◆八幡の歴史を探究する会

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 本会では、2010年より京都府八幡の歴史についての探究と共有を目指して、講演会や歴探ウォークの開催、会報の発行等の活動を積極的に続けています。


3/22 新しい会報記事が5件、 3/18 新しい集いの案内が1件、3/1 アクセスtop3を更新、 2/19 新掲示板に投稿が1件 追加されています。

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お急ぎの方は 最新の 《会報記事集いの案内》 に直行 できます。
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本会では定期的に会報を発行し現在 78号 を数えていますが、このサイトには
そこから 355件 の記事を掲載しております。

f0300125_034162.jpgf0300125_0353667.jpg"2月度の記事別アクセス数 TOP3"
第14号:中世都市橋本を学ぶ
第75号:石清水八幡宮の別宮の成立
第76号:八幡の古代遺跡と道
2月度の人気タグ top3⇒  橋本地区  古道  八幡宮の神人

“アクセスtop3” コーナーについての 《解説とご案内》をこちらに 入れております。

なお個々の記事には以下の四つのルートから簡便にアクセスして頂けます。f0300125_20584995.jpgf0300125_20591768.jpgf0300125_20594243.jpgf0300125_210420.jpg

3/22 以下の朱書き部の連載や個別記事を追加掲載しました。
(前回更新日は 1/22)

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会報号番をクリックして頂くと、後はスクロールのみでその号の記事を一気にお読みいただけます。
なお朱書きが追加された号を示しております。

ブログ管理会社のシステム変更の影響で、現在以下をクリックすると、各号報のトップではなく記事一覧が出ます。お手数ですが その一覧ではクリックせず、そのまま下にスクロールしてご参照ください。
(各号のトップやエンドから前後の号報に移る場合も同じです)

《お知らせ》 第73号より会報は奇数月の隔月発行となっています。

2017年03月 第78号     2017年01月 第77号
2016年11月 第76号     2016年09月 第75号
2016年07月 第74号     2016年05月 第73号
2016年03月 第72号     2016年02月 第71号

2016年01月 第70号     2015年12月 第69号
2015年11月 第68号     2015年10月 第67号
2015年09月 第66号     2015年08月 第65号
2015年07月 第64号     2015年06月 第63号
2015年05月 第62号     2015年04月 第61号

2015年03月 第60号     2015年02月 第59号
2015年01月 第58号     2014年12月 第57号
2014年11月 第56号     2014年10月 第55号
2014年09月 第54号     2014年08月 第53号
2014年07月 第52号     2014年06月 第51号

2014年05月 第50号     2014年04月 第49号
2014年03月 第48号     2014年02月 第47号
2014年01月 第46号     2013年12月 第45号
2013年11月 第44号     2013年10月 第43号
2013年09月 第42号     2013年08月 第41号

2013年07月 第40号     2013年06月 第39号
2013年05月 第38号     2013年04月 第37号
2013年03月 第36号     2013年02月 第35号
2013年01月 第34号     2012年12月 第33号
2012年11月 第32号     2012年10月 第31号

2012年09月 第30号     2012年08月 第29号
2012年07月 第28号     2012年06月 第27号
2012年05月 第26号     2012年04月 第25号
2012年03月 第24号     2012年02月 第23号
2012年01月 第22号     2011年12月 第21号

2011年11月 第20号     2011年10月 第19号
2011年09月 第18号     2011年08月 第17号
2011年07月 第16号     2011年06月 第15号
2011年05月 第14号     2011年04月 第13号
2011年03月 第12号     2011年02月 第11号

2011年01月 第10号     2010年12月 第09号
2010年11月 第08号     2010年10月 第07号
2010年09月 第06号     2010年08月 第05号
2010年07月 第04号     2010年06月 第03号
2010年05月 第02号     2010年04月 第01号

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連載企画の記事はこちらから直接初回記事に入り、以降は文末でクリックすることで
連続参照して頂けます。 今回の号では朱書きの連載記事が追加 されています。


《連載》 “八幡の古墳と鏡” (第77号~継続中
《連載》 “八幡に見る古代植物” (第74号~第77号)
《連載》 “詩歌に彩られた八幡の歴史” (第73号~継続中)
《連載》 “宮廷と歌合、そして石清水宮寺” (第71号~第72号)
《連載》 “心に引き継ぐ風景” (第70号~継続中
《連載》 “五輪塔あれこれ” (第70号~継続中
《連載》 “『三宅安兵衛遺志』碑と八幡の歴史創出” (第70号~継続中)
《連載》 “八幡の道を「高野街道」となぜ呼ぶのか?” (第67号~71号
《連載》 “松花堂昭乗が詠んだ八幡の町"  (第63号~第68号)
《連載》 “川の旅日記"  (第62号~第64号)
《連載》 “八 幡 八 景”  (第58号~第60号)
《連載》 “『歴史たんけん八幡』の発行"  (第56号~第68号)
《連載》 “御園神社考”  (第55号~第58号)
《連載》 “ひょっこり訪問記 ”  (第53号~継続中)
《連載》 “古代の声を聞く ”  (第53号~第54号)
《連載》 “自転車で巡る名所案内 ”  (第52号~第56号)
《連載》 “ 物語はどのように生まれたか ”  (第51号~第56号)
《連載》 “ 石清水八幡宮の歴史Q&A ”  (第50号~第57号)
《連載》 “ 伊佐家のしきたりとくらし ”  (第48号~第51号)
《連載》 “ 謡曲のふるさと八幡 ”  (第41号~継続中)
《連載》 “ 大谷川散策余話 ”  (第38号~第50号)
《連載》 “ 御文庫とエジソン碑 ”  (第36号~第45号)
《連載》 “ 墓石をたどる ”  (第33号~継続中)
《連載》 “ 八幡の歴史スポット ”  (第30号~第32号)
《連載》 “わが心の風景 ” (第28号~第69号)
《連載》 “八幡太鼓祭り ”  (第28号~第29号)
《連載》 “八幡に残る昔話と伝承 ”  (第26号~第30号)
《連載》 “ 八幡文学碑巡り ”  (第22号~第26号)
《連載》 “八幡神と神仏習合 ”  (第21号~第25号)
《連載》 “ 一枚の写真から ”  (第16号~第19号)
《連載》 “ 八幡の歴史の謎とは何か”  (第15号~第16号)
《連載》 “古歌に詠まれた南城山”  (第11号~第15号)
《連載》 “八幡の祭りについて”  (第5号~第17号)
《連載》 “八幡の歴史を彩る文化”  (第4号~第9号)
・・・
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現在掲載しているスポット記事は以下の通りです。クリックで直接お読み頂けます。

“石清水八幡宮を指し示す「八幡宮道」の道標の数々 " (第78号)
“大阪府下の東高野街道に「やわた道」の道標を訪ねて" (第77号)
“歴探サイト(ホームページ)の現況報告" (第77号)
“第44回八幡市民文化祭展示発表を終えて" (第76号)
“御幸橋南詰「石清水八幡宮鳥居通」道標は何処に?" (第75号)
“『茶揉み歌』を復活"  (第73号)
“「八幡大縁起」に参加して"  (第71号)
“上津屋橋(流れ橋)の復旧に向けて"  (第71号)
“新刊案内「戦国大名の正体"  (第70号)
“本妙寺文書「沢庵の書状」と紫衣事件"  (第69号)
“「古寺巡礼」で出会った仏さま"  (第69号)
“八幡の文化財(国宝指定)"  (第69号)
“国宝指定の答申に思う"  (第69号)
“京の街角の「湯たく山茶くれん寺"  (第69号)
“旅人は何故片手を挙げているのか"  (第67号)
“「八幡の道 探究部会」が発足しました"  (第67号)
“石清水八幡宮が国宝に!"  (第67号)
“第119代光格天皇と大江磐代君とその母"  (第64号)
“クイズ「私は誰でしょう」"  (第62号)
“西国三十三所観音石仏群の墓所"  (第61号)
“陸橋の名前"  (第61号)
“九州の横穴・近畿の横穴"  (第60号)
“二宮忠八掌話"  (第60号)
“会の旗が出来ました!"  (第60号)
“松井横穴群に学ぶ"  (第59号)
“平野山・西山はミステリー"  (第59号)
“ずいき祭り"  (第58号)
“小特集: わがまち 八幡"  (第57号)
“流れ橋存廃の意見表明"  (第56号)
“磯田道史氏の講演に学ぶ"  (第56号)
“代々つづく神原の講 =秋編="  (第55号)
“八幡森の石仏と地蔵盆"  (第54号)
“お気軽歴史講座に行きました"  (第54号)
“地誌には、どんなものがあるか?"  (第53号)
“松花堂庭園とその魅力"  (第52号)
“島崎藤村と八幡"  (第52号)

これより古い号の個別記事インデックスはこちらに

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◆八幡のおすすめキーワードで関連記事を◆
この画面の右上の “タグ” 欄のおすすめキーワードをクリックして頂くと、ブログ内の
関連記事をまとめてご参照頂けます。
最初に記事一覧が出ますが、そこではクリックせずスクロールでお読みください。
なおタグ記事閲覧後に元に戻る場合は、一旦上端までスクロールし画面左上隅の
“Y-rekitan八幡”の文字をクリックしてください。

任意のキーワードで記事を検索
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# by y-rekitan | 2018-12-31 20:00 | Comments(0)

◆コーナー・講演会の記録

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「八幡の歴史を探究する会」では、定期的に講演会や歴探ウォーキングの集いを実施していますが、このコーナーでは、その講演会のレポートを紹介しております。

 3/22 朱書きの記事を追加掲載しました。 現在の記事数は 56件です。 

下記の任意の記事をクリックして頂くと、それ以降は記事下端で“次のレポート”をクリックして頂くことで連続参照して頂けます。 

  《講演会録》 78号 2017年02月 謡曲から見た八幡
  《講演会録》 76号 2016年10月 八幡の古代遺跡と道
  《講演会録》 75号 2016年08月 石清水八幡宮の成立と機能
  《講演会録》 73号 2016年05月 石清水八幡宮の由緒と建築様式
  《講演会録》 71号 2016年02月 中世都市 八幡
  《講演会録》 70号 2016年01月 『三宅安兵衛遺志』碑と八幡の歴史創出

  《講演会録》 68号 2015年11月 継体大王の謎を追う
  《講演会録》 67号 2015年10月 弥生時代の八幡市とその周辺
  《講演会録》 66号 2015年09月 江戸時代の村の暮らし
  《講演会録》 63号 2015年06月 酒麹作りがビジネスの八幡神人がなぜ奉納詩歌に
  《講演会録》 62号 2015年05月 知っているようで知らない松花堂昭乗のこと
  《講演会録》 61号 2015年04月 幕末政治と攘夷―長州・京都・八幡
  《講演会録》 59号 2015年02月 二宮忠八と八幡
  《講演会録》 58号 2015年01月 史跡 松花堂庭園の成立
  《講演会録》 57号 2014年12月 中村家住宅の国登録有形文化財指定
  《講演会録》 56号 2014年11月 中世大山崎の商業活動について

  《講演会録》 55号 2014年10月 「安居頭諸事覚」を読む
  《講演会録》 54号 2014年09月 地誌に見る八幡
  《講演会録》 54号 2014年08月 神国論の系譜
  《講演会録》 51号 2014年06月 八幡を掘る
  《講演会録》 50号 2014年05月 門前町の八幡「今」「昔」
  《講演会録》 49号 2014年04月 石清水八幡宮の年中行事と庶民信仰
  《講演会録》 47号 2014年02月 松花堂昭乗の茶の湯
  《講演会録》 46号 2014年01月 歌人吉井勇の歌行脚
  《講演会録》 44号 2013年11月 八幡の歴史と土器
  《講演会録》 43号 2013年10月 八幡における浄土信仰

  《講演会録》 42号 2013年09月 江戸時代の村の暮らし
  《講演会録》 41号 2013年08月 武家政権と石清水八幡宮
  《講演会録》 39号 2013年06月 八幡社士総代「江戸尾張年頭御礼日記」
  《講演会録》 38号 2013年05月 天下人の時代と八幡
  《講演会録》 37号 2013年04月 南山城の地域史を学んで
  《講演会録》 35号 2013年02月 松花堂昭乗の江戸下向
  《講演会録》 34号 2013年01月 八幡・山崎の警備体制と鳥羽伏見
  《講演会録》 32号 2012年11月 松花堂昭乗と近世前期の文芸
  《例会報告》 30号 2012年09月 「八幡歴史カルタ」読み札の決定
  《講演会録》 29号 2012年08月 石清水際と神人の経済活動

  《講演会録》 28号 2012年07月 良いまちには良い川がある
  《講演会録》 27号 2012年06月 八幡の町の成り立ち
  《講演会録》 26号 2012年05月 庶民信仰と八幡大菩薩
  《講演会録》 25号 2012年04月 男山文化園の中心・八幡
  《講演会録》 23号 2012年02月 古代の八幡を探る
  《講演会録》 21号 2011年12月 高度経済成長期の八幡を語る
  《講演会録》 20号 2011年11月 八幡八景の成立とその背景
  《例会報告》 19号 2011年10月 八幡の歴史を次代に遺そう!
  《講演会録》 18号 2011年09月 墓地で探る八幡の歴史(1)
  《講演会録》 18号 2011年09月 墓地で探る八幡の歴史(2)

  《講演会録》 16号 2011年07月 地名で学ぶ八幡の歴史
  《講演会録》 14号 2011年05月 中世都市橋本を学ぶ
  《講演会録》 13号 2011年04月 八幡の古墳とその特徴を学ぶ!
  《講演会録》 12号 2011年03月 神仏習合の実像に迫る
  《講演会録》 11号 2011年02月 近代の門前町と参詣路を語り合う
  《講演会録》 10号 2011年01月 南北朝の争乱と八幡
  《講演会録》 08号 2010年11月 淀屋の歴史をたどる!
  《講演会録》 06号 2010年09月 石清水八幡宮の絵図を読み解く!
  《講演会録》 04号 2010年07月 松花堂昭乗の出自を追う!
  《講演会録》 02号 2010年05月 古代の遺跡から八幡の歴史を学ぶ

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# by y-rekitan | 2018-12-31 18:00 | Comments(0)

◆コーナー・歴探ウォークの記録

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「八幡の歴史を探究する会」では、定期的に講演会や歴探ウォーキングの集いを実施していますが、このコーナーでは、その歴探ウォークのレポートを紹介しております。

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 1/22 朱書き記事を追加掲載しました。 現在の記事数は 18件です。 

下記の任意の記事をクリックして頂くと、それ以降は記事下端で“次のレポート”をクリックして頂くことで連続参照して頂けます。

  《歴探散策》 77号 2016年12月 八幡の古寺巡礼 第4回
  《歴探散策》 74号 2016年06月 丹後を訪ねてのバスツアー報告
  《歴探散策》 72号 2016年03月 石清水八幡宮 山上伽藍の探訪
  《歴探散策》 69号 2015年12月 八幡の古寺巡礼 第3回
  《歴探散策》 64号 2015年07月 長岡宮を訪ねてのバスツアー報告
  《歴探散策》 60号 2015年03月 橋本の歴史(2)「平野山・西山を歩く」
  《歴探散策》 57号 2014年12月 八幡の古寺巡礼 第2回
  《歴探散策》 52号 2014年07月 対岸の町「山崎・大山崎」を訪ねる

  《歴探散策》 48号 2014年03月 橋本の歴史(1)「京街道を行く」
  《歴探散策》 45号 2013年12月 八幡の古寺巡礼(第1回)
  《歴探散策》 40号 2013年07月 二つの資料館をめぐる
  《歴探散策》 36号 2013年03月 春爛漫の歴史探訪ウォーク
  《歴探散策》 33号 2012年12月 男山参詣路を歩く
  《歴探散策》 31号 2012年10月 八幡の古建築の探訪
  《歴探散策》 25号 2012年04月 歴史探訪「男山参詣路を歩く」
  《歴探散策》 15号 2011年06月 東高野街道を歩く
  《歴探散策》 07号 2010年10月 上津屋の名所をめぐる
  《歴探散策》 03号 2010年06月 八幡の名所・旧跡を歩く

なお歴探ウォークの自転車版、サイクリングツアーについても概要を連載記事として掲載していますので、併せてご参照ください。
《連載記事》 “自転車で巡る名所案内 ”

# by y-rekitan | 2018-12-31 16:00 | Comments(1)

◆コーナー・新しい集いのご案内

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本会では八幡の歴史の探究と共有を目指して、講演会や歴探ウォーク等の集いを定期的に催しておりますが、このコーナーではそのスケジュール等を掲載しております。
併せて本会のトピックスや出版物等についても掲載しておりますのでご参照ください。

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ただ今、以下の集いやイベントを案内中です。詳しくはリンクのパンフレットをご参照のうえ、ご参加ください。 3/18更新


f0300125_1833548.jpg(2017年度)八幡の歴史を学ぶ連続学習会

   ・概要  2017年度 八幡の歴史を学ぶ連続学習会(隔月開催)
   ・日時  2017年 5月18日(木) 「八幡神と男山遷座」
        2017年 7月20日(木) 「元寇から南北朝の争乱まで」
        2017年 9月21日(木)  「天下人と八幡」
        2017年11月16日(木) 「鳥羽伏見の戦いと八幡・橋本」
        2018年 1月18日(木)  「近代化の八幡と戦時下の八幡」 
        2018年 3月16日(木)   未定(検討中)    
       ※何れも午前10時~11時半
   ・場所  ふるさと学習館2階研修室



f0300125_1833548.jpg◆年次総会及び講演と交流の集い

   ・概要 (八幡の歴史を探究する会) 年次総会
        (講演と交流の集い)   「淀川・三川合流の歴史とその周辺」  
   ・日時  2017年 4月23日(日) 年次総会:午後1時30分~2時10分
                   講演と交流の集い:午後2時30分~4時30分
   ・場所  さくらであい館(イベントホール)



f0300125_1833548.jpg◆八幡の歴史を学ぶ連続学習会>

《終了しました》
   ・概要  八幡の歴史を学ぶ連続学習会(隔月開催)
   ・日時  2016年 5月19日(木) 「大むかしの八幡」(29名参加)
        2016年 7月14日(木) 「町の成り立ちと神人の活躍」
                             (37名参加)
        2016年 9月15日(木)  「松花堂昭乗という人がいた」
                             (32名参加)
        2016年11月17日(木) 「淀屋と八幡」(34名参加)
        2017年 1月19日(木)  「河川と歩んだ八幡」(30名参加)
        2017年 3月16日(木) 「昭和から平成へ」(28名参加)     
        ※午前10時~11時半
   ・場所  ふるさと学習館2階研修室



f0300125_1833548.jpg◆会員研究発表

《終了しました》 参加者は40名でした。
   ・概要  謡曲から見た八幡
   ・日時  2017年 2月15日(水) 午後1時30分~
   ・場所  松花堂美術館 講習室


f0300125_1833548.jpg◆歴史探訪ウォーク

《終了しました》 参加者は46名でした。 
   ・概要  八幡の古寺巡礼
        ー第4回:男山山麓の寺を巡る(Partー3)ー
   ・日時  2016年 12月8日(木) 午後1時~4時頃
   ・場所  京阪八幡市駅→法園寺→正福寺→単伝寺


f0300125_1833548.jpg◆「八幡の道探究部会」の展示発表

《終了しました》 2日間とも多くの来場者がありました。
   ・概要  「八幡の古道」展示発表(八幡市民文化祭)
   ・日時  2016年 10月29日(土) 午前10時~午後5時
        2016年 10月30日(日) 午前10時~午後4時
   ・場所  第44回八幡市民文化祭
         八幡市文化センター 3階エレベーターホール


f0300125_1833548.jpg◆講演と交流の集い(10月)

《終了しました》 参加者は33名でした。
   ・概要  八幡の古代遺跡と道
   ・日時  2016年 10月16日(日) 
   ・場所  八幡市文化センター第3会議室



f0300125_1833548.jpg◆講演と交流の集い(8月)

《終了しました》 参加者は42名でした。
   ・概要  石清水八幡宮の別宮の成立と機能
   ・日時  2016年8月27日(木) 午後2時~4時半
   ・場所  八幡市文化センター 第3会議室



f0300125_1833548.jpg◆歴史探訪バスツアー(6月)

《終了しました》 参加者は38名でした。 
  ・概要  丹後を訪ねて
  ・日時  2016年6月9日(木) 午前8時~午後6時頃
  ・場所  《訪問先》 丹後郷土資料館 ⇒ 籠神社 ⇒ ちりめん街道
       ―バスツアーの詳細はパンフレット参照―


f0300125_1833548.jpg◆年次総会及び講演と交流の集い(4月)

《終了しました》 参加者は38名でした。 
   ・概要 (八幡の歴史を探究する会)年次総会
       (講演と交流の集い)  「石清水八幡宮の由緒と建築様式」  
   ・日時 2016年4月21日(木)  年次総会:午後1時~1時40分 
                   講演と交流の集い:午後2時~4時
   ・場所 石清水八幡宮研修センター(男山山上)


f0300125_1833548.jpg◆講演と現地探訪の集い(3月)

《終了しました》 参加者は52名でした。 
    ・概要  石清水八幡宮 山上伽藍の探訪
    ・日時  2016年3月13日(日) 午後1時~4時頃
    ・場所  石清水八幡宮研修センター(講演)及び男山山上探訪


f0300125_1833548.jpg◆男山考古録を読むパートⅢ(第12回)

《終了しました》 参加者は23名でした。 
    ・概要  男山考古録」を読む パートⅢ第4回(通算:第12回)
    ・日時  2016年2月17日(水) 午前10時~11時30分
    ・場所  八幡市立生涯学習センター 会議室

f0300125_1833548.jpg◆講演と交流の集い(2月)

《終了しました》 参加者は58名でした。 
    ・概要  中世都市 八幡
    ・日時  2016年2月14日(日) 午後1時30分~4時
    ・場所  松花堂美術館 講習室


f0300125_1833548.jpg◆講演と交流の集い(1月)

《終了しました》 参加者は78名でした。 
    ・概要  「三宅安兵衛遺志」碑と八幡の歴史創出
    ・日時  2016年1月17日(日) 午後1時30分~4時
    ・場所  八幡市文化センター第3会議室


f0300125_1833548.jpg◆男山考古録を読むパートⅢ(第11回)

《終了しました》 参加者は30名でした。 
    ・概要  男山考古録」を読む パートⅢ第3回(通算:第11回)
    ・日時  2016年1月13日(水) 午前10時~11時30分
    ・場所  八幡市立生涯学習センター 会議室



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◆2016年10月29日~30日 第44回八幡市民文化祭に出展
 今年の文化際には、昨年10月発足した専門部会『八幡の道探究部会』の1年間の活動成果を展示発表しました。展示のテーマは「八幡の古道」で、①古地図(6枚)、②古道の作製地図(2枚ー写真6点)、③江戸時代の道標地図(2枚ー写真27点)などを展示しました。
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 展示会場の八幡市民文化センター3階ロビーには、2日間で約200人の大勢の方が訪れられ、展示物を見ていただきました。また、部会員の説明を熱心に聞いておられました。今回の展示発表は当初予想より皆様の古道や古い道標への関心は高くて、準備していた古道や道標地図及び道標リストは多くの方が求められてたので途中で増刷しました。中には関心のある道標を今から見に行くと仰る方も居られました。
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◆2016年6月12日 『八幡の歴史カルタ』の関連史跡めぐり
 「安居塚ブロック福祉委員会(ふれあいサロン)」の皆様が本会制作の『八幡の歴史カルタ』に詠まれている史跡巡りをされている様子が、八幡市社会福祉協議会の広報誌「やわたし社協だより」第108号(2016年6月1日発行)に紹介されました。
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 催しを主催された福祉委員会の安居塚ブロック長 中崎幸子様から「八幡の歴史カルタ等に紹介されている名所巡りを今年3月と5月実施しましましたが、皆様に好評なので11月にも計画しています」と伺いました。

◆2016年6月12日 カルタ資料館に『八幡の歴史カルタ』を寄贈
 この度、福岡県大牟田市立三池カルタ・歴史資料館から、当会制作の「八幡の歴史かるたカルタ」の寄贈依頼があり1セットを寄贈しました。f0300125_1521852.jpg この資料館は日本及び世界のカルタ(歌カルタ・いろはカルタ・トランプ・タロットなど)を専門に収集・展示・研究をする日本で唯一の資料館です。
 資料館の館長から「礼状」と資料館のパンフレットが届きましたので、ご紹介します。
(注記)
 日本のカルタは、ポルトガルからの影響を受け、16世紀末頃、筑後の三池地方で作り始められたと言われている。その関係で大牟田市が1991(平成3)年に日本で唯一のカルタ専門館を開館した。
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2015年10月31日~11月1日第43回八幡市民文化祭に出展
 今年も八幡市文化センターでの市民文化祭に出展しました。「八幡の歴史クイズ」の実施と「歴史カルタ」及び「歴史たんけんマップ」を掲示しました。約100名の方が歴史クイズに挑戦されました。
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◆2015年9月27日 「歴史たんけん八幡」出版記念の集い
 松花堂庭園・美術館別館において実施された、第Ⅰ部記念講演、第Ⅱ部「出版記念」交流の集いは、堀口八幡市長をはじめ多くの方が参加されて盛況でした。
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 ◆2015年5月9日 八幡市生涯学習センター「わくわくドキドキ縁日」に出展。
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 ◆2015年04月18日 発足5周年記念で会の旗製作の記事が京都新聞に。
 ◆2015年02月13日 2月例会「二宮忠八と飛行神社」が京都新聞に掲載。 
 ◆2014年12月23日 「やましろのタカラフェステバル」(文化パルク城陽)に出展。
 ◆2014年11月1~2日 第42回八幡市民文化祭に出展
 ◆2014年08月15日 会報50号達成記念(バックナンバー増刷)が京都新聞に掲載。
 ◆2014年06月09日 KBS京都ラジオで本会活動紹介の放送がありました。
 ◆2014年06月01日 八幡山柴公民館フェスティバルで、歴探クイズの展示。
 ◆2014年05月28日 「歴史探訪サイクリング」が京都新聞で紹介されました。


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◆歴史と文化の本、『歴史たんけん八幡』は好評のうちに完売。

2015.9.1 大人も子供もこの一冊で、八幡の歴史と文化がよくわかる本、『歴史たんけん八幡』が発刊されました。
 発行日の9月1日にはこの本を八幡市に贈る贈呈式が行われ、その後ミュージアムショップやイベント会場で販売を行ってまいりましたが、好評のうちに販売を完了しました。
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『歴史たんけん八幡』、発刊よもやま話

f0300125_0485928.png 本会ではこの本の一年半にわたる企画から編集、発刊に至る経緯や本の概要を、シリーズ記事として会報で紹介してまいりました。
以下にその記事をリストアップしていますのでご参照ください。
(写真は制作委員会の風景です)


発刊に向けて ▼『歴史たんけん八幡』の発行にむけて
 ▼本の紹介として「特別連続講座」を開設
 ▼本の紹介としての「特別連続講座②」を開催
 ▼いよいよ『歴史たんけん八幡』の発行が迫る

発刊に寄せて ▼刊行に寄せて・・・『歴史たんけん八幡』と私
 ▼『歴史たんけん八幡』が発行されました
 ▼八幡の歴史にこの本の刊行が刻み込まれた
 ▼出版記念の集いが開かれました!
 ▼『歴史たんけん八幡』の普及と活用 / 読書感想

                    


◆本会制作の 『八幡の歴史カルタ』 を販売中です。
2013年2月に発売した《初版》は好評のうちに完売しました。現在は装いを新たにした改訂版を販売中です。

発行:2013年5月25日
販売価格:1,000円
制作:八幡の歴史を探究する会
絵札:森川 修
ケース:石瀬謙三
句:歴探会員応募作より
句の解説:歴探会員有志 (読み札の裏はその句の歴史的な解説になっています)
       
販売所:松花堂ミュージアムショップ、
・歴探事務局 takata@cd6.so-net.ne.jp
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◆本会の会報のバックナンバーを販売しています。

f0300125_15224688.jpg  ご要望が多いこともあり、会報50号を発行した記念にバックナンバーを増刷し販売しております。
  • 各号とも1部100円です。
  • 体裁は白黒A4版で、各号ともおおむね10~20ページの構成となっております。(但し古い号では10ページ未満のものもあります)
  • ご希望の方は講演会等の例会の際にお買い求め下さい。
  • また非会員の方を含め郵送をご希望の方は、下記「歴探事務局」まで希望会報の号番号、送付先等の必要事項をメールでご連絡ください。会報を10号分(部)以上まとめて購入される方の郵送料は、当会で負担させて頂きます。

    なおお支払方法は下記口座あての郵便振り込みとさせていただきます。
       申し込み: 歴探事務局 takata@cd6.so-net.ne.jp
       支払振込: 郵便振込口座番号:00970-2-322353
              (加入者名:八幡の歴史を探究する会)
       

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# by y-rekitan | 2018-12-31 15:00 | Comments(0)

◆統合版・・・集いのパンフレット

新しい集いのご案内 パンフレット集


◆(2017年度)八幡の歴史を学ぶ連続学習会

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◆年次総会及び講演と交流の集い

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《終了》◆会員研究発表

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《終了》◆歴史探訪ウォーク

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《終了》◆「八幡の道探究部会」展示発表

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《終了》◆講演と交流の集い(10月)

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《終了》◆講演と交流の集い(8月)

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《終了》◆歴史探訪バスツアー(6月)

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◆八幡の歴史を学ぶ連続学習会

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《終了》◆年次総会及び講演と交流の集い(4月)

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《終了》◆講演と現地探訪の集い(3月)

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《終了》◆男山考古録を読む会パートⅢ第4回

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《終了》◆講演と交流の集い(2月)

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《終了》◆講演と交流の集い(1月)

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《終了》 ◆男山考古録を読む会パートⅢ第3回(通算第11回)

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# by y-rekitan | 2018-12-31 14:00 | Comments(0)

八幡歴探 リンク集

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このコーナーは八幡の歴史にかかわる情報が網羅的に閲覧できるサイトや、本会に縁の深いサイトのリンク集です。


f0300125_12175720.jpg八幡市観光協会
“みどころ”コーナーの各スポットの写真と解説は圧巻です。

f0300125_21374037.jpg八幡市公式サイト/観光情報のコーナー
八幡の名勝の情報が満載。また、祭り等の動画も見られます。

f0300125_2543626.jpg枚方市公式サイト/歴史のコーナー
枚方の文化財や歴史に関する催しの情報が満載です。

f0300125_2244728.jpg城陽市公式サイト/文化財のコーナー
市内にある国、府、市の史跡、文化財が網羅されています。

f0300125_246395.jpg久御山町公式サイト/文化財のコーナー
久御山町の文化財が写真、解説付きで閲覧できます。

f0300125_23464785.jpg宇治市公式サイト/文化財のコーナー
世界遺産を含め市内にある国、府、市の史跡、文化財の一覧です。

f0300125_21385651.jpgサイト「八幡散策」の “八幡ぶらりゆく”
神社仏閣、伝説、道標等、広範囲に網羅されています。

f0300125_23474058.jpg松花堂庭園・美術館
松花堂昭乗のデータベース、催し物案内等が掲載されています。

f0300125_063725.jpg石清水八幡宮
860年に都の裏鬼門を守護する鎮護の神として創建されました。

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# by y-rekitan | 2018-12-31 12:00 | Comments(0)

◆コーナー・本会の概要と入会のご案内

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このコーナーでは「八幡の歴史を探究する会」の概要紹介や、入会のご案内を掲載しております。
2015.09.10 本会の沿革コーナーに追記    2015.04.21 本会の会則を更新
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 「八幡の歴史を探究する会」は2010年4月に 発足しました。
 八幡は、弥生時代の遺跡をはじめ、さまざまな古墳や、石清水八幡宮、善法律寺、正法寺、松花堂などすぐれた文化遺産に恵まれています。ところがその歴史的意義や文化的価値が必ずしも明らかにはされておらず、そこに暮らす私たち自身もその存在にすら気づいていないという現実があります。 

 そうした中で私たちは「八幡の歴史を探究する会」を設立し、①講演会、②現地見学会、③会員の研究発表、を事業の3本柱として各種イベントを開催するとともに、その活動内容を市民内外に広く知ってもらうために、「会報」を発行しております。
 私たちは関係団体や機関とも連携しながら、歴史探究の活動を通して市民の誰もが郷土の歴史と文化に誇りをもち、未来の町を築いていくことに貢献できればと願っております。
 「八幡の歴史を探究する会」 代表幹事 安立 俊夫空白

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 本会の概要や会則にご賛同いただき、ともに活動して頂ける会員を募っております。
  • 八幡市以外にお住まいの方も会員になれます。
  • 会員には、「会報」及び例会案内チラシ等を郵送いたします。
  • 会費:年会費は(4月~3月締めで)1,500円  
      10月以降入会は、1,000円、
  • お申し込みは下記の事務局までメールで、また会費の振込は下記の郵便振込みをご利用ください。
       申し込み: 歴探事務局 takata@cd6.so-net.ne.jp
       支払振込: 郵便振込口座番号:00970-2-322353 
             (加入者名:八幡の歴史を探究する会)
     

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 以下の会則(2改)は、2015年4月19日の総会にて承認された。

第1条 名称
本会は「八幡の歴史を探究する会」と称する。

第2条 目的
八幡の歴史を探究し、事業を通じて会員相互の交流を深めるとともに、地域文化の進展と次世代への継承に貢献する。

第3条 事業
1、講演会の開催
2、現地見学会の開催
3、会員の研究発表
4、会報を発行し,会員の情報交換・投稿の場とする。
5、その他第2条の目的を達成するための事業

第4条 会員
前条の趣旨に賛同する人々をもって構成する。

第5条 幹事及び幹事会
1、会員中より選任された幹事により幹事会を構成する。
2、幹事の任期は設けない。

第6条 代表幹事
幹事の中から互選により代表幹事、副代表幹事を選任する。

第7条 事務局長
1、幹事の中から互選により事務局長を選任する。
2、事務局長は幹事会を主宰する。

第8条 会議
この会の活発かつ円滑な運営を図るために、次の会議を開催する。
1、総会
   年1回開催し、会務・会計を報告するとともに必要
   事項を審議する。
2、幹事会
   必要に応じ開催し重要事項を審議する。

第9条 会費及び会計年度
1、会の運営のための年会費を徴収する。額については
  幹事会で決定する。   
2、会計年度は毎年4月1日より翌年3月31日までと
  する。 
3、会計監査は会員の中より選出し、総会にて会計監査
  報告を行う。

第10条 その他
本会則に定める以外の必要事項は幹事会で協議し、本会の必要な場合は細則を別に定める。

第11条 付則
この会則は2011年度(平成23年度)総会開催後から施行する。
   1改)2012年度(平成24年度)総会にて一部改訂。
   2改)2015年度(平成27年度)総会にて一部改訂。

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本会の沿革に代えて、ここに代表の折々の年次総括やイベント報告の記事を紹介させて頂きます。
        2015年09月 『歴史たんけん八幡』を発刊しました!
        2015年04月 2015年度の総会が開かれました
        2015年04月 発足からの5年を振り返る
        2015年03月 発足5年周年を記念し、会の旗が出来ました
        2014年06月 会報50号 発行の節目を迎え
        2014年01月 新年を迎え、5年目の節目を大切に
        2012年04月 発足以来 3年目の節目を迎えて
        2010年04月 なごやかに、探究する会が発足


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このサイトへの来訪者は先月(2月)末で32,041人となりました。

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2017.01.10…お蔭様でこのサイトへの来訪者がのべ3万人を超えました。
2016.02.26…お蔭様でこのサイトへの来訪者がのべ2万人を超えました。
2015.06.10…お蔭様でこのサイトへの来訪者がのべ1万人を超えました。
2014.12.05…併設の歴探掲示板をリニューアルし、画像やリンクの投稿が容易になりました。
2014.11.05…開設一周年を迎え関連サイトリンクのコーナー新設、歴探掲示板へのリンク等の機能アップを実施しました。
2014.07.07…本会概要紹介やイベント案内等、本会の活動を総合的に紹介するサイトとしてリニューアルしました。
2013.11.01…本会の会報記事を紹介するブログとして発足しました。

《備考》 来訪者数は、携帯やスマートフォンを除きパソコンからの来訪のみをカウントしたものです。また同じ人が一日に何回訪れてもその日は1 回としてカウントする方式としています。

《改定》 2016.11.15よりアクセスカウントにモバイル端末からのアクセスも加えることになりました。これにより今後はカウント値が3割ほど大きくなる見込みです。

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f0300125_1548513.jpg この歴探サイトではH26年10月から「先月の記事別アクセスtop3」と称するコーナーを設け、会員の方だけでなく全国からの検索来訪を含めて1か月間のアクセスが多かった記事を紹介させて頂いております。

 おかげさまでこのサイトの掲載記事数は順調に増え続けておりますが、せっかくの熱のこもった会報記事も数が多くなり時間を経ると、昔の記事を改めて読み返す機会は少なくなるものと思われます。そこで月替わりのアクセスランキングに名を借りたこのコーナーを設け、クリックして頂くことで毎回3件のなつかしい力作記事を改めて味わっていただく機会になれば・・・ そんな思いでこのコーナーを設けておりますので、ぜひご利用ください。

《追記》 H29年1月より、アクセスtop3欄の下に“人気タグtop3”のコーナーを付設しました。毎月のアクセスが多かったタグ(キーワード)のtop3です。合わせてご利用ください。

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# by y-rekitan | 2018-12-31 10:00 | Comments(0)

◆スポット記事インデックス《続》

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60号以前の会報のスポット記事は以下の通りです。クリックで直接お読み頂けます。

“神領墓地は何を語るか”  (第49号)
“水月庵 藪を抜ければ円福寺”  (第49号)
“変わりゆく橋本”  (第48号)
“芭蕉と遊女との巡合い”  (第48号)
“遊女 江口の君”  (第47号)
“八幡の浄土宗寺院にみる地蔵菩薩 ”  (第45号)
“ 三昧聖と八幡の墓地  ”  (第45号)
“ 五榜の掲示  ”  (第44号)
“個人所有重文民家の課題について ”  (第43号)
“重文「伊佐家住宅」について ”  (第43号)
“ 昭乗の下馬碑を探る ”  (第42号)
“ 京大博物館にある八幡の遺跡・遺物 ”  (第40号)
“ヌートリア考、そして「郷土囗史物語」”  (第37号)
“ 狛 犬 考 ”  (第37号)
“ 探訪会のしおりを作成して ”  (第36号)
“歴史探訪ウォーク参加記”  (第36号)
“代々続く神原の「講」”  (第36号)
“「八幡の歴史カルタ」に驚く”  (第36号)
“女坂・荒坂横穴古墳群から学んだこと”  (第35号)
“魅力的な八幡東部の集落と神社”  (第34号)
“ 二宮忠八翁と飛行神社 ”  (第31号)
“ 石清水臨時祭と平清盛 ”  (第31号)
“「八幡椿は」何処に”  (第24号)
“陣屋と鳥羽伏見の戦い”  (第22号)
“八幡八景解説奮戦記”  (第20号)
“色恋に愛づる花心ー謡曲「女郎花」”  (第20号)
“俄神人ニ成候”  (第18号)
“八角院地蔵尊の碑文を読む”  (第15号)
“長宗我部盛親が潜んだ家”  (第15号)
“「やわたものしり博士」検定にチャレンジ!”  (第10号)
“木津川・宇治川沿いの屋並みを巡る”  (第9号)


ブログトップの《スポット記事一覧》に戻ります。

# by y-rekitan | 2018-12-31 08:00 | Comments(0)

◆会報第78号より-top <スクロールだけで全記事が読めます>

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この号の会報からは現在、下記の記事が掲載されています。
このまま下にスクロールして頂くと順次連続してご参照頂けます。

この号が最新号です。

◆シリーズ:“心に引き継ぐ風景” ⑨◆
◆《講演会》謡曲から見た八幡◆
◆シリーズ:“八幡の古墳と鏡” ②◆
◆シリーズ:“五輪塔あれこれ” ⑨◆
◆石清水八幡宮を指し示す「八幡宮道」の道標の数々◆



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# by y-rekitan | 2017-03-22 15:00 | Comments(0)

◆会報第78号より-01 高野道

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心に引き継ぐ風景・・・⑨
橋本から交野山を目指した高野道
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 石清水八幡宮の遷座(貞観元年・859)以前から淀川にかかる山崎橋 (神亀二年・725)を渡り、橋本から南方向にポッコリ膨らんだ交野山を目印に進む高野道があった。
 橋本から楠葉中ノ芝、野田大師堂付近から細い畦道が続き、かすかに古道の雰囲気を残す道を、楠葉朝日町の「やわた・はし本道標」、「七ツ松石碑」、「だるま堂道標」を見て、少し南に行くと八幡金振方面に向かう「八幡道」に合流する。この八幡道をやや西方向から招提元町に入れば、整然とした招堤の屋敷街を通り抜け、招堤南町の「日置天神社」に到る。
 日置天神社由緒に「中世におけるこの付近は、高野街道筋に発達した集落として賑わい、社寺が甍(いらか)を競ったという。しかし、南北朝の動乱に際し、たびたび戦禍に見舞われ、民家・堂塔ともに灰燼(かいじん)に帰したと伝えられる」とあって、古くは高野街道筋として繁栄した集落だったようだ。出屋敷や津田の集落も日置天神社から穂谷川を越えると眼と鼻の先となる。弘法大師空海が高野山への道をとったという古い街道のことを高野街道と云うなら、八幡宮遷座以前から高野山を目指すこのルートこそ弘法大師空海が歩いた道であろう。
(写真と文 谷村 勉)
空白
  
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# by y-rekitan | 2017-03-22 12:00 | Comments(0)

◆会報第78号より-02 謡曲

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《会員研究発表》
謡曲から見た八幡

2017年2月  松花堂美術館講習室にて
猪飼 康夫 (会員)


 2月15日(水)、午後1時30分より、松花堂美術館にて表題の会員研究発表がありました。能や謡曲のあらましにはじまり、八幡を舞台にした謡曲の数々、能や謡曲の文化を次の世代に残す取り組みなどが実演を交えて発表されました。 以下に概要を報告します。参加者40名。

1、謡曲とは何か

 謡曲(ようきょく)とは、能楽の脚本のことです。シテ方などが身に着ける装束、能面の種類などが紹介され、登場人物や地謡の台詞、物語などが綴られています。
 続いて、能舞台の様子が語られ、猪飼氏自身が能装束や能面を付ける場面が紹介されました。f0300125_20544728.jpg 能面は通常シテ方が付けますが、面(おもて)をつけない場合もあります。それを直面(ひためん)といいます。直面で台詞を言う場合、面を付けた時と同様に口をパクパク開けないようにすることが求められます。まるで腹話術をするようです。舞台の後ろの演奏者を囃子方(はやしかた)といいます。向かって右から笛、小鼓、大鼓、ばちを持った太鼓と並びますが、この並び方は雛祭りの五人囃子と同じです。
 続いて、謡曲の種類として素謡(すうたい)、連吟(れんぎん)、独吟(どくぎん)の種類があること、謡(うたい)と唄や歌との違いが説明されました。謡は正座して朗詠するものですが、舞は手足を動かしてしぐさや感情を表現するものです。仕舞といいます。舞と踊りは異なります。大きな違いは、舞はほとんど中腰で、腰の位置がいつも一定ですが、踊りは腰の位置が上下します。 
         
2、謡曲のふるさと八幡 

  八幡は謡曲のふるさとと言われるくらい数々の作品があります。「弓八幡」「放生川」「女郎花」がそうです。

弓八幡(ゆみやわた)

 謡曲「弓八幡」の物語は、後宇多天皇から参詣の命を受けた臣下が、石清水八幡宮へやって来ることから始まります。f0300125_21163261.jpg臣下は、多くの参詣者の中に、袋に納めた弓を携えた老人を見つけ、尋ねますと「私は長年この八幡宮に仕えている者ですが、後宇多天皇に弓を捧げようと、貴方が来るのを待っていました」と述べ、さらに「弓は袋に納めて、戦わずして天下を治めるように、これが神の思し召しです。自らは高良の神です」と言って消え失せるのです。その後、どこからともなく音楽が聞こえ、芳香が漂い、高良の神が姿を現し、高良の神は、この世の繁栄を祝い、八幡宮の神徳を讃え、舞を舞うのです。「弓八幡」は、戦わずして世を治めることを説いています。

放生川(ほうじょうがわ)

 謡曲「放生川」は、平安時代から続く石清水八幡宮の行事 放生会(ほうじょうえ)をもとに作られています。
 男山八幡宮の祭りの日に鹿島の神主が参詣すると、魚を桶に入れた老人と出あいます。「神事の日になぜ殺生するのですか」と尋ねると、老人は「今日は生き物を放つ放生会です」と答えます。そして、魚を放生川に放し神事のいわれを語り「私は、石清水八幡宮に仕える武内の神です」と名乗り、山頂に立ち去ります。やがて月が上り、神楽の音と共に武内の神が現れ、平和の御代を讃える舞を舞います。

女郎花(おみなめし)

 謡曲では「女郎花」を「おみなめし」と読ませています。大変人気のある曲で、よく演じられています。肥後の国の僧が都へ上る途中、石清水八幡宮に参詣しようと男山に立ち寄りますと、山麓には女郎花が美しく咲き乱れています。旅僧が土産に一本手折ろうとすると、一人の老人が現れてそれを止めます。二人は古歌を並べ合って問答しますが、旅僧が古歌に詳しく、感心した老人は花を折ることを許します。老人は、八幡宮の社前に案内し、更に男塚・女塚を見せ、これは小野頼風夫婦の墓で、自分が小野頼風であることをほのめかし、消え失せます。旅僧が、土地の人から詳しく頼風夫婦の話を聞き、夜もすがら菩提を弔っていると、頼風夫婦の霊が現れます。頼風の霊は、夫の足が遠のいたことを恨み女が放生川に身を投げたこと、女塚から生えだした女郎花がまるで頼風を避けるように靡きしりぞいたこと、自分もまた身を投げたことを語ります。そして、今はともに地獄に落ち、邪淫の悪鬼に責められ苦しんでいるので、どうか助けてほしいと僧に救いを求めます。女塚は女郎花塚といって、松花堂庭園に立派に保存されていますが、男塚(頼風塚)は、八幡今田の民家に囲まれた狭い空地にひっそりと残されています。生い茂る芦が女塚の方向をむいているので、“片葉のよし”ともいわれ、哀れを誘っています。
 
3、能の生い立ち

 室町時代、足利義満と観阿弥・世阿弥の親子が今熊野神社で出会ったことから、能の演者が時の権力者に寵愛されるようになります。以後、能が大いに発展するのです。それは戦国時代にも引き継がれ、信長、秀吉、家康ら天下人によって能は大いに保護されます。
f0300125_22122720.jpg 一般に武家は公家とことなり文化的アイデンティティを持っておらず、そのことにコンプレックスを持っていたと言われます。能はそのような武家の劣等意識を補ってくれたのです。江戸時代には幕府からの庇護のもと、能楽者は扶持され経済的に自立できました。ところが、明治時代となり、能楽者は独自の運営を余儀なくされ、観世など流派ごとに経営を維持するよう努力するのです。
 そして現代、古典文化財として、ユネスコ世界遺産に登録されるようになりました。
 
4、次世代にむけて

 猪飼さんは、能の文化を次世代につなげるために様々な取り組みを行ってきました。小学校での授業もその一つで、かつて八幡東小学校や東大阪市の子どもたちに能についてじかに指導されてきました。f0300125_21353731.jpg また、企業研修会に呼ばれたり、八幡地域では「謡曲と朗読」と称して夫婦で実演し、謡曲同好会を立ち上げ、毎年発表会を持ったりしています。
 なお、平成5年8月9日に、石清水八幡宮の頓宮にて薪能が催され、かがり火のもと「弓八幡」などが観世流の片山九郎右衛門さん一行によって熱演され、市内外から集まった2000人の観客を魅了したとのことです。
<文責 土井三郎>--

『一口感想』より

八幡の地に因んだお能、謡についての猪飼先生のご講演を拝聴して、八幡が文化的に大切な地と認識しました。古典芸術を次世代に継ぐための猪飼先生のご尽力、ご活躍に感動しました。仕舞の実演、お能のビデオもありがとうございました。(M)
能の歴史や概要を教えていただき、大変参考になりました。機会がありましたら能舞台を鑑賞したく思いました。(A)
能の解説は理解できた。しかし、本題の「謡曲から見た八幡」の説明は物足りなさを感じた。例えば、「放生川」などが生まれた背景、八幡がなぜ「謡曲のふるさと」と呼ばれるのか。その理由が知りたかった。(B)
Bさんの疑問に答えられるかどうかわかりませんが、八幡がなぜ「謡曲のふるさと」になるのか、その理由を考えてみました。一つには、石清水八幡宮の存在があります。謡曲が生まれ、さかんに演じられた中世、人々は現代人以上に信仰心が篤く、石清水八幡宮を崇敬したのでした。そんなことから八幡神の神徳を称える謡曲が生まれたのです。もちろん、八幡宮と朝廷との深い関係が背景にあります。もう一つの理由として、和歌の力が大きかったと思います。鎌倉時代に、「古今和歌集」の序文の解釈本が生まれ、その中から「高砂」や「松虫」などの謡曲が誕生するのです。八幡を舞台にした「女郎花」もその一つです。(土井三郎)

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# by y-rekitan | 2017-03-22 11:00 | Comments(0)

◆会報第78号より-03 古墳と鏡②

シリーズ「八幡の古墳と鏡」・・・②
八幡の古墳と鏡(2) 
-八幡出土の三角縁神獣鏡(1) 内里古墳-

濵田 博道 (会員) 


1.三角縁神獣鏡の副葬状態とその意味

三角縁神獣鏡の副葬状態

 1953年、京都府木津川市・椿井大塚山古墳(つばいおおつかやまこふん:国史跡)で三角縁神獣鏡が大量に発見されました。しかし府から依頼を受けた京都大学の研究者たちがかけつけた時、半壊の石室にはわずかに2枚の鏡しか残っていませんでした。鏡は鏡面を石室の側壁に向けて木棺のまわりに立てかけてあったそうです。他の三角縁神獣鏡はバケツ3杯に入れられた状態で、副葬状況はわからなくなっていました。(注1)
 しかし1997年に発掘された天理市・黒塚古墳(国史跡)は未盗掘だったため、副葬の詳しい状況が明らかになりました。発見された33枚の三角縁神獣鏡は棺(ひつぎ)の外に被葬者の頭を取り囲むように立てかけられ、原則として鏡面を木棺側に向けて被葬者を守るため、逆によみがえるのを防ぐために鏡の力が使われたかのように副葬されていたとのことです。棺内の頭の傍には画文帯神獣鏡が1枚立てかけられていました。(注2)このような副葬状態から、次のような疑問が持ち上がりました。“三角縁神獣鏡が魏の皇帝から貰った大切な鏡だとすれば、棺の外に置かれているというのは変ではないか。また、卑弥呼の百枚の鏡は公の鏡で、『魏志』倭人伝には魏の皇帝は銅鏡を「ことごとく以て汝の国中の人に示・・・」と書いてあるが、その約3分の2を椿井大塚山と黒塚・2つの古墳の被葬者が持っている、そういう鏡を個人の古墳に副葬しているというのはどういうことだろうか”など。(注3)そうした中、他の未盗掘古墳の発掘からも三角縁神獣鏡の副葬状態がわかってきました。例えば、滋賀県東近江市・雪野山古墳(前方後円墳、古墳時代前期前半、国史跡)の発掘で、被葬者が葬られた仕切り板の外側と足元に計3枚の三角縁神獣鏡が副葬されていました。被葬者の頭付近に立てかけられていたのは別の鏡《仿製内行花文鏡(ぼうせいないこうかもんきょう)》でした。
副葬状態の意味するもの

 こうしたことから、“三角縁神獣鏡はあまり貴重な鏡ではなかったのではないか”、“葬具としての意味をもっていたのではないか”、“ヤマト王権が葬具用に配布した鏡ではないか”、という見解も出されました。
 しかし、すべての三角縁神獣鏡が最も大事なものとして扱われなかったかというとそうではありません。例えば島根県神原神社古墳(かんばらじんじゃこふん)(古墳時代前期)では、被葬者の頭の横に三角縁神獣鏡が置いてありました。この鏡は魏の年号、「景初三年」(239年)銘の鏡でした。また、高槻市安満宮山古墳(あまみややまこふん)(3世紀後半)から5枚の鏡が出土していますが、2グループに分けて魏の年号・青龍三年(235年)銘をもつ鏡や三角縁神獣鏡が2枚副葬されていました。1号鏡である三角縁神獣鏡は布でくるまれていました。
 これらのことから560枚近くの三角縁神獣鏡の中で、卑弥呼が貰った鏡があるとしてもそれはその中の一部、紀年鏡(中国・魏の年号などが入った鏡)などが候補ではないかという説が出されるようになりました。

2、内里古墳出土の三角縁神獣鏡

 八幡から出土した3枚(内里古墳・西車塚古墳・東車塚古墳から各1枚)の三角縁神獣鏡はどうなのでしょうか。内里古墳出土の鏡からみていきます。

内里古墳の謎

 内里古墳については、出土した「三角縁神獣鏡の副葬を考える以前の問題」があります。その名は文献に時々登場しています。――例えば、国立歴史民俗博物館『研究報告第56号』、京都大学文学部『椿井大塚山古墳と三角縁神獣鏡』、近つ飛鳥博物館図録『銅鏡百枚』、奥野正男『邪馬台国の鏡』新人物往来社、樋口隆康『三角縁神獣鏡綜鑑』新潮社、橿原考古学研究所『黒塚古墳調査概報』、藤田友治『三角縁神獣鏡その謎を解明する』ミネルヴァ書房、京都大学・橿原考古学研究所・東京新聞『大古墳展-ヤマト王権と古墳の鏡』、『サンデー毎日-卑弥呼の鏡-』(1998年3月4日号)など。しかし内里古墳は内里のどこにある(あった)のか。不思議なことに、『八幡市誌』『八幡市遺跡地図』には載っていません。『八幡市遺跡地図』には内里池南古墳というのが載っていますが、築造時期・墳形・内部構造・出土遺物・発掘状況などは明らかにされていませんので、内里古墳と内里池南古墳の関係は不明です。
 一方、内里古墳の名の出どころを調べていくと、一冊の本にたどり着きます。本の名は『梅仙居蔵日本出土漢式鏡圖集』。(注4)この本は倭鏡の収蔵家として有名な高石市の山川七左衛門氏が所蔵の鏡のうち漢式鏡22枚を写真入りで図集として出版(大正12年[1923年])、京都大学の梅原末治氏がその解説を加えたものです。その中の1枚が内里にある古墳出土の三角縁神獣鏡です。梅原氏は解説の中でこう述べています。「本鏡は山城綴喜郡有智郷村字内里の発見に係るを以て、新に一資料加えたるものと云ふ可く、鏡面に今布片の附着し、また背面に粘土及び朱の残存などあるは、同鏡の出土せる墳墓が我が古式の墓制の類例多き粘土槨なりしを推察せしめて、古墳の研究上にも注意を惹く。なほ出土の古墳は丸塚(円墳)にして其の発掘は明治二十五六年(1892~93年)の頃なりしが如し。」[原文はカナ交じり文。()内は筆者追加] “有智郷村字内里”にある(あった)はずの内里古墳ですが、現在確認ができません。ご存知の方は教えてくださるようお願いします。鏡は山川七左衛門氏が亡くなった後、山川家の手を離れ、最後に広島県の耕三寺博物館の所有となりました。博物館では常設展示をされていないので見ることはできませんが、行方不明にならなくて本当に良かったと思います。
内里古墳出土の鏡の副葬状態

 鏡の副葬状態に関しては古墳の確認もできない状態ですので「わからない」のですが、鏡が「布にくるまれて、鏡に背面の粘土と朱が残っている」ことを考えると大切な鏡として副葬されていたと思われます。

内里古墳の鏡とその同笵鏡[同型鏡]

 三角縁神獣鏡の大きな特徴としてその種類の多様性(約200種)、同笵鏡[同型鏡](同じ鋳型⦅これを笵(はん)といいます⦆または原型で造った鏡)の多さがあります。88組275枚の同笵鏡[同型鏡](注5)(1995年現在)があるといいます。内里古墳の三角縁神獣鏡は1980年代終わりころまで、「同笵鏡[同型鏡]なし」と報告されていました。f0300125_11051761.jpgところが、1989年、徳島市教育委員会が国府町の宮谷古墳(前方後円墳、全長37.5m、3世紀後半から4世紀初めの徳島県最古級の古墳、阿波史跡公園内)で三角縁神獣鏡を3枚発掘、そのうちの1枚が内里古墳の鏡と同笵鏡とわかりました。これは驚きであると同時に疑問も湧きました。なぜ、遠い徳島県の古墳で八幡市の内里古墳と同じものが出土したか、両古墳の被葬者はどういう関係にあったのかなど。
 (徳島市国府町矢野遺跡からは突線紐式袈裟襷紋銅鐸(とつせんちゅうしきけさだすきもんどうたく)[97.8cm、重要文化財]が出土。八幡市式部谷からも同式銅鐸[66cm]が出土。状況が似ていて興味深い。)

ヤマト王権とのつながり

 約10年後の1998年、さらに新たな発掘・発見がありました。f0300125_11303048.jpg大和・天理市黒塚古墳(右写真)の発掘です。この発掘は八幡にとって大変重要でした。なぜか。黒塚古墳発掘の三角縁神獣鏡33枚のうち、第1号鏡と内里古墳の鏡が同笵鏡だと判明し、大和中枢の古墳と八幡の古墳の接点が出てきたからです。同笵鏡ということは阿波・宮谷、山代・内里、大和・黒塚の3つの鏡は製作地が同じであること、本来一か所にあったものがそれぞれの地域に分配されていったということを示しています。こうして黒塚・宮谷・内里の三者がネットワークでつながりました。徳島市立考古資料館には三者-黒塚・宮谷・内里-のネットワークを示す地図のパネルが展示されています。(右写真)
f0300125_11382415.jpg『日本考古学年報42(1989年度版)』(吉川弘文館)で三宅良明氏は次のように述べています。
「(宮谷古墳の三角縁神獣鏡と)同笵鏡と思われるものに、京都府・椿井大塚山古墳の北西約12kmに位置する八幡市(旧綴喜郡有智郷村)内里古墳(円墳・粘土槨?)出土といわれる銘帯六神四獣鏡(広島県・耕三寺博物館蔵)が存在する。両者の三角縁神獣鏡を比較してみると、外区の外向鋸歯(きょしもん)文帯などで大部分が一致するが、神像の福神などの文様などに相違点が認められる。」「三角縁神獣鏡が、畿内中枢勢力(初期大和政権)が地方勢力との間に政治的関係を確立した証として分配されたという前提に立てば、宮谷古墳の被葬者ひいては3世紀末から4世紀初頭のこの地域(注6)もまた畿内を中心とする勢力あるいはその傘下の地方勢力と強く結びついたことが物的証拠によって証明されたことになる。」
 大和中枢の黒塚古墳の鏡と同笵鏡を出土する古墳は、西は九州・福岡県から東は関東の群馬県まで全国の古墳に及んでいます。(注7)黒塚古墳の被葬者がいかに多くの豪族と同盟関係を結んでいたかがわかります。その同盟関係の中の一豪族として内里古墳の被葬者もいます。黒塚古墳から出土した多くの鏡と各地の鏡が同笵鏡ということについて大阪大学の都出比呂志名誉教授は次のように言っています。「大和を中心として、大和から各地、九州から関東に至る豪族に鏡を配布していたのではないか。そのことは、大和を中心とした豪族のまとまりが、すでに3世紀後半から4世紀の初めにかけて、できあがっていたという、日本の国家の形成を考える上でも、非常に重要な意義がある」(注8)
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◆本画像には提供写真が含まれており、転載を禁じます。

内里古墳の築造時期

 ここで新たな注目点が浮かび上がります。ネットワークを形成していた三者ですが、黒塚古墳の築造は3世紀後葉、徳島・宮谷古墳は3世紀後半~4世紀初頭です。では内里古墳はいつ築造されたのか?八幡での古墳築造は4世紀後半ころから始まるとされています。茶臼山古墳、ヒル塚、西・東車塚古墳、石不動古墳の築造はいずれも4世紀後半からです。黒塚、宮谷古墳築造の3世紀後半から70~100年近くの時間ギャップをどう考えたらいいか。これは何を意味しているか。普通、築造年代は土器・埴輪・古墳の墳形・埋葬施設・副葬品などを総合して推定されます。しかし、残念なことに内里古墳は古墳自体がどこにあるのかはっきりしないため、根拠とすべきものがほとんどありません。ただ、梅原末治氏が指摘しているように鏡に“粘土が付着”していますので、“埋葬施設は粘土槨ではなかったか”と推察されます。そうだとすると「粘土槨は竪穴式石室の簡略化されたもので、四世紀半ば以降」(注9)となりますので、内里古墳はやはり黒塚、宮谷古墳よりかなり後、築造されたことになります。鏡が大和中枢から三世紀半ばに配布され、同盟関係が結ばれたとすると、伝世(でんせい)されていたのでしょうか。

内里古墳の鏡は古式の三角縁神獣鏡

 また、黒塚古墳出土の三角縁神獣鏡はすべてA・B段階のもの(240~260年ころまでに配布された三角縁神獣鏡の中でも古い鏡)と分析されていますから(注10)その同笵鏡である内里古墳の鏡も当然A・B段階のものということになります。一回目で述べたように西車塚・東車塚古墳の三角縁神獣鏡はC段階のものですから、内里古墳の鏡はそれらより古い鏡ということになります。八幡出土の三角縁神獣鏡中では一番古いと考えられるのです。(このことについてはもちろん、最終的には専門家による厳密な分析・鑑定が必要なことは言うまでもありません。)
 このように内里古墳の所在地・同笵三角縁神獣鏡の関係、大和中枢の豪族との関係、鏡の伝世など考えていくと、謎だらけで実に興味深い古墳であり、鏡であるといえます。
内里古墳鏡の銘文

 最後に内里古墳出土の三角縁神獣鏡の銘文についてみてみましょう。
 鏡名は正確には「三角縁銘帯六神四獣鏡」といいます。三角縁の内側に銘文があり、内区には6体の神像と4獣像が描かれているからです。内里古墳出土の鏡の銘文はところどころ摩滅していて全文は読めませんでしたが、黒塚古墳や宮谷古墳の鏡から、明らかになりました。次のようです。

銘文 張是作竟甚大好上神守及龍虎身有文章口銜巨古有聖人東王父渇飲飢食

(読解:『張氏が作った鏡はたいへん良い。(鏡の)上に神獣および龍虎があり、文章があり、に巨《矩(く)、さしがね。取っ手のついた直角に折れ曲がった定規。》を銜(くわ)えている。古(いにしえ)に聖人の東王父がいる。渇(かわ)けば飲み、飢えれば(棗(なつめ)を食うを省略)』
    は別ワク。君に宜しく、高(い位になる)に宜しい。)――読解は藤田友治『三角縁神獣鏡その謎を解明する』ミネルバ書房、1999
 
 京都大学名誉教授で泉屋博古館館長・橿原考古学研究所所長だった樋口隆康氏は『三角縁神獣鏡綜鑑』の中で、銘文を21種類に分析・分類しています。上の銘文はその中の一つですが、内里古墳の鏡および同笵鏡[同型鏡]は一部を省略しているようです。『三角縁神獣鏡綜鑑』には元のものと考えられる全銘文が載っています。次の通りです。
張是作竟甚大工好、上君神守及龍虎、身有宣文章口銜巨、古有聖高人東王父西王母、渇飲玉泉飢食官棗、[五男二女]長相保吉昌
 「張是」(=張氏)は製作者の名前です。鏡の製作者として陳氏とともに有名です。張氏は2派以上に分かれて製作していたといいますが、詳しいことはわかりません。このような製作者記名鏡は三角縁神獣鏡全体の一割強です。藤田友治氏は「銘文に西王母が省略されているのは発注者が男性であり、黒塚古墳の被葬者を考える一視点を提供している」と指摘しています。
 最近、銘文の韻(いん)から考えて、三角縁神獣鏡は日本国内で鋳造されたと主張する説が出されています。(注11)韻とは決まったところに繰り返す同種類の音をいいますが、韻を踏むことは詩歌を作る時の大原則であるそうです。中国で発掘される鏡の銘文にはそれがあるけれども、三角縁神獣鏡にはそれがない、だからこの鏡は韻を理解できない倭人が造ったもの、つまり日本製だというのです。しかし、卑弥呼の時代に文字を読み書きできる倭の工人がいたかとなると疑問が残ります。中国から工人が渡来してきて造ったとの説が有力ですが、証明するまでには至っていないようです。

おわりに

 いずれにしても、3世紀半ばに鋳造された鏡がヤマト王権から八幡の豪族に配布されていたこと、いつ配布されたかははっきりしないけれどそのころ八幡には鏡を配布される有力豪族がいたこと、その豪族を支える集落があったと考えられること、ヤマト王権から配布・分与される豪族のネットワークが各地に出来上がっていたこと、などは疑いないでしょう。八幡では、2世紀には66cmもの優美な銅鐸を持つ勢力がいました。京都府全体の出土銅鐸について調べてみると、この近畿式突線紐式銅鐸(とっせんちゅうしきどうたく)(注12)は京都府内では丹後・与謝野町比丘尼(びくに)城出土銅鐸(重要文化財)、舞鶴市と八幡市(式部谷)のもの、計3個を確認することができました。つまり“2世紀には少なくとも丹後・舞鶴・八幡に有力な勢力があった”といえるのではないでしょうか。(もちろんこの他にも山科の中臣遺跡などにみられるように有力な勢力はいたことは言うまでもありません。)そして4世紀末頃には天皇に意見をしていた内里の豪族(ごうぞく)甘美内宿禰(うましうちのすくね)(注13)(『日本書紀』応神9年4月条)がいました。(伝承記事になりますが・・・。)こう考えてくると昔の八幡をもっと知りたくなってきますね。
 次回は「西車塚古墳・東車塚古墳の三角縁神獣鏡について」考えてみます。 
(つづく) --

(注1)樋口隆康『シルクロードから黒塚古墳まで』、学生社、1999
(注2)図録『卑弥呼』弥生文化博物館、2015
橿原考古学研究所『黒塚古墳調査概報』学生社、1999
(注3)石野博信ら『三角縁神獣鏡・邪馬台国・倭国』新泉社、2006
(注4)『八幡遺跡地図』には「王塚古墳の文献」の一つとして『梅仙居』が載っています。
(注5)同笵鏡と同型鏡はその製法において違いがあり、同じ形・大きさ・文様の鏡でもそれを同笵鏡と考えるか同型鏡と考えるか研究者によって違います。ここでは同笵鏡[同型鏡]を単に同笵鏡と記すことにします。
(注6)徳島市国府町辺り
(注7)三角縁神獣鏡同笵鏡[同型鏡]分有図(分布図)は次の本に掲載されています。
白石太一郎ら『纏向発見と邪馬台国の全貌』、KADAKAWA、2016、P227
京都大学ら『大古墳展』、2000、P85
藤田友治『三角縁神獣鏡-その謎を解明する』、ミネルヴァ書房、1999、P322
(注8)NHK取材班「鏡が映す古代大和政権/黒塚古墳と三角縁神獣鏡」『堂々日本史第23巻』、KTC出版、1999
(注9)奈良文化財研究所『日本の考古学』小学館、2005
(注10)福永伸哉『三角縁神獣鏡の研究』大阪大学出版会、2005
(注11)森博達「毎日新聞2000年9月12日」付け
島根県神原神社古墳(かんばらじんじゃこふん)出土の鏡の銘文についての記事から
(注12)突線紐式銅鐸は1式~5式に区分されており、八幡・式部谷出土の突線紐式銅鐸は「3式」です。『豊饒をもたらす響き 銅鐸』弥生文化博物館、2011では「3式は紀元2世紀」という年代観を示しています。
(注13)八幡市・内神社の祭神。『古事記』では「味師内宿禰(うましうちのすくね) 《こは、山代の内の臣が祖ぞ》」と記述されています。武内宿禰(たけうちのすくね)とは異母兄弟にあたります。


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# by y-rekitan | 2017-03-22 10:00 | Comments(0)

◆会報第78号より-04 五輪塔⑨

シリーズ「五輪塔あれこれ」・・・⑨
なぜこの地に

野間口 秀國 (会員) 


 第1章「現場の解説板」で、現場に建つ解説板に書かれていることを紹介しましたが、その最後には「・・・ 刻銘がなく、造立の起源が不明であるためか、この大石塔にまつわる伝説は様々である。」とあります。現場を訪れるたびに「なぜ?」の疑問が浮かびますが、それらは「なぜこの地に建つのか」「なぜ刻銘が無いのか」などといったとても素朴な疑問なのです。

 2014年秋に、歴探主催による「地誌に見る八幡」と題した伊東宗裕氏の講演会が催されました。その時の配布資料(*1)に、次のように書かれていましたのでその一部を引用したいと思います。 曰く、「八幡を歩いて目につくのは三宅安兵衛碑ですね。実際にはその意志をついで息子清次郎が建立したので三宅安兵衛遺志碑といういいかたもされます。こういった史跡碑というものは、一般的によく知られた、ということは地誌ですでに紹介ずみのところに建てることが多いようです。しかし、三宅安兵衛碑についてはこの原則があてはまらない。八幡で言えば神応寺となりの航海記念塔など。」 引用終わり: ここでは「神応寺となり」と書かれています。
 また、『男山考古録 巻十』(*2)の「大石塔 或曰經塚」の項には、「極楽寺鐘楼の西に在り、谷不動道の北側、舊図にも見えて古在なから、由來不詳とし其實を知人無しといふ、・・・」とあります。 この項には他にも、誰が、何の理由で、いつ、などについての言い伝えが書かれています。しかし、ここでも「なぜこの地に」については具体的に触れることなく「極楽寺鐘楼の西」、「谷不動道の北側」とのみ書かれているのです。

 「なぜこの地に」と考える時、上記に加えて神應寺について書かれた新聞記事(*3)はとても役立ちました。その記事には、神應寺は石清水八幡宮を創建した行教が、平安前期に建てた寺とあります。寺の本堂には重要文化財の「行教律師坐像」がおかれ、境内には行教の墓があると書かれています。今一つは寺宝の「篝火御影(かがりびのみえい)」と称される、僧侶姿の八幡神が剣を手に鎮座し、両側に武具を付けた八神が並んだ掛け軸です。元寇の調伏祈願がなされた当時の原本を江戸時代に模写したと伝えられる掛け軸は、鎌倉時代のことを語っているように思えるのです。さらに、八幡大神が男山に鎮座したとされる4月3日の夕方には、石清水八幡宮から宮司、神職、巫女などがこの寺を訪れて行教の墓参がなされるとも書かれています。寺について分かり易くまとめられた記事を読み返してもなお、「五輪塔がなぜこの場所に」、に関しては何も書かれていませんでした。
 とは言え、これらに加えて『八幡市誌 第一巻』や『山州名跡志巻之十三』に書かれていることがらなども読み進めると、この地は石清水五輪塔が建つに最も相応しいところだったのだろうと思えるのも不思議です。

 2つ目の不思議は「なぜ石清水五輪塔には刻銘が無いのか」ということです。その理由と思われることについて、嘉津山清氏は『石造文化』(*4)に次のような見解を述べられていますので引用してみたいと思います。 曰く、「石造物がある限り、当然それを製作した工人がいるが、遺品にその名を残しているのは稀である。(中略) 層塔・宝塔・宝篋印塔といった建造物的な石造物的な石造物に作者名を記したものが多く、一石刻成の板碑・五輪塔といったものには、板碑の一部を除いて皆無といってよいであろう。仏像や銅鐘、鰐口といった金工品のものにはその多くが堂々と大工名を記しているのに比して、石造物は他の梓人より身分が低かったのか、遠慮したのかその名を残してはいない。」 引用終わり: 氏の見解にもあるように、これまでに見ることのできた数々の五輪塔には刻銘が残されていませんでした。それを思うと、刻銘が残されている五輪塔がいかにありがたいか、と実感できた例を書きたいと思います。

 この1月に訪ねたその五輪塔は木津川市木津清水にある「木津惣墓五輪塔」です。塔の傍に建つ同市教育委員会の解説板(*5)には、塔が重要文化財(昭和32年に指定)で、花崗岩でできた高さ3.6mの典型的な鎌倉時代の五輪塔であり、惣墓とは一般庶民の間に個人墓が普及する以前の葬礼の一形態で共同墓地である、ことなどが書かれています。f0300125_20114993.jpgそして驚くべきことに、この五輪塔には、地輪(最下部の方形部分)の東、北、南の三面に年度を含んだ刻銘が残されているのです。ちなみに、東面には正応5年(1292)とあり、北面には永仁4年(1296)が、そして南面には永禄5年(1562)と異なる3つの年号が刻まれていることも併せて解説板が教えてくれます。前章で、「石清水五輪塔造立の発願者が誰か」に興味あると書きましたが、この木津惣墓五輪塔は、刻銘に「和泉木津僧衆等廿二人の勧進による」とあり、造立時の様子の一端も分りました。今となって叶うことではありませんが「石清水五輪塔にも刻銘を残して欲しかったな」と、つくづくそう思いました。

 さて、前章で文覚上人墓五輪塔などについて書かせていただきましたが、本章では1878(明治11)年に、明治政府の招聘で東京帝国大学(現:東京大学)の政治学教員として着任したアメリカ人、フェノロサの墓(五輪塔墓)について書いてみたいと思います。石清水五輪塔についてあれこれ調べていた2015年の秋、偶然目に入ってきたのが、とある広報誌(*6)に紹介されていた「大津の景勝めぐり・法明院庭園」の記事でした。同地を訪れるのは暫くしてからとなりましたが、記事の内容はとても興味深いものでした。「法明院は、天台寺門宗総本山園城寺(三井寺)北院の一つで、大津市山上町にあり、江戸時代の初めに創建され、一時廃絶の後、1724(享保9)年に義瑞和尚が再興したと伝えられる。また、この寺は明治時代に日本美術を世界に紹介したアメリカ人、アーネスト・フェノロサの墓がある寺としても有名である。」 記事はこのように続きますが、内容もさることながら、掲載された墓の写真が五輪塔であることに目が留まり、更に調べを進めてから現地を訪れました。

 『フェノロサと魔女の町』(*7)と題する本を読むと、彼の経歴や業績、墓の謎などが分りました。アーネスト・フェノロサは1853年に米国マサチューセッツ州(アメリカの北東部の州)ボストン郊外で生まれ、ハーバード大学・神学科を卒業、同大大学院を出て、神学校、ボストン美術学校で学びました。前述のとおり、1878(明治11)年に25歳で来日しましたが、この招聘は彼と同郷の、日本国内でも知られた大森貝塚の発見者、エドワード・モースであったようです。フェノロサ婦人の回想によると、東大就任を決めたのは初代内閣総理大臣の伊藤博文であったようですが、この伊藤によって政府の進める「日本の伝統美術の復興」のために美術行政に引き入れられることになります。
 やがて数々の日本の古名画に触れる中で、フェノロサは天台密宗の言葉に理想を見出し、明治18年秋にキリスト教の信仰を捨てて仏教徒へ帰依します。当時の助手であった岡倉天心とともに、近畿地方の古社寺宝物調査を行い、法隆寺を始めとする京都・奈良の古社寺を訪問した記録が残されているようです。岡倉とのつながりで法明院阿闍梨・桜井啓徳師に師事することになり、ここに同寺とのつながりが見いだせるようです。

 f0300125_2017941.jpg彼の功績は明治天皇により外国人としては最高位の勲三等瑞宝章が与えられ、1886(明治19)年の秋に一度帰国します。しかし、1896(明治29)年に再来日、そして4年後にはボストン美術館東洋部長とし帰国して日本美術の紹介をしました。その後、日本政府の要請による欧州視察旅行のさなか、1908(明治41)年9月21日に訪問先の英国で急逝しました。フェノロサの遺志により、遺体は火葬ののち日本に送られ法明院に葬られました。 訪れる人が決して多いとは言えないようですが、私が訪れた時には五輪塔の墓前にはきれいな花が供えられており、彼のファンや美術関係者には大切な場所となっているのであろうことが分りました。

 最後に、木津川市観光商工課よりいただきましたご親切に紙面をお借りして感謝を申し上げます。
(次号に続く)--

参考図書・史料・資料など;
(*1)歴探講演「地誌に見る八幡」(2014.9.14 伊東宗裕氏)の配布資料
(*2)『男山考古録 巻十』 長濵尚次著
(*3)京都新聞記事・2016.11.16付け(探検国宝 石清水八幡宮 神應寺)
(*4)『石造文化』 日本石造文化学会編 日本習字普及協会刊
(*5)現地にある木津川市教育委員会の解説板
(*6)『ほんまる』 大津市生涯学習センターの広報誌・第275号2015.11.1刊
(*7)『フェノロサと魔女の町』 久我なつみ著 河出書房新社刊


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# by y-rekitan | 2017-03-22 09:00 | Comments(0)

◆会報第78号より-05 八幡宮道

石清水八幡宮を指し示す--
-- 「八幡宮道」の道標の数々


谷村 勉 (会員)

 八幡とその周辺の「石清水八幡宮」を目指す道には、江戸時代の個性的な道標が現在も残り、古来「やわた道」、「八幡宮道」と呼ばれた事が判ります。
 八幡の道の歴史は数々の道標に導かれる八幡宮参詣道の歴史です。現在も「八幡宮参詣」の道しるべとして残る主に江戸時代の道標の数々を紹介しますが、時代々々に建立された道標の数から、八幡は道標・石碑の町と言っても過言ではありません。八幡の南北に走る「八幡宮参詣道」を最近俄かに「東高野街道」などと言いだした人々は八幡の歴史や聞き取り調査、綿密なフィールドワークを怠ったと思われます。八幡の道の歴史を学べば分る事ですが、「八幡宮道」や「やわた道」などの道標の数々は、これが本来の八幡の歴史街道であることを雄弁に物語っています。「八幡宮参詣道」は八幡を訪れる道として紛れもなく「八幡宮への信仰の道」として機能してきたのでありました。

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① 楠葉野田一丁目の
江戸時代再建の道標

「左  八 ま ん 宮」
-----------
「右  志 み つ」

(文久二壬戌年四月再建・1862)
縦104㎝ 正面幅30㎝ 横24㎝

右側の道標は再建以前の道標(折損か)   「八まん□□」
   (寛政元己□・1789)
縦54㎝ 正面幅24㎝ 横23㎝
橋本経由の八幡宮道と切通を経て八幡志水に抜ける道を示している。


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② 楠葉中之芝一丁目
「久親恩寺」の地蔵道標

「八まん宮道」

(寛保三亥十一月吉日・1743)
縦111㎝ 正面幅27㎝ 横24㎝
地蔵尊像の形態:座像
持ち物:錫杖、宝珠

久親恩寺には道筋の変更や宅地開発などで行き場を失った道標が集められたようだ。


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③ 楠葉中之芝一丁目
「久親恩寺」地蔵道標

「すく 八まん道」

(年代不詳)
縦89cm 正面幅22cm 横17cm
地蔵尊像の形態:立像
持ち物:両手で宝珠

正面、地蔵尊像下の文字は判読困難。「すく」とは、直ぐ、まっすぐ行くと、の意。「すぐ」、「春具」も同じです。


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④ 楠葉中之芝一丁目
「久親恩寺」の地蔵道標

「すく 八まん宮」
「右 かうや 左 はし本道」


(年代不詳)
縦47cm 正面幅30cm  横10cm
地蔵尊像の形態:立像
持ち物:両手で宝珠

「右かうや」の文字は橋本から楠葉中之芝を通り交野山を目標に招堤方面を指している。
橋本・楠葉に旧高野道の存在を証明する大変貴重な道標です。舟形光背の上部は破損している。


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⑤ 楠葉中之芝一丁目
「久親恩寺」の墓碑道標

「右 やわたみち」
「すく 京 み ち」


(天保四巳年四月十八日・1833)
縦77㎝ 正面幅30㎝ 横29㎝

元は京街道沿いにあったようだが、街道筋の変更により寺院内墓地に移転されたようだ。


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⑥ 橋本中ノ町の道標

「八 ま ん 宮」
左り--------
「いせ京伏見」

    
(明和四年丁亥二月・1767)
縦 116cm 正面幅 28㎝ 横 27㎝



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⑦ 橋本北ノ町の道標

「右 八まん宮山道*** 
***これより十六丁」


(文政二己卯年二月吉日・1819)
縦116cm 正面幅25cm 横21㎝

道標の位置が動いている。狩尾社から八幡宮へ向かう道筋を指している。


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⑧ 伏見区淀際目町の道標

「八まん宮ミち」
----------
「か わ ちミち」

(宝暦三癸酉歳四月・1753)
縦126cm 正面幅21cm 横20cm

旧八幡際目郷、昭和 32 年京都市伏見区淀に編入。
旧木津川堤道(奈良道)近くに建っていたとのこと。横のお堂は近隣寺院の廃寺により、住民によって
お堂が建てられ、大日如来坐像等が安置された。


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⑨ 美濃山井ノ元の
「指さし地蔵」道標

「八はたへこれから」

(年代不詳)
縦60cm 正面幅33cm 横18cm
地蔵の形態:立像
持ち物:左手に宝珠

右手で「八はた」の文字を指している、珍しい「指さし地蔵」です。
元は近くの河原地区道沿いにあった。


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⑩ 八幡旦所「青林院」の道標

「西 八幡宮道」

(年代不詳)
全長123㎝ 正面幅19cm 横15cm

倒置


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⑪ 頓宮西の倒置道標
(巨大五輪塔の向い)

正面「左 八幡宮道」
裏面「是より北荷馬口附の者来へからず」


(年代不詳)
全長 280cm  正面幅24㎝ 横 24㎝

角柱の周りに縁取り加工をした立派な道標
道路工事の際、一旦八幡宮に預け、そのままになってしまったのか?


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⑫ 八幡大芝「八角堂」の
役行者道標

「すく 八幡宮」

(慶応三年丁卯八月日・1867)
縦127cm 正面幅24cm 横22cm
役行者座像 持ち物:錫杖、経巻

元は志水大道沿いにあったが、道路工事により八角堂に入った模様。役行者像が彫られている。八角堂は工事中の為、現在入れません(2017.02.10)
(左の写真は神戸市/故荒木勉氏撮影)


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⑬ 正徳 3 年
「御幸道(みゆきみち)」道標

「石清水八幡宮鳥居通御幸道」

『男山考古録』に「正徳 3 年(1713)石清水八幡宮鳥居通御幸道という標碑を建てられたるは、検校新善法寺行清法印也」とある。
 近年、御幸橋南詰に設置されていたが、平成 21 年以降「御幸橋」付替え工事により八幡宮頓宮敷地内に仮置きされている。
 石清水八幡宮境内全図(重文) や山上山下惣絵図には「御幸道」と共に「御幸道の道標」の存在も記載されていて、京街道分岐点から一の鳥居の道を指している。折損の為、御幸道の部分がコンクリートによって塗り固められていた為、文字が隠れていた。

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⑭ 枚方市上島町の
八幡宮参詣道地蔵道標

参 詣 道
八幡宮----------
橋本へ一里


(安政三丙辰年十一月・1856)
縦200㎝ 正面幅30cm 横22cm
地蔵尊像の形態:座像
持ち物:錫杖 宝珠

枚方市(牧野)の京街道、船橋川の堤にある高さ 2m の重量感のある八幡宮参詣道の道標。
枚方市岡本町の文政九丙戌年(1826)建立の道標には「左 六り やわたニり」とある。


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⑮ 枚方市町楠葉の地蔵道標

右 八幡宮

(天保三年辰年一月吉日・1832)
縦157cm 正面幅31cm 横25cm
地蔵尊像の形態:座像
持ち物:錫杖 宝珠

長福寺内にある地蔵座像道標、保存良好で驚くほど美しいが、再建された道標だろうか


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⑯ 大山崎町の地蔵道標

右 八わたミち
左 よどふしみ


(年代不詳)
縦96cm 正面幅40cm 横20cm
地蔵尊像の形態:立像
持ち物:錫杖 宝珠

離宮八幡宮より西国街道を北へ大山崎小字傍示ノ木辻にある。
大山崎町唯一の「やわた道標」と思われる。



「石清水八幡宮参詣道」にいわゆる「東高野街道」の名称はふさわしいか?

 八幡やその周辺に残る八幡宮参詣道の道標を調査した結果、「八幡宮道」や「やわた道」などと書かれた道標を一部紹介することができました。現在はこれ以外にも驚くほどの数の「八幡道標」が発見されています。これらはいづれ「八幡の道探究部会」の活動成果として紹介したいと思いますが、「文化財」として大切に保全されているこれらの道標を見るにつけ、八幡の悠久の歴史が消される危険性が潜む、殆ど馴染みのない高野山や和歌山の道を八幡に出現させる事などは「勘違いの行為」としか思えません。一体誰の為の八幡でしょうか。

 自分たちが住んでいる町の歴史をもっと大切にして欲しいものです。いわゆる「東高野街道」が在って国宝「石清水八幡宮」が路傍に在るのでは決してありません。石清水八幡宮が遷座(貞観元年・859)した後に八幡の南北の道が整備されましたが、弘法大師空海は八幡宮が遷座される以前に入定(承和2年・835)されています。従って弘法大師空海はいわゆる八幡東麓の東高野街道という名の道を歩くはずもありません。高野道とは嘗(かつ)ては弘法大師空海が高野山への道をとったという古い街道のことを指したものですが、八幡宮の参詣道が洞ヶ峠から河内の高野道に繋がった為、八幡宮参詣道を通って洞ヶ峠から高野道を利用する人が居たに過ぎないのです。津田や交野や八尾から八幡宮を目指す人々にとっては八幡に向かう道は「京道」であり「やわた道」でありました。
 固有の歴史を大事にしてきた八幡ですが、八幡を知らない学者の書いた論文や文献を読むだけの表層の知識の鵜呑みでは八幡の道の歴史は語れません。嘗て東海道五十七次と云われた大坂・京都間の道では、役人はいざ知らず、住民は東海道と呼ばずに、京街道、大坂道などと呼びました。明治時代、八幡の道を嘗て役人が東高野街道と言った時期があるようですが、八幡の住民は誰もその様な呼びかたはせず、今でも八幡宮道、御幸道、常盤道、志水道などと呼んで歴史的呼称を大切にする気概をもち、生活の中に活かしてきました。八幡の道が「石清水八幡宮への信仰の道」であることを住民誰もが知っていたのです。八幡周辺の行政区にある「八幡宮道」などの道標の数々を見れば、八幡の道は八幡宮参詣道として重要な機能を果たし、八幡宮在っての八幡の道であり、高野山在っての八幡の道でないことは明々白々なのです。固有の歴史を大事にし、それを主張してこそ観光客や住民も納得しますが、借物の名称では誰も振り向くものではありません。
以上----

# by y-rekitan | 2017-03-22 08:00 | Comments(0)

◆会報第78号より-end

この号の記事は終りです。


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# by y-rekitan | 2017-03-22 01:00 | Comments(0)

◆会報第77号より-top <スクロールだけで全記事が読めます>

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この号の会報からは現在、下記の記事が掲載されています。
このまま下にスクロールして頂くと順次連続してご参照頂けます。


◆シリーズ:“心に引き継ぐ風景” ⑧◆
◆《歴探ウォーク》八幡の古寺巡礼④◆
◆シリーズ:“八幡の古墳と鏡” ①◆
◆シリーズ:“八幡に見る古代植物” ④◆
◆シリーズ:“五輪塔あれこれ” ⑧◆
◆シリーズ:“詩歌に彩られた八幡の歴史” ⑤◆
◆大阪府下の東高野街道に「やわた道」の道標を訪ねて◆
◆歴探サイト(ホームページ)の現況報告◆



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# by y-rekitan | 2017-01-20 15:00 | Comments(0)

◆会報第77号より-01 文殊菩薩像

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心に引き継ぐ風景・・・⑧
八幡の石仏さん・文殊菩薩像
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  石仏と言えば八幡森の「夜泣き地蔵」と呼ばれる等身大の石仏がよく知られるところですが、古くから「八幡宮道」、「志水道」と呼ばれる道から正法寺の南門を抜けて西に登れば、ひと際存在感を放つ石仏があります。高さ1メートルの「文殊菩薩」の石仏です。一瞬、騎乗の「将軍地蔵」かと思いましたが、右手に知恵を象徴する宝剣を、左手に経典を乗せた蓮華を持って、獅子の背の蓮華座に乗って結跏趺坐する姿は正しく文殊菩薩です。
 年月を経て肉彫りの像は摩耗し、どの時代のものか、右肩辺りにかすかに文字の痕跡を残すものの全く判りません。
 文殊菩薩は釈迦如来の脇侍として白象に乗る普賢菩薩と共にお寺では時々見掛けますが、なぜ、ここ清水井(志水)に文殊菩薩の石仏が置かれたのか、はたして対となる普賢菩薩の石仏は今も何処かに存在するのか、想像が膨らんできます。
 石仏から西方向に登ってゆくと、随分と急勾配の崖が現れ、切通しと呼ばれる古い道もこの近辺にあって、男山美桜、楠葉方面に向かいます。
 「昔は子供も老人も沢山居て、土産屋さんが出るほど地蔵盆を盛んに行っていましたが、」とお年寄が語ってくれました。周辺の沢山の石仏と共にみんな地蔵さんとしてお祀りされています。
(写真と文 谷村 勉)
空白
  
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# by y-rekitan | 2017-01-20 12:00 | Comments(0)

◆会報第77号より-02 八幡古寺巡礼4

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《歴探ウォーク》
八幡の古寺巡礼
― 第4回 男山山麓の寺を巡る(Part3) ―  

2016年12月 八幡市内 にて
高田 昌史 (会員)

 恒例となった歴史探訪ウォークの古寺巡礼は、昨年に引き続き「男山山麓の寺を巡る」Part3として、12月8日に第4回を実施しました。
 当日は46名と多くの方の参加がありました。その概要を報告します。

第4回古寺巡礼コースの概要

 f0300125_1142218.jpg八幡市駅前で受付をしてから、さざなみ公園の安居橋前に集合し、配布の「しおり」によるコースの概要説明と移動時の注意事項をお話してから出発しました。右図にコース図を示しましたが、今年の巡礼のコースは八幡市駅から近い東南方向の3古寺を巡りました。
全歩行距離は約2.5kmと短く訪問先の寺院での時間を十分確保できる見込みで、最初の訪問寺の法園寺に向かいました。

1.法園寺(律宗)

 f0300125_11594784.jpg安居橋前を出発してから、15分足らずで法園寺に到着です。法園寺では、法類の善法律寺松浦康昭住職が通用口を開けてお待ちいただきました。
 先ず境内で法園寺の概要説明をお聞きしました。
法園寺は鎌倉時代に建立された由緒ある寺院であり、現在境内の整備が行われています。法園寺は唐招提寺の末寺で、現在住職は壬生寺の松浦俊海貫主が兼務されています。現在工事中の表門は壬生寺の北門を移築されたと伺いました。(12月20日に完成)f0300125_1244873.jpg
 松浦住職からは、境内整備が完了しても国の重要文化財に指定されている本尊の「木造釈迦如来坐像」は、今後通常の公開予定はなく今回はあくまでも特別拝観であるとの説明がありました。実は、平成26年実施の第2回古寺巡礼では、法園寺を府道側のフェンス外から、遠くの収蔵庫の外観のみを見学しました。その時から御本尊の拝観をお願いしていたのですが、今回2年越しの念願が叶うことになりました。
 いよいよ、2班に分かれて松浦住職の案内で収蔵庫に入りました。f0300125_1273475.jpg収蔵庫内正面に安置の本尊「木造釈迦如来坐像」は、像の高さが87cmの檜材寄木作りで、大変立派な光背がありました。製作年代は正平16年(1361)ですから、今から650年以上前です。また、昭和9年(1934)の室戸台風で堂宇が倒壊して堂の下敷きになった本尊の胎内から多くの経文などが発見され、京都国立博物館に寄託されています。翌年の昭和10年には本尊と共にそれらの経文などは国の重要文化財に指定されました。
 また、収蔵庫には八幡宮の28代別当田中勝清(田中家初代)からの歴代の田中家の位牌をはじめ、南朝の公卿四条隆資、徳川家の位牌や豊蔵坊孝仍・孝叡など多くの位牌がありました。また、数枚の棟札も保管されていることがわかりました。
 収蔵庫内の拝観が終了後、わざわざ善法律寺から出向いていただいた松浦康昭住職にお礼を申し上げてから、次の訪問寺の正福寺に向かいました。

2.正福寺(浄土宗)

 f0300125_12163792.jpg正福寺では、秦文彦住職に出迎えていただきました。正福寺は「浄土宗三十六カ寺組の一つで、本尊は阿弥陀仏。本堂は科手町の薬師堂をこの地に移す。寺記には神原町に住む一瞬庵という者が、寛文2年(1662)に建立した趣が見える。開山は京都知恩寺の三十二代奉誉上人【慶長15年(1610)寂】である」と男山考古録に記されています。
 先ずは例会幹事が山門を入って右側の元禄3年(1690)に建立の「石清水八幡宮の灯籠」を事前調査した結果を記載したしおりにより説明しました。この灯籠の左面銘文は(護国寺寶前)です。
 次は、本堂左側の集合墓の見学をしましたが、集合墓の頂点近くに「興龍院(大河内秀元)」の墓が確認できます。大河内秀元のことは、男山考古録に詳しく載っています。それによると慶長2年(1597)の朝鮮の役に従軍して武功を上げて『朝鮮軍記』を書いています。その後、大坂夏の陣(元和元年:1615)では井伊家に仕え武功を上げ数年彦根に居住するが、正福寺近くの山路町に移り住み寛文6年(1666)に91歳で死去と記されています。
f0300125_1413246.jpg
 それから、集合墓の横の墓地にある八幡の歴史探究のバイブルといえる「男山考古録」著者長濵尚次の曾祖父(長濵友次)の立派な宝篋印塔(ほうきょういんとう)を見学しました。長濵家の墓は、他に番賀墓地及び神應寺にもあります。
 境内の見学終了後に、秦住職の案内により本堂で御本尊を拝観してから、ご住職の法話を拝聴しました。f0300125_12295944.jpg時々ジョークも交えての法話は大変解りやすくて、時間の経過を忘れるぐらいでした。北極星信仰から始まり、人の命は死んだらおしまいで無くて、後の世にゆくのであるなどの仏教の教えから、桜は散るに対して梅、椿、牡丹、菊、雪柳などの花は散ると表現しない。等々、今でもよく覚えています。法話の余韻を残しながら、最後の訪問寺の単伝寺に向かいました。

3.単伝寺(臨済宗)

 f0300125_1454040.jpg単伝寺では、近道になる北門を開けて石田副住職に出迎えていただきました。単伝寺のしおりには「今から二百年前に京都妙心寺の法類の瑞応単伝和尚が人々の不慮の災難を救うことを発願して、救苦観音を安置し祈祷修繕されたのが単伝寺再興の由来です。」と記されています。境内で石田副住職に単伝寺の概要説明を伺ってから、2班に分かれて本堂と大黒堂の参拝をしました。石田副住職は2箇所を行き来しての説明をされました。単伝寺は通称らくがき寺として広く知れ渡っています、
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 しかし、私はその由来は全く知りませんでした。説明では、単伝寺は、戊辰戦争で山門のみ残る被害にあい、先の大戦後の農地改革では寺領も無くなりましたが、先代住職の尽力により大黒堂を建てられ、その時にご寄付をされた方々に「願いごと」を書くようにと勧められたことが、らくがき(“願いごと”を壁に書くこと)の始まりであると伺いました。
 本堂の本尊「五大釈迦」前では、いろいろな説明をしていただき椅子に座り拝聴しました。f0300125_14182536.jpg
 また、境内の自由見学では山門横の比翼地蔵堂の約400年前に刻まれた縁結び2対の地蔵像(石仏)は、印象に残っています。
 この単伝寺境内で第4回八幡の古寺巡礼は、予定の時刻でもって解散としました。なお、八幡市駅方面に帰宅される参加者のために、近道になる山門を開けていただき有り難うございました。

おわりに

 連続4年になる「第4回八幡の古寺巡礼」は、お陰様で無事終了しました。
 今回巡った3寺は、宗派も違いいろいろなことを知ることができました。ご案内や説明いただいた3寺のご住職の方々には、改めて厚く御礼申し上げます。特に、法園寺の国の重要文化財指定「釈迦如来坐像」の特別拝観に関しては、善法律寺の松浦住職には収蔵庫内の事前確認及び当日の案内と大変お世話になり感謝致します。
 4回開催の八幡の古寺巡礼は、4年間で10寺院を巡りました。次年度も「古寺巡礼」を継続開催して、八幡の歴史を探究して行きたいと思います。これからも八幡の古寺に関する情報等がございましたらお寄せいただきたくお願いします。


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# by y-rekitan | 2017-01-20 11:00 | Comments(0)

◆会報第77号より-03 古墳と鏡①

シリーズ八幡の古墳と鏡・・・①
八幡の古墳と鏡(1) 

濵田 博道 (会員) 


はじめに

 鏡は「古来、呪術的なものとして重視され、祭器や権威の象徴・財宝」(『広辞苑』)とされました。近畿では特に3世紀初めから5世紀初めにかけて築造された多くの古墳や墳墓に副葬されています。(もちろんこの時代以外の古墳や墓にも副葬されていますが。)
 八幡市のいくつかの古墳でも30枚ほどの鏡が出土しています。(下表参照)
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 この八幡市内の古墳から出土した鏡が以前、博物館の展示会でとりあげられたことがありました。1995年(平成7年)、大阪府立近つ飛鳥博物館で『鏡の時代-銅鏡百枚』(銅鏡百枚というのは『魏志』倭人伝記事中の、卑弥呼が239年に魏の皇帝から下賜された百枚の鏡のことです)の特別展があったとき、図録中「三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう)出土地一覧表」(241古墳)に八幡市の3つの古墳名が載っていました。すなわち西車塚古墳、東車塚古墳、内里古墳がそれです。(注1)
 三角縁神獣鏡という名前は鏡の裏面に神仙思想を表す神獣が描かれ、その縁の断面形が盛り上がり三角形の形をしていることから付けられています。面径が21~25cmぐらいの大型鏡です。当時三角縁神獣鏡は、卑弥呼が貰った鏡の最有力候補でした。
 また一昨年(2015年)春、大阪府立弥生文化博物館(和泉市)で「卑弥呼」の特別展が開催されたとき、八幡石不動古墳出土の鏡が「新たな卑弥呼の鏡の候補か」として展示されました。
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この鏡は普段京都大学総合博物館に所蔵されていてめったに見ることができない鏡であり、さらに「新しい卑弥呼の鏡の候補か」とまで解説され、パンフレットに載っていましたので驚きでした。(この鏡は2016年10月15日から12月4日まで京都府立山城郷土資料館で開催された特別展「山城の二大古墳群-乙訓古墳群と久津川古墳群-」でも展示されました)これら卑弥呼の鏡との関係が“うわさ”される八幡市内古墳出土のいくつかの鏡について、今回考えてみます。

1、三角縁神獣鏡と卑弥呼の鏡

 まず、三角縁神獣鏡がなぜ卑弥呼の鏡と言われるようになったのか、その経過を簡単に振り返ってみます。
 『魏志』倭人伝に、魏の皇帝から卑弥呼に下賜された百枚の銅鏡について書かれています。その鏡の研究を通して日本の古代国家のはじまりの過程や地域間交流、東アジアの中での日本の国家形成の位置づけ、鏡は国家形成過程の中でどのようにして生まれ発展していくか、など明らかになっていくのではないかと考えられました。その鏡が日本のどこかに残っているはずだとして、探す研究・努力が1920年台(大正時代)から続けられてきました。1953年、有力な手がかりが京都府木津川市の椿井大塚山古墳(つばいおおつかやまこふん)でみつかりました。この古墳は3世紀末頃に築造された全長175mの前方後円墳ですが、後円部をJR奈良線が横切っています。その線路拡幅工事の際、偶然古墳の石室が発見され、36枚以上もの鏡と武具が出土しました。32枚以上を占める三角縁神獣鏡の分析もされ、この鏡が各地の古墳に同笵鏡(どうはんきょう・同じ鋳型で鋳造した鏡)として副葬され、多数存在することから次のような解釈がされました。邪馬台国時代に卑弥呼が貰った鏡を次の王権が引き継ぎ、それを各豪族に配布、分有し、伝世、同盟の証しとしたのではないか、と。その説が今日でも有力です。また、その前後から各地で魏の年号が記名された三角縁神獣鏡が次々と発掘されました。最近では1997年、ヤマト王権発祥の地・大和東南部・天理市の黒塚古墳から33枚もの三角縁神獣鏡が発掘され、世間を驚かせました。2009年には桜井市の桜井茶臼山古墳で再発掘が行われ、新たに81枚の鏡片、そのうち三角縁神獣鏡の鏡片が26枚見つかりました。3世紀後半から4世紀初め、大和中央の古墳で大量の三角縁神獣鏡が次々と発見されたのです。三角縁神獣鏡はその他にも、日本国内の各地で発見されており、現在560枚ほどになっています。(注2)
 一方、三角縁神獣鏡は肝心の中国からは一枚も出土していない(一昨年、一枚確認されたという報道がありました。)だから卑弥呼が貰った鏡とはいえない、また魏の皇帝から百枚しかもらっていない鏡が五百枚を超えて出土するのはおかしい、三角縁神獣鏡は倭(日本)で造ったのではないか、という反対の意見が出ました。ですが、その後の研究で魏の鏡製造の特徴が三角縁神獣鏡にあること、魔(ま)鏡(きょう)の性質(鏡に光をあてると裏面の神獣の姿が壁などに映し出されること)などの発見もありました。
 この560枚の三角縁神獣鏡の製作地については、現在も研究者の意見は大きく2つに分かれています。
 中国鏡説 
A、最初、三角縁神獣鏡は中国の魏・徐州(じょしゅう)で造られ(魏鏡説)、楽浪郡を経由してもたらされ、その後、日本(倭)で造られたものもある。(楽浪郡で鋳造されたとの説もあります)
B、すべて中国で造られたものだ
 
 倭鏡説
すべて日本で造られたものだ。(中国の工人が日本に来て造った)
  
 鏡の鋳型などが発見されれば、有力な証拠になりますが、鋳型が土製で、それを壊して鏡を取り出すので残存の可能性は少なく、まだどこからも発見されておらず決着はついていません。

2、銅鏡百枚研究の新しい説

 銅鏡百枚について最近次のような見解が出されています。
 “従来『魏志』倭人伝に出てくる卑弥呼が貰った「銅鏡百面(枚)」は、三角縁神獣鏡であろうといわれていました。こういう考え方がかってはほぼ定説化していました。が、その後、とくに日本でここ30年ぐらいの間に三角縁神獣鏡の研究が飛躍的に進んでき、その結果、240年に卑弥呼の使いが貰って帰ってきた鏡に、三角縁神獣鏡が仮に含まれていたとしても、それはごくわずかであって、ほとんどはそれ以前の鏡であること。少なくとも卑弥呼が貰った「銅鏡百面(枚)」の大部分は三角縁神獣鏡ではないだろう。”(白石太一郎ら『纏向発見と邪馬台国の全貌-卑弥呼と三角縁神獣鏡』ADOKAW,2016から一部抜粋要約)
 今まで卑弥呼の鏡と言われてきた三角縁神獣鏡の大部分は卑弥呼が貰った鏡ではない、これは衝撃的です。なぜ、そう考えられるようになったのか。その理由の一つは、三角縁神獣鏡の古墳での副葬状態にありました。が、このことについては次回触れたいと思います。二つ目の理由は、三角縁神獣鏡そのものの研究が進んだことです。その横断面などの形やレーザー計測での詳しい分析などから編年がだんだんわかってきました。三角縁神獣鏡の鋳造が240年前後から50~60年間ぐらい続いたとして、古さの順にA・B・C・Dのだいたい4段階ぐらいに分けられるらしいのです。(5段階など、他の説もありますが。)このうち卑弥呼が貰ったと考えられる三角縁神獣鏡は最古のA段階ということになります。
 では八幡市内出土の三角縁神獣鏡はどう位置づけられるのでしょうか。西車塚古墳、東車塚古墳出土の三角縁神獣鏡はC段階。265年~300年ごろ鋳造された舶載鏡(=中国鏡)ではないかとされています。(注3)ですから、年代からいって卑弥呼が貰った鏡ではない、ということになります。内里古墳の鏡も舶載鏡です。しかし、卑弥呼の鏡の可能性が弱まったことが、即、八幡出土の三角縁神獣鏡の意義が弱まったことにはなりません。八幡出土の三角縁神獣鏡には銘文が刻まれたり、中国官営の工房名が入っている鏡もあります。長岡京市や奈良・葛城地域の古墳出土鏡などと同笵の鏡もあります。どうやって鏡を手に入れたか、同じ鏡を所持した勢力はどういう関係だったのか、など謎が深まります。さらに、石不動古墳から出土した鏡を含めて「新たな卑弥呼の鏡候補」とされる鏡もあります。なぜそういえるのか。鏡の研究は進行形で、専門家でもはっきりしたことはあまり言えないでしょうが、ちらほら研究報告が出てきました。私たちアマチュアも関心を持っていきたいです。

3、八幡の鏡を学ぶ

 このように八幡の古墳から出土したのはどんな鏡か、興味あるところです。しかし、出土した鏡数、鏡名、所蔵場所、観察場所・方法などわからないことが多いのです。今回調べる中で、少しわかってきました。国立歴史民俗博物館研究報告第56号(1994年)によると、例えば八幡市の美濃山王塚古墳から出土したとされる十数枚の鏡は写真は残っていますが、すべて「現物無し」と報告されています。また、所在がはっきりしている八幡の鏡も東京・広島・京都・奈良など全国各地の博物館に所蔵されており、研究中などのため、常設展示されていません。特別展などがあって展示される場合は見学可能でしょうが、それがいつになるかはわからないのです。鏡に興味があっても、市民が見るにはそういう困難さもあります。私は八幡出土の30枚ほどの鏡のうち、1枚だけ見ることができましたが、これからも主に書籍をもとに少しずつ調べていくことになります。次回は「八幡出土の三角縁神獣鏡-おもに内里古墳の三角縁神獣鏡について」考えます。
(つづく) 空白


(注1) 八幡市の古墳については、歴探会報NO13 大洞真白「八幡の古墳とその特徴を学ぶ!」を参照してください。
(注2) 安本美典『卑弥呼の墓・宮殿を捏造するな!』勉誠出版,2011,P110より
(注3) 田中晋作『筒型銅器と政権交代』学生社,2009,P93~P98

【参考文献】
 大塚初重『卑弥呼の鏡 謎と真実』青春出版社,1998
 『鏡の時代-銅鏡百枚-』大阪府立近つ飛鳥博物館,1995
 『卑弥呼-女王創出の現象学-』大阪府立弥生文化博物館,2015


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# by y-rekitan | 2017-01-20 10:00 | Comments(0)

◆会報第77号より-04 八幡の古代植物④

シリーズ「八幡の古代植物」・・・④
八幡に見る古代植物 (第4回)

古代植物研究会代表 大谷雅彦 (会員) 


イチイ

 イチイ科イチイ属、常緑針葉高木樹。日本全国に生育していますが、近年はあまり見られなくなりました。東北地方から北海道に多く見られるようです。f0300125_6561238.jpg雌雄別株で、秋に赤い実を付けるのは雌株です。別名アララギとも呼ばれ、東北地方ではオンコとも呼ばれています。
 イチイの名前の由来は、仁徳天皇が、このイチイの木で笏(しゃく)を作らせ、その功徳をもって正一位を授けたことから、イチイ→一位となり、ここから階級制の名称に取り入れられたとも伝わっています。
 石清水八幡宮の研修センターの昇り階段の左下奥の隅にイチイの幼木があり、木の名前「イチイ」の札が付いているのでみてください。
f0300125_765819.jpg 中国地方の大山(だいせん)の頂上には、野生種のイチイが自生し、天然記念物に指定されています。
 樹としては、以前、床柱に利用されていました。針葉樹の中ではかなり堅い材に属し、強度も十分あります。また、年輪が細かく木肌がなめらかで光沢があり優美な感じがします。さらに、板の反りや割れも少なく、重厚な割に切削などの加工も容易であるとされます。
 木が曲がっていることが多いため製材の歩留りが悪いことや材そのものが少ないことなどを除けば優れた用材で、これほど木工に好適な材はまず見当たらないとさえ言えます。建築材や家具に使える程の量が確保できないので、現在では彫刻など、小さくて高価なものの原材料となっているのです。
 赤くて艶がある材質が珍重がられるので、寄木細工や象眼細工の材料になることが多い。そのため、飛騨高山では「一位一刀彫」という伝統工芸品があり、現在でもたくさんの彫刻師がいます。また、以前では鉛筆の材として多く使われていました。現在でも、鉛筆のB,B1、B2・・・等芯の軟らかい鉛筆の木材はイチイが使われているようです。

知っておきたいこと

(1) イチイには変種があります。キャラボク・オウゴン・キャラ・キミノオンコなどです。そのうちのキャラボクは、その名が香木の伽羅(キャラ)に似ているため付いたのですが、全くの別種である。キャラボクとイチイを比べた場合、全体的にはイチイの方が葉が明らかに大きい。
(2) イチイは東北北部と北海道では、サカキ・ヒサカキを産しないため、代わりにこのイチイが玉串など神事に用いられる。従って、この地域の神社では境内地に植えられている場合が多い。
(3) イチイガシは全くの別物なので要注意。イチイの葉と似た種類の木がたくさんあるのでご注意!


大宝律令における位階制

 イチイ=一位にちなんで、「大宝律令」における位階制について紹介します。大宝律令は、大宝元年(701)に制定されました。f0300125_153083.jpgそれ以前の冠位は48階を基礎にしていますが、大宝律令は、48から30に減じています。
 親王は一品(一位)から四品まで4階の品位(ほんい)に、諸王・諸臣は同じ一品(正一位)から従
五位下の間におかれ、親王と区別されています。外臣に対しては、正五位上から下の位に置かれましたが、朝廷への功績に応じて叙されました。(品はほん、又はぽんと読みます)
 その後、時の天皇が数度にわたり改正(改編)しますが、基本的に大宝律令の位階制が維持され、明治に入って一旦廃止されます。しかし、これに似た位階制が出来、これが延々と続き、現在の我が国の公務員の職階性につながっているとされます。

終わりに

 今回で、八幡に見る古代植物は終わることとなります。今後、八幡市内で歴史的にゆかりのある植物がみつかることを楽しみにしています。そして、八幡に現存しない古代植物も他にはたくさんありますので、今後みなさんにお伝えする機会があればと考えているところです。


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# by y-rekitan | 2017-01-20 09:00 | Comments(0)

◆会報第77号より-05 五輪塔⑧

シリーズ「五輪塔あれこれ」・・・⑧
誰の手によって造られたのか

野間口 秀國 (会員) 


 本章では「だれ / Who 」を考えてみたいと思います。現地の説明板に「摂津尼崎の商人が中国宋との貿易の帰途、石清水八幡宮に祈って海難を逃れ、その恩に報いるため建立されたと伝えられる」とありますので、この商人について調べることを避けては通れません。また『八幡市誌 第1巻』には、「その海難を逃れられたお礼として承安年間(1171~4)に建立したものであると伝えられている。」ともあります。

 手始めに 『兵庫県謎解き散歩』(*1)に書かれた人物群にもヒントを求めましたがそれらしきことは見出せず、引き続き 『尼崎市史』 (*2)及び 『図説尼崎の歴史』(*3)に目を通すも、その時代の商人らしき人の記録は見つかりませんでした。尼崎市の担当部門の方にもお聞きしましたが、「石清水八幡宮五輪塔と尼崎の商人のつながりについての記録は無く、伝承は伝わってない」との旨の回答を同市立地域研究史料館よりいただきました。およそ300年にわたる宗の時代(北宋と南宋・10世紀後半から13世紀後半、日本では平安時代後半から鎌倉時代にかけての頃)であり、当時の宋との交易は始まっていたと考えられます。もし説明板にある商人が関係しているのであれば、この後発見されるかも知れない史料などを待たねばならないのでしょう。

 さて、尼崎の商人に続く次なる人物を探したいと思います。そのことに少なからず関すると思われることが『八幡市誌 第1巻』(P242)に以下のように書かれています。曰く「・・蒙古襲来に際して、亀山上皇が弘安四年(1281)六月二十日に八幡宮社前で祈願されており、あるいはそれに関連して造立されたものではないかとも考えられる。」と。また、歴探の土井三郎氏は2013年11月18日に八幡市駅前にて開催された「街角勉強会」の展示史料にて以下のように述べておられるので、少し長いですが引用したいと思います。 以下引用部 ;「この五輪塔、奈良の西大寺にある五輪塔と形がよく似ている。西大寺といえば叡尊が思い出される。元の襲来に際し、朝廷は諸国の社寺に異国調伏を祈願させた。西大寺の叡尊は国家的要請を受けて石清水八幡宮にやってきて祈祷をしたとのこと。その祈祷によって、石清水から飛んだ神矢が神風をもたらし蒙古の軍船を難破させたという伝承を生んだ。伝承はともかく、叡尊は律宗の教団を率いた高僧である。そして、律宗教団と云えば石塔や墓石の築造に長けた石工集団を率いたことで知られる。巨大な石を切り出し、細工をほどこすことに長じた職人を抱えていたとならば、高さ六メートルに達する五輪塔をこしらえたり、設置したりすることは御手の物だったのかも知れない。」; 引用終わり

 また、この史料に見える石工集団に関連することは、歴探会報の第53号(2014.8.25刊)にて、同じく歴探の谷村勉氏による「大乗院の五輪塔と石工集団」と題する寄稿にも見られます。氏の書かれた内容は本章で扱う石清水八幡宮五輪塔そのものについてではありませんが、 “伊派の石工集団” についての概略がとても分かり易くまとめられております。よって、石清水八幡宮五輪塔を造立したと思われる叡尊と石工集団について、改めて紙面を割くことは控えたいと思います。

 先述の『尼崎市史』に商人の名前は見つかりませんでしたが、弘安の役、1281(弘安4)年、の前後のころの叡尊に関する記述はありました。 曰く、「・・・しばしば異国降伏の祈祷を行い、弘安の役に元軍を敗退させた暴風雨は、かれの石清水八幡宮での祈祷による神風だと当時の人々にうわさされた。」 と。このような記載内容からも叡尊が深くかかわっていたであろうことは想像に難くありません。が、これら複数の記述とて叡尊によって造立されたと確定できるものでは無いと思われます。現場の解説板を皮切りに、第1章からここまで石清水八幡宮五輪塔について「何か」、「いつか」、「どこか」などを書きましたが明確な答えは得られずじまいです。しかし、どのような答えであっても、「このように大きな石清水八幡宮五輪塔造立の発願者はいったい誰であったのか」との疑問は個人的にもっとも興味あるところなのです。

 ここまで書き進めても次々と出て来るいろいろな疑問に確実な答え見いだせません。よって、お読みいただいておられる皆様にもあまり楽しくないであろうと思いますので、少し紙面をいただき、これまでに出会ったいくつかの五輪塔に語り継がれていることや、言われなどについても書きたいと思います。
 本章では「文覚上人(もんがくしょうにん)(遠藤盛遠(もりとお))」の墓について書いてみたいと思います。京都市内から国道162号線を北西に進むと1時間余りで神護寺(じんごじ)門前近くに着きます。登り口手前の高尾橋近くに車を預けて橋を渡り、途中にある茶屋などを見ながら、およそ400段を登ると楼門に至ります。門をくぐって更にいくつかのお堂などを左右に見ながら境内を登り金堂へと向かいます。金堂の右手から始まる林の中の道を引き続き10(~15)分ほど登り、たどり着いた所に性仁法親王墓と並んで建てられた文覚上人墓五輪塔を見ることができます。神護寺は平安時代に二度にわたる災害によって堂の多くを失いました。文覚上人はその荒廃を嘆き、1184(寿永3)年、後白河法皇の勅許を得て、また源頼朝の援助もあり寺の復興を見たのです。五輪塔のあるこの場所に立つと、墓塔がこの地に建てられた理由も納得できるようです。
f0300125_14485762.jpg
 さてこの文覚上人、もとの名を遠藤盛遠と言い、城南離宮の北面の武士だったのです。盛遠は大坂の渡辺橋で行われた橋供養に訪れた鳥羽刑部左衛門(注1)の妻の袈裟御前(けさごぜん)を見初めて横恋慕し、その母を脅して夫との縁を切るよう強く迫りました。困り果てた袈裟は悩んだあげくに、「ならば夫を殺すよう」にと盛遠に告げ、「夫の髪を濡らしておく」と伝えます。夜半に忍び込んだ盛遠は、濡れた髪が袈裟自身のものであることを知りません。袈裟は寝ている母と夫を守るために身代わりとなり盛遠に首を斬られて命果てました。殺した相手が夫ではなかったことに気づいた盛遠は自らの愚かさを悔やみ出家したのです。出家した盛遠は冬の寒さの中、凍えるような那智の滝の滝壺で首まで身を沈め、呪文を三十万遍唱える荒行を行いました。厳しい数々の修業を終えた盛遠は文覚と名乗り、こののち後白河法皇の宴席に押し入っては神護寺復興への寄付を何回も迫ります。このような行為を繰り返す文覚は法王の怒りに触れてついに伊豆に流されます。伊豆では既にその地に流されていた源頼朝に言葉巧みに近づき、平家追討の謀略を勧めたのです(以下、略します)。

 ところで、神護寺山上の文覚上人墓五輪塔が向いている方向(京都市伏見区下鳥羽)に袈裟御前の首塚のある恋(戀)塚寺があります。この寺は文覚が袈裟の菩提を弔うために建てたと言われており、f0300125_1554781.jpg寺にある宝篋印塔(ほうきょういんとう)は袈裟御前の墓と言われております。寺のしおりにある縁起には「袈裟御前の物語は古来より貞女の鑑という意味で世に傳えられ、その理想像として世人に知られているところである」と書かれています。寺は建てられた当初は北向きでしたが、鳥羽伏見の戦いで寺が荒れてしまい、その時に神護寺のある北西方向に向きを変えたと言われております。実は、文覚上人が袈裟御前の為に建てた恋塚と言われる五輪塔を有する寺がもう一つ京都市内にあることは多くの人がご存知だと思います。f0300125_15112656.jpg その寺は京の六地蔵の一つ(鳥羽地蔵)でもあり、前述の恋塚寺から北へ2Kmほどのところ(京都市南区上鳥羽)にある浄禅寺です。この寺のしおりにも、恋塚寺のそれと同じく、盛遠が袈裟を弔った墓(首塚)と書かれてあります。『歴史家の案内する京都』(*4)にはいずれとも決め難いと書かれてありますが、私も全く同感です。 歴史の真実はいったいどうなのでしょうか。

 世の東西を問わず、いつの時代にも許されない男と女の悲恋物語はありますが、当会の会報(43号及び51~56号)にもそのような物語が取り上げられております。本章で改めて書くことはいたしませんが、それは私たちが八幡市内で見ることのできる「女郎花塚」と「頼風塚」と呼ばれる二基の五輪塔(墓)にかかわる物語です。これらの五輪塔を訪れて、八幡に古くから語られている悲恋物語に思いをいたすのも歴史を学ぶ手だての一つかも知れません。
(次号につづく) 空白
参考図書;
(*1)『兵庫県謎解き散歩』大国正美編著・日経出版刊 
(*2)『尼崎市史』 第1巻(昭和41年)第4章 
(*3)『図説尼崎の歴史』 (平成19年)中世編 第二節2 「港津の発展と商工業」
(*4)『歴史家の案内する京都』 仁木宏・山田邦和編著・図書出版文理閣刊、

史料・資料など; 
神護寺、浄禅寺、恋塚寺の栞
京都新聞記事(2015.11.26・文覚上人悲劇招いた恋)
文学・歴史ウオーク「兵庫津の道を歩く(2015.12.6)」の配布資料
歴探関連資料
会報43号(2013.10.28)「女郎花」猪飼康夫氏、
街角勉強会(2013.11.18)の展示史料
会報51~56号(2014.6.30~11.26)「女郎花と頼風」土井三郎氏
会報53号(2014.8.25)「大乗院の五輪塔と石工集団」」谷村勉氏

注1;他に 源左右衛門尉渡、渡辺左衛門尉源渡 などの表記あり。


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# by y-rekitan | 2017-01-20 08:00 | Comments(0)

◆会報第77号より-06 詩歌と八幡の歴史⑤

シリーズ「詩歌に彩られた八幡の歴史」・・・第5回
八幡庶民の雑俳ブーム

 土井 三郎 (会員) 

1、はじめに

f0300125_1821527.jpg 2007年10月、京都府立山城郷土資料館が『南山城の俳諧-芭蕉・蕪村・樗良-』と題する特別展を開催しました。私は展覧会を見ていませんが、同時に発行された図録を入手しました。

 図録は南山城地域における俳諧の広がりについて紹介したもので、私にとって「八幡八景」との最初の出会いとなりました。もう一つの出会いは、延宝5年(1677)に刊行された『木津乗会船』です。本書は、現在の木津川市周辺の名所旧跡の案内を兼ねた俳諧を中心とした作品集で、まだ翻刻されていないということから、知人の勧めもあってその勉強会に参加し、足しげく通うことになりました。以来6年の歳月が流れ、今では俳諧の魅力にすっかり取りつかれるようになりました。
 勉強会を重ねるうちに、『初桜之巻』と題する、南山城を中心とする雑俳(ざっぱい)集の存在を知りました。これは、享保14年(1729)ごろに合冊されたものですが、何とその中に「奉納八幡谷不動 京知石撰」と称する俳諧集が収まっていたのです。


2、雑俳ブーム

「奉納八幡谷不動京知石撰」は、八幡の神応寺の奥にある杉山谷不動堂に奉納した雑俳集で、京知石とは、京都在住の知石(ちせき 1681~1740)と称する俳諧師です(※1)。その知石が撰者=点者となって70句を撰集したのです。
「雑俳」とは、芭蕉や蕪村に代表される本格的な俳諧に対して、形式・内容ともに雑駁(ざっぱく)で遊戯化された俳諧のことです。当時の南山城地域に起こった雑俳ブームについて、先に紹介した図録の記述を中心に紹介します(※2)。
俳諧が江戸時代の人々に広く親しまれるようになった頃、前句付(まえくづけ)と称する二句の付合を気軽に楽しむ雑俳という文芸が俳諧から派生し、元禄年間(1688~1703年)には広い地域で庶民の人気を集め、人々は進んでこの種の文芸に参加していった。南山城地域もその例に漏れず人々は関心を寄せ、元禄期には雑排ネットワークとも言うべき組織が出来あがった。
点者に出題句を出してもらい、作品を募集し(その際、点料を徴集)、優秀な作品を選んでもらいそれを発表した。このようなシステム全体を「興行」といい、その興行主が会林である。
〇 作品は地域の社寺に奉納されているが、作品奉納の意図には作品の上達を祈念するとともに村落の人達の和を願う意も込められていた。

3、作品の解釈と鑑賞

 「奉納八幡谷不動京知石」は、崩し字で記されています。翻刻には歴探の会員であるOさんに助けてもらい、解読および鑑賞にとりかかりました。今回、何とか理解ができ面白いと思ったものだけを紹介してみます。
最初に出題句を紹介し、それに付けた優秀な句を紹介します。出題句を後句として読むと付句の趣向がよくわかるかもしれません。私の寸評も付してみました。

                     
すりすりすらすらすらりすらすら  
浴(ユアミ)して髪とくような御政道  上津屋・哥林
「御政道」を批判しているのでは無く褒めているのですから、お上からは許容されるか? 雑排には御政道を皮肉ったものもあり、幕府は目を光らせていたとのことです。

こいはくせものこいはくせもの
かなづちの重き異見もぬかに釘  上津屋・芳水
金槌のような重い他者の忠告も恋の熱に浮かされる者には「糠に釘」ということです。

いもせ川中に堤の出来普請      ヨト・羽水
「いもせ」とは親しい男女の関係を指します。その「妹瀬」に堤防ができました。二人の恋路の邪魔をする者が出現したということで、普請ならぬ不審が募るというものです。   

ちかひしはどの松山のなみぞいの    上ナラ 淸井
古歌に歌われる、恋の誓いを立てる「末の松山」ですが、そんな松山はどこにあるのだとうそぶいているようです。(※3)。

たてまつるなりたてまつるなり  
女郎花御目にとまって手向草    山本・連中
八幡名物の女郎花が目に入るや手向草を献じて奉らんとする心は殊勝なものです。
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気をはりけり気をはりけり 
婿の手に渡す日迄は預りもの    八ワタ山・吟梦
親にしてみれば、愛娘を婿に渡すまでは預かりものとして大事に遇しないといけません。まさしく気を張るものです。

もやもやともやもやと
雷に臍くり金が気にかかる    上津屋・芳水
雷は人のへそを狙うといいます。だが、へそはへそでも「へそくり」なのですから防御を怠ってはなりません。もやもやと気になるのはよくわかります。

本妻の心を下女にをきつ浪   平瓦・曲鈎堂
浮気者の亭主は、心を寄せる下女にも本妻の焼もちやきが起こるのではないかとヒヤヒヤものなのです。「おき(沖)つ浪」と歌語をパロディ風にあしらっているのも俳諧的です。

およそ大方およそ大方
谷不動あらた也けり新ひらき     上ツヤ・花遊
「谷不動」はこの作品を奉納した杉山谷不動でしょう。今、修復なって霊験あらたかな不動堂としてよみがえり、寿ぐ気持ちで詠んだもののようです。

談合も小夜の中山道中記     フシミ・大黒組
「談合」は商談? 「小夜の中山」とあれば、西行の「年たけてまたこゆべしと思ひきや命なりけりさよの中山」が思い出されます。であれば、商談も命がけということです。そして、その商談は中山道でのことなのでしょうか。「大方」は「大事」の意?

4、作者や会林のことなど
 「奉納八幡谷不動京知石撰」には70句の作品が収録されています。作者がどこに住む者かわかるので地域ごとの延べ人数を調べてみました。多い順では以下の通りです。
八幡(八幡山もふくむ)14人、上津屋(こうづや)8人、上奈良6人、淀6人、伏見3人、岩田・山本・津田・天神森・大川・市田各2人ずつ。他は、橋本・美豆・佐古・玉水など各1人ずつ。

 杉山谷不動堂に奉納するとあってやはり地元からの出品が多いことがわかります。
 作者はどんな階層の人々なのでしょうか。哥林や芳水、羽水などの雅号だけでは身分や職業がわかりません。また、「大黒組」などのグループ名が見られますが、それらは建設業など同業者のグループを指しているのでしょうか。先に紹介した「木津乗会船」の作者には、郡山藩の家老などの武士や僧侶、廻船業のオーナーと思しき商人も見られ、身分の枠を越えて様々な階層の人々が文芸に興じたということがわかっています。
 ところで、当奉納集は、上津屋の「大集軒」と称する会林(会所)が仲立ちとなって撰集されました。八幡の上津屋に会林があったらしいのです。但し、わからないことだらけです。集められた雑俳はどのように選定されたのか。作者同士が日常的に接し交流する場がなかったのか。撰者である知石と八幡の人々に師弟関係がなかったのか。そして、江戸時代全体を通して、八幡では雑俳をふくめた俳諧の文芸がどのような推移をたどったのか。明らかにしたいことばかりです。
そのようなことを課題にして、これからも八幡における俳諧文芸の実相を探ってゆきたいと思います。

※1、知石 俳諧師。雑排点者。鈴鹿氏。別号、寸花堂のち芦花翁。京都、吉田神社の社家に生まれる。鞭石門で執筆(しゅひつ)を務める。享保期(1716~36)の京都雑排界に重きをなした。
※2、石川真弘「木津川と俳諧文化―「木津乗会船」と雑排―」(山城郷土資料館発行『南山城の俳諧-芭蕉・蕪村・樗良-』所収)
※3、「きみをおきてあだし心をわがもたばすゑの松山浪もこえなん」(古今和歌集)をふまえる。


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# by y-rekitan | 2017-01-20 07:00 | Comments(0)

◆会報第77号より-07 東高野街道

大阪府下の東高野街道に「やわた道」の
道標を訪ねて


谷村 勉 (会員)


 近年、東高野街道という道の名称が八幡市内に聞かれるようになり、八幡市に住む住民にとっては大変な違和感を持ちました。八幡市内の道を今までに「東高野街道」などと呼んだ記憶がないからです。八幡の道を「東高野街道」と呼ぶのは可笑しい?という立場から以下報告致します。・

 八幡は周知の如く平安時代(貞観元年・859 年)の八幡宮遷座以来、石清水八幡宮を中心に発展し、周辺の街道も八幡宮参詣道として凡そ 1,100 年以上の歴史を紡いできた経緯があります。特に近世江戸時代にはどの大名の支配も受けず、なおかつ検地免除(税金免除)の町として整備され、裕福な蔵の町と称されるほど神領自治組織の地として繁栄してきました。その八幡に他の宗教施設を連想するような街道名が存在するはずもなかったのです。

 なぜ最近「東高野街道」などと言い出したのかと問いますと、観光戦略として観光客を誘致するために言い出したようです。観光客や八幡に越してきた人々や八幡の道を散策する人々が、昔から八幡の道を「東高野街道」と呼んで来たかのように錯覚している現状を見ると、歴史街道と言いながら、歴史を顧みることもなく、八幡の歴史を知らない人々が多すぎて、このような事態になった様です。観光の集客目的に道の名称を付けるなら、固有の歴史的名称である「八幡宮道」で良かったはずですが、八幡の道の歴史調査を怠り、八幡に住んだこともなく、歴史も知らない学者や役人の言葉を借りて、何処かのブームにおもねるかのように、いわゆる「東高野街道」と名付けてしまった感があります。八幡宮参詣道を「東高野街道」と言い換えれば、八幡固有の歴史が歪曲されてしまう事態に繋がらないかと大変な懸念を持ちます。我々が八幡に云う処の高野街道とは洞が峠を起点として、大阪府下に向かう道が歴史としての高野街道です。八幡宮を目指して八幡に入れば「やわた道」、「八幡宮道」となって、大勢の八幡宮参詣者が往来する道でありました。私にとって大阪府下の東高野街道沿いの交野、村野、星田、茄子作などは昔から馴染みの町々でありました。今回、従来気にもしなかった大阪府下の東高野街道を歩き、街道筋に一体どのような「道標」があるのか興味が湧きましたので、「やわた」と記入された道標を中心に踏査しました。東大阪市に初めて「やわた」と記入された道標があり、結局、東大阪市から八幡市に向かって合計 12 基の道標が確認できましたので、現存する道標を紹介し、いかに「やわた道」として認識されてきたかを伝えることができればと思います。いわゆる「東高野街道」が在って「国宝の石清水八幡宮」が存在するのでは本末転倒の話になります。実に固有の歴史が八幡には溢れていますが、やはり現場を歩き、八幡の道の歴史を自分の目で確かめる作業が不可欠だと思いました。

*東大阪市喜里川町の道標

最初の東大阪市喜里川町での「やわた道標」は 2 基あります。

 1基目は近鉄瓢箪山駅から北に向かい「喜里川町南」の信号右側の「瓢箪山安全安心ステーション」横に在りました。
 2基目は 1 基目の道標から斜め北へ凡そ 200m 程の地点にありました。
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*東大阪市箱殿の道標

 暗峠越奈良街道との五叉路の交差点、開業医の銀杏の木が目印。
 大師堂の横に観音像の道標がある。また奈良街道を東にとればやがて小さな公園が右に見え、大坂夏の陣で家康が陣を張った所に出会う。
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*東大阪市日下町の道標

 街道沿いの孔舎衙(くさか)小学校の敷地内にある。
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*大東市中垣内の道標

 阪奈道路を横切って暫く行くと古堤街道交差点の郵便ポストの横に「龍間山不動尊」の道標が目に入る、東に少し入れば「右 大峯山上道」の大きな道標がある。
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*四条畷市中野の道標

 清滝街道との交差点には 3 基の道標が並んでいるが、地蔵道標が「やわた道」の道標である。
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*寝屋川市の道標

 寝屋川市には打上と寝屋に 2 基の道標があり、JR 東寝屋川駅近くの打上の辻に道標が 1 基あり、秋葉山の燈籠もある。さらに北へ進めば傍示川手前に弘法大師像を見て川を越えると、寝屋の大井川万吉の自然石道標があり、JR 星田駅へと向かう。なお江戸時代、星田村は石清水八幡宮の他領神領(148 石余)でした。
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*交野市私部(きさべ)西の道標と本尊掛松

 東高野街道と山根街道の合流点にある「京八幡道」道標、左の道が東高野街道で、坂を下ったところに、本尊掛松の立派な地蔵像がある。南北朝時代、石清水八幡宮神職小川伊高が法明上人と予期せず出会った所で、共に霊夢を受けて融通念仏宗の本尊「十一尊天得如来画像」を小川伊高からここで授かった法明上人は歓喜のあまり、松の木に本尊をかけて踊りだした。融通念仏中興の祖と言われる法明上人と小川伊高はその夜茄子作北の犬井甚兵衛屋敷に泊まり、その後、小川伊高は法明上人に帰依し、大坂平野郷に住んだと伝わっています。
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*交野市松塚の道標

 こちらも地蔵道標、中央の地蔵尊。普通の角柱道標と思いこみ探し回った。
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 なお、交野市は江戸時代まで石清水八幡宮の他領神人が多く住んだところで、石清水放生会の祭祀には「火長」「火燈」「御前払」の役を担いました。

*枚方市郡津の道標

 枚方市村野浄水場南側の郡津墓地内にある。
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*枚方市大嶺の道標

 春日街道と交差する所から 100m 程外れた所に道標がある。
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*枚方市出屋敷の道標

 街道の雰囲気を残す枚方市出屋敷の町筋。
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「京 やわた道」の道標について

 大阪府下の東高野街道を東大阪市から枚方市まで踏査して「やわた道標」ともいうべき江戸時代の道標を見るにつけ、その土地の人々の道標に巡らす思いや、その変化に富んだ形態には豊かな創造性を発見した思いです。ここに報告しました道標は殆ど江戸時代のもので、これらは歴史街道にふさわしいものでありました。枚方市出屋敷の「東高野街道 壱里」の石碑は「洞ヶ峠から壱里」を示す明治の道標です。道標の形態には角柱が圧倒的に多いのですが、江戸時代にはめずらしい「指矢印」の道標を東大阪市喜里川町で見ました。また東大阪市箱殿に在る「観音像」を彫った角柱は見応えのある道標に仕上がっています。四条畷市中野の舟形光背の地蔵道標は他の二つの道標と並んで特異の存在感でありました。交野市松塚の地蔵道標も周辺の地蔵尊が集められて四体とし  一石五輪塔の一基を加えた中央のやや大きな地蔵の舟形光背に「京やわた道」と彫られていました。寝屋川市寝屋の「大井川万吉」の道標には自然石が使用され、力士の力強さが表現されています。比較的八幡に近いこれら周辺地域の人々がこの街道を「京道」、「京街道」とも呼んでいたようです。それは道標群とともに、古文書調査でも報告されています。ともあれ、多くの人々には名所、旧跡に加えて是非「道標」の持つ魅力にも目を止めて欲しいと思います。

八幡宮を目指す歴史としての道標

f0300125_2152265.jpg 「京 やわた道」あるいは「やはた道」の道標に導かれて洞ヶ峠に付いた人々は、ここに来てやっと「やはた道」に入ったと実感し、ほっとしたことでしょう。峠を下れば八幡の風景が眼前に広がります。道は「八まん宮道」となって、石清水八幡宮を目指します。現在、八幡あるいはごく近くの周辺を含めて 7 基の「八幡宮道」と1基の「やわたみち」と彫られた江戸時代の道標を確認しています。古い「高野街道」の道標は道の南北に 1 基もありません。八幡の道は八幡宮参詣道であって、高野道ではないと認識していますから。当然と言えば当然です。

f0300125_22111226.jpg 洞ヶ峠から中ノ山墓地前の旧道を通り過ぎ、八角院に入れば「すく八幡宮」の道標が残っています。 慶応三年丁卯八月(1867)の建立で「役行者像」が彫ってあります。       
 大阪府下の高野街道で見た風格ある道標の形態と同じで、以前は八角院近くの旧道に建っていたものと思われます。
 道標によく書かれている「すく」あるいは「すぐ」、「春具」の意味は「真っすぐ行くと」と云う意味になります。

(左の写真は神戸市/故荒木勉氏の撮影です)




最近建ったばかりの八幡のいわゆる「東高野街道」の道標
 
f0300125_22295142.jpg右は最近俄かに建った八幡のいわゆる「東高野街道」の道標です。大阪府下の一連の個性的な道標を見た後に、この道標を見ると、如何にも俄か仕立てで現代風の薄っぺらな、歴史観の乏しい道標に見えてしまいます。
 道標には建立年月日や建立主体も彫られていません。平成××年建立と彫らない理由は何でしょう。しかも凡そ3km程の間に13基の道標が建つ始末です。
  13 基という数には必ず無駄と間違いがあります。観光集客の目的とはいえ、異様な風景に見えてしまいます。
 八幡には「石清水八幡宮参詣道」としての歴史街道はありますが、いわゆる「東高野街道」と銘打って歴史とするような本末転倒の歴史街道はないと思います。
*次回、現在も八幡周辺に残る歴史的道標群について、詳しく報告します。
# by y-rekitan | 2017-01-20 06:00 | Comments(0)

◆会報第77号より-08 歴探サイト

八幡歴探サイト(ホームページ)の現況報告
――お陰様で閲覧者数がのべ3万人を超えました――

高田 昌史 (八幡の歴史を探究する会事務局)


f0300125_125230.jpg 八幡歴探サイト(ブログ版ホームページ)は、平成25年11月のオープンから3周年が経過しました。この間多くの方に閲覧いただき、合計来訪者数はのべ3万人を超えましたが、これを機会に日頃インターネットになじみのない方々も含めてより多くの方々にご活用いただければと、以下にサイトの現状をとりまとめました。

1.八幡歴探サイトについて
http://yrekitan.exblog.jp/

 当初は会報記事の紹介ブログとして発足しましたがその後いろいろなコーナーを設け、現在では本会の全容をカバーする サイトとして運用しています。
 その主たる役割は①集いの案内等、会員向けの情報を迅速適格に発信する、②貴重な会報記事を読みやすい形でウェブ化しデータベースとして蓄積する、③本会の活動状況を広く世間にご認識いただく一助とする等にあり、そのためこのサイトでは以下のようなコーナーを設けております。

▼集いの案内や本会の活動紹介
 「新しい集いのご案内」、「トピックス」、「出版活動」等のコーナーを設けていますが、特に「新しい集いのご案内」では講演会、歴探ツアー等、本会主催の集いに関する最新の案内が掲載されており、個々の案内のパンフレットも見て頂けます。また「本会の概要」、「入会のご案内」、「会則」、「本会の沿革」等を配置しております。
▼会報記事の紹介とデータベース化
 『会報記事の紹介コーナー』では会報記事を「会報号別」、「連載記事」、「個別記事」等の切り口でアクセスして頂けます。また「講演会記録」、「歴探ウォークの記録」等に特化したアクセスのページも用意しています。 

2.会報記事へのアクセス
 
 現在は会報76号分で342件の記事が収納されており、その内訳は表1に示すとおりです。f0300125_06233.jpg紙会報に比してウェブサイトでは写真がカラーで読みやすくいつでも簡便に見えることが特徴ですが、今後もますます増えていく記事にいかに迅速にアクセスして頂くかがサイトを構成するポイントであり、そのために種々の切り口から記事にアクセスできるインデックスを用意しています。

▼会報号別にアクセス
トップ画面の「会報号別欄」には会報号一覧があり、そこからワンクリックで任意の号報記事に飛ぶことができます。その後はスクロールのみでその号の全記事を一気読みすることができます。
▼連載記事を一気に読む
 トップ画面の「連載記事欄」には連載記事一覧があり、ワンクリックで任意の連載記事の最初の記事に飛ぶことができます。そのあとは記事末尾の『この記事の続きは』をクリックして頂くとその連載記事を連続して読むことができます。
▼講演会の記録を一気に読む
 「講演会の記録」コーナーには当会で開催した全ての講演会の記録の一覧が設けられており、任意の記録にアクセスすることができます。ここでも各記事末尾の「次の講演会記録へ」を辿って行くと歴代の講演会記録のみを連続して読むことができます。
▼歴探ウォークのレポートを一気に読む
 「歴探ウォークの記録」コーナーには当会で開催した全ての歴探ウォークや歴探ツアーの記録の一覧が設けられており、任意の記録にアクセスすることができます。ここでも同じく歴代の歴探ウォークのレポートのみが連続して読める構成としています。
▼個別記事を直接読む
 トップ画面の「個別記事欄」には連載記事や講演会、歴探ウォーク以外の個別記事の一覧があり、任意の記事に飛ぶことができます。
▼キーワード検索で記事を探す
 このサイトでは八幡特有のキーワードを選ぶことで関連記事をまとめてお読みいただく機能を設けております。方式は2つあり、《任意検索》ではサイトトップの右端の『検索』部に任意のキーワードを入れてクリックすると、そのキーワードを含む全ての記事が列挙されます。また《タグ検索》ではサイトトップの右端の『タグ』部でキーワードをクリックして頂くと、それに関連した記事をスクロールのみで一挙にお読みいただけます。なお各タグに収納されている記事数は現在以下の通りです。
石清水八幡宮(61)、八幡の寺院(27)、神社[石清水以外](27)、石碑と由来(26)墓地と墓石(20)、遺跡・古墳(18)、松花堂昭乗(15)、橋本地区(12)、木津川(12)、東高野街道(10)、エジソン(10)、豪商淀屋(9)、古道(9)、八幡八景(7)、八幡宮の神人(6)、地蔵菩薩(4)、二宮忠八(3)
 以上、種々の機能を列記すると画面の操作が複雑なように思えますが、サイトのトップ画面を軸に色々なコーナー間をワンクリックで行き来できる簡便操作の構成としておりますので、サイトの取扱説明のコーナーも参照しながら是非サイト内を散策して頂ければと思います。 http://yrekitan.exblog.jp/20734514

3.アクセス分析から見えること

 このサイトでは、ブログの管理者用機能として種々のアクセス分析ができるようになっており、f0300125_0372792.jpgそこからはいろいろな風景が浮かび上がってきます。表2はその分析データを基に作成したこの3ヵ月間のアクセス状況です。

▼訪問者数と記事閲覧数
 訪問者は今まで毎月1000人程度で推移してきましたが、先月からパソコンからのアクセスに加えてスマホからの訪問者もカウントされ始めたこともあり、今後はのべで月1200人、毎日40人の方が訪れるペースとなりそうです。この訪問者の大半はグーグルやヤフーの検索サイトからの来訪ですが、その際の検索キーワードの集計結果を見ると、八幡ゆかりの地名、人名、歴史スポットや行事といった広範囲なキーワードで全国からアクセスがあることが窺えます。なお、この訪問者数は同じ人が一日に何回アクセスしてもその日は1回としてカウントする方式です。また当サイトが利用しているブログ会社のexcite社では全exciteブログの中でのアクセスランキングを毎日集計していますが、その中で当サイトは概ね4000位近辺にあり、excite社のあまたのブログの中で上位1%以内の位置に付けております。
 閲覧記事数とは訪問者が何ページの記事を閲覧したかを示したものです。訪問者数の3倍程度の値を示していることから、一旦来訪した人はあちらこちらの数ページの記事を散策して頂いていることが窺えます。

▼各記事へのアクセス状況
 このサイトではどの記事にアクセスされたかがカウントされており、毎月のアクセスランキングが100位まで集計されています。表3はそれを基に最新の3ヶ月間の上位20個を抜き取ったものです。f0300125_0222749.jpg
この表からは極めて広範囲な記事が読まれていることが窺えますが、「新しい集いの案内」や「入会の案内」等のコーナーのアクセスが上位を占めていることは、このサイトが入会案内、集いの案内等、広く会員内外への広報の役に立っていていることを示しているものです。それは最近、このサイトを見て集いに参加を希望される会員外の近隣他府県の方が出始めていることにも表れています。
 なおそれに続く会報の個別記事(表中斜体文字で表記)へのアクセスランクは毎月変動しますが、その内最新号の記事を除いた上位の3記事を、サイトのトップページで「前月のアクセスtop3」として紹介しております。毎回思わぬ記事がランク入りしますので、それを懐かしく再読するのも楽しみの一つです。

4.併設掲示板も

 このサイトでは会員の皆様に気軽に使って頂ける掲示板を併設しており、リニューアル版として開設して二周年を経過しました。ただ今お寄せ頂いている記事数は56個、アクセスが3700件にのぼっており、会員の方が参加された種々の行事の紹介等の記事が数多く寄せられています。
 この掲示板の特徴はメッセージを寄せて頂くだけでなく、写真の掲載や外部へのリンクが簡単にできることです。御利用は容易であり、以下のリンクの取説をご参照いただきながらこれからも益々のお気軽なご利用をお待ちしております。

5.おわりに

 以上、お陰様で八幡歴探サイト(ブログ版ホームページ)は、掲載記事数、アクセス数ともに順調に増加しております。記事数がここまで蓄積してきますと講演会記録を始めとして、いずれもが貴重な八幡の歴史のデータベースといった様相を帯びてきていることを実感している次第です。また広く本会の内外からアクセスされていることにも感動しております。今後も引き続きより充実した情報が閲覧しやすいサイトを目指していく所存です。皆様からも情報や提案をお待ちしていますので、どうぞよろしくお願いします。

 なおこのサイトはブログをベースとして制作してはいますが、ブログの範疇を超えるホームページ並みの構成や読みやすさを目指して制作、運用してきました。そのために通常のブログでは使わないホームページ用のソフトウェア言語(html表記)を随所に用いております。従ってそうした技術面を含めて、このサイトは開設から今に至るまで一貫して茨木市在住の田中満男氏の全面的な協力を得ていることを、謝意をこめてここに付記しておきたいと思います。
# by y-rekitan | 2017-01-20 05:00 | Comments(0)

◆会報第77号より-end

この号の記事は終りです。


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# by y-rekitan | 2017-01-20 01:00 | Comments(0)

◆会報第76号より-top <スクロールだけで全記事が読めます>

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この号の会報からは現在、下記の記事が掲載されています。
このまま下にスクロールして頂くと順次連続してご参照頂けます。

◆シリーズ:“心に引き継ぐ風景”⑦◆
◆《講 演 会》八幡の古代遺跡と道◆
◆シリーズ:“八幡に見る古代植物” ③◆
◆シリーズ:“五輪塔あれこれ” ⑦◆
◆シリーズ:“詩歌に彩られた八幡の歴史” ④◆
◆シリーズ:“『三宅安兵衛遺志』碑と八幡の歴史創出” ⑦◆
◆第44回八幡市民文化祭展示発表を終えて◆



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ご意見は各記事下端のcomments欄をクリックしてお寄せください。

# by y-rekitan | 2016-11-20 15:00 | Comments(0)

◆会報第76号より-01 長濵尚次


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心に引き継ぐ風景・・・⑦
戊辰の戦火を逃れた
   「男山考古録」・長濵尚次
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 長濵尚次(ながはまひさつぐ)は石清水八幡宮の宮大工で「男山考古録」の著者としても知られるところです。寛政9年(1797)9月24日生~明治11年(1878)1月30日没、八十二年の生涯でした。
 「男山考古録」は八幡の歴史探索には必須の史料として現在も生き続けていますが、本業である建築はもちろん絵画、詩歌、天文学、神楽、茶・華道等多彩な才能を磨くなど、総合的な教養の蓄積を持った人物像が浮かび上がります。
 慶応4年(1868)正月6日「鳥羽伏見の戦」で、柴座町の長濵家屋敷も全焼し、所蔵した万巻の書は灰燼に帰しました。わずかに難を逃れたのは徳川家朱印状と男山考古録、神楽本、算数の書数部であったと記されています。この日は戦火を逃れるため八幡宮三社御鳳輦を、尚次を含む二百五拾人が供奉して大住の月読(つきよみ)神社(現京田辺市)に遷座の最中でした。
 松花堂昭乗が得意とした布袋図を、尚次の軽妙なタッチで描く作品が松花堂美術館に残っています。また石清水八幡宮には奉納の掛軸が在り、神應寺には寒山拾得図が、念仏寺には最晩年の雪月花の額装が残っています。
 いつか作品が一堂に会する機会でもあれば、近世八幡の文化レベルの高さ・広がりの一端に、尚次を通して刮目してみたいものです。
(写真と文 谷村 勉)
空白
  

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# by y-rekitan | 2016-11-20 12:00 | Comments(0)

◆会報第76号より-02 八幡の古道

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《講 演 会》
八幡の古代遺跡と道
-古山陽道と古山陰道-
2016年10月 八幡市文化センターにて
 引原 茂治
(公益財団法人京都府埋蔵文化財調査研究センター調査課)


 10月16日(日)午後l時半より、八幡市文化センター第3会議室にて表題の講演が行われました。概要を報告します。
 なお今回の概要は、講演会で配付された講演資料を編集担当が画像の挿入やルビをれ、講師の引原茂治氏の同意のもとに掲載するものです。参加者33名。

1、はじめに

 道の整備は、いつの時代にも必要な事業でした。その道によって、人や物、情報が行き交いました。日本では、7世紀中頃から8世紀にかけて、中国の政治体制である律令制を取り入れ、中央集権的な国家となりました。戸籍を作って国民個人を掌握し、税を徴収するなどの業務を円滑に行うため、地方行政機関を整備するとともに、それらをむすぶ官道の整備が必要になりました。f0300125_20272213.jpg 国内は、都が所在する畿内を中心に東海道、東山道、北陸道、山陰道、山陽道、南海道、西海道の七道に区分され、都と地方を結ぶ官道が敷設されました。官道は、物資や情報・命令ができるだけ早く伝わるよう、最短距離になるように敷設されました。距離を縮める工夫として、できる限り直線的に計画されました。
 南山城地域には、古代の官道跡と考えられる道路遺構が確認されている遺跡があります。城陽市の芝山遺跡と八幡市の内里八丁遺跡です。
 芝山遺跡は、木津川によって形成された河岸段丘上に、内里八丁遺跡は木津川の沖積平地に位置しています。なお、官道は、起点が都であるため、都が移れば、官道でなくなることもあります。南山城に推定されている官道も、都が平城京から長岡京・平安京へと移転するにつれて官道ではなくなったと考えられますが、それでも主要な道路として機能していたものとみられます。また、官道以外にも、古代の道路遺構とみられるものが確認された遺跡がありますので、それも併せて紹介したいとおもいます。

2、古代道路が見つかった遺跡

(1)芝山遺跡
 城陽市寺田から富野にかけて広がる遺跡です。古墳時代から奈良時代にわたる複合遺跡です。この遺跡では、南東から北西に並行して延びる奈良時代の溝が3条見つかっており、官道の北陸・東山道の側溝と考えられています。溝と溝の間は12mと9.7mで、他地域で確認されている初期と改修時の東山道の道幅と一致するようです。
 この推定北陸・東山道の西側に隣接して、奈良時代前半頃の掘立柱建物群が見つかっています。東西棟の3間×7間の建物が中心建物とみられ、その周囲に大型の掘立柱建物が正方位に沿って整然と配されています。その中には、倉とみられる総柱建物もあります。このような建物群は、一般集落のものとは考えられず、官衙(かんが)的な性格を持つものと考えられます。出土遺物も、瓦や磚(せん)・土馬(どば)・斎串((いぐし)など、一般集落とは様相のちがう遺物が出土しています。
 この建物群の性格については、久世郡衙や駅屋など、様々に考えられています。道路遺構に近接しており、官道と係わりの深い官衙遺跡とみられます。これまでの調査範囲は、遺跡全体からみれば部分的であり、今後の調査で、その性格を物語る資料が見つかる可能性が考えられます。

(2)上狛北遺跡
 木津川市山城町に位置します。この遺跡では、正方位に沿って南北に延びる溝が約100mにわたって見つかっています。調査地の制約上、対となる溝が見つかっていないので、道路遺構と断定はできませんが、北側の里道の延長部分にあたるので、道路遺構の可能性が考えられます。この遺跡では、墨書土器や木簡などが出土しており、官衙的な施設があったと考えられます。

(3)森垣内遺跡
 相楽郡精華町に位置します。ほぼ南北方向に延びる側溝と考えられる溝が2条見つかっています。2条の溝の間隔は4.8mであり、官道ではないものとみられます。

(4)三山木遺跡
 京田辺市三山木に位置します。ややハの字状ではありますが、北西から南東方向に延びる2条の溝が見つかりました。奈良時代の溝と考えられます。間隔は6~8mです。官道の山陰・山陽道を踏襲すると言われる府道八幡木津線の方向に近く、官道の方向に沿った地割の溝の可能性もあります。

3、内里八丁遺跡

 八幡市内里にあります。弥生時代から中世にかけての複合遺跡です。弥生時代の水田跡が見つかったり、古墳時代の竪穴建物や古代の掘立柱建物跡や井戸などが見つかったりして、注目されている遺跡です。
 奈良時代の遺構として注目されるのは、道路側溝と考えられる溝です。奈良時代末頃に設けられた溝で、2条の溝が北西から南東方向に延びています。2条の溝の間隔は12mで、芝山遺跡で見つかった北陸・東山道の側溝と考えられる溝と、ほぼ同様です。9世紀中頃には幅員が5~6mに縮小され、10世紀頃まで存続していたようです。歴史地理学者の足利健亮氏が復元された山陰・山陽道の推定路線付近に位置することも重要な点です。
 平成15年度に行った第20次調査では、奈良時代から平安時代初期の、倉と考えられる掘立柱建物や井籠組の井戸が見つかっています。f0300125_20442568.jpg掘立柱建物は3間×3間の総柱建物で、柱穴は方形で、一辺0.6~1mと大きく、柱は直径0.4m前後とみられます。しっかりした建物と考えられます。井戸は角材に近い板材を井桁状に組み上げたもので、その内部に細い板材をホゾで桶状に組んだ内枠を設けています。宮殿や上級の役所などに設けられる例が多い井戸です。一般集落では設けられることは無いようです。この井戸からは、銅製黒漆塗の帯金具や「水」と書かれた墨書土器、皇朝銭の「承和昌寳(じょうわしょうほう)」(835年初鋳)などが出土しました。
f0300125_2053197.jpg
井戸枠材には、その位置と組み立て順を墨書したものがあります。また、付近の調査地では瓦も出土しています。このような状況から、奈良時代から平安時代初期頃の内里八丁遺跡は、一般集落とは様子が異なることがうかがえます。この遺跡の性格を考える資料となるのが、絞胎陶枕(こうたいとうちん)です。

4、内里八丁遺跡出土の絞胎陶枕

 絞胎は、唐三彩(とうさんさい)と同じく、中国唐時代につくられた焼物で、鉛釉を施した軟質陶器です。白色土と赤褐色土を練り合わせて縞状の模様を表しています。出土した絞胎陶枕は、練り合わせた陶土の塊を板状に切ったものを貼り合わせて箱状に成形しています。外面には黄色味を帯びた透明釉を施しています。内面は無釉です。器壁の厚さは4~5㎜です。小片ですが貼り合わせの痕跡が見られ、その状況から陶枕の側板及び天板の一部とみられます。f0300125_2059990.jpg 出土した遺構は、土師器(はじき)や須恵器((すえき)が多数出土しましたが、破損品が多く、一種の廃棄土坑、いわゆるゴミ捨て穴と考えられます。これらの土器は、古いものでは7世紀頃のものも含みますが、多いのは、8世紀中期頃のものです。この土坑から出土した土器は、その頃に捨てられたものとみられます。
 絞胎陶や唐三彩などの中国唐代に生産された鉛釉(なまりゆう)軟質陶器は、日本の各地から出土していますが、量的にはあまり多くありません。そのような中で、奈良市の史跡大安寺跡からは、三彩や絞胎の陶枕片が多数出土しており、量的には群を抜きます。日本で唐三彩や絞胎陶が出土する遺跡は、古墳、都城跡、寺院跡および宗教関連遺跡、官衙および官衙関連の集落跡などです。一般的な集落跡などからの出土例はほとんどありません。全国的にみて、都城跡や官衙および官衙関連の遺跡から出土する傾向がみられます。

5、奈良時代から平安時代初期の内里八丁遺跡の性格

 内里八丁遺跡の付近に式内社の「奈良御園神社」があります。その周辺に広がる上奈良遺跡は、「延喜式」巻三十九内膳司の条に記載されている「奈良園」の候補地とみられており、則天文字が書かれた墨書土器などが出土しています。園は、天皇家の食材などを生産する国営農場です。内里八丁遺跡の総柱の掘立柱建物や井籠組井戸などは、かなり上級の官衙に伴う可能性が考えられます。園には、それを管理する役所が設けられていたと考えられます。上記の遺構は、まさに宮廷に直結する上級官衙にふさわしいものと言えましょう。具体的に、奈良園に関連する遺物は出土していないので、断定はできませんが、可能性としては充分考えられます。また、この遺跡が、官道の山陰・山陽道と推定される遺構の付近に位置することも重要です。この道は、天皇家の食材をも運ぶ道であったとも考えられます。
6、まとめ

 南山城地域は、南から北に向かって流れる木津川を挟んで東西に分かれています。f0300125_2184174.jpg東側には、平城京から芝山遺跡・久世郡衙と推定される正道遺跡・宇治橋・山科へ至る北陸・東山道が想定されています。西側にはおなじく平城京を起点として山本駅推定地の二股・三山木遺跡・内里八丁遺跡・山崎橋に至る山陰・山陽道が想定されています。
 これらの道路推定地に沿って、今回紹介した遺跡が点在しています。それぞれ、官衙的な遺構・遺物が確認されています。木津川の水運とともに、官道や官衙が円滑な物流に利用され、古代国家の運営に大きく貢献していたものと考えられます。

『一口感想』より
 巾6m以上もの直線道路を整備し、さらに道路を横断する埋没管を施設するなど当時の大胆な計画と土木技術には改めて感心させられました。古代ローマのアッピア街道のように、物流だけでなく軍事行動を迅速に展開できるようにするために建設されたのだと思う。 (中井智久)
 一般の遺跡とは違って埋蔵物が少ない古道は発掘例が少ないと聞いていましたが、芝山遺跡や内里八丁遺跡等の平城京からの官道発掘成果は注目すべきと思います。
 講演では内里八丁遺跡の道路遺構は、古山陰・山陽道と説明されましたが、現在活動中の「八幡の歴史を探究する会」の専門部会『八幡の道探究部会』では、文献や地域研究家に聞き込み調査及び現地確認等により京田辺市大住三野の関屋橋付近で平城京からの古山陰・山陽併用道が分岐し、内里八丁遺跡は古山陰道と推定しています。これからも八幡地域の古道について調査探究を継続する予定ですので、引き続き宜しくお願い致します。 (高田昌史)


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# by y-rekitan | 2016-11-20 11:00 | Comments(0)

◆会報第76号より-03 八幡の古代植物③

シリーズ「八幡の古代植物」・・・③
八幡に見る古代植物 (第3回)

古代植物研究会代表 大谷雅彦 (会員) 


ナギの木
漢字表記=梛、梛木、竹柏、椥、榊 他多数)
マキ科ナギ属の常緑高木、雌雄異株。針葉樹でありながら、広葉樹のような幅の広い葉をもつ。
 石清水八幡宮の正面(本殿)に向かって左側にある高木が「ナギの木」です。他にも境内で、樹木名の表示板の付いた「ナギの木」を見ることができます。f0300125_10465995.jpg
 わが国では、古来より、山、岩、森、大木等を信仰の対象としてきた歴史があります。現在でも各地にその名残を見ることができます。今回は、その中の一つとして神木として扱われてきたナギについて、民俗学的見地よりの調査・考察を記します。 
 ナギ(当初は榊と記した)は、日本の古神道や神話における信仰の場所に関わる樹木で、神にかかわる名称に、その名前が残されています。以下にその例を記します。
(ア)日本の神話に登場する古来神
  いざなぎのみこと  あわなぎのみこと
  つらなぎのみこと  なぎなみのみこと
等が登場するが、このなかで共通の「なぎ」の漢字表記に蕩・諾・名杵・那岐・那芸などがあてられている。
(イ)三種の神器の一つに「草薙の剣」があるが、この「なぎ」も関係があるとの説がある。
(ウ)全国には「なぎ」を表示する神社がたくさんある。
梛神社、諾神社、那岐神社、南木神社(ここは本来は楠のこと。なのに、ナギを神木としている)  
(エ)地名として「なぎ」が使われているところ(一例)
奈義、奈癸、奈岐、名義、椥(京都市山科区に椥辻の地名あり。山科区役所の道路側に椥は梛と同義語とする表示板がある)
(オ)他に、「なぎ川」「なぎ山」がある
 ナギの木は、特に平安時代あたりから人々の信仰を集めたようで、熊野詣でのときに、多く散見されます。

 梛の木は、紀伊半島、熊野の御神木とされ、その葉は、金剛童子(仏教徒の守護神で、阿弥陀如来の化身とされる)の変化身と考えられ、熊野三山(速玉大社・那智大社・熊野本宮大社)参りの帰途の安全を願い、ナギの葉を護符として袖や笠などに付けました。また、武士は戦場の兜や鎧に付けたといわれます。ナギの葉は、災厄避けのお守りとして使われたのです。
 熊野詣が盛んであった中世、参詣者は熊野三山それぞれにて先達(せんだつ)(熊野詣の案内人、山伏が務めた)から、ナギの葉を手渡されたそうです。これは、行程の安全祈願のためだそうです。当時は、一枚の葉に熊野の神様が宿ると信じられていたようです。
 一方で、古来よりナギ(梛)は凪(なぎ)に通じるとして、海の安全を司る木としても信仰されてきました。特に、漁師や船乗り達はナギの葉を災難除けのお守りとして身につけていたようです。f0300125_10503486.jpg
 また、ナギの葉の葉脈が縦方向のみにあるため、横方向に引っ張っても容易に切れないことから「縁が切れない」として夫婦円満、開運、縁結び等のお守りとしてあがめられてきました。昔、女性たちはナギの葉を鏡の裏に入れる風習があったようです。このようなことから京都や奈良の風習として娘を嫁に出すときは、親が密かにナギの木の葉をとってきて、嫁入り道具(主にタンスの中らしい)の中に、そっと忍ばせて嫁に出したと伝えられています。
 ナギは主に紀伊半島や伊豆半島に生育しますが、これらは紀元前に持ち込まれたものと考えられ、「史前帰化植物」とされています。
 熊野の速玉大社のナギの木は樹齢千年を超えるとされ、国の天然記念物に指定されています。奈良の春日大社にはナギの木の原生林があり、約千年以上前に植栽されたものと考えられています。なお、春日大社では「竹柏」と書いてナギと呼びます。春日大社では現在でも神事には榊(さかき)ではなく、このナギ(竹柏)を使っています。ちなみに、万葉植物園では竹柏(ナギ)の幼木が販売されています。
 滋賀県坂本にある日吉大社ではナギの大木が2本あり(雌木1本・雄木1本)、雌葉1枚と雄葉1枚をノシ袋に入れて夫婦円満、良縁祈願のしるしとして、幼木同様に販売されています。
 ナギの木は多くの神社で古来より神の宿る木=御神木として、境内に植えられたものです。現在までに私が見つけたのは以下の通りです。石清水八幡宮、春日大社、日吉大社、山科区役所、織物神社(交野市)、杉ヶ本神社(枚方市)、京都市内の熊野と名の付く神社3社全て。
 現在でも、熊野本宮大社から全国の熊野社へナギの木が送られているとのことです。他にも訪れた各地の神社でナギの木を見ることができると思います。

  ちはやぶる熊野の宮のなぎの葉を 
   変らぬ千代のためしにぞ折る 
  藤原定家
 
 以上のように、ナギの木は古来より多くの伝承物語のある樹木なのです。

【次回は、イチイの木について】 空白



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# by y-rekitan | 2016-11-20 10:00 | Comments(0)

◆会報第76号より-04 五輪塔⑦

シリーズ「五輪塔あれこれ」・・・⑦
続 どこで造られたのか

野間口 秀國 (会員) 


 石清水八幡宮五輪塔が “どこで造られたのか” について前章に引き続きもう少し考えてみたいと思います。前章では、石材がどこから運ばれたのだろうか、について三重県伊賀市島ヶ原を一つの候補地として挙げましたが、他の地の可能性も考えてみる価値はあると思い調べを進めてみました。
 ところで、日本国内のどこに五輪塔が多くあるのか知ることも、どこで造られたのかを知る手掛かりになると思い、第5章で紹介しました河合哲雄氏のHP 『石造五輪塔紀年順 目次』(*1)を今一度確認してみたいと思います。このHPには237基の五輪塔が記載されていることを既に紹介いたしましたが、記載されている五輪塔がそれぞれの都道府県に何基あるのか、以下に整理してみました。(なお、地域区分とその地域に属する県名等は筆者の判断とさせていただきました。)

<地域区分>
北海道・東北地方
北陸・中部地方

関 東 地 方

近 畿 地 方

中国・四国地方

九州・沖縄地方

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<記載された基数>
青森・岩手・福島 ⇒ 各1、北海道・秋田・宮城・山形 ⇒ 0
静岡 ⇒ 5、 愛知 ⇒ 1
新潟・山梨・長野・富山・石川・福井・岐阜 ⇒ 0
神奈川 ⇒ 6、茨城 ⇒ 5、埼玉 ⇒ 3、栃木・千葉 ⇒ 各1
群馬・東京 ⇒ 0
兵庫 ⇒ 39、奈良 ⇒ 36、和歌山 ⇒ 33、京都 ⇒ 30、
大阪 ⇒ 20、 滋賀 ⇒ 9、 三重 ⇒ 2
広島・愛媛 ⇒ 各6、 山口 ⇒ 4、 鳥取・岡山 ⇒ 各2、
島根・香川 ⇒ 各1、 徳島・高知 ⇒ 0
大分 ⇒ 10、 熊本 ⇒ 6、 鹿児島 ⇒ 5、
福岡・長崎・佐賀・宮崎・沖縄 ⇒ 0

 上記の結果の要因はいろいろあると考えられますが、少なくとも以下のような事柄が分かります。更なる分析は今後機会が有れば進めてみたいとは思います。
1)27の府県(約60%)に存在し、残りの都道県には存在しない。
2)全体の70%超(169/237)が近畿地方に存在する。その他の地域では大分県の10基が目立つ。
3)北海道及び日本海側の各県(秋田・山形・新潟・富山・石川・福井)、内陸部の各県(岐阜・長野・山梨・群馬)に存在しない。
4)北部九州3県(福岡・佐賀・長崎)、および鹿児島・熊本を除く沖縄・九州・四国の黒潮流沿いの県(沖縄・宮崎・高知・徳島)に存在しない。

 さて、本題の石清水五輪塔に戻って考えてみたいと思います。f0300125_1154218.jpg前述のように近畿地方でこれほど多くの五輪塔が造られ、今でも数多くが見られる状況から、「どこで造られたか」にとどまらず、石材の調達や製作する石工集団の存在、発願者や資金提供者の存在などなど、近畿地方にはこれだけの五輪塔の造立を可能ならしめた複数の要因があったことは考えられると思います。また九州では、福岡・宮崎の両県では見られず、両県に挟まれた大分県では10基が確認できます。同県では今でも石仏や地蔵仏などが多く見られること、また宇佐八幡宮があることなども要因なのかと個人的に勝手な想像をしているところです。また、前章で石材の切り出し地候補として三重県伊賀市を挙げましたが、同県では2基しか確認できず石材供給地としてのみと考えることが妥当なのか、それとも石材供給地はここではないのかとも思われます。なお、私見ですが、「20都道県に見られませんが、これらの都道県に現在でも全く無いことを言っている訳ではない」と考えます。
 さて、石清水五輪塔は「どこで造られたか」を思う時、個人的には「これは石材供給地の近くで、五輪塔の各部位ごと(地輪、水輪など)に完成させたもの、もしくはそれに近い状態に仕上げられたものが運ばれた」のではないだろうかとの考えに至りました。そう考える理由は以下の通りです。
1つ目は; 運送効率が良いこと。
 水運利用であれ陸送であれ、大きくて重い素材のような状態での長距離運送は一般的に考えても労力(費用)がかかり、事故などの発生確率が高まると考えられること。
2つ目は; 量産性が高くて精度(品質)が確保し易いこと。
 大型の五輪塔造立の時代は比較的集中しており、類似した形状が多く見られます。このことからも、造る立場から考えた時にも、可能な限り同じ場所でまとめて造る方が効率面でも品質確保の面でも合理性が高いと思われること。
3つ目は; 近畿圏での人材確保が容易であったと考えられること。
 製造する技術者集団(石工)の確保は必須要件であり、初期段階では限りある人材の分散は避けるべきであったと思われること。なお時代が下ると、製造技術も各地に伝搬され、それに伴って人材確保も比較的容易になったことは考えられます。
4つ目は; 調べている中での歴史的な具体事例の記述との出会いです。
 史跡 “江戸城石垣石丁場跡” に関して、「江戸城の石垣に用いられた硬質安山岩の産地が西相模から伊豆半島であり、ここの石材が選ばれた理由は、石垣に適した材であり、比較的江戸に近く、船で石材を運べること」と書かれてありました(*2)。この記述を読むと、まさに前述の1から3までの理由を具体的事例に当てはめて書かれたように思えたのです。 また、理由を示す具体事例には適合しないかもしれませんが、古くは、市内の茶臼山古墳より発見された石棺に関して「九州の石材(熊本県宇土半島から八代平野の産)であり、宇土で製作され、瀬戸内海を東上し、橋本の地に至って・・・」と書かれている事例もありました(*3)。f0300125_11593849.jpg
 それでは「近くの石材供給地は一体どこだったのだろう」が次なる問題ですが、距離的な観点では現在の「京都市東山の白川近辺から」が最も近いと思われます。白川は風化した花崗岩が流れ下る水によって運ばれ、川底に白砂を敷きつめたかのような様からその名前がついたとも言われているようです。比叡山の麓にある修学院離宮近くから比叡山山頂をめざす登山道でもある「雲母(きらら)坂」の名称も、そのいわれは比叡山の花崗岩の雲母であるようです(*4)。このように、雲母坂沿いの音羽川や白川の上流地域はかつて花崗岩の岩山(石切り場)があった地域なのです。石材供給地は、この京都白川、山城南部の加茂(木津川市加茂町)、三重県伊賀市島ヶ原、香川県高松市庵治など複数の説があるようですが、現在まで石清水八幡宮五輪塔が造られた場所を証明する史料に出会うことはできず、場所の特定にも至っておりません。これからも何らかの史料の発見されることを待ちたいと思います。

参考図書・史料・資料など;
(*1) 『石造五輪塔 紀年順 目次』 河合哲雄氏のHP(2014/09/25に確認)
(*2)『発掘された日本列島 新発見考古速報 2016』 文化庁編 共同通信社刊
(*3)『図説 発掘が語る日本史4 近畿編』 水野正好編 新人物往来社刊
(*4)2016.8.23日付け 京都新聞記事
(次号につづく) 空白



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# by y-rekitan | 2016-11-20 09:00 | Comments(0)