◆八幡の歴史を探究する会

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 本会では、2010年より京都府八幡の歴史についての探究と共有を目指して、講演会や歴探ウォークの開催、会報の発行等の活動を積極的に続けています。


5/20 新しい会報記事が8件、 5/17 新掲示板に投稿が1件、 5/1 アクセスtop3を更新、4/17 新しい集いの案内が1件 追加されています。

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お急ぎの方は 最新の 《会報記事集いの案内》 に直行 できます。
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本会では定期的に会報を発行し現在 79号 を数えていますが、このサイトには
そこから 363件 の記事を掲載しております。

f0300125_082871.jpgf0300125_092454.jpg"4月度の記事別アクセス数 TOP3"
第21号:八幡神のルーツを探る
第55号:「安居頭諸事覚」を読む
第50号:門前町の八幡「今」「昔」

4月度の人気タグ top3⇒  松花堂昭乗   石清水八幡宮  東高野街道

“アクセスtop3” コーナーについての 《解説とご案内》をこちらに 入れております。

なお個々の記事には以下の四つのルートから簡便にアクセスして頂けます。f0300125_20584995.jpgf0300125_20591768.jpgf0300125_20594243.jpgf0300125_210420.jpg

5/20 以下の朱書き部の連載や個別記事を追加掲載しました。
(前回更新日は 3/22)

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会報号番をクリックして頂くと、後はスクロールのみでその号の記事を一気にお読みいただけます。
なお朱書きが追加された号を示しております。

ブログ管理会社のシステム変更の影響で、現在以下をクリックすると、各号報のトップではなく記事一覧が出ます。お手数ですが その一覧ではクリックせず、そのまま下にスクロールしてご参照ください。
(各号のトップやエンドから前後の号報に移る場合も同じです)

《お知らせ》 第73号より会報は奇数月の隔月発行となっています。

2017年05月 第79号
2017年03月 第78号     2017年01月 第77号
2016年11月 第76号     2016年09月 第75号
2016年07月 第74号     2016年05月 第73号
2016年03月 第72号     2016年02月 第71号

2016年01月 第70号     2015年12月 第69号
2015年11月 第68号     2015年10月 第67号
2015年09月 第66号     2015年08月 第65号
2015年07月 第64号     2015年06月 第63号
2015年05月 第62号     2015年04月 第61号

2015年03月 第60号     2015年02月 第59号
2015年01月 第58号     2014年12月 第57号
2014年11月 第56号     2014年10月 第55号
2014年09月 第54号     2014年08月 第53号
2014年07月 第52号     2014年06月 第51号

2014年05月 第50号     2014年04月 第49号
2014年03月 第48号     2014年02月 第47号
2014年01月 第46号     2013年12月 第45号
2013年11月 第44号     2013年10月 第43号
2013年09月 第42号     2013年08月 第41号

2013年07月 第40号     2013年06月 第39号
2013年05月 第38号     2013年04月 第37号
2013年03月 第36号     2013年02月 第35号
2013年01月 第34号     2012年12月 第33号
2012年11月 第32号     2012年10月 第31号

2012年09月 第30号     2012年08月 第29号
2012年07月 第28号     2012年06月 第27号
2012年05月 第26号     2012年04月 第25号
2012年03月 第24号     2012年02月 第23号
2012年01月 第22号     2011年12月 第21号

2011年11月 第20号     2011年10月 第19号
2011年09月 第18号     2011年08月 第17号
2011年07月 第16号     2011年06月 第15号
2011年05月 第14号     2011年04月 第13号
2011年03月 第12号     2011年02月 第11号

2011年01月 第10号     2010年12月 第09号
2010年11月 第08号     2010年10月 第07号
2010年09月 第06号     2010年08月 第05号
2010年07月 第04号     2010年06月 第03号
2010年05月 第02号     2010年04月 第01号

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連載企画の記事はこちらから直接初回記事に入り、以降は文末でクリックすることで
連続参照して頂けます。 今回の号では朱書きの連載記事が追加 されています。


《連載》 “四條隆資卿物語” (第79号~新規)
《連載》 “八幡の古墳と鏡” (第77号~継続中
《連載》 “八幡に見る古代植物” (第74号~第77号)
《連載》 “詩歌に彩られた八幡の歴史” (第73号~継続中)
《連載》 “宮廷と歌合、そして石清水宮寺” (第71号~第72号)
《連載》 “心に引き継ぐ風景” (第70号~継続中
《連載》 “五輪塔あれこれ” (第70号~第79号・完
《連載》 “『三宅安兵衛遺志』碑と八幡の歴史創出” (第70号~継続中
《連載》 “八幡の道を「高野街道」となぜ呼ぶのか?” (第67号~71号
《連載》 “松花堂昭乗が詠んだ八幡の町"  (第63号~第68号)
《連載》 “川の旅日記"  (第62号~第64号)
《連載》 “八 幡 八 景”  (第58号~第60号)
《連載》 “『歴史たんけん八幡』の発行"  (第56号~第68号)
《連載》 “御園神社考”  (第55号~第58号)
《連載》 “ひょっこり訪問記 ”  (第53号~継続中)
《連載》 “古代の声を聞く ”  (第53号~第54号)
《連載》 “自転車で巡る名所案内 ”  (第52号~第56号)
《連載》 “ 物語はどのように生まれたか ”  (第51号~第56号)
《連載》 “ 石清水八幡宮の歴史Q&A ”  (第50号~第57号)
《連載》 “ 伊佐家のしきたりとくらし ”  (第48号~第51号)
《連載》 “ 謡曲のふるさと八幡 ”  (第41号~継続中)
《連載》 “ 大谷川散策余話 ”  (第38号~第50号)
《連載》 “ 御文庫とエジソン碑 ”  (第36号~第45号)
《連載》 “ 墓石をたどる ”  (第33号~継続中)
《連載》 “ 八幡の歴史スポット ”  (第30号~第32号)
《連載》 “わが心の風景 ” (第28号~第69号)
《連載》 “八幡太鼓祭り ”  (第28号~第29号)
《連載》 “八幡に残る昔話と伝承 ”  (第26号~第30号)
《連載》 “ 八幡文学碑巡り ”  (第22号~第26号)
《連載》 “八幡神と神仏習合 ”  (第21号~第25号)
《連載》 “ 一枚の写真から ”  (第16号~第19号)
《連載》 “ 八幡の歴史の謎とは何か”  (第15号~第16号)
《連載》 “古歌に詠まれた南城山”  (第11号~第15号)
《連載》 “八幡の祭りについて”  (第5号~第17号)
《連載》 “八幡の歴史を彩る文化”  (第4号~第9号)
・・・
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現在掲載しているスポット記事は以下の通りです。クリックで直接お読み頂けます。

“『太平記』 八幡合戦の石碑を訪ねる " (第79号)
“「八幡の歴史を学ぶ連続学習会」2016年 " (第79号)
“石清水八幡宮を指し示す「八幡宮道」の道標の数々 " (第78号)
“大阪府下の東高野街道に「やわた道」の道標を訪ねて" (第77号)
“歴探サイト(ホームページ)の現況報告" (第77号)
“第44回八幡市民文化祭展示発表を終えて" (第76号)
“御幸橋南詰「石清水八幡宮鳥居通」道標は何処に?" (第75号)
“『茶揉み歌』を復活"  (第73号)
“「八幡大縁起」に参加して"  (第71号)
“上津屋橋(流れ橋)の復旧に向けて"  (第71号)
“新刊案内「戦国大名の正体"  (第70号)
“本妙寺文書「沢庵の書状」と紫衣事件"  (第69号)
“「古寺巡礼」で出会った仏さま"  (第69号)
“八幡の文化財(国宝指定)"  (第69号)
“国宝指定の答申に思う"  (第69号)
“京の街角の「湯たく山茶くれん寺"  (第69号)
“旅人は何故片手を挙げているのか"  (第67号)
“「八幡の道 探究部会」が発足しました"  (第67号)
“石清水八幡宮が国宝に!"  (第67号)
“第119代光格天皇と大江磐代君とその母"  (第64号)
“クイズ「私は誰でしょう」"  (第62号)
“西国三十三所観音石仏群の墓所"  (第61号)
“陸橋の名前"  (第61号)
“九州の横穴・近畿の横穴"  (第60号)
“二宮忠八掌話"  (第60号)
“会の旗が出来ました!"  (第60号)
“松井横穴群に学ぶ"  (第59号)
“平野山・西山はミステリー"  (第59号)
“ずいき祭り"  (第58号)
“小特集: わがまち 八幡"  (第57号)
“流れ橋存廃の意見表明"  (第56号)
“磯田道史氏の講演に学ぶ"  (第56号)
“代々つづく神原の講 =秋編="  (第55号)
“八幡森の石仏と地蔵盆"  (第54号)
“お気軽歴史講座に行きました"  (第54号)
“地誌には、どんなものがあるか?"  (第53号)
“松花堂庭園とその魅力"  (第52号)
“島崎藤村と八幡"  (第52号)

これより古い号の個別記事インデックスはこちらに

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◆八幡のおすすめキーワードで関連記事を◆
この画面の右上の “タグ” 欄のおすすめキーワードをクリックして頂くと、ブログ内の
関連記事をまとめてご参照頂けます。
最初に記事一覧が出ますが、そこではクリックせずスクロールでお読みください。
なおタグ記事閲覧後に元に戻る場合は、一旦上端までスクロールし画面左上隅の
“Y-rekitan八幡”の文字をクリックしてください。

任意のキーワードで記事を検索
右上の “検索ボックス” に八幡に関わる任意のキーワードをセットして頂きますと、
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# by y-rekitan | 2018-12-31 20:00 | Comments(0)

◆コーナー・講演会の記録

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「八幡の歴史を探究する会」では、定期的に講演会や歴探ウォーキングの集いを実施していますが、このコーナーでは、その講演会のレポートを紹介しております。

 5/20 朱書きの記事を追加掲載しました。 現在の記事数は 57件です。 

下記の任意の記事をクリックして頂くと、それ以降は記事下端で“次のレポート”をクリックして頂くことで連続参照して頂けます。 

  《講演会録》 79号 2017年04月 三川合流の変遷と周辺都市
  《講演会録》 78号 2017年02月 謡曲から見た八幡
  《講演会録》 76号 2016年10月 八幡の古代遺跡と道
  《講演会録》 75号 2016年08月 石清水八幡宮の成立と機能
  《講演会録》 73号 2016年05月 石清水八幡宮の由緒と建築様式
  《講演会録》 71号 2016年02月 中世都市 八幡
  《講演会録》 70号 2016年01月 『三宅安兵衛遺志』碑と八幡の歴史創出

  《講演会録》 68号 2015年11月 継体大王の謎を追う
  《講演会録》 67号 2015年10月 弥生時代の八幡市とその周辺
  《講演会録》 66号 2015年09月 江戸時代の村の暮らし
  《講演会録》 63号 2015年06月 酒麹作りがビジネスの八幡神人がなぜ奉納詩歌に
  《講演会録》 62号 2015年05月 知っているようで知らない松花堂昭乗のこと
  《講演会録》 61号 2015年04月 幕末政治と攘夷―長州・京都・八幡
  《講演会録》 59号 2015年02月 二宮忠八と八幡
  《講演会録》 58号 2015年01月 史跡 松花堂庭園の成立
  《講演会録》 57号 2014年12月 中村家住宅の国登録有形文化財指定
  《講演会録》 56号 2014年11月 中世大山崎の商業活動について

  《講演会録》 55号 2014年10月 「安居頭諸事覚」を読む
  《講演会録》 54号 2014年09月 地誌に見る八幡
  《講演会録》 54号 2014年08月 神国論の系譜
  《講演会録》 51号 2014年06月 八幡を掘る
  《講演会録》 50号 2014年05月 門前町の八幡「今」「昔」
  《講演会録》 49号 2014年04月 石清水八幡宮の年中行事と庶民信仰
  《講演会録》 47号 2014年02月 松花堂昭乗の茶の湯
  《講演会録》 46号 2014年01月 歌人吉井勇の歌行脚
  《講演会録》 44号 2013年11月 八幡の歴史と土器
  《講演会録》 43号 2013年10月 八幡における浄土信仰

  《講演会録》 42号 2013年09月 江戸時代の村の暮らし
  《講演会録》 41号 2013年08月 武家政権と石清水八幡宮
  《講演会録》 39号 2013年06月 八幡社士総代「江戸尾張年頭御礼日記」
  《講演会録》 38号 2013年05月 天下人の時代と八幡
  《講演会録》 37号 2013年04月 南山城の地域史を学んで
  《講演会録》 35号 2013年02月 松花堂昭乗の江戸下向
  《講演会録》 34号 2013年01月 八幡・山崎の警備体制と鳥羽伏見
  《講演会録》 32号 2012年11月 松花堂昭乗と近世前期の文芸
  《例会報告》 30号 2012年09月 「八幡歴史カルタ」読み札の決定
  《講演会録》 29号 2012年08月 石清水際と神人の経済活動

  《講演会録》 28号 2012年07月 良いまちには良い川がある
  《講演会録》 27号 2012年06月 八幡の町の成り立ち
  《講演会録》 26号 2012年05月 庶民信仰と八幡大菩薩
  《講演会録》 25号 2012年04月 男山文化園の中心・八幡
  《講演会録》 23号 2012年02月 古代の八幡を探る
  《講演会録》 21号 2011年12月 高度経済成長期の八幡を語る
  《講演会録》 20号 2011年11月 八幡八景の成立とその背景
  《例会報告》 19号 2011年10月 八幡の歴史を次代に遺そう!
  《講演会録》 18号 2011年09月 墓地で探る八幡の歴史(1)
  《講演会録》 18号 2011年09月 墓地で探る八幡の歴史(2)

  《講演会録》 16号 2011年07月 地名で学ぶ八幡の歴史
  《講演会録》 14号 2011年05月 中世都市橋本を学ぶ
  《講演会録》 13号 2011年04月 八幡の古墳とその特徴を学ぶ!
  《講演会録》 12号 2011年03月 神仏習合の実像に迫る
  《講演会録》 11号 2011年02月 近代の門前町と参詣路を語り合う
  《講演会録》 10号 2011年01月 南北朝の争乱と八幡
  《講演会録》 08号 2010年11月 淀屋の歴史をたどる!
  《講演会録》 06号 2010年09月 石清水八幡宮の絵図を読み解く!
  《講演会録》 04号 2010年07月 松花堂昭乗の出自を追う!
  《講演会録》 02号 2010年05月 古代の遺跡から八幡の歴史を学ぶ

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# by y-rekitan | 2018-12-31 18:00 | Comments(0)

◆コーナー・歴探ウォークの記録

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「八幡の歴史を探究する会」では、定期的に講演会や歴探ウォーキングの集いを実施していますが、このコーナーでは、その歴探ウォークのレポートを紹介しております。

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 1/22 朱書き記事を追加掲載しました。 現在の記事数は 18件です。 

下記の任意の記事をクリックして頂くと、それ以降は記事下端で“次のレポート”をクリックして頂くことで連続参照して頂けます。

  《歴探散策》 77号 2016年12月 八幡の古寺巡礼 第4回
  《歴探散策》 74号 2016年06月 丹後を訪ねてのバスツアー報告
  《歴探散策》 72号 2016年03月 石清水八幡宮 山上伽藍の探訪
  《歴探散策》 69号 2015年12月 八幡の古寺巡礼 第3回
  《歴探散策》 64号 2015年07月 長岡宮を訪ねてのバスツアー報告
  《歴探散策》 60号 2015年03月 橋本の歴史(2)「平野山・西山を歩く」
  《歴探散策》 57号 2014年12月 八幡の古寺巡礼 第2回
  《歴探散策》 52号 2014年07月 対岸の町「山崎・大山崎」を訪ねる

  《歴探散策》 48号 2014年03月 橋本の歴史(1)「京街道を行く」
  《歴探散策》 45号 2013年12月 八幡の古寺巡礼(第1回)
  《歴探散策》 40号 2013年07月 二つの資料館をめぐる
  《歴探散策》 36号 2013年03月 春爛漫の歴史探訪ウォーク
  《歴探散策》 33号 2012年12月 男山参詣路を歩く
  《歴探散策》 31号 2012年10月 八幡の古建築の探訪
  《歴探散策》 25号 2012年04月 歴史探訪「男山参詣路を歩く」
  《歴探散策》 15号 2011年06月 東高野街道を歩く
  《歴探散策》 07号 2010年10月 上津屋の名所をめぐる
  《歴探散策》 03号 2010年06月 八幡の名所・旧跡を歩く

なお歴探ウォークの自転車版、サイクリングツアーについても概要を連載記事として掲載していますので、併せてご参照ください。
《連載記事》 “自転車で巡る名所案内 ”

# by y-rekitan | 2018-12-31 16:00 | Comments(1)

◆コーナー・新しい集いのご案内

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本会では八幡の歴史の探究と共有を目指して、講演会や歴探ウォーク等の集いを定期的に催しておりますが、このコーナーではそのスケジュール等を掲載しております。
併せて本会のトピックスや出版物等についても掲載しておりますのでご参照ください。

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ただ今、以下の集いやイベントを案内中です。詳しくはリンクのパンフレットをご参照のうえ、ご参加ください。 5/18更新


f0300125_1833548.jpg◆歴史探訪バスツアー

   ・概要  歴史探訪バスツアー
   ・日時  2017年 6月15日(木) 午前7時50分~午後6時頃
   ・場所 《訪問先》バスで淡路島に向かいます
         伊弉諾(いざなぎ)神社⇒(昼食:海鮮料理)⇒東山寺
        ー詳細はバスツアーのパンフレット参照ー



f0300125_1833548.jpg(2017年度)八幡の歴史を学ぶ連続学習会

   ・概要  2017年度 八幡の歴史を学ぶ連続学習会(隔月開催)
   ・日時  2017年 5月18日(木) 「八幡神と男山遷座」
《終了しました》 参加者は47名でした。 空白空白
        2017年 7月20日(木) 「元寇から南北朝の争乱まで」
        2017年 9月21日(木)  「天下人と八幡」
        2017年11月16日(木) 「鳥羽伏見の戦いと八幡・橋本」
        2018年 1月18日(木)  「近代化の八幡と戦時下の八幡」 
        2018年 3月16日(木)   未定(検討中)    
       ※何れも午前10時~11時半
   ・場所  ふるさと学習館2階研修室



f0300125_1833548.jpg◆年次総会及び講演と交流の集い

《終了しました》 参加者は58名でした。
   ・概要 (八幡の歴史を探究する会) 年次総会
        (講演と交流の集い)   「淀川・三川合流の歴史とその周辺」  
   ・日時  2017年 4月23日(日) 年次総会:午後1時30分~2時10分
                   講演と交流の集い:午後2時30分~4時30分
   ・場所  さくらであい館(イベントホール)



f0300125_1833548.jpg◆八幡の歴史を学ぶ連続学習会>

《終了しました》
   ・概要  八幡の歴史を学ぶ連続学習会(隔月開催)
   ・日時  2016年 5月19日(木) 「大むかしの八幡」(29名参加)
        2016年 7月14日(木) 「町の成り立ちと神人の活躍」
                             (37名参加)
        2016年 9月15日(木)  「松花堂昭乗という人がいた」
                             (32名参加)
        2016年11月17日(木) 「淀屋と八幡」(34名参加)
        2017年 1月19日(木)  「河川と歩んだ八幡」(30名参加)
        2017年 3月16日(木) 「昭和から平成へ」(28名参加)     
        ※午前10時~11時半
   ・場所  ふるさと学習館2階研修室



f0300125_1833548.jpg◆会員研究発表

《終了しました》 参加者は40名でした。
   ・概要  謡曲から見た八幡
   ・日時  2017年 2月15日(水) 午後1時30分~
   ・場所  松花堂美術館 講習室


f0300125_1833548.jpg◆歴史探訪ウォーク

《終了しました》 参加者は46名でした。 
   ・概要  八幡の古寺巡礼
        ー第4回:男山山麓の寺を巡る(Partー3)ー
   ・日時  2016年 12月8日(木) 午後1時~4時頃
   ・場所  京阪八幡市駅→法園寺→正福寺→単伝寺


f0300125_1833548.jpg◆「八幡の道探究部会」の展示発表

《終了しました》 2日間とも多くの来場者がありました。
   ・概要  「八幡の古道」展示発表(八幡市民文化祭)
   ・日時  2016年 10月29日(土) 午前10時~午後5時
        2016年 10月30日(日) 午前10時~午後4時
   ・場所  第44回八幡市民文化祭
         八幡市文化センター 3階エレベーターホール


f0300125_1833548.jpg◆講演と交流の集い(10月)

《終了しました》 参加者は33名でした。
   ・概要  八幡の古代遺跡と道
   ・日時  2016年 10月16日(日) 
   ・場所  八幡市文化センター第3会議室



f0300125_1833548.jpg◆講演と交流の集い(8月)

《終了しました》 参加者は42名でした。
   ・概要  石清水八幡宮の別宮の成立と機能
   ・日時  2016年8月27日(木) 午後2時~4時半
   ・場所  八幡市文化センター 第3会議室



f0300125_1833548.jpg◆歴史探訪バスツアー(6月)

《終了しました》 参加者は38名でした。 
  ・概要  丹後を訪ねて
  ・日時  2016年6月9日(木) 午前8時~午後6時頃
  ・場所  《訪問先》 丹後郷土資料館 ⇒ 籠神社 ⇒ ちりめん街道
       ―バスツアーの詳細はパンフレット参照―


f0300125_1833548.jpg◆年次総会及び講演と交流の集い(4月)

《終了しました》 参加者は38名でした。 
   ・概要 (八幡の歴史を探究する会)年次総会
       (講演と交流の集い)  「石清水八幡宮の由緒と建築様式」  
   ・日時 2016年4月21日(木)  年次総会:午後1時~1時40分 
                   講演と交流の集い:午後2時~4時
   ・場所 石清水八幡宮研修センター(男山山上)


f0300125_1833548.jpg◆講演と現地探訪の集い(3月)

《終了しました》 参加者は52名でした。 
    ・概要  石清水八幡宮 山上伽藍の探訪
    ・日時  2016年3月13日(日) 午後1時~4時頃
    ・場所  石清水八幡宮研修センター(講演)及び男山山上探訪


f0300125_1833548.jpg◆男山考古録を読むパートⅢ(第12回)

《終了しました》 参加者は23名でした。 
    ・概要  男山考古録」を読む パートⅢ第4回(通算:第12回)
    ・日時  2016年2月17日(水) 午前10時~11時30分
    ・場所  八幡市立生涯学習センター 会議室

f0300125_1833548.jpg◆講演と交流の集い(2月)

《終了しました》 参加者は58名でした。 
    ・概要  中世都市 八幡
    ・日時  2016年2月14日(日) 午後1時30分~4時
    ・場所  松花堂美術館 講習室


f0300125_1833548.jpg◆講演と交流の集い(1月)

《終了しました》 参加者は78名でした。 
    ・概要  「三宅安兵衛遺志」碑と八幡の歴史創出
    ・日時  2016年1月17日(日) 午後1時30分~4時
    ・場所  八幡市文化センター第3会議室


f0300125_1833548.jpg◆男山考古録を読むパートⅢ(第11回)

《終了しました》 参加者は30名でした。 
    ・概要  男山考古録」を読む パートⅢ第3回(通算:第11回)
    ・日時  2016年1月13日(水) 午前10時~11時30分
    ・場所  八幡市立生涯学習センター 会議室



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◆2016年10月29日~30日 第44回八幡市民文化祭に出展
 今年の文化際には、昨年10月発足した専門部会『八幡の道探究部会』の1年間の活動成果を展示発表しました。展示のテーマは「八幡の古道」で、①古地図(6枚)、②古道の作製地図(2枚ー写真6点)、③江戸時代の道標地図(2枚ー写真27点)などを展示しました。
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 展示会場の八幡市民文化センター3階ロビーには、2日間で約200人の大勢の方が訪れられ、展示物を見ていただきました。また、部会員の説明を熱心に聞いておられました。今回の展示発表は当初予想より皆様の古道や古い道標への関心は高くて、準備していた古道や道標地図及び道標リストは多くの方が求められてたので途中で増刷しました。中には関心のある道標を今から見に行くと仰る方も居られました。
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◆2016年6月12日 『八幡の歴史カルタ』の関連史跡めぐり
 「安居塚ブロック福祉委員会(ふれあいサロン)」の皆様が本会制作の『八幡の歴史カルタ』に詠まれている史跡巡りをされている様子が、八幡市社会福祉協議会の広報誌「やわたし社協だより」第108号(2016年6月1日発行)に紹介されました。
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 催しを主催された福祉委員会の安居塚ブロック長 中崎幸子様から「八幡の歴史カルタ等に紹介されている名所巡りを今年3月と5月実施しましましたが、皆様に好評なので11月にも計画しています」と伺いました。

◆2016年6月12日 カルタ資料館に『八幡の歴史カルタ』を寄贈
 この度、福岡県大牟田市立三池カルタ・歴史資料館から、当会制作の「八幡の歴史かるたカルタ」の寄贈依頼があり1セットを寄贈しました。f0300125_1521852.jpg この資料館は日本及び世界のカルタ(歌カルタ・いろはカルタ・トランプ・タロットなど)を専門に収集・展示・研究をする日本で唯一の資料館です。
 資料館の館長から「礼状」と資料館のパンフレットが届きましたので、ご紹介します。
(注記)
 日本のカルタは、ポルトガルからの影響を受け、16世紀末頃、筑後の三池地方で作り始められたと言われている。その関係で大牟田市が1991(平成3)年に日本で唯一のカルタ専門館を開館した。
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2015年10月31日~11月1日第43回八幡市民文化祭に出展
 今年も八幡市文化センターでの市民文化祭に出展しました。「八幡の歴史クイズ」の実施と「歴史カルタ」及び「歴史たんけんマップ」を掲示しました。約100名の方が歴史クイズに挑戦されました。
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◆2015年9月27日 「歴史たんけん八幡」出版記念の集い
 松花堂庭園・美術館別館において実施された、第Ⅰ部記念講演、第Ⅱ部「出版記念」交流の集いは、堀口八幡市長をはじめ多くの方が参加されて盛況でした。
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 ◆2015年5月9日 八幡市生涯学習センター「わくわくドキドキ縁日」に出展。
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 ◆2015年04月18日 発足5周年記念で会の旗製作の記事が京都新聞に。
 ◆2015年02月13日 2月例会「二宮忠八と飛行神社」が京都新聞に掲載。 
 ◆2014年12月23日 「やましろのタカラフェステバル」(文化パルク城陽)に出展。
 ◆2014年11月1~2日 第42回八幡市民文化祭に出展
 ◆2014年08月15日 会報50号達成記念(バックナンバー増刷)が京都新聞に掲載。
 ◆2014年06月09日 KBS京都ラジオで本会活動紹介の放送がありました。
 ◆2014年06月01日 八幡山柴公民館フェスティバルで、歴探クイズの展示。
 ◆2014年05月28日 「歴史探訪サイクリング」が京都新聞で紹介されました。


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◆歴史と文化の本、『歴史たんけん八幡』は好評のうちに完売。

2015.9.1 大人も子供もこの一冊で、八幡の歴史と文化がよくわかる本、『歴史たんけん八幡』が発刊されました。
 発行日の9月1日にはこの本を八幡市に贈る贈呈式が行われ、その後ミュージアムショップやイベント会場で販売を行ってまいりましたが、好評のうちに販売を完了しました。
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『歴史たんけん八幡』、発刊よもやま話

f0300125_0485928.png 本会ではこの本の一年半にわたる企画から編集、発刊に至る経緯や本の概要を、シリーズ記事として会報で紹介してまいりました。
以下にその記事をリストアップしていますのでご参照ください。
(写真は制作委員会の風景です)


発刊に向けて ▼『歴史たんけん八幡』の発行にむけて
 ▼本の紹介として「特別連続講座」を開設
 ▼本の紹介としての「特別連続講座②」を開催
 ▼いよいよ『歴史たんけん八幡』の発行が迫る

発刊に寄せて ▼刊行に寄せて・・・『歴史たんけん八幡』と私
 ▼『歴史たんけん八幡』が発行されました
 ▼八幡の歴史にこの本の刊行が刻み込まれた
 ▼出版記念の集いが開かれました!
 ▼『歴史たんけん八幡』の普及と活用 / 読書感想

                    


◆本会制作の 『八幡の歴史カルタ』 を販売中です。
2013年2月に発売した《初版》は好評のうちに完売しました。現在は装いを新たにした改訂版を販売中です。

発行:2013年5月25日
販売価格:1,000円
制作:八幡の歴史を探究する会
絵札:森川 修
ケース:石瀬謙三
句:歴探会員応募作より
句の解説:歴探会員有志 (読み札の裏はその句の歴史的な解説になっています)
       
販売所:松花堂ミュージアムショップ、
・歴探事務局 takata@cd6.so-net.ne.jp
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◆本会の会報のバックナンバーを販売しています。

f0300125_15224688.jpg  ご要望が多いこともあり、会報50号を発行した記念にバックナンバーを増刷し販売しております。
  • 各号とも1部100円です。
  • 体裁は白黒A4版で、各号ともおおむね10~20ページの構成となっております。(但し古い号では10ページ未満のものもあります)
  • ご希望の方は講演会等の例会の際にお買い求め下さい。
  • また非会員の方を含め郵送をご希望の方は、下記「歴探事務局」まで希望会報の号番号、送付先等の必要事項をメールでご連絡ください。会報を10号分(部)以上まとめて購入される方の郵送料は、当会で負担させて頂きます。

    なおお支払方法は下記口座あての郵便振り込みとさせていただきます。
       申し込み: 歴探事務局 takata@cd6.so-net.ne.jp
       支払振込: 郵便振込口座番号:00970-2-322353
              (加入者名:八幡の歴史を探究する会)
       

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# by y-rekitan | 2018-12-31 15:00 | Comments(0)

◆統合版・・・集いのパンフレット

新しい集いのご案内 パンフレット集


◆歴史探訪バスツアー

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◆(2017年度)八幡の歴史を学ぶ連続学習会

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《終了》◆年次総会及び講演と交流の集い

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《終了》◆会員研究発表

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《終了》◆歴史探訪ウォーク

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《終了》◆「八幡の道探究部会」展示発表

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《終了》◆講演と交流の集い(10月)

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《終了》◆講演と交流の集い(8月)

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《終了》◆歴史探訪バスツアー(6月)

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◆八幡の歴史を学ぶ連続学習会

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《終了》◆年次総会及び講演と交流の集い(4月)

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《終了》◆講演と現地探訪の集い(3月)

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《終了》◆男山考古録を読む会パートⅢ第4回

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《終了》◆講演と交流の集い(2月)

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《終了》◆講演と交流の集い(1月)

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《終了》 ◆男山考古録を読む会パートⅢ第3回(通算第11回)

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# by y-rekitan | 2018-12-31 14:00 | Comments(0)

八幡歴探 リンク集

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このコーナーは八幡の歴史にかかわる情報が網羅的に閲覧できるサイトや、本会に縁の深いサイトのリンク集です。


f0300125_12175720.jpg八幡市観光協会
“みどころ”コーナーの各スポットの写真と解説は圧巻です。

f0300125_21374037.jpg八幡市公式サイト/観光情報のコーナー
八幡の名勝の情報が満載。また、祭り等の動画も見られます。

f0300125_2543626.jpg枚方市公式サイト/歴史のコーナー
枚方の文化財や歴史に関する催しの情報が満載です。

f0300125_2244728.jpg城陽市公式サイト/文化財のコーナー
市内にある国、府、市の史跡、文化財が網羅されています。

f0300125_246395.jpg久御山町公式サイト/文化財のコーナー
久御山町の文化財が写真、解説付きで閲覧できます。

f0300125_23464785.jpg宇治市公式サイト/文化財のコーナー
世界遺産を含め市内にある国、府、市の史跡、文化財の一覧です。

f0300125_21385651.jpgサイト「八幡散策」の “八幡ぶらりゆく”
神社仏閣、伝説、道標等、広範囲に網羅されています。

f0300125_23474058.jpg松花堂庭園・美術館
松花堂昭乗のデータベース、催し物案内等が掲載されています。

f0300125_063725.jpg石清水八幡宮
860年に都の裏鬼門を守護する鎮護の神として創建されました。

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# by y-rekitan | 2018-12-31 12:00 | Comments(0)

◆コーナー・本会の概要と入会のご案内

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このコーナーでは「八幡の歴史を探究する会」の概要紹介や、入会のご案内を掲載しております。
2015.09.10 本会の沿革コーナーに追記    2015.04.21 本会の会則を更新
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 「八幡の歴史を探究する会」は2010年4月に 発足しました。
 八幡は、弥生時代の遺跡をはじめ、さまざまな古墳や、石清水八幡宮、善法律寺、正法寺、松花堂などすぐれた文化遺産に恵まれています。ところがその歴史的意義や文化的価値が必ずしも明らかにはされておらず、そこに暮らす私たち自身もその存在にすら気づいていないという現実があります。 

 そうした中で私たちは「八幡の歴史を探究する会」を設立し、①講演会、②現地見学会、③会員の研究発表、を事業の3本柱として各種イベントを開催するとともに、その活動内容を市民内外に広く知ってもらうために、「会報」を発行しております。
 私たちは関係団体や機関とも連携しながら、歴史探究の活動を通して市民の誰もが郷土の歴史と文化に誇りをもち、未来の町を築いていくことに貢献できればと願っております。
 「八幡の歴史を探究する会」 代表幹事 安立 俊夫空白

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 本会の概要や会則にご賛同いただき、ともに活動して頂ける会員を募っております。
  • 八幡市以外にお住まいの方も会員になれます。
  • 会員には、「会報」及び例会案内チラシ等を郵送いたします。
  • 会費:年会費は(4月~3月締めで)1,500円  
      10月以降入会は、1,000円、
  • お申し込みは下記の事務局までメールで、また会費の振込は下記の郵便振込みをご利用ください。
       申し込み: 歴探事務局 takata@cd6.so-net.ne.jp
       支払振込: 郵便振込口座番号:00970-2-322353 
             (加入者名:八幡の歴史を探究する会)
     

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 以下の会則(2改)は、2015年4月19日の総会にて承認された。

第1条 名称
本会は「八幡の歴史を探究する会」と称する。

第2条 目的
八幡の歴史を探究し、事業を通じて会員相互の交流を深めるとともに、地域文化の進展と次世代への継承に貢献する。

第3条 事業
1、講演会の開催
2、現地見学会の開催
3、会員の研究発表
4、会報を発行し,会員の情報交換・投稿の場とする。
5、その他第2条の目的を達成するための事業

第4条 会員
前条の趣旨に賛同する人々をもって構成する。

第5条 幹事及び幹事会
1、会員中より選任された幹事により幹事会を構成する。
2、幹事の任期は設けない。

第6条 代表幹事
幹事の中から互選により代表幹事、副代表幹事を選任する。

第7条 事務局長
1、幹事の中から互選により事務局長を選任する。
2、事務局長は幹事会を主宰する。

第8条 会議
この会の活発かつ円滑な運営を図るために、次の会議を開催する。
1、総会
   年1回開催し、会務・会計を報告するとともに必要
   事項を審議する。
2、幹事会
   必要に応じ開催し重要事項を審議する。

第9条 会費及び会計年度
1、会の運営のための年会費を徴収する。額については
  幹事会で決定する。   
2、会計年度は毎年4月1日より翌年3月31日までと
  する。 
3、会計監査は会員の中より選出し、総会にて会計監査
  報告を行う。

第10条 その他
本会則に定める以外の必要事項は幹事会で協議し、本会の必要な場合は細則を別に定める。

第11条 付則
この会則は2011年度(平成23年度)総会開催後から施行する。
   1改)2012年度(平成24年度)総会にて一部改訂。
   2改)2015年度(平成27年度)総会にて一部改訂。

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本会の沿革に代えて、ここに代表の折々の年次総括やイベント報告の記事を紹介させて頂きます。
        2015年09月 『歴史たんけん八幡』を発刊しました!
        2015年04月 2015年度の総会が開かれました
        2015年04月 発足からの5年を振り返る
        2015年03月 発足5年周年を記念し、会の旗が出来ました
        2014年06月 会報50号 発行の節目を迎え
        2014年01月 新年を迎え、5年目の節目を大切に
        2012年04月 発足以来 3年目の節目を迎えて
        2010年04月 なごやかに、探究する会が発足


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このサイトへの来訪者は先月(4月)末で34,656人となりました。

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2017.01.10…お蔭様でこのサイトへの来訪者がのべ3万人を超えました。
2016.02.26…お蔭様でこのサイトへの来訪者がのべ2万人を超えました。
2015.06.10…お蔭様でこのサイトへの来訪者がのべ1万人を超えました。
2014.12.05…併設の歴探掲示板をリニューアルし、画像やリンクの投稿が容易になりました。
2014.11.05…開設一周年を迎え関連サイトリンクのコーナー新設、歴探掲示板へのリンク等の機能アップを実施しました。
2014.07.07…本会概要紹介やイベント案内等、本会の活動を総合的に紹介するサイトとしてリニューアルしました。
2013.11.01…本会の会報記事を紹介するブログとして発足しました。

《備考》 来訪者数は、携帯やスマートフォンを除きパソコンからの来訪のみをカウントしたものです。また同じ人が一日に何回訪れてもその日は1 回としてカウントする方式としています。

《改定》 2016.11.15よりアクセスカウントにモバイル端末からのアクセスも加えることになりました。これにより今後はカウント値が3割ほど大きくなる見込みです。

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f0300125_1548513.jpg この歴探サイトではH26年10月から「先月の記事別アクセスtop3」と称するコーナーを設け、会員の方だけでなく全国からの検索来訪を含めて1か月間のアクセスが多かった記事を紹介させて頂いております。

 おかげさまでこのサイトの掲載記事数は順調に増え続けておりますが、せっかくの熱のこもった会報記事も数が多くなり時間を経ると、昔の記事を改めて読み返す機会は少なくなるものと思われます。そこで月替わりのアクセスランキングに名を借りたこのコーナーを設け、クリックして頂くことで毎回3件のなつかしい力作記事を改めて味わっていただく機会になれば・・・ そんな思いでこのコーナーを設けておりますので、ぜひご利用ください。

《追記》 H29年1月より、アクセスtop3欄の下に“人気タグtop3”のコーナーを付設しました。毎月のアクセスが多かったタグ(キーワード)のtop3です。合わせてご利用ください。

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# by y-rekitan | 2018-12-31 10:00 | Comments(0)

◆スポット記事インデックス《続》

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60号以前の会報のスポット記事は以下の通りです。クリックで直接お読み頂けます。

“神領墓地は何を語るか”  (第49号)
“水月庵 藪を抜ければ円福寺”  (第49号)
“変わりゆく橋本”  (第48号)
“芭蕉と遊女との巡合い”  (第48号)
“遊女 江口の君”  (第47号)
“八幡の浄土宗寺院にみる地蔵菩薩 ”  (第45号)
“ 三昧聖と八幡の墓地  ”  (第45号)
“ 五榜の掲示  ”  (第44号)
“個人所有重文民家の課題について ”  (第43号)
“重文「伊佐家住宅」について ”  (第43号)
“ 昭乗の下馬碑を探る ”  (第42号)
“ 京大博物館にある八幡の遺跡・遺物 ”  (第40号)
“ヌートリア考、そして「郷土囗史物語」”  (第37号)
“ 狛 犬 考 ”  (第37号)
“ 探訪会のしおりを作成して ”  (第36号)
“歴史探訪ウォーク参加記”  (第36号)
“代々続く神原の「講」”  (第36号)
“「八幡の歴史カルタ」に驚く”  (第36号)
“女坂・荒坂横穴古墳群から学んだこと”  (第35号)
“魅力的な八幡東部の集落と神社”  (第34号)
“ 二宮忠八翁と飛行神社 ”  (第31号)
“ 石清水臨時祭と平清盛 ”  (第31号)
“「八幡椿は」何処に”  (第24号)
“陣屋と鳥羽伏見の戦い”  (第22号)
“八幡八景解説奮戦記”  (第20号)
“色恋に愛づる花心ー謡曲「女郎花」”  (第20号)
“俄神人ニ成候”  (第18号)
“八角院地蔵尊の碑文を読む”  (第15号)
“長宗我部盛親が潜んだ家”  (第15号)
“「やわたものしり博士」検定にチャレンジ!”  (第10号)
“木津川・宇治川沿いの屋並みを巡る”  (第9号)


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# by y-rekitan | 2018-12-31 08:00 | Comments(0)

◆会報第79号より-top <スクロールだけで全記事が読めます

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この号の会報からは現在、下記の記事が掲載されています。
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この号が最新号です。

◆シリーズ:“心に引き継ぐ風景” ⑩◆
◆《講 演 会》三川合流の変遷と周辺都市◆
◆シリーズ:“八幡の古墳と鏡” ③◆
◆シリーズ:“五輪塔あれこれ” ⑩◆
◆『太平記』 八幡合戦の石碑を訪ねる◆
◆シリーズ:“四條隆資卿物語” ①◆
◆シリーズ:“『三宅安兵衛遺志』碑と八幡の歴史創出“ ⑧◆
◆「八幡の歴史を学ぶ連続学習会」2016年◆



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# by y-rekitan | 2017-05-20 15:00 | Comments(0)

◆会報第79号より-01 淀川三十石船

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心に引き継ぐ風景・・・➉
三十石船と淀二十石船
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 「都名所図会」淀三十石船は当時の船運隆盛の一端を伝えるが、三十石船の就航は比較的新しく、信長の時代に出現し、秀吉の時代には百艘程となった。伏見と大坂天満間を下り半日、上り一日で航行し、乗客定員が二十八人で四人の船頭が付く。
 しかし淀川で最も活躍したのは、淀の納所・水垂の淀二十石船であった。淀稲葉神社の『過書座二十石船由緒書』には「男山八幡宮に付随し、八幡宮社務支配となり、古くより男山八幡宮の御神役を務め、淀川舟運を専有し長くその伝統を伝えてきた」旨が記されている。淀二十石船と徳川幕府との結びつきは深く大坂の陣でも兵糧米や鉄砲、楯など御陣具の搬送を担っている。
『土佐日記』の一節に「ひんがしの方(かた)に、山の横ほれるをみて、人に問へば、“八幡宮(やはたのみや)”といふ。これを聞きて、喜びて、人々をがみたてまつる。山崎の橋みゆ。嬉しきことかぎりなし《原文はほぼ全てひらがな》」とあり、貫之は淀二十石船から八幡宮と山崎橋を目にしている。
 元禄七年(1694)十月、芭蕉は大坂南御堂前で臨終を迎える。遺言により遺体は膳所の義仲寺に運ばれるが、淀二十石船で淀川を上ったようだ。「遺体を長櫃に入れ、商人の荷物のようにして運んだ」と其角が伝えている。
(文 谷村 勉)



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# by y-rekitan | 2017-05-20 12:00 | Comments(0)

◆会報第79号より-02 三川合流

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《講演会》
三川合流の変遷と周辺都市

2017年4月 
さくらであい館(イベント広場)にて
福島 克彦(城郭懇話会会員)

 
 4月23日(日)午後1時半より、淀川三川合流域“さくらであい館イベント広場(淀)”を会場に、年次総会と例会を開催しました。新しくオープンした”さくらであい館”の会場には、多数の方々にお越しいただきました。総会の後、同じ会場で「淀川・三川合流の歴史とその周辺」の講演が行われました。なお講演の概要は、講師の福島克彦氏がご多忙中にも拘わらず新たに本会会報掲載用に首記のタイトルで新たに執筆していただきました。会報編集者として厚く御礼を申し上げます。 当日の参加者58名でした。

はじめに

 馬車が発達しなかった日本の歴史にとって、舟運は物流の歴史を語る上で不可欠な要素である。年貢、物資の運搬には、大小多様な船舶が使われ、生産地と消費地を結びつけていた。特に、淀川は、古代、中世最大の消費都市であった京都と西日本を結びつける重要な物流の幹線となっていた。16世紀以降は、大坂が発達し、その地で集積された物資が運搬され、京都へと届けられた。山崎や淀は、そうした物資を京都へ運ぶ際、中継地点となった都市であった。したがって、三川合流周辺の都市である、山崎、淀、八幡は京都の発展を常に支えていた存在であった。こうした中継地点は17世紀には河川沿岸の渡し場や問屋として展開し、淀川舟運と地域社会を結びつける重要な結節点となっていた。
 しかし、一方で淀川は洪水など、自然災害の元凶にも変わっていく。そのため、この地域の堤防普請や治水対策とも常に大きく関わっていた。ここでは、三川合流周辺の都市の歴史と、治水と河川の付け替えについて取り上げてみたい。

1 三川合流の様相

 淀川の三川合流といえば、桂川、宇治川、木津川の三つの河川の合流を指す。現在、三つの河川は山崎地峡で背割堤を挟んで並走している。左岸は八幡市・枚方市、右岸は大山崎町、島本町が接しており、今も雄大な景観となっている。f0300125_2047308.jpgしかし、これらは自然によって形成された景観ではなく、あくまでも近代以降において人工的に築かれたものであった。では、近代以前の景観はどのような雰囲気であったのだろうか。近世絵図や絵画が描くように、幕末までの三川は淀の町で合流していた。そして、山崎地峡部分は、合流した後の一本の大河が流れる景観となっていた。つまり、幕末まで淀川沿岸を見る場合、現在の地形で判断するのではなく、かつての景観を遡及的に考察して検討する必要がある。
 淀の上流は、16世紀中葉まで、宇治川が直接巨椋池に流れ込んでいた。この池の水がオーバーフローして、淀、そして下流の淀川へと流れていた。後述するように、豊臣秀吉の伏見城下町建設に際して、宇治川が巨椋池と分離することになった。
 以下、合流地点の都市について概観しておきたい。

2 周辺都市の展開

(1)山崎・大山崎

 神亀2年(725)、行基による山崎橋架橋があり、橋のたもとには集落が形成されていたものと推定される。以後、8世紀後半の長岡京、平安京の時代にかけて、山崎橋、山陽道、関所に加え、山崎津、山崎駅、国府、官営瓦窯などが設置されていく。平安中期になると、橋が消滅し、津は史料上登場しなくなる。一方で中世前期からは地縁的共同体たる「保」が街道沿いに配置され、街村状の都市へと生まれ変わった。保には八幡宮の神人が住んでおり、彼らは灯明油を八幡宮へ奉納していた。これを契機に荏胡麻油の製造が認められ、特権商人として君臨するようになる。原料たる荏胡麻も莫大な量が西日本各地から船舶によって運搬された。淀川交通は、こうした原料荏胡麻を運搬する重要なルートとなった。以後、大山崎は荏胡麻油の代名詞となり、中世商業に名を残すことになった。ただし、14世紀には新しい塩商売に手を出そうとしたが、既得権を持っていた淀の抵抗によって、その権限は結果的に返上している。これによって、大山崎は多角的な産業への発展への道が途絶えてしまう。以後、産業の多角化への転換は、うまくいかなかったようである。
 一方、都市の自治権は、朝廷や武家との交渉のなかで、着実に獲得していった。戦国期からは大山崎惣中という自治組織が形成され、近世期にも神人が社家へと転換して「守護不入」権を維持していた。

(2)淀
 古代の淀は「与等津」(延暦23年 804『日本後紀』)という港として登場してくる。永承3年(1048)には 山崎・淀の刀祢、散所が屋形船11艘を建造しており(『宇治関白高野山御参詣記』)、やはり船舶との関わりが見える。中世は、材木の備蓄、塩・塩合物を取り扱う「魚市庭」、 兵庫津と結びつく「淀十一艘」などが見られた。こうした点からわかるように、中世期淀は京都の外港的な役割を果たしていた。f0300125_20501948.jpg
 一方、永徳3年(1383)8月、大山崎が新市開設によって塩商売を進めようとするが、これは淀の強い抗議によって白紙にさせている。つまり、この当時から塩や塩合物に関する既得権を守る立場になっていた。「淀ハ皆以八幡領也、千間(軒)在所也云々、近来減少」(『大乗院寺社雑事記』延徳2年)と記されるごとく、八幡宮領であった。千軒の家があり「淀六郷」と呼ばれる六つの集落が形成された。これらは、桂川、宇治川沿岸の集落であり、やはり港と船舶で、外とつながっていた。
 一方、京都とは陸上交通でつながっており、淀の中心である島之内には納所から淀小橋が架けられ、京都との間を運送業者が中継していた。こうしたルートは、秀吉の時代に太閤堤が成立して、その堤防上に造られた。17世紀に淀城下町が成立すると、この街道は東側に張り出すように移転されていく。

(3)八幡
 石清水八幡宮膝下の都市である。貞観2年(860)、行教が八幡神を勧請した後、石清水八幡宮が成立していく。以後、その周囲に院坊、集落が形成され、発展を遂げていく。中世都市の空間構造としては、山上・山下、宿院、内四郷、外四郷と区分される。内四郷と呼ばれる山麓の町場は東高野街道(常盤大路、志水大道)が南北に走り、やはり街村状になっていた。
 石清水八幡宮寺の組織としては祀官中、山上衆、神官神人中、四郷中などがあり、祠官家(田中・善法寺など)が力を保持していた。
 八幡は直接は河川と接していなかったが、独自の外港橋本を通して舟運が西日本とつながっていた。延文5年(1360)大山崎神人井尻助吉が「橋本津」で八幡宮領播磨国松原荘の年貢を陸揚げしており(『井尻文書』)、対岸の大山崎とも強く関係していた。預物慣行、土倉の存在、徳政免除などの特徴があり、多くの金融業が発展していた。近世期も「守護不入」を存続していたことが知られている。
 このように、三川合流周辺には、大山崎、淀、八幡と、石清水八幡宮と関わりを持つ都市が成立していた。これらは河川交通ともつながる一方で、街村状の町場が続き、陸上交通とも深い関わりを持っていた。特に京都と陸上交通でつながり、運送業者とも関わっていた点は強調されてよい。また、淀川沿岸ともつながっており、古い時代から瀬戸内海の舟運を媒介にして、物資運送のルートとなっていた。

3 三川合流工事の要因

 16世紀後半より、豊臣秀吉の京都改造が進められ、宇治川と巨椋池の分離、それに伴う伏見城下町の建設、太閤堤の普請などが敢行された。この秀吉の改造は、近世期の交通体系と治水方針をほぼ決定づけている。特に堤防と街道が軌を一にしている姿勢は注目される。以後も京都開発は進められたため、流域における大量の樹木伐採も行なわれた。そのため、森林の保水能力が低下し、土砂が河川に流出して、山崎地峡の手前で土砂が川底に堆積した。これによって洪水が起こりやすくなり、江戸時代以降は、山崎地峡周辺はたびたび水害に見舞われた。三川合流地点における逆流現象もたびたび起こったため、地域としては合流地点の変更を求めるようになった。すなわち、洪水対策のため、合流地点を少しでも下流へ求めようと、寛永14年(1637)の木津川付け替え工事、さらに18世紀以降の小泉川、水無瀬川、放生川の付け替えが実施された。なかには、木津川を河内や大和へ付け替えようとする計画も見られたが、近世期段階では実行に移せなかった。

4 淀川改良工事

 明治元年(1868)5月に淀川の大洪水があり、同年12月~3年(1870)正月にようやく木津川付け替え工事が敢行された。これに伴い、周辺も近代における小泉川の付け替えなども行なわれた。以後、土砂堆積の問題を克服するため、オランダ人ヨハネス・デレーケなどの調査、計画による、淀川改良工事が進められ、砂防ダムの設置、水制による低水路の維持が図られた。当時水制には粗朶沈床も設置され、水の浄化作用に意識されていた。明治29~43年頃(1896~1910)の淀川改良工事では、桂川、宇治川の付け替え工事が進められた。このうち、桂川の付け替えでは、大山崎の淀川沿岸部の敷地を喪失した。そのため、当時の大山崎村長松田孝秀は「凡ソ大利ヲ起サントスレハ、小害ノ之ニ伴フハ数ノ免レサル所ニ付、府下公益ノ為メニ犠牲トナルハ甘ンスル所ニ候得共、之ヲ以テ大ニ利益ヲ享クルモノトシ、不均一ノ賦課セラルゝニ至リテハ黙止難致」と京都府に意見を述べている(『役場旧蔵文書』「上司進達綴」明治29年7月)。後に淀川改良増補工事(大正7~昭和5年 1918~1930)によって背割堤が拡張し、現在の景観に至っている。
 当時の村長の言葉のなかに、大山崎村が「府下公益ノ為メニ犠牲トナルハ甘ンスル所ニ候得共」と言っている点は、私たちは噛み締めたいと思う。

おわりに

 平成29年(2017)3月、三川合流の地にさくらであい館が完成した。今後、三川合流地点を考える重要な発信基地になると思われる。それは前述してきたような、周辺にある都市のあり方などを比較検討することを通して、各々の町の特徴を追究することができる。さらに淀川・三川合流を媒介とした自治体・地域の交流もさまざまな形で実施することができると考える。それは、言うまでもなく、淀川の歴史を考えることでもある。現代のように、大型河川を境界と考えるのではなく、物資を運ぶ舟運ルート、あるいは対岸を結ぶ渡し舟などの存在から、むしろ対岸は近い存在だったということを改めて認識すべきだろう。
 その意味でも八幡の歴史を探究する会の役割も大きいと思われる。皆さんの活動に期待したいと思う。

[参考文献]
西川幸治編『淀の歴史と文化』淀観光協会 1994
大山崎町歴史資料館『はるかなる淀川』2000
大山崎町歴史資料館『淀川と水辺の風景』2012
藤本史子「中世八幡境内町の空間復原と都市構造」『年報 都市史研究』7 1999
鍛代敏雄『戦国期の石清水と本願寺』法蔵館2008
福島克彦「近世前期における西国街道と淀川問屋」『山城国大山崎荘の総合的研究』2005
福島克彦「中世大山崎の都市空間と『保』」仁木宏編『日本古代・中世都市論』2016
 

『一口感想』より
三川合流の歴史や推移が、わかりやすく説明されていましたので、よく理解がすすみました。資料もよくまとまっており、大変よかったと思います。(O.S.)
三川合流の歴史を学んで、益々貴重な地域であると思った。八幡市はもっと、もっと三川合流を取り上げてほしいと思う。(I.J.)
八幡市に住んで50年、三川合流の歴史を初めて聞き興味を持ちました。有り難うございました。(K.T.)
三川の様子がよくわかりました。(T.K.)
八幡の土地一部が分断され(美豆、生津)ていたことは聞いていましたが、三川合流の改良工事により、山崎が多くの土地を失ったこと、はじめてお聞きしました。 改良工事の歴史を学ぶことの大切さがわかり、よい機会となりました。(F.N.)
興味ある内容の講座でした。本年も八幡にかかわるテーマでお願いします。昔はどうであったか、昔のものは残っているのか、痕跡、遺品・・(K.S.)
最初会場の天井が高いためか、講師のマイクが聞こえづらかった。しかし、途中からよく聞こえるように配慮していただき、よく聞こえるようになりました。(謝謝)
 講師の方は一生懸命大きな声で講演されました。受講者の一員として深く感謝申し上げます。本当に有り難うございました。受講者も静かに熱心に一心で聞く思いで受講、大へん有意義な講演であり、参加して大へんよく有り難かったです。(H.M.)
本日の講演、大変参考になりまいた。普段、三川合流の話は滅多に聞きませんでしたので、大山崎も八幡も大きな影響を受けていたことを知りました。
 江戸時代の資料の図に八幡の中に東高野街道の名称があって、東高野街道とは最近観光用に俄に言い出したことで、江戸時代の資料に適用するのはどうなのかな?と一つだけ疑問が残りました。(T.S.)

  
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# by y-rekitan | 2017-05-20 11:00 | Comments(0)

◆会報第79号より-03 古墳と鏡③

シリーズ「八幡の古墳と鏡」・・・③
八幡の古墳と鏡(3) 
-八幡出土の三角縁神獣鏡(2) 西車塚古墳-

濵田 博道 (会員) 


西車塚古墳とは

 今回取り上げる西車塚古墳は前回の内里古墳とは違い、以前からよく知られた古墳です。『以文會筆記』(文化年間(1804~1818)、京都文人による書)に次のような記事があります。

f0300125_10153298.jpg「おとこ山の麓を南へ河内国に行く道は右にも左にも車塚といふあり。いと平らなる畑の中に物をおきたらんやうに南は円にして広く北は方にして狭く、帝王の陵に似たればとてそのかみ、(中略)不知の異物なり。」(『京都府史蹟名勝天然記念物調査報告 第十三冊』)
 江戸時代の書物において車塚とは前方後円墳のことをいいます。“河内国へ行く道を挟んで西に西車塚古墳(後円部上に八角院[堂]のある古墳)、東に東車塚古墳(現在、後円部の一部は松花堂庭園の築山となっています。前方部は消滅。)があり、陵(みささぎ)に似ているがよくわからない”と述べています。
 『男山考古録』(1848年)巻14にも「西車塚」の項があり、かなり詳しく説明されています。「志水南山道より西にて、小山廻り(後円部)およそ半町(約60m)ばかりもあり、四手原(幣原)村へ行く道の北(中略)これは何れ名だたる人をや葬りたりけむ、未詳。」さらに『山陵志(さんりょうし)』(1808年、蒲生君平(がもうくんぺい)著)を引いて「前方後円、壇三成。溝環り、後円部の頂に葬むる場所あり」「皇后皇子若重臣の墓か」とあります。
 八幡市八幡大芝に所在し、古墳時代を通じ木津川左岸最大、全長120m、後円部径60m、三段築成の古墳です。盾型(たてがた)の周濠(しゅうごう)は現在、埋められて畑になっていますが、発掘調査の結果からも確認されています。円筒埴輪も二個確認されていて、埴輪列があったようですが現在は見当たりません。葺石(ふきいし)は「確認されていない」(『京都府史蹟勝地調査會報告書 第一冊』)、「あったと推定される」(『八幡市遺跡地図』)との見解があります。「古鏡5面、車輪石10個、石釧(いしくしろ)3個、鍬形石(くわがたいし)2個、石製品(合子(ごうす))1個、(瑪瑙(めのう))勾玉(まがたま)11個、管玉(くだたま)120個、小玉72個、木片4個、刀残片27個」が出土し、東京国立博物館に収蔵されています。(鏡は特別展の折、一度展示されましたが、常設展示とはなっていません。)
 報告書で京都大学の梅原末治氏は次のように述べています。「墳墓の構造の偉大なるより推し、またその埋蔵品の種類に考へ、当時の有力者なりは容易に知るを得べく、古鏡の年代推定にして当らむか、以て支那三国(原文のママ、中国の魏呉蜀(ぎごしょく)三国のこと、220年~280年)前後における山城文化の発達の一端をうかがうを得べき貴重なる遺跡なり。」

西車塚古墳の石室

 古墳時代前期(3世紀半ば~4世紀末)において八幡市で石室を有する古墳は茶臼山古墳と西車塚古墳の2基ありました。他の古墳は竪穴式石室の簡易型といえる粘土槨(ねんどかく)(粘土床)です。ですから、この2つの古墳は八幡市の中で格が高くかつ古い古墳といえるでしょう。とはいえ茶臼山古墳はすでに盗掘され石室も破壊された状態で副葬品もほとんど残っていませんでした。ただ石棺(近畿で最初に導入された熊本県氷川(ひかわ)の阿蘇溶結凝灰岩(ようけつぎょうかいがん)製の石棺)が残されていたのは貴重でした。一方、西車塚古墳の竪穴式石室について、梅原末治氏は石室が破壊された後になって調査し、次のように述べています。「明治35年(1902年)6月18日、(八角堂)境内の土坑に際し遂に石室を掘り当て、遺物を出すに至れり。この時出土の副葬品は東京帝室博物館の所蔵に帰して調査なし得べきも、室は全く破壊され終わりて尋ぬべからず。」「塚の主体をなす石室は後円のほぼ中央にあり。東西に長く塚の主軸とは直角の方向をとれるいわゆる竪壙(たてこう)なりしがごとし。この形状の詳細は全く知る能はざる(後略)」(『京都府史蹟勝地調査會報告書 第一冊』(1919年[大正8年])
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西車塚古墳の被葬者像

 副葬品として古鏡や腕輪型石製品などを多く有していることから被葬者が祭祀を司り宗教的呪術的性格であったことがわかります。また腕輪形石製品の最高品位といわれる鍬形石2個が出土していることから高い威信をもっていること、三段築成の古墳であることからヤマト王権と関係が深かったことがうかがえます。腕輪形石製品について奈良文化財研究所『日本の考古学』(小学館)で次のように述べています。「腕輪形石製品は銅鏡と同様に、所有者の威信を高める重要な物品であった。その背景として、当時の中心的な勢力によってこれらが製作・配布されていたとする説が有力である。しかも一定の格付けがあり、鍬形石、車輪石、石釧の順で重要視されていたようである。」出土品の石製合子(ごうす)と瑪瑙製勾玉(めのうせいまがたま)は東京国立博物館発行『日本の考古ガイドブック』にも掲載されているほど見事なものです。私が東京国立博物館を訪れた時、ちょうど合子が展示されており、八幡市西車塚古墳出土との解説を見て感動したものです。これらを持ち合わせた被葬者とはどのようでしょうか。

西車塚古墳出土の鏡

 出土した5枚の鏡は3枚が舶載鏡(はくさいきょう)(=中国鏡)、2枚が仿製鏡(ぼうせいきょう)(=倭鏡)とされています。舶載鏡は盤龍鏡(ばんりゅうきょう)、三角縁神獣鏡、画文帯神獣鏡(がもんたいしんじゅうきょう)各1枚です。
f0300125_20352491.jpg画文帯神獣鏡については石不動古墳からも出土しており、次々回とりあげます。
 盤龍鏡については、『八幡市誌』に櫛歯文帯龍虎鏡(くしはもんたいりゅうこきょう)という名前で記載されていますが、これは同じ鏡のことです。大塚初重『古墳辞典』(東京堂出版)によると「(龍虎鏡は)盤龍鏡のうち主文様が龍と虎の向き合う構図のもの、後漢(25年~220年から三国期(220年~260年)にかけてのもの」と説明されています。盤龍鏡の一部として龍虎鏡が存在するわけです。そして「各種の神獣鏡や盤龍鏡をもとに試作を重ね、三角縁神獣鏡が生まれた。」(注1)とされていますので、三角縁神獣鏡の母体となった鏡の一つであるといえます。盤龍鏡という三角縁神獣鏡が生まれる前の古い鏡である後漢鏡が三角縁神獣鏡とともに副葬され出土しているのも興味深いです。西車塚古墳の盤龍鏡は舶載鏡とする見解(梅原末治氏、『八幡市誌』、山城郷土資料館『鏡と古墳』)と仿製鏡とする見解(樋口隆康『古鏡』新潮社)がありますが、ここでは舶載鏡として扱いました。

三角縁神獣鏡などの副葬状態

 西車塚古墳の石室については、八角堂境内整備の際、専門家の立ち合いがなかったようで、石室の形や様子、副葬品の位置関係などの図面などが残されないまま、壊されました。そのためどんな石室であったのか、棺(ひつぎ)の外と内に石製品や鏡がどのように副葬されていたのか、とりわけ三角縁神獣鏡はどのように副葬されていたのか、これら威信財のうち被葬者が何を最も大事にしていたのか、などわからない状態です。ただ後年、石室調査に赴いた梅原末治氏は、発掘当時石室を実見した河井うのさんの話を聞いて次のように記述し感想を述べています。
 「室の大さは竪九尺(2.7m)、横二尺(0.6m)、高さ三尺(0.9m)内外にして、壁は積むに扁平なる水成岩を以てせり。今街道より八角堂に登る石階(段)に使用する石材是なりといふ。而して内部に於ける遺物副葬の状態は室の東方に接して鏡鑑類あり、付近より石釧などの石製品を発見し、勾玉小玉管玉の類は室の南辺に点在せりと云へり。然らば以外は頭部を東にして埋葬せるものと見るべきか。」(『京都府史蹟勝地調査會報告書 第一冊』)

西車塚古墳出土の三角縁神獣鏡

 三角縁神獣鏡の正式名は「三角縁天・王・日・月・唐草文帯二神二獣鏡」といいます。二神像・二獣像の外側の四方に「天」「王」「日」「月」という文字が方形枠で一文字ずつ銘記され、その外側に帯状に唐草文が描かれているからです。(注2)「『天王日月』の銘文は三角縁神獣鏡に時々見受けられますが、中国では後漢代の二世紀第三四半期(150年~175年)ごろに作成されたと推定される画文帯同向式神獣鏡に多くみられる」(注3)ようです。『天王日月』銘の起源はそのころまで遡るということになります。「天」は天子、「日」「月」は「太陽と月であるが、陽と陰の二元となり、天子と后をさす。」(注4)とされています。が、諸説あります。また、第一回の「八幡の古墳と鏡」で“西・東車塚古墳の三角縁神獣鏡はC段階の製作だから卑弥呼の鏡ではない”(卑弥呼の時代と合致しない)と述べました。この舶載三角縁神獣鏡の製作ABCDの四段階のうちC段階について、大阪大学の福永伸哉氏は次のように説明しています。「<舶載C段階>内区(ないく)四分割、六分割タイプ共存。捩文座乳(ねじりもんざにゅう)をもつ四神四獣鏡、三神三獣鏡、二神二獣鏡、三神二獣鏡など。外周突線の出土頻度さらに低下。銘帯もみられるがごく少数派。260年代の製作か。」(注5)西車塚古墳の三角縁神獣鏡は内区四分割の二神二獣鏡です。

西車塚古墳の三角縁神獣鏡の同型鏡

 この三角縁神獣鏡と同じ大きさ・文様のものが西車塚古墳のものを含めて9枚見つかっています。9枚もの同じ鏡をどうやって造ったのか。1つの鋳型から複数の鏡を造る同笵鏡による製作法では鋳型が破損していくので5枚が限度といわれています。同笵鏡による製作法で9枚は考えにくいというわけです。そこで原鏡から鋳型を造り、その鋳型から1枚の鏡を造り(踏み返し鏡)、その鏡から多くの鋳型を造って鏡を製作するという同型鏡による製作方法が考えられています。他にも同笵・同型両方の方法を使って製作したのではないか、あるいはさらに別の製作法もあったのではともいわれており、どうやってつくったのか意見がいろいろあります。同じ大きさ・文様のものが9枚見つかったというのは三角縁神獣鏡でも最多の枚数です。どういう古墳で見つかっているか調べてみますと、

ヘボソ塚古墳鏡(兵庫県神戸市東灘区岡本町、前方後円墳、古墳時代前期)
石切神社蔵鏡(大阪府東大阪市)
佐味田宝塚古墳鏡(奈良県北葛城郡河合町、前方後円墳、4世紀末)
長法寺南原古墳鏡A鏡(京都府長岡京市、前方後方墳、4世紀後半)
長法寺南原古墳鏡B鏡(     〃      )
西車塚古墳鏡(京都府八幡市、前方後円墳、4世紀後半)
長塚古墳鏡(岐阜県可児市、前方後円墳、4世紀末~5世紀初頭)
岐阜県円満寺古墳鏡(岐阜県海津市南濃町、前方後円墳、4世紀中~後半)
愛知県東之宮古墳鏡(愛知県犬山市、前方後方墳、3世紀後半~末葉)

 近畿から東海にまで分有が広がっているのです。ヤマト王権と同盟関係を結ぶ広範なネットワークが形成されています。また、長岡京市長法寺南原古墳からはこの鏡が2枚発掘されています。それは何を意味しているか。次のように考える説があります。“中国への遣使(卑弥呼・台与(とよ)の時代、数回の遣使記録がある)ごとに三角縁神獣鏡が輸入されたとすると、それによりヤマト王権は豊富に鏡を有していた。その鏡を同盟関係を結んだ各地の豪族に配布、分有し、特に重要な地域や功労のあった豪族には複数枚配布することもあったのではないか。”と。しかし「三角縁神獣鏡は百を単位に数えるほど多量に輸入されたとはいえ限りがあったから、それを補うかたちで仿製三角縁神獣鏡が日本列島において製作された。」(注6)男山・長岡・乙訓付近は水陸交通の要衝です。ヤマト王権としてはぜひともここを押さえる必要があったと思われます。それゆえ、淀川水系の両岸の勢力と強い同盟関係を結び、その証として三角縁神獣鏡を分有したといえるでしょう。また、椿井大塚山古墳から大量の三角縁神獣鏡が出土していますが、この木津川水系は北の桂川、東の宇治川それに巨椋池、西の淀川を通じて日本各地とつながっています。さらに王権の中枢に近く最重要拠点でした。だからこそ鏡の配布を担当する最高の役を持っていたのではないでしょうか。こうしてヤマト王権は山代(やましろ)や他の各要衝の勢力と同盟関係を結び、それらを押さえ支配を強め勢力を拡大していったと考えられます。

西車塚古墳の築造時期

 西車塚古墳の三角縁神獣鏡が配布されたのは、長岡京市の長法寺南原古墳築造とそれほど離れた時代ではなく、ヤマト王権がまだ鏡を多数保有していた初期のころで、鏡が足りなくなる時代=三角縁神獣鏡の仿製鏡を造る時代、までは下らない時期といえます。とすると西車塚古墳はいつごろ築造されたのか。西車塚古墳には舶載鏡と三角縁神獣鏡ではないですが仿製鏡がともに副葬されています。両方副葬されていたとなると古墳時代前期であっても初期ではないでしょう。そういうことと出土の腕輪型石製品、埴輪の編年、当時の王権中枢の古墳の形との相似性などを調べると、西車塚古墳の築造は4世紀の後半ごろと考えられます。しかし、後述しますがこの年代はまだ確定的ではありません。

ヤマト王権とのかかわり

 八幡に古墳が築造される4世紀後半という時代は、ヤマト王権に大きな変化がおきているときです。卑弥呼の墓といわれる3世紀中葉の箸墓(はしはか)古墳からはじまって、百数十年間大和東南部(天理市・桜井市辺り)に築造され続けていた200mを超す大型前方後円墳は4世紀中葉を最後に造られなくなり、かわりに奈良市北部・曾布(そふ)(添)の地域に大型前方後円墳が築造されるようになります(7基)。大和東南部から奈良市北部の地に移動していくのです(佐紀盾列(さきたたなみ)古墳群)。「なぜ移動したのか」については、(注7)の書籍が参考になります。今の平城宮跡の北側一帯、近鉄京都線・橿原線と国道24号線の間、その近辺にあります。
 葛城の地域にも大型の前方後円墳が次々と築造されます(馬見(うまみ)古墳群)。この古墳築造の時期が八幡での古墳築造の時期とピタリと重なります。奈良盆地北部は南山城とも近く、八幡の勢力とかなり関わりがあったと思われます。また、この時期は東アジア的にみれば中国の朝鮮半島出先機関だった楽浪郡(らくろうぐん)・帯方郡(たいほうぐん)が高句麗(こうくり)により滅ぼされ(313年)、高句麗の南下により朝鮮半島情勢が不安定になり、「広開土王碑(こうかいどおうひ)」(高句麗王広開土王=好太王(在位391~412年))にみられるように高句麗と百済(くだら)・新羅(しらぎ)・倭(わ)の勢力が盛んに争っていた時期でもあります。『三国史記』『日本書紀』にもその断片が記述されています。

八幡の古墳編年

 1986年に発行された『八幡市誌』の解説では、八幡での古墳築造編年(前後関係)は
茶臼山古墳→石不動古墳→西車塚古墳→東車塚古墳→ヒル塚古墳→王塚古墳

となっており、八幡の古墳築造はだいたいにおいて4世紀後半、ヒル塚と王塚古墳は5世紀前半~半ばと理解したものです。ところが、最近発行された文献をみると、4世紀後半という理解は多数としても、この古墳の編年に変化が生じています。八幡全体の古墳築造編年はまだまだ確定していないように思われます。例えば昨年(2016年)発行・発表された文献から、八幡の部分だけ抜粋してみますと次のようです。
茶臼山古墳→ヒル塚古墳→西車塚古墳→石不動古墳→東車塚古墳→王塚古墳(注8)
西車塚古墳→東車塚古墳→茶臼山古墳→石不動古墳(注9)
ヒル塚古墳→茶臼山古墳→西車塚古墳→石不動古墳→東車塚古墳→王塚古墳(注10)

 八幡で最も早くに築造されたのはどの古墳で、どういう勢力が掌握していたのか。茶臼山古墳だとすれば前方後方墳の勢力、西車塚古墳だとすれば前方後円墳の勢力、ヒル塚古墳だとすれば方墳の勢力ということになり、その勢力の基盤、格付けも変わってきます。全国の築造数は前方後円墳が約6400基に対し、前方後方墳は約500基(注11)といわれていますから、数としては前方後円墳が圧倒的に多いです。
 ちょっと古い資料ですが、1972年に発行された龍谷大学文学部考古学研究室『南山城の前方後円墳』に、男山グループの古墳の特徴がコンパクトにまとめられています。
「始原が前方後方墳であること。茶臼山古墳に引き続いて築造された古墳はいずれも100m前後の大型前方後円墳であり規模の点で南山城の最も大型の前期古墳であること、それに対し中期型の古墳はむしろ若干規模の縮小化を見ること、かつて前方後円墳ないし前方後方墳を築造してきた古墳群にあって、中期型の古墳はむしろ若干規模の縮小化を見ること、(中略)首長墓の系列のみで周辺に小規模な群集墓をもたないことなど、木津川を隔てた対岸の久津川(くつかわ)古墳群の様相と全く異り、むしろ淀川北岸の向日市古墳群に類似性が認められる。なお、首長墓が時期的に近接して築造される現象は、首長権の一系的な世襲制の未確定な様相を示すものとして注目されよう。」(『八幡市誌第一巻P133』)
 最初の古墳築造や古墳の編年をめぐっては、これからの研究を注視していく必要があります。(次回は「東車塚古墳とその三角縁神獣鏡について」考えてみます。)
 
(つづく)  


(注1)大塚初重『古墳辞典』,東京堂出版,1987
(注2)同じ天王日月と書いてあっても、方形枠内に「天王日月」とセットで描かれているもの、「天王」「日月」と2字ずつのものなどの三角縁神獣鏡があります。(小林行雄『古鏡』学生社)実際に鏡を見ると明らかに違いがわかるのですが、文字にすると似ているので注意が必要です。そこで研究者は「天王日月」セットの場合「天王日月」、「天王」「日月」の2字ずつの場合「天王・日月」、「天」「王」「日」「月」の一字ずつの場合「天・王・日・月」と区別して鏡名を表しています。
(注3)安本美典『三角縁神獣鏡は卑弥呼の鏡か』,廣済堂出版,1998
(注4)藤田友治『三角縁神獣鏡の謎をさぐる』,ミネルヴァ書房,1999
(注5)福永伸哉「三角縁神獣鏡と葛城の前期古墳」 『古代葛城とヤマト政権』,学生社,2003
(注6)岡村秀典「三角縁神獣鏡と伝世鏡」『古代を考える 古墳』,吉川弘文館,1988
(注7)白石太一郎「百舌鳥・古市古墳群出現前夜の畿内」『百舌鳥・古市古墳群出現前夜』近つ飛鳥博物館図録,2013
(注8)『平成28年度特別展山城の二大古墳群-乙訓古墳群と久津川古墳群』図録,京都府立山城郷土資料館、2016年10月
(注9)塚口義信『邪馬台国と初期ヤマト政権の謎をさぐる』原書房,2016年11月
(注10)岸本直文「山城の前方後円墳と古墳時代史」『文化講演会山城の王権の実像に迫る!!』,ふるさとミュージアム山城,2016年10月
(注11)大塚初重『「古墳時代」の時間』,学生社,2004


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# by y-rekitan | 2017-05-20 10:00 | Comments(0)

◆会報第78号より-04 五輪塔⑩

シリーズ「五輪塔あれこれ」・・・⑩
いかにして

野間口 秀國 (会員) 


 第1章「現場の解説板」を皮切りに五輪塔の不思議を探ってきました。しかしながら、当然と言えるかも知れませんがこれといった明確な回答は得られませんでした。だからと言って決して落胆している訳でもございません。「なぜ」、そう訊かれそうですが「明確な回答はそうそう容易には得られないのだ」と分かったからです。加えて、既に分かっているなら、図書館の書棚から回答が得られるのですから。そう言いつつも残された疑問が消えた訳では無く、「どのようにして造られたのか」、「どのくらいの費用がかかったのか」などに関する答えらしきものが無いのかとあがいてみたいと思います。

f0300125_20375992.jpg 第4章でピラミッドのことに触れましたが、あのような巨大な建造物がどのようにして造られたのか、について改めて書かれたことを読み直し、その一部を引用したいと思います(*1)。
「ピラミッドの建設方法についてもこれまで数多くの推測がなされてきたが、いまだに意見の一致はみられない。様々な仮説が挙げられているが、大きく分けると二つある。ひとつ目は大量の石材を運搬するために長い直線傾斜路を使用したという説、そしてもうひとつがピラミッドの周囲を取り巻くように傾斜路が渦巻形に造られたという説である」 さらに続けると「石材を曳くための道路を建設するのに、国民の苦役は実に十年にわたって続いたという」 とあります。

 また今日でも、大阪城にて見ることの出来る巨大な石が一体どのように積まれたのかを思う時、その作業がいかに困難を極めたかが容易に想像できるようです。瀬戸内の島々や沿岸の石切り場から切り出された石を、海岸まで移動して船で大坂へ運び、淀川を遡り、陸揚げ、さらに移動して積み上げる、そう考えるだけでも当時の最先端の土木建築や運搬技術が駆使されたであろうことが想像できます。石清水八幡宮の五輪塔も、橋本か八幡あたりで陸揚げされた石が大きな修羅(しゅら:運搬するそり状の道具)に載せられ、一ノ鳥居付近を経由して運ばれたのでしょうか。組み上げに際しては、クレーンなどの無かった時代のこと、五輪塔の部材の垂直方向への設置は、個人的には前述の「直線傾斜路を使用したという説」を取りたいのですが・・・・。

 ピラミッドや大坂城などの大規模建造物を造るのには、それぞれの時代に強大な力を持った為政者や集団の存在無しには語れませんが、五輪塔の造立もまた、規模が異なるとは言え中世においての寺社勢力の影響を考えざるを得ません。当時の石清水八幡宮も京の都の一角を護る宗廟として、公家や武家と並ぶ大きな力を有していたであろうことを思うと、五輪塔造立にも少なからぬ影響力があったのではないかとも思えます。

 ところで、この春の「探見 国宝 石清水八幡宮」と題する京都新聞の連載(*2)に五輪塔についての数々の逸話が書かれてあり、その最後にN氏の「どんな土木工事で完成させたのか」との思いも記されていました。私の最後の疑問でもある「いかにして / How」も、まさに氏の思いと同じであり、最大の興味でもありました。この最後の疑問に対して少しでも「回答」らしきものを得たくて、京都市内の滋賀越え道にあります石灯籠や各種石塔・京石工芸品などの創作を生業にされる西村大造氏を訪ねました。氏はご多用な中、私の疑問に専門的な立場でとても親切に教えてくださいました(*3)。

 素材となる原石は比叡山の山塊に存在する花崗岩が地表に出てきたものであり、白川の水流で削られ、洗われて原石が磨かれたものであること、また、不定形の原石は「石回し」と呼ばれる工程によって削られて、その体積のおよそ半分か3/5ほどしか商品には供せられないことなど、石材に関することから話は始まりました。また、原石のまま設置する場所へ運ぶには、重量を考えると不合理であり、石清水八幡宮の五輪塔の場合では、部品(地輪、水輪などの各輪)ごとの完成品もしくは半完成品(粗斫(あらはつ)り品、もしくは中斫(なかはつ)り品)の可能性が考えられること。加えて、完成品の場合には運送期間中に発生する破損のリスクなどを考えると、半完成品で運ばれたことが現実的と考えられる。などなどのことでした。

f0300125_20395890.jpg さらに、現地での組み立ては、現在のように大型重機やクレーンも無かった時代のことなので、それに代わる特別な道具が使われたようです。それは、二本の丸太を組み合わせて作る「フタマタ(ニマタとも呼ばれる)」と呼ばれる石の吊上げ用具であり、今でもクレーンの活躍できない場所での墓立てや記念碑などを建てるのに使用されているようです(*4)。フタマタに加えて、「麻ロープ」や「カッシャ(滑車)」や「ロクロ」などの専門用具を使用しながら、吊るしたり移動したりしてそれぞれの部品が設置されてゆくのです。また、五輪塔の組み立てに使われたフタマタの高さは、街なかの一般的な電柱の高さほどだったのではなかったか、とも、ロクロは人や牛の力で回しただろうことなども話していただけました。

 最後に、「費用はいかほどか」も尋ねましたが、現在でも「商品の大きさや設置場所、また素材の品質などで異なるので・・・」とのことでしたが、石清水八幡宮の五輪塔と同じような大きさ(20尺モノ)であれば、原石の手配が最も難しいこと、組み立てには建設用のクレーンが必要だろう、とのこともお話しいただけました。お話しの内容からは少なくとも8桁の数字ではないかと想像できました。ちなみに氏の手掛けられた最大の五輪塔は10尺モノ(約3.3m)であるとのことでした。

 前述の新聞連載(*2)にも「存在感、数々の逸話生む」と書かれていましたが、それぞれの塔には、それぞれのいわれが語り継がれています。そのことに関して氏は、「すべてが正しいとは言えないだろが、それなりの訳あって語られているのだろうから・・・」と語られました。そして最後に、とても興味深い話をいただき五輪塔のさらなる不思議を感じずにはおられませんでした。それは、「多くの五輪塔には確かに刻銘が見られないが、他の作品(彫像品や鋳造品)などと同じように、その体内に何らかの記録が残されている可能性はあるかもね」と語られたことです。

 最後に数々の貴重なお話をお聞かせいただきました西村大造氏に、そして、最後までお付き合いいただきました皆様に紙面をお借りしてありがたく感謝申し上げます。
 (本章をもってシリーズを終わります)--


参考図書・史料・資料など;
(*1)建築法の仮説例説明及びイラストは『ピラミッドの歴史』大城道則著・河出書房新書刊
(*2)京都新聞連載記事・2017.3.1付け(探見 国宝石清水八幡宮 五輪塔)
(*3)五輪塔関連事項は株式会社西村石灯呂店の西村大造氏に聞く
(*4)「フタマタ」の説明の一部、および写真は『牟礼・庵治の石工用具』香川県牟礼町教育委員会刊より引用


この連載記事はここで終りです。       TOPへ戻る>>>

# by y-rekitan | 2017-05-20 09:00 | Comments(0)

◆会報第79号より-05 八幡合戦

『太平記』八幡合戦の石碑を訪ねる

谷村 勉 (会員)


 「八幡合戦」の石碑は京阪八幡市駅から近く、男山山上の御本宮や護国寺跡より中ノ山墓地・正平塚まで凡そ片道4kmの距離にある。途中、歴史的な道標、
石碑を沢山目にするが、今回は「八幡合戦」(正平の役)に関連する道標をピックアップしました。八幡市民図書館横の⑥「園殿口古戦場」石碑を見た後はそのまま南へ旧街道の面影を残す旧道を歩き、突き当りを右に折れて、神原交差点から、さらに南の志水道に入るコースをお薦めします。
 なお、本記事で紹介の石碑等の場所は、下図に矢印と石碑番号を記入しています。
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① 護国寺薬師堂跡碑 (八幡高坊)
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 正平の役で山上における後村上天皇の行宮になったと思われるのが護国寺です。「八幡合戦」の終盤、ここから志水大道に下り、賀名生(あのう)まで多大な犠牲を払いながら脱出に成功した。明治の廃仏毀釈で建物は無くなるが、永く当山根本精舎の役割を担ったところで、八幡宮遷座以前、行基菩薩の開基と伝わる。本宮東門よりケーブル乗り場の道を左にみて、真直ぐ階段を下った左の広場が護国寺跡地になる。
 慶応2年(1866)発行の「八幡山案内絵図」にはほぼ中央に護国寺が描かれ、南側には琴塔や伊勢遥拝所が、西には大西坊へと案内する今も現存の大きな常夜燈が見える。護国寺本尊であった重要文化財の薬師如来や十二神将は廃仏毀釈以降、淡路島の東山寺(とうさんじ)に移され、現在も素晴らしい保存状態で大切に祀られている。

② 八幡行宮跡碑 (八幡市八幡土井)
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 飛行神社から南へ約30mの行宮碑、左に折れると後村上天皇行宮跡碑がある。

③ 後村上天皇行宮跡碑 (八幡垣内山) 
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 当時はこの周辺に石清水八幡宮祠官の田中家の広大な屋敷が在り、正平7年(1352)閏2月19日八幡宮別当田中定清の邸宅を行宮とした。

④ 青林院の正平役供養塔 (八幡旦所)
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 念仏寺の東隣、正福寺の向かいの「青林院」裏の墓地にある。表からは入れず、写真左の横道から南へ抜けると墓地に到る。青林院より東に信号を越えて行くと森堂口、薬園寺に続く道となる。
 この青林院は昭和19年(1944)「中ノ山墓地正平塚」を整備した今中伊兵衛氏が得度・隠居した寺です。

⑤ 正平役城ノ内古跡 (八幡城ノ内) 本妙寺
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 青林院から「八幡宮道」に戻り、更に南に進んで大谷川の「買屋橋」を越えて暫く行くと右手の「本妙寺」に到る。当時の実際の現場は城ノ内の南側からスーパー「コノミヤ」辺り一帯であったらしい。

⑥ 正平役園殿口古戦場 (八幡菖蒲池) 八幡市民図書館横
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 八幡市民図書館横の「園殿口古戦場」の三宅碑は本来の場所から移動している。「園殿口」とは江戸中期の「石清水八幡宮全図」等によると、現在の「法園寺」から東の川口方面に向かった大谷川の辺りを指すが、三宅碑は「小谷食堂」(八幡山本)近くの三叉路東南角付近(八幡菖蒲池)に設置されていた。道路工事等で現在の場所に移転したようだが、園殿口から大きくずれている。(図書館ロビーに江戸時代中期の「八幡宮山上山下惣絵図」あり)

⑦正平役馬塚古跡 (八幡東林)
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 志水道(八幡宮道)を登りきった「志水の四辻」にある内藤精肉店を左に入り、「ありあけ児童公園」を左に見てやや下り、二本目の筋を左に入ったところに「三宅碑」がある。八幡合戦では戦場の主力武器は弓矢であり、その死傷原因も殆んどが矢疵であった。四条隆資卿が斃れたのもこの道筋辺りであろうか。

⑧ 正平役血洗池古蹟 (八幡大芝)
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 志水道(八幡宮道)を松花堂庭園近く、「水月庵」の道標を見て右(旧道)に入り、八角堂を少し越した所に「三宅碑」がある。この古蹟からすぐ左の志水道を行くと中ノ山墓地に出る。血洗池とは古くは西車塚周濠溝の跡。「往古死罪人御成敗の時、太刀取刀をすすぎ候池と申伝え、其池茅原生茂りて名に呼びしか、血アライと称して、あやしき附言のさかしらを云伝えたるものならむ」と『男山考古録』(江戸後期の八幡の詳細な地誌)にあり。

⑨ 正平七年神器奉安所「岡の稲荷社」の道標 (八幡月夜田)
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 血洗池石碑から南に進み、中ノ山墓地を見て道路の坂を下りると、月夜田交差差点の東南の角に「岡の稲荷社」の三宅碑が見える。中ノ山墓地へは西に坂を登り返す。正平七年(1352)五月、八幡合戦に敗れた後村上天皇が賀名生に落ちのびる際、岡の稲荷社に神器を隠し置いたとするが全く不明です。

⑩ 中ノ山墓地東入口     ⑪ 正平塚遠景 (八幡中ノ山)
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 月夜田交差点から西に約50m坂を登ると中ノ山墓地東入口に到り、階段を登りきると、左方向に楠木の大木が目に入る。ここが正平塚です。

⑫ 四条隆資卿塔並びに将卒三百人墓
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 戦時中の昭和19年(1944)に慧俊信海(けいしゅんしんかい)(今中伊兵衛)によって、この正平塚は整備された。城ノ内町の畳商を営む今中伊兵衛は史跡松花堂の前所有者西村芳治郎氏の実弟でもある。今中の整備の20年前に西村芳次郎が東西20間、南北15間の敷地を定め、石柱を四方に立て保存に努めた。東口と北側にある「正平塚古墳」の石碑は昭和2年のいわゆる「三宅碑」である。
 昭和の初めころから塚は荒廃し、放置すれば南朝忠臣の四条隆資らを祀る塚が消滅することを危惧した今中伊兵衛は自費数千円を投じて整備した。
(この項のみ、京都府立大学文化遺産叢書第4集・中ノ山墓地の景観と庶民信仰:竹中友里代著から要約)

⑬ 三古碑      
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 正平の役で斃れた3人の公卿の古碑であるが詳しいことは判っていない。

【歴史を重ねた八幡宮道】

 最近、八幡東麓の道を「東高野街道」という人もいるが、近年観光客誘致の目的で、平成の歴史街道運動に乗って行政が名付けたと聞いています。実はその名称は八幡の洞ヶ峠を起点とする大阪側の道の呼び名であって、八幡の住民はこれまで殆ど「八幡宮道」の歴史的呼称を使用するか、町名を冠した例えば「志水道」、「常盤道」あるいは「新道」、「旧道」などと呼んできました。観光客や八幡の歴史に関心のない人が残念ながら「東高野街道」と呼ぶようです。
 特に近世以前、八幡の歴史上に存在したかのような記述があれば、それは歴史の理解不足であり致命的な錯誤となります。ここでは、「石清水八幡宮参詣道」として発展してきた歴史的経緯を踏まえた名称を使用します。

  主な参考文献:男山考古録 (嘉永元年・1848) 長濵尚次
        :八幡史蹟 (昭和11年・1936) 中村直勝
        :京都府立大学文化遺産叢書第4集(平成23年・2011) 
--------- 中ノ山墓地の景観と庶民信仰:竹中友里代
# by y-rekitan | 2017-05-20 08:00 | Comments(0)

◆会報第79号より-06 四條隆資①

シリーズ「四條隆資卿」・・・①
四條隆資卿しじょうたかすえきょう物語  その1
プロローグ「正平の役」

 大田 友紀子(会員) 


 去年の夏の祇園祭に、初めて、八幡の人々に向けてのツアー(やわた観光ガイド協会主催)が実施されましたので、「太平記」の中でも、マイナーな四條隆資卿(しじょうたかすえきょう)についても、ご存じの方もいらっしゃるかな、と思いますが、まだまだこの八幡の地で起こった「八幡合戦」のことも、その戦闘の中で斃(たお)れた一人の公家・四條隆資卿(しじょうたかすえきょう)のことも、知らない方の方が多いのかなぁ、と思っております。

f0300125_2115593.jpg そこで、今回、四條隆資卿のことを、より多くの八幡の方々に知っていただきたい、と思って書かせていただきます。タイトルを「四條隆資卿物語」とさせていただきました。この間、あることから、「物語」とは、「往古(いにしえ)の記憶を語り伝えるもの」だ、と知りました。であるならば、私たちは、正しく伝えて行く努力をしなければならない、と強く思いました。以前から、私は「南北朝期の八幡」についての研究を続けてきました。そして、その中で、最も私が残念に思っていることは、この八幡の地で何百人もの人々が戦い傷つきあった悲惨な戦いがあった、ということを知らない、伝わっていないことなのです。
 平成21年の春、偶然知った「正平塚古跡(しょうへいつかこせき)」の存在が、私の研究の原点です。奇しくも亡き母の墓などがある中ノ山墓地にあり、昭和の初め、それから、昭和19年にその「正平塚古跡」の整備を行った人たちがいた、ということでした。そして、その中ノ山墓地は、江戸時代、志水の壮士などの墓が営まれるようになっていて、正法寺(しょうぼうじ)の末寺である万称寺(まんしょうじ)の裏山にあり、「女郎花墓(おみなえしぼ)」と呼ばれていました。そんな変遷の歴史があったことを、私たちは知らなければいけないのではと強く思いました。中ノ山墓地は、南山城で、いいえ、日本でも古くて大きい共同墓地です。そこには、往古からの歴史が蓄積されているのです。
 
 正平塚で眠っている四條隆資(1292-1352)は、鎌倉―南北朝期の公卿です。公卿とは、三位以上の貴族で、天皇・上皇の元で政治の中枢にいた人たちです。四條家は白河上皇の乳母子であった藤原顕季(ふじわらのあきすえ)にはじまる家系で、そのひ孫にあたる隆季(たかすえ)が大宮四条に邸宅を構えたことから、「四條」を家名とします。藤原氏の北家の流れをくむ家ですから、家名(本姓)は「藤原」ですから、通姓です。そして、貴族の家格では「羽林家(うりんけ)」に属し、家職としては笙(しょう)の家です。「羽林家」は天皇の傍に仕える立場の家で、武官と文官の家があります。武官の家である四條家の男子は近衞府に出仕して、天皇の身辺警護などの任務を負い、行幸などの際には付き従います。そして、娘は女房として御所に出仕し、天皇の身支度やその他すべての世話をするのですから、天皇のお手がつくことがあり、その結果、皇子・皇女を生むこともありました。そして、娘が皇子を生むと、その縁故により政治の中枢を担うことがありました。御所に仕える娘を何人も出してきた四條家なので、隆資にも伏見天皇の御落胤では、という話もあります。このことについては、次回、詳しく書かせていただきます。
 祇園祭の山である蟷螂山(とうろうやま)と、石清水八幡宮本殿の北東の瑞垣(みずがき)にあるカマキリの彫刻と関連は、昔から神職間で語り伝えられていたそうで、そのことからか、明治の初めの火災で燃えた蟷螂山の復興時には、石清水八幡宮本殿の瑞垣のカマキリの彫り物を参考にして、御所車に乗るカマキリ、すなわち蟷螂が復元されます。そのことについて尋ねると、現在の禰宜さんは、そのように聞いている、と答えられます。そして、この話からも、ぼんやりとですが、瑞垣の蟷螂と四條隆資卿との間には、何か深いつながりがあるのでは、思われてくるのですが。
 八幡宮本殿の蟷螂の彫刻と、四條隆資卿のことは、以前、当会の会報・17号に書かせていただきましたので、省略させていただきますが、今日でも不明な点は残っておりますが、そのような口承が伝え続けられてきたという事実は重要です。このことについては、今後の課題として、話を進めていきたいと思います。
 南朝の元号でいえば、正平7年(1352)5月12日夜半、八幡山に籠城を続けていた後村上天皇は、賀名生(あのう)への撤退を決められ、行宮としていた護国寺を去ることを決意されました。そして、石清水八幡宮宝前(今は南総門前の石段の下に隠れてしまった五つ石の所)にて、八幡大菩薩にお暇乞いをされると、八角堂の前を横切り、西谷小門より、山を下りて行かれました。左側に渓流が流れる山道を、先頭の兵が持つ小さなかがり火を頼りに粛々と、隊列は静かに進んで行きました。先頭の軍が志水大道に差し掛かる頃、後村上天皇は興正谷の庵におられ、祈りを捧げてられました。最期の別れの時を迎え、控えていた四條隆資卿は、「何事が起ころうとも決して後ろを見ることのなきよう、ただただ鞭をとり、馳せられるように。」と甲冑姿の25歳の若武者である後村上天皇に約束させて、近侍の法性寺康長(ほっしょうじやすなが)、滋野井實勝(しげのいさねかつ)の手を取って激励し、出発させます。夜の帳(とばり)が垂れこめている間に、志水大道を進み、その四辻を東に駆け抜けさせたかったのですが、志水の町の手前で赤松則祐(あかまつのりすけ)の配下の兵に気づかれ、その軍の大半は洞ヶ峠を目指す第一軍を追いかけたのですが、中には戻ってくる兵もあり、瞬く間に後続の兵との戦闘が始まりました。一刻一刻、戦いの渦が大きくなって行く中、法性寺康長らに護られて、後村上天皇は奈良街道へと向かって馬を走らせたのです。上奈良の村を過ぎ、木津川沿いを突き進んで行き、奈良の唐招提寺に着いた時には、8騎ほどになっていたことや兵の中に紛れて誰が今上帝なのかわからなかった、と唐招提寺の僧がその時の様子を詳しく書いて、京都の洞院公賢(とういんきんたか)の元に送っています。
 その日の申の刻(朝の10時)には西大寺の前を過ぎ、三輪に着いています。八幡の陥落と脱出の困難であった有様がよく伝わってきます。5月13日の朝には、八幡合戦の首級が京に続々と持って来られ、すぐさま六条河原に晒されました。その日、洞院公賢は「随分合戦し遂に取らる、不便(気の毒だ)」と記しています。
 四條隆資卿や滋野井實勝、そして多くの将兵が闘死した場所は、記録にはありません。f0300125_2125260.jpgですが私は、その当時「志水の四辻」と呼ばれていた、現在の内藤精肉店の付近では、と考えています。と言うのも、精肉店の北側に出来た公園の中にあるお社・『荒鈴龍王(あらすずりゅうおう)』の存在が、そんなことを考えさせるのです。それくらい立派な弊額が掛かっているお社です。想像たくましくいえば、その時にその地に埋葬された後、その上には『荒鈴龍王』社が祀られましたが、その後、なんらかの事情で中ノ山墓地に改葬され、それが「正平塚」となったのでは、と想像しています。八幡神領内での戦の後、戦死者たちはきっと手厚く葬られたと私は信じています。
 今年も、もうすぐ7月、京都では町衆の心意気が感じられる祇園祭が始まります。その頃に、今年も蟷螂山町などを訪ねるツァーが予定されています。今年こそ私は、組み立てられたばかりの蟷螂山を舁(か)いでみたい、と思っています。この毎年12日から13日に行われる先祭の山舁(やまかき)初めに参加すると無病息災が約束されると、いわれています。 
(つづく)  

           
(京都産業大学日本文化研究所 上席客員研究員)  


【参考文献】
京都府立大学文化遺産叢書第1集「近世後期八幡神領の病・死・墓」東昇著
京都府立大学文化遺産叢書第4集「中ノ山墓地の景観と庶民信仰」竹中有里代著
角川選書―222「内乱のなかの貴族」林屋辰三郎著



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# by y-rekitan | 2017-05-20 07:00 | Comments(0)

◆会報第79号より-07 三宅碑⑧

《続》 2016年1月度の講演会より

『三宅安兵衛遺志』碑と八幡の歴史創出
その8

―松花堂・東高野街道・天皇聖蹟・綴喜郡―

中村 武生  (京都女子大学非常勤講師)



西村芳次郎による史蹟空間の創出と文化財保護

 三宅清治郎の建碑意図についてはすでに論じましたので、つぎは西村芳次郎のそれを論じます。西村には清治郎とは明らかに異なるいくつかの独特な建碑方針がありました。西村の多数の建碑は、これまでの三宅碑の特徴にどんな性格を加味したのでしょうか。以下「日記」や西村の著作、建立碑銘などによって考察を進めます。

 まず西村芳次郎選択による三宅碑が、どの程度の地理的範囲に建設されたのか、おおよそ特定しておきたいと思います。
「日記」によれば、1926年(大正15)秋から翌年(昭和2)春にかけてまとまった建碑依頼を3度しています。すなわち1926年10月23日に20ヵ所、1927年3月12日に40余ヵ所、同年4月3日に68ヶ所、あわせて約130ヵ所です。いずれも「同地ニ」「同地附近ニ」などと記されているため、八幡町やその付近に建てられたことが分かります。
 前述したように、芳次郎には八幡とその周辺の史蹟名勝についていくつかの著作があります。その大半は三宅碑建立の1921年から1929年のさなかか、その直後に書かれたため、碑の建立地選択と密接な関係があると考えられます。とりわけ「八幡史蹟名勝記(誌)」「南山史蹟名勝誌」『昭和三年八幡史蹟名勝誌』(前述)は注目すべきです。このうちまとまっている『昭和三年八幡史蹟名勝誌』の項目を列挙したのが表1です。これを表2と比較してみよう。すると酷似した項目の大変多いことに気づかれます。実に132に及びます。これまでの考察から、一致するものは芳次郎の建てた三宅碑と判断してよいと思います。

表1 『昭和三年八幡史蹟名勝誌』項目一覧
1.石清水八幡宮
2.神宮寺跡
3.引窓南旧跡
4.常昌院
5.航海安全記念塔
6.神応寺
7.鳩ヶ峯国分寺跡
8.天皇潔水
9.豊蔵坊跡
10.泉坊松花堂跡
11.滝本坊跡
12.萩坊跡
13.大西坊跡
14.護国寺薬師堂跡
15.財恩寺跡
16.高橋陣所跡
17.反橋跡放生川
18.安居橋
19.淀屋辰五郎旧邸
20.単伝庵
21.戊辰役史蹟念仏寺
22.大河内秀元墓正福寺
23.国宝薬師像薬薗寺
24.源頼朝公手植ノ枩
25.山ノ井戸
26.松花堂旧跡泰勝寺
27.城之内古跡
28.日門上人塔本妙寺
29.園殿口戦場跡
30.法園寺
31.小野頼風塚
32.金剛律寺故址
33.善法律寺
34.巡検道
35.寝物語国分橋
36.巣林菴
37.忍澂寺昌玉菴
38.興聖谷不動寺
41.正法寺
39.新善法律寺
40.九品寺42.弘仁時代一里塚
43.正平役馬塚跡
44.八角院
45.元三大師堂
46.西車塚
47.女郎花塚
48.月の岡邸
49.泉之坊書院
50.松花堂茶席
51.車寄門
52.東車塚
53.血洗池跡
54.男塚
55.一宮入道塚
56.岡の稲荷之社
57.所天橋
58.佐羅志戦場跡
59.清水合戦跡
60.御幸谷古跡
61.蛇塚古墳
62.蛭塚古墳
63.宇智王子故址
64.岩田社
65.荒阪古戦場跡
66.荒坂横穴古墳
67.松井横穴古墳
68.古寺跡
69.美濃山古墳
70.美濃山横穴古墳
71.王塚古墳跡
72.小塚古墳跡
73.東二子塚古墳跡
74.西二子塚古墳跡
75.筒井順慶陣所跡
76.洞ヶ峠古墳
81.中ノ山古墳跡
77.円福禅寺
78.水月菴
79.太古山古墳
80.涙川旧跡
82.紅葉寺宝青菴
83.万称寺跡
84.正平塚
85.吾妻与五郎墓
86.大芝古墳跡
87.初陣山古墳
88.石城古墳
89.茶臼山古墳
90.樟葉宮
91.和気清麿公旧跡足立寺
92.豊蔵坊信海墓
93.浄瑠璃姫墓
94.長柄人柱地蔵尊講田寺
95.南岩倉跡
96.如法経塚跡
97.塩竃古跡
98.湯沢山茶久蓮寺跡
99.元橋本寺西遊寺
100.八幡橋道標
101.川口渡舟場
102.下奈良浜渡舟場
103.経塚
104.獅子塚
105.岩田渡舟場
106.八幡宮近道標
107.善法寺旧邸
108.東在所道標
109.小野篁作閻魔十王像
110.樟葉橋本近道標
111.水月菴道標
112.神器保安所岡の森稲荷道標


表2 『木の下蔭』所載「建碑個所」一覧
番号は便宜上筆者が付した。なお原則正字は略字に改め、字句の明瞭な誤りは正した。
1.東山名勝の碑
2.栂尾山高山寺の碑
3.西陣の碑
4.金福寺の碑
5.京都七名水の一中川の水の碑
6.嵯峨一帯の碑
7.左々への碑
8.東照宮の碑
9.南院国師塔所の碑
10.松永貞徳翁造庭雪の庭の碑
11.金地院墓所水道の碑
12.仏日山金福寺芭蕉菴の碑其の一
13.金福寺呉春の墓の碑其の二
14.同景文の墓の碑其の三
15.金福寺蕪村の句碑其の四
16.金福寺近道の碑其の五
17.桂宮院の碑
18.長沢蘆雪の碑
19.太秦西門の碑
20.関白豊臣秀次公の碑
21.円光寺の碑
22.豊臣秀次公墓所の石柵幷に碑其の二
23.殉死侍臣の碑其の三
24.局方の碑其の四
25.大悲閣の碑其の一
26.詩仙堂の碑其の一
27.同其の二
28.航海記念大石塔の碑
29.善法律寺の碑
30.水月庵の碑
31.国分寺址の碑
32.八角院の碑
33.滝本坊址の碑
34.涙川の碑
35.正平の役、高橋陣趾の碑
36.大西坊の路の碑
37.豊蔵坊の碑
38.大河内秀元墓碑
39.本妙寺の碑
40.九品寺の碑
41.西遊寺の碑
42.放生川反橋の碑
43.一の宮入道塚の碑
44.山科昆沙門堂の碑其の一
45.同其の二
46.松花堂の碑
47.正法寺の碑
48.円福寺の碑
49.同其の一
50.同其の二
51.泉坊、松花堂址の碑
52.神宮寺址の碑
53.引窓南邸の碑
54.護国寺薬師堂の碑
55.単伝庵の碑
56.薬園寺の碑
57.正平の役城の内古蹟の碑
58.水月菴の碑其の二
59.湯沢山茶久蓮寺の碑
60.万称寺山の碑
61.岡の稲荷社の碑
62.清三宝荒神護浄院の碑
63.神応寺の碑
64.小野頼風塚の碑
65.紅葉寺の碑
66.淀屋辰五郎居宅趾の碑
67.萩の坊址の碑
68.東車塚の碑
69.洞ヶ峠の碑
70.財恩寺の碑
71.源頼朝手植の松の碑
72.安居橋の碑
73.戊辰役史蹟念仏寺の碑
74.山の井戸の碑
75.忍徴寺昌玉菴の碑
76.薪の酬恩菴一休寺の碑
77.正平役園殿古戦場の碑
78.血洗池の碑
79.美濃山横穴の碑
80.東二子塚古墳址の碑
81.巣林庵の碑
82.正平塚の碑
83.同其の一
84.同其の二
85.男塚古墳の碑
86.佐羅志古戦場の碑
87.蛭塚古墳の碑
88.岩田社の碑
89.松井横穴の碑其の一
90.同其の二
91.万福寺址の碑
92.石城古墳の碑
93.和気清麿公旧蹟の碑
94.如法塚の碑
95.橋本分水道の碑
96.新善法寺旧跡の碑
97.中の山古墳の碑
98.西二子塚古墳址の碑
99.吾妻与五郎の墓の碑
100.御幸谷古蹟の碑
101.常昌院地蔵尊の碑
102.法園寺の碑
103.高野及奈良街道の碑
104.清水合戦址の碑
105.宇智王子邸址の碑
106.荒坂古戦場の碑
107.王塚古寺址の碑
108.筒井順慶陣所址の碑
109.大芝古寺の碑
110.茶臼山古墳の碑
111.浄瑠璃姫墓の碑
112.塩竃古跡の碑
113.京街道里程標の碑
114.正平俊馬塚古墳の
(ママ)
115.佐川田喜六昌俊の墓の碑
116.太古山古墳址の碑
117.豊蔵坊信海墓の碑
118.王塚の碑
119.円福寺分岐道の碑
120.弘仁時代一里塚の碑
121.所天橋の碑
122.蛇塚古墳の碑
123.福王寺の碑
124.荒坂横穴の碑
125.小塚古墳の碑
126.洞ヶ峠古墳の碑
127.初陣山古墳の碑
128.樟葉宮の碑
129.南岩倉の碑
130.橋本、樟葉の道の碑
131.八幡宮道の碑
132.寝物語国分橋の碑
133.佐川田墓道の碑
134.黙々寺旧址の碑
135.奈良街道巡検道の碑
136.善法寺旧蹟の碑
137.川口渡舟場の碑
138.小野篁公作十三像の碑
139.日本最初外国蚕飼育旧蹟の碑
140.近衛基道公墓の碑
141.水番遺蹟の碑
142.天王山城蹟の碑
143.祝園神社の碑
144.旧淀橋の碑
145.淀学校天皇御駐輦の碑
146.兆殿司及五条三位藤原俊成卿墓の碑
147.同其道の碑其の二
148.同同其の三
149.同同其の四
150.天武天皇御遺址の碑
151.岩本城址の碑
152.大応国師妙勝寺址の碑
153.金剛律寺故蹟の碑
154.経塚の碑
155.男山八幡宮近道の碑
156.大阪街道の碑
157.継体天皇皇居旧蹟の碑
158.蘭学の泰斗藤林普山先生の碑
159.仁徳天皇、皇后、磐之姫故蹟の碑
160.石舟神社の碑
161.安養寺の碑其の一
162.唐人雁木の旧蹟の碑
163.千両松の旧蹟の碑
164.ケーブルカー上石清水八幡宮の碑
165.淀街道の碑
166.青谷街道の碑
167.信楽街道の碑
168.双栗寺の碑
169.信西入道塚の碑
170.北嵯峨覚勝院の碑
171.常昌禅院の碑
172.獅子塚の碑
173.志水町の碑
174.南山城不動寺の碑
175.近衛基道公遺蹟の碑
176.水取司遺蹟の碑
177.仁徳天皇城旧蹟の碑
178.朱智神社の碑
179.淀大橋の碑
180.戊辰役古戦場の碑
181.松花堂遺蹟の碑
182.洞ヶ峠山上の碑
183.佐山大松寺の碑
184.佐山浄安寺の碑
185.御栗栖園の碑
186.施基皇子故址の碑
187.茶祖永谷翁の碑
188.宇治茶最初園の碑
189.禅定寺の碑
190.武野紹鷗大黒天の碑
191.祇王寺の碑
192.大覚寺道の碑其の一
193.高雄道の碑
194.日像上人の碑
195.道昌大僧正の碑
196.名古曾の滝址の碑
197.遍照寺の碑
198.神魂丘旧墳の碑
199.西方寺袋中上人墓の碑
200.能化院の碑
201.亀山離宮の碑
202.野々宮の碑
203.蓮華峰寺高雄道の碑
204.蟹満寺の碑
205.筒井浄妙塚の碑
206.医王堂址の碑
207.西行菴の碑
208.光琳翁宅址の碑
209.あだし野(仇野)の碑
210.熊谷山の碑
211.嵯峨離宮址の碑
212.車折神社道の碑
213.北嵯峨曲り角の碑
214.小倉山の碑
215.井手飯岡王古墳の碑
216.桜井令穿七井戸の碑其の一
217.同其の二
218.同其の三
219.同其の四
220.同其の五
221.同其の六
222.同其の七
223.和岐座天乃夫岐売神社の碑
224.猿丸太夫故址の碑
225.綜芸種智院の碑
226.三十三間堂の碑
227.御室、北野道の碑
228.嵯峨天皇仙洞址の碑
229.亀山公園道の碑
230.角の倉の碑
231.直指菴の碑
232.歌仙洞の碑
233.朱大王古墳の碑
234.穴山梅雪翁墓の碑
235.日野薬師の碑
236.普賢寺の碑
237.厭離庵の碑
238.嵯峨天皇、宇多天皇陵の碑
239.用水開鑿豊田翁旧蹟の碑
240.高倉宮以仁王旧蹟の碑
241.虚空蔵尊の碑
242.仏母洞の碑
243.泉橋寺の碑
244.高雄道しるべの碑
245.甕ヶ原離宮址の碑
246.恭仁大極殿址の碑
247.橋本砲台址の碑
248.釈迦堂の碑
249.観空寺道の碑
250.九体寺(浄瑠璃寺)の碑
251.西芳寺の碑其の一
252.西芳寺道しるべの碑其の二
253.宇治駅前の里程標の碑
254.志水月の岡前の碑
255.八角堂の碑
256.石清水社の碑
257.興聖谷不動尊の碑
258.古寺の旧蹟の碑
259.十王像焔魔堂
260.落柿舎の碑
261.神童寺の碑
262.長建寺弁財天の碑
263.瓶の原国分尼寺の碑
264.恭仁橋跡の碑
265.嵯峨駅の碑
266.下立売、妙心寺道の碑
267.加茂笠置分岐点の碑
268.鋳司村学校の碑
269.大覚寺の碑其の二
270.同大沢の池の碑其の三
271.同南北朝御講和の碑其の四
272.同其の五
273.同其の六
274.女郎花塚の碑
275.鳩ヶ峰国分寺の碑
276.元三大師堂の碑
277.宇智王子陵墓の碑
278.木津橋の碑
279.高麗寺旧址の碑
280.一言寺の碑
281.国分尼寺道標の碑
282.海住寺の碑
283.嵯峨弁財天道の碑
284.小倉山近道の碑
285.笠置、和束分岐道の碑
286.笠置山上の碑
287.同弥勒石の碑
288.同薬師石の碑
289.笠置山上文殊石の碑
290.同虚空蔵石の碑
291.六本松の碑
292.天皇潔水の碑
293.西車塚の碑
294.長柄人柱地蔵尊講田寺の碑
295.戸津道標の碑
296.岩田渡舟場の碑
297.開運山寿宝寺の碑
298.よし峰寺其の一
299.同其の二
300.同其の三
301.法泉寺の碑
302.薪能金春の芝の碑
303.称名寺の碑
304.光明寺の碑
305.田原天皇旧蹟の碑
306.西芳寺の碑其の三
307.建武役の碑
308.井手の山の碑
309.筒井陣所東二子塚の碑
310.美の山の碑
311.八幡橋の碑
312.正平塚古墳の碑
313.碁道名人第一世本因坊算砂日海上人の旧蹟の碑
314.法皇寺の碑
315.水無瀬神宮其の一
316.同其の二
317.同其の三
318.同其の四
319.専念寺の碑
320.真言宗寿宝寺の碑其の二
321.山滝寺遺址の碑
322.水薬師の碑
323.宇治田原の碑
324.松井蔵人舘址の碑
325.橋本道の碑
326.戻橋跡放生川の碑
327.相楽の里の碑
328.如法経塚の碑
329.大悲閣の碑其の二
330.妙喜菴の碑其の一
331.妙喜菴の碑其の二
332.安養寺の碑其の二
333.同其の三
334.同其の四
335.同其の五
336.華台寺の碑
337.広沢の池の碑
338.梨間の宿址の碑
339.橘諸兄公古蹟寿福院の碑
340.京都街道の碑
341.長池旧跡の碑
342.赤良浜の渡舟場の碑
343.神宮寺址の碑
其他略之


f0300125_23365044.jpg くわえて同年11月11日には「水無瀬宮の碑外数ヶ所建石の事申込」んでいるため、八幡周辺にとどまらず京都府を越えて大阪府下の建碑にも関わっていると知れます。その他、1930年(昭和5)12月5日には清治郎が芳次郎を訪ね、「綴喜郡田原村字荒木区光島市次郎氏(略)の田原親王址、山栗寺址、の石碑訂正ニ付き書状三通を示し取調べ分を依頼」しています。さらに「日記」に記載はありませんが、前述したように佐藤虎雄の回想や当時の新聞記事により笠置町まで出向いたことがわかります。実際笠置山の麓や中腹に三宅碑は現存しております。
 これに対してこの時期の清治郎自身の建碑範囲は、すでに紹介した乙訓郡向日町や同長岡町、葛野郡北嵯峨地域、洛中西陣にくわえて洛東南禅寺などで、京都市域や洛西北嵯峨、乙訓に限られます。洛南地域の建碑にはほとんど関わっていません。例外は一休寺で、1926年(大正15)8月2日に建碑の申し出をして以来(前述)交流があるようで、「日記」1927年(昭和2)12月28日条にも「○早朝、田辺の一休寺住職来、大応国師其地妙勝寺趾、并ニ佐川田昌俊氏の墓道標等の建石竣工の挨拶、感謝状持来来宅、中村石匠も来宅」とあります。ただし妙勝寺や佐川田昌俊は松花堂昭乗に関係の施設・人物であるので芳次郎の意志も含まれていると判断されます。これは後述します。
 以上のことから、西村芳次郎の建碑範囲は、主に八幡町を中心とした旧綴喜郡、及び相楽郡、大阪府下であったと判断されます。
                             (つづく)

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# by y-rekitan | 2017-05-20 06:00 | Comments(0)

◆会報第79号より-08 連続学習会

「八幡の歴史を学ぶ連続学習会」
2016年度実施報告

野間口 秀國 (八幡の歴史を探究する会 幹事)


 去る3月16日(木)に2016年度の「八幡の歴史を学ぶ連続学習会」も当初計画の全6回を無事に終えることができました。テキストとして活用しました『歴史たんけん八幡』刊行に至る経過や、学習会開催までの経過を簡単に振り返りながら、ご支援いただきました方々への感謝をお伝えいたし、実施報告をさせていただきます。

 手許のノートに、走り書きですが次のような簡単な3項目のメモが残されていました。
2014.4.28(月) 幹事会の打合せ;
1)「出版事業の推進」、
2)着手準備金は余剰金より捻出する、
3)2016年3月の発刊を目途とする。
 この幹事会メモ以降の、「会報」から拾える発刊に関する記事は、「会報」第51号を皮切りに以下の通りでした。

「会報」51号(2014.6.30刊);
是枝昌一代表幹事(当時)の「会報50号発行の節目を迎え」と題する投稿に、「・・・仮称『親子で学ぶ八幡の歴史』と題する冊子の企画・・・」とありますが、これが会報での刊行関連記事のデビューであり、以降の各号では都度の経過報告などの記事が以下のように掲載されています。

「会報」56号 2014.11.26刊;
『歴史たんけん八幡』の発行に向けてと題した事務局からの報告と伊佐錠治編集委員会委員長の挨拶。

「会報」63号 2015.7. 6刊;
経過報告と連続講座のお知らせ。

「会報」64号 2015.8.10刊;
「発行が迫る」と題した事務局の報告。

「会報」65号 2015.8.31刊;
石清水八幡宮禰宜・西中道氏より期待を込めたお言葉。

「会報」66号 2015.9.28刊;
『歴史たんけん八幡』発行のお知らせと読者の感想。

「会報」67号 2015.10.26刊;
複数の関係者よりの出版へ寄せるお言葉。

 刊行後は市内の小中学校や図書館などへの寄贈をはじめ、その活用方法についても内部で話し合い、本をテキストにした学習会を実施することにしました。学習会には、「担当者によって、担当する章をテキストに沿って読み返したり、不足することを補足説明したりすると共に、参加者との意見や情報の交換を交えて八幡の歴史の学びをより深める機会が得られたら」、との思いを込めました。そして、会報72号(2016.3.28刊)にて「八幡の歴史を学ぶ連続学習会」実施のお知らせ記事を掲載するに至ったのです。
 以下が2016年度の当初計画であり、無事に全日程を終えることができました(担当者名は敬称を略します)。

2016年5月19日(木)
7月14日(木)
9月15日(木)
11月17日(木)
2017年1月19日(木)
3月16日(木)
「大昔の八幡」
「町の成り立ちと神人の活躍」
「松花堂昭乗という人がいた」
「淀屋と八幡」
「河川と歩んだ八幡」
「昭和から平成へ」
中田孝子
土井三郎
奥山邦彦
丹波紀美子
野間口秀國
高井輝雄

f0300125_14272879.jpg 学習会に参加いただきました方々の延べ人数は189名を数え、それぞれの回ごとの参加者数の増減はあるものの平均で32名との結果となりました。改善すべきことはございましたが、当初の思いは一定程度果たせたのではないかと考えております。以下に “2017年3月16日(木)「昭和から平成へ」” へ参加いただきました方々より寄せられた感想の一例を挙げてみたいと思います。
1)男山団地の開発経過や歴史が良くわかった。 
2)八幡の税金10回払いについての疑問が初めて解けた。
3)八幡で起きた風水害の話はとても興味深く聞きました。 
 などなどです。

 最後に、この取り組みにつきましては、企画時点より八幡市教育委員会の後援をいただき、また都度の開催におきましては文化財保護課のご協力をいただきましたことを記し、紙面よりありがたく感謝申し上げます。全6回参加いただきました方々はもとより、ご都合で1回のみの参加に留まられた方まで、参加いただきました全ての皆様に改めてお礼を申し上げ、別途ご案内の2017年度の活動にも変わらぬご支援をお願いいたし、2016年度の実施報告とさせていただきます。
# by y-rekitan | 2017-05-20 05:00 | Comments(0)

◆会報第79号より-end

この号の記事は終りです。


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# by y-rekitan | 2017-05-20 01:00 | Comments(0)

◆会報第78号より-top <スクロールだけで全記事が読めます>

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この号の会報からは現在、下記の記事が掲載されています。
このまま下にスクロールして頂くと順次連続してご参照頂けます。

◆シリーズ:“心に引き継ぐ風景” ⑨◆
◆《講演会》謡曲から見た八幡◆
◆シリーズ:“八幡の古墳と鏡” ②◆
◆シリーズ:“五輪塔あれこれ” ⑨◆
◆石清水八幡宮を指し示す「八幡宮道」の道標の数々◆



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# by y-rekitan | 2017-03-22 15:00 | Comments(0)

◆会報第78号より-01 高野道

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心に引き継ぐ風景・・・⑨
橋本から交野山を目指した高野道
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 石清水八幡宮の遷座(貞観元年・859)以前から淀川にかかる山崎橋 (神亀二年・725)を渡り、橋本から南方向にポッコリ膨らんだ交野山を目印に進む高野道があった。
 橋本から楠葉中ノ芝、野田大師堂付近から細い畦道が続き、かすかに古道の雰囲気を残す道を、楠葉朝日町の「やわた・はし本道標」、「七ツ松石碑」、「だるま堂道標」を見て、少し南に行くと八幡金振方面に向かう「八幡道」に合流する。この八幡道をやや西方向から招提元町に入れば、整然とした招堤の屋敷街を通り抜け、招堤南町の「日置天神社」に到る。
 日置天神社由緒に「中世におけるこの付近は、高野街道筋に発達した集落として賑わい、社寺が甍(いらか)を競ったという。しかし、南北朝の動乱に際し、たびたび戦禍に見舞われ、民家・堂塔ともに灰燼(かいじん)に帰したと伝えられる」とあって、古くは高野街道筋として繁栄した集落だったようだ。出屋敷や津田の集落も日置天神社から穂谷川を越えると眼と鼻の先となる。弘法大師空海が高野山への道をとったという古い街道のことを高野街道と云うなら、八幡宮遷座以前から高野山を目指すこのルートこそ弘法大師空海が歩いた道であろう。
(写真と文 谷村 勉) 空白
  
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# by y-rekitan | 2017-03-22 12:00 | Comments(0)

◆会報第78号より-02 謡曲

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《会員研究発表》
謡曲から見た八幡

2017年2月  松花堂美術館講習室にて
猪飼 康夫 (会員)


 2月15日(水)、午後1時30分より、松花堂美術館にて表題の会員研究発表がありました。能や謡曲のあらましにはじまり、八幡を舞台にした謡曲の数々、能や謡曲の文化を次の世代に残す取り組みなどが実演を交えて発表されました。 以下に概要を報告します。参加者40名。

1、謡曲とは何か

 謡曲(ようきょく)とは、能楽の脚本のことです。シテ方などが身に着ける装束、能面の種類などが紹介され、登場人物や地謡の台詞、物語などが綴られています。
 続いて、能舞台の様子が語られ、猪飼氏自身が能装束や能面を付ける場面が紹介されました。f0300125_20544728.jpg 能面は通常シテ方が付けますが、面(おもて)をつけない場合もあります。それを直面(ひためん)といいます。直面で台詞を言う場合、面を付けた時と同様に口をパクパク開けないようにすることが求められます。まるで腹話術をするようです。舞台の後ろの演奏者を囃子方(はやしかた)といいます。向かって右から笛、小鼓、大鼓、ばちを持った太鼓と並びますが、この並び方は雛祭りの五人囃子と同じです。
 続いて、謡曲の種類として素謡(すうたい)、連吟(れんぎん)、独吟(どくぎん)の種類があること、謡(うたい)と唄や歌との違いが説明されました。謡は正座して朗詠するものですが、舞は手足を動かしてしぐさや感情を表現するものです。仕舞といいます。舞と踊りは異なります。大きな違いは、舞はほとんど中腰で、腰の位置がいつも一定ですが、踊りは腰の位置が上下します。 
         
2、謡曲のふるさと八幡 

  八幡は謡曲のふるさとと言われるくらい数々の作品があります。「弓八幡」「放生川」「女郎花」がそうです。

弓八幡(ゆみやわた)

 謡曲「弓八幡」の物語は、後宇多天皇から参詣の命を受けた臣下が、石清水八幡宮へやって来ることから始まります。f0300125_21163261.jpg臣下は、多くの参詣者の中に、袋に納めた弓を携えた老人を見つけ、尋ねますと「私は長年この八幡宮に仕えている者ですが、後宇多天皇に弓を捧げようと、貴方が来るのを待っていました」と述べ、さらに「弓は袋に納めて、戦わずして天下を治めるように、これが神の思し召しです。自らは高良の神です」と言って消え失せるのです。その後、どこからともなく音楽が聞こえ、芳香が漂い、高良の神が姿を現し、高良の神は、この世の繁栄を祝い、八幡宮の神徳を讃え、舞を舞うのです。「弓八幡」は、戦わずして世を治めることを説いています。

放生川(ほうじょうがわ)

 謡曲「放生川」は、平安時代から続く石清水八幡宮の行事 放生会(ほうじょうえ)をもとに作られています。
 男山八幡宮の祭りの日に鹿島の神主が参詣すると、魚を桶に入れた老人と出あいます。「神事の日になぜ殺生するのですか」と尋ねると、老人は「今日は生き物を放つ放生会です」と答えます。そして、魚を放生川に放し神事のいわれを語り「私は、石清水八幡宮に仕える武内の神です」と名乗り、山頂に立ち去ります。やがて月が上り、神楽の音と共に武内の神が現れ、平和の御代を讃える舞を舞います。

女郎花(おみなめし)

 謡曲では「女郎花」を「おみなめし」と読ませています。大変人気のある曲で、よく演じられています。肥後の国の僧が都へ上る途中、石清水八幡宮に参詣しようと男山に立ち寄りますと、山麓には女郎花が美しく咲き乱れています。旅僧が土産に一本手折ろうとすると、一人の老人が現れてそれを止めます。二人は古歌を並べ合って問答しますが、旅僧が古歌に詳しく、感心した老人は花を折ることを許します。老人は、八幡宮の社前に案内し、更に男塚・女塚を見せ、これは小野頼風夫婦の墓で、自分が小野頼風であることをほのめかし、消え失せます。旅僧が、土地の人から詳しく頼風夫婦の話を聞き、夜もすがら菩提を弔っていると、頼風夫婦の霊が現れます。頼風の霊は、夫の足が遠のいたことを恨み女が放生川に身を投げたこと、女塚から生えだした女郎花がまるで頼風を避けるように靡きしりぞいたこと、自分もまた身を投げたことを語ります。そして、今はともに地獄に落ち、邪淫の悪鬼に責められ苦しんでいるので、どうか助けてほしいと僧に救いを求めます。女塚は女郎花塚といって、松花堂庭園に立派に保存されていますが、男塚(頼風塚)は、八幡今田の民家に囲まれた狭い空地にひっそりと残されています。生い茂る芦が女塚の方向をむいているので、“片葉のよし”ともいわれ、哀れを誘っています。
 
3、能の生い立ち

 室町時代、足利義満と観阿弥・世阿弥の親子が今熊野神社で出会ったことから、能の演者が時の権力者に寵愛されるようになります。以後、能が大いに発展するのです。それは戦国時代にも引き継がれ、信長、秀吉、家康ら天下人によって能は大いに保護されます。
f0300125_22122720.jpg 一般に武家は公家とことなり文化的アイデンティティを持っておらず、そのことにコンプレックスを持っていたと言われます。能はそのような武家の劣等意識を補ってくれたのです。江戸時代には幕府からの庇護のもと、能楽者は扶持され経済的に自立できました。ところが、明治時代となり、能楽者は独自の運営を余儀なくされ、観世など流派ごとに経営を維持するよう努力するのです。
 そして現代、古典文化財として、ユネスコ世界遺産に登録されるようになりました。
 
4、次世代にむけて

 猪飼さんは、能の文化を次世代につなげるために様々な取り組みを行ってきました。小学校での授業もその一つで、かつて八幡東小学校や東大阪市の子どもたちに能についてじかに指導されてきました。f0300125_21353731.jpg また、企業研修会に呼ばれたり、八幡地域では「謡曲と朗読」と称して夫婦で実演し、謡曲同好会を立ち上げ、毎年発表会を持ったりしています。
 なお、平成5年8月9日に、石清水八幡宮の頓宮にて薪能が催され、かがり火のもと「弓八幡」などが観世流の片山九郎右衛門さん一行によって熱演され、市内外から集まった2000人の観客を魅了したとのことです。
<文責 土井三郎>--

『一口感想』より

八幡の地に因んだお能、謡についての猪飼先生のご講演を拝聴して、八幡が文化的に大切な地と認識しました。古典芸術を次世代に継ぐための猪飼先生のご尽力、ご活躍に感動しました。仕舞の実演、お能のビデオもありがとうございました。(M)
能の歴史や概要を教えていただき、大変参考になりました。機会がありましたら能舞台を鑑賞したく思いました。(A)
能の解説は理解できた。しかし、本題の「謡曲から見た八幡」の説明は物足りなさを感じた。例えば、「放生川」などが生まれた背景、八幡がなぜ「謡曲のふるさと」と呼ばれるのか。その理由が知りたかった。(B)
Bさんの疑問に答えられるかどうかわかりませんが、八幡がなぜ「謡曲のふるさと」になるのか、その理由を考えてみました。一つには、石清水八幡宮の存在があります。謡曲が生まれ、さかんに演じられた中世、人々は現代人以上に信仰心が篤く、石清水八幡宮を崇敬したのでした。そんなことから八幡神の神徳を称える謡曲が生まれたのです。もちろん、八幡宮と朝廷との深い関係が背景にあります。もう一つの理由として、和歌の力が大きかったと思います。鎌倉時代に、「古今和歌集」の序文の解釈本が生まれ、その中から「高砂」や「松虫」などの謡曲が誕生するのです。八幡を舞台にした「女郎花」もその一つです。(土井三郎)

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# by y-rekitan | 2017-03-22 11:00 | Comments(0)

◆会報第78号より-03 古墳と鏡②

シリーズ「八幡の古墳と鏡」・・・②
八幡の古墳と鏡(2) 
-八幡出土の三角縁神獣鏡(1) 内里古墳-

濵田 博道 (会員) 


1.三角縁神獣鏡の副葬状態とその意味

三角縁神獣鏡の副葬状態

 1953年、京都府木津川市・椿井大塚山古墳(つばいおおつかやまこふん:国史跡)で三角縁神獣鏡が大量に発見されました。しかし府から依頼を受けた京都大学の研究者たちがかけつけた時、半壊の石室にはわずかに2枚の鏡しか残っていませんでした。鏡は鏡面を石室の側壁に向けて木棺のまわりに立てかけてあったそうです。他の三角縁神獣鏡はバケツ3杯に入れられた状態で、副葬状況はわからなくなっていました。(注1)
 しかし1997年に発掘された天理市・黒塚古墳(国史跡)は未盗掘だったため、副葬の詳しい状況が明らかになりました。発見された33枚の三角縁神獣鏡は棺(ひつぎ)の外に被葬者の頭を取り囲むように立てかけられ、原則として鏡面を木棺側に向けて被葬者を守るため、逆によみがえるのを防ぐために鏡の力が使われたかのように副葬されていたとのことです。棺内の頭の傍には画文帯神獣鏡が1枚立てかけられていました。(注2)このような副葬状態から、次のような疑問が持ち上がりました。“三角縁神獣鏡が魏の皇帝から貰った大切な鏡だとすれば、棺の外に置かれているというのは変ではないか。また、卑弥呼の百枚の鏡は公の鏡で、『魏志』倭人伝には魏の皇帝は銅鏡を「ことごとく以て汝の国中の人に示・・・」と書いてあるが、その約3分の2を椿井大塚山と黒塚・2つの古墳の被葬者が持っている、そういう鏡を個人の古墳に副葬しているというのはどういうことだろうか”など。(注3)そうした中、他の未盗掘古墳の発掘からも三角縁神獣鏡の副葬状態がわかってきました。例えば、滋賀県東近江市・雪野山古墳(前方後円墳、古墳時代前期前半、国史跡)の発掘で、被葬者が葬られた仕切り板の外側と足元に計3枚の三角縁神獣鏡が副葬されていました。被葬者の頭付近に立てかけられていたのは別の鏡《仿製内行花文鏡(ぼうせいないこうかもんきょう)》でした。
副葬状態の意味するもの

 こうしたことから、“三角縁神獣鏡はあまり貴重な鏡ではなかったのではないか”、“葬具としての意味をもっていたのではないか”、“ヤマト王権が葬具用に配布した鏡ではないか”、という見解も出されました。
 しかし、すべての三角縁神獣鏡が最も大事なものとして扱われなかったかというとそうではありません。例えば島根県神原神社古墳(かんばらじんじゃこふん)(古墳時代前期)では、被葬者の頭の横に三角縁神獣鏡が置いてありました。この鏡は魏の年号、「景初三年」(239年)銘の鏡でした。また、高槻市安満宮山古墳(あまみややまこふん)(3世紀後半)から5枚の鏡が出土していますが、2グループに分けて魏の年号・青龍三年(235年)銘をもつ鏡や三角縁神獣鏡が2枚副葬されていました。1号鏡である三角縁神獣鏡は布でくるまれていました。
 これらのことから560枚近くの三角縁神獣鏡の中で、卑弥呼が貰った鏡があるとしてもそれはその中の一部、紀年鏡(中国・魏の年号などが入った鏡)などが候補ではないかという説が出されるようになりました。

2、内里古墳出土の三角縁神獣鏡

 八幡から出土した3枚(内里古墳・西車塚古墳・東車塚古墳から各1枚)の三角縁神獣鏡はどうなのでしょうか。内里古墳出土の鏡からみていきます。

内里古墳の謎

 内里古墳については、出土した「三角縁神獣鏡の副葬を考える以前の問題」があります。その名は文献に時々登場しています。――例えば、国立歴史民俗博物館『研究報告第56号』、京都大学文学部『椿井大塚山古墳と三角縁神獣鏡』、近つ飛鳥博物館図録『銅鏡百枚』、奥野正男『邪馬台国の鏡』新人物往来社、樋口隆康『三角縁神獣鏡綜鑑』新潮社、橿原考古学研究所『黒塚古墳調査概報』、藤田友治『三角縁神獣鏡その謎を解明する』ミネルヴァ書房、京都大学・橿原考古学研究所・東京新聞『大古墳展-ヤマト王権と古墳の鏡』、『サンデー毎日-卑弥呼の鏡-』(1998年3月4日号)など。しかし内里古墳は内里のどこにある(あった)のか。不思議なことに、『八幡市誌』『八幡市遺跡地図』には載っていません。『八幡市遺跡地図』には内里池南古墳というのが載っていますが、築造時期・墳形・内部構造・出土遺物・発掘状況などは明らかにされていませんので、内里古墳と内里池南古墳の関係は不明です。
 一方、内里古墳の名の出どころを調べていくと、一冊の本にたどり着きます。本の名は『梅仙居蔵日本出土漢式鏡圖集』。(注4)この本は倭鏡の収蔵家として有名な高石市の山川七左衛門氏が所蔵の鏡のうち漢式鏡22枚を写真入りで図集として出版(大正12年[1923年])、京都大学の梅原末治氏がその解説を加えたものです。その中の1枚が内里にある古墳出土の三角縁神獣鏡です。梅原氏は解説の中でこう述べています。「本鏡は山城綴喜郡有智郷村字内里の発見に係るを以て、新に一資料加えたるものと云ふ可く、鏡面に今布片の附着し、また背面に粘土及び朱の残存などあるは、同鏡の出土せる墳墓が我が古式の墓制の類例多き粘土槨なりしを推察せしめて、古墳の研究上にも注意を惹く。なほ出土の古墳は丸塚(円墳)にして其の発掘は明治二十五六年(1892~93年)の頃なりしが如し。」[原文はカナ交じり文。()内は筆者追加] “有智郷村字内里”にある(あった)はずの内里古墳ですが、現在確認ができません。ご存知の方は教えてくださるようお願いします。鏡は山川七左衛門氏が亡くなった後、山川家の手を離れ、最後に広島県の耕三寺博物館の所有となりました。博物館では常設展示をされていないので見ることはできませんが、行方不明にならなくて本当に良かったと思います。
内里古墳出土の鏡の副葬状態

 鏡の副葬状態に関しては古墳の確認もできない状態ですので「わからない」のですが、鏡が「布にくるまれて、鏡に背面の粘土と朱が残っている」ことを考えると大切な鏡として副葬されていたと思われます。

内里古墳の鏡とその同笵鏡[同型鏡]

 三角縁神獣鏡の大きな特徴としてその種類の多様性(約200種)、同笵鏡[同型鏡](同じ鋳型⦅これを笵(はん)といいます⦆または原型で造った鏡)の多さがあります。88組275枚の同笵鏡[同型鏡](注5)(1995年現在)があるといいます。内里古墳の三角縁神獣鏡は1980年代終わりころまで、「同笵鏡[同型鏡]なし」と報告されていました。f0300125_11051761.jpgところが、1989年、徳島市教育委員会が国府町の宮谷古墳(前方後円墳、全長37.5m、3世紀後半から4世紀初めの徳島県最古級の古墳、阿波史跡公園内)で三角縁神獣鏡を3枚発掘、そのうちの1枚が内里古墳の鏡と同笵鏡とわかりました。これは驚きであると同時に疑問も湧きました。なぜ、遠い徳島県の古墳で八幡市の内里古墳と同じものが出土したか、両古墳の被葬者はどういう関係にあったのかなど。
 (徳島市国府町矢野遺跡からは突線紐式袈裟襷紋銅鐸(とつせんちゅうしきけさだすきもんどうたく)[97.8cm、重要文化財]が出土。八幡市式部谷からも同式銅鐸[66cm]が出土。状況が似ていて興味深い。)

ヤマト王権とのつながり

 約10年後の1998年、さらに新たな発掘・発見がありました。f0300125_11303048.jpg大和・天理市黒塚古墳(右写真)の発掘です。この発掘は八幡にとって大変重要でした。なぜか。黒塚古墳発掘の三角縁神獣鏡33枚のうち、第1号鏡と内里古墳の鏡が同笵鏡だと判明し、大和中枢の古墳と八幡の古墳の接点が出てきたからです。同笵鏡ということは阿波・宮谷、山代・内里、大和・黒塚の3つの鏡は製作地が同じであること、本来一か所にあったものがそれぞれの地域に分配されていったということを示しています。こうして黒塚・宮谷・内里の三者がネットワークでつながりました。徳島市立考古資料館には三者-黒塚・宮谷・内里-のネットワークを示す地図のパネルが展示されています。(右写真)
f0300125_11382415.jpg『日本考古学年報42(1989年度版)』(吉川弘文館)で三宅良明氏は次のように述べています。
「(宮谷古墳の三角縁神獣鏡と)同笵鏡と思われるものに、京都府・椿井大塚山古墳の北西約12kmに位置する八幡市(旧綴喜郡有智郷村)内里古墳(円墳・粘土槨?)出土といわれる銘帯六神四獣鏡(広島県・耕三寺博物館蔵)が存在する。両者の三角縁神獣鏡を比較してみると、外区の外向鋸歯(きょしもん)文帯などで大部分が一致するが、神像の福神などの文様などに相違点が認められる。」「三角縁神獣鏡が、畿内中枢勢力(初期大和政権)が地方勢力との間に政治的関係を確立した証として分配されたという前提に立てば、宮谷古墳の被葬者ひいては3世紀末から4世紀初頭のこの地域(注6)もまた畿内を中心とする勢力あるいはその傘下の地方勢力と強く結びついたことが物的証拠によって証明されたことになる。」
 大和中枢の黒塚古墳の鏡と同笵鏡を出土する古墳は、西は九州・福岡県から東は関東の群馬県まで全国の古墳に及んでいます。(注7)黒塚古墳の被葬者がいかに多くの豪族と同盟関係を結んでいたかがわかります。その同盟関係の中の一豪族として内里古墳の被葬者もいます。黒塚古墳から出土した多くの鏡と各地の鏡が同笵鏡ということについて大阪大学の都出比呂志名誉教授は次のように言っています。「大和を中心として、大和から各地、九州から関東に至る豪族に鏡を配布していたのではないか。そのことは、大和を中心とした豪族のまとまりが、すでに3世紀後半から4世紀の初めにかけて、できあがっていたという、日本の国家の形成を考える上でも、非常に重要な意義がある」(注8)
f0300125_11552548.jpg
◆本画像には提供写真が含まれており、転載を禁じます。

内里古墳の築造時期

 ここで新たな注目点が浮かび上がります。ネットワークを形成していた三者ですが、黒塚古墳の築造は3世紀後葉、徳島・宮谷古墳は3世紀後半~4世紀初頭です。では内里古墳はいつ築造されたのか?八幡での古墳築造は4世紀後半ころから始まるとされています。茶臼山古墳、ヒル塚、西・東車塚古墳、石不動古墳の築造はいずれも4世紀後半からです。黒塚、宮谷古墳築造の3世紀後半から70~100年近くの時間ギャップをどう考えたらいいか。これは何を意味しているか。普通、築造年代は土器・埴輪・古墳の墳形・埋葬施設・副葬品などを総合して推定されます。しかし、残念なことに内里古墳は古墳自体がどこにあるのかはっきりしないため、根拠とすべきものがほとんどありません。ただ、梅原末治氏が指摘しているように鏡に“粘土が付着”していますので、“埋葬施設は粘土槨ではなかったか”と推察されます。そうだとすると「粘土槨は竪穴式石室の簡略化されたもので、四世紀半ば以降」(注9)となりますので、内里古墳はやはり黒塚、宮谷古墳よりかなり後、築造されたことになります。鏡が大和中枢から三世紀半ばに配布され、同盟関係が結ばれたとすると、伝世(でんせい)されていたのでしょうか。

内里古墳の鏡は古式の三角縁神獣鏡

 また、黒塚古墳出土の三角縁神獣鏡はすべてA・B段階のもの(240~260年ころまでに配布された三角縁神獣鏡の中でも古い鏡)と分析されていますから(注10)その同笵鏡である内里古墳の鏡も当然A・B段階のものということになります。一回目で述べたように西車塚・東車塚古墳の三角縁神獣鏡はC段階のものですから、内里古墳の鏡はそれらより古い鏡ということになります。八幡出土の三角縁神獣鏡中では一番古いと考えられるのです。(このことについてはもちろん、最終的には専門家による厳密な分析・鑑定が必要なことは言うまでもありません。)
 このように内里古墳の所在地・同笵三角縁神獣鏡の関係、大和中枢の豪族との関係、鏡の伝世など考えていくと、謎だらけで実に興味深い古墳であり、鏡であるといえます。
内里古墳鏡の銘文

 最後に内里古墳出土の三角縁神獣鏡の銘文についてみてみましょう。
 鏡名は正確には「三角縁銘帯六神四獣鏡」といいます。三角縁の内側に銘文があり、内区には6体の神像と4獣像が描かれているからです。内里古墳出土の鏡の銘文はところどころ摩滅していて全文は読めませんでしたが、黒塚古墳や宮谷古墳の鏡から、明らかになりました。次のようです。

銘文 張是作竟甚大好上神守及龍虎身有文章口銜巨古有聖人東王父渇飲飢食

(読解:『張氏が作った鏡はたいへん良い。(鏡の)上に神獣および龍虎があり、文章があり、に巨《矩(く)、さしがね。取っ手のついた直角に折れ曲がった定規。》を銜(くわ)えている。古(いにしえ)に聖人の東王父がいる。渇(かわ)けば飲み、飢えれば(棗(なつめ)を食うを省略)』
    は別ワク。君に宜しく、高(い位になる)に宜しい。)――読解は藤田友治『三角縁神獣鏡その謎を解明する』ミネルバ書房、1999
 
 京都大学名誉教授で泉屋博古館館長・橿原考古学研究所所長だった樋口隆康氏は『三角縁神獣鏡綜鑑』の中で、銘文を21種類に分析・分類しています。上の銘文はその中の一つですが、内里古墳の鏡および同笵鏡[同型鏡]は一部を省略しているようです。『三角縁神獣鏡綜鑑』には元のものと考えられる全銘文が載っています。次の通りです。
張是作竟甚大工好、上君神守及龍虎、身有宣文章口銜巨、古有聖高人東王父西王母、渇飲玉泉飢食官棗、[五男二女]長相保吉昌
 「張是」(=張氏)は製作者の名前です。鏡の製作者として陳氏とともに有名です。張氏は2派以上に分かれて製作していたといいますが、詳しいことはわかりません。このような製作者記名鏡は三角縁神獣鏡全体の一割強です。藤田友治氏は「銘文に西王母が省略されているのは発注者が男性であり、黒塚古墳の被葬者を考える一視点を提供している」と指摘しています。
 最近、銘文の韻(いん)から考えて、三角縁神獣鏡は日本国内で鋳造されたと主張する説が出されています。(注11)韻とは決まったところに繰り返す同種類の音をいいますが、韻を踏むことは詩歌を作る時の大原則であるそうです。中国で発掘される鏡の銘文にはそれがあるけれども、三角縁神獣鏡にはそれがない、だからこの鏡は韻を理解できない倭人が造ったもの、つまり日本製だというのです。しかし、卑弥呼の時代に文字を読み書きできる倭の工人がいたかとなると疑問が残ります。中国から工人が渡来してきて造ったとの説が有力ですが、証明するまでには至っていないようです。

おわりに

 いずれにしても、3世紀半ばに鋳造された鏡がヤマト王権から八幡の豪族に配布されていたこと、いつ配布されたかははっきりしないけれどそのころ八幡には鏡を配布される有力豪族がいたこと、その豪族を支える集落があったと考えられること、ヤマト王権から配布・分与される豪族のネットワークが各地に出来上がっていたこと、などは疑いないでしょう。八幡では、2世紀には66cmもの優美な銅鐸を持つ勢力がいました。京都府全体の出土銅鐸について調べてみると、この近畿式突線紐式銅鐸(とっせんちゅうしきどうたく)(注12)は京都府内では丹後・与謝野町比丘尼(びくに)城出土銅鐸(重要文化財)、舞鶴市と八幡市(式部谷)のもの、計3個を確認することができました。つまり“2世紀には少なくとも丹後・舞鶴・八幡に有力な勢力があった”といえるのではないでしょうか。(もちろんこの他にも山科の中臣遺跡などにみられるように有力な勢力はいたことは言うまでもありません。)そして4世紀末頃には天皇に意見をしていた内里の豪族(ごうぞく)甘美内宿禰(うましうちのすくね)(注13)(『日本書紀』応神9年4月条)がいました。(伝承記事になりますが・・・。)こう考えてくると昔の八幡をもっと知りたくなってきますね。
 次回は「西車塚古墳・東車塚古墳の三角縁神獣鏡について」考えてみます。 
(つづく) --

(注1)樋口隆康『シルクロードから黒塚古墳まで』、学生社、1999
(注2)図録『卑弥呼』弥生文化博物館、2015
橿原考古学研究所『黒塚古墳調査概報』学生社、1999
(注3)石野博信ら『三角縁神獣鏡・邪馬台国・倭国』新泉社、2006
(注4)『八幡遺跡地図』には「王塚古墳の文献」の一つとして『梅仙居』が載っています。
(注5)同笵鏡と同型鏡はその製法において違いがあり、同じ形・大きさ・文様の鏡でもそれを同笵鏡と考えるか同型鏡と考えるか研究者によって違います。ここでは同笵鏡[同型鏡]を単に同笵鏡と記すことにします。
(注6)徳島市国府町辺り
(注7)三角縁神獣鏡同笵鏡[同型鏡]分有図(分布図)は次の本に掲載されています。
白石太一郎ら『纏向発見と邪馬台国の全貌』、KADAKAWA、2016、P227
京都大学ら『大古墳展』、2000、P85
藤田友治『三角縁神獣鏡-その謎を解明する』、ミネルヴァ書房、1999、P322
(注8)NHK取材班「鏡が映す古代大和政権/黒塚古墳と三角縁神獣鏡」『堂々日本史第23巻』、KTC出版、1999
(注9)奈良文化財研究所『日本の考古学』小学館、2005
(注10)福永伸哉『三角縁神獣鏡の研究』大阪大学出版会、2005
(注11)森博達「毎日新聞2000年9月12日」付け
島根県神原神社古墳(かんばらじんじゃこふん)出土の鏡の銘文についての記事から
(注12)突線紐式銅鐸は1式~5式に区分されており、八幡・式部谷出土の突線紐式銅鐸は「3式」です。『豊饒をもたらす響き 銅鐸』弥生文化博物館、2011では「3式は紀元2世紀」という年代観を示しています。
(注13)八幡市・内神社の祭神。『古事記』では「味師内宿禰(うましうちのすくね) 《こは、山代の内の臣が祖ぞ》」と記述されています。武内宿禰(たけうちのすくね)とは異母兄弟にあたります。


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# by y-rekitan | 2017-03-22 10:00 | Comments(0)

◆会報第78号より-04 五輪塔⑨

シリーズ「五輪塔あれこれ」・・・⑨
なぜこの地に

野間口 秀國 (会員) 


 第1章「現場の解説板」で、現場に建つ解説板に書かれていることを紹介しましたが、その最後には「・・・ 刻銘がなく、造立の起源が不明であるためか、この大石塔にまつわる伝説は様々である。」とあります。現場を訪れるたびに「なぜ?」の疑問が浮かびますが、それらは「なぜこの地に建つのか」「なぜ刻銘が無いのか」などといったとても素朴な疑問なのです。

 2014年秋に、歴探主催による「地誌に見る八幡」と題した伊東宗裕氏の講演会が催されました。その時の配布資料(*1)に、次のように書かれていましたのでその一部を引用したいと思います。 曰く、「八幡を歩いて目につくのは三宅安兵衛碑ですね。実際にはその意志をついで息子清次郎が建立したので三宅安兵衛遺志碑といういいかたもされます。こういった史跡碑というものは、一般的によく知られた、ということは地誌ですでに紹介ずみのところに建てることが多いようです。しかし、三宅安兵衛碑についてはこの原則があてはまらない。八幡で言えば神応寺となりの航海記念塔など。」 引用終わり: ここでは「神応寺となり」と書かれています。
 また、『男山考古録 巻十』(*2)の「大石塔 或曰經塚」の項には、「極楽寺鐘楼の西に在り、谷不動道の北側、舊図にも見えて古在なから、由來不詳とし其實を知人無しといふ、・・・」とあります。 この項には他にも、誰が、何の理由で、いつ、などについての言い伝えが書かれています。しかし、ここでも「なぜこの地に」については具体的に触れることなく「極楽寺鐘楼の西」、「谷不動道の北側」とのみ書かれているのです。

 「なぜこの地に」と考える時、上記に加えて神應寺について書かれた新聞記事(*3)はとても役立ちました。その記事には、神應寺は石清水八幡宮を創建した行教が、平安前期に建てた寺とあります。寺の本堂には重要文化財の「行教律師坐像」がおかれ、境内には行教の墓があると書かれています。今一つは寺宝の「篝火御影(かがりびのみえい)」と称される、僧侶姿の八幡神が剣を手に鎮座し、両側に武具を付けた八神が並んだ掛け軸です。元寇の調伏祈願がなされた当時の原本を江戸時代に模写したと伝えられる掛け軸は、鎌倉時代のことを語っているように思えるのです。さらに、八幡大神が男山に鎮座したとされる4月3日の夕方には、石清水八幡宮から宮司、神職、巫女などがこの寺を訪れて行教の墓参がなされるとも書かれています。寺について分かり易くまとめられた記事を読み返してもなお、「五輪塔がなぜこの場所に」、に関しては何も書かれていませんでした。
 とは言え、これらに加えて『八幡市誌 第一巻』や『山州名跡志巻之十三』に書かれていることがらなども読み進めると、この地は石清水五輪塔が建つに最も相応しいところだったのだろうと思えるのも不思議です。

 2つ目の不思議は「なぜ石清水五輪塔には刻銘が無いのか」ということです。その理由と思われることについて、嘉津山清氏は『石造文化』(*4)に次のような見解を述べられていますので引用してみたいと思います。 曰く、「石造物がある限り、当然それを製作した工人がいるが、遺品にその名を残しているのは稀である。(中略) 層塔・宝塔・宝篋印塔といった建造物的な石造物的な石造物に作者名を記したものが多く、一石刻成の板碑・五輪塔といったものには、板碑の一部を除いて皆無といってよいであろう。仏像や銅鐘、鰐口といった金工品のものにはその多くが堂々と大工名を記しているのに比して、石造物は他の梓人より身分が低かったのか、遠慮したのかその名を残してはいない。」 引用終わり: 氏の見解にもあるように、これまでに見ることのできた数々の五輪塔には刻銘が残されていませんでした。それを思うと、刻銘が残されている五輪塔がいかにありがたいか、と実感できた例を書きたいと思います。

 この1月に訪ねたその五輪塔は木津川市木津清水にある「木津惣墓五輪塔」です。塔の傍に建つ同市教育委員会の解説板(*5)には、塔が重要文化財(昭和32年に指定)で、花崗岩でできた高さ3.6mの典型的な鎌倉時代の五輪塔であり、惣墓とは一般庶民の間に個人墓が普及する以前の葬礼の一形態で共同墓地である、ことなどが書かれています。f0300125_20114993.jpgそして驚くべきことに、この五輪塔には、地輪(最下部の方形部分)の東、北、南の三面に年度を含んだ刻銘が残されているのです。ちなみに、東面には正応5年(1292)とあり、北面には永仁4年(1296)が、そして南面には永禄5年(1562)と異なる3つの年号が刻まれていることも併せて解説板が教えてくれます。前章で、「石清水五輪塔造立の発願者が誰か」に興味あると書きましたが、この木津惣墓五輪塔は、刻銘に「和泉木津僧衆等廿二人の勧進による」とあり、造立時の様子の一端も分りました。今となって叶うことではありませんが「石清水五輪塔にも刻銘を残して欲しかったな」と、つくづくそう思いました。

 さて、前章で文覚上人墓五輪塔などについて書かせていただきましたが、本章では1878(明治11)年に、明治政府の招聘で東京帝国大学(現:東京大学)の政治学教員として着任したアメリカ人、フェノロサの墓(五輪塔墓)について書いてみたいと思います。石清水五輪塔についてあれこれ調べていた2015年の秋、偶然目に入ってきたのが、とある広報誌(*6)に紹介されていた「大津の景勝めぐり・法明院庭園」の記事でした。同地を訪れるのは暫くしてからとなりましたが、記事の内容はとても興味深いものでした。「法明院は、天台寺門宗総本山園城寺(三井寺)北院の一つで、大津市山上町にあり、江戸時代の初めに創建され、一時廃絶の後、1724(享保9)年に義瑞和尚が再興したと伝えられる。また、この寺は明治時代に日本美術を世界に紹介したアメリカ人、アーネスト・フェノロサの墓がある寺としても有名である。」 記事はこのように続きますが、内容もさることながら、掲載された墓の写真が五輪塔であることに目が留まり、更に調べを進めてから現地を訪れました。

 『フェノロサと魔女の町』(*7)と題する本を読むと、彼の経歴や業績、墓の謎などが分りました。アーネスト・フェノロサは1853年に米国マサチューセッツ州(アメリカの北東部の州)ボストン郊外で生まれ、ハーバード大学・神学科を卒業、同大大学院を出て、神学校、ボストン美術学校で学びました。前述のとおり、1878(明治11)年に25歳で来日しましたが、この招聘は彼と同郷の、日本国内でも知られた大森貝塚の発見者、エドワード・モースであったようです。フェノロサ婦人の回想によると、東大就任を決めたのは初代内閣総理大臣の伊藤博文であったようですが、この伊藤によって政府の進める「日本の伝統美術の復興」のために美術行政に引き入れられることになります。
 やがて数々の日本の古名画に触れる中で、フェノロサは天台密宗の言葉に理想を見出し、明治18年秋にキリスト教の信仰を捨てて仏教徒へ帰依します。当時の助手であった岡倉天心とともに、近畿地方の古社寺宝物調査を行い、法隆寺を始めとする京都・奈良の古社寺を訪問した記録が残されているようです。岡倉とのつながりで法明院阿闍梨・桜井啓徳師に師事することになり、ここに同寺とのつながりが見いだせるようです。

 f0300125_2017941.jpg彼の功績は明治天皇により外国人としては最高位の勲三等瑞宝章が与えられ、1886(明治19)年の秋に一度帰国します。しかし、1896(明治29)年に再来日、そして4年後にはボストン美術館東洋部長とし帰国して日本美術の紹介をしました。その後、日本政府の要請による欧州視察旅行のさなか、1908(明治41)年9月21日に訪問先の英国で急逝しました。フェノロサの遺志により、遺体は火葬ののち日本に送られ法明院に葬られました。 訪れる人が決して多いとは言えないようですが、私が訪れた時には五輪塔の墓前にはきれいな花が供えられており、彼のファンや美術関係者には大切な場所となっているのであろうことが分りました。

 最後に、木津川市観光商工課よりいただきましたご親切に紙面をお借りして感謝を申し上げます。
(次号に続く)--

参考図書・史料・資料など;
(*1)歴探講演「地誌に見る八幡」(2014.9.14 伊東宗裕氏)の配布資料
(*2)『男山考古録 巻十』 長濵尚次著
(*3)京都新聞記事・2016.11.16付け(探検国宝 石清水八幡宮 神應寺)
(*4)『石造文化』 日本石造文化学会編 日本習字普及協会刊
(*5)現地にある木津川市教育委員会の解説板
(*6)『ほんまる』 大津市生涯学習センターの広報誌・第275号2015.11.1刊
(*7)『フェノロサと魔女の町』 久我なつみ著 河出書房新社刊


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# by y-rekitan | 2017-03-22 09:00 | Comments(0)

◆会報第78号より-05 八幡宮道

石清水八幡宮を指し示す--
-- 「八幡宮道」の道標の数々


谷村 勉 (会員)

 八幡とその周辺の「石清水八幡宮」を目指す道には、江戸時代の個性的な道標が現在も残り、古来「やわた道」、「八幡宮道」と呼ばれた事が判ります。
 八幡の道の歴史は数々の道標に導かれる八幡宮参詣道の歴史です。現在も「八幡宮参詣」の道しるべとして残る主に江戸時代の道標の数々を紹介しますが、時代々々に建立された道標の数から、八幡は道標・石碑の町と言っても過言ではありません。八幡の南北に走る「八幡宮参詣道」を最近俄かに「東高野街道」などと言いだした人々は八幡の歴史や聞き取り調査、綿密なフィールドワークを怠ったと思われます。八幡の道の歴史を学べば分る事ですが、「八幡宮道」や「やわた道」などの道標の数々は、これが本来の八幡の歴史街道であることを雄弁に物語っています。「八幡宮参詣道」は八幡を訪れる道として紛れもなく「八幡宮への信仰の道」として機能してきたのでありました。

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① 楠葉野田一丁目の
江戸時代再建の道標

「左  八 ま ん 宮」
-----------
「右  志 み つ」

(文久二壬戌年四月再建・1862)
縦104㎝ 正面幅30㎝ 横24㎝

右側の道標は再建以前の道標(折損か)   「八まん□□」
   (寛政元己□・1789)
縦54㎝ 正面幅24㎝ 横23㎝
橋本経由の八幡宮道と切通を経て八幡志水に抜ける道を示している。


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② 楠葉中之芝一丁目
「久親恩寺」の地蔵道標

「八まん宮道」

(寛保三亥十一月吉日・1743)
縦111㎝ 正面幅27㎝ 横24㎝
地蔵尊像の形態:座像
持ち物:錫杖、宝珠

久親恩寺には道筋の変更や宅地開発などで行き場を失った道標が集められたようだ。


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③ 楠葉中之芝一丁目
「久親恩寺」地蔵道標

「すく 八まん道」

(年代不詳)
縦89cm 正面幅22cm 横17cm
地蔵尊像の形態:立像
持ち物:両手で宝珠

正面、地蔵尊像下の文字は判読困難。「すく」とは、直ぐ、まっすぐ行くと、の意。「すぐ」、「春具」も同じです。


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④ 楠葉中之芝一丁目
「久親恩寺」の地蔵道標

「すく 八まん宮」
「右 かうや 左 はし本道」


(年代不詳)
縦47cm 正面幅30cm  横10cm
地蔵尊像の形態:立像
持ち物:両手で宝珠

「右かうや」の文字は橋本から楠葉中之芝を通り交野山を目標に招堤方面を指している。
橋本・楠葉に旧高野道の存在を証明する大変貴重な道標です。舟形光背の上部は破損している。


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⑤ 楠葉中之芝一丁目
「久親恩寺」の墓碑道標

「右 やわたみち」
「すく 京 み ち」


(天保四巳年四月十八日・1833)
縦77㎝ 正面幅30㎝ 横29㎝

元は京街道沿いにあったようだが、街道筋の変更により寺院内墓地に移転されたようだ。


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⑥ 橋本中ノ町の道標

「八 ま ん 宮」
左り--------
「いせ京伏見」

    
(明和四年丁亥二月・1767)
縦 116cm 正面幅 28㎝ 横 27㎝



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⑦ 橋本北ノ町の道標

「右 八まん宮山道*** 
***これより十六丁」


(文政二己卯年二月吉日・1819)
縦116cm 正面幅25cm 横21㎝

道標の位置が動いている。狩尾社から八幡宮へ向かう道筋を指している。


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⑧ 伏見区淀際目町の道標

「八まん宮ミち」
----------
「か わ ちミち」

(宝暦三癸酉歳四月・1753)
縦126cm 正面幅21cm 横20cm

旧八幡際目郷、昭和 32 年京都市伏見区淀に編入。
旧木津川堤道(奈良道)近くに建っていたとのこと。横のお堂は近隣寺院の廃寺により、住民によって
お堂が建てられ、大日如来坐像等が安置された。


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⑨ 美濃山井ノ元の
「指さし地蔵」道標

「八はたへこれから」

(年代不詳)
縦60cm 正面幅33cm 横18cm
地蔵の形態:立像
持ち物:左手に宝珠

右手で「八はた」の文字を指している、珍しい「指さし地蔵」です。
元は近くの河原地区道沿いにあった。


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⑩ 八幡旦所「青林院」の道標

「西 八幡宮道」

(年代不詳)
全長123㎝ 正面幅19cm 横15cm

倒置


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⑪ 頓宮西の倒置道標
(巨大五輪塔の向い)

正面「左 八幡宮道」
裏面「是より北荷馬口附の者来へからず」


(年代不詳)
全長 280cm  正面幅24㎝ 横 24㎝

角柱の周りに縁取り加工をした立派な道標
道路工事の際、一旦八幡宮に預け、そのままになってしまったのか?


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⑫ 八幡大芝「八角堂」の
役行者道標

「すく 八幡宮」

(慶応三年丁卯八月日・1867)
縦127cm 正面幅24cm 横22cm
役行者座像 持ち物:錫杖、経巻

元は志水大道沿いにあったが、道路工事により八角堂に入った模様。役行者像が彫られている。八角堂は工事中の為、現在入れません(2017.02.10)
(左の写真は神戸市/故荒木勉氏撮影)


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⑬ 正徳 3 年
「御幸道(みゆきみち)」道標

「石清水八幡宮鳥居通御幸道」

『男山考古録』に「正徳 3 年(1713)石清水八幡宮鳥居通御幸道という標碑を建てられたるは、検校新善法寺行清法印也」とある。
 近年、御幸橋南詰に設置されていたが、平成 21 年以降「御幸橋」付替え工事により八幡宮頓宮敷地内に仮置きされている。
 石清水八幡宮境内全図(重文) や山上山下惣絵図には「御幸道」と共に「御幸道の道標」の存在も記載されていて、京街道分岐点から一の鳥居の道を指している。折損の為、御幸道の部分がコンクリートによって塗り固められていた為、文字が隠れていた。

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⑭ 枚方市上島町の
八幡宮参詣道地蔵道標

参 詣 道
八幡宮----------
橋本へ一里


(安政三丙辰年十一月・1856)
縦200㎝ 正面幅30cm 横22cm
地蔵尊像の形態:座像
持ち物:錫杖 宝珠

枚方市(牧野)の京街道、船橋川の堤にある高さ 2m の重量感のある八幡宮参詣道の道標。
枚方市岡本町の文政九丙戌年(1826)建立の道標には「左 六り やわたニり」とある。


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⑮ 枚方市町楠葉の地蔵道標

右 八幡宮

(天保三年辰年一月吉日・1832)
縦157cm 正面幅31cm 横25cm
地蔵尊像の形態:座像
持ち物:錫杖 宝珠

長福寺内にある地蔵座像道標、保存良好で驚くほど美しいが、再建された道標だろうか


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⑯ 大山崎町の地蔵道標

右 八わたミち
左 よどふしみ


(年代不詳)
縦96cm 正面幅40cm 横20cm
地蔵尊像の形態:立像
持ち物:錫杖 宝珠

離宮八幡宮より西国街道を北へ大山崎小字傍示ノ木辻にある。
大山崎町唯一の「やわた道標」と思われる。



「石清水八幡宮参詣道」にいわゆる「東高野街道」の名称はふさわしいか?

 八幡やその周辺に残る八幡宮参詣道の道標を調査した結果、「八幡宮道」や「やわた道」などと書かれた道標を一部紹介することができました。現在はこれ以外にも驚くほどの数の「八幡道標」が発見されています。これらはいづれ「八幡の道探究部会」の活動成果として紹介したいと思いますが、「文化財」として大切に保全されているこれらの道標を見るにつけ、八幡の悠久の歴史が消される危険性が潜む、殆ど馴染みのない高野山や和歌山の道を八幡に出現させる事などは「勘違いの行為」としか思えません。一体誰の為の八幡でしょうか。

 自分たちが住んでいる町の歴史をもっと大切にして欲しいものです。いわゆる「東高野街道」が在って国宝「石清水八幡宮」が路傍に在るのでは決してありません。石清水八幡宮が遷座(貞観元年・859)した後に八幡の南北の道が整備されましたが、弘法大師空海は八幡宮が遷座される以前に入定(承和2年・835)されています。従って弘法大師空海はいわゆる八幡東麓の東高野街道という名の道を歩くはずもありません。高野道とは嘗(かつ)ては弘法大師空海が高野山への道をとったという古い街道のことを指したものですが、八幡宮の参詣道が洞ヶ峠から河内の高野道に繋がった為、八幡宮参詣道を通って洞ヶ峠から高野道を利用する人が居たに過ぎないのです。津田や交野や八尾から八幡宮を目指す人々にとっては八幡に向かう道は「京道」であり「やわた道」でありました。
 固有の歴史を大事にしてきた八幡ですが、八幡を知らない学者の書いた論文や文献を読むだけの表層の知識の鵜呑みでは八幡の道の歴史は語れません。嘗て東海道五十七次と云われた大坂・京都間の道では、役人はいざ知らず、住民は東海道と呼ばずに、京街道、大坂道などと呼びました。明治時代、八幡の道を嘗て役人が東高野街道と言った時期があるようですが、八幡の住民は誰もその様な呼びかたはせず、今でも八幡宮道、御幸道、常盤道、志水道などと呼んで歴史的呼称を大切にする気概をもち、生活の中に活かしてきました。八幡の道が「石清水八幡宮への信仰の道」であることを住民誰もが知っていたのです。八幡周辺の行政区にある「八幡宮道」などの道標の数々を見れば、八幡の道は八幡宮参詣道として重要な機能を果たし、八幡宮在っての八幡の道であり、高野山在っての八幡の道でないことは明々白々なのです。固有の歴史を大事にし、それを主張してこそ観光客や住民も納得しますが、借物の名称では誰も振り向くものではありません。
以上----

# by y-rekitan | 2017-03-22 08:00 | Comments(0)

◆会報第78号より-end

この号の記事は終りです。


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# by y-rekitan | 2017-03-22 01:00 | Comments(0)

◆会報第77号より-top <スクロールだけで全記事が読めます>

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この号の会報からは現在、下記の記事が掲載されています。
このまま下にスクロールして頂くと順次連続してご参照頂けます。


◆シリーズ:“心に引き継ぐ風景” ⑧◆
◆《歴探ウォーク》八幡の古寺巡礼④◆
◆シリーズ:“八幡の古墳と鏡” ①◆
◆シリーズ:“八幡に見る古代植物” ④◆
◆シリーズ:“五輪塔あれこれ” ⑧◆
◆シリーズ:“詩歌に彩られた八幡の歴史” ⑤◆
◆大阪府下の東高野街道に「やわた道」の道標を訪ねて◆
◆歴探サイト(ホームページ)の現況報告◆



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# by y-rekitan | 2017-01-20 15:00 | Comments(0)

◆会報第77号より-01 文殊菩薩像

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心に引き継ぐ風景・・・⑧
八幡の石仏さん・文殊菩薩像
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  石仏と言えば八幡森の「夜泣き地蔵」と呼ばれる等身大の石仏がよく知られるところですが、古くから「八幡宮道」、「志水道」と呼ばれる道から正法寺の南門を抜けて西に登れば、ひと際存在感を放つ石仏があります。高さ1メートルの「文殊菩薩」の石仏です。一瞬、騎乗の「将軍地蔵」かと思いましたが、右手に知恵を象徴する宝剣を、左手に経典を乗せた蓮華を持って、獅子の背の蓮華座に乗って結跏趺坐する姿は正しく文殊菩薩です。
 年月を経て肉彫りの像は摩耗し、どの時代のものか、右肩辺りにかすかに文字の痕跡を残すものの全く判りません。
 文殊菩薩は釈迦如来の脇侍として白象に乗る普賢菩薩と共にお寺では時々見掛けますが、なぜ、ここ清水井(志水)に文殊菩薩の石仏が置かれたのか、はたして対となる普賢菩薩の石仏は今も何処かに存在するのか、想像が膨らんできます。
 石仏から西方向に登ってゆくと、随分と急勾配の崖が現れ、切通しと呼ばれる古い道もこの近辺にあって、男山美桜、楠葉方面に向かいます。
 「昔は子供も老人も沢山居て、土産屋さんが出るほど地蔵盆を盛んに行っていましたが、」とお年寄が語ってくれました。周辺の沢山の石仏と共にみんな地蔵さんとしてお祀りされています。
(写真と文 谷村 勉) 空白
  
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# by y-rekitan | 2017-01-20 12:00 | Comments(0)

◆会報第77号より-02 八幡古寺巡礼4

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《歴探ウォーク》
八幡の古寺巡礼
― 第4回 男山山麓の寺を巡る(Part3) ―  

2016年12月 八幡市内 にて
高田 昌史 (会員)

 恒例となった歴史探訪ウォークの古寺巡礼は、昨年に引き続き「男山山麓の寺を巡る」Part3として、12月8日に第4回を実施しました。
 当日は46名と多くの方の参加がありました。その概要を報告します。

第4回古寺巡礼コースの概要

 f0300125_1142218.jpg八幡市駅前で受付をしてから、さざなみ公園の安居橋前に集合し、配布の「しおり」によるコースの概要説明と移動時の注意事項をお話してから出発しました。右図にコース図を示しましたが、今年の巡礼のコースは八幡市駅から近い東南方向の3古寺を巡りました。
全歩行距離は約2.5kmと短く訪問先の寺院での時間を十分確保できる見込みで、最初の訪問寺の法園寺に向かいました。

1.法園寺(律宗)

 f0300125_11594784.jpg安居橋前を出発してから、15分足らずで法園寺に到着です。法園寺では、法類の善法律寺松浦康昭住職が通用口を開けてお待ちいただきました。
 先ず境内で法園寺の概要説明をお聞きしました。
法園寺は鎌倉時代に建立された由緒ある寺院であり、現在境内の整備が行われています。法園寺は唐招提寺の末寺で、現在住職は壬生寺の松浦俊海貫主が兼務されています。現在工事中の表門は壬生寺の北門を移築されたと伺いました。(12月20日に完成)f0300125_1244873.jpg
 松浦住職からは、境内整備が完了しても国の重要文化財に指定されている本尊の「木造釈迦如来坐像」は、今後通常の公開予定はなく今回はあくまでも特別拝観であるとの説明がありました。実は、平成26年実施の第2回古寺巡礼では、法園寺を府道側のフェンス外から、遠くの収蔵庫の外観のみを見学しました。その時から御本尊の拝観をお願いしていたのですが、今回2年越しの念願が叶うことになりました。
 いよいよ、2班に分かれて松浦住職の案内で収蔵庫に入りました。f0300125_1273475.jpg収蔵庫内正面に安置の本尊「木造釈迦如来坐像」は、像の高さが87cmの檜材寄木作りで、大変立派な光背がありました。製作年代は正平16年(1361)ですから、今から650年以上前です。また、昭和9年(1934)の室戸台風で堂宇が倒壊して堂の下敷きになった本尊の胎内から多くの経文などが発見され、京都国立博物館に寄託されています。翌年の昭和10年には本尊と共にそれらの経文などは国の重要文化財に指定されました。
 また、収蔵庫には八幡宮の28代別当田中勝清(田中家初代)からの歴代の田中家の位牌をはじめ、南朝の公卿四条隆資、徳川家の位牌や豊蔵坊孝仍・孝叡など多くの位牌がありました。また、数枚の棟札も保管されていることがわかりました。
 収蔵庫内の拝観が終了後、わざわざ善法律寺から出向いていただいた松浦康昭住職にお礼を申し上げてから、次の訪問寺の正福寺に向かいました。

2.正福寺(浄土宗)

 f0300125_12163792.jpg正福寺では、秦文彦住職に出迎えていただきました。正福寺は「浄土宗三十六カ寺組の一つで、本尊は阿弥陀仏。本堂は科手町の薬師堂をこの地に移す。寺記には神原町に住む一瞬庵という者が、寛文2年(1662)に建立した趣が見える。開山は京都知恩寺の三十二代奉誉上人【慶長15年(1610)寂】である」と男山考古録に記されています。
 先ずは例会幹事が山門を入って右側の元禄3年(1690)に建立の「石清水八幡宮の灯籠」を事前調査した結果を記載したしおりにより説明しました。この灯籠の左面銘文は(護国寺寶前)です。
 次は、本堂左側の集合墓の見学をしましたが、集合墓の頂点近くに「興龍院(大河内秀元)」の墓が確認できます。大河内秀元のことは、男山考古録に詳しく載っています。それによると慶長2年(1597)の朝鮮の役に従軍して武功を上げて『朝鮮軍記』を書いています。その後、大坂夏の陣(元和元年:1615)では井伊家に仕え武功を上げ数年彦根に居住するが、正福寺近くの山路町に移り住み寛文6年(1666)に91歳で死去と記されています。
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 それから、集合墓の横の墓地にある八幡の歴史探究のバイブルといえる「男山考古録」著者長濵尚次の曾祖父(長濵友次)の立派な宝篋印塔(ほうきょういんとう)を見学しました。長濵家の墓は、他に番賀墓地及び神應寺にもあります。
 境内の見学終了後に、秦住職の案内により本堂で御本尊を拝観してから、ご住職の法話を拝聴しました。f0300125_12295944.jpg時々ジョークも交えての法話は大変解りやすくて、時間の経過を忘れるぐらいでした。北極星信仰から始まり、人の命は死んだらおしまいで無くて、後の世にゆくのであるなどの仏教の教えから、桜は散るに対して梅、椿、牡丹、菊、雪柳などの花は散ると表現しない。等々、今でもよく覚えています。法話の余韻を残しながら、最後の訪問寺の単伝寺に向かいました。

3.単伝寺(臨済宗)

 f0300125_1454040.jpg単伝寺では、近道になる北門を開けて石田副住職に出迎えていただきました。単伝寺のしおりには「今から二百年前に京都妙心寺の法類の瑞応単伝和尚が人々の不慮の災難を救うことを発願して、救苦観音を安置し祈祷修繕されたのが単伝寺再興の由来です。」と記されています。境内で石田副住職に単伝寺の概要説明を伺ってから、2班に分かれて本堂と大黒堂の参拝をしました。石田副住職は2箇所を行き来しての説明をされました。単伝寺は通称らくがき寺として広く知れ渡っています、
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 しかし、私はその由来は全く知りませんでした。説明では、単伝寺は、戊辰戦争で山門のみ残る被害にあい、先の大戦後の農地改革では寺領も無くなりましたが、先代住職の尽力により大黒堂を建てられ、その時にご寄付をされた方々に「願いごと」を書くようにと勧められたことが、らくがき(“願いごと”を壁に書くこと)の始まりであると伺いました。
 本堂の本尊「五大釈迦」前では、いろいろな説明をしていただき椅子に座り拝聴しました。f0300125_14182536.jpg
 また、境内の自由見学では山門横の比翼地蔵堂の約400年前に刻まれた縁結び2対の地蔵像(石仏)は、印象に残っています。
 この単伝寺境内で第4回八幡の古寺巡礼は、予定の時刻でもって解散としました。なお、八幡市駅方面に帰宅される参加者のために、近道になる山門を開けていただき有り難うございました。

おわりに

 連続4年になる「第4回八幡の古寺巡礼」は、お陰様で無事終了しました。
 今回巡った3寺は、宗派も違いいろいろなことを知ることができました。ご案内や説明いただいた3寺のご住職の方々には、改めて厚く御礼申し上げます。特に、法園寺の国の重要文化財指定「釈迦如来坐像」の特別拝観に関しては、善法律寺の松浦住職には収蔵庫内の事前確認及び当日の案内と大変お世話になり感謝致します。
 4回開催の八幡の古寺巡礼は、4年間で10寺院を巡りました。次年度も「古寺巡礼」を継続開催して、八幡の歴史を探究して行きたいと思います。これからも八幡の古寺に関する情報等がございましたらお寄せいただきたくお願いします。


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# by y-rekitan | 2017-01-20 11:00 | Comments(0)

◆会報第77号より-03 古墳と鏡①

シリーズ八幡の古墳と鏡・・・①
八幡の古墳と鏡(1) 

濵田 博道 (会員) 


はじめに

 鏡は「古来、呪術的なものとして重視され、祭器や権威の象徴・財宝」(『広辞苑』)とされました。近畿では特に3世紀初めから5世紀初めにかけて築造された多くの古墳や墳墓に副葬されています。(もちろんこの時代以外の古墳や墓にも副葬されていますが。)
 八幡市のいくつかの古墳でも30枚ほどの鏡が出土しています。(下表参照)
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 この八幡市内の古墳から出土した鏡が以前、博物館の展示会でとりあげられたことがありました。1995年(平成7年)、大阪府立近つ飛鳥博物館で『鏡の時代-銅鏡百枚』(銅鏡百枚というのは『魏志』倭人伝記事中の、卑弥呼が239年に魏の皇帝から下賜された百枚の鏡のことです)の特別展があったとき、図録中「三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう)出土地一覧表」(241古墳)に八幡市の3つの古墳名が載っていました。すなわち西車塚古墳、東車塚古墳、内里古墳がそれです。(注1)
 三角縁神獣鏡という名前は鏡の裏面に神仙思想を表す神獣が描かれ、その縁の断面形が盛り上がり三角形の形をしていることから付けられています。面径が21~25cmぐらいの大型鏡です。当時三角縁神獣鏡は、卑弥呼が貰った鏡の最有力候補でした。
 また一昨年(2015年)春、大阪府立弥生文化博物館(和泉市)で「卑弥呼」の特別展が開催されたとき、八幡石不動古墳出土の鏡が「新たな卑弥呼の鏡の候補か」として展示されました。
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この鏡は普段京都大学総合博物館に所蔵されていてめったに見ることができない鏡であり、さらに「新しい卑弥呼の鏡の候補か」とまで解説され、パンフレットに載っていましたので驚きでした。(この鏡は2016年10月15日から12月4日まで京都府立山城郷土資料館で開催された特別展「山城の二大古墳群-乙訓古墳群と久津川古墳群-」でも展示されました)これら卑弥呼の鏡との関係が“うわさ”される八幡市内古墳出土のいくつかの鏡について、今回考えてみます。

1、三角縁神獣鏡と卑弥呼の鏡

 まず、三角縁神獣鏡がなぜ卑弥呼の鏡と言われるようになったのか、その経過を簡単に振り返ってみます。
 『魏志』倭人伝に、魏の皇帝から卑弥呼に下賜された百枚の銅鏡について書かれています。その鏡の研究を通して日本の古代国家のはじまりの過程や地域間交流、東アジアの中での日本の国家形成の位置づけ、鏡は国家形成過程の中でどのようにして生まれ発展していくか、など明らかになっていくのではないかと考えられました。その鏡が日本のどこかに残っているはずだとして、探す研究・努力が1920年台(大正時代)から続けられてきました。1953年、有力な手がかりが京都府木津川市の椿井大塚山古墳(つばいおおつかやまこふん)でみつかりました。この古墳は3世紀末頃に築造された全長175mの前方後円墳ですが、後円部をJR奈良線が横切っています。その線路拡幅工事の際、偶然古墳の石室が発見され、36枚以上もの鏡と武具が出土しました。32枚以上を占める三角縁神獣鏡の分析もされ、この鏡が各地の古墳に同笵鏡(どうはんきょう・同じ鋳型で鋳造した鏡)として副葬され、多数存在することから次のような解釈がされました。邪馬台国時代に卑弥呼が貰った鏡を次の王権が引き継ぎ、それを各豪族に配布、分有し、伝世、同盟の証しとしたのではないか、と。その説が今日でも有力です。また、その前後から各地で魏の年号が記名された三角縁神獣鏡が次々と発掘されました。最近では1997年、ヤマト王権発祥の地・大和東南部・天理市の黒塚古墳から33枚もの三角縁神獣鏡が発掘され、世間を驚かせました。2009年には桜井市の桜井茶臼山古墳で再発掘が行われ、新たに81枚の鏡片、そのうち三角縁神獣鏡の鏡片が26枚見つかりました。3世紀後半から4世紀初め、大和中央の古墳で大量の三角縁神獣鏡が次々と発見されたのです。三角縁神獣鏡はその他にも、日本国内の各地で発見されており、現在560枚ほどになっています。(注2)
 一方、三角縁神獣鏡は肝心の中国からは一枚も出土していない(一昨年、一枚確認されたという報道がありました。)だから卑弥呼が貰った鏡とはいえない、また魏の皇帝から百枚しかもらっていない鏡が五百枚を超えて出土するのはおかしい、三角縁神獣鏡は倭(日本)で造ったのではないか、という反対の意見が出ました。ですが、その後の研究で魏の鏡製造の特徴が三角縁神獣鏡にあること、魔(ま)鏡(きょう)の性質(鏡に光をあてると裏面の神獣の姿が壁などに映し出されること)などの発見もありました。
 この560枚の三角縁神獣鏡の製作地については、現在も研究者の意見は大きく2つに分かれています。
 中国鏡説 
A、最初、三角縁神獣鏡は中国の魏・徐州(じょしゅう)で造られ(魏鏡説)、楽浪郡を経由してもたらされ、その後、日本(倭)で造られたものもある。(楽浪郡で鋳造されたとの説もあります)
B、すべて中国で造られたものだ
 
 倭鏡説
すべて日本で造られたものだ。(中国の工人が日本に来て造った)
  
 鏡の鋳型などが発見されれば、有力な証拠になりますが、鋳型が土製で、それを壊して鏡を取り出すので残存の可能性は少なく、まだどこからも発見されておらず決着はついていません。

2、銅鏡百枚研究の新しい説

 銅鏡百枚について最近次のような見解が出されています。
 “従来『魏志』倭人伝に出てくる卑弥呼が貰った「銅鏡百面(枚)」は、三角縁神獣鏡であろうといわれていました。こういう考え方がかってはほぼ定説化していました。が、その後、とくに日本でここ30年ぐらいの間に三角縁神獣鏡の研究が飛躍的に進んでき、その結果、240年に卑弥呼の使いが貰って帰ってきた鏡に、三角縁神獣鏡が仮に含まれていたとしても、それはごくわずかであって、ほとんどはそれ以前の鏡であること。少なくとも卑弥呼が貰った「銅鏡百面(枚)」の大部分は三角縁神獣鏡ではないだろう。”(白石太一郎ら『纏向発見と邪馬台国の全貌-卑弥呼と三角縁神獣鏡』ADOKAW,2016から一部抜粋要約)
 今まで卑弥呼の鏡と言われてきた三角縁神獣鏡の大部分は卑弥呼が貰った鏡ではない、これは衝撃的です。なぜ、そう考えられるようになったのか。その理由の一つは、三角縁神獣鏡の古墳での副葬状態にありました。が、このことについては次回触れたいと思います。二つ目の理由は、三角縁神獣鏡そのものの研究が進んだことです。その横断面などの形やレーザー計測での詳しい分析などから編年がだんだんわかってきました。三角縁神獣鏡の鋳造が240年前後から50~60年間ぐらい続いたとして、古さの順にA・B・C・Dのだいたい4段階ぐらいに分けられるらしいのです。(5段階など、他の説もありますが。)このうち卑弥呼が貰ったと考えられる三角縁神獣鏡は最古のA段階ということになります。
 では八幡市内出土の三角縁神獣鏡はどう位置づけられるのでしょうか。西車塚古墳、東車塚古墳出土の三角縁神獣鏡はC段階。265年~300年ごろ鋳造された舶載鏡(=中国鏡)ではないかとされています。(注3)ですから、年代からいって卑弥呼が貰った鏡ではない、ということになります。内里古墳の鏡も舶載鏡です。しかし、卑弥呼の鏡の可能性が弱まったことが、即、八幡出土の三角縁神獣鏡の意義が弱まったことにはなりません。八幡出土の三角縁神獣鏡には銘文が刻まれたり、中国官営の工房名が入っている鏡もあります。長岡京市や奈良・葛城地域の古墳出土鏡などと同笵の鏡もあります。どうやって鏡を手に入れたか、同じ鏡を所持した勢力はどういう関係だったのか、など謎が深まります。さらに、石不動古墳から出土した鏡を含めて「新たな卑弥呼の鏡候補」とされる鏡もあります。なぜそういえるのか。鏡の研究は進行形で、専門家でもはっきりしたことはあまり言えないでしょうが、ちらほら研究報告が出てきました。私たちアマチュアも関心を持っていきたいです。

3、八幡の鏡を学ぶ

 このように八幡の古墳から出土したのはどんな鏡か、興味あるところです。しかし、出土した鏡数、鏡名、所蔵場所、観察場所・方法などわからないことが多いのです。今回調べる中で、少しわかってきました。国立歴史民俗博物館研究報告第56号(1994年)によると、例えば八幡市の美濃山王塚古墳から出土したとされる十数枚の鏡は写真は残っていますが、すべて「現物無し」と報告されています。また、所在がはっきりしている八幡の鏡も東京・広島・京都・奈良など全国各地の博物館に所蔵されており、研究中などのため、常設展示されていません。特別展などがあって展示される場合は見学可能でしょうが、それがいつになるかはわからないのです。鏡に興味があっても、市民が見るにはそういう困難さもあります。私は八幡出土の30枚ほどの鏡のうち、1枚だけ見ることができましたが、これからも主に書籍をもとに少しずつ調べていくことになります。次回は「八幡出土の三角縁神獣鏡-おもに内里古墳の三角縁神獣鏡について」考えます。
(つづく) 空白


(注1) 八幡市の古墳については、歴探会報NO13 大洞真白「八幡の古墳とその特徴を学ぶ!」を参照してください。
(注2) 安本美典『卑弥呼の墓・宮殿を捏造するな!』勉誠出版,2011,P110より
(注3) 田中晋作『筒型銅器と政権交代』学生社,2009,P93~P98

【参考文献】
 大塚初重『卑弥呼の鏡 謎と真実』青春出版社,1998
 『鏡の時代-銅鏡百枚-』大阪府立近つ飛鳥博物館,1995
 『卑弥呼-女王創出の現象学-』大阪府立弥生文化博物館,2015


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# by y-rekitan | 2017-01-20 10:00 | Comments(0)

◆会報第77号より-04 八幡の古代植物④

シリーズ「八幡の古代植物」・・・④
八幡に見る古代植物 (第4回)

古代植物研究会代表 大谷雅彦 (会員) 


イチイ

 イチイ科イチイ属、常緑針葉高木樹。日本全国に生育していますが、近年はあまり見られなくなりました。東北地方から北海道に多く見られるようです。f0300125_6561238.jpg雌雄別株で、秋に赤い実を付けるのは雌株です。別名アララギとも呼ばれ、東北地方ではオンコとも呼ばれています。
 イチイの名前の由来は、仁徳天皇が、このイチイの木で笏(しゃく)を作らせ、その功徳をもって正一位を授けたことから、イチイ→一位となり、ここから階級制の名称に取り入れられたとも伝わっています。
 石清水八幡宮の研修センターの昇り階段の左下奥の隅にイチイの幼木があり、木の名前「イチイ」の札が付いているのでみてください。
f0300125_765819.jpg 中国地方の大山(だいせん)の頂上には、野生種のイチイが自生し、天然記念物に指定されています。
 樹としては、以前、床柱に利用されていました。針葉樹の中ではかなり堅い材に属し、強度も十分あります。また、年輪が細かく木肌がなめらかで光沢があり優美な感じがします。さらに、板の反りや割れも少なく、重厚な割に切削などの加工も容易であるとされます。
 木が曲がっていることが多いため製材の歩留りが悪いことや材そのものが少ないことなどを除けば優れた用材で、これほど木工に好適な材はまず見当たらないとさえ言えます。建築材や家具に使える程の量が確保できないので、現在では彫刻など、小さくて高価なものの原材料となっているのです。
 赤くて艶がある材質が珍重がられるので、寄木細工や象眼細工の材料になることが多い。そのため、飛騨高山では「一位一刀彫」という伝統工芸品があり、現在でもたくさんの彫刻師がいます。また、以前では鉛筆の材として多く使われていました。現在でも、鉛筆のB,B1、B2・・・等芯の軟らかい鉛筆の木材はイチイが使われているようです。

知っておきたいこと

(1) イチイには変種があります。キャラボク・オウゴン・キャラ・キミノオンコなどです。そのうちのキャラボクは、その名が香木の伽羅(キャラ)に似ているため付いたのですが、全くの別種である。キャラボクとイチイを比べた場合、全体的にはイチイの方が葉が明らかに大きい。
(2) イチイは東北北部と北海道では、サカキ・ヒサカキを産しないため、代わりにこのイチイが玉串など神事に用いられる。従って、この地域の神社では境内地に植えられている場合が多い。
(3) イチイガシは全くの別物なので要注意。イチイの葉と似た種類の木がたくさんあるのでご注意!


大宝律令における位階制

 イチイ=一位にちなんで、「大宝律令」における位階制について紹介します。大宝律令は、大宝元年(701)に制定されました。f0300125_153083.jpgそれ以前の冠位は48階を基礎にしていますが、大宝律令は、48から30に減じています。
 親王は一品(一位)から四品まで4階の品位(ほんい)に、諸王・諸臣は同じ一品(正一位)から従
五位下の間におかれ、親王と区別されています。外臣に対しては、正五位上から下の位に置かれましたが、朝廷への功績に応じて叙されました。(品はほん、又はぽんと読みます)
 その後、時の天皇が数度にわたり改正(改編)しますが、基本的に大宝律令の位階制が維持され、明治に入って一旦廃止されます。しかし、これに似た位階制が出来、これが延々と続き、現在の我が国の公務員の職階性につながっているとされます。

終わりに

 今回で、八幡に見る古代植物は終わることとなります。今後、八幡市内で歴史的にゆかりのある植物がみつかることを楽しみにしています。そして、八幡に現存しない古代植物も他にはたくさんありますので、今後みなさんにお伝えする機会があればと考えているところです。


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# by y-rekitan | 2017-01-20 09:00 | Comments(0)