史街道運動に乗って行政が名付けたと聞いています。実はその名称は八幡の洞ヶ峠を起点とする大阪側の道の呼び名であって、八幡の住民はこれまで殆ど「八幡宮道」の歴史的呼称を使用するか、町名を冠した例えば「志水道」、「常盤道」あるいは「新道」、「旧道」などと呼んできました。観光客や八幡の歴史に関心のない人が残念ながら「東高野街道」と呼ぶようです。
 特に近世以前、八幡の歴史上に存在したかのような記述があれば、それは歴史の理解不足であり致命的な錯誤となります。ここでは、「石清水八幡宮参詣道」として発展してきた歴史的経緯を踏まえた名称を使用します。

  主な参考文献:男山考古録 (嘉永元年・1848) 長濵尚次
        :八幡史蹟 (昭和11年・1936) 中村直勝
        :京都府立大学文化遺産叢書第4集(平成23年・2011) 
--------- 中ノ山墓地の景観と庶民信仰:竹中友里代
# by y-rekitan | 2017-05-20 08:00 | Comments(0)

◆会報第79号より-06 四條隆資①

シリーズ「四條隆資卿」・・・①
四條隆資卿しじょうたかすけきょう物語  その1
プロローグ「正平の役」

 大田 友紀子(会員) 


 去年の夏の祇園祭に、初めて、八幡の人々に向けてのツアー(やわた観光ガイド協会主催)が実施されましたので、「太平記」の中でも、マイナーな四條隆資卿(しじょうたかすえきょう)についても、ご存じの方もいらっしゃるかな、と思いますが、まだまだこの八幡の地で起こった「八幡合戦」のことも、その戦闘の中で斃(たお)れた一人の公家・四條隆資卿(しじょうたかすえきょう)のことも、知らない方の方が多いのかなぁ、と思っております。

f0300125_2115593.jpg そこで、今回、四條隆資卿のことを、より多くの八幡の方々に知っていただきたい、と思って書かせていただきます。タイトルを「四條隆資卿物語」とさせていただきました。この間、あることから、「物語」とは、「往古(いにしえ)の記憶を語り伝えるもの」だ、と知りました。であるならば、私たちは、正しく伝えて行く努力をしなければならない、と強く思いました。以前から、私は「南北朝期の八幡」についての研究を続けてきました。そして、その中で、最も私が残念に思っていることは、この八幡の地で何百人もの人々が戦い傷つきあった悲惨な戦いがあった、ということを知らない、伝わっていないことなのです。
 平成21年の春、偶然知った「正平塚古跡(しょうへいつかこせき)」の存在が、私の研究の原点です。奇しくも亡き母の墓などがある中ノ山墓地にあり、昭和の初め、それから、昭和19年にその「正平塚古跡」の整備を行った人たちがいた、ということでした。そして、その中ノ山墓地は、江戸時代、志水の壮士などの墓が営まれるようになっていて、正法寺(しょうぼうじ)の末寺である万称寺(まんしょうじ)の裏山にあり、「女郎花墓(おみなえしぼ)」と呼ばれていました。そんな変遷の歴史があったことを、私たちは知らなければいけないのではと強く思いました。中ノ山墓地は、南山城で、いいえ、日本でも古くて大きい共同墓地です。そこには、往古からの歴史が蓄積されているのです。
 
 正平塚で眠っている四條隆資(1292-1352)は、鎌倉―南北朝期の公卿です。公卿とは、三位以上の貴族で、天皇・上皇の元で政治の中枢にいた人たちです。四條家は白河上皇の乳母子であった藤原顕季(ふじわらのあきすえ)にはじまる家系で、そのひ孫にあたる隆季(たかすえ)が大宮四条に邸宅を構えたことから、「四條」を家名とします。藤原氏の北家の流れをくむ家ですから、家名(本姓)は「藤原」ですから、通姓です。そして、貴族の家格では「羽林家(うりんけ)」に属し、家職としては笙(しょう)の家です。「羽林家」は天皇の傍に仕える立場の家で、武官と文官の家があります。武官の家である四條家の男子は近衞府に出仕して、天皇の身辺警護などの任務を負い、行幸などの際には付き従います。そして、娘は女房として御所に出仕し、天皇の身支度やその他すべての世話をするのですから、天皇のお手がつくことがあり、その結果、皇子・皇女を生むこともありました。そして、娘が皇子を生むと、その縁故により政治の中枢を担うことがありました。御所に仕える娘を何人も出してきた四條家なので、隆資にも伏見天皇の御落胤では、という話もあります。このことについては、次回、詳しく書かせていただきます。
 祇園祭の山である蟷螂山(とうろうやま)と、石清水八幡宮本殿の北東の瑞垣(みずがき)にあるカマキリの彫刻と関連は、昔から神職間で語り伝えられていたそうで、そのことからか、明治の初めの火災で燃えた蟷螂山の復興時には、石清水八幡宮本殿の瑞垣のカマキリの彫り物を参考にして、御所車に乗るカマキリ、すなわち蟷螂が復元されます。そのことについて尋ねると、現在の禰宜さんは、そのように聞いている、と答えられます。そして、この話からも、ぼんやりとですが、瑞垣の蟷螂と四條隆資卿との間には、何か深いつながりがあるのでは、思われてくるのですが。
 八幡宮本殿の蟷螂の彫刻と、四條隆資卿のことは、以前、当会の会報・17号に書かせていただきましたので、省略させていただきますが、今日でも不明な点は残っておりますが、そのような口承が伝え続けられてきたという事実は重要です。このことについては、今後の課題として、話を進めていきたいと思います。
 南朝の元号でいえば、正平7年(1352)5月12日夜半、八幡山に籠城を続けていた後村上天皇は、賀名生(あのう)への撤退を決められ、行宮としていた護国寺を去ることを決意されました。そして、石清水八幡宮宝前(今は南総門前の石段の下に隠れてしまった五つ石の所)にて、八幡大菩薩にお暇乞いをされると、八角堂の前を横切り、西谷小門より、山を下りて行かれました。左側に渓流が流れる山道を、先頭の兵が持つ小さなかがり火を頼りに粛々と、隊列は静かに進んで行きました。先頭の軍が志水大道に差し掛かる頃、後村上天皇は興正谷の庵におられ、祈りを捧げてられました。最期の別れの時を迎え、控えていた四條隆資卿は、「何事が起ころうとも決して後ろを見ることのなきよう、ただただ鞭をとり、馳せられるように。」と甲冑姿の25歳の若武者である後村上天皇に約束させて、近侍の法性寺康長(ほっしょうじやすなが)、滋野井實勝(しげのいさねかつ)の手を取って激励し、出発させます。夜の帳(とばり)が垂れこめている間に、志水大道を進み、その四辻を東に駆け抜けさせたかったのですが、志水の町の手前で赤松則祐(あかまつのりすけ)の配下の兵に気づかれ、その軍の大半は洞ヶ峠を目指す第一軍を追いかけたのですが、中には戻ってくる兵もあり、瞬く間に後続の兵との戦闘が始まりました。一刻一刻、戦いの渦が大きくなって行く中、法性寺康長らに護られて、後村上天皇は奈良街道へと向かって馬を走らせたのです。上奈良の村を過ぎ、木津川沿いを突き進んで行き、奈良の唐招提寺に着いた時には、8騎ほどになっていたことや兵の中に紛れて誰が今上帝なのかわからなかった、と唐招提寺の僧がその時の様子を詳しく書いて、京都の洞院公賢(とういんきんたか)の元に送っています。
 その日の申の刻(朝の10時)には西大寺の前を過ぎ、三輪に着いています。八幡の陥落と脱出の困難であった有様がよく伝わってきます。5月13日の朝には、八幡合戦の首級が京に続々と持って来られ、すぐさま六条河原に晒されました。その日、洞院公賢は「随分合戦し遂に取らる、不便(気の毒だ)」と記しています。
 四條隆資卿や滋野井實勝、そして多くの将兵が闘死した場所は、記録にはありません。f0300125_2125260.jpgですが私は、その当時「志水の四辻」と呼ばれていた、現在の内藤精肉店の付近では、と考えています。と言うのも、精肉店の北側に出来た公園の中にあるお社・『荒鈴龍王(あらすずりゅうおう)』の存在が、そんなことを考えさせるのです。それくらい立派な弊額が掛かっているお社です。想像たくましくいえば、その時にその地に埋葬された後、その上には『荒鈴龍王』社が祀られましたが、その後、なんらかの事情で中ノ山墓地に改葬され、それが「正平塚」となったのでは、と想像しています。八幡神領内での戦の後、戦死者たちはきっと手厚く葬られたと私は信じています。
 今年も、もうすぐ7月、京都では町衆の心意気が感じられる祇園祭が始まります。その頃に、今年も蟷螂山町などを訪ねるツァーが予定されています。今年こそ私は、組み立てられたばかりの蟷螂山を舁(か)いでみたい、と思っています。この毎年12日から13日に行われる先祭の山舁(やまかき)初めに参加すると無病息災が約束されると、いわれています。 
(つづく)  

           
(京都産業大学日本文化研究所 上席客員研究員)  


【参考文献】
京都府立大学文化遺産叢書第1集「近世後期八幡神領の病・死・墓」東昇著
京都府立大学文化遺産叢書第4集「中ノ山墓地の景観と庶民信仰」竹中有里代著
角川選書―222「内乱のなかの貴族」林屋辰三郎著



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# by y-rekitan | 2017-05-20 07:00 | Comments(0)

◆会報第79号より-07 三宅碑⑧

《続》 2016年1月度の講演会より

『三宅安兵衛遺志』碑と八幡の歴史創出
その8

―松花堂・東高野街道・天皇聖蹟・綴喜郡―

中村 武生  (京都女子大学非常勤講師)



西村芳次郎による史蹟空間の創出と文化財保護

 三宅清治郎の建碑意図についてはすでに論じましたので、つぎは西村芳次郎のそれを論じます。西村には清治郎とは明らかに異なるいくつかの独特な建碑方針がありました。西村の多数の建碑は、これまでの三宅碑の特徴にどんな性格を加味したのでしょうか。以下「日記」や西村の著作、建立碑銘などによって考察を進めます。

 まず西村芳次郎選択による三宅碑が、どの程度の地理的範囲に建設されたのか、おおよそ特定しておきたいと思います。
「日記」によれば、1926年(大正15)秋から翌年(昭和2)春にかけてまとまった建碑依頼を3度しています。すなわち1926年10月23日に20ヵ所、1927年3月12日に40余ヵ所、同年4月3日に68ヶ所、あわせて約130ヵ所です。いずれも「同地ニ」「同地附近ニ」などと記されているため、八幡町やその付近に建てられたことが分かります。
 前述したように、芳次郎には八幡とその周辺の史蹟名勝についていくつかの著作があります。その大半は三宅碑建立の1921年から1929年のさなかか、その直後に書かれたため、碑の建立地選択と密接な関係があると考えられます。とりわけ「八幡史蹟名勝記(誌)」「南山史蹟名勝誌」『昭和三年八幡史蹟名勝誌』(前述)は注目すべきです。このうちまとまっている『昭和三年八幡史蹟名勝誌』の項目を列挙したのが表1です。これを表2と比較してみよう。すると酷似した項目の大変多いことに気づかれます。実に132に及びます。これまでの考察から、一致するものは芳次郎の建てた三宅碑と判断してよいと思います。

表1 『昭和三年八幡史蹟名勝誌』項目一覧
1.石清水八幡宮
2.神宮寺跡
3.引窓南旧跡
4.常昌院
5.航海安全記念塔
6.神応寺
7.鳩ヶ峯国分寺跡
8.天皇潔水
9.豊蔵坊跡
10.泉坊松花堂跡
11.滝本坊跡
12.萩坊跡
13.大西坊跡
14.護国寺薬師堂跡
15.財恩寺跡
16.高橋陣所跡
17.反橋跡放生川
18.安居橋
19.淀屋辰五郎旧邸
20.単伝庵
21.戊辰役史蹟念仏寺
22.大河内秀元墓正福寺
23.国宝薬師像薬薗寺
24.源頼朝公手植ノ枩
25.山ノ井戸
26.松花堂旧跡泰勝寺
27.城之内古跡
28.日門上人塔本妙寺
29.園殿口戦場跡
30.法園寺
31.小野頼風塚
32.金剛律寺故址
33.善法律寺
34.巡検道
35.寝物語国分橋
36.巣林菴
37.忍澂寺昌玉菴
38.興聖谷不動寺
41.正法寺
39.新善法律寺
40.九品寺42.弘仁時代一里塚
43.正平役馬塚跡
44.八角院
45.元三大師堂
46.西車塚
47.女郎花塚
48.月の岡邸
49.泉之坊書院
50.松花堂茶席
51.車寄門
52.東車塚
53.血洗池跡
54.男塚
55.一宮入道塚
56.岡の稲荷之社
57.所天橋
58.佐羅志戦場跡
59.清水合戦跡
60.御幸谷古跡
61.蛇塚古墳
62.蛭塚古墳
63.宇智王子故址
64.岩田社
65.荒阪古戦場跡
66.荒坂横穴古墳
67.松井横穴古墳
68.古寺跡
69.美濃山古墳
70.美濃山横穴古墳
71.王塚古墳跡
72.小塚古墳跡
73.東二子塚古墳跡
74.西二子塚古墳跡
75.筒井順慶陣所跡
76.洞ヶ峠古墳
81.中ノ山古墳跡
77.円福禅寺
78.水月菴
79.太古山古墳
80.涙川旧跡
82.紅葉寺宝青菴
83.万称寺跡
84.正平塚
85.吾妻与五郎墓
86.大芝古墳跡
87.初陣山古墳
88.石城古墳
89.茶臼山古墳
90.樟葉宮
91.和気清麿公旧跡足立寺
92.豊蔵坊信海墓
93.浄瑠璃姫墓
94.長柄人柱地蔵尊講田寺
95.南岩倉跡
96.如法経塚跡
97.塩竃古跡
98.湯沢山茶久蓮寺跡
99.元橋本寺西遊寺
100.八幡橋道標
101.川口渡舟場
102.下奈良浜渡舟場
103.経塚
104.獅子塚
105.岩田渡舟場
106.八幡宮近道標
107.善法寺旧邸
108.東在所道標
109.小野篁作閻魔十王像
110.樟葉橋本近道標
111.水月菴道標
112.神器保安所岡の森稲荷道標


表2 『木の下蔭』所載「建碑個所」一覧
番号は便宜上筆者が付した。なお原則正字は略字に改め、字句の明瞭な誤りは正した。
1.東山名勝の碑
2.栂尾山高山寺の碑
3.西陣の碑
4.金福寺の碑
5.京都七名水の一中川の水の碑
6.嵯峨一帯の碑
7.左々への碑
8.東照宮の碑
9.南院国師塔所の碑
10.松永貞徳翁造庭雪の庭の碑
11.金地院墓所水道の碑
12.仏日山金福寺芭蕉菴の碑其の一
13.金福寺呉春の墓の碑其の二
14.同景文の墓の碑其の三
15.金福寺蕪村の句碑其の四
16.金福寺近道の碑其の五
17.桂宮院の碑
18.長沢蘆雪の碑
19.太秦西門の碑
20.関白豊臣秀次公の碑
21.円光寺の碑
22.豊臣秀次公墓所の石柵幷に碑其の二
23.殉死侍臣の碑其の三
24.局方の碑其の四
25.大悲閣の碑其の一
26.詩仙堂の碑其の一
27.同其の二
28.航海記念大石塔の碑
29.善法律寺の碑
30.水月庵の碑
31.国分寺址の碑
32.八角院の碑
33.滝本坊址の碑
34.涙川の碑
35.正平の役、高橋陣趾の碑
36.大西坊の路の碑
37.豊蔵坊の碑
38.大河内秀元墓碑
39.本妙寺の碑
40.九品寺の碑
41.西遊寺の碑
42.放生川反橋の碑
43.一の宮入道塚の碑
44.山科昆沙門堂の碑其の一
45.同其の二
46.松花堂の碑
47.正法寺の碑
48.円福寺の碑
49.同其の一
50.同其の二
51.泉坊、松花堂址の碑
52.神宮寺址の碑
53.引窓南邸の碑
54.護国寺薬師堂の碑
55.単伝庵の碑
56.薬園寺の碑
57.正平の役城の内古蹟の碑
58.水月菴の碑其の二
59.湯沢山茶久蓮寺の碑
60.万称寺山の碑
61.岡の稲荷社の碑
62.清三宝荒神護浄院の碑
63.神応寺の碑
64.小野頼風塚の碑
65.紅葉寺の碑
66.淀屋辰五郎居宅趾の碑
67.萩の坊址の碑
68.東車塚の碑
69.洞ヶ峠の碑
70.財恩寺の碑
71.源頼朝手植の松の碑
72.安居橋の碑
73.戊辰役史蹟念仏寺の碑
74.山の井戸の碑
75.忍徴寺昌玉菴の碑
76.薪の酬恩菴一休寺の碑
77.正平役園殿古戦場の碑
78.血洗池の碑
79.美濃山横穴の碑
80.東二子塚古墳址の碑
81.巣林庵の碑
82.正平塚の碑
83.同其の一
84.同其の二
85.男塚古墳の碑
86.佐羅志古戦場の碑
87.蛭塚古墳の碑
88.岩田社の碑
89.松井横穴の碑其の一
90.同其の二
91.万福寺址の碑
92.石城古墳の碑
93.和気清麿公旧蹟の碑
94.如法塚の碑
95.橋本分水道の碑
96.新善法寺旧跡の碑
97.中の山古墳の碑
98.西二子塚古墳址の碑
99.吾妻与五郎の墓の碑
100.御幸谷古蹟の碑
101.常昌院地蔵尊の碑
102.法園寺の碑
103.高野及奈良街道の碑
104.清水合戦址の碑
105.宇智王子邸址の碑
106.荒坂古戦場の碑
107.王塚古寺址の碑
108.筒井順慶陣所址の碑
109.大芝古寺の碑
110.茶臼山古墳の碑
111.浄瑠璃姫墓の碑
112.塩竃古跡の碑
113.京街道里程標の碑
114.正平俊馬塚古墳の
(ママ)
115.佐川田喜六昌俊の墓の碑
116.太古山古墳址の碑
117.豊蔵坊信海墓の碑
118.王塚の碑
119.円福寺分岐道の碑
120.弘仁時代一里塚の碑
121.所天橋の碑
122.蛇塚古墳の碑
123.福王寺の碑
124.荒坂横穴の碑
125.小塚古墳の碑
126.洞ヶ峠古墳の碑
127.初陣山古墳の碑
128.樟葉宮の碑
129.南岩倉の碑
130.橋本、樟葉の道の碑
131.八幡宮道の碑
132.寝物語国分橋の碑
133.佐川田墓道の碑
134.黙々寺旧址の碑
135.奈良街道巡検道の碑
136.善法寺旧蹟の碑
137.川口渡舟場の碑
138.小野篁公作十三像の碑
139.日本最初外国蚕飼育旧蹟の碑
140.近衛基道公墓の碑
141.水番遺蹟の碑
142.天王山城蹟の碑
143.祝園神社の碑
144.旧淀橋の碑
145.淀学校天皇御駐輦の碑
146.兆殿司及五条三位藤原俊成卿墓の碑
147.同其道の碑其の二
148.同同其の三
149.同同其の四
150.天武天皇御遺址の碑
151.岩本城址の碑
152.大応国師妙勝寺址の碑
153.金剛律寺故蹟の碑
154.経塚の碑
155.男山八幡宮近道の碑
156.大阪街道の碑
157.継体天皇皇居旧蹟の碑
158.蘭学の泰斗藤林普山先生の碑
159.仁徳天皇、皇后、磐之姫故蹟の碑
160.石舟神社の碑
161.安養寺の碑其の一
162.唐人雁木の旧蹟の碑
163.千両松の旧蹟の碑
164.ケーブルカー上石清水八幡宮の碑
165.淀街道の碑
166.青谷街道の碑
167.信楽街道の碑
168.双栗寺の碑
169.信西入道塚の碑
170.北嵯峨覚勝院の碑
171.常昌禅院の碑
172.獅子塚の碑
173.志水町の碑
174.南山城不動寺の碑
175.近衛基道公遺蹟の碑
176.水取司遺蹟の碑
177.仁徳天皇城旧蹟の碑
178.朱智神社の碑
179.淀大橋の碑
180.戊辰役古戦場の碑
181.松花堂遺蹟の碑
182.洞ヶ峠山上の碑
183.佐山大松寺の碑
184.佐山浄安寺の碑
185.御栗栖園の碑
186.施基皇子故址の碑
187.茶祖永谷翁の碑
188.宇治茶最初園の碑
189.禅定寺の碑
190.武野紹鷗大黒天の碑
191.祇王寺の碑
192.大覚寺道の碑其の一
193.高雄道の碑
194.日像上人の碑
195.道昌大僧正の碑
196.名古曾の滝址の碑
197.遍照寺の碑
198.神魂丘旧墳の碑
199.西方寺袋中上人墓の碑
200.能化院の碑
201.亀山離宮の碑
202.野々宮の碑
203.蓮華峰寺高雄道の碑
204.蟹満寺の碑
205.筒井浄妙塚の碑
206.医王堂址の碑
207.西行菴の碑
208.光琳翁宅址の碑
209.あだし野(仇野)の碑
210.熊谷山の碑
211.嵯峨離宮址の碑
212.車折神社道の碑
213.北嵯峨曲り角の碑
214.小倉山の碑
215.井手飯岡王古墳の碑
216.桜井令穿七井戸の碑其の一
217.同其の二
218.同其の三
219.同其の四
220.同其の五
221.同其の六
222.同其の七
223.和岐座天乃夫岐売神社の碑
224.猿丸太夫故址の碑
225.綜芸種智院の碑
226.三十三間堂の碑
227.御室、北野道の碑
228.嵯峨天皇仙洞址の碑
229.亀山公園道の碑
230.角の倉の碑
231.直指菴の碑
232.歌仙洞の碑
233.朱大王古墳の碑
234.穴山梅雪翁墓の碑
235.日野薬師の碑
236.普賢寺の碑
237.厭離庵の碑
238.嵯峨天皇、宇多天皇陵の碑
239.用水開鑿豊田翁旧蹟の碑
240.高倉宮以仁王旧蹟の碑
241.虚空蔵尊の碑
242.仏母洞の碑
243.泉橋寺の碑
244.高雄道しるべの碑
245.甕ヶ原離宮址の碑
246.恭仁大極殿址の碑
247.橋本砲台址の碑
248.釈迦堂の碑
249.観空寺道の碑
250.九体寺(浄瑠璃寺)の碑
251.西芳寺の碑其の一
252.西芳寺道しるべの碑其の二
253.宇治駅前の里程標の碑
254.志水月の岡前の碑
255.八角堂の碑
256.石清水社の碑
257.興聖谷不動尊の碑
258.古寺の旧蹟の碑
259.十王像焔魔堂
260.落柿舎の碑
261.神童寺の碑
262.長建寺弁財天の碑
263.瓶の原国分尼寺の碑
264.恭仁橋跡の碑
265.嵯峨駅の碑
266.下立売、妙心寺道の碑
267.加茂笠置分岐点の碑
268.鋳司村学校の碑
269.大覚寺の碑其の二
270.同大沢の池の碑其の三
271.同南北朝御講和の碑其の四
272.同其の五
273.同其の六
274.女郎花塚の碑
275.鳩ヶ峰国分寺の碑
276.元三大師堂の碑
277.宇智王子陵墓の碑
278.木津橋の碑
279.高麗寺旧址の碑
280.一言寺の碑
281.国分尼寺道標の碑
282.海住寺の碑
283.嵯峨弁財天道の碑
284.小倉山近道の碑
285.笠置、和束分岐道の碑
286.笠置山上の碑
287.同弥勒石の碑
288.同薬師石の碑
289.笠置山上文殊石の碑
290.同虚空蔵石の碑
291.六本松の碑
292.天皇潔水の碑
293.西車塚の碑
294.長柄人柱地蔵尊講田寺の碑
295.戸津道標の碑
296.岩田渡舟場の碑
297.開運山寿宝寺の碑
298.よし峰寺其の一
299.同其の二
300.同其の三
301.法泉寺の碑
302.薪能金春の芝の碑
303.称名寺の碑
304.光明寺の碑
305.田原天皇旧蹟の碑
306.西芳寺の碑其の三
307.建武役の碑
308.井手の山の碑
309.筒井陣所東二子塚の碑
310.美の山の碑
311.八幡橋の碑
312.正平塚古墳の碑
313.碁道名人第一世本因坊算砂日海上人の旧蹟の碑
314.法皇寺の碑
315.水無瀬神宮其の一
316.同其の二
317.同其の三
318.同其の四
319.専念寺の碑
320.真言宗寿宝寺の碑其の二
321.山滝寺遺址の碑
322.水薬師の碑
323.宇治田原の碑
324.松井蔵人舘址の碑
325.橋本道の碑
326.戻橋跡放生川の碑
327.相楽の里の碑
328.如法経塚の碑
329.大悲閣の碑其の二
330.妙喜菴の碑其の一
331.妙喜菴の碑其の二
332.安養寺の碑其の二
333.同其の三
334.同其の四
335.同其の五
336.華台寺の碑
337.広沢の池の碑
338.梨間の宿址の碑
339.橘諸兄公古蹟寿福院の碑
340.京都街道の碑
341.長池旧跡の碑
342.赤良浜の渡舟場の碑
343.神宮寺址の碑
其他略之


f0300125_23365044.jpg くわえて同年11月11日には「水無瀬宮の碑外数ヶ所建石の事申込」んでいるため、八幡周辺にとどまらず京都府を越えて大阪府下の建碑にも関わっていると知れます。その他、1930年(昭和5)12月5日には清治郎が芳次郎を訪ね、「綴喜郡田原村字荒木区光島市次郎氏(略)の田原親王址、山栗寺址、の石碑訂正ニ付き書状三通を示し取調べ分を依頼」しています。さらに「日記」に記載はありませんが、前述したように佐藤虎雄の回想や当時の新聞記事により笠置町まで出向いたことがわかります。実際笠置山の麓や中腹に三宅碑は現存しております。
 これに対してこの時期の清治郎自身の建碑範囲は、すでに紹介した乙訓郡向日町や同長岡町、葛野郡北嵯峨地域、洛中西陣にくわえて洛東南禅寺などで、京都市域や洛西北嵯峨、乙訓に限られます。洛南地域の建碑にはほとんど関わっていません。例外は一休寺で、1926年(大正15)8月2日に建碑の申し出をして以来(前述)交流があるようで、「日記」1927年(昭和2)12月28日条にも「○早朝、田辺の一休寺住職来、大応国師其地妙勝寺趾、并ニ佐川田昌俊氏の墓道標等の建石竣工の挨拶、感謝状持来来宅、中村石匠も来宅」とあります。ただし妙勝寺や佐川田昌俊は松花堂昭乗に関係の施設・人物であるので芳次郎の意志も含まれていると判断されます。これは後述します。
 以上のことから、西村芳次郎の建碑範囲は、主に八幡町を中心とした旧綴喜郡、及び相楽郡、大阪府下であったと判断されます。
                             (つづく)

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# by y-rekitan | 2017-05-20 06:00 | Comments(0)

◆会報第79号より-08 連続学習会

「八幡の歴史を学ぶ連続学習会」
2016年度実施報告

野間口 秀國 (八幡の歴史を探究する会 幹事)


 去る3月16日(木)に2016年度の「八幡の歴史を学ぶ連続学習会」も当初計画の全6回を無事に終えることができました。テキストとして活用しました『歴史たんけん八幡』刊行に至る経過や、学習会開催までの経過を簡単に振り返りながら、ご支援いただきました方々への感謝をお伝えいたし、実施報告をさせていただきます。

 手許のノートに、走り書きですが次のような簡単な3項目のメモが残されていました。
2014.4.28(月) 幹事会の打合せ;
1)「出版事業の推進」、
2)着手準備金は余剰金より捻出する、
3)2016年3月の発刊を目途とする。
 この幹事会メモ以降の、「会報」から拾える発刊に関する記事は、「会報」第51号を皮切りに以下の通りでした。

「会報」51号(2014.6.30刊);
是枝昌一代表幹事(当時)の「会報50号発行の節目を迎え」と題する投稿に、「・・・仮称『親子で学ぶ八幡の歴史』と題する冊子の企画・・・」とありますが、これが会報での刊行関連記事のデビューであり、以降の各号では都度の経過報告などの記事が以下のように掲載されています。

「会報」56号 2014.11.26刊;
『歴史たんけん八幡』の発行に向けてと題した事務局からの報告と伊佐錠治編集委員会委員長の挨拶。

「会報」63号 2015.7. 6刊;
経過報告と連続講座のお知らせ。

「会報」64号 2015.8.10刊;
「発行が迫る」と題した事務局の報告。

「会報」65号 2015.8.31刊;
石清水八幡宮禰宜・西中道氏より期待を込めたお言葉。

「会報」66号 2015.9.28刊;
『歴史たんけん八幡』発行のお知らせと読者の感想。

「会報」67号 2015.10.26刊;
複数の関係者よりの出版へ寄せるお言葉。

 刊行後は市内の小中学校や図書館などへの寄贈をはじめ、その活用方法についても内部で話し合い、本をテキストにした学習会を実施することにしました。学習会には、「担当者によって、担当する章をテキストに沿って読み返したり、不足することを補足説明したりすると共に、参加者との意見や情報の交換を交えて八幡の歴史の学びをより深める機会が得られたら」、との思いを込めました。そして、会報72号(2016.3.28刊)にて「八幡の歴史を学ぶ連続学習会」実施のお知らせ記事を掲載するに至ったのです。
 以下が2016年度の当初計画であり、無事に全日程を終えることができました(担当者名は敬称を略します)。

2016年5月19日(木)
7月14日(木)
9月15日(木)
11月17日(木)
2017年1月19日(木)
3月16日(木)
「大昔の八幡」
「町の成り立ちと神人の活躍」
「松花堂昭乗という人がいた」
「淀屋と八幡」
「河川と歩んだ八幡」
「昭和から平成へ」
中田孝子
土井三郎
奥山邦彦
丹波紀美子
野間口秀國
高井輝雄

f0300125_14272879.jpg 学習会に参加いただきました方々の延べ人数は189名を数え、それぞれの回ごとの参加者数の増減はあるものの平均で32名との結果となりました。改善すべきことはございましたが、当初の思いは一定程度果たせたのではないかと考えております。以下に “2017年3月16日(木)「昭和から平成へ」” へ参加いただきました方々より寄せられた感想の一例を挙げてみたいと思います。
1)男山団地の開発経過や歴史が良くわかった。 
2)八幡の税金10回払いについての疑問が初めて解けた。
3)八幡で起きた風水害の話はとても興味深く聞きました。 
 などなどです。

 最後に、この取り組みにつきましては、企画時点より八幡市教育委員会の後援をいただき、また都度の開催におきましては文化財保護課のご協力をいただきましたことを記し、紙面よりありがたく感謝申し上げます。全6回参加いただきました方々はもとより、ご都合で1回のみの参加に留まられた方まで、参加いただきました全ての皆様に改めてお礼を申し上げ、別途ご案内の2017年度の活動にも変わらぬご支援をお願いいたし、2016年度の実施報告とさせていただきます。
# by y-rekitan | 2017-05-20 05:00 | Comments(0)

◆会報第79号より-end

この号の記事は終りです。


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# by y-rekitan | 2017-05-20 01:00 | Comments(0)

◆会報第78号より-top <スクロールだけで全記事が読めます>

f0300125_1673892.jpg
この号の会報からは現在、下記の記事が掲載されています。
このまま下にスクロールして頂くと順次連続してご参照頂けます。

◆シリーズ:“心に引き継ぐ風景” ⑨◆
◆《講演会》謡曲から見た八幡◆
◆シリーズ:“八幡の古墳と鏡” ②◆
◆シリーズ:“五輪塔あれこれ” ⑨◆
◆石清水八幡宮を指し示す「八幡宮道」の道標の数々◆



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# by y-rekitan | 2017-03-22 15:00 | Comments(0)

◆会報第78号より-01 高野道

f0300125_2331529.jpg

心に引き継ぐ風景・・・⑨
橋本から交野山を目指した高野道
f0300125_17032973.jpg
 石清水八幡宮の遷座(貞観元年・859)以前から淀川にかかる山崎橋 (神亀二年・725)を渡り、橋本から南方向にポッコリ膨らんだ交野山を目印に進む高野道があった。
 橋本から楠葉中ノ芝、野田大師堂付近から細い畦道が続き、かすかに古道の雰囲気を残す道を、楠葉朝日町の「やわた・はし本道標」、「七ツ松石碑」、「だるま堂道標」を見て、少し南に行くと八幡金振方面に向かう「八幡道」に合流する。この八幡道をやや西方向から招提元町に入れば、整然とした招堤の屋敷街を通り抜け、招堤南町の「日置天神社」に到る。
 日置天神社由緒に「中世におけるこの付近は、高野街道筋に発達した集落として賑わい、社寺が甍(いらか)を競ったという。しかし、南北朝の動乱に際し、たびたび戦禍に見舞われ、民家・堂塔ともに灰燼(かいじん)に帰したと伝えられる」とあって、古くは高野街道筋として繁栄した集落だったようだ。出屋敷や津田の集落も日置天神社から穂谷川を越えると眼と鼻の先となる。弘法大師空海が高野山への道をとったという古い街道のことを高野街道と云うなら、八幡宮遷座以前から高野山を目指すこのルートこそ弘法大師空海が歩いた道であろう。
(写真と文 谷村 勉) 空白
  
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# by y-rekitan | 2017-03-22 12:00 | Comments(0)

◆会報第78号より-02 謡曲

f0300125_273775.jpg
《会員研究発表》
謡曲から見た八幡

2017年2月  松花堂美術館講習室にて
猪飼 康夫 (会員)


 2月15日(水)、午後1時30分より、松花堂美術館にて表題の会員研究発表がありました。能や謡曲のあらましにはじまり、八幡を舞台にした謡曲の数々、能や謡曲の文化を次の世代に残す取り組みなどが実演を交えて発表されました。 以下に概要を報告します。参加者40名。

1、謡曲とは何か

 謡曲(ようきょく)とは、能楽の脚本のことです。シテ方などが身に着ける装束、能面の種類などが紹介され、登場人物や地謡の台詞、物語などが綴られています。
 続いて、能舞台の様子が語られ、猪飼氏自身が能装束や能面を付ける場面が紹介されました。f0300125_20544728.jpg 能面は通常シテ方が付けますが、面(おもて)をつけない場合もあります。それを直面(ひためん)といいます。直面で台詞を言う場合、面を付けた時と同様に口をパクパク開けないようにすることが求められます。まるで腹話術をするようです。舞台の後ろの演奏者を囃子方(はやしかた)といいます。向かって右から笛、小鼓、大鼓、ばちを持った太鼓と並びますが、この並び方は雛祭りの五人囃子と同じです。
 続いて、謡曲の種類として素謡(すうたい)、連吟(れんぎん)、独吟(どくぎん)の種類があること、謡(うたい)と唄や歌との違いが説明されました。謡は正座して朗詠するものですが、舞は手足を動かしてしぐさや感情を表現するものです。仕舞といいます。舞と踊りは異なります。大きな違いは、舞はほとんど中腰で、腰の位置がいつも一定ですが、踊りは腰の位置が上下します。 
         
2、謡曲のふるさと八幡 

  八幡は謡曲のふるさとと言われるくらい数々の作品があります。「弓八幡」「放生川」「女郎花」がそうです。

弓八幡(ゆみやわた)

 謡曲「弓八幡」の物語は、後宇多天皇から参詣の命を受けた臣下が、石清水八幡宮へやって来ることから始まります。f0300125_21163261.jpg臣下は、多くの参詣者の中に、袋に納めた弓を携えた老人を見つけ、尋ねますと「私は長年この八幡宮に仕えている者ですが、後宇多天皇に弓を捧げようと、貴方が来るのを待っていました」と述べ、さらに「弓は袋に納めて、戦わずして天下を治めるように、これが神の思し召しです。自らは高良の神です」と言って消え失せるのです。その後、どこからともなく音楽が聞こえ、芳香が漂い、高良の神が姿を現し、高良の神は、この世の繁栄を祝い、八幡宮の神徳を讃え、舞を舞うのです。「弓八幡」は、戦わずして世を治めることを説いています。

放生川(ほうじょうがわ)

 謡曲「放生川」は、平安時代から続く石清水八幡宮の行事 放生会(ほうじょうえ)をもとに作られています。
 男山八幡宮の祭りの日に鹿島の神主が参詣すると、魚を桶に入れた老人と出あいます。「神事の日になぜ殺生するのですか」と尋ねると、老人は「今日は生き物を放つ放生会です」と答えます。そして、魚を放生川に放し神事のいわれを語り「私は、石清水八幡宮に仕える武内の神です」と名乗り、山頂に立ち去ります。やがて月が上り、神楽の音と共に武内の神が現れ、平和の御代を讃える舞を舞います。

女郎花(おみなめし)

 謡曲では「女郎花」を「おみなめし」と読ませています。大変人気のある曲で、よく演じられています。肥後の国の僧が都へ上る途中、石清水八幡宮に参詣しようと男山に立ち寄りますと、山麓には女郎花が美しく咲き乱れています。旅僧が土産に一本手折ろうとすると、一人の老人が現れてそれを止めます。二人は古歌を並べ合って問答しますが、旅僧が古歌に詳しく、感心した老人は花を折ることを許します。老人は、八幡宮の社前に案内し、更に男塚・女塚を見せ、これは小野頼風夫婦の墓で、自分が小野頼風であることをほのめかし、消え失せます。旅僧が、土地の人から詳しく頼風夫婦の話を聞き、夜もすがら菩提を弔っていると、頼風夫婦の霊が現れます。頼風の霊は、夫の足が遠のいたことを恨み女が放生川に身を投げたこと、女塚から生えだした女郎花がまるで頼風を避けるように靡きしりぞいたこと、自分もまた身を投げたことを語ります。そして、今はともに地獄に落ち、邪淫の悪鬼に責められ苦しんでいるので、どうか助けてほしいと僧に救いを求めます。女塚は女郎花塚といって、松花堂庭園に立派に保存されていますが、男塚(頼風塚)は、八幡今田の民家に囲まれた狭い空地にひっそりと残されています。生い茂る芦が女塚の方向をむいているので、“片葉のよし”ともいわれ、哀れを誘っています。
 
3、能の生い立ち

 室町時代、足利義満と観阿弥・世阿弥の親子が今熊野神社で出会ったことから、能の演者が時の権力者に寵愛されるようになります。以後、能が大いに発展するのです。それは戦国時代にも引き継がれ、信長、秀吉、家康ら天下人によって能は大いに保護されます。
f0300125_22122720.jpg 一般に武家は公家とことなり文化的アイデンティティを持っておらず、そのことにコンプレックスを持っていたと言われます。能はそのような武家の劣等意識を補ってくれたのです。江戸時代には幕府からの庇護のもと、能楽者は扶持され経済的に自立できました。ところが、明治時代となり、能楽者は独自の運営を余儀なくされ、観世など流派ごとに経営を維持するよう努力するのです。
 そして現代、古典文化財として、ユネスコ世界遺産に登録されるようになりました。
 
4、次世代にむけて

 猪飼さんは、能の文化を次世代につなげるために様々な取り組みを行ってきました。小学校での授業もその一つで、かつて八幡東小学校や東大阪市の子どもたちに能についてじかに指導されてきました。f0300125_21353731.jpg また、企業研修会に呼ばれたり、八幡地域では「謡曲と朗読」と称して夫婦で実演し、謡曲同好会を立ち上げ、毎年発表会を持ったりしています。
 なお、平成5年8月9日に、石清水八幡宮の頓宮にて薪能が催され、かがり火のもと「弓八幡」などが観世流の片山九郎右衛門さん一行によって熱演され、市内外から集まった2000人の観客を魅了したとのことです。
<文責 土井三郎>--

『一口感想』より

八幡の地に因んだお能、謡についての猪飼先生のご講演を拝聴して、八幡が文化的に大切な地と認識しました。古典芸術を次世代に継ぐための猪飼先生のご尽力、ご活躍に感動しました。仕舞の実演、お能のビデオもありがとうございました。(M)
能の歴史や概要を教えていただき、大変参考になりました。機会がありましたら能舞台を鑑賞したく思いました。(A)
能の解説は理解できた。しかし、本題の「謡曲から見た八幡」の説明は物足りなさを感じた。例えば、「放生川」などが生まれた背景、八幡がなぜ「謡曲のふるさと」と呼ばれるのか。その理由が知りたかった。(B)
Bさんの疑問に答えられるかどうかわかりませんが、八幡がなぜ「謡曲のふるさと」になるのか、その理由を考えてみました。一つには、石清水八幡宮の存在があります。謡曲が生まれ、さかんに演じられた中世、人々は現代人以上に信仰心が篤く、石清水八幡宮を崇敬したのでした。そんなことから八幡神の神徳を称える謡曲が生まれたのです。もちろん、八幡宮と朝廷との深い関係が背景にあります。もう一つの理由として、和歌の力が大きかったと思います。鎌倉時代に、「古今和歌集」の序文の解釈本が生まれ、その中から「高砂」や「松虫」などの謡曲が誕生するのです。八幡を舞台にした「女郎花」もその一つです。(土井三郎)

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# by y-rekitan | 2017-03-22 11:00 | Comments(0)