◆八幡の歴史を探究する会

f0300125_146151.jpg
 本会では、2010年より京都府八幡の歴史についての探究と共有を目指して、講演会や歴探ウォークの開催、会報の発行等の活動を積極的に続けています。

江戸時代の八幡道標をとりまとめた冊子の発行を準備中です! ⇒


9/1 アクセスtop3を更新、 8/27 新しい集いの案内が1件、7/24 新しい会報記事が7件、7/19 新掲示板に投稿が1件  追加されています。

f0300125_21311956.jpgf0300125_2131581.jpgf0300125_21323254.jpgf0300125_21325484.jpg
お急ぎの方は 最新の 《会報記事集いの案内》 に直行 できます。
f0300125_012113.jpgf0300125_1035553.jpgf0300125_1052851.jpgf0300125_106301.jpgf0300125_9584272.jpg
f0300125_11323422.jpg
本会では定期的に会報を発行し現在 80号 を数えていますが、このサイトには
そこから 370件 の記事を掲載しております。

f0300125_2358635.jpgf0300125_23592260.jpg"8月度の記事別アクセス数 TOP3"
第62号:松花堂昭乗のこと
第42号:昭乗の下馬碑を探る
第13号:八幡の古墳とその特徴を学ぶ
8月度の人気タグ top3⇒  遺跡・古墳  地蔵菩薩  八幡の寺院

“アクセスtop3” コーナーについての 《解説とご案内》をこちらに 入れております。

なお個々の記事には以下の四つのルートから簡便にアクセスして頂けます。f0300125_20584995.jpgf0300125_20591768.jpgf0300125_20594243.jpgf0300125_210420.jpg

7/24 以下の朱書き部の連載や個別記事を追加掲載しました。
(前回更新日は 5/20)

f0300125_23225227.jpg

会報号番をクリックして頂くと、後はスクロールのみでその号の記事を一気にお読みいただけます。
なお朱書きが追加された号を示しております。

ブログ管理会社のシステム変更の影響で、現在以下をクリックすると、各号報のトップではなく記事一覧が出ます。お手数ですが その一覧ではクリックせず、そのまま下にスクロールしてご参照ください。
(各号のトップやエンドから前後の号報に移る場合も同じです)

《お知らせ》 第73号より会報は奇数月の隔月発行となっています。

2017年07月 第80号     2017年05月 第79号
2017年03月 第78号     2017年01月 第77号
2016年11月 第76号     2016年09月 第75号
2016年07月 第74号     2016年05月 第73号
2016年03月 第72号     2016年02月 第71号

2016年01月 第70号     2015年12月 第69号
2015年11月 第68号     2015年10月 第67号
2015年09月 第66号     2015年08月 第65号
2015年07月 第64号     2015年06月 第63号
2015年05月 第62号     2015年04月 第61号

2015年03月 第60号     2015年02月 第59号
2015年01月 第58号     2014年12月 第57号
2014年11月 第56号     2014年10月 第55号
2014年09月 第54号     2014年08月 第53号
2014年07月 第52号     2014年06月 第51号

2014年05月 第50号     2014年04月 第49号
2014年03月 第48号     2014年02月 第47号
2014年01月 第46号     2013年12月 第45号
2013年11月 第44号     2013年10月 第43号
2013年09月 第42号     2013年08月 第41号

2013年07月 第40号     2013年06月 第39号
2013年05月 第38号     2013年04月 第37号
2013年03月 第36号     2013年02月 第35号
2013年01月 第34号     2012年12月 第33号
2012年11月 第32号     2012年10月 第31号

2012年09月 第30号     2012年08月 第29号
2012年07月 第28号     2012年06月 第27号
2012年05月 第26号     2012年04月 第25号
2012年03月 第24号     2012年02月 第23号
2012年01月 第22号     2011年12月 第21号

2011年11月 第20号     2011年10月 第19号
2011年09月 第18号     2011年08月 第17号
2011年07月 第16号     2011年06月 第15号
2011年05月 第14号     2011年04月 第13号
2011年03月 第12号     2011年02月 第11号

2011年01月 第10号     2010年12月 第09号
2010年11月 第08号     2010年10月 第07号
2010年09月 第06号     2010年08月 第05号
2010年07月 第04号     2010年06月 第03号
2010年05月 第02号     2010年04月 第01号

f0300125_23243766.jpg

連載企画の記事はこちらから直接初回記事に入り、以降は文末でクリックすることで
連続参照して頂けます。 今回の号では朱書きの連載記事が追加 されています。


《連載》 “四條隆資卿物語” (第79号~継続中
《連載》 “八幡の古墳と鏡” (第77号~継続中
《連載》 “八幡に見る古代植物” (第74号~第77号)
《連載》 “詩歌に彩られた八幡の歴史” (第73号~継続中)
《連載》 “宮廷と歌合、そして石清水宮寺” (第71号~第72号)
《連載》 “心に引き継ぐ風景” (第70号~継続中
《連載》 “五輪塔あれこれ” (第70号~第79号)
《連載》 “『三宅安兵衛遺志』碑と八幡の歴史創出” (第70号~継続中)
《連載》 “八幡の道を「高野街道」となぜ呼ぶのか?” (第67号~71号
《連載》 “松花堂昭乗が詠んだ八幡の町"  (第63号~第68号)
《連載》 “川の旅日記"  (第62号~第64号)
《連載》 “八 幡 八 景”  (第58号~第60号)
《連載》 “『歴史たんけん八幡』の発行"  (第56号~第68号)
《連載》 “御園神社考”  (第55号~第58号)
《連載》 “ひょっこり訪問記 ”  (第53号~継続中)
《連載》 “古代の声を聞く ”  (第53号~第54号)
《連載》 “自転車で巡る名所案内 ”  (第52号~第56号)
《連載》 “ 物語はどのように生まれたか ”  (第51号~第56号)
《連載》 “ 石清水八幡宮の歴史Q&A ”  (第50号~第57号)
《連載》 “ 伊佐家のしきたりとくらし ”  (第48号~第51号)
《連載》 “ 謡曲のふるさと八幡 ”  (第41号~継続中)
《連載》 “ 大谷川散策余話 ”  (第38号~第50号)
《連載》 “ 御文庫とエジソン碑 ”  (第36号~第45号)
《連載》 “ 墓石をたどる ”  (第33号~継続中)
《連載》 “ 八幡の歴史スポット ”  (第30号~第32号)
《連載》 “わが心の風景 ” (第28号~第69号)
《連載》 “八幡太鼓祭り ”  (第28号~第29号)
《連載》 “八幡に残る昔話と伝承 ”  (第26号~第30号)
《連載》 “ 八幡文学碑巡り ”  (第22号~第26号)
《連載》 “八幡神と神仏習合 ”  (第21号~第25号)
《連載》 “ 一枚の写真から ”  (第16号~第19号)
《連載》 “ 八幡の歴史の謎とは何か”  (第15号~第16号)
《連載》 “古歌に詠まれた南城山”  (第11号~第15号)
《連載》 “八幡の祭りについて”  (第5号~第17号)
《連載》 “八幡の歴史を彩る文化”  (第4号~第9号)
・・・
このページの上端に戻る

f0300125_23262330.jpg

現在掲載しているスポット記事は以下の通りです。クリックで直接お読み頂けます。

“八幡の京街道は川底に沈んだ " (第80号)
“消えた踏切道に思う " (第80号)
“今年白寿を迎えました " (第80号)
“『太平記』 八幡合戦の石碑を訪ねる " (第79号)
“「八幡の歴史を学ぶ連続学習会」2016年 " (第79号)
“石清水八幡宮を指し示す「八幡宮道」の道標の数々 " (第78号)
“大阪府下の東高野街道に「やわた道」の道標を訪ねて" (第77号)
“歴探サイト(ホームページ)の現況報告" (第77号)
“第44回八幡市民文化祭展示発表を終えて" (第76号)
“御幸橋南詰「石清水八幡宮鳥居通」道標は何処に?" (第75号)
“『茶揉み歌』を復活"  (第73号)
“「八幡大縁起」に参加して"  (第71号)
“上津屋橋(流れ橋)の復旧に向けて"  (第71号)
“新刊案内「戦国大名の正体"  (第70号)
“本妙寺文書「沢庵の書状」と紫衣事件"  (第69号)
“「古寺巡礼」で出会った仏さま"  (第69号)
“八幡の文化財(国宝指定)"  (第69号)
“国宝指定の答申に思う"  (第69号)
“京の街角の「湯たく山茶くれん寺"  (第69号)
“旅人は何故片手を挙げているのか"  (第67号)
“「八幡の道 探究部会」が発足しました"  (第67号)
“石清水八幡宮が国宝に!"  (第67号)
“第119代光格天皇と大江磐代君とその母"  (第64号)
“クイズ「私は誰でしょう」"  (第62号)
“西国三十三所観音石仏群の墓所"  (第61号)
“陸橋の名前"  (第61号)
“九州の横穴・近畿の横穴"  (第60号)
“二宮忠八掌話"  (第60号)
“会の旗が出来ました!"  (第60号)
“松井横穴群に学ぶ"  (第59号)
“平野山・西山はミステリー"  (第59号)
“ずいき祭り"  (第58号)
“小特集: わがまち 八幡"  (第57号)
“流れ橋存廃の意見表明"  (第56号)
“磯田道史氏の講演に学ぶ"  (第56号)

これより古い号の個別記事インデックスはこちらに

このページの上端に戻る

f0300125_23273466.jpg

◆八幡のおすすめキーワードで関連記事を◆
この画面の右上の “タグ” 欄のおすすめキーワードをクリックして頂くと、ブログ内の
関連記事をまとめてご参照頂けます。
最初に記事一覧が出ますが、そこではクリックせずスクロールでお読みください。
なおタグ記事閲覧後に元に戻る場合は、一旦上端までスクロールし画面左上隅の
“Y-rekitan八幡”の文字をクリックしてください。

任意のキーワードで記事を検索
右上の “検索ボックス” に八幡に関わる任意のキーワードをセットして頂きますと、
このブログに収納している関連記事の一覧が出ます。合わせてご利用ください。



ブログへのご意見は下のcomments欄をクリックしてお寄せください。

# by y-rekitan | 2018-12-31 20:00 | Comments(0)

◆コーナー・講演会の記録

f0300125_22184286.jpgf0300125_2219582.jpgf0300125_2202298.jpgf0300125_2265276.jpgf0300125_1739442.jpg
f0300125_2255358.jpg

「八幡の歴史を探究する会」では、定期的に講演会や歴探ウォーキングの集いを実施していますが、このコーナーでは、その講演会のレポートを紹介しております。

 5/20 朱書きの記事を追加掲載しました。 現在の記事数は 57件です。 

下記の任意の記事をクリックして頂くと、それ以降は記事下端で“次のレポート”をクリックして頂くことで連続参照して頂けます。 

  《講演会録》 79号 2017年04月 三川合流の変遷と周辺都市
  《講演会録》 78号 2017年02月 謡曲から見た八幡
  《講演会録》 76号 2016年10月 八幡の古代遺跡と道
  《講演会録》 75号 2016年08月 石清水八幡宮の成立と機能
  《講演会録》 73号 2016年05月 石清水八幡宮の由緒と建築様式
  《講演会録》 71号 2016年02月 中世都市 八幡
  《講演会録》 70号 2016年01月 『三宅安兵衛遺志』碑と八幡の歴史創出

  《講演会録》 68号 2015年11月 継体大王の謎を追う
  《講演会録》 67号 2015年10月 弥生時代の八幡市とその周辺
  《講演会録》 66号 2015年09月 江戸時代の村の暮らし
  《講演会録》 63号 2015年06月 酒麹作りがビジネスの八幡神人がなぜ奉納詩歌に
  《講演会録》 62号 2015年05月 知っているようで知らない松花堂昭乗のこと
  《講演会録》 61号 2015年04月 幕末政治と攘夷―長州・京都・八幡
  《講演会録》 59号 2015年02月 二宮忠八と八幡
  《講演会録》 58号 2015年01月 史跡 松花堂庭園の成立
  《講演会録》 57号 2014年12月 中村家住宅の国登録有形文化財指定
  《講演会録》 56号 2014年11月 中世大山崎の商業活動について

  《講演会録》 55号 2014年10月 「安居頭諸事覚」を読む
  《講演会録》 54号 2014年09月 地誌に見る八幡
  《講演会録》 54号 2014年08月 神国論の系譜
  《講演会録》 51号 2014年06月 八幡を掘る
  《講演会録》 50号 2014年05月 門前町の八幡「今」「昔」
  《講演会録》 49号 2014年04月 石清水八幡宮の年中行事と庶民信仰
  《講演会録》 47号 2014年02月 松花堂昭乗の茶の湯
  《講演会録》 46号 2014年01月 歌人吉井勇の歌行脚
  《講演会録》 44号 2013年11月 八幡の歴史と土器
  《講演会録》 43号 2013年10月 八幡における浄土信仰

  《講演会録》 42号 2013年09月 江戸時代の村の暮らし
  《講演会録》 41号 2013年08月 武家政権と石清水八幡宮
  《講演会録》 39号 2013年06月 八幡社士総代「江戸尾張年頭御礼日記」
  《講演会録》 38号 2013年05月 天下人の時代と八幡
  《講演会録》 37号 2013年04月 南山城の地域史を学んで
  《講演会録》 35号 2013年02月 松花堂昭乗の江戸下向
  《講演会録》 34号 2013年01月 八幡・山崎の警備体制と鳥羽伏見
  《講演会録》 32号 2012年11月 松花堂昭乗と近世前期の文芸
  《例会報告》 30号 2012年09月 「八幡歴史カルタ」読み札の決定
  《講演会録》 29号 2012年08月 石清水際と神人の経済活動

  《講演会録》 28号 2012年07月 良いまちには良い川がある
  《講演会録》 27号 2012年06月 八幡の町の成り立ち
  《講演会録》 26号 2012年05月 庶民信仰と八幡大菩薩
  《講演会録》 25号 2012年04月 男山文化園の中心・八幡
  《講演会録》 23号 2012年02月 古代の八幡を探る
  《講演会録》 21号 2011年12月 高度経済成長期の八幡を語る
  《講演会録》 20号 2011年11月 八幡八景の成立とその背景
  《例会報告》 19号 2011年10月 八幡の歴史を次代に遺そう!
  《講演会録》 18号 2011年09月 墓地で探る八幡の歴史(1)
  《講演会録》 18号 2011年09月 墓地で探る八幡の歴史(2)

  《講演会録》 16号 2011年07月 地名で学ぶ八幡の歴史
  《講演会録》 14号 2011年05月 中世都市橋本を学ぶ
  《講演会録》 13号 2011年04月 八幡の古墳とその特徴を学ぶ!
  《講演会録》 12号 2011年03月 神仏習合の実像に迫る
  《講演会録》 11号 2011年02月 近代の門前町と参詣路を語り合う
  《講演会録》 10号 2011年01月 南北朝の争乱と八幡
  《講演会録》 08号 2010年11月 淀屋の歴史をたどる!
  《講演会録》 06号 2010年09月 石清水八幡宮の絵図を読み解く!
  《講演会録》 04号 2010年07月 松花堂昭乗の出自を追う!
  《講演会録》 02号 2010年05月 古代の遺跡から八幡の歴史を学ぶ

このページの上端に戻る

# by y-rekitan | 2018-12-31 18:00 | Comments(0)

◆コーナー・歴探ウォークの記録

f0300125_22184286.jpgf0300125_22281913.jpgf0300125_2202298.jpgf0300125_2265276.jpgf0300125_2039404.jpg
f0300125_13402397.jpg
「八幡の歴史を探究する会」では、定期的に講演会や歴探ウォーキングの集いを実施していますが、このコーナーでは、その歴探ウォークのレポートを紹介しております。

f0300125_22112366.jpg
 
f0300125_22132954.jpg
 
f0300125_2215215.jpg
 7/24 朱書き記事を追加掲載しました。 現在の記事数は 19件です。 

下記の任意の記事をクリックして頂くと、それ以降は記事下端で“次のレポート”をクリックして頂くことで連続参照して頂けます。

  《歴探散策》 80号 2017年06月 東山寺と伊弉諾神宮を訪ねて(バスツアー)
  《歴探散策》 77号 2016年12月 八幡の古寺巡礼 第4回
  《歴探散策》 74号 2016年06月 丹後を訪ねてのバスツアー報告
  《歴探散策》 72号 2016年03月 石清水八幡宮 山上伽藍の探訪
  《歴探散策》 69号 2015年12月 八幡の古寺巡礼 第3回
  《歴探散策》 64号 2015年07月 長岡宮を訪ねてのバスツアー報告
  《歴探散策》 60号 2015年03月 橋本の歴史(2)「平野山・西山を歩く」
  《歴探散策》 57号 2014年12月 八幡の古寺巡礼 第2回
  《歴探散策》 52号 2014年07月 対岸の町「山崎・大山崎」を訪ねる

  《歴探散策》 48号 2014年03月 橋本の歴史(1)「京街道を行く」
  《歴探散策》 45号 2013年12月 八幡の古寺巡礼(第1回)
  《歴探散策》 40号 2013年07月 二つの資料館をめぐる
  《歴探散策》 36号 2013年03月 春爛漫の歴史探訪ウォーク
  《歴探散策》 33号 2012年12月 男山参詣路を歩く
  《歴探散策》 31号 2012年10月 八幡の古建築の探訪
  《歴探散策》 25号 2012年04月 歴史探訪「男山参詣路を歩く」
  《歴探散策》 15号 2011年06月 東高野街道を歩く
  《歴探散策》 07号 2010年10月 上津屋の名所をめぐる
  《歴探散策》 03号 2010年06月 八幡の名所・旧跡を歩く

なお歴探ウォークの自転車版、サイクリングツアーについても概要を連載記事として掲載していますので、併せてご参照ください。
《連載記事》 “自転車で巡る名所案内 ”

# by y-rekitan | 2018-12-31 16:00 | Comments(1)

◆コーナー・新しい集いのご案内

f0300125_22184286.jpgf0300125_22281913.jpgf0300125_2219582.jpgf0300125_2265276.jpgf0300125_2039404.jpg
f0300125_22504937.jpg

本会では八幡の歴史の探究と共有を目指して、講演会や歴探ウォーク等の集いを定期的に催しておりますが、このコーナーではそのスケジュール等を掲載しております。
併せて本会のトピックスや出版物等についても掲載しておりますのでご参照ください。

f0300125_20353821.jpg f0300125_2034534.jpg f0300125_20363265.jpg

----8/27更新--------2016/10/30新着-----9/08更新

f0300125_14353028.jpg

ただ今、以下の集いやイベントを案内中です。詳しくはリンクのパンフレットをご参照のうえ、ご参加ください。 9/22更新


f0300125_1833548.jpg◆講演と交流の集い(2017年10月)

   ・概要  森本家文書からみた近世石清水の神人構成と身分
   ・日時  2017年10月15日(日) 午後1時30分~4時
   ・場所  八幡市文化センター3階 第3会議室



f0300125_1833548.jpg◆講演と交流の集い(2017年8月)
 
《終了しました》 参加者は40名でした。
   ・概要  石清水八幡宮の牛王宝印
   ・日時  2017年8月26日(土) 午後2時~4時
   ・場所  さくらであい館 イベント広場「淀」



f0300125_1833548.jpg(2017年度)八幡の歴史を学ぶ連続学習会

   ・概要  2017年度 八幡の歴史を学ぶ連続学習会(隔月開催)
   ・日時  2017年 5月18日(木) 「八幡神と男山遷座」
《終了しました》 参加者は47名でした。 空白空白
        2017年 7月20日(木) 「元寇から南北朝の争乱まで」
《終了しました》 参加者は43 名でした。 空白空白
        2017年 9月21日(木)  「天下人と八幡」
《終了しました》 参加者は34 名でした。 空白空白
        2017年11月16日(木) 「鳥羽伏見の戦いと八幡・橋本」
        2018年 1月18日(木)  「八幡東部の神社(川口天満宮、内神社)」 
        2018年 3月16日(木)  「近代化の八幡と戦時下の八幡」    
       ※何れも午前10時~11時半
   ・場所  ふるさと学習館2階研修室



f0300125_1833548.jpg◆歴史探訪バスツアー

《終了しました》 参加者は39名でした。

   ・概要  歴史探訪バスツアー
   ・日時  2017年 6月15日(木) 午前7時50分~午後6時頃
   ・場所 《訪問先》バスで淡路島に向かいます
         伊弉諾(いざなぎ)神社⇒(昼食:海鮮料理)⇒東山寺
        ー詳細はバスツアーのパンフレット参照ー



f0300125_1833548.jpg◆年次総会及び講演と交流の集い

《終了しました》 参加者は58名でした。
   ・概要 (八幡の歴史を探究する会) 年次総会
        (講演と交流の集い)   「淀川・三川合流の歴史とその周辺」  
   ・日時  2017年 4月23日(日) 年次総会:午後1時30分~2時10分
                   講演と交流の集い:午後2時30分~4時30分
   ・場所  さくらであい館(イベントホール)



f0300125_1833548.jpg◆八幡の歴史を学ぶ連続学習会>

《終了しました》
   ・概要  八幡の歴史を学ぶ連続学習会(隔月開催)
   ・日時  2016年 5月19日(木) 「大むかしの八幡」(29名参加)
        2016年 7月14日(木) 「町の成り立ちと神人の活躍」
                             (37名参加)
        2016年 9月15日(木)  「松花堂昭乗という人がいた」
                             (32名参加)
        2016年11月17日(木) 「淀屋と八幡」(34名参加)
        2017年 1月19日(木)  「河川と歩んだ八幡」(30名参加)
        2017年 3月16日(木) 「昭和から平成へ」(28名参加)     
        ※午前10時~11時半
   ・場所  ふるさと学習館2階研修室



f0300125_1833548.jpg◆会員研究発表

《終了しました》 参加者は40名でした。
   ・概要  謡曲から見た八幡
   ・日時  2017年 2月15日(水) 午後1時30分~
   ・場所  松花堂美術館 講習室



f0300125_1833548.jpg◆歴史探訪ウォーク

《終了しました》 参加者は46名でした。 
   ・概要  八幡の古寺巡礼
        ー第4回:男山山麓の寺を巡る(Partー3)ー
   ・日時  2016年 12月8日(木) 午後1時~4時頃
   ・場所  京阪八幡市駅→法園寺→正福寺→単伝寺



f0300125_1833548.jpg◆「八幡の道探究部会」の展示発表

《終了しました》 2日間とも多くの来場者がありました。
   ・概要  「八幡の古道」展示発表(八幡市民文化祭)
   ・日時  2016年 10月29日(土) 午前10時~午後5時
        2016年 10月30日(日) 午前10時~午後4時
   ・場所  第44回八幡市民文化祭
         八幡市文化センター 3階エレベーターホール



f0300125_1833548.jpg◆講演と交流の集い(10月)

《終了しました》 参加者は33名でした。
   ・概要  八幡の古代遺跡と道
   ・日時  2016年 10月16日(日) 
   ・場所  八幡市文化センター第3会議室



f0300125_1833548.jpg◆講演と交流の集い(8月)

《終了しました》 参加者は42名でした。
   ・概要  石清水八幡宮の別宮の成立と機能
   ・日時  2016年8月27日(木) 午後2時~4時半
   ・場所  八幡市文化センター 第3会議室



f0300125_1833548.jpg◆歴史探訪バスツアー(6月)

《終了しました》 参加者は38名でした。 
  ・概要  丹後を訪ねて
  ・日時  2016年6月9日(木) 午前8時~午後6時頃
  ・場所  《訪問先》 丹後郷土資料館 ⇒ 籠神社 ⇒ ちりめん街道
       ―バスツアーの詳細はパンフレット参照―



f0300125_1833548.jpg◆年次総会及び講演と交流の集い(4月)

《終了しました》 参加者は38名でした。 
   ・概要 (八幡の歴史を探究する会)年次総会
       (講演と交流の集い)  「石清水八幡宮の由緒と建築様式」  
   ・日時 2016年4月21日(木)  年次総会:午後1時~1時40分 
                   講演と交流の集い:午後2時~4時
   ・場所 石清水八幡宮研修センター(男山山上)


f0300125_1833548.jpg◆講演と現地探訪の集い(3月)

《終了しました》 参加者は52名でした。 
    ・概要  石清水八幡宮 山上伽藍の探訪
    ・日時  2016年3月13日(日) 午後1時~4時頃
    ・場所  石清水八幡宮研修センター(講演)及び男山山上探訪


f0300125_1833548.jpg◆男山考古録を読むパートⅢ(第12回)

《終了しました》 参加者は23名でした。 
    ・概要  男山考古録」を読む パートⅢ第4回(通算:第12回)
    ・日時  2016年2月17日(水) 午前10時~11時30分
    ・場所  八幡市立生涯学習センター 会議室

f0300125_1833548.jpg◆講演と交流の集い(2月)

《終了しました》 参加者は58名でした。 
    ・概要  中世都市 八幡
    ・日時  2016年2月14日(日) 午後1時30分~4時
    ・場所  松花堂美術館 講習室


f0300125_1833548.jpg◆講演と交流の集い(1月)

《終了しました》 参加者は78名でした。 
    ・概要  「三宅安兵衛遺志」碑と八幡の歴史創出
    ・日時  2016年1月17日(日) 午後1時30分~4時
    ・場所  八幡市文化センター第3会議室




このページの上端に戻る

# by y-rekitan | 2018-12-31 15:00 | Comments(0)

◆コーナー・トピックス & 出版活動のご案内

f0300125_14344966.jpg

◆2016年10月29日~30日 第44回八幡市民文化祭に出展
 今年の文化際には、昨年10月発足した専門部会『八幡の道探究部会』の1年間の活動成果を展示発表しました。展示のテーマは「八幡の古道」で、①古地図(6枚)、②古道の作製地図(2枚ー写真6点)、③江戸時代の道標地図(2枚ー写真27点)などを展示しました。
f0300125_23234738.jpg
 展示会場の八幡市民文化センター3階ロビーには、2日間で約200人の大勢の方が訪れられ、展示物を見ていただきました。また、部会員の説明を熱心に聞いておられました。今回の展示発表は当初予想より皆様の古道や古い道標への関心は高くて、準備していた古道や道標地図及び道標リストは多くの方が求められてたので途中で増刷しました。中には関心のある道標を今から見に行くと仰る方も居られました。
f0300125_6431658.jpg

◆2016年6月12日 『八幡の歴史カルタ』の関連史跡めぐり
 「安居塚ブロック福祉委員会(ふれあいサロン)」の皆様が本会制作の『八幡の歴史カルタ』に詠まれている史跡巡りをされている様子が、八幡市社会福祉協議会の広報誌「やわたし社協だより」第108号(2016年6月1日発行)に紹介されました。
f0300125_1557403.jpg
 催しを主催された福祉委員会の安居塚ブロック長 中崎幸子様から「八幡の歴史カルタ等に紹介されている名所巡りを今年3月と5月実施しましましたが、皆様に好評なので11月にも計画しています」と伺いました。

◆2016年6月12日 カルタ資料館に『八幡の歴史カルタ』を寄贈
 この度、福岡県大牟田市立三池カルタ・歴史資料館から、当会制作の「八幡の歴史かるたカルタ」の寄贈依頼があり1セットを寄贈しました。f0300125_1521852.jpg この資料館は日本及び世界のカルタ(歌カルタ・いろはカルタ・トランプ・タロットなど)を専門に収集・展示・研究をする日本で唯一の資料館です。
(注記)
 日本のカルタは、ポルトガルからの影響を受け、16世紀末頃、筑後の三池地方で作り始められたと言われている。その関係で大牟田市が1991(平成3)年に日本で唯一のカルタ専門館を開館した。

2015年10月31日~11月1日第43回八幡市民文化祭に出展
 今年も八幡市文化センターでの市民文化祭に出展しました。「八幡の歴史クイズ」の実施と「歴史カルタ」及び「歴史たんけんマップ」を掲示しました。約100名の方が歴史クイズに挑戦されました。
f0300125_18445064.jpg
◆2015年9月27日 「歴史たんけん八幡」出版記念の集い
 松花堂庭園・美術館別館において実施された、第Ⅰ部記念講演、第Ⅱ部「出版記念」交流の集いは、堀口八幡市長をはじめ多くの方が参加されて盛況でした。
f0300125_2028162.jpg

 ◆2015年5月9日 八幡市生涯学習センター「わくわくドキドキ縁日」に出展。
f0300125_20362325.jpg
 ◆2015年04月18日 発足5周年記念で会の旗製作の記事が京都新聞に。
 ◆2015年02月13日 2月例会「二宮忠八と飛行神社」が京都新聞に掲載。 
 ◆2014年12月23日 「やましろのタカラフェステバル」(文化パルク城陽)に出展。
 ◆2014年11月1~2日 第42回八幡市民文化祭に出展
 ◆2014年08月15日 会報50号達成記念(バックナンバー増刷)が京都新聞に掲載。
 ◆2014年06月09日 KBS京都ラジオで本会活動紹介の放送がありました。
 ◆2014年06月01日 八幡山柴公民館フェスティバルで、歴探クイズの展示。
 ◆2014年05月28日 「歴史探訪サイクリング」が京都新聞で紹介されました。


f0300125_14355452.jpg

◆『石清水八まん宮道』に いざな道標みちしるべ
     ―江戸時代の八幡道標― の発刊にむけて


2017/09/08記 本会では2015年10月に古道の調査を目的とした専門部会「八幡の道探究部会」を立上げて活動していますが、その成果を題記の冊子にして発刊すべく準備を進めております。

出版冊子の概要
 
 本書では150年以上前の「江戸時代」に建立された八幡市内及び市外の「八幡道標」ともいうべき道標群を「昔と今を結ぶ掛替えのない歴史遺産として保護する」とともに「後世に引き継ぎたい」との強い願いから、現状を会員が自分の足で調査した道標76基を紹介します。

 各道標ごとに1ページにまとめた写真や解説と、f0300125_20561363.jpgエリアごとに道標設置の場所をピンポイントで示した地図で構成され、A5版フルカラーで96ページの体裁となる予定です。本書は“本会で自家編集し、それをそのままネット印刷で本にする”ことで極力廉価で皆様にご提供できることを目指しています。
 一人でも多くの方が冊子を片手に各地の江戸時代と現在を結ぶ八幡道標を訪ねて関心を持っていただくことが、道標の保護にもつながると確信し、現在は最後の仕上げをしているところです。
発行日は10月12日、どうぞ出来上がりを期待してお待ちください。

※)本書の発刊に関する事前問合せは、「八幡の道探究部会」編集委員会
高田昌史 宛にお願いします。
電話 090-2011-7503 または メールtakata@cd6.so-net.ne.jp




◆歴史と文化の本、『歴史たんけん八幡』は好評のうちに完売。

2015.9.1 大人も子供もこの一冊で、八幡の歴史と文化がよくわかる本、『歴史たんけん八幡』が発刊されました。
 発行日の9月1日にはこの本を八幡市に贈る贈呈式が行われ、その後ミュージアムショップやイベント会場で販売を行ってまいりましたが、好評のうちに販売を完了しました。
f0300125_041361.jpg
『歴史たんけん八幡』、発刊よもやま話

f0300125_0485928.png 本会ではこの本の一年半にわたる企画から編集、発刊に至る経緯や本の概要を、シリーズ記事として会報で紹介してまいりました。
以下にその記事をリストアップしていますのでご参照ください。
(写真は制作委員会の風景です)


発刊に向けて ▼『歴史たんけん八幡』の発行にむけて
 ▼本の紹介として「特別連続講座」を開設
 ▼本の紹介としての「特別連続講座②」を開催
 ▼いよいよ『歴史たんけん八幡』の発行が迫る

発刊に寄せて ▼刊行に寄せて・・・『歴史たんけん八幡』と私
 ▼『歴史たんけん八幡』が発行されました
 ▼八幡の歴史にこの本の刊行が刻み込まれた
 ▼出版記念の集いが開かれました!
 ▼『歴史たんけん八幡』の普及と活用 / 読書感想

                    


◆本会制作の 『八幡の歴史カルタ』 を販売中です。
2013年2月に発売した《初版》は好評のうちに完売しました。現在は装いを新たにした改訂版を販売中です。

発行:2013年5月25日
販売価格:1,000円
制作:八幡の歴史を探究する会
絵札:森川 修
ケース:石瀬謙三
句:歴探会員応募作より
句の解説:歴探会員有志 (読み札の裏はその句の歴史的な解説になっています)
       
販売所:松花堂ミュージアムショップ、
・歴探事務局 takata@cd6.so-net.ne.jp
f0300125_1563861.jpg


◆本会の会報のバックナンバーを販売しています。

f0300125_15224688.jpg  ご要望が多いこともあり、会報50号を発行した記念にバックナンバーを増刷し販売しております。
  • 各号とも1部100円です。
  • 体裁は白黒A4版で、各号ともおおむね10~20ページの構成となっております。(但し古い号では10ページ未満のものもあります)
  • ご希望の方は講演会等の例会の際にお買い求め下さい。
  • また非会員の方を含め郵送をご希望の方は、下記「歴探事務局」まで希望会報の号番号、送付先等の必要事項をメールでご連絡ください。会報を10号分(部)以上まとめて購入される方の郵送料は、当会で負担させて頂きます。

    なおお支払方法は下記口座あての郵便振り込みとさせていただきます。
       申し込み: 歴探事務局 takata@cd6.so-net.ne.jp
       支払振込: 郵便振込口座番号:00970-2-322353
              (加入者名:八幡の歴史を探究する会)
       

    このコーナーのtopに戻る

# by y-rekitan | 2018-12-31 14:50 | Comments(0)

◆統合版・・・集いのパンフレット

新しい集いのご案内 パンフレット集


◆講演と交流の集い(10月)

f0300125_11185786.jpg
《集いの案内一覧に戻る》



《終了》◆講演と交流の集い(8月)

f0300125_9182292.jpg
《集いの案内一覧に戻る》



《終了》◆歴史探訪バスツアー

f0300125_14545838.jpg
f0300125_14553945.jpg
《集いの案内一覧に戻る》



◆(2017年度)八幡の歴史を学ぶ連続学習会

f0300125_11293222.jpg
《集いの案内一覧に戻る》



《終了》◆年次総会及び講演と交流の集い

f0300125_1858130.jpg
《集いの案内一覧に戻る》



《終了》◆会員研究発表

f0300125_21315810.jpg
《集いの案内一覧に戻る》



《終了》◆歴史探訪ウォーク

f0300125_1841380.jpg
《集いの案内一覧に戻る》



《終了》◆「八幡の道探究部会」展示発表

f0300125_1912291.jpg
《集いの案内一覧に戻る》



《終了》◆講演と交流の集い(10月)

f0300125_1171089.jpg
《集いの案内一覧に戻る》



《終了》◆講演と交流の集い(8月)

f0300125_12211940.jpg
《集いの案内一覧に戻る》



《終了》◆歴史探訪バスツアー(6月)

f0300125_1083312.jpg
f0300125_10152641.jpg
《集いの案内一覧に戻る》



◆八幡の歴史を学ぶ連続学習会

f0300125_20174642.jpg
《集いの案内一覧に戻る》



《終了》◆年次総会及び講演と交流の集い(4月)

f0300125_22255252.jpg
《集いの案内一覧に戻る》



《終了》◆講演と現地探訪の集い(3月)

f0300125_16143269.jpg
《集いの案内一覧に戻る》



《終了》◆男山考古録を読む会パートⅢ第4回

f0300125_21411411.jpg
《集いの案内一覧に戻る》



《終了》◆講演と交流の集い(2月)

f0300125_812131.jpg
《集いの案内一覧に戻る》



《終了》◆講演と交流の集い(1月)

f0300125_1159392.jpg
《集いの案内一覧に戻る》



《終了》 ◆男山考古録を読む会パートⅢ第3回(通算第11回)

f0300125_20949100.jpg
《集いの案内一覧に戻る》




# by y-rekitan | 2018-12-31 14:00 | Comments(0)

◆コーナー・本会の概要と入会のご案内

f0300125_22184286.jpgf0300125_22281913.jpgf0300125_2219582.jpgf0300125_2202298.jpgf0300125_1739442.jpg
f0300125_2301478.jpg

このコーナーでは「八幡の歴史を探究する会」の概要紹介や、入会のご案内を掲載しております。
2015.09.10 本会の沿革コーナーに追記    2015.04.21 本会の会則を更新
f0300125_2038422.jpgf0300125_20384428.jpgf0300125_20395777.jpgf0300125_204039100.jpgf0300125_1334933.jpg
   

f0300125_20421764.jpg

 「八幡の歴史を探究する会」は2010年4月に 発足しました。
 八幡は、弥生時代の遺跡をはじめ、さまざまな古墳や、石清水八幡宮、善法律寺、正法寺、松花堂などすぐれた文化遺産に恵まれています。ところがその歴史的意義や文化的価値が必ずしも明らかにはされておらず、そこに暮らす私たち自身もその存在にすら気づいていないという現実があります。 

 そうした中で私たちは「八幡の歴史を探究する会」を設立し、①講演会、②現地見学会、③会員の研究発表、を事業の3本柱として各種イベントを開催するとともに、その活動内容を市民内外に広く知ってもらうために、「会報」を発行しております。
 私たちは関係団体や機関とも連携しながら、歴史探究の活動を通して市民の誰もが郷土の歴史と文化に誇りをもち、未来の町を築いていくことに貢献できればと願っております。
 「八幡の歴史を探究する会」 代表幹事 安立 俊夫空白

f0300125_20424628.jpg

 本会の概要や会則にご賛同いただき、ともに活動して頂ける会員を募っております。
  • 八幡市以外にお住まいの方も会員になれます。
  • 会員には、「会報」及び例会案内チラシ等を郵送いたします。
  • 会費:年会費は(4月~3月締めで)1,500円  
      10月以降入会は、1,000円、
  • お申し込みは下記の事務局までメールで、また会費の振込は下記の郵便振込みをご利用ください。
       申し込み: 歴探事務局 takata@cd6.so-net.ne.jp
       支払振込: 郵便振込口座番号:00970-2-322353 
             (加入者名:八幡の歴史を探究する会)
     

f0300125_2043103.jpg

 以下の会則(2改)は、2015年4月19日の総会にて承認された。

第1条 名称
本会は「八幡の歴史を探究する会」と称する。

第2条 目的
八幡の歴史を探究し、事業を通じて会員相互の交流を深めるとともに、地域文化の進展と次世代への継承に貢献する。

第3条 事業
1、講演会の開催
2、現地見学会の開催
3、会員の研究発表
4、会報を発行し,会員の情報交換・投稿の場とする。
5、その他第2条の目的を達成するための事業

第4条 会員
前条の趣旨に賛同する人々をもって構成する。

第5条 幹事及び幹事会
1、会員中より選任された幹事により幹事会を構成する。
2、幹事の任期は設けない。

第6条 代表幹事
幹事の中から互選により代表幹事、副代表幹事を選任する。

第7条 事務局長
1、幹事の中から互選により事務局長を選任する。
2、事務局長は幹事会を主宰する。

第8条 会議
この会の活発かつ円滑な運営を図るために、次の会議を開催する。
1、総会
   年1回開催し、会務・会計を報告するとともに必要
   事項を審議する。
2、幹事会
   必要に応じ開催し重要事項を審議する。

第9条 会費及び会計年度
1、会の運営のための年会費を徴収する。額については
  幹事会で決定する。   
2、会計年度は毎年4月1日より翌年3月31日までと
  する。 
3、会計監査は会員の中より選出し、総会にて会計監査
  報告を行う。

第10条 その他
本会則に定める以外の必要事項は幹事会で協議し、本会の必要な場合は細則を別に定める。

第11条 付則
この会則は2011年度(平成23年度)総会開催後から施行する。
   1改)2012年度(平成24年度)総会にて一部改訂。
   2改)2015年度(平成27年度)総会にて一部改訂。

f0300125_20444021.jpg

本会の沿革に代えて、ここに代表の折々の年次総括やイベント報告の記事を紹介させて頂きます。
        2015年09月 『歴史たんけん八幡』を発刊しました!
        2015年04月 2015年度の総会が開かれました
        2015年04月 発足からの5年を振り返る
        2015年03月 発足5年周年を記念し、会の旗が出来ました
        2014年06月 会報50号 発行の節目を迎え
        2014年01月 新年を迎え、5年目の節目を大切に
        2012年04月 発足以来 3年目の節目を迎えて
        2010年04月 なごやかに、探究する会が発足


f0300125_17523926.jpg


このサイトへの来訪者は先月(8月)末で41,407人となりました。

----------------------------

2017.08.06…お蔭様でこのサイトへの来訪者がのべ4万人を超えました。
2017.01.10…お蔭様でこのサイトへの来訪者がのべ3万人を超えました。
2016.02.26…お蔭様でこのサイトへの来訪者がのべ2万人を超えました。
2015.06.10…お蔭様でこのサイトへの来訪者がのべ1万人を超えました。
2014.12.05…併設の歴探掲示板をリニューアルし、画像やリンクの投稿が容易になりました。
2014.11.05…開設一周年を迎え関連サイトリンクのコーナー新設、歴探掲示板へのリンク等の機能アップを実施しました。
2014.07.07…本会概要紹介やイベント案内等、本会の活動を総合的に紹介するサイトとしてリニューアルしました。
2013.11.01…本会の会報記事を紹介するブログとして発足しました。

《備考》 来訪者数は、携帯やスマートフォンを除きパソコンからの来訪のみをカウントしたものです。また同じ人が一日に何回訪れてもその日は1 回としてカウントする方式としています。

《改定》 2016.11.15よりアクセスカウントにモバイル端末からのアクセスも加えることになりました。これにより今後はカウント値が3割ほど大きくなる見込みです。

f0300125_18312027.jpg

f0300125_1548513.jpg この歴探サイトではH26年10月から「先月の記事別アクセスtop3」と称するコーナーを設け、会員の方だけでなく全国からの検索来訪を含めて1か月間のアクセスが多かった記事を紹介させて頂いております。

 おかげさまでこのサイトの掲載記事数は順調に増え続けておりますが、せっかくの熱のこもった会報記事も数が多くなり時間を経ると、昔の記事を改めて読み返す機会は少なくなるものと思われます。そこで月替わりのアクセスランキングに名を借りたこのコーナーを設け、クリックして頂くことで毎回3件のなつかしい力作記事を改めて味わっていただく機会になれば・・・ そんな思いでこのコーナーを設けておりますので、ぜひご利用ください。

《追記》 H29年1月より、アクセスtop3欄の下に“人気タグtop3”のコーナーを付設しました。毎月のアクセスが多かったタグ(キーワード)のtop3です。合わせてご利用ください。

このサイトのトップに戻る

# by y-rekitan | 2018-12-31 13:00 | Comments(0)

八幡歴探 リンク集

f0300125_22184286.jpgf0300125_22281913.jpgf0300125_2219582.jpgf0300125_2202298.jpgf0300125_2039404.jpg
f0300125_2231194.jpg
このコーナーは八幡の歴史にかかわる情報が網羅的に閲覧できるサイトや、本会に縁の深いサイトのリンク集です。


f0300125_12175720.jpg八幡市観光協会
“みどころ”コーナーの各スポットの写真と解説は圧巻です。

f0300125_21374037.jpg八幡市公式サイト/観光情報のコーナー
八幡の名勝の情報が満載。また、祭り等の動画も見られます。

f0300125_2543626.jpg枚方市公式サイト/歴史のコーナー
枚方の文化財や歴史に関する催しの情報が満載です。

f0300125_2244728.jpg城陽市公式サイト/文化財のコーナー
市内にある国、府、市の史跡、文化財が網羅されています。

f0300125_246395.jpg久御山町公式サイト/文化財のコーナー
久御山町の文化財が写真、解説付きで閲覧できます。

f0300125_23464785.jpg宇治市公式サイト/文化財のコーナー
世界遺産を含め市内にある国、府、市の史跡、文化財の一覧です。

f0300125_21385651.jpgサイト「八幡散策」の “八幡ぶらりゆく”
神社仏閣、伝説、道標等、広範囲に網羅されています。

f0300125_23474058.jpg松花堂庭園・美術館
松花堂昭乗のデータベース、催し物案内等が掲載されています。

f0300125_063725.jpg石清水八幡宮
860年に都の裏鬼門を守護する鎮護の神として創建されました。

このページの上端に戻る

# by y-rekitan | 2018-12-31 12:00 | Comments(0)

◆スポット記事インデックス《続》

f0300125_19244623.jpg
60号以前の会報のスポット記事は以下の通りです。クリックで直接お読み頂けます。

“代々つづく神原の講 =秋編="  (第55号)
“八幡森の石仏と地蔵盆"  (第54号)
“お気軽歴史講座に行きました"  (第54号)
“地誌には、どんなものがあるか?"  (第53号)
“松花堂庭園とその魅力"  (第52号)
“島崎藤村と八幡"  (第52号)
“神領墓地は何を語るか”  (第49号)
“水月庵 藪を抜ければ円福寺”  (第49号)
“変わりゆく橋本”  (第48号)
“芭蕉と遊女との巡合い”  (第48号)
“遊女 江口の君”  (第47号)
“八幡の浄土宗寺院にみる地蔵菩薩 ”  (第45号)
“ 三昧聖と八幡の墓地  ”  (第45号)
“ 五榜の掲示  ”  (第44号)
“個人所有重文民家の課題について ”  (第43号)
“重文「伊佐家住宅」について ”  (第43号)
“ 昭乗の下馬碑を探る ”  (第42号)
“ 京大博物館にある八幡の遺跡・遺物 ”  (第40号)
“ヌートリア考、そして「郷土囗史物語」”  (第37号)
“ 狛 犬 考 ”  (第37号)
“ 探訪会のしおりを作成して ”  (第36号)
“歴史探訪ウォーク参加記”  (第36号)
“代々続く神原の「講」”  (第36号)
“「八幡の歴史カルタ」に驚く”  (第36号)
“女坂・荒坂横穴古墳群から学んだこと”  (第35号)
“魅力的な八幡東部の集落と神社”  (第34号)
“ 二宮忠八翁と飛行神社 ”  (第31号)
“ 石清水臨時祭と平清盛 ”  (第31号)
“「八幡椿は」何処に”  (第24号)
“陣屋と鳥羽伏見の戦い”  (第22号)
“八幡八景解説奮戦記”  (第20号)
“色恋に愛づる花心ー謡曲「女郎花」”  (第20号)
“俄神人ニ成候”  (第18号)
“八角院地蔵尊の碑文を読む”  (第15号)
“長宗我部盛親が潜んだ家”  (第15号)
“「やわたものしり博士」検定にチャレンジ!”  (第10号)
“木津川・宇治川沿いの屋並みを巡る”  (第9号)


ブログトップの《スポット記事一覧》に戻ります。

# by y-rekitan | 2018-12-31 08:00 | Comments(0)

◆会報第81号より-top <スクロールだけで全記事が読めます>

f0300125_2392286.jpg
この号の会報からは現在、下記の記事が掲載されています。
このまま下にスクロールして頂くと順次連続してご参照頂けます。

この号はただ今準備中です。

◆シリーズ:“心に引き継ぐ風景” ⑫◆
◆《講演会》石清水八幡宮の牛玉宝印◆
◆シリーズ:“八幡の古墳と鏡” ⑤◆
◆シリーズ:“「四條隆資卿物語」” ③◆
◆高良神社の太鼓祭りを楽しむ◆
◆「石清水八まん宮道」に悠久の歴史がある◆
◆「『石清水八まん宮』に誘う道標群」の発刊にむけて◆



<< ひとつ新しい号へ   < TOPに戻る >   ひとつ古い号へ >>

ご意見は各記事下端のcomments欄をクリックしてお寄せください。

# by y-rekitan | 2017-09-26 15:00 | Comments(0)

◆会報第81号より-01 瀧本坊乗祐

f0300125_2331529.jpg

心に引き継ぐ風景・・・⑫

“瀧本坊に乗祐じょうゆうあり

f0300125_18184623.jpg
 瀧本坊昭乗こと松花堂昭乗の墓石は八幡平谷の泰勝寺にある。境内地の奥に3基並べられた中央が昭乗で「寛永十六年九月十八日(没)大阿闍梨昭乗」の碑文がある。向かって右が師の実乗で「寛永四年二月廿三日(没)大阿闍梨實乗」とあり、左が萩坊乗円(松花堂門人・書画にて高名なり)で「延宝三年四月廿六日(没)大阿闍梨乗圓」とある。実は昭乗の師である実乗の先代に乗祐という瀧本坊にとって重要なキーパーソンがいる。天正十年の本能寺の変の後、近衛前久を援助したことから五摂家筆頭の近衛家と親密になり、瀧本坊繁栄の基を築いた。
 過日、松花堂昭乗研究所研究報告会での奥山邦彦氏の報告「乗祐と実乗」によって乗祐の輪郭を理解するとともに、津田宗及や千利休とも茶人として親密な関係にあったことを知った。その後、奥山氏と泰勝寺を訪ねて乗祐の一石五輪塔の存在を再確認した。天正十九年二月廿ニ日(没)権律師乗祐とあるが、乗祐没後6日、二月廿八日に千利休が自刃している。まさに同時代を駆け抜けた人物だった。昭乗達の墓石の奥の一角に瀧本坊歴代住職や関係者と共に乗祐も祀られている。
(写真と文 谷村 勉)空白


<<< 連載を抜けてTOPへ        この連載記事の続きは⇒⇒

# by y-rekitan | 2017-09-26 12:00 | Comments(0)

◆会報第81号より-02 牛玉宝印

f0300125_273775.jpg
《講演会》
石清水八幡宮の牛玉宝印ごおうほういん

2017年8月 
さくらであい館(イベント広場)にて

鍛代 敏雄(東北福祉大学教育学部教授) 
                 (石清水八幡宮研究所主任研究員) 
 
 
 平成29年8月26日(士)午後2時より、今春建造されました「さくらであい館イベント広場『淀』」で「石清水八幡宮の牛玉宝印」の講演と交流の集いが開催されました。
 「牛玉宝印」とは聞き慣れない言葉で、現物も見たこともないものでした。 社寺から出される厄除けの護符で、石清水八幡宮でも出されていたものです。今回の講演で、その内容を知り、現物の映像を見る事ができました。講師の鍛代敏雄教授は、石清水八幡宮研究所主任研究員として毎夏八幡にお越しになり、その都度講演をご依頼しております。今回もまた、新しい演題でお話を聞くことが出来ました。 鍛代先生ご自身によるご報告は以下の通りです。なお、当日の参加者は、40名でした。

はじめに

 牛玉宝印とは、主に権門寺社の修正会および修二会の年始法会において作成された、神仏と結願した護符のことです。一般には、宝印を翻して、起請文が書かれることが多く、その料紙は鎌倉時代の13世紀半ばころのものが残っています。f0300125_17114199.jpg
 石清水の場合は、文献上、13世紀前半に確認できます。実際の牛玉宝印の料紙は、14世紀後半のものが石清水八幡宮に所蔵されています。石清水八幡宮の牛玉宝印について調査・研究する意義は、牛玉宝印を通して、①神仏習合(神仏同体)の祭祀と信仰の実態を究明できる点、②文献(古記録・古文書)・料紙・版木・宝珠印の総合的な研究が可能な点、③中世の荘園制的社内経営に関し、牛玉宝印の頒布を通じた師檀(師匠-檀那)関係にみる信仰経済への転換が知られる点、以上があげられます。

Ⅰ 修正会と修二会の作法 

 石清水八幡宮牛玉宝印の文献は、寛元2年(1244)の石清水八幡宮所蔵「宮寺並極楽寺恒例仏神事惣次第」(『石清水文書』1-62号)の修正会・修二会において初見できます。本社本殿では、元日に俗別当・神主・禰宜らによる土祭神事(地鎮祭)が執行されました。
ついで社務・別当・所司らが参列し、社僧の導師が十二相の声明など、国家安泰・護国豊穣・万民快楽の仏事を執行します。牛玉宝印は正月から中御前大床上に、4日まで北向、4日から南向に置かれました。7日には、外陣の正面に棚を据えて、その上に牛玉杖(牛玉宝印を折りたたんで柳や竹の棒を挟んで杖状にしたもの)を並べて、祈祷を通して結願、結縁させました。また導師は別当・祠官・所司らの額に宝印(如意宝珠朱印)を捺します。そして、牛玉賦と称し参列者に牛玉杖が賦られました。
 8日は、若宮殿の修正会が山上所司、公文所・目代・正印預らによって執行されました。同じく8日には、護国寺の修正会が催行されました。社僧によって荘厳された堂内、仏前(本尊・薬師如来)に牛玉を置きます。12日まで北向→12日から南向です。14日、仏前の棚に牛玉杖を積み、同じく別当らの額に宝印が捺されます。ついで牛玉賦が行われました。興味深い点は、本社ではない、「鬼走」という作法が14日夜に催行されます。鬼形の衆僧が鬼走といって乱声、牛玉杖で身体を打ちながら堂内を3周走り廻り、穢と災厄を祓いました。
 なお、牛玉杖は、何本、何把と数えられ、百本単位、社内で配布されました。石清水では明治維新後、神仏判然令にしたがい、仏事が廃されて作成されていません。

Ⅱ 本社系と坊舎系

 現在残っている八幡宮牛玉宝印を通覧しながら、石清水の場合の特質を確かめていきます。現存最古の宝印は、応安5年(1372)の新善法寺永清起請文(『石清水文書』6-404号)に用いられた、墨書(肉筆)の牛玉宝印です。牛玉宝印の先駆的研究者、相田二郎氏は、石清水の場合、墨書が先行し後に版木刷となり、また墨書が登場すると書かれていますが、鎌倉以降、江戸期に至るまで大量に頒布されていますので、墨書の牛玉宝印は例外的な特殊事情により作成されたと見なされます。
 版木により作成された牛玉料紙の法量については、最小が縦23.7㎝、横34.2㎝、最大が縦31.5㎝、横44.5㎝になります。15世紀には「小牛玉」という名称が登場しますが、大量に頒布されるようになると、小型化するものと思われます。この点は東大寺などと同様の事象で、千々和到氏の研究により、東大寺二月堂の縦切紙は15世紀前半から知られています。
 石清水の八幡宮牛玉宝印の字配りは、中央に「八幡宮」、右側に「牛玉」、左側に「宝印」とあり、中世から近世まで共通していますので、それ以外の形態は石清水以外の八幡宮牛玉宝印と考えて間違いありません。ただ、「八」の字形は、楷書の「八」の書き出しを鳩の首のように曲げたものと、「神鳩」の意匠で「八」としたものとに大別されます。後者の神鳩は、顔を向かい合わせとした向鳩と、首・背中合わせのものとに分けられ、坊舎の版木で刷られた牛玉宝印に用いられています。
 したがって、遅くとも織豊期以降は、本社の御蔵で作成された本社系牛玉宝印と、各坊で作成された坊舎系牛玉宝印が各坊でさくせいされたものとに分類できます。前者は、小綱(少綱)神人や仕丁神人らによって本社東回廊東門下の北側にあった御蔵で刷られ、宝珠朱印を捺して、本社で結願されました。後者の坊舎系は、坊内で刷られ宝印を捺して、供僧を勤めていた神宮寺の護国寺で結願されたものと思われます。
 如意宝珠の朱印については、印文の「八」「卍」が定型です。先に述べた最古の牛玉料紙、版木刷りの現存最古、大永8年(1528)の山吉政久起請文(『上杉家文書』1-351号)、天正16年(1588)の島津龍伯(義久)起請文(『永青文庫叢書細川家文書中世編』口絵、84号文書)などに用いられています。
 その外は、主に近世の宝印に認められるように、印文がないかわりに、宝珠印のなかに小形宝珠を3つほど配した印章がありました。
 なお、特例としては、現在、奈良柳生の芳徳寺所蔵の石清水八幡宮牛玉宝印には、種子「ア」(胎蔵界大日如来、真義真言宗では阿弥陀如来と同体)の印文のある宝珠朱印が捺されています。石清水の社僧は真言僧ですから、違和感はありませんが、この1点以外に確認できません。なおまた、この牛玉宝印の料紙には、牛玉杖にする際の折り目の筋がはっきりとのこっており、石清水においてどのように料紙を折りたたんで牛玉杖が作成されたか明らかになります。

Ⅲ 版木と如意宝珠印

 石清水八幡宮には、「八幡宮牛玉宝印」の版木が所蔵されています。法量を調べますと、版木は縦28.3㎝、横48.0㎝で、枠端の厚2.3㎝、内側の厚1.8㎝、端の幅2.0㎝で、枠左端の中央に幅1.3㎝、深さ0.4㎝の凹があります。おそらく刷る際に左手の親指で料紙を抑えるための窪みだったと思われます。
 また、版木の文字の法量については、縦最長で「八幡宮」は24.8㎝、「牛玉」19.7㎝、 「宝印」22.0㎝、横最長が36.5㎝です。料紙の大きさは区々ですから、今後の調査では、文字の法量も測っておくと、比較する上で効果的であると考えられます。
 なお、本版木と類似の牛玉宝印はありますが、まったくの同じ版刷りの石清水八幡宮牛玉は残存していません。
f0300125_17172068.jpg
 次に相伝の宝珠印章をみましょう。
 その一つは、嶋村家に残った印章で、竹中友里代氏の調査報告によれば、火焔の光背に囲まれた「八」「卍」の印文があり、法量は縦9.8㎝、横8.4㎝のものです。いま一つは、最近、再発見されました石清水八幡宮相伝のほぼ同様の印章で、光背と二重郭内に「八」「卍」の印文が刻まれた、縦8.9㎝、横8.1㎝の宝珠印です。おそらく上記の版木とセットで残ったものと考えられますが、明治以降に神職として石清水八幡宮に奉職された、辻村氏が保存していた印章だったとみて間違いありません。辻村家は、嶋村家とひとしく近世の仕丁神人ですから、かれらには牛玉宝印の作成という重要な家職があったということができます。

Ⅳ 贈与と頒布

 石清水八幡宮の牛玉宝印について、文書上の表記・呼称を調べてみますと、
  ア)「牛玉宝札」
  イ)「御祈念牛玉」
  ウ)「御祈祷牛玉札」
  エ)「祈祷札」「御祈祷札」
などを確かめることができます。國學院大學図書館が所蔵する橘本坊の牛玉宝印には、「石清水八幡宮 御祈祷御札 橘本坊」の貼紙と、「(宝珠朱印)石清水八幡宮守護所」の短冊形の神札、向鳩の牛玉宝印に宝珠朱印が3顆捺されています。3セットで檀那に頒布されたものでしょう。
 このように、護国寺や極楽寺の供僧を勤め、境内の仏神事を実際に執行し、なお社内経営にかかわった坊人・社僧の坊舎は、延べて60舎ほど知られていますが、それぞれが檀那をかかえていました。たとえば、上記の橘本坊は足利将軍家・政所伊勢氏・政所代蜷川氏、小田原北条氏・古河公方足利義氏、橘坊は尼子晴久、泉坊は島津義久、滝本坊は豊臣政権、豊蔵坊は徳川家康・秀忠といったように、幕府、戦国大名、天下人までも檀那でした。
 いわば師檀契約に基づく、石清水八幡宮の取次坊だった坊は、牛玉宝印とともにいくつかの贈り物を神物として贈与、頒布しました。もちろん、返礼・報謝がありましたので、坊舎の経済基盤ともなりました。たとえば、牛玉宝印とセットで贈られたものには、巻数(祈祷報告書)・香水・扇・杉原・筆・紅帯、とくに武家には弓懸・菖蒲革が戦勝祈願に贈られています。
 贈与の例は、室町時代からわかりますが、その内実は、荘園の管理といった神領関係、戦国期の本社造営(幕府が守護大名に命じた国役としての勧進奉加)にかかわる寄進関係、また坊舎の師檀関係をめぐって史料がのこっています。

おわりに

 今回の報告について、最後に要約しておきたいと思います。
 その(1)は、石清水八幡宮の「八幡宮牛玉宝印」は、史料上、寛元2年(1244)が初見です。石清水八幡宮の本社、若宮、護国寺などの修正会および、護国寺・大塔・極楽寺などの堂舎で修二会が催行され、かかる神仏習合儀礼の場で神仏と結縁・結願された護符である「八幡宮牛玉宝印」が作成されました。
 その(2)は、石清水八幡宮の「八幡宮牛玉宝印」は、中世から近世を通して、主に版木によって刷られ大量に頒布されました。まれに墨書(肉筆)のものがありました。現在のこっている中世・近世の料紙から判明することは、まず字配りは、中央部に「八幡宮」、右側に「牛玉」、左側に「宝印」と見えます。また本社系と坊舎系とに大別できます。その特色は、本社系のものが、「八」と刻まれているのにたいし、坊舎系のものは、「八」を「神鳩」の意匠となっている点にあります。ついで、朱印で捺された宝珠印の印文については、「八」と「卍」が定型で、宝珠の中に小形の宝珠がある場合も見られ、なお1点だけ胎蔵界大日如来(種子)が確認できます。
 その(3)は、贈与・頒布からみた信仰経済の問題です。石清水八幡宮の「八幡宮牛玉宝印」は、戦国期以降、主に武家との師檀関係にもとづいて贈与・頒布されていました。中世末期における荘園制度の崩壊は石清水の場合も例外ではありません。社内の経済は、荘園経済からの転換がはかられました。とくに社僧である坊舎は、全国に檀那を抱え、参拝の取次や宿坊などの経営が主になります。その中世から近世への転換期の古文書から、戦国大名や天下人、幕府との信仰経済が確かめられました。

〔付記〕今回の報告については、拙稿「石清水八幡宮の牛玉宝印に関する一考察」(『東北福祉大学芹沢銈介美術工芸館 年報 8号』(2017年6月)を土台にしています。詳細についてはこの報告書をご参照ください。
 
『一口感想』より

永青文庫に残る島津の起請文のお話はとても面白かったです。それとともに檀那の契約が売買されたというのもび‘っくりです。 (K・B)
起請文として使われた牛王宝印のことを初めて知ることができました。ありがとうございました。  (T・Y)
 
# by y-rekitan | 2017-09-26 11:00 | Comments(0)

◆会報第81号より-03 古墳と鏡⑤

シリーズ 「八幡の古墳と鏡」・・・⑤


八幡の古墳と鏡(5)


-石不動古墳と画文帯神獣鏡がもんたいしんじゅうきょう


濵田 博道 (会員)


はじめに

 石不動古墳は西車塚古墳、東車塚古墳に続き、八幡市で3番目に大きい古墳です。第一回目(会報NO.77)で述べたように、この古墳から出土した鏡について弥生文化博物館・卑弥呼特別展パンフレット(2015年)では「新たな卑弥呼の鏡の候補か」と注目すべきタイトルを付け、紹介しています。このシリーズを書くようになった動機も石不動古墳出土鏡にあります。なぜ「新たな卑弥呼の鏡の候補か」といわれるのか。石不動古墳とはどんな古墳なのか、気になります。しかし、この古墳は八幡市の中でもあまり知られておらず、実際に古墳を見た人はわずかだと思います。文献も多くありません。ここでは1955年京都府発行の『京都府文化財調査報告第21冊』中の梅原末治「石不動古墳」をもとに考えてみます。

1、石不動古墳とは

f0300125_147296.jpg 京阪バス男山車庫の北側にNTTの電波塔がそびえ建ち、その真下が石不動古墳の後円部にあたります。現在無線中継所の建物が建っています。それゆえ、“古墳は原形をとどめていない”といわれています。私は古墳の近くまで行ってみましたが、その先は「立ち入り禁止」で入れませんでした。古墳を見るのも難しい状況です。
 前掲書に次のようにあります。「北の方、天王山と対峙して淀川の河口を扼する(やくする=要衝を占める)男山は、北に高く、南にゆるやかに延びている。この古墳の所在は男山八幡宮の鎮座する山の主峯の南方に近い山岳上にあって、地籍は八幡町(現八幡市)大字八幡字石不動である。山城中部の盆地から見られるように、男山では神社のある峯から南に続く、その脈にいくつかの隆起した山丘がならんでいる。ここに石不動と呼ぶ古墳は、中でも最もそれに近い山丘上にあって、八幡の街並みの中ほどから西のかた西山の部落に通ずる里道の南に接して高くそびえたものである。(中略)頂部からの眺望は、北方を除くと、他の三方とも眼をさえぎるものがなく、まことに絶佳である。」
1943年(昭和18年)2月、ここに山荘を営むために地元の前田氏が土堀をしていた際、偶然に遺物を発見し届け出たことから、京都府の要請により京都大学考古学教室の発掘調査が始まりました。
古墳は卑弥呼の時代より150年~200年ぐらい後の4世紀後半(西暦360年~390年頃)に築造された前方後円墳です。全長88m、後円部径60m、高さ8m(注1)。葺石を敷き、円筒埴輪が巡っていました。八幡市の古墳の中で、西・東車塚古墳など他の前方後円墳が南北を向いているのに対し、この古墳は前方部を東にして東西方向を向いています。また、茶臼山古墳と同じように見晴らしの良い頂に築造されていることも特徴の一つです。大阪市立大学の岸本直文氏は八幡地域の古墳を男山(茶臼山古墳、石不動古墳)、八幡(西・東車塚古墳)、美濃山(ヒル塚古墳、王塚古墳)の3地域に分けて編年表を作っています(注2)。
古墳の後円部には並行して2つの粘土槨(ねんどかく、死者を葬る粘土の室)がありました。北粘土槨(7.6m)と南粘土槨(6.7~6.9m)で、北粘土槨の被葬者が古墳の主であったと思われます。

2、粘土槨と副葬品

①南粘土槨(南槨[みなみかく])の副葬品
  “埋葬施設の南粘土棺床(=南槨)は土堀のため上辺がかなり削られていたが、中央東部分から画文帯神獣鏡、碧玉製石釧(へきぎょくせいいしくしろ)、管玉(くだたま)、棗玉(なつめだま)など、東辺凹みの南辺近くから鉄片、直刀(ちょくとう、刀身がまっすぐでそりを持たない刀)、剣身、その北側から多数の刀子(とうす、古代の小型の刀、ナイフ)、さらに東端の切り崩した部分から長方板革綴短甲(ちょうほうばんかわとじたんこう、剣道の「胴」のような、上半身をつつむよろいの一種)が出土、鏡などの副葬品は朱に染んだ間にあり、朱の痕跡が床の西辺でよく認められた、埋葬はほぼ中央に東枕の遺骸を伸展して、頭辺に鏡・釧(くしろ)・その先に刀剣・短甲などを副葬したと想定される”(前掲書要約)とあります。
 ここで石釧・玉類・鉄類について考えてみます。釧は腕にはめて使う装身具(腕輪、ブレスレット)です。縄文時代の貝輪(かいわ)に始まり、弥生時代にゴホウラとイモガイでつくった貝釧(かいくしろ)になりますが、これらの貝は奄美・沖縄などの南方でしか生息せず、遠方との交易の存在を証明する貴重なものです。古墳時代には貝が手に入りにくくなったようで、石で作った釧(石釧)が作られます。ヤマト王権から各地の首長に配布された威信財といわれており、持つのは身分が上位の人に限られていました(注3)。この古墳からは出雲など日本海側に産出地が限られた碧玉製の石釧が三個出土しています。いずれも入念な作りですが、互いにその細部が違っており、一個は新緑のなめらかな碧玉で、色つやが特に美しいものです。「一部に有機質が付着、また朱に染んで、遺骸に近接して存したことが推される」(前掲書)とあります。次に玉類です。管玉は被葬者を特別に飾る装身具ですが、碧玉製のものが40個出土。よく研磨されており、首飾り用に環状に身につけたようです。色は深緑4、他は青灰色です。棗玉(なつめだま)はナツメの実に似た形をした玉で南槨から29個、青みや白灰色の細長く、なめらかでつやのあるものです。5,6世紀代に盛んですが、4世紀前半の古墳(例えば吹田市紫金山古墳、しきんざんこふん)からも出土しています。石不動古墳は山頂に築造されていること、主体部の構造に前期の特徴があるので古風様式ですが、棗玉や短甲などが出土していることから築造年代は4世紀後半と推定されています。鉄剣は50cm強で“酸化が著しく破断”、刀子は“19口の外に、破断辺が少なくない”とのことです。“短甲は一領分があったと思われるが、原形を確かめるにははなはだ程遠い。横矧板(よこはぎいた)などから短甲たるを推し得るに過ぎない”(前掲書要約)とあります。

②北粘土槨(北槨)の副葬品
 北槨は既に盗掘されており、詳しいことはよくわかっていません。“東辺で刀剣類、小玉類、鉄鏃(てつぞく)、鉇(しゃ、農耕具の一種か?矛か?)の類があり、直刀類は折り曲げられた数本が雑然として本来の副葬とは認められない状況で出土。中央部は破壊されて形跡を失っており、一度取り出され後に再び遺棄され、副葬品は盗掘でほとんど無し。刀身は60cmを超えるものが少なくとも5,6口あったと推測。剣は21cmの断片。他に玉類が79。青水色・半透明ガラス質の良質のもの”(要約)とあります
この他、新聞記事によって盗掘された内容物が少し明らかになりました。
「大正6年(1917年)3月9日の『大阪朝日新聞』の記事によって、それ(=盗掘)が大正4年(1915年)8月の事で、当時城南・北和地帯に盛んであった古墳墓盗掘団の行うたものたることが知られる。この盗掘団の裁判の判決を載せた右の記事中に
一 大正四年八月頃、京都府綴喜郡八幡町大字八幡同所字石不動山林の古墳。
  発掘者(略)三名。勾玉(まがたま)二個、古鏡一面、外に管玉・小玉
  類数十点。森本正太郎氏へ百円にて売却。
とあって、それのまさに本古墳(=石不動古墳)に当たること思はしめるものがある。更に同時の『日出新聞』にはその古墳の所有者を河原崎文治氏と記していて、この地区がもと同氏の所有林であったことから、この想定の誤らざるを示すのである。」その副葬品の行方については、「今日ではこれを明らかにすることはできない」が、森本氏から押収した出土品で、後に奈良国立博物館が所有している遺品のうちの鏡一面が、「その朱に染んだ黒漆の色沢であり、森本氏の購入した価格の点などから推して、記事中の一面の鏡に比定し得る公算の多い」(前掲書)とあります。北槨から盗掘されたと伝えられる鏡もまた舶載の画文帯神獣鏡でした。最近、奈良市教委などの研究グループによりこの画文帯神獣鏡が石不動古墳から盗掘された鏡であることがほぼ確実になりました(注4)。

3、画文帯神獣鏡とは

 上述のことから、石不動古墳からは2枚の画文帯神獣鏡が出土していると考えられます。その鏡はいつの時代に作られ、またどのようなものでしょうか。歴史事典や古代史の雑誌によると、
“画文帯神獣鏡は中国後漢代(25~220年)の鏡の一種。日輪(=太陽)を乗せた車や飛ぶ鳥、走る獣などの絵画的な文様帯(画文帯)を外周に巡らせている。三角縁神獣鏡のように縁が三角形にとがっておらず、上が平らである(平縁、ひらぶち)。内区と縁との境界に、半円形と方形を交互に配置した半円方格帯(半円方形帯)を持つものが多い。内区(内側の部分)に、神仙思想を表す神像や龍・虎などの霊獣を、半肉彫(浮彫表現の一種)で描き出した文様を持つ。神仙は西王母(せいおうぼ)や東王父(とうおうふ)、伯牙(はくが)、黄帝(こうてい)など後漢代に流行した図像と考えられる。日本では弥生末期から古墳時代の遺跡・古墳から出土。また古墳中期から後期にかけての古墳からは、これの踏み返し品が出土している(注5)。”
 しかし、画文帯神獣鏡にもいろいろな種類があり、南槨鏡と(伝)北槨鏡は大きさ、型式・文様が違います(注6)。

① 南槨の画文帯神獣鏡(=画文帯同向式神獣鏡) 面径19.2cm
 南槨の鏡は画文帯同向式神獣鏡といいます。「細かく破砕して出土、若干欠失した部分はあるが、ほぼ全形が推される。f0300125_830363.jpg径六寸三分余(19.2cm)、縁厚(ふちのあつさ)一分四厘(約4mm)。(中略)その内区は完好な鈕(ちゅう)の孔(こう、あな)の通った方向を上下にして一方から見る様に構図されており(同向式)、また幅広い外縁に一種の連環状渦文を配した点に特色がある。そして通じて鮮鋭巧緻(せんえいこうち、細かな微妙なところまで鮮やかに巧みにち密に描かれていること)なる鋳上(いあが)りを示している。(略)相似た鏡としては韓国平壌大同江面第三号墳から出土したものなどが挙げられるが、しかも小異がある。それらと並んでこの種の鏡式中での優れたものと云ふべきであろう」「鏡体は一部に銹(さび)を見受けはするが、なほ通じて鉛黒色の滑択の多い地肌を存して、破断面は白銅本来の色択を表はし、質の桂良なるを示している。この鏡が中国からの舶載品であることは疑を容れないのであって、鏡式のうちでは時代の遡るもの、その鋳造の年代はけだし西紀三世紀の前半を下らないであらう」(前掲書)とあります。

画文帯神獣鏡が「新たな卑弥呼の鏡の候補か」とされるわけ
 この南槨鏡が「新たな卑弥呼の鏡候補か」となったのはどういう理由からでしょうか。千田稔氏は「奈良県黒塚古墳からは三十三面の三角縁神獣鏡が出土したが、被葬者の頭部に画文帯神獣鏡が一面置かれてあったことから、現在はこの鏡こそが重要で、魏帝から賜った百枚の鏡の一つではないかという説が浮上している」(注7)と述べています。さらに1998年、ホケノヤマ古墳(桜井市、全長約80m)の発掘でサプライズがありました。この古墳の棺(ひつぎ)の中と外から画文帯神獣鏡が一面ずつ、計二面出土したのです。三角縁神獣鏡は出土していません。棺の中から出土した鏡は石不動古墳の南槨鏡と霊獣が乳(にゅう)を取り巻く点が同じで、大きさも1mmしか違わない鏡でした(注8)。この古墳は卑弥呼の墓ではないかといわれる箸墓古墳(はしはかこふん、桜井市、全長280m)の東300mに位置し、箸墓古墳が築造される直前の邪馬台国連合の時代、つまり三世紀前半~中頃に築造された前方後円形墳です。箸墓古墳の周辺にはホケノヤマ古墳をはじめ、三世紀前半に築造された80~110m級の墓がいくつかあり、卑弥呼共立(注9)に関わった勢力の墓ではないかといわれています。画文帯神獣鏡がクローズアップされてきた理由の一つは副葬状況から被葬者が大切にしていた鏡であったこと。もう一つはその製作年代が『魏志』倭人伝にいう卑弥呼が共立された時期の鏡である、ということです。それまで舶載鏡の分布の中心が北部九州であったのが、畿内大和を中心とする分布に一変し、広域の政治連合を完成した時期だというのです。こうしたことから石不動古墳出土鏡も「新たな卑弥呼の鏡候補」として浮上してきました。岸本直文氏は各種の画文帯神獣鏡を比較検討し、「石不動古墳出土の同向式などは中平(ちゅうへい)四年(187年、中平は漢代の年号)のもの(鏡)に近いのでは」と述べています(注10)。

②(伝)北槨の画文帯神獣鏡(=画文帯環状乳神獣鏡) 面径13.6cm
 北槨出土とされる画文帯神獣鏡は画文帯環状乳神獣鏡といいます。神像や獣形が真ん中の鈕(ちゅう、つまみ)に向かって環状に配置されているのでその名が付いています。この環状乳神獣鏡も同向式神獣鏡も同じ後漢代の鏡ですが、環状乳鏡が同向式鏡よりやや早くに製作が始まっています。梅原氏は(伝)北槨鏡を「優れた舶載画文帯環状乳神獣鏡」であり、「斑銹(まだらさび)こそ多いが地肌をとどめた部分は漆黒色の美しい色沢(しきたく、いろつや)をしたもので、その内区では四方から見るように半肉刻出の神像を交互に配して、それぞれの一部が大きな環状乳となっている。半円方形帯は幅が広くて、十個を数える方格にそれぞれ四字宛の銘文を配する」(前掲書)と述べています。

4、石不動古墳出土鏡の銘文

①南槨鏡(画文帯同向式神獣鏡)の銘文
  半円方形(格)帯に各4字
原文:吾作明竟 幽凍三商 配像万彊 競ロロ序 ロロロロ ロロロロ 
百身拳楽 百精ロロ 衆羊主羊 学者高徳 士至公卿 富貴安楽 
子孫番晶 与師命長 (合計14区)
訳:「私は三種類の金属を溶かし、この美しい鏡を作りました。それには仙人や多くの怪獣が飾られており、この鏡を手に入れた人は立身出世し、一家が安楽に、子孫までも繁栄し、命永らえるであろう。」――『八幡市誌第一巻』P106より

②(伝)北槨鏡(画文帯環状乳神獣鏡)の銘文
  半円方形(格)帯に各4字
原文:上方作竟 自有紀 辟去不羊 古市 ロロロロロ 西王母令人長命 
ロロ紀天 孫吉兮 君宜子兮 長宜官王 (合計10区)
試訳:「上方(じょうほう、工房名か?)はこの鏡を作る。自ずから紀(しるす)。災害・不吉を退け、商売を・・(不明)西王母は人を長生きさせ・・(不明)子孫は繁栄し、立身出世するだろう。」
――試訳濵田

銘文は神仙思想を背景としています。しかし、訳されている銘文は少ないので浅学の私が試訳しており、誤りがありましたら教えてください。

5、八幡市出土の画文帯神獣鏡

 画文帯神獣鏡は日本全国で146枚、京都府で15枚出土と報告されています[2012年現在](注11)。そのうち八幡市から4~5枚出土しています。京都府出土鏡のおよそ4分の1を占めていますから、八幡市での出土率は高いです。その理由は何か。興味あるところです。内訳は、
石不動古墳2枚画文帯同向式神獣鏡、面径19.2cm、銘文有、京都大学総合博物館
画文帯環状乳神獣鏡、面径13.6cm、銘文有、奈良国立博物館
西車塚古墳1枚画文帯環状乳四神四獣鏡、面径14.4cm、銘文無、東京国立博物館
内里古墳1枚画文帯環状乳神獣鏡、面径21.0cm、銘文有、広島県耕三寺博物館
半円方格帯 方格内に各四字「天王日月」 合計14個
不明1枚画文帯神獣鏡、破片18.9cm、銘文無、京都大学
                   (注12)

おわりに

 “画文帯神獣鏡は、二世紀後葉から三世紀初めごろにつくられ、ちょうど倭国大乱が終息し、卑弥呼が共立されて邪馬台国の女王になった時期にあたる。”(注13)といわれています。京都大学の岡村秀典氏は「その分布をみると、畿内にいちじるしく集中し、北部九州に希薄なことから、楽浪・帯方郡から畿内に直接もたらされ、新たに成立した首長間の同盟体制にもとづいて、畿内の盟主的な首長から一元的に分配されたものと考えられる。また、首長層の定型化した前方後円(方)墳からの出土が多く、その体制は古墳時代前期までそのまま維持されたことがうかがえる。(注14)」と述べており、具体的には「奈良盆地東南部の桜井茶臼山古墳から四面以上、天理市天神山古墳から四面がまとまって出土し、奈良県広陵町新山古墳から三面、京都府八幡市石不動古墳・大阪府和泉市黄金塚古墳・神戸市西求塚古墳・香川県寒川町雨滝山奥十四号墳から二面ずつ出土していることに注意される。」と述べています。古墳時代前期を代表する古墳がいくつか含まれています。八幡の石不動古墳の勢力(その祖先)もその一員として活躍していたと思われ、研究が進んで、石不動古墳出土鏡が『卑弥呼の鏡』の可能性を増せばさらに注目されてくるでしょう。今後の研究を待ちたいと思います。
次回は『美濃山の王塚古墳について』考えてみます。

(注1)石不動古墳の全長(墳長)は文献により88mと75m、後円部径は60mと45mの2通りの見解があります。
(注2)岸本直文「山城の前方後円墳と古墳時代史」『山城の王権の実像に迫る!!乙訓古墳群と久津川古墳群』,ふるさとミュージアム山城,2016
(注3)西車塚古墳からは石釧をはじめ、高い威信財である腕輪型石製品の鍬形石、車輪石が出土しています。会報NO.79参照。
(注4)2017年(平成29年)8月30日朝日新聞夕刊4面「単眼複眼」に「100年前に盗掘 出土古墳特定 奈良市教委などの研究グループ」として石不動古墳など盗掘鏡の記事が載っています。
(注5)『日本歴史大事典』,小学館、雑誌『邪馬台国 第106号』,梓書院など参照
(注6)画文帯神獣鏡には、画文帯環状乳神獣鏡,画文帯重列式神獣鏡,画文帯同向式神獣鏡,画文帯求心式神獣鏡,画文帯対置式神獣鏡などがあります。
(岡村秀典『三角縁神獣鏡の時代』,吉川弘文館,1999参照)
(注7)千田稔『邪馬台国』, 青春出版社,2010
(注8)岡村秀典氏は漢代四百年間の鏡を、文様と銘文の流行の推移をもとに、およそ五十年前後の目盛りで次のように七期に区分
 漢鏡1期 (前二世紀前半、前漢前期)
 漢鏡2期 (前二世紀後半、前漢中期前半)
 漢鏡3期 (前一世紀前半から中ごろ、前漢中期後半から後期
       前半)
 漢鏡4期 (前一世紀後葉から一世紀初め、前漢末から王莽代)
 漢鏡5期 (一世紀中ごろから後半、後漢前期)
 漢鏡6期 (二世紀前半、後漢前期)
 漢鏡7期 (二世紀後半から三世紀初め、後漢後期)画文帯神獣
       鏡など
これに三世紀の三角縁神獣鏡をはじめとする魏鏡を加え、都合、漢・三国時代の中国鏡を八期に大別しています。(注14参照)
(注9)「共立(共に王を立てる)」に関わって『魏志』倭人伝に次の文章があります。
「その国、もとまた、男子を以て王と為す。とどまること七、八十年、倭国乱れ、相攻伐すること歴年、すなわち一女子を共立して王と為す。名は卑弥呼という。」(佐伯有清『邪馬台国論争』, 岩波新書,2006)
北九州、瀬戸内(吉備、伊予、讃岐、阿波など)それに近畿などの勢力が卑弥呼共立に関わったといわれています。
(注10)福永伸哉ら『シンポジウム三角縁神獣鏡』,学生社,2003,P231
(注11)安本美典『大崩壊「邪馬台国畿内説」』,勉誠出版,2012
(注12)安本美典『大崩壊「邪馬台国畿内説」』,勉誠出版,2012
(注13)都出比呂志・山本三郎編『邪馬台国の時代』,木耳社,1990
(注14)岡村秀典『三角縁神獣鏡の時代』,吉川弘文館,1999


<<< 連載を抜けてTOPへ        この連載記事の続きは⇒⇒

# by y-rekitan | 2017-09-26 10:00 | Comments(0)

◆会報第81号より-04 四條隆資③

シリーズ「四條隆資卿」・・・③

四條隆資卿しじょうたかすけきょう物語  その3
~『太平記』と隆資卿~

 大田 友紀子(会員) 


 四條隆資卿の「物語」と銘打って開始したこのシリーズも3回目となりました。初回は、四條隆資卿が戦死された「正平の役」八幡合戦、そして、その首塚が中ノ山墓地にあり「正平塚古跡」として存在していること、そして、その存在地である中ノ山墓地の歴史とその景観の特別な存在意義の重要性などを書かせていただきました。2回目は、四條隆資卿の生い立ち、生家である四條家の家格は羽林家であり、代々近衞府の武官として、天皇に仕えた家柄です。羽林家の娘たちはというと、御所に出仕して天皇の傍で身辺の世話などをしたことから、天皇の寵愛を受けて皇子女を生み、天皇の生母となることもありました。そんな家柄の四条家に生を受けたことから、隆資卿にも伏見天皇の御落胤説がささやかれている、ということを書きました。その当時のことは「とはずがたり」などを引用して説明させていただきました。作者の後深草院二条の母は、四条家の出で後深草院に仕えていました。
 そして、3回目となる今回は、後日談として、祇園祭・前祭の「蟷螂山」が創建された経緯について考えてみたいと思います。(四条家から下賜された)御所車の上にカマキリを乗せるという山で、そのカマキリは、四條隆資卿の武勇を表しているとされています。その武勇伝は、どこから来たのでしょうか。それは、南北朝内乱の際、現在のルポライターのような働きをしたのではと考えられている陣中僧たちが書き送った記事などにより作られた軍記物語『太平記』で、時事ニュースとして早くも読み聞かせることで広く流布したと思われています。陣中僧とは常に市井に暮らしていて庶民の傍に居て、布教に努めている僧たちですが、医薬にも明るく、律宗の僧たちが多かったようです。内乱期には各地の合戦場に駆け付けて戦死者の臨終の際に立ち合い、引導を渡したとされています。そして、戦死者の埋葬にも立ち会ったのでは、と考えられています。

『太平記』の成立

 まずはその成立についてですが、『太平記』の著者は不明とされていますが、南北朝末期の『洞院公定日記』の応安7年(1374)5月3日の項には、小島法師なる人物を『太平記』の作者として書いています。洞院公定は、南北両朝から有職故事などに堪能なので、諮問されたりした洞院公賢の孫です。祖父に倣って日記を残しています。
 しかし、今日では1人の作者の手になったものではなく、複数の書き手による完成後も幾度となく書き加えられ、そうした中で、有力武将たちの関与などによる挿入部分も多くて、ある程度の期間に渡って書き継がれたのでは、とする説が有力です。
 というのも、室町初期の武将で歌人でもある今川了俊の著書『難太平記』には、昔時、(南)等持寺において、法勝寺の恵珍上人(1281~1356)が、出来上がったばかりの『太平記』の30余巻を持参して、足利直義に見せて、玄恵法印に読ませたことがありました。その時、聞いていた直義ははなはだしい誤認などがあるのを指摘して改稿を命じます。その改稿作業などでしばし中絶するも、ふたたび書き継いだ、とあるところから、恵珍の生存中すでに30余巻が出来上がっていたと考えられています。このことから、法勝寺に「太平記」の製作工房があり多くの僧が従事していたことが考えられ、その維持と管理に多少なりとも足利氏の関与があったようで、言い換えれば、『太平記』製作のスポンサーを足利直義と考えると、その目的が何であったのか、と疑問が残りますが。
 その後も、正平7年(1352)閏2月12日、f0300125_8345940.jpg恵珍上人が足利義詮の要請で、南朝の後村上天皇の住吉行宮に参候していますし、足利側に立った動きが目に付きます。そして、後村上天皇の京都進撃の風聞を受けて、同月16日に再び恵珍上人が足利の使いとして住吉行宮に和談に向かいましたが、この時すでに伊勢国司の北畠顕能(きたばたけあきよし)が数100騎をもって洛中に入り、今夜にも両朝軍の間で戦いが始まるのでは、との風聞も立ち、形勢は急転して行きます。そして、後村上天皇はこの日には天王寺に行幸され、その後19日には八幡に到着、石清水宮寺の別当である田中定清邸を行宮とされました。正平7年の春は、八幡の地に場所を移した南北両朝の内乱の幕開けとなったのです。

『太平記』と四條隆資卿

 応安4年(1371)に成立した『太平記』が、「太平記読み」という物語僧の出現によって一般民衆の前で語られるようになったのは、室町末期以降から江戸時代に入った頃といわれています。けれども、「太平記」は製作当初から武士や没落公卿などに読まれることを目標として書かれたものであり、一般民衆に読み聞かせるために書かれたものではありませんでした。それは、太平記の各話の最後に独特の批判文があることからも、武士や公卿たちの教養を高めるために書かれた事が想像されるのであり、そこには宋学(儒教)の影響が見受けられ、大義名分論や勧善懲悪の思想に貫かれて書かれていることからもうなずけます。その頃、後醍醐天皇の宋学への過大な傾倒があり、宋学の奨励が進められていました。そうした時代背景を受け、いつしかその取り巻きの公卿たちの間にも深く浸透した結果、宋学の思想は「建武の中興」を推し進める原動力ともなって行きました。
 太平記の根幹を流れる思想について見て行くと、「太平記40巻は、文保2年(1318)2月の後醍醐天皇の即位された時から筆を起こし、後光厳天皇の貞治6年(1367)12月12日に終わっている(西源院本末尾による)。」(「軍記物とその周辺―太平記中の批判文・漢語・漢詩文・故事の二、三について」大矢根文次郎著より)とあり、混乱の時代を収拾するために儒教思想に裏打ちされた理想の実現を目指して書かれています。この論文では、「その付題には中国の故事物語が21箇もあることに注目される(略)さらに、小題説話の末尾にある作者の批判文のあることを注意しなければならない。(略)ほぼ、21箇所にこれを見ることが出来る。」とされて、この批判文の挿入には、中国の歴史文学からの影響が考えられることを論じておられます。そして、その論拠として「中国の歴史文学の方を通覧するに、皆、その篇末に批判文があるのである。」と結ばれていて、その一例として「巻22の四條隆資が(語っている)周の武王(の故事で)、大将を立てんとして太公望に問うたのに、太公望の答を引き載せている(漢語)が348字(に及ぶ)」のをあげて論じておられます。
 この箇所は、なかなか難解なところですが、儒教思想の理想を語る代弁者として、四條隆資卿を登場させているところに、作者の意図が見え隠れしています。その巻22「義助吉野へ参らるる事ならびに隆資卿物語の事」は、暦応4年の頃のことで、脇屋刑部卿義助(わきやぎょうぶきょうよしすけ:新田義貞の弟)が籠城していた美濃の根尾(ねを)の城を攻め滅ぼされて、吉野に帰参したところ、後村上天皇は敗北の責任を問わず、そのことを責めることなく、ここ5、6年の間の北国での戦闘の功績に報い、無事に帰還したことを喜ばれて、その次の日には臨時の宣旨を下され、一階級進められてその労をねぎらわれたのでした。けれども、そのことに不満を抱いた洞院実世左衛門督(とういんさねよさえもんのかみ:洞院公賢の長男)は、殿上人が伺候する席で、後村上帝を批判されて、「(敗北したのには触れずに)お褒めになって官位を進ませられたのは、治承の昔に、平維(これ)盛(もり)が富士川で水鳥の羽音に驚いて逃げ帰ってしまったのに、祖父の清盛入道が一(階)級進めたのと変わらないのでは(呆れたことだ。)」とおっしゃって苦笑いされ、一同に会する殿上人たちに意見を求められた。
 その話を聞いていた隆資卿が辞を低くして申されたことは、「この度の宣下は、今上帝の叡慮から出た事です。」と後村上帝を擁護することから話し始められました。そして、その理由として『六韜(りくとう)』を引用して説かれたところは、先帝(後醍醐天皇)の独断専行が武将たちの判断を狂わせ、その威信を失わせて、結果的には北国の敗戦を招いたと思われる事を語り、最後に秦の穆公(ぼくこう)の故事を持ち出し、(儒教の)道理を尽くして話されたので、それを聞いて才気に富んだ気質を持つ洞院実世卿は、言い返す言葉を失ってその場から退出されたという。
 この場面で、四條隆資卿に儒教の正論を朗々と語らせる代弁者の役割をさせて、その後に批判文を書いて締めくくっているところから、「太平記」の作者の意図は、儒教思想の理想を述べさせ、聞き手に理解させようとしているのかもと思います。つまり、あの南朝一筋で闘っている四條隆資卿がおっしゃっている事は正しいことであるという風に、当時の都の人々に理解出来るように、四條隆資卿の人物像が周知されていた事が分かります。
 同様に、正平2年(1347)12月12日、「太平記」中でも著名な逸話である楠正行(まさつら)のf0300125_8435413.jpg最後の参候の折の話においても、後村上天皇に拝謁した正行の言葉を隆資卿が伝奏として取り次いでいます。その時、後村上天皇は御簾を高く上げさせて、じかに正行と対面し、「慎重に行動して、命を全うするように」と言葉をかけられます。ですが、最終決戦に臨む決意をした正行は何も答えずに退出しました。その後、後醍醐天皇の御廟に参って別れを告げて、その横に建つ如意輪堂の壁板に一族銘々の名を書き連ねて、最後に正行がしたためたのが、「返らじと兼ねて思へば梓弓 なき数にいる名をぞとどめる」の和歌でした。四条畷の激戦で、南朝軍の敗北を見届けた隆資卿はすぐに吉野へ戻り、より奥地である賀名生へ撤退を申し出ます。まずは引いて再起を促すことを進言して、後村上天皇を護ったのです。

蟷螂山の創建へ

 戦いに明け暮れる日々が続いていたので、京の人々は町の辻や小屋などで「太平記」を読み聞かせる物語僧を待ちかねたことでしょう。そのような理由で、物語僧という存在が生み出されたのは必然であり、『太平記』の成立当初からのことでした。物語僧の活動により、正平の役での八幡合戦で、四條隆資卿の斃死(へいし)の有り様が、時をおかずに都の人々に伝わり、四條隆資卿の伝説が生み出されて行きました。f0300125_8514057.jpg
 その結果、隆資卿の屋敷があった西洞院に住む町衆の間では、隆資卿の勇猛果敢な生きざまが語り継がれて行きました。それに追い打ちをかけたのが、「太平記」の中での隆資卿の勇姿と生きる姿勢で、南朝一筋に散って行った潔さでした。
そんな町内の人々の思いはいつしか、周りの町内が山鉾を持つようになって来ると、「うちでも山を持ちたい。四条はんの勇姿を讃える勇壮な山を(作りたい)」という思いが、年を経るごとに高まり、「どないやろ、同じ町内のあのお人、お薬やらを商うてはる陳外郎大年宗奇さんに相談してみようやないか」ということとなり、そんな町衆らの熱い思いを聞いた陳大年宗奇は心を動かされて、「隆資卿没後25年忌大法会を岡崎(にある四条家の菩提寺である)善勝寺において行っている記(録)がみえる。当町よりも若干の人が参列したものと思われることは、祇園祭の巡行に蟷螂の模型を乗せ参加しているからである。いずれにしても陳大年の構想と資金は大であったとおもわれる。」(「蟷螂山由来記」)とあります。すべては想像の域を出ませんが、蟷螂山保存会の本井氏の話を聞いた時、こんなことを想像してしまいました。(つづく)

次回は、「蟷螂之斧」の故事について考えてみたいと思います。
(京都産業大学日本文化研究所 上席研究員) 空白



<<< 連載を抜けてTOPへ        この連載記事の続きは⇒⇒

# by y-rekitan | 2017-09-26 09:00 | Comments(0)

◆会報第81号より-05 太鼓祭り

高良神社の太鼓祭りを楽しむ

野間口 秀國(会員)


 高良神社の太鼓祭りに関することがらは 『洛北史学第14号 石清水八幡宮門前町における摂社高良社と太鼓祭り』(*1)と題した研究論文にて、専門的に、また分かり易く報告されており、拙稿をまとめるに当り多くを学ばせていただいたことをまずもって述べておきたいと思います。人生のおおよそ半分を八幡市に住みながら「高良神社の太鼓祭り」についても知らない事ばかりでした。八幡の歴史に興味を持ち、退職してから大小さまざまな疑問を自分なりに調べてはおりますが、高良神社の太鼓祭りにも素朴な2つの疑問を持っておりました。その1つは「祭りがなぜ7月18日となったのか」であり、もう1つは、「4区と5区の神輿はなぜ無いのか」でした。ちなみに7月18日は私の誕生日でもあり、疑問を解くためにも今年は祭りをじっくりと見ることから始めました。

 祭り当日の夕刻、電車を降りて一の鳥居あたりまで歩を進めると、あたりは祭りの雰囲気にあふれていました。法被姿の担ぎ手たちが祭り見物の人達に混ざり、三々五々宮入の時刻を待っているといった様子でした。鳥居の手前には「7月18日は八幡の氏神さま高良神社のお祭りです」と書かれた大きな横断幕が掲げてあり、祭りの空気を身体で感じながら神輿の並ぶ頓宮へと向かいました。頓宮の中庭には各区の神輿が整列し、それらを囲むように談笑する人々や、昼間に相当活躍されたのでしょうか、疲れて座り込んでいる人などさまざまでした。宮入りまで暫く時間があり、缶ビール1本とコロッケ1個を買い求めて一の鳥居の近くで待ちました。それまで少し怪しかった空は「熱気を少し冷やしたら・・・」と言うように夕立へと変わりました。最寄りの店の軒下に逃れて缶ビールを開けコロッケを口にしながら上がるのを待ちました。同じ軒下に「あおぞら子供会」なる法被の子供達がいたせいでしょうか、「清めの雨」と呼ばれた夕立もほどなく止んで雨宿りの人達も頓宮へと移動を始めました。f0300125_184614.jpg
 
 ところで、高良神社の例祭について前述の論文(*1)の冒頭に以下のようにありますので引用させていただきます。「石清水八幡宮の摂社高良社は、八幡宮遷座以前からの産土神であり、そこでの氏神への祈りは、八幡宮の祭祀とは一線を画しており、六月の例祭は、十八世紀中ごろには、河原の夕涼みを兼ねた遊楽として定着していた。太鼓神輿は、若衆の自己顕示と町の結束の発露として門前の主要な町々から俄か太鼓が担ぎ出される。(以下略)」引用終わり。ここには「六月の例祭」とあります。また、『男山考古録 巻十』 (*2)の「高良社獻燈用道具藏」の項にも以下のように書かれています。 曰く「・・・こは近く天明三四年の比、土俗の私に河原大明神を郷民の氏神と崇め、毎歳六月十八日を祭日と定めて、申語らひて毎家に釣挑燈を照し、又社頭所々に堤燈を建列ね、前十七日を夜宮と称へ参詣する事、年を追て盛に相成て、・・・(略)」と。ここでも「六月十八日」とあります。また 「太鼓まつり 案内チラシ」(*3)には「高良神社例祭の始まりは天明3年(1783)頃」とあり、十八世紀中頃には祭りは定着し、天明(1781~1789)年代初期には祭用具納め置土蔵を営むほど盛んになった様子が分かります。しかし、この祭りの開催日が六月十八日から七月十八日と変更されるにはおよそ百年の時代を下ってからのようです。

 慶応4年・明治元年(1868)正月、鳥羽伏見で始まった戦いにて八幡の町も大きな被害を蒙り、高良神社も炎上をまぬかれませんでした。戦火で焼失した高良神社は山上の若宮社に合祀され、六月十八日の神事は若宮社にて営まれ、翌年も太鼓は出ず社士の屋敷の門前の提灯にのみ淋しく灯された、と前述の論文にも書かれております。山下住民の高良神社再建の思いは強く、明治14年末には再建願いが出されました。住民の寄付金で再建費用が賄われ、明治17年5月6日に社殿が落成しました。高良神社の祭日は、明治に入って太陽暦が採用(明治5年12月)された後も6月に行われていましたが、新暦の6月は、田植えなどで農作業が繁忙期の為に、明治15年には1ヵ月後の「七月十八日」への祭日替届けが出されて受理されました。その結果明治15年(1882)から祭日は新暦の「七月十八日」となって現在に至っているのです(*1)。しかしながら平成8年(1996)に国民の祝日「海の日」が施行されたことにより、今年の宮入は祝日前夜の七月十六日に行われたのです。

 さて、もう少し宮入の様子を書いてみたいと思います。夕立が過ぎてきれいになった空も日が陰り始めるといよいよ宮入の始まりです。頓宮の中庭で待機していた各区の神輿が、子供神輿を皮切りに順番に繰り出してゆきます。威勢の良い掛け声とともに担ぎ上げられた神輿は頓宮を出ます。頓宮を出た神輿は提灯の灯りで照らされた高良神社の鳥居の前で、その荒々しい動きをしばし止め、担ぎ手の皆さんも神妙な面持ちとなります。石清水八幡宮の神官によりお祓いを受けるのです。少し高い台の上で、提灯の灯りに照らされた白い大幣(おおぬさ)が神官によって左、右、左とかざされ、引き続き、白い紙が1cm角くらいに切られた切幣(きりぬさ)が撒かれました。
f0300125_1875449.jpg お祓いが終わると、再び威勢の良い「ヨッサー、ヨッサー」の掛け声に合わせて神輿を大きく揺らしながら参道を二の鳥居方向へと進みます。頼朝公ゆかりの松近くまで進むと一旦止まり、またお祓いを受けた位置へと戻り、再び二の鳥居方向へと進みます。最後に、訪れた多くの人達に向かって今一度勇ましい掛け声をかけあい、観客から大きな拍手を受けて退場します。 当夜は子供神輿3基に続いて大人神輿が1、2、3、6区から繰り出されました。

 かつては4区、5区の神輿もあったようですが、今では4区と5区の神輿はありません。この2つ目の疑問の答えを、私は前述の論文に書かれた「石清水八幡宮の摂社高良社は、八幡宮遷座以前からの産土神であり、そこでの氏神への祈りは、八幡宮の祭祀とは一線を画して・・・(略)」にあるのでは、との思いに至りました。すなわち、これは高良神社を氏神と祀る人々のお祭りなのだ、と。また山下に長年住んでおられる方にもお聞きすると、「4区と5区には他の氏神様がおられるからだろう」とも話していただけました。ここで八幡の区割りについて書かれた『八幡市誌 第3巻』(*4)に目を通すと、4区、5区の氏神様のことにも気づきました。八幡の区割りは、明治22年6月28日から7月2日の町議会で決められたことが市誌に書かれており、「若干の変化はあるが、ほぼこの行政区で第二次大戦終了まで実施された」とあります。ちなみに、1区は36の小字(こあざ)からなり299戸、同じく2区は31小字で280戸、3区は38小字で268戸、4区は29小字で172戸、5区は11小字で79戸、6区は4小字で11戸、と記されてあります。これらの小字をここで列記はいたしませんが、これらを手許の地図(*5)にも照らし合わせると、4区には「狩尾神社」が、また5区には「川口天満宮」があることも分りました。

 実際に祭りを見たり、調べたりして当初の疑問への私なりの答えは得られた、との思いは持てました。来年もまた祭りを楽しみたいと改めて思います。近年ではこの祭りを楽しんでおられる外国からの旅行者と見られる人たちが増えていることも記して本稿を締めさせていただきます。冒頭の論文(*1)には高良神社の「雨乞い神事」に関することも書かれてありますが、ここでは祭りに関してのみを参考にさせていただきました。また私の疑問に親切にご教示いただきました皆様方に紙面より感謝申し上げます。 (2017.8.27)

参考資料・書籍等:
(*1)『洛北史学第14号 石清水八幡宮門前町における摂社高良社と太鼓祭り』平成24年(2012)6月発行 竹中友里代著
(*2)『男山考古録 巻十』 石清水八幡宮社務所 長濵尚次編著
(*3)太鼓まつり 案内チラシ(平成24年及び27年版)
(*4)『八幡市誌 第3巻』 八幡市発行 
(*5)『都市地図 京都府4 八幡市・久御山町』 昭文社刊

# by y-rekitan | 2017-09-26 08:00 | Comments(0)

◆会報第81号より-06 八まん宮道

「石清水八まん宮道」に悠久の歴史がある


 谷村 勉(会員)


【八幡の道と空海】


 高野街道とは嘗て空海が高野山への道をとったという古い街道を指しました。
空海が実際に高野山へと足を運んだと思われる八幡の道は橋本にあります。
大山崎・橋本間の淀川に架かる「山崎橋」(神亀2年・725架橋)を大山崎から橋本に渡り、楠葉、招堤南町の「日置天神社」を通って出屋敷、津田の集落に入る道です。橋本の近く楠葉中之芝の「久親恩寺」に古い地蔵道標がありました。

f0300125_1422085.jpg 鎌倉期の道標でしょうか、両手で宝珠を持つ「地蔵菩薩立像」の崩れた光背の左に「すく 八まん宮」、右には「右 かうや 左 はし本道」と彫られて、橋本から楠葉を通る旧高野道の存在を証明する貴重な地蔵道標だと確認できました。
 空海は石清水八幡宮遷座の25年前に入定しています。八幡宮遷座後、八幡の北の限りである橋本町や科手町は淀川水運と共に早くから道や町々が整備され、その後に男山東麓の南北の道が整備されていきますので、空海が洞ヶ峠に至る男山東麓の道を歩くことはありませんでした。八幡宮が遷座される以前の道路は現京田辺市大住の府道22号関屋橋から内里を通り木津川に沿って伏見区淀美豆(旧八幡神領内)に至る「旧山陰道」と府道22号関屋橋から分岐して志水廃寺跡(八幡月夜田)周辺を通り、丘陵を越え足立寺跡付近から楠葉に入り橋本へ向かう「旧山陽道」の二つの古代官道を中心に発展して行く経緯があります。

【八幡の宝物】


 江戸時代の中頃に描かれた「石清水八幡宮全図」をご存知の方も多いと思いますが、八幡にとりましては「宝物」と云えるような絵図で、八幡の歴史の底力を感じさせる作品です。
八幡市民図書館(八幡菖蒲池)の入口のロビーやふるさと学習館1階展示室(八幡東浦)にも同様の実物大の絵図が展示してあります。ゆっくり見て行くと色んな事が読めてきて楽しくなります。当時の地形や神社仏閣、建物などと共に、幸いにも今も沢山残る各町名や歴史上に出てくる史蹟名勝など八幡の歴史を確認する手引きとしても貴重な絵図で、江戸時代の町の様子を伝えるこの絵図こそ我々の「宝物」といえます。いつかこの絵図から読み取れる数々の物語を解説できる機会があればと思う程です。絵図の北側に「御幸道」と「京街道」が交差する地点に「御幸道立石」と書かれた箇所があります。これが「男山考古録」に記されている「正徳3年(1713)」に「石清水八幡宮検校新善法寺行清」が建立した「石清水八幡宮鳥居通御幸道」の石碑で一の鳥居までの「御幸道」(行幸大路)を指しています。この石碑は現在も残り、御幸橋の付け替え工事で八幡宮の頓宮の中庭に一時保管されていることが分りました。
 明治になって、木津川、宇治川の流域が現在のように変わった為に、「御幸道の石碑」の位置も変わりましたが、年度内には御幸橋の南詰に再び建つと「市の担当者」から聞きましたので、300年前の江戸時代に建立された歴史的文化財として、じっくりこの石碑をご覧ください。
f0300125_158512.jpg

【やわた道標の調査】


 一昨年から凡そ2年をかけて八幡市内はもちろん近隣自治体を含め、江戸時代の道標調査を行いました。「やわた」の文字や里程が彫られた道標を「やわた道標」と捉えて、その写真撮影とともに自治体別に「やわた道標」の本数を確認しました。総数で76基ありました(八幡の22基を含む)。詳しい内容は別の機会に報告しますが、それぞれが歴史的価値のある重厚な道標群でした。
 京都市内では南区唐橋羅城門の矢取地蔵堂前に「左 やわた八幡宮」と彫られた道標を含めて8基がありましたが、八幡に近い伏見区に7基が残り、長岡京市に1基、大山崎町に1基ありました。
大阪府には枚方市に26基もの道標があって「八まん宮道」、「八まん道」、「八幡街道」などと彫られた見事な道標が残っています。高槻市には3基、茨木市は1基、交野市に2基、寝屋川市に2基、四條畷市に3基、大東市に2基、東大阪市には5基があり「やはた」、「京 やわた」、「やハたみちすじ」などの文字が強く印象に残りました。このように今でも近隣自治体には多くの「やわた道標」が残り、自治体や住民にとって江戸時代の道標は大切な文化財であると自覚して、できる限り現場保存に努力し、大事に扱われている様子がひしひしと伝わってきました。
          
【八幡の道は八まん宮道】


f0300125_14533014.jpg 「八幡」へ案内する道標の数々は主に江戸時代に入って街道が本格的に整備されるに従い、往来する人々も飛躍的に増大しました。それに伴って道標もその地方の住人や有徳人、信仰心のあつい人々によって建立されたようです。「地蔵菩薩像」の道標が大変多く目につきますが、墓石に道案内を刻んだ道標も有りました。
道標には「京・やわた」をセットで案内するケースも目立ちます。現代の様な案内地図や電話もない時代ですから“やわた道 石の地蔵に 聞いて行く”と多くの地蔵道標に道を教えられては、ほっとするような息遣いが感じられ、「京やわた」の文字を見ては、都に近く何となく「みやび」な雰囲気を感じ取っていたかもしれません。
 八幡以外に54基もの道標群が「八幡道標」として現存します。如何に多くの人々が八幡宮参詣道としての「八幡の道」を歩いたものでしょうか。特に河内や大和、摂津の人々の往来が多く、放生会や安居神事の祭には沢山の人々がその役割を担ったり、多くの参詣人で賑わう様子が古文書からも読み取れます。
 「やわた道」あるいは「京やはた道」の道標に導かれた人々が実際に八幡宮の神領に入れば「八幡宮道」と書かれた道標が多く目につき、いよいよ「石清水八幡宮」も間近に迫っているのだ、と実感したものでしょう。
 「京・やわた道」「やはた道」「八まん宮道」の道標は八幡に数多くありますが、これだけの「やわた道標」の数の多さは一体何を物語っているのかはすでに明らかです!それに比べて男山東麓の南北の道に「東高野街道」と書かれた道標は1基もありません。これらからも八幡では決して「東高野街道」と呼ぶような道はなかったことが誰でもすぐ理解できます。江戸時代に、さも「高野道」や「東高野街道」が男山東麓を走っていたとするような文章があればこれは間違いです。歴史を解説する場合はその当時の常識や規範(スタンダード)で語らねばなりません。現在の規範をあてはめて解説するのは間違いのもとになります。ここは歴史を語る者が一番気を付けるところです。
 八幡では「八幡の道」の名称を他の宗教施設を連想するような名称に置き換えるようなことは決してありませんでした。「男山考古録」でも洞ヶ峠辺りから大阪寄りの道を「高野道」と呼んでいたことが明らかです。古来八幡に「東高野街道」という名称の道は無かったという真実を知って「ビックリする人」がなんと多いことでしょうか!
 凡そ90年前、昭和初期に八幡のあちらこちらに「三宅碑」(京都の三宅安兵衛遺志碑)が建てられました。その三宅碑の建立場所については「西村芳次郎」(当時の松花堂所有者)が大きく関わって、男山東麓の南北の道も「高野道」としたかったような気配が感じられますが、住民から受け入れられるものではなく、仕方なく西村芳次郎をしても、現在の月夜田交差点にある「右 高野街道」(昭和2年建立)の三宅碑を建てるのが精一杯だったようです。但し元々この「三宅碑」はここに建ってはいません。現在の「宝青庵」(もみじ寺)と中ノ山墓地の間の旧道(本来の古道)にありました。右に行けば洞が峠の高野道に至るという意味です。志水町(道)のはずれがすぐ洞ヶ峠という認識が当時は在ったのかも知れません。なお、この三宅碑には「文学博士 西田直二郎書」とあって、何とも含蓄のある石碑に見えます。
f0300125_14364650.jpg

【借物では「宝物」になり得ない】


 楠葉中之芝の「久親恩寺」にある両手で宝珠を持つ「地蔵道標」が橋本から楠葉を通る旧高野道の存在を証明する「地蔵道標」であることが判り、これは楠葉はもちろん、八幡の橋本にとっても「宝物」の発見になりました。
 また江戸時代から伝わる「石清水八幡宮全図」も「宝物」です。これ程の絵図を他の地域ではあまり見かけません。しかも江戸時代から繋がる町名や道筋がそのまま残り、いろんな歴史の舞台となった物語がこの絵図から次から次へと浮かび上がります。
f0300125_14584216.jpg 八幡や近隣自治体の「やわた道標」の調査では総数76基もの道標が残っていました。その殆んどが江戸時代に建立されたもので、歴史の重みを感じさせるほどの重量感がありました。京都市内ではやはり八幡の近くの伏見区に集中しており7基が残っていました。一つの自治体では概ね1基あるいは2~3基程度でありましたが、近隣の枚方市では牧野、楠葉を中心に何と26基もの道標があり、昔から同じ八幡宮文化圏であったことが窺い知れます。八幡には22基の江戸時代の「やわた道標」が残っています。「すぐ八幡宮」「やわた道」「八まん宮道」と書かれた道標群はこれらも我々のかけがいのない「宝物」です。
 さて、最近になって「石清水八幡宮参詣道」として「やわた道」、「八幡宮道」などはるか昔から八幡信仰の道として、その役割を果たしてきた男山東麓の道を「東高野街道」などと言い出して、誰が何時建てたか解らない薄っぺらな道標が僅か3kmの距離に13基も建ってしまいました。常識的に2,3基もあれば十分の処に、13基もの道標を建てないと信用してもらえない、との思いからでしょうか、これでもか、これでもかと建つ姿を見て、段々見苦しくなりました。この道標に歴史観を彷彿させるものがあるのでしょうか。
 自ら歴史的な調査も実施せずに、何処かの学者の意見を鵜呑みにするだけで建てたようですから間違いだらけで、理屈に合わない無駄な道標が沢山あるように思われてなりません。聞けば平成に入って、大阪から発信された歴史街道運動に乗っかって、観光集客を目的に建立したようです。我々八幡の住民に殆ど馴染みのない「高野街道」がなぜ八幡に突然に出現するのか?驚きです。この様な高野山ブームに乗っかったような借物の名称では八幡の「宝物」にはなり得ません。先般、八幡のとある協会のネット記事を見ていると、八幡は「東高野街道の宿場町」であったという誤った引用記事を掲載していました。何をかいわんや!事実誤認を誘引させるネットの引用記事は安易に掲載しないのが鉄則です。
       
【男山東麓の道は「石清水八まん宮道」がふさわしい!】


 我々の世代が受け継いできた八幡の歴史は次の世代にもしっかり引き繋いでゆくことこそ歴史や伝統が繋がりをもって活きてきます。男山の東麓を南北に走る道の名称は八幡の住民にとっては歴史的にも、江戸時代の道標の数々の存在を見ても「石清水八まん宮道」とあってこそ本物でネイティブな名称であり、通称「八まん宮道」だとすれば、近隣の八幡道標や八幡市内の道標と結びついて、一気に歴史が繋がり、ここに悠久の歴史を感じるとることができるはずです。現在、日本で一番多い神社は八幡神社で、いたる所に「八幡宮道」や「八まん道」があると想像されますが、「石清水八まん宮道」の名称であれば、ここ八幡にしかない固有の道になります。
 八幡に男山あって高野山なし、八幡に「八まん宮道の道標」あって「高野道の道標」なし、八幡に「石清水八幡宮」あって「八まん宮道」あり、八幡に「石清水八幡宮」あって「宝物」あり。
 八幡の歴史を調べてゆくと、幸いにも八幡にしかない「宝物」が続々とでてきます。一般には殆ど知られていない歴史的事実や文化財などを含めて驚くほどですが、残念なことに自治体には発信力が期待できそうにありません。市井の郷土史家の活躍こそが期待されるところです。八幡の歴史を探究し、自分の目で確かめ、信頼される確かな情報を共に発信してゆきたいと願うところです。  
以上  

# by y-rekitan | 2017-09-26 07:00 | Comments(0)

◆会報第81号より-07 本の発刊

『石清水八まん宮道』にいざな道標みちしるべ
―江戸時代の八幡道標―
の発刊にむけて

「八幡の道探究部会」編集委員会


 2015年10月に古道の調査を目的として本会の専門部会「八幡の道探究部会」を立上げて活動しています。その一環として編集委員会を設けて約2年間の道標調査結果を取りまとめて題記の冊子を発刊する準備を進めていましたが、このたび予定通り発刊する運びとなりましたので概要をお知らせします。

出版の趣旨

 八幡の古道を歩いてみると、当時の人々が生活する上で必要、かつ現在も貴重な道標(みちしるべ)が多く残されています。しかし残念ながら壊されたり、倒されたり、あるいは他所に移されたり、意味のない形で放置されているものも見受けられます。一方で八幡市に通じる市外の古道には、石清水八幡宮や八幡を目指す多くの道標が残り、現在も大切に保護されています。 
 本書は150年以上前の「江戸時代」に建立された八幡市内及び市外の「八幡道標」ともいうべき道標群を「昔と今を結ぶ掛替えのない歴史遺産として保護し」、「後世に引き継ぎたい」との強い願いから、現状を会員が自分の足で調査した結果をまとめて出版を企画・実施したものです。

本の主な記事

f0300125_9283025.jpg1.刊行にあたって
2.江戸時代の八まん宮道 エリア
  区分地図
3.道標群の紹介―以下の合計76基
  ・八 幡 市 :22基
  ・京都市内:8基
  ・長岡京市:1基
  ・大山崎町:1基
  ・高 槻 市 :3基
  ・茨 木 市 :1基
  ・枚 方 市 :26基
  ・交 野 市 :2基
  ・寝屋川市:2基
  ・四條畷市:3基
  ・大 東 市 :2基
  ・東大阪市:5基
4,八幡道標の調査を終えて
5.編集後記


お願い(2017年10月12日発行)

 是非、一人でも多くの方が冊子を片手に各地の江戸時代と現在を結ぶ八幡道標を訪ねられる事を願っています。道標に関心をもっていただくことが、道標の保護にもつながると確信し、最後の仕上げをしています。 
掲載している地図は、現地で迷わないように道標設置の場所をピンポイントで示しています。
 本書はA5版フルカラーで96ページになる予定です。本書は“本会で自家編集し、それをそのままネット印刷で本にする”ことで極力廉価で皆様にご提供できることを目指しています。
 発行日は10月12日の予定で、10月例会(講演と交流の集い)会場でもお求めいただけますように準備中です。

※)本書の刊行に関する事前問合せは、編集委員会 高田昌史 宛にお願いします。
  電話 090-2011-7503 または メールtakata@cd6.so-net.ne.jp

# by y-rekitan | 2017-09-26 06:00 | Comments(0)

◆会報第81号より-end

この号の記事は終りです。


<<< TOPに戻る       ひとつ古い次の号へ >>>

# by y-rekitan | 2017-09-26 01:00 | Comments(0)

◆会報第80号より-top <スクロールだけで全記事が読めます>

f0300125_9254523.jpg
この号の会報からは現在、下記の記事が掲載されています。
このまま下にスクロールして頂くと順次連続してご参照頂けます。

この号が最新号です。

◆シリーズ:“心に引き継ぐ風景” ⑪◆
◆《歴史探訪バスツアー》伊弉諾神宮と東山寺を訪ねて◆
◆シリーズ:“八幡の古墳と鏡” ④◆
◆シリーズ:“四條隆資卿物語” ②◆
◆八幡の京街道は川底に沈んだ◆
◆消えた踏切道に思う◆
◆今年白寿を迎えました◆



<< ひとつ新しい号へ   < TOPに戻る >   ひとつ古い号へ >>

ご意見は各記事下端のcomments欄をクリックしてお寄せください。

# by y-rekitan | 2017-07-24 15:00 | Comments(0)

◆会報第80号より-01 豊蔵坊信海

f0300125_2331529.jpg

心に引き継ぐ風景・・・⑪

豊蔵坊信海と北村季吟きたむらきぎん


f0300125_178367.jpg
 豊蔵坊信海(孝雄)は松花堂昭乗の門人であり、藤田友閑、中村久越らと共に
歴史に登場する。後年は狂歌作者として名を馳せ「豊蔵坊信海狂歌集」がある。
豊蔵坊は三河以来の徳川家の祈願所であった為、107石の領地朱印状を有し、年に3度、将軍に拝謁している。他に伏見奉行所より300石を支給されており、壮大な坊舎が絵図から見て取れる。今、跡地には「豊蔵坊跡」の三宅碑が建ち、石垣のみが往時を偲ばせる。
 信海、終生の友として、北村季吟がいる。季吟は現在の滋賀県野洲市の出身で
父宗円が京都に出て医や連歌を学んだ為、季吟も早くから医業を学び、長じて山城長岡藩の藩医であったことが知られている。俳諧は初め安原貞室(やすはらていしつ)に学び、後に松永貞徳の門に入る。貞徳没後「宗匠」として独立後の門人には、かの松尾芭蕉がいる。季吟が八幡豊蔵坊を直接訪れたのは寛文元年(1661)8月28日、季吟38歳、信海36歳の時であった。5日間逗留し、その時の贈答歌が残る。
信海が元禄元年(1688)9月13日に63歳で没した翌年、季吟は幕府歌学方として五代将軍綱吉に仕える。神應寺19世・廓翁鉤然(かくおうこうねん)に帰依する大奥総取締「右衛門佐(えもんのすけ)」はこの時期に多くの上方文化人を江戸に呼び寄せたが、季吟の推挙にも関わった事が容易に想像できる。

(写真と文 谷村 勉)空白



<<< 連載を抜けてTOPへ        この連載記事の続きは⇒⇒

# by y-rekitan | 2017-07-24 12:00 | Comments(0)

◆会報第80号より-02 淡路島バスツアー

f0300125_273775.jpg
《6月例会 歴史探訪バスツアー》

伊弉諾神宮いざなぎじんぐう東山寺とうさんじを訪ねて~


  藤田 美代子 (歴史探訪担当幹事)



 昨年よりさらに遠く淡路島へと企画いたしました。
 従来通り市内4ケ所の集合場所にお集まりいただき、順次バスに乗車、4番目の一の鳥居を予定より10分早く、総勢39名にて出発致しました。当初見込みの参加人数を越えましたので参加費を8,500円から8,000円に値下げさせて頂きました。
 今年度は当日の不参加者は居られず、遅刻される方もなくスムーズな集合で出発することができました。
 途中名塩でお手洗い休憩を取り、伊弉諾神宮へと向かいました。

 伊弉諾神宮は、古事記・日本書紀に、国生みに始まるすべての神功を果たされた伊弉諾大神が御子神なる天照大神に国家統治の大業を委譲され、最初にお生みになられた淡路島の多賀の地に「幽宮(かくりのみや)」を構えて余生を過ごされた、と記されていることに由来するそうです。f0300125_1194210.jpg
 境内地は約一万五千坪、日本最古の社です。江戸時代の地誌によれば二丁四方の社地を領したこともあり、広大な神域でありました。
 バス到着後、神明鳥居の一の鳥居・二の鳥居をくぐり、神地の反り石造りの神橋を渡り、手水舎を経て、重厚な檜皮葺きの表神門に至ります。

 拝殿にて宮司様に厳粛に祝詞(のりと)を奏上頂き、f0300125_11142154.jpg巫女さんによる雅な神楽を堪能したのち、割り拝殿形式であるため、改めて本殿に向き直し、皆さん一同の二礼二拍手一礼の参拝をさせて頂きました。その後宮司様より、神社のこと、また、石清水八幡宮の別宮であったことがあり、今では当社の宮司様が兼務をされている鳥飼八幡宮の説明を頂きました。鳥飼八幡宮には美福門院から石清水八幡宮へ御造進され、f0300125_1119463.jpg安貞二年(1228)に贈与せられた重要文化財(昔は国宝)御鳳輦が安置されていること。現在も石清水八幡宮の放生会に際し、毎年土地の名産「鶏冠海苔(とさかのり)」が奉納されていること、例祭には勇壮な神輿が出ること等々興味深いお話でした。そして境内に出て二班に別れて末社、樹齢九百年の夫婦大楠、神幸式に召される六角鳳輦型の豪華な御神輿、その格納神輿庫、神馬の銅像や御手植えの松、元禄元年(1688)以前に藩主蜂須賀家の寄進した東西神門等の説明を受けました。面白かったのは、神池のそばに伊弉諾神宮を中心とした太陽の運行図という石碑があったことです。当神社を中心として主要な神社が日本全土に意図的に配置されているというものです。
 「夏至日の出」の方角に「諏訪大社(信濃国一宮)」
 「夏至日の入」の方角に「出雲大社(出雲邦一宮)」
 「冬至日の出」の方角に「熊野那智大社」
 「冬至日の入」の方角に「高千穂神社(天岩戸神社)」f0300125_11255858.jpg
 淡路島を中心につまり、夏至のとき太陽は「諏訪大社」の方角から昇り「出雲大社」の方角へ沈む。冬至のとき太陽は「熊野那智大社」の方角から昇り「高千穂神社」の方角へ沈む。東へまっすぐいったところは「伊勢神宮」となっております。太古の昔天文学・測量技術がそんなにも発達していたのでしょうか?

 伊弉諾神宮を後に昼食会場「きとら」へと向かいます。こちらはツアー下見時案内頂いた伊弉諾神宮権禰宜様より教えて頂いたお店で、海鮮料理がおいしく、団体でも可能とのことで、試食もした上で決めたレストランです。 今までのバスツアーでは昼食は各自の好みで取って頂くことを原則としておりましたが、今回は近くに十分な数の店もなく、たまには交流を兼ての合同の昼食も良いのではということの結果です。皆さんから印象は悪くなかったという感想を頂いており、企画した者として胸をなでおろしているところです。

昼食後は東山寺へと向かいます。
 高速道路を降りた後、東山寺への道はせまく、険しいもので、最後はバスを降りて歩かざるを得ませんでしたが、歩くのはさしたる距離ではありませんでした。
f0300125_11343274.jpg 山門及び本堂は室町時代淡路守護職細川家の寄進とされ、淡路最古の木造建築です。
 石清水八幡宮護国寺にあった薬師如来と十二神将は現在国の重要文化財ですが、かっては国宝に指定されていたものです。
 今回のツアーの大きな目玉であることからも、皆さんは逸るこころで東山寺の階段を駆け上られたのではないでしょうか?私も下見時の気持ちの高鳴りを再び覚えました。
f0300125_1137244.jpg ここでも二班に別れて、本堂と薬師堂を見学させていただきました。
 御本尊は十一面観音で一木三体の名作と伝えられ、常隆寺・千光寺とは木兄弟です。
薬師如来及び十二神将は現在鉄筋コンクリートの近代的建物の薬師堂内に安置されております。これは旧木造薬師堂が昭和40年の秋の台風により倒壊寸前の状態に陥り、津名・一ノ宮両町教育委員会のご尽力により、文部省・県・町のご厚意により建設されたのだそうです。
 尊像が大切に保存されており、有難いことだと思わずにはいられませんでした。
 これ等の仏像が何故に淡路の地に来ることになったのかについて以下のように伺いました。
 1867年幕府は政権を朝廷に返上し、鳥羽伏見の戦いを経て、明治維新を迎えました。明治新政府は王政復古の名のもと、神道を重んじる政策を打ち出し、廃仏毀釈の嵐が吹き荒れます。石清水八幡宮・護国寺の別当であった道基上人は何年もお祀りしてきた仏像が捨てられることが耐えがたく何とかしたいと思っておられました。幕末動乱の中、密使として働いていた佐伯心随尼僧が東山寺復興を目指していることを聴き、復興の手助けになればと当地に仏像を運ぶことを決意されたようです。険しい山道を仏像を背負ってこの地に持ち込まれたそうです。明治二年六月十二日のことです。
 どのように運ばれたのか質問してみますと、樽に入れて運ばれたとのことでした。
其の後道基上人は淡路島に移り住み、永寿寺という小さな寺の住職となり、明治二十二年心随尼の東山寺復興を見届け、七十四才で生涯を閉じられたそうです。

f0300125_11395768.jpg 別れていた二班が一緒に本堂に入り、高野山尼僧学院で教鞭を執ってこられた住職様より、講話を頂きました。感謝して生きることの大切さを教えられました。
 東山寺に心惹かれながら、帰路に向かいました。ハイウェイオアシスで小休止して、予定通り全員無事八幡に到着しました。

 皆様お疲れ様でした。
 最後になりましたがこの場をかりまして、下見時、当日とご丁寧に御案内並びに御説明頂きました、伊弉諾神宮、東山寺の皆様に心より御礼申し上げます。
 来年もまた、八幡にゆかりのある旅の企画ができればと思っています。


<<< レポート一覧へ        次の《歴探ウォーク》レポートは⇒⇒

# by y-rekitan | 2017-07-24 11:00 | Comments(0)

◆会報第80号より-03 古墳と鏡④

シリーズ「八幡の古墳と鏡」・・・④
八幡の古墳と鏡 (4)
-東車塚古墳について-

濵田 博道 (会員) 


東車塚古墳とは

 東車塚古墳は国史跡名勝に指定されている松花堂庭園(八幡市大字女郎花)内にある古墳です。というより、もともと古墳があったところを開発、利用して名勝松花堂庭園ができたという方が正確でしょう。この付近は江戸時代の終わりごろから畑地として開拓が始まっています。
『男山考古録』(1848年)巻14「東車塚」に概略次のような記述があります。
f0300125_171013.jpg「女郎(花)塚(おみなえしづか)といふ処の東に、四十間(約73m)ほどの小山のような塚があり、このことである。
(中略)この地は社士神原氏の所領だったが、志水町の民小衛門と儀右衛門という人が40年ほど前、山頂の樹木を切りここを開拓し畑にしようとして、鋤鍬で耕そうとしたが、皆その夜から病に伏して掘り崩すことはやんだ。
儀右衛門の子どもの清兵衛という人が恐れおののいて丘上に小祠を建てて祭った。このようなことは西車塚でもあった」。
 梅原末治氏の『久津川古墳研究』(大正9年(1920年)、水木十五堂発行)には次のような記述があります。
「(東車塚古墳は)北北西面の前方後円墳にして、北西にある西車塚と相去る約一丁(約109m)なり。後円部の西方に女郎花塚なる小円墳を伴ふ。f0300125_1743012.jpg古墳の全部は今全く井上氏の別荘の内に入て、大部分は地均を行ひ庭を形造り、ために原形を明にする能わざる(後略)」。
 古墳は「推定全長90m、後円部径50m、前方部50m、前方部幅30m、葺石・埴輪列、粘土槨(後円部)、木棺直葬か(前方部)」(注1)とされています。前方部は削平されており、現在その痕跡はなく、詳しい墳形や何段築成の古墳であったのか不明です。古墳としてはわずかに後円部が松花堂庭園の築山として残っているのみです。

東車塚古墳の埋葬施設・埋葬状態

 前書で、梅原末治氏は別荘工事を観察していた西村芳次郎氏より話を聞き、次のように記しています。「古墳の外形すでにこの如きを以て内部の構造、遺物の埋葬状態等は既に明瞭にする能わざる点多きも、(中略)この塚においては前方部と後円部との両者に埋葬物存せりが如く、最初前方部の地均の際古鏡一面と剣身一口を発見し、(中略)地表下約二尺(約60cm)にして、土砂に混じ偶然上記の二品を得たるものにして、なんらこれに特殊の造構を認めざり」。
 前方部に於いては「何らこれに特殊の造構を認めざり」とありますから、きちんとした埋葬施設があったのか、不明です。それゆえ、『八幡市遺跡地図』も「木棺直葬か(前方部)」と記述しているのでしょう。この前方部から出土した鏡が三角縁神獣鏡です。
 後円部の埋葬施設については、封土の下、約150~160cmの所に「やや前者(前方部)と様子を異にして、一種の粘土と礫石(れきせき)とより成る槨(かく)の如きものあり」。底に栗石を一列に並べた礫床(れきしょう)があり、次に朱層があってその上に粘土層を置き、「遺物はこの朱層中に存せり」とあります。「西に偏して長宜子孫内行花文鏡(ちょうぎしそんないこうかもんきょう)一面存し、それに隣て東にほぼ相重なれる位置に古鏡二面あり。両者の中間より硬玉製勾玉(こうぎょくせいまがたま)二個を発見せり。刀剣、斧頭、鏃(やじり)の類は鏡よりさらに東に並列し、鏃、甲冑(かっちゅう)の類は刀剣の北側、二面の鏡の東に位置せりと伝へ、鏡は三面共表面を上にして存せり。」(注2)と記されています。
 礫床(れきしょう)・朱層・粘土層を敷いた埋葬施設が一基あり、豪華な副葬品を持つことから、後円部の被葬者がこの古墳の主体であり、遺物も大切に埋葬されていることがわかります。

東車塚古墳出土の副葬品

 さらに「遺物の中にて最も貴重なる鏡にしてその中(中略)長宜子孫内行花文鏡は京都帝国大学に蔵せられその他は個人の有に帰せり」(注3)とあります。現在、鏡4枚のうち京都大学総合博物館(内行花文鏡1枚)と泉屋博古館(三角縁神獣鏡及び仿製六神像鏡の2枚)に分散、所蔵されています。残りの鏡1枚(鼉龍鏡(だりゅうきょ))、碧玉製勾玉(へきぎょくせいまがたま)二個、甲冑などは不明です。甲冑は衝角付冑(しょうかくつきかぶと)及び短甲(たんこう)であることがわかっています。梅原末治氏は大正5年(1916年)にこの古墳を訪れ実見し、「副葬品はその後四散して今行方を失せるもの少なからず。」(注2)と記しています。
 副葬品の刀剣「素環頭大刀」「大刀」(計9本)(注4)の写真が『八幡市誌第1巻』に載っており、松花堂資料館蔵とあります。この「素環頭大刀」とは何か。どのような意味を持った大刀なのか。そのことに関して松木武彦氏の『人はなぜ戦うのか』(講談社選書メチエ)に興味深い記事があります。
 “『魏志』倭人伝によると卑弥呼は晩年、「南」にある狗奴国(くなこく)と仲が悪く交戦していた。狗奴国を攻めあぐねた卑弥呼側は中国・魏の皇帝に援助を求める。皇帝はこれに応え、使者を立て、詔書(しょうしょ)と軍旗をつかわす。武器が供与された可能性がある(京都大学、岡村秀典氏)”(要約)。「その治世の後半頃に卑弥呼を支えたとみられる有力者たちの墓からは、把(は)(=つか)の先をリング状にした大刀が出る。素環頭という中国王朝風の大刀だ。これら素環頭のなかに、247年の軍事支援の折に魏から卑弥呼側にもたらされたものがあると考えている。素環頭は、卑弥呼側の最新兵器として威力を発揮しただろう」。
 東車塚古墳から大刀と共に出土した素環頭大刀(数本)ですが、“古墳の築造は4世紀末~5世紀初頭で、卑弥呼の時代は3世紀前半~半ばだから時代が違うし、関係ないではないか”と思われる方もおられるでしょう。もっともです。しかし、この古墳からは弥生時代後期の鏡(内行花文鏡)も出土していますので、この素環頭大刀が弥生時代後期・卑弥呼の時代のものでないとは断定できません。調査に値すると思います。また、“卑弥呼の側に立たなかった陣営(例えば出雲)の墓からは素環頭大刀は出土せず、そのリング(素環頭)を切り取った大刀が出土しており、陣営により区別していた”(注5)というのです。仮に素環頭大刀が弥生時代のものだとすれば、八幡の地域の勢力は卑弥呼側だったといえると思います。また、4世紀~5世紀の古墳に弥生時代の内行花文鏡と素環頭大刀が埋葬されているとすれば、そのことについてどう考えるか。それらは独自に手に入れたものなのか、伝世したものなのか、伝世したものであるとしても大首長やヤマト王権から配布されたのか、それはいつなのか、など興味深い点が多々あります。
 松花堂美術館で「大刀はどこで見られますか」と尋ねると、現在は所蔵していないとのことです。どこに所蔵されているのかについての最終確認はできていません。所在を市民が個人で訪問して調べたりすることの限界があります。八幡市民としては、市内出土の遺物を見学したいところですが、難しい状況です。

三角縁神獣鏡と甲冑

 東車塚古墳の副葬品の中に三角縁神獣鏡と甲冑(かっちゅう)が同時に存在するのは注目すべきことです。f0300125_9145539.jpg古墳時代前期(3世紀半ば~4世紀末)の有力古墳に共通してみられる三角縁神獣鏡の副葬は中期(5世紀)に入ると近畿を除いてほとんど見られなくなります。替わりに、中期には甲冑を含む多量の武器が河内の百舌鳥(もず)古墳群(堺市)や古市(ふるいち)古墳群(藤井寺市)を中心に出土するようになり、これらの古墳群からは三角縁神獣鏡は出土していません。三角縁神獣鏡が副葬されている古墳には甲冑は副葬されず、逆に甲冑が副葬されている古墳には三角縁神獣鏡は副葬されなくなります。ところが、東車塚古墳では古墳時代前期の三角縁神獣鏡と中期の甲冑、両方が出土しています(埋葬施設は異なりますが)。こういう古墳は珍しく、現在、近畿で7基しか見つかっていません(注6)。すべて前期から中期へ変化していく時期あるいは中期初頭、遅くとも中期中頃までの古墳です。大型古墳群は時代とともに、大和盆地東南部(3世紀半ば~4世紀半ば)→佐紀古墳群西群(4世紀半ば~5世紀半ば)→百舌鳥・古市古墳群(4世紀末~5世紀初頭)へと地域を移動します。それぞれの時期に主導権を握ったヤマト王権中枢の勢力の古墳と考えられています。大古墳群が移動するにつれ、古墳群の構成も複雑になり、副葬品も変化していきます。新時代の要請に対応する組織を作り出す勢力が主導権を握ります。東車塚古墳築造時期はまさに政権の移動の時期にあたります。東車塚古墳の勢力はそのキャスティングボートを握った勢力の一つであり(注7)、その結果、両方の威信財が埋葬されているのではないかと考えられるのです。しかし、そのことがよかったかといえばそうともいえません。八幡市域ではこれ以後古墳築造は衰退し、中期半ばの美濃山王塚古墳を最後に目立った古墳は築造されなくなります。西車塚古墳・東車塚古墳の時代は八幡における古墳時代の頂点の時期、東車塚古墳はその分岐点の古墳ともいえます。田中晋作氏はいいます。「西車塚古墳は、東車塚古墳より先に築造された古墳だが、周辺ではこれより古い古墳が現在のところ確認されておらず、また、東車塚古墳の後続古墳についても知られていない。南山城の古墳編年によると、久津川古墳群で久津川車塚古墳が築造されるころに、この地域(=八幡)の勢力が衰退する。この現象は久津川古墳群との関係によるのか、百舌鳥・古市古墳群を含めた畿内全体の動向の中でとらえるべきか、即断できないが、八幡東車塚古墳を最後に古墳の築造が停止する現象は注意しておく必要がある。」(注7)

三角縁神獣鏡の副葬状態

 東車塚古墳では前方部において「なんらこれに特殊の造構を認めざる」ところから三角縁神獣鏡が発見されました(前出)。このような状態で鏡が発見された例が他にもあります。第2回目でふれた徳島市宮谷古墳の発掘概要(『日本考古学年報42』、P541~P542』1989年)によると、三角縁神獣鏡は「3面分が第2トレンチ(前方部先端)より出土している。いずれも、本来鏡が副葬される内部主体から大きく離れており、後世の盗掘あるいは開墾などによる墳丘削平等によって原位置を移動したと思われる。」とあります。東車塚古墳の出土状況と似ているようにも思います。そのような埋葬状態から、三角縁神獣鏡はそんなに大事に扱われなかったのではないか、葬具、呪具ではなかったのか、という専門家の意見が出ています。

東車塚古墳出土の三角縁神獣鏡の銘文

 三角縁神獣鏡は「三角縁銘帯二神二獣鏡」といいます。『八幡市誌』には「尚方作二神二獣鏡」という名で載っています。次のような銘文があります。
銘文:尚方作竟佳且好 明而日月世少有 刻治今守悉皆右 長保二親宜孫子 富至三公利古市 告後世
 
(この鏡は尚方が作った鏡で立派で良い。明るく日月の世はまれだ。政治を刻み、今を守れば皆右。両親は長寿で子どもや孫に恵まれ 富貴になり出世し商売は繁盛する 後の世まで告げる。[訳:濵田] )
『尚方作竟』(竟=鏡)の「尚方」とは何か。松本清張氏は「漢の宮廷の鋳造所」といいます(注8)。森浩一氏は『考古学と古代日本』(中央公論社)の中で「『尚方作竟』の銘文も多くの三角縁神獣鏡にあるが、『尚方』とは国の官営工場のことで、漢から晋代にかけて中・左・右の三つがあり、魏では右尚方が鏡をつくっていた。」「また『尚方鏡』の銘文の中に『買此鏡者大富』(この鏡を買うものは大いに富む)とあるように、『尚方鏡』は私営工場でつくっていたことを示していて、三角縁神獣鏡の『尚方作竟』銘は尊大な虚詞」と述べています。『尚方作竟』と銘記されていても必ずしも官営工場で作られたものではない、というのです。いずれにしても、中国・魏の官営工房の銘が入った鏡が東車塚古墳から出土していることは事実です。

東車塚古墳出土三角縁神獣鏡の同笵鏡

 東車塚古墳出土三角縁神獣鏡の製作は舶載鏡C段階、260年代といわれています(注9)。同笵鏡は次の3枚が確認されています。  
 ①熊本県芦北郡出土(伝)
 ②奈良県新山(しんやま)古墳出土
 ③出土地不明(福原家所蔵)
 ①の芦北郡は八幡茶臼山古墳石棺・阿蘇溶結凝灰岩の産出地氷川(ひかわ)のすぐ南に位置します。八女市と水俣市の間にあり、八代海に面する南北に長い郡です。「鏡片」が出土したと報告されていますが、その場所の特定はできていません。他の出土品も不明です。
 ②の新山古墳は葛城地方最古・全長126mの前方後方墳です。4世紀前半の築造です。この古墳から鏡34、碧玉製管玉16、車輪石3、石釧1、金銅製帯金具24、鉄刀16、鉄剣16、鉄刀子16など数多くの遺物が出土しています。そのうち鏡は直弧文鏡(ちょっこもんきょう)3、三角縁神獣鏡9、画文帯神獣鏡3、方格規矩鏡(ほうかくきくきょう)4、内行花文鏡14と貴重な鏡が多いです。

長宜子孫内行花文鏡(ちょうぎしそんないこうかもんきょう)

 東車塚古墳出土の鏡の中で、「最も貴重なる鏡として」(注3)位置づけられ、「全面黒漆色を呈せる美麗なる鏡なり。」「外区は細密精巧なる直線と円の文様により成り、四葉座紐(ちゅう)の間に長宜子孫の銘を印す。」(注2)と記されています。面径22.3cmで大型に近い中型鏡です。内行花文鏡というのは日本独特の呼び名で、鏡の弧の連続模様を花弁と見て付けられましたが、真に花弁を表したものかは疑問とされています。鏡の中には宇宙が描かれていてその宇宙の幕(連弧文はその幕である)を開けたものともいわれています(注12)。中国では連弧文鏡(れんこもんきょう)といいます。(『広辞苑』に鏡の図)
 中国・新(しん)-前漢(紀元前202~紀元8年)と後漢(25~220年)の間に15年ほど存在した国(8~23年)-の“王莽(おうもう)の時代に出現した可能性が強い”(注10)といわれています。主に後漢時代―日本では弥生時代―に作られた鏡で、「もっともオーソドックスな(=正統的な、一般に認められた)鏡」(注11)といわれています。「卑弥呼の鏡」候補の一つです。この時代、倭・中国(楽浪郡)・朝鮮半島南部の間で結構交流がありました。白石太一郎氏は「古墳副葬鏡について、二種類の機能」があり、「一つは(内行花文鏡など)司祭者の象徴として祭器とされていた鏡、もう一つは三角縁神獣鏡など呪具として葬送にともなって使われていた鏡」(注13)であるといいます。
 鏡名のはじめにある「長宜子孫」というのは「長生きし、子孫に恵まれる(子孫繁栄)する」という吉祥句(きっしょうく)で、内行花文鏡をはじめ多くの鏡に記銘されています。上に出てきた三角縁神獣鏡の銘文「長保二親宜孫子」も似たような内容です。
 内行花文鏡をはじめ、舶載鏡(=中国鏡)はまず北部九州に入ってきました。弥生時代の鏡の約300枚中200枚ぐらいが舶載鏡で、そのうち150枚ぐらいの舶載鏡が北部九州から出土しているそうです(注14)。そうだとすると、残りの舶載鏡は50枚ぐらいということになりますが、東車塚古墳の鏡は舶載鏡です。当時の倭の首長たちは「司祭者の象徴としての祭器」であるこの内行花文鏡が欲しかったようで、舶載鏡を真似た小型(5~12cm)の仿製(=倭製)鏡が多数出土しています。京都府下で内行花文鏡をみると26枚出土(注12)していますが、仿製鏡が14枚と過半数です。大きさでは小型、中型がそれぞれ12枚ずつ、大型が1枚(椿井大塚山古墳、3世紀後葉、27.7cm)です。東車塚古墳の内行花文鏡は府下2,3番の大きさです。
 福岡県(伊都国(いとこく))の平原(ひらばる)遺跡(弥生時代末期~古墳時代初期)では内行花文鏡だけでも20枚、うち巨大な(46.5cm)仿製内行花文鏡が5枚(出土40枚の鏡はすべて国宝)出土しており、当時の北九州勢力の強大さがわかります。私は福岡県・伊都国歴史博物館-ここは『魏志』倭人伝にある伊都国のあったところ-を訪問し、これらの鏡を見、その大きさと数に驚き圧倒されました。

半円方形鼉龍鏡(だりゅうきょう)

 鼉龍鏡について、梅原末治氏は「四面の古鏡中最も見る可きものなり」と書いています。「鼉龍鏡:仿製鏡(=倭鏡)の一種。だというのは、わにの一種であるといわれている。首の長い獣形が、半肉彫りに表され、その頸部に棒状のものが出ている。獣と獣の間に神像を配したものもある。山口県柳井市の茶臼山古墳から直径44.5cmの大型のものが出土している」(ブリタニカ国際百科事典)。また「鼉」は「形は蜥蝪(せきえき=トカゲ)に似るとも、龍に似るともいわれる。また横に飛ぶが、上に謄(のぼ)ることはできないともいう。その声は恐ろしくて、気を吐いて雲をつくり、雨をもたらすともいう。」(樋口隆康『古鏡』新潮社)と説明されています。しかし『日本歴史大事典』には「鼉龍とは鰐(わに)の一種をさすが、本鏡の文様とは直接の関係がない。」とあり、なぜ鼉龍鏡という名が付けられたのかはよくわかりません。
 この鏡は「独創的な図像」で「文様の精緻なことと共に古墳時代の仿製鏡の製作技術の高さを示す鏡の一つ」(『日本歴史大事典』)とされています。残念なことに東車塚古墳出土の鼉龍鏡は「現物なし」と報告されています(注15)。なお、鏡名の最初にある「半円方形」というのは鏡の内区に棒をくわえる怪獣がおり、次に半円方形帯があるのでその名が付けられています。
 次回は「石不動古墳出土の鏡について」考えてみたいと思います。 
(つづく)

(注1)『八幡遺跡地図』,八幡市教育委員会,2005
(注2)梅原末治『久津川古墳研究』, 水木十五堂, 1920
(注3)佐藤虎雄「東車塚庭園」『京都府史跡名勝天然記念物調査報告第十三冊』,京都府,1932
(注4)「古く用いられた直刀(ちょくとう)を『大刀』と表記し、平安時代以後のものを『太刀』と書く」(広辞苑)。つまり「大刀」には日本刀のような「そり」がありません。
(注5)松木武彦『人はなぜ戦うのか』,講談社選書メチエ,2001
(注6)三角縁神獣鏡と甲冑が共存する7古墳は室宮山古墳・池ノ内5号墳・円照寺墓山古墳、八幡東車塚古墳・久津川車塚古墳・芝ヶ原11号墳・和泉黄金塚古墳。(注7)のP64参照。
(注7)田中晋作『筒型銅器と政権交替』,学生社,2009
(注8)福永伸哉『三角縁神獣鏡の研究』,大阪大学出版会,2005
(注9)松本清張「三角縁神獣鏡への懐疑」『遊古疑考』,河出文庫,2007
(注10)岡村秀典「後漢鏡の編年」『国立歴史民俗博物館研究報告第55集』,1993
(注11)大塚初重『最新日本考古学用語辞典』,柏書房,1996
(注12)森岡秀人「銅鏡を作り始めた近畿弥生人の捜索」講義ノート,古代学協会,2017
(注13)西川寿勝ら「考古学と暦年代」,ミネルヴァ書房,2003
(注14)西川寿勝「三角縁神獣鏡の研究」,古代学協会佛教大学提携講座,2017
(注15)『国立歴史民俗博物館研究報告第56集』,1994 





<<< 連載を抜けてTOPへ        この連載記事の続きは⇒⇒

# by y-rekitan | 2017-07-24 10:00 | Comments(0)

◆会報第80号より-04 四條隆資②

シリーズ「四條隆資卿」・・・②

四條隆資卿しじょうたかすけきょう物語  その2
~四條隆資卿の出生秘話~

 大田 友紀子(会員) 



 f0300125_2139394.jpg今年も暑い夏、祇園祭のコンチキチンの祇園囃子の聞こえてくる時期になりました。この時期になると、ふと隆資卿の生涯について考えてしまいます。いったい何が、隆資卿の一生を決定づけたのか、今回は、隆資卿の「蟷螂=かまきり」に例えられるほどの一途な愚直さが、どのようにして形成されたのか、後醍醐天皇への忠誠心を育んだのか、考証してみようと思います。『蟷螂の斧』の話は、侮(あなど)る比喩に使われる方が多いようですので。


四条家の歴史(「四条家略系図」参照)

 四條隆資卿の出生についてですが、まずは「四条家」という特殊な家の歴史を知ることから始めなければなりません。院政を始めた白河上皇の乳母子(めのとご)であることから、引き立てられて、いつしか朝廷の中枢へと登りつめた遠祖・藤原顕(あき)季(すえ)が、母である藤原親子が建立した善勝寺を受け継いだことから、四条家の当主は「善勝寺長者」と呼ばれて、庶流を率いて行くようになりました。
 藤原北家の流れをくむ四条家ですが、その地位は決して高くはありませんでした。平安後期の貴族で美福門院得子(びふくもんいんとくこ)を嫌っていた藤原頼長は、その日記『台記』の中で事あるごとに得子を「諸大夫の女(むすめ)」と侮って書いています。確かに四条家流の遠祖である藤原顕季の父隆経も、早世しているとはいえ、美濃守で終わっていますし、生没年不詳です。隆経の父・頼任についても、藤原道長に家司として仕えていますが、その身分は受領です。「諸大夫」とは、受領階級を指しましたので、摂関家の出である頼長から見れば、そんな受領階級の出身の娘に、いくら鳥羽上皇の寵妃であったとしても、摂関家の我々が何故ご機嫌伺いをしなければならないのか、と激しい憤りを何度も吐露しています。
 ここで、公家(貴族が、武家に対して「公家」と称するようになったのは鎌倉時代からですが、総じて平安後期からも解かりやすいので使用します。)の家格について説明しますと、その成立は鎌倉初期です。それ以来、摂政関白に任ぜられる家としての「五摂家」を頂点に、その下に七家の清華家(江戸初期に二家が追加されて九家となる)、次は三大臣家、そしてその下が羽林家(うりんけ)で、約80家がありました。それから、羽林家と同列の名家は、武官の羽林家に対して文官として、朝廷の実務を担当しました。その下には最下位の家柄として、半家がありました。半家とは、「源平藤橘(げんぺいとうきつ)」以外の出自の家で昇進しても、非参議にしかなれないことが多かったようです。
 f0300125_21483196.jpg四条家は家格としては羽林家で、武官の家柄です。羽林とは「羽根の如く速く、林の如く多い」の意で、中国では北辰(北極星)を守護する星々の名称で、皇帝(日本では天皇)を護る宮中の宿衛の官名となり、日本では、近衛府の別称(唐名)となりました。武官の家である羽林家の男たちは、元服後に近衞府への出仕が決っていたので、幼い頃より武芸をたしなみ、その技をもって天皇に仕えました。行幸の時などには、200人余りの羽林家の者達が供奉することが先例で決められていました。そして、日頃から天皇の傍近くに侍るので、和歌のたしなみも必要とされるので、文武両道の道を究め、学問に勤しみました。
 そして、羽林家の娘たちはというと、御所の女官となり、天皇のお傍近くに侍り、日常生活を支えました。このように、羽林家の者たちは、常に天皇の傍らにいる直属の官人となり、警護を担い、天皇制を維持するために尽くしました。そして、天皇の御子の生母となる女たちも、だいたいが羽林家の出身者たちで占められ、それは江戸時代末まで続き、江戸時代の最後の天皇・孝明天皇の皇子(後の明治天皇)を生んだのも、中山家の娘(慶子)で、羽林家の家柄でした。

四条家を隆昌に導いた3人の娘たち

 そんな四条家(流)の栄達の歴史は、3人の女性を抜きには語れません。まずは美福門院得子、生母は村上源氏の出身です。次に挙げる四条貞子には、不思議な血の縁を感じてしまいます。貞子の父・隆衡(たかひら)の母は平清盛の八女で、彼女には平家の血が流れています。婿となった西園寺実氏の母・全子(またこ)は、坊門姫と呼ばれた源義朝の娘で、もちろん頼朝の実妹です。つまり、かつて相争った源平の血がここで一つになったことになります。その貞子は、関東申次である西園寺家の正室となって二人の娘を生みました。長女の姞子(よしこ)は後嵯峨天皇の中宮・大宮院となります。その姞子が生んだ二人の皇子が共に即位したことから、貞子は「今林准后」または「北山准后」と呼ばれ、その権勢は絶大でした。その縁からか、その弟の隆親は、後嵯峨天皇の乳母である源(足利)能子(よしこ)を妻に迎えました。
 貞子の娘・大宮院は、弟皇子の恒仁(後の亀山天皇)を可愛がり、その利発さを愛して、夫である後嵯峨天皇に働きかけ、恒仁親王の登極を実現させます。兄弟で皇位に就くことは、前帝である後鳥羽天皇が強く禁じ、遺言として残しています。皇統の分裂を防ぐことを目的として、書き残したのでしょう。そして、その恐れが現実のものとなり、兄の後深草天皇の持明院統(北朝)と、亀山天皇の大覚寺統(南朝)とに分かれた皇統の対立から、南北朝の戦乱が引き起こされたのです。ここに、時の申し子・大宮院姞子の中で混じりあった源平の血に災いの種をみるのは、私一人でしょうか。
 そして、三番目の女性こそが隆資卿の実母かも知れないといわれる四条識子(さとこ)です。亡き角田文衛氏の著『平家後抄』の終章に詳しく書かれているので、引用します。
 「『とはずがたり』に浮き彫りにされている通り、四条大納言・隆親は、権力者にありがちな厳しさ、気難しさを備えていた。「承久の乱」後、政略的な意味から彼は、平時政の外孫にあたる足利家の源義氏の娘・能子を本妻に迎えた。二人の間に生まれた隆顕は、父の威勢を背景に迅速な昇進を遂げ、早くも正二位権大納言に至った。しかし建治3年(1277)5月、彼は父・隆親との不和から官を辞し、出家した。このためもあって、隆顕の子孫は同じ四条家でありながら大覚寺統に走り、持明院統に属する同家の主流とは対立するに至った。隆顕の孫で、その養子となった大納言・隆資(1292-1352)とその子息たちの南朝方に対する尽忠は、壮絶を極め、周知されている。この結果、南朝に属した隆資の系統は断絶し、隆親の子で北朝方についた大納言・房名(1230-1288)の四条家と、権中納言・隆良(1296年薨)(鷲尾家)の孫の従三位権中納言・隆職(たかもと・1347年薨)の子孫が存続をみたのである。平清盛は、その絶大な権力を背景に娘の徳子(のりこ)を中宮に納(い)れ、安徳天皇の外祖父となった。しかし彼が強行した計画は稔らなかった。けれども徳子の妹は四条家の隆房の妻となり、その孫の貞子―北山准后―は、平和裡に清盛の血統を皇室に伝え、清盛の宿願を果たしたのであった。」と書かれています。
 要するに、表面上は源義朝の血統は鎌倉幕府3代将軍実朝の暗殺によって断絶するが、平清盛の血統は、『平家後抄』に書かれた如く、清盛の娘たちを堂上公家の家に嫁がせたことで途絶えることなく、現在の公家の末裔にまで受け継がれている、といういわゆる「女人平家」の系譜を語っているのです。私も、この角田説を土台にして考えていますが、そうとばかりいえないと思われるところも多々あります。西園寺実氏(さねうじ)の母系の存在により、源平の血が混じりあって受け継がれたと思われるからです。

権門家(けんもんけ)になった四条家の栄耀の果てに

 四条家4代目の隆親の識子(さとこ)への偏愛により、隆資の祖父で、育ての親である隆顕(たかあき)は早々と出家してしまい、四条家は次男・房名の系統に移ります。父・隆親の識子への思いによって生まれた禍根ですが、隆親の老いが生み出したものであると言えるでしょう。それはひとえに識子の地位の向上を願い、それのみに執着した結果、その後の多くの悲劇を生み出して行きます。そのことについては、またいつか、後深草院二条の生涯を書くことができたら、その時に触れてみたいと思っています。
 四条家の家祖は中御門家成、もしくはその嗣子である隆季というふうにいわれています。
中御門家成の父は藤原家保で、白河上皇の乳母子である顕季の次男で平清盛の乳夫(めのと)を務め、白河院近臣となり、『近習無双』といわれるほどの信頼を勝ち取りました。
 「天皇家では元来中級貴族が乳夫、乳母に充てられていた。但し、皇子女の外戚が権勢家であれば、乳父はその家司や身内であることが多く、落胤や皇位継承が期待出来ない皇子であれば、院近臣であることが多いという相違はある。(中略)天皇家に近習奉仕し、家司、蔵人、院司などとなって、その家政、雑事を奉行する彼ら実務官僚が「執事」たる乳父に最も相応しかったことをよく示している。また末茂流などの有力な院近臣の富福な家にも乳父が少なからずみられるが、これは彼らの豊かな財力による経済的な奉仕が期待されていたからに他ならないだろう。(後略)」(『史学雑誌』99編第7号「乳父について」秋山喜代子著)ここに出ている「末茂流などの有力な院近臣」は、まさに藤原顕季の流れであり、中御門家成の父である家保の立場を言っています。清盛の母は祇園女御の妹とされ、皇位継承の望みはなく、院近臣藤原顕季の次男の家保に白羽の矢が立ったようです。一説によると、祇園女御と顕季、平正盛は旧知の間柄であったとか言われていて、その辺も考慮されたようです。
 藤原顕季は白河上皇の唯一の乳母である藤原親子の息子で、「乳母子」にあたり、親密な繋がりが幼い頃からありました。顕季は白河上皇の近臣中の近臣で、大国の受領(=国司)を息子たち共々に重任して富を蓄え、白河上皇の法勝寺や鳥羽殿の造営などに成功(じょうこう)して官位を上げて行きました。それ故に、次男の家保が平清盛の乳夫となったことは書きました。そして、このような四条家の内情とは、つまり、常に天皇の傍らに仕える近臣となり、天皇の近くに侍る女房や乳母を出し続けたことから、隆資卿御落胤説が現実味を帯びてささやかれるようになった、のではないかと思われ、祖父の隆顕に養育されたことも、「乳父」としての奉仕であった側面があるのではないでしょうか。

四条識子の生んだ御子は隆資か?

 その頃の公家社会の慣例では、天皇の皇子女は男子の場合は元服するまで、女子の場合も裳着(もぎ)の式(婚姻が決まったことを受けてする儀式)を挙げるまでは、乳母の邸で育ちます。一人の皇子には5・6人の乳母が就いたこともありました。最初の乳母は「乳人(ちちうど)」つまり今日(こんにち)いうところの乳母で、自分の乳で「養君」を育てる女性を指します。そして、「養君」の成長の過程での儀式は、それぞれの乳母の元で調(ととの)えられて、元服の時を迎えるのです。
 その頃の子どもは5歳になるまでは男女とも同じ服装、つまり、尼削(振り分け髪)に薄衣(袿仕立ての衣)です。そのことについては、神隠しから男児を守るためとか、いろいろな理由づけがされ、そうすることで子どもを護れる、と強く信じられていました。
今日では理不尽この上ないことのように思われますが、天皇の后や大臣家の正妻などが生んだ子は、出産後すぐに乳母の家に連れて行かれ、生母は赤子の顔も見ず、なんてことが当たり前でした。そんなわけですから、主の邸などに奉公する女房たちの場合も、出産後すぐに決められていた乳母に自分の子を預けて、その女房は仕えている主の子の乳母になりました。その当時、自分で自分の子を育てることは、最も卑しい行為とされていました。
それから、特に正妻などの場合、出産後すぐに赤子を手元から離すのは、次の出産に備えるためでもあった、といわれています。
 f0300125_224327100.jpgさて、本題の隆資の生母についてですが、『祇園祭・蟷螂山由来記』(昭和61年11月改訂)では、四條隆資は「(伏見)天皇の乳母である四条識子(さとこ)が皇統の御子を孕み、出生した男子が四条本流の隆実の子として継承されたことは、後に(識子が)従一位に叙せられていることをみても」とあり、隆資卿は伏見天皇の御落胤である、とする書き方をされています。その証拠として、『常楽記』を取り上げて「観応二年辛卯 五月十一日 八幡宮方没落合戦。四條(一品)資卿他界。六十。今日此類多之」と引用しています。ただ「一品」の語は、常楽記にはありませんでしたが。
 ただし、『平家後抄』には、「貞子の弟で、四条家を継いだ隆親(1202-1279)は、妻が後嵯峨天皇の乳母の典侍であった関係も加わって、政界における実力者の一人となり、これまでの家格を破って大納言まで昇進した。後嵯峨天皇はしばしば彼の鷲尾の山荘(金仙院)に御幸された。また彼の娘の識子は、伏見天皇の乳母になり、後には従一位に叙され、「鷲尾の一品(いっぽん)」と呼ばれた。その関係から金仙院には、持明院統の上皇や女院の御幸が度々みられたのである。」と書かれていて、識子が「鷲尾の一品」と呼ばれていたことが判ります。この「一品」ですが、親王や皇室に関係が深い特別な人に贈られるもので、乳母であることだけで贈られることは考えられません。識子に「一品」が贈られていることは、天皇の御子の生母であるからかも知れません。あくまでも可能性の問題ですが。
 あれほどの権勢を誇った西園寺貞子は准后となっていますが、官位は従一位です。「正一位」は神に贈られる位ですので、人としては従一位が最高位なのです。

四條隆資誕生秘話

 『蟷螂山由来記』の著者は、一人で精力的にいろいろ調べられて書かれているので、その研究姿勢には頭が下がります。けれども、出典書籍などが不明で照らし合わせて考えることも出来ません。後深草院二条が書いた『とはずがたり』に、四条識子が登場するのは、建治3年(1277)3月13日の六条院での女楽の時です。二条が「明石の上の琵琶の役」をつとめるところ、末娘である今参り(=識子)は二条の叔母にあたることから、二条より下座に座るのはおかしい、と祖父の四条大納言・隆親が騒ぎたてました。そのことにより、二条は御所を出奔、行方をくらましてしまいます。
 行方をくらました二条を探し出して、隆顕は後深草上皇に奏上しました。二条の母である大納言典侍と同母弟である隆顕は、後深草上皇の臣下としての引き立てを受けていたことがわかります。父の隆親との不和に関係なく、上皇のお呼びがあれば、殿上人として院御所へ上がることが出来ました。実姉の娘である二条の世話をすることは、善勝寺長者である隆顕にとっては当然のことでした。
 75歳での隆親の大納言への還任は当時としては異例中の異例で、その度を越した振舞いは末娘の識子可愛さであっても、嫡男としてその地位を引き継いだ隆顕にとっては絶対に許せない行為でした。こんな父との衝突から、やがて、隆顕は妻の邸に引き籠りがちになって行き、隆親は次男の房名に四条家を継承させて、三男の隆良(鷲尾家祖)を引き立てて行くようになるのです。
 四條隆資は、父の早世のため、祖父である隆顕に育てられたことになっています。隆顕を頼ってやって来た後深草院二条の腕に抱かれることもあったのでしょうか。識子との因縁を思うと、複雑な気持ちになったのでは、と想像してしまいます。
 その隆顕が引き籠っていた妻女の邸は、出雲路神楽町か、俵町にあったようで、何度も二条が通っています。このことから、私は、隆資が幼児期を過ごしたのはこの辺りではないか、と思っています。六条院の女楽があった同じ年の5月4日に出家した隆顕を、二条は見舞っています。二条が、東二条院公子(後深草中宮)の命により御所を退出させられた弘安6年(1283)の秋、78歳で隆親は死去します。11月2日より石清水八幡宮寺に七日間参籠した二条は、その足で祇園社での千日籠もりを始めました。正元5年(1292)、二条35歳の9月、伏見殿に参り、後深草法皇と一晩中語り明かしたことを書き綴っています。実際は翌年のことですが、この年、隆資が生まれています。『由来記』通りであれば、乳母である識子と、伏見天皇27歳の時の子どもです。識子が14歳で御所に上がったとすると、二条の6歳年下です。
 同じく角田文衛著である『日本の後宮』には、「官女に手をつけるだけで、これを更衣その他の皇妃の列に加えぬやり方は、古くよりなかったわけではない。しかしこの無責任で行儀の悪い風は、『この世は、ただ御心なり』と言われた後三条天皇の時代から、繁く見られるようになった。(後略)」とあり、その子を孕んだまま母子共に、近臣に世話をさせる、という悪習が続いています。それから、『日本の後宮』の中で、私の注意を引いたのは、高倉天皇の乳人であり、天皇に性愛を指南したとある藤原某女の記述です。この女性は、「安元2年に皇女を産み、里第にあって他の男性と密通し、流産のため治承3年正月十日、死没」しています。このように、乳母が成長後の天皇とも関係を持ち続け、その結果、子を孕む、ということが、かなり特殊な出来事であったとしても存在したということに、伏見天皇の乳母であった識子が隆資を生みましたが、いななる訳か認められず、ということも在りえたのでは、と思われて来ます。この認められなかった、ということが、隆顕に持明院統との訣別を決意させたのではないかと思われてなりません。  (つづく)
(京都産業大学日本文化研究所 上席研究員) 空白

【参考文献】
『平家後抄ー落日後の平家』朝日新聞社、1978年、角田文衞著
『日本の後宮』学燈社、1973年、角田文衞著
『中世宮廷女性の日記「とはずがたり」の世界』中公新書、1986年、松本寧至著
『史学雑誌』99編第7号「乳父について」秋山喜代子著
『祇園祭・蟷螂山由来記』昭和61年11月改訂
『太平記絵巻』河出書房新社、1992年、宮次男・佐藤和彦編
                




<<< 連載を抜けてTOPへ        この連載記事の続きは⇒⇒

# by y-rekitan | 2017-07-24 09:00 | Comments(0)

◆会報第80号より-05 京街道

八幡の「京街道」は川底に沈んだ

谷村 勉(会員)



不適切な表現の八幡の「京街道」

 八幡市観光協会が発行している観光散策マップなるものを見て愕然とした。
 「科手道」と古くから呼ばれて来た道を「京街道」と書いてあった。これは大間違いである。歴史的無知もいい加減にしろというような代物である。
 八幡の京街道は大雑把に言って、橋本奥ノ町の楠木、現在、この楠木を伐る、伐らないと物議を醸している「ふるさとの木第1号」の大きな楠木辺りから宇治川に架かる「御幸橋」を結んだ線上にあった道が「京街道」であって、線上の伏見区淀美豆(旧八幡神領)には京街道が今でも残り、淀市街へと続いて、往時の街道の姿を偲ぶことができる。現在は明治初年から始まる木津川付け替え工事等によって、木津川と宇治川の川底を「京街道」が走っていることになる。
 f0300125_1130752.jpg
今の三川合流の姿に落ち着いたのは昭和5年になってからで、明治になるまでは木津川、宇治川(淀川)、桂川は淀城付近で合流していた。上記、江戸時代作成の「石清水八幡宮全図」から旧京街道の位置が判る。現在の木津川は「科手道」の直ぐ北側を流れ、府道13号道路が走り、「科手道」の南側を京阪電車(明治43年開通)が走っている。

歴史を刻んだ「科手道」

 「科手道」のシナデ(科手)とは古代より“水辺にあってその目印になるべき処”という意味らしい、桂川、宇治川、木津川が合流して淀川となる、まさにその喉仏に当たる重要地点であった。古くから科手郷に住む住民にとっては特に八幡宮遷座以来、「八幡宮参詣道」として、あるいは「生活道」として「科手道」の歴史を刻んできたのである。秀吉によって「京街道」が整備される遙か以前から「科手道」は存在してきた。観光集客のためと言って、八幡の道を歩いてもらうように仕向けるのは大いに結構であるが、「科手道」と「旧京街道」の名称や位置を記入して、きちっと説明しなければならないのではないか。
なぜ地元本来の名称を堂々と使用しないのか首をかしげる!
 八幡の歴史、「科手道」の歴史を知らない者が八幡の歴史を知らない観光者に間違った案内をするようでは、真の歴史を到底後世に伝えられない。これでは「科手道」の歴史的存在さえ危うくなりかねない。八幡は歴史の「宝庫」と愛着を持つ住民にとって、こういった軽率さには腹立たしく、憂えざるを得ない。八幡の歴史に誇りや愛着がなければ次世代の人は八幡から去るであろう。歴史や文化財を大切にと言うフレーズだけは耳にするが、実態はズレてしまっている。f0300125_20332170.jpg
 戊辰戦争の最終局面で八幡の表玄関の町々が焼かれ、新選組・幕府軍が敗走する道が「科手道」であり、その「科手道」を追走したのが官軍であった。幕府軍の兵士が斃れていった「科手道」の身近な歴史の一例がある。
 ボランティアのガイドが「観光散策マップ」から俄か仕立ての作文を言われるままに説明し、はたして本当の歴史を語れるものか心配である。石清水八幡宮参詣道を「東高野街道」と称して、僅か3kmの間に13基に及ぶ無駄な建碑を行った二の舞の感性や発想の繰り返しはお断りしたい!

「歩く人」増えたが

 石清水八幡宮の国宝指定によって八幡さんにお参りする人は、見た目にも増えている。ケーブル乗り場も以前よりにぎやかだ。しかし一度八幡を歩いた人がリピーターとして来るだろうか。八幡市にリピーターに足を向けさせるような環境整備が進んでいるだろうか。多くの人々に聞いても、疲れた足を休めるところもないと、落胆して帰る人が多いと聞く。
 さて、「京街道」と名がつけば5m前後の道幅が普通だが、橋本奥ノ町の幅2mギリギリの道を街道とは言えない。たまに通りかかった時、ここは「京街道」でしょうか、と聞かれることがある。ここは古来、科手郷の「科手道」であり、「京街道」は川の下ですと、説明する。歩く人も怪しいと感じるのでしょう。
 旧京阪国道(府道13号)である堤防道や河川敷のサイクリングロード?を「京街道」と言った方がむしろ納得できるが、「科手道」を指して歴史上一度も呼称したこともない「京街道」との表示は全く理解不能で、このように実際になかったことを事実のようにでっちあげることを一般に捏造と言う。八幡の歴史を知っている周辺自治体住民からも八幡の歴史や文化財に対する感覚は少し疑問?という噂を耳にするが、まさに肯定せざるを得ない一場面だ。
 最後に狭い道の「科手道」を歩く人にはマナーを守って欲しい。子供の頃に“人は右、車は左”と習った。今は学校では教えないらしいが、右側通行を実施して、道一杯に広がって歩かず、車や自転車が徐行して走れるように願いたい。また、個人の住宅に無断でズカズカ入る人もいるらしいが、これは論外である

主な参考文献
  『男山考古録』 長濵尚次 石清水八幡宮社務所
  『戊申役戦史』 大山 柏 時事通信社
  『京都滋賀 古代地名を歩く』 吉田金彦 京都新聞社 
  『巨椋池干拓誌 池本甚四郎』 巨椋池土地改良区
  『男山で学ぶ人と森の歴史』 八幡市教育委員会
# by y-rekitan | 2017-07-24 08:00 | Comments(0)

◆会報第80号より-06 踏切道

消えた踏切道を思う

野間口 秀國 (会員)


 朝夕の散歩道を歩いている時や、いつもの道で車を運転している時に、「あれ??」と思った経験をお持ちの方は少なからずおられるのではないでしょうか。「いつもと何か違うな」そう思って改めて確認すると、つい最近まであったお店や建物や道が無くなったり、新しくなっていたりと、その変化に気づくことがあります。いつもお世話になっている京阪電車の橋本駅近く、淀屋橋方面に3つあった踏切道のうち最も淀屋橋側の1つがこの3月末に消えてしまいましたのでそのことを記しておきたいと思います。

 拙稿「大谷川散策余話⑫」(会報「八幡の歴史を探る 第49号」2014年4月28日刊)にて、“平成26年(2014)4月10日時点で橋本樋門と小金川樋門近辺で京阪電車の線路と大谷川を一跨ぎする新しい道路橋工事の真只中である”と書き、引き続き翌月の「同第50号」にて“樋門の隣で眠る洪水の足跡”の写真も掲載させていただきました。それから3年を経過して周辺の様子はかなり変わって、同じ場所に立っても当時の様子を正確には思い起こせないほどです。今でも周辺工事は続いておりこの秋ごろまでかかるようですが、前述の「線路と川を一跨ぎする新しい橋」は既に完成して供用され、踏切道もその役目を終えて消えてしまったのです。
f0300125_20552893.jpg 歴史上の出来事などを語る時に「文字や図面などで記されたモノ(文書や地図など)」が最重要視されることは多くの方々に知られておりますが、今年6月の京都新聞の報道だけでも、国内関連では「龍馬最長の手紙あった」(16日・夕刊)、「戊辰の目安箱訴状」(9日、16日)、「東寺百合秘話」(23日)など、また国外関連では「世界最古のシリア古文書・オーロラ観察記」(16日)など枚挙にいとまがありません。
 このように新聞等の報道で取り上げられる事柄と同列に論じられないとは思いますが、橋本の町中に今でも残る「橋本の渡し場道標碑」のある場所の道を挟んだおうちの壁には、かつての町の賑わいを描くかのごとく、お店などが描かれた地図を確認できます。歳月を経て読みづらくなった文字を追うと、先に書きました橋の工事が始まってからこれまでにも、お風呂屋さんが、お医者さんが、そして理髪店さんが店を閉じられました。三店のいずれも地図にはその名は残されたままですが、いずれは町の歴史を物語るこの地図さえも消えてしまうのだろうと思うと複雑な気持ちにはなります。

 ところで、役目を終えた踏切道のことについてもう少し書いてみたいと思います。ご存知のように京阪電車は明治43(1910)年4月に天満橋・京都五条間が開通いたしましたので、既に100年以上を経過しています。開通後42年目の昭和27(1952)年3月にこの「小金川踏切道」は新設されていますので、鉄道を横切る道路がこの年に開通したのであろうことも分ります。幾多の列車を初め、歩行者や自動車などの通行の無事を見届けた「小金川踏切道」は、この平成29(2017)年3月末に65年間(ちなみに筆者はこの7月で68歳ですが・・)の役目を終えて閉鎖されました。「小金川踏切道」の役目は新しく完成した、線路上を横切る橋「橋本高架橋(はしもとこうかきょう)」に引き継がれています。またこの高架橋は線路にほぼ並行して流れる大谷川をも跨いでおり、川を跨ぐ部分は「橋本大谷川橋(はしもとおおたにがわばし)」と名付けられ、男山方面から塩釜を経由して走る多くの自動車などを淀川左岸の道路へと導いています。

 工事が始まってからおよそ3年の後に、京都・大阪府境の橋本のはずれで、役目を終えて閉鎖された踏切道のことはおそらく文章で残されて多くの人の目に触れることはないでしょう。だからこそ、せめて歴探の会報にはこの小さなできごとを書き留めておく意味はあるのではないでしょうか。掲載しました写真を撮っていると、踏切道の閉鎖を知らずに来た1台の車がその場でターンして新しい橋へ向かうのにも気づきました。 最後に「小金川踏切道」の歴史についてご教示いただきました京阪電鉄のご担当者の方には紙面より感謝申し上げます。
(2017.6.30)--
                             
# by y-rekitan | 2017-07-24 07:00 | Comments(0)

◆会報第80号より-07 歴探会員ヒストリー

歴探会員ヒストリー
「今年白寿を迎えました」

f0300125_2337583.jpg
1.関通夫さんの履歴
大阪北区の呉服商「銭屋与兵衛(5代目)」の長男として、大正8年(1919)4月27日に母の実家(八幡女郎花)で誕生、幼少期は大阪で過ごしていたが小学校入学の直前に自宅が火災に遭い八幡に移る。
大正14年(1925)八幡小学校に入学。13歳で父親が亡くなり小学校卒業後に八幡郵便局に就職。
昭和15~19年(1944)の5年間は軍役で中国に行き現地満期で帰国し、その後枚方の陸軍造兵廠に入隊し終戦を迎える。
終戦後は八幡郵便局に復職した後、大阪天満の「近畿郵政監察局」に転勤になり、近畿の各府県を転勤して昭和54年(1979年)に定年退職。

在職中は仕事一本槍で忙しく自分の住んでいる土地のことがよくわからなかったので、地域社会のことに奉仕しようと老人会に入り、地元の老人会会長を12~13年務めた。
また、写真クラブにも入り各地での撮影会に出かけ入選作品は専門誌に掲載された。
平成7年(1995)には、長年郵政事業に尽くした功績により「勲4等瑞宝章」を受章した。(伝達式に皇居へ出向き、勲章は郵政省よりいただいた。)
80歳(平成21年-2009)から独学でパソコンを始める、今では離れて住んでいる子供や孫たちと掲示板でやり取りをしている。パソコンは朝昼晩と3回開いてメールを確認している。

2.「八幡の歴史を探究する会」との関わり
会のことは知人から紹介されて、4年前の平成25年(2013)の講演会に参加してすぐに入会した。
現在は高齢のために会の催し物に参加出来ないが、会報や会のホームページを楽しみにしている。また、ホームページは横須賀に居る息子も閲覧しており、共通の話題となり最近は八幡に来たときはホームページに掲載されている記事の場所の訪問をしている。

 以上、ご自宅を訪問して約1時間程度お話を伺いしましたが、白寿を迎えられたご高齢とは思えない素晴らしい記憶力でお話もわかりやすく、確認質問することは殆どありませんでした。 これからもお元気で毎日を過ごされることを願いながらお暇をしました。
◆インタビュー:「八幡の歴史を探究する会」会報編集担当  高田昌史

# by y-rekitan | 2017-07-24 05:00 | Comments(0)

◆会報第80号より-end

この号の記事は終りです。


<<< TOPに戻る       ひとつ古い次の号へ >>>

# by y-rekitan | 2017-07-24 01:00 | Comments(0)

◆会報第79号より-top <スクロールだけで全記事が読めます

f0300125_9305330.jpg
この号の会報からは現在、下記の記事が掲載されています。
このまま下にスクロールして頂くと順次連続してご参照頂けます。


◆シリーズ:“心に引き継ぐ風景” ⑩◆
◆《講 演 会》三川合流の変遷と周辺都市◆
◆シリーズ:“八幡の古墳と鏡” ③◆
◆シリーズ:“五輪塔あれこれ” ⑩◆
◆『太平記』 八幡合戦の石碑を訪ねる◆
◆シリーズ:“四條隆資卿物語” ①◆
◆シリーズ:“『三宅安兵衛遺志』碑と八幡の歴史創出“ ⑧◆
◆「八幡の歴史を学ぶ連続学習会」2016年◆



<< ひとつ新しい号へ   < TOPに戻る >   ひとつ古い号へ >>

ご意見は各記事下端のcomments欄をクリックしてお寄せください。

# by y-rekitan | 2017-05-20 15:00 | Comments(0)

◆会報第79号より-01 淀川三十石船

f0300125_2331529.jpg

心に引き継ぐ風景・・・➉
三十石船と淀二十石船
f0300125_11383883.jpg
 「都名所図会」淀三十石船は当時の船運隆盛の一端を伝えるが、三十石船の就航は比較的新しく、信長の時代に出現し、秀吉の時代には百艘程となった。伏見と大坂天満間を下り半日、上り一日で航行し、乗客定員が二十八人で四人の船頭が付く。
 しかし淀川で最も活躍したのは、淀の納所・水垂の淀二十石船であった。淀稲葉神社の『過書座二十石船由緒書』には「男山八幡宮に付随し、八幡宮社務支配となり、古くより男山八幡宮の御神役を務め、淀川舟運を専有し長くその伝統を伝えてきた」旨が記されている。淀二十石船と徳川幕府との結びつきは深く大坂の陣でも兵糧米や鉄砲、楯など御陣具の搬送を担っている。
『土佐日記』の一節に「ひんがしの方(かた)に、山の横ほれるをみて、人に問へば、“八幡宮(やはたのみや)”といふ。これを聞きて、喜びて、人々をがみたてまつる。山崎の橋みゆ。嬉しきことかぎりなし《原文はほぼ全てひらがな》」とあり、貫之は淀二十石船から八幡宮と山崎橋を目にしている。
 元禄七年(1694)十月、芭蕉は大坂南御堂前で臨終を迎える。遺言により遺体は膳所の義仲寺に運ばれるが、淀二十石船で淀川を上ったようだ。「遺体を長櫃に入れ、商人の荷物のようにして運んだ」と其角が伝えている。
(文 谷村 勉)



<<< 連載を抜けてTOPへ        この連載記事の続きは⇒⇒

# by y-rekitan | 2017-05-20 12:00 | Comments(0)

◆会報第79号より-02 三川合流

f0300125_273775.jpg
《講演会》
三川合流の変遷と周辺都市

2017年4月 
さくらであい館(イベント広場)にて
福島 克彦(城郭懇話会会員)

 
 4月23日(日)午後1時半より、淀川三川合流域“さくらであい館イベント広場(淀)”を会場に、年次総会と例会を開催しました。新しくオープンした”さくらであい館”の会場には、多数の方々にお越しいただきました。総会の後、同じ会場で「淀川・三川合流の歴史とその周辺」の講演が行われました。なお講演の概要は、講師の福島克彦氏がご多忙中にも拘わらず新たに本会会報掲載用に首記のタイトルで新たに執筆していただきました。会報編集者として厚く御礼を申し上げます。 当日の参加者58名でした。

はじめに

 馬車が発達しなかった日本の歴史にとって、舟運は物流の歴史を語る上で不可欠な要素である。年貢、物資の運搬には、大小多様な船舶が使われ、生産地と消費地を結びつけていた。特に、淀川は、古代、中世最大の消費都市であった京都と西日本を結びつける重要な物流の幹線となっていた。16世紀以降は、大坂が発達し、その地で集積された物資が運搬され、京都へと届けられた。山崎や淀は、そうした物資を京都へ運ぶ際、中継地点となった都市であった。したがって、三川合流周辺の都市である、山崎、淀、八幡は京都の発展を常に支えていた存在であった。こうした中継地点は17世紀には河川沿岸の渡し場や問屋として展開し、淀川舟運と地域社会を結びつける重要な結節点となっていた。
 しかし、一方で淀川は洪水など、自然災害の元凶にも変わっていく。そのため、この地域の堤防普請や治水対策とも常に大きく関わっていた。ここでは、三川合流周辺の都市の歴史と、治水と河川の付け替えについて取り上げてみたい。

1 三川合流の様相

 淀川の三川合流といえば、桂川、宇治川、木津川の三つの河川の合流を指す。現在、三つの河川は山崎地峡で背割堤を挟んで並走している。左岸は八幡市・枚方市、右岸は大山崎町、島本町が接しており、今も雄大な景観となっている。f0300125_2047308.jpgしかし、これらは自然によって形成された景観ではなく、あくまでも近代以降において人工的に築かれたものであった。では、近代以前の景観はどのような雰囲気であったのだろうか。近世絵図や絵画が描くように、幕末までの三川は淀の町で合流していた。そして、山崎地峡部分は、合流した後の一本の大河が流れる景観となっていた。つまり、幕末まで淀川沿岸を見る場合、現在の地形で判断するのではなく、かつての景観を遡及的に考察して検討する必要がある。
 淀の上流は、16世紀中葉まで、宇治川が直接巨椋池に流れ込んでいた。この池の水がオーバーフローして、淀、そして下流の淀川へと流れていた。後述するように、豊臣秀吉の伏見城下町建設に際して、宇治川が巨椋池と分離することになった。
 以下、合流地点の都市について概観しておきたい。

2 周辺都市の展開

(1)山崎・大山崎

 神亀2年(725)、行基による山崎橋架橋があり、橋のたもとには集落が形成されていたものと推定される。以後、8世紀後半の長岡京、平安京の時代にかけて、山崎橋、山陽道、関所に加え、山崎津、山崎駅、国府、官営瓦窯などが設置されていく。平安中期になると、橋が消滅し、津は史料上登場しなくなる。一方で中世前期からは地縁的共同体たる「保」が街道沿いに配置され、街村状の都市へと生まれ変わった。保には八幡宮の神人が住んでおり、彼らは灯明油を八幡宮へ奉納していた。これを契機に荏胡麻油の製造が認められ、特権商人として君臨するようになる。原料たる荏胡麻も莫大な量が西日本各地から船舶によって運搬された。淀川交通は、こうした原料荏胡麻を運搬する重要なルートとなった。以後、大山崎は荏胡麻油の代名詞となり、中世商業に名を残すことになった。ただし、14世紀には新しい塩商売に手を出そうとしたが、既得権を持っていた淀の抵抗によって、その権限は結果的に返上している。これによって、大山崎は多角的な産業への発展への道が途絶えてしまう。以後、産業の多角化への転換は、うまくいかなかったようである。
 一方、都市の自治権は、朝廷や武家との交渉のなかで、着実に獲得していった。戦国期からは大山崎惣中という自治組織が形成され、近世期にも神人が社家へと転換して「守護不入」権を維持していた。

(2)淀
 古代の淀は「与等津」(延暦23年 804『日本後紀』)という港として登場してくる。永承3年(1048)には 山崎・淀の刀祢、散所が屋形船11艘を建造しており(『宇治関白高野山御参詣記』)、やはり船舶との関わりが見える。中世は、材木の備蓄、塩・塩合物を取り扱う「魚市庭」、 兵庫津と結びつく「淀十一艘」などが見られた。こうした点からわかるように、中世期淀は京都の外港的な役割を果たしていた。f0300125_20501948.jpg
 一方、永徳3年(1383)8月、大山崎が新市開設によって塩商売を進めようとするが、これは淀の強い抗議によって白紙にさせている。つまり、この当時から塩や塩合物に関する既得権を守る立場になっていた。「淀ハ皆以八幡領也、千間(軒)在所也云々、近来減少」(『大乗院寺社雑事記』延徳2年)と記されるごとく、八幡宮領であった。千軒の家があり「淀六郷」と呼ばれる六つの集落が形成された。これらは、桂川、宇治川沿岸の集落であり、やはり港と船舶で、外とつながっていた。
 一方、京都とは陸上交通でつながっており、淀の中心である島之内には納所から淀小橋が架けられ、京都との間を運送業者が中継していた。こうしたルートは、秀吉の時代に太閤堤が成立して、その堤防上に造られた。17世紀に淀城下町が成立すると、この街道は東側に張り出すように移転されていく。

(3)八幡
 石清水八幡宮膝下の都市である。貞観2年(860)、行教が八幡神を勧請した後、石清水八幡宮が成立していく。以後、その周囲に院坊、集落が形成され、発展を遂げていく。中世都市の空間構造としては、山上・山下、宿院、内四郷、外四郷と区分される。内四郷と呼ばれる山麓の町場は東高野街道(常盤大路、志水大道)が南北に走り、やはり街村状になっていた。
 石清水八幡宮寺の組織としては祀官中、山上衆、神官神人中、四郷中などがあり、祠官家(田中・善法寺など)が力を保持していた。
 八幡は直接は河川と接していなかったが、独自の外港橋本を通して舟運が西日本とつながっていた。延文5年(1360)大山崎神人井尻助吉が「橋本津」で八幡宮領播磨国松原荘の年貢を陸揚げしており(『井尻文書』)、対岸の大山崎とも強く関係していた。預物慣行、土倉の存在、徳政免除などの特徴があり、多くの金融業が発展していた。近世期も「守護不入」を存続していたことが知られている。
 このように、三川合流周辺には、大山崎、淀、八幡と、石清水八幡宮と関わりを持つ都市が成立していた。これらは河川交通ともつながる一方で、街村状の町場が続き、陸上交通とも深い関わりを持っていた。特に京都と陸上交通でつながり、運送業者とも関わっていた点は強調されてよい。また、淀川沿岸ともつながっており、古い時代から瀬戸内海の舟運を媒介にして、物資運送のルートとなっていた。

3 三川合流工事の要因

 16世紀後半より、豊臣秀吉の京都改造が進められ、宇治川と巨椋池の分離、それに伴う伏見城下町の建設、太閤堤の普請などが敢行された。この秀吉の改造は、近世期の交通体系と治水方針をほぼ決定づけている。特に堤防と街道が軌を一にしている姿勢は注目される。以後も京都開発は進められたため、流域における大量の樹木伐採も行なわれた。そのため、森林の保水能力が低下し、土砂が河川に流出して、山崎地峡の手前で土砂が川底に堆積した。これによって洪水が起こりやすくなり、江戸時代以降は、山崎地峡周辺はたびたび水害に見舞われた。三川合流地点における逆流現象もたびたび起こったため、地域としては合流地点の変更を求めるようになった。すなわち、洪水対策のため、合流地点を少しでも下流へ求めようと、寛永14年(1637)の木津川付け替え工事、さらに18世紀以降の小泉川、水無瀬川、放生川の付け替えが実施された。なかには、木津川を河内や大和へ付け替えようとする計画も見られたが、近世期段階では実行に移せなかった。

4 淀川改良工事

 明治元年(1868)5月に淀川の大洪水があり、同年12月~3年(1870)正月にようやく木津川付け替え工事が敢行された。これに伴い、周辺も近代における小泉川の付け替えなども行なわれた。以後、土砂堆積の問題を克服するため、オランダ人ヨハネス・デレーケなどの調査、計画による、淀川改良工事が進められ、砂防ダムの設置、水制による低水路の維持が図られた。当時水制には粗朶沈床も設置され、水の浄化作用に意識されていた。明治29~43年頃(1896~1910)の淀川改良工事では、桂川、宇治川の付け替え工事が進められた。このうち、桂川の付け替えでは、大山崎の淀川沿岸部の敷地を喪失した。そのため、当時の大山崎村長松田孝秀は「凡ソ大利ヲ起サントスレハ、小害ノ之ニ伴フハ数ノ免レサル所ニ付、府下公益ノ為メニ犠牲トナルハ甘ンスル所ニ候得共、之ヲ以テ大ニ利益ヲ享クルモノトシ、不均一ノ賦課セラルゝニ至リテハ黙止難致」と京都府に意見を述べている(『役場旧蔵文書』「上司進達綴」明治29年7月)。後に淀川改良増補工事(大正7~昭和5年 1918~1930)によって背割堤が拡張し、現在の景観に至っている。
 当時の村長の言葉のなかに、大山崎村が「府下公益ノ為メニ犠牲トナルハ甘ンスル所ニ候得共」と言っている点は、私たちは噛み締めたいと思う。

おわりに

 平成29年(2017)3月、三川合流の地にさくらであい館が完成した。今後、三川合流地点を考える重要な発信基地になると思われる。それは前述してきたような、周辺にある都市のあり方などを比較検討することを通して、各々の町の特徴を追究することができる。さらに淀川・三川合流を媒介とした自治体・地域の交流もさまざまな形で実施することができると考える。それは、言うまでもなく、淀川の歴史を考えることでもある。現代のように、大型河川を境界と考えるのではなく、物資を運ぶ舟運ルート、あるいは対岸を結ぶ渡し舟などの存在から、むしろ対岸は近い存在だったということを改めて認識すべきだろう。
 その意味でも八幡の歴史を探究する会の役割も大きいと思われる。皆さんの活動に期待したいと思う。

[参考文献]
西川幸治編『淀の歴史と文化』淀観光協会 1994
大山崎町歴史資料館『はるかなる淀川』2000
大山崎町歴史資料館『淀川と水辺の風景』2012
藤本史子「中世八幡境内町の空間復原と都市構造」『年報 都市史研究』7 1999
鍛代敏雄『戦国期の石清水と本願寺』法蔵館2008
福島克彦「近世前期における西国街道と淀川問屋」『山城国大山崎荘の総合的研究』2005
福島克彦「中世大山崎の都市空間と『保』」仁木宏編『日本古代・中世都市論』2016
 

『一口感想』より
三川合流の歴史や推移が、わかりやすく説明されていましたので、よく理解がすすみました。資料もよくまとまっており、大変よかったと思います。(O.S.)
三川合流の歴史を学んで、益々貴重な地域であると思った。八幡市はもっと、もっと三川合流を取り上げてほしいと思う。(I.J.)
八幡市に住んで50年、三川合流の歴史を初めて聞き興味を持ちました。有り難うございました。(K.T.)
三川の様子がよくわかりました。(T.K.)
八幡の土地一部が分断され(美豆、生津)ていたことは聞いていましたが、三川合流の改良工事により、山崎が多くの土地を失ったこと、はじめてお聞きしました。 改良工事の歴史を学ぶことの大切さがわかり、よい機会となりました。(F.N.)
興味ある内容の講座でした。本年も八幡にかかわるテーマでお願いします。昔はどうであったか、昔のものは残っているのか、痕跡、遺品・・(K.S.)
最初会場の天井が高いためか、講師のマイクが聞こえづらかった。しかし、途中からよく聞こえるように配慮していただき、よく聞こえるようになりました。(謝謝)
 講師の方は一生懸命大きな声で講演されました。受講者の一員として深く感謝申し上げます。本当に有り難うございました。受講者も静かに熱心に一心で聞く思いで受講、大へん有意義な講演であり、参加して大へんよく有り難かったです。(H.M.)
本日の講演、大変参考になりまいた。普段、三川合流の話は滅多に聞きませんでしたので、大山崎も八幡も大きな影響を受けていたことを知りました。
 江戸時代の資料の図に八幡の中に東高野街道の名称があって、東高野街道とは最近観光用に俄に言い出したことで、江戸時代の資料に適用するのはどうなのかな?と一つだけ疑問が残りました。(T.S.)

  
<<< レポート一覧へ        次の《講演会》レポートは⇒⇒

# by y-rekitan | 2017-05-20 11:00 | Comments(0)