◆八幡の歴史を探究する会

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 本会では、2010年より京都府八幡の歴史についての探究と共有を目指して、講演会や歴探ウォークの開催、会報の発行等の活動を積極的に続けています。

1/30 このサイトへの来訪者が5万人を越えました。感謝です。


2/16 新掲示板に投稿が1件、2/1 アクセスtop3を更新、1/26 新しい会報記事が6件、 12/27 新しい集いの案内が1件 追加されています。

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お急ぎの方は 最新の 《会報記事集いの案内》 に直行 できます。
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本会では定期的に会報を発行し現在 83号 を数えていますが、このサイトには
そこから 389件 の記事を掲載しております。

f0300125_23293750.jpgf0300125_23304016.jpg"1月度の記事別アクセス数 TOP3"
第76号:八幡に見る古代植物
第63号:八幡神人がなぜ奉納詩歌に熱中?
第66号:江戸時代の村の暮らし
1月度の人気タグ top3⇒  地蔵菩薩  八幡八景  エジソン

“アクセスtop3” コーナーについての 《解説とご案内》をこちらに 入れております。

なお個々の記事には以下の四つのルートから簡便にアクセスして頂けます。f0300125_20584995.jpgf0300125_20591768.jpgf0300125_20594243.jpgf0300125_210420.jpg

1/26 以下の朱書き部の連載や個別記事を追加掲載しました。
(前回更新日は 11/27)

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会報号番をクリックして頂くと、後はスクロールのみでその号の記事を一気にお読みいただけます。
なお朱書きが追加された号を示しております。

ブログ管理会社のシステム変更の影響で、現在以下をクリックすると、各号報のトップではなく記事一覧が出ます。お手数ですが その一覧ではクリックせず、そのまま下にスクロールしてご参照ください。
(各号のトップやエンドから前後の号報に移る場合も同じです)

《お知らせ》 第73号より会報は奇数月の隔月発行となっています。

2018年1月 第83号
2017年11月 第82号     2017年09月 第81号
2017年07月 第80号     2017年05月 第79号
2017年03月 第78号     2017年01月 第77号
2016年11月 第76号     2016年09月 第75号
2016年07月 第74号     2016年05月 第73号
2016年03月 第72号     2016年02月 第71号

2016年01月 第70号     2015年12月 第69号
2015年11月 第68号     2015年10月 第67号
2015年09月 第66号     2015年08月 第65号
2015年07月 第64号     2015年06月 第63号
2015年05月 第62号     2015年04月 第61号

2015年03月 第60号     2015年02月 第59号
2015年01月 第58号     2014年12月 第57号
2014年11月 第56号     2014年10月 第55号
2014年09月 第54号     2014年08月 第53号
2014年07月 第52号     2014年06月 第51号

2014年05月 第50号     2014年04月 第49号
2014年03月 第48号     2014年02月 第47号
2014年01月 第46号     2013年12月 第45号
2013年11月 第44号     2013年10月 第43号
2013年09月 第42号     2013年08月 第41号

2013年07月 第40号     2013年06月 第39号
2013年05月 第38号     2013年04月 第37号
2013年03月 第36号     2013年02月 第35号
2013年01月 第34号     2012年12月 第33号
2012年11月 第32号     2012年10月 第31号

2012年09月 第30号     2012年08月 第29号
2012年07月 第28号     2012年06月 第27号
2012年05月 第26号     2012年04月 第25号
2012年03月 第24号     2012年02月 第23号
2012年01月 第22号     2011年12月 第21号

2011年11月 第20号     2011年10月 第19号
2011年09月 第18号     2011年08月 第17号
2011年07月 第16号     2011年06月 第15号
2011年05月 第14号     2011年04月 第13号
2011年03月 第12号     2011年02月 第11号

2011年01月 第10号     2010年12月 第09号
2010年11月 第08号     2010年10月 第07号
2010年09月 第06号     2010年08月 第05号
2010年07月 第04号     2010年06月 第03号
2010年05月 第02号     2010年04月 第01号

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連載企画の記事はこちらから直接初回記事に入り、以降は文末でクリックすることで
連続参照して頂けます。 今回の号では朱書きの連載記事が追加 されています。


《連載》 “四條隆資卿物語” (第79号~第83号 完
《連載》 “八幡の古墳と鏡” (第77号~継続中
《連載》 “八幡に見る古代植物” (第74号~第77号)
《連載》 “詩歌に彩られた八幡の歴史” (第73号~第77号)
《連載》 “宮廷と歌合、そして石清水宮寺” (第71号~第72号)
《連載》 “心に引き継ぐ風景” (第70号~継続中
《連載》 “五輪塔あれこれ” (第70号~第79号)
《連載》 “『三宅安兵衛遺志』碑と八幡の歴史創出” (第70号~継続中
《連載》 “八幡の道を「高野街道」となぜ呼ぶのか?” (第67号~71号
《連載》 “松花堂昭乗が詠んだ八幡の町"  (第63号~第68号)
《連載》 “川の旅日記"  (第62号~第64号)
《連載》 “八 幡 八 景”  (第58号~第60号)
《連載》 “『歴史たんけん八幡』の発行"  (第56号~第68号)
《連載》 “御園神社考”  (第55号~第58号)
《連載》 “古代の声を聞く ”  (第53号~第54号)
《連載》 “自転車で巡る名所案内 ”  (第52号~第56号)
《連載》 “ 物語はどのように生まれたか ”  (第51号~第56号)
《連載》 “ 石清水八幡宮の歴史Q&A ”  (第50号~第57号)
《連載》 “ 伊佐家のしきたりとくらし ”  (第48号~第51号)
《連載》 “ 謡曲のふるさと八幡 ”  (第41号~第43号)
《連載》 “ 大谷川散策余話 ”  (第38号~第50号)
《連載》 “ 御文庫とエジソン碑 ”  (第36号~第45号)
《連載》 “ 墓石をたどる ”  (第33号~継続中)
《連載》 “ 八幡の歴史スポット ”  (第30号~第32号)
《連載》 “わが心の風景 ” (第28号~第69号)
《連載》 “八幡太鼓祭り ”  (第28号~第29号)
《連載》 “八幡に残る昔話と伝承 ”  (第26号~第30号)
《連載》 “ 八幡文学碑巡り ”  (第22号~第26号)
《連載》 “八幡神と神仏習合 ”  (第21号~第25号)
《連載》 “ 一枚の写真から ”  (第16号~第19号)
《連載》 “ 八幡の歴史の謎とは何か”  (第15号~第16号)
《連載》 “古歌に詠まれた南城山”  (第11号~第15号)
《連載》 “八幡の祭りについて”  (第5号~第17号)
《連載》 “八幡の歴史を彩る文化”  (第4号~第9号)
・・・
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現在掲載しているスポット記事は以下の通りです。クリックで直接お読み頂けます。

“石清水八幡宮と松本神社の絵馬 " (第83号)
“勅祭・石清水祭に学ぶ " (第82号)
“第45回八幡市民文化祭展示発表報告 " (第82号)
“高良神社の太鼓祭りを楽しむ " (第81号)
“「石清水八まん宮道」に悠久の歴史がある " (第81号)
“「『石清水八まん宮』に誘う道標群」の発刊にむけて " (第81号)
“八幡の京街道は川底に沈んだ " (第80号)
“消えた踏切道に思う " (第80号)
“今年白寿を迎えました " (第80号)
“『太平記』 八幡合戦の石碑を訪ねる " (第79号)
“「八幡の歴史を学ぶ連続学習会」2016年 " (第79号)
“石清水八幡宮を指し示す「八幡宮道」の道標の数々 " (第78号)
“大阪府下の東高野街道に「やわた道」の道標を訪ねて" (第77号)
“歴探サイト(ホームページ)の現況報告" (第77号)
“第44回八幡市民文化祭展示発表を終えて" (第76号)
“御幸橋南詰「石清水八幡宮鳥居通」道標は何処に?" (第75号)
“『茶揉み歌』を復活"  (第73号)
“「八幡大縁起」に参加して"  (第71号)
“上津屋橋(流れ橋)の復旧に向けて"  (第71号)
“新刊案内「戦国大名の正体"  (第70号)
“本妙寺文書「沢庵の書状」と紫衣事件"  (第69号)
“「古寺巡礼」で出会った仏さま"  (第69号)
“八幡の文化財(国宝指定)"  (第69号)
“国宝指定の答申に思う"  (第69号)
“京の街角の「湯たく山茶くれん寺"  (第69号)
“旅人は何故片手を挙げているのか"  (第67号)
“「八幡の道 探究部会」が発足しました"  (第67号)
“石清水八幡宮が国宝に!"  (第67号)
“第119代光格天皇と大江磐代君とその母"  (第64号)
“クイズ「私は誰でしょう」"  (第62号)
“西国三十三所観音石仏群の墓所"  (第61号)
“陸橋の名前"  (第61号)

これより古い号の個別記事インデックスはこちらに

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◆八幡のおすすめキーワードで関連記事を◆
この画面の右上の “タグ” 欄のおすすめキーワードをクリックして頂くと、ブログ内の
関連記事をまとめてご参照頂けます。
最初に記事一覧が出ますが、そこではクリックせずスクロールでお読みください。
なおタグ記事閲覧後に元に戻る場合は、一旦上端までスクロールし画面左上隅の
“Y-rekitan八幡”の文字をクリックしてください。

任意のキーワードで記事を検索
右上の “検索ボックス” に八幡に関わる任意のキーワードをセットして頂きますと、
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# by y-rekitan | 2018-12-31 20:00 | Comments(0)

◆コーナー・講演会の記録

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「八幡の歴史を探究する会」では、定期的に講演会や歴探ウォーキングの集いを実施していますが、このコーナーでは、その講演会のレポートを紹介しております。

 11/27 朱書きの記事を追加掲載しました。 現在の記事数は 59件です。 

下記の任意の記事をクリックして頂くと、それ以降は記事下端で“次のレポート”をクリックして頂くことで連続参照して頂けます。 

  《講演会録》 82号 2017年10月 森本家文書からみた近世石清水の神人構成と身分
  《講演会録》 81号 2017年08月 石清水八幡宮の牛玉宝印
  《講演会録》 79号 2017年04月 三川合流の変遷と周辺都市
  《講演会録》 78号 2017年02月 謡曲から見た八幡
  《講演会録》 76号 2016年10月 八幡の古代遺跡と道
  《講演会録》 75号 2016年08月 石清水八幡宮の成立と機能
  《講演会録》 73号 2016年05月 石清水八幡宮の由緒と建築様式
  《講演会録》 71号 2016年02月 中世都市 八幡
  《講演会録》 70号 2016年01月 『三宅安兵衛遺志』碑と八幡の歴史創出

  《講演会録》 68号 2015年11月 継体大王の謎を追う
  《講演会録》 67号 2015年10月 弥生時代の八幡市とその周辺
  《講演会録》 66号 2015年09月 江戸時代の村の暮らし
  《講演会録》 63号 2015年06月 酒麹作りがビジネスの八幡神人がなぜ奉納詩歌に
  《講演会録》 62号 2015年05月 知っているようで知らない松花堂昭乗のこと
  《講演会録》 61号 2015年04月 幕末政治と攘夷―長州・京都・八幡
  《講演会録》 59号 2015年02月 二宮忠八と八幡
  《講演会録》 58号 2015年01月 史跡 松花堂庭園の成立
  《講演会録》 57号 2014年12月 中村家住宅の国登録有形文化財指定
  《講演会録》 56号 2014年11月 中世大山崎の商業活動について

  《講演会録》 55号 2014年10月 「安居頭諸事覚」を読む
  《講演会録》 54号 2014年09月 地誌に見る八幡
  《講演会録》 54号 2014年08月 神国論の系譜
  《講演会録》 51号 2014年06月 八幡を掘る
  《講演会録》 50号 2014年05月 門前町の八幡「今」「昔」
  《講演会録》 49号 2014年04月 石清水八幡宮の年中行事と庶民信仰
  《講演会録》 47号 2014年02月 松花堂昭乗の茶の湯
  《講演会録》 46号 2014年01月 歌人吉井勇の歌行脚
  《講演会録》 44号 2013年11月 八幡の歴史と土器
  《講演会録》 43号 2013年10月 八幡における浄土信仰

  《講演会録》 42号 2013年09月 江戸時代の村の暮らし
  《講演会録》 41号 2013年08月 武家政権と石清水八幡宮
  《講演会録》 39号 2013年06月 八幡社士総代「江戸尾張年頭御礼日記」
  《講演会録》 38号 2013年05月 天下人の時代と八幡
  《講演会録》 37号 2013年04月 南山城の地域史を学んで
  《講演会録》 35号 2013年02月 松花堂昭乗の江戸下向
  《講演会録》 34号 2013年01月 八幡・山崎の警備体制と鳥羽伏見
  《講演会録》 32号 2012年11月 松花堂昭乗と近世前期の文芸
  《例会報告》 30号 2012年09月 「八幡歴史カルタ」読み札の決定
  《講演会録》 29号 2012年08月 石清水際と神人の経済活動

  《講演会録》 28号 2012年07月 良いまちには良い川がある
  《講演会録》 27号 2012年06月 八幡の町の成り立ち
  《講演会録》 26号 2012年05月 庶民信仰と八幡大菩薩
  《講演会録》 25号 2012年04月 男山文化園の中心・八幡
  《講演会録》 23号 2012年02月 古代の八幡を探る
  《講演会録》 21号 2011年12月 高度経済成長期の八幡を語る
  《講演会録》 20号 2011年11月 八幡八景の成立とその背景
  《例会報告》 19号 2011年10月 八幡の歴史を次代に遺そう!
  《講演会録》 18号 2011年09月 墓地で探る八幡の歴史(1)
  《講演会録》 18号 2011年09月 墓地で探る八幡の歴史(2)

  《講演会録》 16号 2011年07月 地名で学ぶ八幡の歴史
  《講演会録》 14号 2011年05月 中世都市橋本を学ぶ
  《講演会録》 13号 2011年04月 八幡の古墳とその特徴を学ぶ!
  《講演会録》 12号 2011年03月 神仏習合の実像に迫る
  《講演会録》 11号 2011年02月 近代の門前町と参詣路を語り合う
  《講演会録》 10号 2011年01月 南北朝の争乱と八幡
  《講演会録》 08号 2010年11月 淀屋の歴史をたどる!
  《講演会録》 06号 2010年09月 石清水八幡宮の絵図を読み解く!
  《講演会録》 04号 2010年07月 松花堂昭乗の出自を追う!
  《講演会録》 02号 2010年05月 古代の遺跡から八幡の歴史を学ぶ

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# by y-rekitan | 2018-12-31 18:00 | Comments(0)

◆コーナー・歴探ウォークの記録

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「八幡の歴史を探究する会」では、定期的に講演会や歴探ウォーキングの集いを実施していますが、このコーナーでは、その歴探ウォークのレポートを紹介しております。

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 1/26 朱書き記事を追加掲載しました。 現在の記事数は 20件です。 

下記の任意の記事をクリックして頂くと、それ以降は記事下端で“次のレポート”をクリックして頂くことで連続参照して頂けます。

  《歴探散策》 83号 2017年12月 八幡の古寺巡礼 第5回
  《歴探散策》 80号 2017年06月 東山寺と伊弉諾神宮を訪ねて(バスツアー)
  《歴探散策》 77号 2016年12月 八幡の古寺巡礼 第4回
  《歴探散策》 74号 2016年06月 丹後を訪ねてのバスツアー報告
  《歴探散策》 72号 2016年03月 石清水八幡宮 山上伽藍の探訪
  《歴探散策》 69号 2015年12月 八幡の古寺巡礼 第3回
  《歴探散策》 64号 2015年07月 長岡宮を訪ねてのバスツアー報告
  《歴探散策》 60号 2015年03月 橋本の歴史(2)「平野山・西山を歩く」
  《歴探散策》 57号 2014年12月 八幡の古寺巡礼 第2回
  《歴探散策》 52号 2014年07月 対岸の町「山崎・大山崎」を訪ねる

  《歴探散策》 48号 2014年03月 橋本の歴史(1)「京街道を行く」
  《歴探散策》 45号 2013年12月 八幡の古寺巡礼(第1回)
  《歴探散策》 40号 2013年07月 二つの資料館をめぐる
  《歴探散策》 36号 2013年03月 春爛漫の歴史探訪ウォーク
  《歴探散策》 33号 2012年12月 男山参詣路を歩く
  《歴探散策》 31号 2012年10月 八幡の古建築の探訪
  《歴探散策》 25号 2012年04月 歴史探訪「男山参詣路を歩く」
  《歴探散策》 15号 2011年06月 東高野街道を歩く
  《歴探散策》 07号 2010年10月 上津屋の名所をめぐる
  《歴探散策》 03号 2010年06月 八幡の名所・旧跡を歩く

なお歴探ウォークの自転車版、サイクリングツアーについても概要を連載記事として掲載していますので、併せてご参照ください。
《連載記事》 “自転車で巡る名所案内 ”

# by y-rekitan | 2018-12-31 16:00 | Comments(1)

◆コーナー・新しい集いのご案内

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本会では八幡の歴史の探究と共有を目指して、講演会や歴探ウォーク等の集いを定期的に催しておりますが、このコーナーではそのスケジュール等を掲載しております。
併せて本会のトピックスや出版物等についても掲載しておりますのでご参照ください。

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ただ今、以下の集いやイベントを案内中です。詳しくはリンクのパンフレットをご参照のうえ、ご参加ください。 12/27更新


f0300125_1833548.jpg◆会員研究発表(2018年2月)


   ・概要  八幡の道の歴史
         -江戸時代の道標調査を終えてー
   ・日時  2018年2月22日(木) 午後1時30分~4時
   ・場所  八幡市文化センター3階 第3会議室



f0300125_1833548.jpg(2017年度)八幡の歴史を学ぶ連続学習会

   ・概要  2017年度 八幡の歴史を学ぶ連続学習会(隔月開催)
   ・日時  2017年 5月18日(木) 「八幡神と男山遷座」
《終了しました》 参加者は47名でした。 空白空白
        2017年 7月20日(木) 「元寇から南北朝の争乱まで」
《終了しました》 参加者は43 名でした。 空白空白
        2017年 9月21日(木)  「天下人と八幡」
《終了しました》 参加者は34 名でした。 空白空白
        2017年11月16日(木) 「鳥羽伏見の戦いと八幡・橋本」
《終了しました》 参加者は33 名でした。空白空白
        2018年 1月18日(木)「八幡東部の神社(川口天満宮、内神社)」
《終了しました》 参加者は36 名でした。空白空白
   次回は⇒ 2018年 3月16日(木) 「近代化の八幡と戦時下の八幡」

        ※何れも午前10時~11時半
   ・場所  ふるさと学習館2階研修室



f0300125_1833548.jpg◆歴史探訪ウォーク(2017年12月)

《終了しました》 参加者は39名でした。
   ・概要  八幡の古寺巡礼 ー第5回:男山南部の寺を巡るー
   ・日時  2017年12月7日(日) 午後1時10分~4時頃
   ・場所  松花堂庭園前の昭乗広場



f0300125_1833548.jpg◆講演と交流の集い(2017年10月)

《終了しました》 参加者は47名でした。
   ・概要  森本家文書からみた近世石清水の神人構成と身分
   ・日時  2017年10月15日(日) 午後1時30分~4時
   ・場所  八幡市文化センター3階 第3会議室



f0300125_1833548.jpg◆講演と交流の集い(2017年8月)
 
《終了しました》 参加者は40名でした。
   ・概要  石清水八幡宮の牛王宝印
   ・日時  2017年8月26日(土) 午後2時~4時
   ・場所  さくらであい館 イベント広場「淀」




f0300125_1833548.jpg◆歴史探訪バスツアー

《終了しました》 参加者は39名でした。

   ・概要  歴史探訪バスツアー
   ・日時  2017年 6月15日(木) 午前7時50分~午後6時頃
   ・場所 《訪問先》バスで淡路島に向かいます
         伊弉諾(いざなぎ)神社⇒(昼食:海鮮料理)⇒東山寺
        ー詳細はバスツアーのパンフレット参照ー



f0300125_1833548.jpg◆年次総会及び講演と交流の集い

《終了しました》 参加者は58名でした。
   ・概要 (八幡の歴史を探究する会) 年次総会
        (講演と交流の集い)   「淀川・三川合流の歴史とその周辺」  
   ・日時  2017年 4月23日(日) 年次総会:午後1時30分~2時10分
                   講演と交流の集い:午後2時30分~4時30分
   ・場所  さくらであい館(イベントホール)



f0300125_1833548.jpg◆八幡の歴史を学ぶ連続学習会>

《終了しました》
   ・概要  八幡の歴史を学ぶ連続学習会(隔月開催)
   ・日時  2016年 5月19日(木) 「大むかしの八幡」(29名参加)
        2016年 7月14日(木) 「町の成り立ちと神人の活躍」
                             (37名参加)
        2016年 9月15日(木)  「松花堂昭乗という人がいた」
                             (32名参加)
        2016年11月17日(木) 「淀屋と八幡」(34名参加)
        2017年 1月19日(木)  「河川と歩んだ八幡」(30名参加)
        2017年 3月16日(木) 「昭和から平成へ」(28名参加)     
        ※午前10時~11時半
   ・場所  ふるさと学習館2階研修室



f0300125_1833548.jpg◆会員研究発表

《終了しました》 参加者は40名でした。
   ・概要  謡曲から見た八幡
   ・日時  2017年 2月15日(水) 午後1時30分~
   ・場所  松花堂美術館 講習室



f0300125_1833548.jpg◆歴史探訪ウォーク

《終了しました》 参加者は46名でした。 
   ・概要  八幡の古寺巡礼
        ー第4回:男山山麓の寺を巡る(Partー3)ー
   ・日時  2016年 12月8日(木) 午後1時~4時頃
   ・場所  京阪八幡市駅→法園寺→正福寺→単伝寺



f0300125_1833548.jpg◆「八幡の道探究部会」の展示発表

《終了しました》2日間とも多くの来場者がありました。
   ・概要  「八幡の古道」展示発表(八幡市民文化祭)
   ・日時  2016年 10月29日(土) 午前10時~午後5時
        2016年 10月30日(日) 午前10時~午後4時
   ・場所  第44回八幡市民文化祭
         八幡市文化センター 3階エレベーターホール



f0300125_1833548.jpg◆講演と交流の集い(10月)

《終了しました》 参加者は33名でした。
   ・概要  八幡の古代遺跡と道
   ・日時  2016年 10月16日(日) 
   ・場所  八幡市文化センター第3会議室



f0300125_1833548.jpg◆講演と交流の集い(8月)

《終了しました》 参加者は42名でした。
   ・概要  石清水八幡宮の別宮の成立と機能
   ・日時  2016年8月27日(木) 午後2時~4時半
   ・場所  八幡市文化センター 第3会議室



f0300125_1833548.jpg◆歴史探訪バスツアー(6月)

《終了しました》 参加者は38名でした。 
  ・概要  丹後を訪ねて
  ・日時  2016年6月9日(木) 午前8時~午後6時頃
  ・場所  《訪問先》 丹後郷土資料館 ⇒ 籠神社 ⇒ ちりめん街道
       ―バスツアーの詳細はパンフレット参照―



f0300125_1833548.jpg◆年次総会及び講演と交流の集い(4月)

《終了しました》 参加者は38名でした。 
   ・概要 (八幡の歴史を探究する会)年次総会
       (講演と交流の集い)  「石清水八幡宮の由緒と建築様式」  
   ・日時 2016年4月21日(木)  年次総会:午後1時~1時40分 
                   講演と交流の集い:午後2時~4時
   ・場所 石清水八幡宮研修センター(男山山上)


f0300125_1833548.jpg◆講演と現地探訪の集い(3月)

《終了しました》 参加者は52名でした。 
    ・概要  石清水八幡宮 山上伽藍の探訪
    ・日時  2016年3月13日(日) 午後1時~4時頃
    ・場所  石清水八幡宮研修センター(講演)及び男山山上探訪


f0300125_1833548.jpg◆男山考古録を読むパートⅢ(第12回)

《終了しました》 参加者は23名でした。 
    ・概要  男山考古録」を読む パートⅢ第4回(通算:第12回)
    ・日時  2016年2月17日(水) 午前10時~11時30分
    ・場所  八幡市立生涯学習センター 会議室

f0300125_1833548.jpg◆講演と交流の集い(2月)

《終了しました》 参加者は58名でした。 
    ・概要  中世都市 八幡
    ・日時  2016年2月14日(日) 午後1時30分~4時
    ・場所  松花堂美術館 講習室


f0300125_1833548.jpg◆講演と交流の集い(1月)

《終了しました》 参加者は78名でした。 
    ・概要  「三宅安兵衛遺志」碑と八幡の歴史創出
    ・日時  2016年1月17日(日) 午後1時30分~4時
    ・場所  八幡市文化センター第3会議室




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# by y-rekitan | 2018-12-31 15:00 | Comments(0)

◆コーナー・トピックス & 出版活動

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◆2017年10月28日~29日 第45回八幡市民文化祭に出展
 八幡市民文化祭には例年通り出展会場は、八幡市文化センター3階ロビーでした。今年は専門部会「八幡の道探究部会」が2年間かけて現地に出向き調査した八幡市内(22基)及び市外(54基)の『江戸時代の八幡道標(みちしるべ)』をパネル5枚に掲示しました。
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 2日とも台風接近の影響による生憎の雨天のために屋外の展示は中止になり来場者も例年より少なかったですが、来場の皆さんは江戸時代に設置され今に残る八幡道標に興味をもたれてパネルに展示の道標写真や設置場所を地図で確認されていました。また、会場で販売した調査結果を纏めた『「石清水八まん宮道」に誘う道標群”ー江戸時代の八幡道標ー』の本は、予想より遙かに多くの方に購入していただきました。
 展示パネル前のテーブル上には、本と共に「八幡の歴史カルタ」や会報(2年間のバックナンバー)、例会や連続学習会のチラシ等も並べました。
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◆2016年10月29日~30日 第44回八幡市民文化祭に出展
 今年の文化際には、昨年10月発足した専門部会『八幡の道探究部会』の1年間の活動成果を展示発表しました。展示のテーマは「八幡の古道」で、①古地図(6枚)、②古道の作製地図(2枚ー写真6点)、③江戸時代の道標地図(2枚ー写真27点)などを展示しました。
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 展示会場の八幡市民文化センター3階ロビーには、2日間で約200人の大勢の方が訪れられ、展示物を見ていただきました。また、部会員の説明を熱心に聞いておられました。今回の展示発表は当初予想より皆様の古道や古い道標への関心は高くて、準備していた古道や道標地図及び道標リストは多くの方が求められてたので途中で増刷しました。中には関心のある道標を今から見に行くと仰る方も居られました。
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◆2016年6月12日 『八幡の歴史カルタ』の関連史跡めぐり
 「安居塚ブロック福祉委員会(ふれあいサロン)」の皆様が本会制作の『八幡の歴史カルタ』に詠まれている史跡巡りをされている様子が、八幡市社会福祉協議会の広報誌「やわたし社協だより」第108号(2016年6月1日発行)に紹介されました。
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 催しを主催された福祉委員会の安居塚ブロック長 中崎幸子様から「八幡の歴史カルタ等に紹介されている名所巡りを今年3月と5月実施しましましたが、皆様に好評なので11月にも計画しています」と伺いました。

◆2016年6月12日 カルタ資料館に『八幡の歴史カルタ』を寄贈
 この度、福岡県大牟田市立三池カルタ・歴史資料館から、当会制作の「八幡の歴史かるたカルタ」の寄贈依頼があり1セットを寄贈しました。f0300125_1521852.jpg この資料館は日本及び世界のカルタ(歌カルタ・いろはカルタ・トランプ・タロットなど)を専門に収集・展示・研究をする日本で唯一の資料館です。
(注記)
 日本のカルタは、ポルトガルからの影響を受け、16世紀末頃、筑後の三池地方で作り始められたと言われている。その関係で大牟田市が1991(平成3)年に日本で唯一のカルタ専門館を開館した。

2015年10月31日~11月1日第43回八幡市民文化祭に出展
 今年も八幡市文化センターでの市民文化祭に出展しました。「八幡の歴史クイズ」の実施と「歴史カルタ」及び「歴史たんけんマップ」を掲示しました。約100名の方が歴史クイズに挑戦されました。
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◆2015年9月27日 「歴史たんけん八幡」出版記念の集い
 松花堂庭園・美術館別館において実施された、第Ⅰ部記念講演、第Ⅱ部「出版記念」交流の集いは、堀口八幡市長をはじめ多くの方が参加されて盛況でした。
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 ◆2015年5月9日 八幡市生涯学習センター「わくわくドキドキ縁日」に出展。
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 ◆2015年04月18日 発足5周年記念で会の旗製作の記事が京都新聞に。
 ◆2015年02月13日 2月例会「二宮忠八と飛行神社」が京都新聞に掲載。 
 ◆2014年12月23日 「やましろのタカラフェステバル」(文化パルク城陽)に出展。
 ◆2014年11月1~2日 第42回八幡市民文化祭に出展
 ◆2014年08月15日 会報50号達成記念(バックナンバー増刷)が京都新聞に掲載。
 ◆2014年06月09日 KBS京都ラジオで本会活動紹介の放送がありました。
 ◆2014年06月01日 八幡山柴公民館フェスティバルで、歴探クイズの展示。
 ◆2014年05月28日 「歴史探訪サイクリング」が京都新聞で紹介されました。


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◆『石清水八まん宮道』に いざな道標みちしるべ
     ―江戸時代の八幡道標― を発刊しました

 好評につき、増版し販売を継続中です! 

 専門部会「八幡の道探究部会」の立上げ後2年間で、の江戸時代の道標調査結果を取りまとめて予定通り2017年10月12日に冊子を発刊しました。

 本書は150年以上前の「江戸時代」に建立された八幡市内及び市外の「八幡道標」ともいうべき道標群を「昔と今を結ぶ掛替えのない歴史遺産として保護する」とともに「後世に引き継ぎたい」との強い願いから、76基の道標を会員が自分の足で調査した結果をまとめたものです。
 多くの方々に感心を持っていただくことが、道標の保護につながると確信しています。
 是非この冊子を片手に各地の江戸時代と現在を結ぶ八幡道標を訪ねられることを願って出版致しました。

出版冊子の概要
 A5版フルカラーで96ページです。また、掲載している地図は、現地で迷わないように道標設置の場所をピンポイントで示しています。本書は極力廉価で皆様にご提供できることを目指し、すべて本会で自家編集し、それをそのままネット印刷で本にしました。

主な内容
f0300125_21252046.jpg1.刊行にあたって
2.江戸時代の八まん宮道 エリ
  ア区分地図
3.「八幡道標」の紹介―以下の
  合計76基
  ・八幡市 :22基
  ・京都市内:8基
  ・長岡京市:1基
  ・大山崎町:1基
  ・高槻市 :3基
  ・茨木市 :1基
  ・枚方市 :26基
  ・交野市 :2基
  ・寝屋川市:2基
  ・四條畷市:3基
  ・大東市 :2基
  ・東大阪市:5基
4.八幡道標の調査を終えて
5.編集後記

本書の販売について
・販売価格 : 900円(会員価格)
・販売場所 : 本会の行事や催し物会場などで都度販売します。
       
・委託販売所: 松花堂ミュージアムショップ
        石清水八幡宮(本殿)授与所
        
・本会での販売について
   事務局  高田昌史 宛に連絡ください。
   電 話   090-2011-7503
   メール  takata@cd6.so-net.ne.jp
   または、お近くの本会の幹事までお願いします。

・郵送販売について
   販売価格+郵送料(180円)をいただきます。
   お支払方法は下記口座あての郵便振り込みを願いします。
    申し込み: 歴探事務局 takata@cd6.so-net.ne.jp
    支払振込: 郵便振込口座番号:00970-2-322353
         (加入者名:八幡の歴史を探究する会)
    ・お願い ー 振込前にご一報下さい、早くお送りできます。

この本の発行がニュースとして京都新聞に掲載されました。
 江戸時代の八幡道標をとりまとめた冊子の発刊を記念し、冊子で取り上げている全76基の道標位置をグーグル地図上に正確にプロットした専用のマップを作成しました。道標の位置や設置場所の様子を確認する補助ツールとして、冊子と共にご利用いただければ幸いです。
 グーグル“江戸時代の八幡道標”マップへ⇒
 道標マップの御利用法はこちらに⇒
  


◆歴史と文化の本、『歴史たんけん八幡』は好評のうちに完売。

2015.9.1 大人も子供もこの一冊で、八幡の歴史と文化がよくわかる本、『歴史たんけん八幡』が発刊されました。
 発行日の9月1日にはこの本を八幡市に贈る贈呈式が行われ、その後ミュージアムショップやイベント会場で販売を行ってまいりましたが、好評のうちに販売を完了しました。
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『歴史たんけん八幡』、発刊よもやま話

f0300125_0485928.png 本会ではこの本の一年半にわたる企画から編集、発刊に至る経緯や本の概要を、シリーズ記事として会報で紹介してまいりました。
以下にその記事をリストアップしていますのでご参照ください。
(写真は制作委員会の風景です)


発刊に向けて ▼『歴史たんけん八幡』の発行にむけて
 ▼本の紹介として「特別連続講座」を開設
 ▼本の紹介としての「特別連続講座②」を開催
 ▼いよいよ『歴史たんけん八幡』の発行が迫る

発刊に寄せて ▼刊行に寄せて・・・『歴史たんけん八幡』と私
 ▼『歴史たんけん八幡』が発行されました
 ▼八幡の歴史にこの本の刊行が刻み込まれた
 ▼出版記念の集いが開かれました!
 ▼『歴史たんけん八幡』の普及と活用 / 読書感想

                    


◆本会制作の 『八幡の歴史カルタ』 を販売中です。
2013年2月に発売した《初版》は好評のうちに完売しました。現在は装いを新たにした改訂版を販売中です。

発行:2013年5月25日
販売価格:1,000円
制作:八幡の歴史を探究する会
絵札:森川 修
ケース:石瀬謙三
句:歴探会員応募作より
句の解説:歴探会員有志 (読み札の裏はその句の歴史的な解説になっています)
       
販売所:松花堂ミュージアムショップ、
・歴探事務局 takata@cd6.so-net.ne.jp
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◆本会の会報のバックナンバーを販売しています。

f0300125_15224688.jpg  ご要望が多いこともあり、会報50号を発行した記念にバックナンバーを増刷し販売しております。
  • 各号とも1部100円です。
  • 体裁は白黒A4版で、各号ともおおむね10~20ページの構成となっております。(但し古い号では10ページ未満のものもあります)
  • ご希望の方は講演会等の例会の際にお買い求め下さい。
  • また非会員の方を含め郵送をご希望の方は、下記「歴探事務局」まで希望会報の号番号、送付先等の必要事項をメールでご連絡ください。会報を10号分(部)以上まとめて購入される方の郵送料は、当会で負担させて頂きます。

    なおお支払方法は下記口座あての郵便振り込みとさせていただきます。
       申し込み: 歴探事務局 takata@cd6.so-net.ne.jp
       支払振込: 郵便振込口座番号:00970-2-322353
              (加入者名:八幡の歴史を探究する会)
       

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# by y-rekitan | 2018-12-31 14:50 | Comments(0)

◆統合版・・・集いのパンフレット

新しい集いのご案内 パンフレット集


◆会員研究発表(2月)

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《終了》◆歴史探訪ウォーク(12月)

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《終了》◆講演と交流の集い(10月)

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《終了》◆講演と交流の集い(8月)

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《終了》◆歴史探訪バスツアー

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◆(2017年度)八幡の歴史を学ぶ連続学習会

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《終了》◆年次総会及び講演と交流の集い

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《終了》◆会員研究発表

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《終了》◆歴史探訪ウォーク

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《終了》◆「八幡の道探究部会」展示発表

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《終了》◆講演と交流の集い(10月)

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《終了》◆講演と交流の集い(8月)

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《終了》◆歴史探訪バスツアー(6月)

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◆八幡の歴史を学ぶ連続学習会

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《終了》◆年次総会及び講演と交流の集い(4月)

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《終了》◆講演と現地探訪の集い(3月)

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《終了》◆男山考古録を読む会パートⅢ第4回

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《終了》◆講演と交流の集い(2月)

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《終了》◆講演と交流の集い(1月)

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《終了》 ◆男山考古録を読む会パートⅢ第3回(通算第11回)

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# by y-rekitan | 2018-12-31 14:00 | Comments(0)

◆コーナー・本会の概要と入会のご案内

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このコーナーでは「八幡の歴史を探究する会」の概要紹介や、入会のご案内を掲載しております。
2015.09.10 本会の沿革コーナーに追記    2015.04.21 本会の会則を更新
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 「八幡の歴史を探究する会」は2010年4月に 発足しました。
 八幡は、弥生時代の遺跡をはじめ、さまざまな古墳や、石清水八幡宮、善法律寺、正法寺、松花堂などすぐれた文化遺産に恵まれています。ところがその歴史的意義や文化的価値が必ずしも明らかにはされておらず、そこに暮らす私たち自身もその存在にすら気づいていないという現実があります。 

 そうした中で私たちは「八幡の歴史を探究する会」を設立し、①講演会、②現地見学会、③会員の研究発表、を事業の3本柱として各種イベントを開催するとともに、その活動内容を市民内外に広く知ってもらうために、「会報」を発行しております。
 私たちは関係団体や機関とも連携しながら、歴史探究の活動を通して市民の誰もが郷土の歴史と文化に誇りをもち、未来の町を築いていくことに貢献できればと願っております。
 「八幡の歴史を探究する会」 代表幹事 安立 俊夫空白

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 本会の概要や会則にご賛同いただき、ともに活動して頂ける会員を募っております。
  • 八幡市以外にお住まいの方も会員になれます。
  • 会員には、「会報」及び例会案内チラシ等を郵送いたします。
  • 会費:年会費は(4月~3月締めで)1,500円  
      10月以降入会は、1,000円、
  • お申し込みは下記の事務局までメールで、また会費の振込は下記の郵便振込みをご利用ください。
       申し込み: 歴探事務局 takata@cd6.so-net.ne.jp
       支払振込: 郵便振込口座番号:00970-2-322353 
             (加入者名:八幡の歴史を探究する会)
     

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 以下の会則(2改)は、2015年4月19日の総会にて承認された。

第1条 名称
本会は「八幡の歴史を探究する会」と称する。

第2条 目的
八幡の歴史を探究し、事業を通じて会員相互の交流を深めるとともに、地域文化の進展と次世代への継承に貢献する。

第3条 事業
1、講演会の開催
2、現地見学会の開催
3、会員の研究発表
4、会報を発行し,会員の情報交換・投稿の場とする。
5、その他第2条の目的を達成するための事業

第4条 会員
前条の趣旨に賛同する人々をもって構成する。

第5条 幹事及び幹事会
1、会員中より選任された幹事により幹事会を構成する。
2、幹事の任期は設けない。

第6条 代表幹事
幹事の中から互選により代表幹事、副代表幹事を選任する。

第7条 事務局長
1、幹事の中から互選により事務局長を選任する。
2、事務局長は幹事会を主宰する。

第8条 会議
この会の活発かつ円滑な運営を図るために、次の会議を開催する。
1、総会
   年1回開催し、会務・会計を報告するとともに必要
   事項を審議する。
2、幹事会
   必要に応じ開催し重要事項を審議する。

第9条 会費及び会計年度
1、会の運営のための年会費を徴収する。額については
  幹事会で決定する。   
2、会計年度は毎年4月1日より翌年3月31日までと
  する。 
3、会計監査は会員の中より選出し、総会にて会計監査
  報告を行う。

第10条 その他
本会則に定める以外の必要事項は幹事会で協議し、本会の必要な場合は細則を別に定める。

第11条 付則
この会則は2011年度(平成23年度)総会開催後から施行する。
   1改)2012年度(平成24年度)総会にて一部改訂。
   2改)2015年度(平成27年度)総会にて一部改訂。

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本会の沿革に代えて、ここに代表の折々の年次総括やイベント報告の記事を紹介させて頂きます。
        2015年09月 『歴史たんけん八幡』を発刊しました!
        2015年04月 2015年度の総会が開かれました
        2015年04月 発足からの5年を振り返る
        2015年03月 発足5年周年を記念し、会の旗が出来ました
        2014年06月 会報50号 発行の節目を迎え
        2014年01月 新年を迎え、5年目の節目を大切に
        2012年04月 発足以来 3年目の節目を迎えて
        2010年04月 なごやかに、探究する会が発足


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1/30 このサイトへの来訪者が5万人を越えました。感謝です。
このサイトへの来訪者は先月(1月)末で50,221人でした。

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2017.08.06…お蔭様でこのサイトへの来訪者がのべ4万人を超えました。
2017.01.10…お蔭様でこのサイトへの来訪者がのべ3万人を超えました。
2016.02.26…お蔭様でこのサイトへの来訪者がのべ2万人を超えました。
2015.06.10…お蔭様でこのサイトへの来訪者がのべ1万人を超えました。
2014.12.05…併設の歴探掲示板をリニューアルし、画像やリンクの投稿が容易になりました。
2014.11.05…開設一周年を迎え関連サイトリンクのコーナー新設、歴探掲示板へのリンク等の機能アップを実施しました。
2014.07.07…本会概要紹介やイベント案内等、本会の活動を総合的に紹介するサイトとしてリニューアルしました。
2013.11.01…本会の会報記事を紹介するブログとして発足しました。

《備考》 来訪者数は、携帯やスマートフォンを除きパソコンからの来訪のみをカウントしたものです。また同じ人が一日に何回訪れてもその日は1 回としてカウントする方式としています。

《改定》 2016.11.15よりアクセスカウントにモバイル端末からのアクセスも加えることになりました。これにより今後はカウント値が3割ほど大きくなる見込みです。

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f0300125_1548513.jpg この歴探サイトではH26年10月から「先月の記事別アクセスtop3」と称するコーナーを設け、会員の方だけでなく全国からの検索来訪を含めて1か月間のアクセスが多かった記事を紹介させて頂いております。

 おかげさまでこのサイトの掲載記事数は順調に増え続けておりますが、せっかくの熱のこもった会報記事も数が多くなり時間を経ると、昔の記事を改めて読み返す機会は少なくなるものと思われます。そこで月替わりのアクセスランキングに名を借りたこのコーナーを設け、クリックして頂くことで毎回3件のなつかしい力作記事を改めて味わっていただく機会になれば・・・ そんな思いでこのコーナーを設けておりますので、ぜひご利用ください。

《追記》 H29年1月より、アクセスtop3欄の下に“人気タグtop3”のコーナーを付設しました。毎月のアクセスが多かったタグ(キーワード)のtop3です。合わせてご利用ください。

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# by y-rekitan | 2018-12-31 13:00 | Comments(0)

八幡歴探 リンク集

f0300125_22184286.jpgf0300125_22281913.jpgf0300125_2219582.jpgf0300125_2202298.jpgf0300125_2039404.jpg
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このコーナーは八幡の歴史にかかわる情報が網羅的に閲覧できるサイトや、本会に縁の深いサイトのリンク集です。


f0300125_12175720.jpg八幡市観光協会
“みどころ”コーナーの各スポットの写真と解説は圧巻です。

f0300125_21374037.jpg八幡市公式サイト/観光情報のコーナー
八幡の名勝の情報が満載。また、祭り等の動画も見られます。

f0300125_2543626.jpg枚方市公式サイト/歴史のコーナー
枚方の文化財や歴史に関する催しの情報が満載です。

f0300125_2244728.jpg城陽市公式サイト/文化財のコーナー
市内にある国、府、市の史跡、文化財が網羅されています。

f0300125_246395.jpg久御山町公式サイト/文化財のコーナー
久御山町の文化財が写真、解説付きで閲覧できます。

f0300125_23464785.jpg宇治市公式サイト/文化財のコーナー
世界遺産を含め市内にある国、府、市の史跡、文化財の一覧です。

f0300125_21385651.jpgサイト「八幡散策」の “八幡ぶらりゆく”
神社仏閣、伝説、道標等、広範囲に網羅されています。

f0300125_23474058.jpg松花堂庭園・美術館
松花堂昭乗のデータベース、催し物案内等が掲載されています。

f0300125_063725.jpg石清水八幡宮
860年に都の裏鬼門を守護する鎮護の神として創建されました。

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# by y-rekitan | 2018-12-31 12:00 | Comments(0)

◆スポット記事インデックス《続》

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60号以前の会報のスポット記事は以下の通りです。クリックで直接お読み頂けます。

“九州の横穴・近畿の横穴"  (第60号)
“二宮忠八掌話"  (第60号)
“会の旗が出来ました!"  (第60号)
“松井横穴群に学ぶ"  (第59号)
“平野山・西山はミステリー"  (第59号)
“ずいき祭り"  (第58号)
“小特集: わがまち 八幡"  (第57号)
“流れ橋存廃の意見表明"  (第56号)
“磯田道史氏の講演に学ぶ"  (第56号)
“代々つづく神原の講 =秋編="  (第55号)
“八幡森の石仏と地蔵盆"  (第54号)
“お気軽歴史講座に行きました"  (第54号)
“ひょっこり訪問記  木田醤油㈱社長”  (第53号)
“地誌には、どんなものがあるか?"  (第53号)
“松花堂庭園とその魅力"  (第52号)
“島崎藤村と八幡"  (第52号)
“神領墓地は何を語るか”  (第49号)
“水月庵 藪を抜ければ円福寺”  (第49号)
“変わりゆく橋本”  (第48号)
“芭蕉と遊女との巡合い”  (第48号)
“遊女 江口の君”  (第47号)
“八幡の浄土宗寺院にみる地蔵菩薩 ”  (第45号)
“ 三昧聖と八幡の墓地  ”  (第45号)
“ 五榜の掲示  ”  (第44号)
“個人所有重文民家の課題について ”  (第43号)
“重文「伊佐家住宅」について ”  (第43号)
“ 昭乗の下馬碑を探る ”  (第42号)
“ 京大博物館にある八幡の遺跡・遺物 ”  (第40号)
“ヌートリア考、そして「郷土囗史物語」”  (第37号)
“ 狛 犬 考 ”  (第37号)
“ 探訪会のしおりを作成して ”  (第36号)
“歴史探訪ウォーク参加記”  (第36号)
“代々続く神原の「講」”  (第36号)
“「八幡の歴史カルタ」に驚く”  (第36号)
“女坂・荒坂横穴古墳群から学んだこと”  (第35号)
“魅力的な八幡東部の集落と神社”  (第34号)
“ 二宮忠八翁と飛行神社 ”  (第31号)
“ 石清水臨時祭と平清盛 ”  (第31号)
“「八幡椿は」何処に”  (第24号)
“陣屋と鳥羽伏見の戦い”  (第22号)
“八幡八景解説奮戦記”  (第20号)
“色恋に愛づる花心ー謡曲「女郎花」”  (第20号)
“俄神人ニ成候”  (第18号)
“八角院地蔵尊の碑文を読む”  (第15号)
“長宗我部盛親が潜んだ家”  (第15号)
“「やわたものしり博士」検定にチャレンジ!”  (第10号)
“木津川・宇治川沿いの屋並みを巡る”  (第9号)


ブログトップの《スポット記事一覧》に戻ります。

# by y-rekitan | 2018-12-31 08:00 | Comments(0)

◆会報第83号より-top <スクロールだけで全記事が読めます>

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この号の会報からは現在、下記の記事が掲載されています。
このまま下にスクロールして頂くと順次連続してご参照頂けます。

この号が最新号です。

◆シリーズ:“心に引き継ぐ風景” ⑭◆
◆《歴探ウォーク》八幡の古寺巡礼⑤◆
◆シリーズ:“八幡の古墳と鏡” ⑦◆
◆シリーズ:“四條隆資物語”④◆
◆石清水八幡宮と松本神社の絵馬◆
◆シリーズ:“「三宅安兵衛遺志」碑と八幡の歴史創出” ⑩◆



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ご意見は各記事下端のcomments欄をクリックしてお寄せください。

# by y-rekitan | 2018-01-26 15:00 | Comments(0)

◆会報第83号より-01 地蔵菩薩

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心に引き継ぐ風景・・・⑭

あこがれの地蔵菩薩
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 地蔵菩薩の信仰は他の仏や菩薩を圧倒して広く大衆の「ほとけ」として拝まれている。その像は寺院境内、町の辻々、墓地、道路、山道、田畑などのいたる所に安置されている。先般、江戸時代の八幡道標を調査した際、地蔵菩薩が彫られた道標の数の多さに驚き、その存在感に圧倒されてしまった。
 八幡市美濃山井ノ元にめずらしい「指さし地蔵」があった。こんなお地蔵さんは滅多にあるものではないと思っていたら、奈良県大和郡山市の金剛山寺(本尊・地蔵菩薩)こと「矢田寺」にも「指さし地蔵」があると聞いて、飛んで行った。指は矢田寺の方向を示し「右 矢田道」と彫ってあった。
 京都寺町三条上ルに「矢田寺」がある。平安時代の初め現大和郡山市の「矢田寺」の別院として創建されたらしい。高さ2mの地蔵菩薩は開山の満米(まんまい)上人が地獄で出会った地蔵菩薩の姿を彫らせたものと云われ、地獄にまでも亡者を救いに来る唯一の菩薩として信仰されて来た。
 小野篁(おののたかむら)伝説で知られる六道珍皇寺の「迎え鐘」に対し、冥土への「送り鐘」を撞きに「矢田寺」に訪れる人は尽きない。
(文と写真 谷村 勉)空白


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# by y-rekitan | 2018-01-26 12:00 | Comments(0)

◆会報第83号より-02 八幡古寺巡礼5

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《歴探ウォーク》
八幡の古寺巡礼
―第5回:男山南部の寺を巡る―  

2017年12月 八幡市内 にて
高田 昌史 (会員)

 今年の八幡の古寺巡礼は「男山南部の寺を巡る」として、12月7日に第5回目を実施しました。
当日は晴天に恵まれ39名の方の参加がありました。その概要を報告します。

第5回古寺巡礼コース

f0300125_9181325.png 例年の集合場所は八幡市駅前でしたが、今年は松花堂庭園前の昭乗広場でした。受付後に、配布の「しおり」によるコースの概要説明と移動時の注意事項をお話してから出発しました。
 左図にコース図を示しましたが、今年の巡礼のコースは昭乗広場から南方向の2寺を巡ります。
 今回の全歩行距離は約4kmで、途中は35m程度アップダウンがあります。移動中は先頭と最後尾の担当幹事が会旗を持ち交通安全に注意しながら、最初の訪問先の宝青庵に向かいました。


1.宝青庵

 昭乗広場を出発してから、10分足らずで宝青庵に到着です。f0300125_933233.png入口の冠木門前の右側には「小野篁(おののたかむら)作 十王像 閻魔堂」、左側には「歌人吉井勇先生寓居の地」の石碑があります。
 宝靑庵に入ると手入れが行きとどいた苔のきれいな庭園があります。また、別名 “もみじ寺”とも呼ばれているだけあり、時期遅れでしたが紅葉もきれいでした。その奥に「お堂」があります。
 宝青庵は男山考古録(※1)には江戸時代の浄土宗36寺として紹介されています。また、宝青庵を管理されておられる西村安子様からは、もとは大阪の油問屋の隠居所として建てられたとお伺いしました。
 御本尊の阿弥陀仏は江戸時代後期まで八幡馬場ありましたが、この地に移されてお堂に祀られています。
 3班に別れて順番にお堂に入り、ご本尊と十王像(十三仏)を拝観しました。またご本尊右側の灯籠台座部に「城南八幡万称寺」の刻印があることから、この灯籠はお堂の後方にあって明治5年(1872)に廃寺になった万称寺から移されたものであることが確認できました。(万称寺については「会報第60号2015年3月―墓石をたどる⑧」記事で紹介されています。)(※2)
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 お堂左面の2段棚に十王像(十三仏)が置かれています。十王は冥土で死者を裁くという王様のことで初七日の秦広王(しんこうおう)から三回忌の五道転輪王(ごどうてんりんおう)まで死者を審判する10人の裁判官のことです。十三仏(じゅうさんぶつ)は、十王をもとにして、江戸時代になってから、七回忌、十三回忌、三十三回忌の3裁判官を日本で考えたそうです。
 また、本庵は〝放浪の歌人〟吉井勇が寓居(ぐうきょ)していたことでも知られています。昭和20年10月、勇は戦時中の疎開先であった富山県八尾から夫人孝子とともに移り住み、3年近くを八幡で過ごした。この間に作詞した「山城音頭」(現八幡音頭)は、八幡の風情を存分に歌いあげています。同庵付近の地名「男山吉井」は彼にちなんで付されたものです。
 お堂の拝観が終了後、西村安子様にお礼を申し上げてから、次の訪問寺の水月寺に向かいました。

2.水月寺(臨済宗)

 水月寺までは距離があり、しかも途中はアップダウンもありましたが、予定よりも早く着きました。f0300125_9431967.png山門前で概要を説明してから本堂に上がらせていただきました。
 水月寺は由緒が書かれた山門前の石碑によると、元は阿弥陀堂と称し、天明初年(1781年)のころ、越前(現・福井県)から霊宗尼が二人の弟子とともにこの地にやって来て、近くにある円福寺の住職、海門禅師について修行。やがて、尼僧の禅道場を開き、これが全国に流布したことで、全盛時には50~60人もの雲水が修行されていたが、円福寺に近いので尼僧道場に相応しくないとの事で、尼僧の修行道場は京都・一乗寺の円光寺へと移され、水月寺はその役割に終止符が打たれました。先代までは尼僧が住職を務める尼寺でしたが、現住職は男性です。
f0300125_9473493.png 本堂では椅子を準備していただき椅子に座り林拓龍住職の法話を拝聴しました。法話前、全員に前住職の林祖観尼の一代記「経よみて」の冊子をいただき恐縮しました。カラー版の立派な冊子で林拓龍住職は挿絵を描かれています。
 法話で水月寺は元は地域の集会場であり、念仏を唱える念仏道場でしたと説明がありました。
 また、水月庵には将軍家茂に降嫁した皇女和宮の深い悩みを慮った側女の一人が、和宮の死後、この庵で出家してその菩提を弔ったというエピソードが残っています。側女が和宮から賜ったという愛用の打掛けが寺宝として保管されていると事前にお聞きし、当日は見せていただく約束でしたが、見当たらないので心配していました。しかし、法話でその打掛けは屏風にされており、現物は祭壇の前に出されている屏風であるとの説明がありましたので、法話の後でじっくり拝見しました。f0300125_955574.png
 ご法話の後半では、和宮の許嫁だった有栖川宮熾仁親王(ありすがわのみやたるひとしんのう)が、幼小の明治天皇とご一緒に水月寺に来られ、その時使われた御櫃(おひつ)があると伝えられています。その御縁で明治天皇の供養が行われています。それに、水月寺の寺紋として菊の御紋を賜っています。
 法話が終わり本堂を退出し、水月寺のお庭を通り円福寺までは林住職がわざわざ案内していただくことになり出発しました。

3.水月寺~円福寺

 竹林の中の切通し道を抜けると墓地があります。その墓地に南山焼の創始者の「浅井周斎」と明治の末に南山焼を再興した「帯山与兵衛」の墓があり、以前にその墓石を調査された会員の谷村勉氏にその場所に案内していただきました。(「シリーズ墓石をたどる⑥浅井周斎の墓石について」会報51号2016年6月参照)(※3)
 各ポイントでは林住職の説明をお聞きして円福寺に向かいました。f0300125_105441.png
 円福寺の手前で「達磨堂円福寺の栞」と「萬人講の案内」を配布していただきました。最初に見える円福寺境内の建物が先ほど法話で説明された有栖川宮家の東京別邸から移築された建物(有栖川宮旧御殿)であると教えていただきました。円福寺山門に近づくと、現在、円福寺修行僧は大接心(おおぜっしん)(※4)f0300125_1085365.pngの最中なので修行の邪魔にならないように「静かに!」との注意がありました。「江湖道場」の扁額が掲げられている山門前では、栞を見ながら境内の中を窺ってから円福寺を後にしました。洞ヶ峠と出発地の昭乗広場への分岐点で林住職にお礼を申し上げてからお別れして、この場所で解散としました。

3.水月寺~円福寺

 連続5年になる八幡の古寺巡礼」は、お陰様で無事終了しました。
 特に、水月寺の林拓龍住職には、ご法話の終了後にお庭を通り円福寺までご案内していただき大変お世話になり感謝致します。
 今回で八幡の古寺巡礼は5年間で12寺院を巡りました。次年度も「古寺巡礼」を継続開催して、八幡の歴史を探究して行きたいと思います。これからも八幡の古寺に関する情報等がございましたら、お寄せいただきたくお願いします。

(※1)石清水八幡宮叢書1男山考古録 巻第十四「寶青庵」の項目参照
(※2)会報第60号2015年3月「シリーズ」墓石をたどる⑧ 万称寺跡地の常念仏回向記念碑について(谷村勉)
(※3)会報51号2016年6月「シリーズ」墓石をたどる⑥ 浅井周斎の墓石について(谷村勉)
(※4)臨済宗の修行道場である円福寺では、十二月三日より十日の朝まで大接心(おおぜっしん)が行われます。この期間中は、ひたすらに坐禅・修行 をします。このような接心は年に6回行われます。

 
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# by y-rekitan | 2018-01-26 11:00 | Comments(0)

◆会報第83号より-03 古墳と鏡⑦

シリーズ 「八幡の古墳と鏡」・・・⑦


八幡の古墳と鏡(7)


-ヒル塚古墳と渦巻状装飾付き鉄剣-


濵田 博道 (会員)


はじめに

 秋が深まったころ、ヒル塚古墳を訪ねて歩きました。古墳の所在地は八幡市美濃山ヒル塚38番地です。しかしその場所に古墳の面影はありません。小字ヒル塚の国道一号線脇を歩いていると畑作業をしている老人に出会ったので古墳のあった場所について尋ねてみました。「ヒル塚古墳を探しているんですが、この道路前にある家具屋さんの辺りにあったんですか?」「そうそう。ここの前がヒル塚古墳。あそこに金森商店の看板が見えるやろ。あそこあたりから急にせりあがってきて、こんもりしとった。はっきり古墳の形はしとらんかったけどな。ここは竹やぶだったんよ。大がかりな(国道1号線の)工事もあって、すっかり変わってしまった。昔とは全然違うよ。この畑の縁も2mぐらいグッと落ち込んでいてね。土もりをして、畑にしたんだ。あそこの住宅の処も全部土もりしているんだよ。」ヒル塚古墳のあった場所は現在大型家具店になっています。案内板があればわかりやすいなと思いました。
 古墳の発掘は、1989年1月から半年をかけ八幡市教育委員会が主体となって本格的に行われ、2002年に再度範囲確認調査が行われました。
 最近ヒル塚古墳出土の埴輪の研究も進んできており、八幡地域と王権の関わりを示す重要資料とされ、注目を集めています。発掘調査の詳細は八幡市教育委員会発行『ヒル塚古墳発掘調査概報』(1990)に掲載されていますので、その報告書を中心に考えてみます。

ヒル塚古墳の調査経過

 ヒル塚古墳は中世以降に数度にわたる盗掘を受けています(注1)。梅原末治氏は美濃山田村喜太郎氏の話を聞いて次のように記述しています。「この塚、今より24,5年前(明治後期、1895年ごろ)に発掘して刀剣鋒などを出せりといい、今なお封土の中央に一大凹所を存す。(注2)」
ヒル塚古墳についてはこれまで何度か調査され記述されています。
 1919年(大正08年) 京都大学島田貞彦氏  前方後円墳として地図を作成。
 1923年(大正12年) 京都大学梅原末治氏  円墳と指摘。
 1928年(昭和03年) 『八幡名跡名勝誌』  前方後円墳と記述。
 1972年(昭和47年) 『京都府遺跡地図』  円墳と記述。
 1974年(昭和49年) 山城考古学研究会   方墳と指摘。
 1977年(昭和52年) 大阪教育大学江谷寛氏 「造り出しを持つ方墳」の
 1977年(昭和52年) 大阪教育大学江谷寛氏 可能性を指摘。
 そして1989年1月から半年をかけ八幡市教育委員会が主体となって本格的な発掘がされ、2002年に再度範囲確認調査が行われました。その結果、次のように報告されています。
 ”方墳。一辺52m以上(注3)。高さ7.5m、三段築成。一段目テラス上で葺石(ふきいし)・埴輪列検出。幅14mの周溝を持ち、方墳としては府下最大級。埋葬施設は2基の粘土槨〔礫床(れきしょう)、小石の床〕と円筒棺から成る。
f0300125_11241281.jpg 第1主体部は盗掘を受け、南半分の粘土施設は破壊されていた。墓壙は9m×12m・深さ3.5m。上面より1.5mのところにテラスを両側に設ける二段墓壙。礫床は50cmの厚さで敷設し、上面には赤色顔料が認められた。周辺から鏡と鎗・剣・刀等の鉄製武器類が出土。特に、粘土床側面出土の渦巻状装飾付き鉄剣(全長38.8cm)は、前例のない遺物として注目を集めた。盗掘坑からも、渦巻の一部が出土している。棺は外径が80cm、長さが推定で7m強の割竹形木棺である。
 第2主体部は第1主体部の東辺を切り込んで造られ、墓壙(ぼこう)は8m×4.5m・深さ2.5m以上。東側の長辺のみテラスを設ける。粘土槨であるが、第1主体部より一回り小さく、赤色顔料が散布されているが大幅に省略されている。盗掘などの攪乱は受けておらず、棺外より方格規矩鏡と鉄剣、周辺から短剣・工具類が出土。
 第3主体部の円筒埴輪棺は主軸が第1主体部と同方向。口縁部を北にして第1主体部の南東部に埋置。上面を粘土で被覆。棺の円筒埴輪は高さ1m・口径40cm・底径30cm。透かし孔は無いので、棺に使用するために作ったようだ。
古墳の築造年代は副葬品や埴輪等から考えて、4世紀後半~末と推定される。”(要約)(注4)。

ヒル塚古墳の名前の謎

 ヒル塚古墳と聞いて、まず気になるのはその名前です。前掲書『概報』で八幡市教育委員会の桝井豊成氏の解説によると、ヒル塚の地名の初見は1600年(慶長5年)の検地帳で、1588年(天正6年)には「ヒルツカ、ひるつか」という地名が使われていたとあります。ヒル塚の「ヒル」とは何を意味しているのでしょうか。江戸時代末期に書かれた長濵尚次『男山考古録』巻14の「月夜田」の項に「その所(=月夜田)の東南に比留塚というのがあり、うず高いところにある塚である、これは月夜見に対した名のようだ、長老の話ではここは昔、日孁命(ひるめのみこと)神社があったというが調べてみる必要がある。」とあります。月夜田は月見にいいところだが、その「月」(=夜)に対しての「ひる」というわけでしょうか。日孁命に関しては、西宮一民校注『古事記』(新潮社)の付録に381の神名とその説明がありますが、日孁命という神は載っていません。似た名前で、『古事記』にイザナギ・イザナミ二神の間に最初に生まれた子で(水)蛭子(ひるこ)がいますが、関連があるのかわからないです。名の由来をご存知の方がありましたら、教えていただきたいです。 

三段築成、葺石、円筒埴輪列の方墳の意味

 このシリーズでみてきた西車塚古墳・東車塚古墳・石不動古墳・美濃山王塚古墳は鍵穴のような形の前方後円墳でした。しかしヒル塚古墳は方墳(平面が方形の古墳)です。前方後円墳と方墳の違いについて大阪大学名誉教授都出比呂志氏は次のように述べています。
 「古墳時代になると地方の有力首長は、頂点に立つ中央政権の下で、権力構造に組み込まれ、身分が定まり、その定まった身分の表現が古墳の形で表現された。それは古墳時代を通じて墳形には前方後円墳、前方後方墳、円墳、方墳の4つの基本形があり、前方後円墳が最優位で、最後に方墳というような階層構造になっている。そして同じ墳形でも規模の差があり、大きいほど優位である。よって、被葬者の身分は墳形と規模との二重の基準で表現された。江戸時代の大名が徳川家との親密度を基準に親藩、譜代、外様と格付けされ、かつ実力は石高で表示されたこと、外様のなかにも伊達氏や前田氏のように大きな石高をもった大名がいたことと似ている。(注5)」(要約)。
 ヒル塚古墳は方墳ですから、4段階の最下層型式です。f0300125_11375435.jpg 当時の王権との結びつきはそれほど強固ではない。また地位もそれほど高くない、と推定されます。しかし、一辺50mを超す京都府下最大級の方墳で、全国で2例しか出土していない渦巻状鉄剣をはじめ、円筒棺、埴輪類、鏡、鉄製武器類が出土しています。「三段築成、葺石、円筒埴輪列」という“王者の墓”の三要素を備えた「想像以上の大規模な方墳」(京都府教育庁文化財保護課、久保哲正氏)(注6)ということを考えると、この八幡地域の首長(王)だったと考えられます。
 次に、副葬品について考えてみます。

方格規矩ほうかくきく (鳥文)(ちょうもん)きょう

 前掲の『概報』や『京都府埋蔵文化財論集第二集』によると、“埋葬施設第2主体部の頭側の棺外から長剣・短剣の下に鏡面を上にして出土。面径は14.4cm。鏡名は方格規矩鏡。銅鏡は全体に緑青におおわれており、剣類と接していた部分には鉄さびもみられたが遺存状態がよく、鏡背には繊維が付着している。鏡背の図像は、紐(ちゅう)を中心につぼみのような四葉座を配している。”(要約)とあります。方格規矩鏡について考古学辞典では、
 「中国において前漢末期から三国時代の頃(0~280年頃)に発達した鏡の型式。日本では弥生時代・古墳時代に見られる一種。大正から昭和の初頭にかけて、TLV式鏡といわれたもの。内区が方格と規矩文(規はT字形でコンパス・円・陽を表し、矩はL字形で定規・陰を表すとされる)によって分割されていることにより、方格規矩文と名づけられ、現代この名称で用いられている。方格と規矩そのほかに細線によって四神や霊獣や禽鳥〔きんちょう(鳥類)〕や渦文〔かもん(渦巻きの文様)〕が配されている。このような方格規矩の文様の間にほどこされた図文等の種類により方格規矩四神鏡・方格規矩獣文鏡・方格規矩鳥文鏡・方格規矩渦文鏡などにわけられている」〔(注7)、( )内は筆者〕とあります。また、元橿原考古学研究所所長の田中琢氏は次のように述べています。“方格規矩鏡は内行花文鏡とほぼ同じ時代に盛んに作られた漢鏡で、鏡の背面の図案は、当時の中国人のいだいた宇宙像を描きだしたものであり、内行花文鏡のもつ単純簡素な美しさとは対照的に、繊細華麗なものとなっている。(注8)”(要約)。八幡では方格規矩鏡は西車塚古墳から方格規矩四神鏡(仿製鏡)、(伝)美濃山王塚古墳から方格規矩四獣鏡(舶載鏡)、ヒル塚古墳からは方格規矩鳥文鏡(仿製鏡)が出土しています。ヒル塚古墳鏡の製作は4世紀と推定されています(注9)。f0300125_1243483.jpg
 京都府埋蔵文化財調査研究センター長だった樋口隆康氏はヒル塚古墳出土の方格規矩鏡について次のように述べています。“鏡の背面の方格内に12の小乳があり、それを円で囲んでいる。方格外では普通T・L・V形の3つがあるが、LとV形が省略されT形のみである。方格の四角の部分には乳座から小さな鳥の上半身が飛び出して、隣の鳥と向かい合い、T字形の外方にも側向きの小さな鳥が1羽ずつおかれている。外区は二つの鋸歯文〔きょしもん(のこぎりの歯の形をした紋様)〕の間に、一つの複波文帯〔ふくはもんたい(波のような形が複数帯のようになっている)〕がある型式である。”(要約)(注10)。
 ヒル塚からはもう1面、鏡の小破片が出土しており、これは画像鏡か獣帯鏡ではないかといわれています。

渦巻状装飾付き鉄剣(全長38.8cm)

 渦巻状装飾付き鉄剣は埋葬施設第1主体部棺床の東側、棺外の遺物の一群中央から出土しました。f0300125_1295811.jpg桝井豊成氏は次のように述べています。「最初はふつうの鉄剣かと思った。ところが、保存処理のために京都府立山城郷土資料館でX線写真を撮ったら、渦巻が出てきた」。全長38.8cm、刃部28cm、幅1.4cm、厚さ0.6cm。剣自体が細身で刃が薄く、まるでペーパーナイフのようで、とても武器として役立ったとは思われず、儀式用のものとみられています。(注6)。
 渦巻部は鉄をねじり、ゼンマイ状に巻き上げて作っており、直径は2.7cmあります。刃と非常に精巧に接着されており、高度な製作技法がうかがえます。これは当時、例を見ない非常に特殊な遺物でしたが、新聞各紙は記事としてほとんどとりあげませんでした。
 ところが、ヒル塚古墳鉄剣発見の7年後、1996年、長野県木島平村の桑畑から渦巻文の装飾のついた鉄剣が出土。鉄剣は長さ74cmもあり、弥生時代最終末(3世紀前半)のもので、これまで出土した弥生時代の鉄剣の中では最長でした。鉄剣は2本出土し、1本だけが渦巻鉄剣でした。木島平村教育委員会発行『根塚遺跡』(2003年)によると、“2号剣に渦巻文が三カ所にあることが判明し、その技法は柄の部分を3分割して棒状部分を作り出し渦巻を作っています。その割った分だけ、剣の身部に比べ把の部分が薄くなっています。渦巻文を有する鉄剣は、国内では京都府八幡市のヒル塚古墳(4世紀後半)に出土しており、2号剣のように把先に渦巻文をもち、ゼンマイ状に巻きあげています。”とあります。
 この渦巻状の装飾はもともと、2世紀から6世紀ごろにかけて、朝鮮半島の伽耶で流行し、鉄剣以外にも使われていました。韓国南部の良洞里墳墓群(日本の弥生時代後期にあたり400基以上)から2つの渦巻文が付いた鉄剣が出土しています。『報告書』はさらに “朝鮮半島南部に渦巻文をもつ鉄製品を求めると、慶尚南道金海市の良洞里古墳の出土品(19.5cmの一対の轡(くつわ)、48.1cmの鉄剣、116cmの鑿(のみ)頭形鉄器、120.1cmの鉄剣)などにいくつか見られ、2箇所から8箇所にいずれも左右対称に渦巻文が装飾されている。2番目の鉄剣には木島平村の鉄剣と同じ技法が用いられ、出土した遺構はいずれも2世紀後半~3世紀初めに比定されている。木島平村の鉄剣も朝鮮半島からの舶載品と考えられる。”(要約)
 大阪府教育委員会文化財保護課の三木弘氏も木島平村の鉄剣について「『渦巻状装飾付き鉄剣』の特徴的な形状や高度な製作技法から、朝鮮半島南東部で製作され、日本海ルートを通じて北信(北部信州)に招来されたとの見方が有力である。そうであれば、畿内圏を介さない流通ネットワークが存在していた可能性はいっそう高い。そして、そうした動向が弥生後期中葉~後半期にかけての状況であったといえる。(注11)」と述べ、鉄剣は朝鮮半島と信州との交流ルートがあったことを裏付ける遺品となっています。鉄剣は朝鮮半島からの舶載品と認定されています。これに対し、ヒル塚渦巻鉄剣は前期後半築造の古墳からの出土ですが、朝鮮半島製の可能性が高く、入手ルートが気になるところです。

ヒル塚古墳出土の埴輪

 八幡市内の古墳では東・西車塚古墳、石不動古墳、美濃山王塚古墳、八幡茶臼山古墳などで埴輪が出土していますが、破片や散逸してしまったものが多かったです。しかし、女郎花遺跡、大芝古墳や御毛通古墳での発掘、2005年からの美濃山王塚古墳での発掘、ヒル塚古墳の埴輪分析などにより埴輪の研究が進んできており、八幡の古墳の編年を考える基礎が出来上がりつつあります。
 埴輪は古墳の年代や編年、王権との関わりを推定する有力な遺物です。ヒル塚古墳からは墳頂部と一段目テラスで埴輪列を検出し、普通円筒埴輪、鰭付(ひれつき)円筒埴輪、朝顔形埴輪、囲形埴輪の4型式の埴輪が発掘されています。墳頂部のものは直径30cm~36.5cm、第一段目テラス状のものは約25cm~30cm弱で、その規格に差があり、また墳頂部出土の埴輪とそれ以外の埴輪はX線分析による元素比が異なり、埴輪の製作地が違っているようです。複数の型式が同一古墳内に樹立していた状態が確認できます。埴輪の高さは85cm内外と推定されています。墳頂部の埴輪列は、第二主体部の構築に伴う立て替えが見られるとのことです。一段目テラスでは1.5m間隔で埴輪が立てられていました。その中で注目されるのはまず鰭付(ひれつき)円筒埴輪です。この埴輪は奈良市北部の佐紀古墳群の前方後円墳でともなう場合が多く(佐紀陵山古墳など)、かなりの相関が認められるといいます(注12)。次に、囲形埴輪は家形埴輪の可能性が高く、通常より突帯の位置が高く、一条しか確認できない点など他の古墳ではあまり例を見ない囲形埴輪であるとのことです。ヒル塚古墳の埴輪は奈良県天理市の上の山古墳(渋谷向山古墳(景行天皇陵?)の陪塚といわれる)、大阪府八尾市の萱振(かやふり)一号墳の円筒埴輪と深い関連性があったと想定できるとの報告があります(注13)。
 埴輪の研究を通して、王権とのかかわり、八幡の古墳同士の関係解明へと繋がればいいですね。

ヒル塚古墳の被葬者像

 森浩一氏は著書で次のように述べています。「(ヒル塚古墳からは)渦巻状の突起を柄につけた鉄剣が出土した。このような鉄剣は朝鮮半島南部の伽耶(加羅)の古墳に多い。ところで古墳の所在地の有智郷は、律令体制下では綴喜郡内郷のことで、さらに古くは内村ともよばれた。味師内宿禰(うましろうちのすくね)から出た山城の内臣のいた土地であろう。(『古事記』孝元天皇条)(中略)応神天皇の9年に一つの事件が起こった。九州や三韓(韓国南部の三つの国、馬韓・弁韓・辰韓)をも巻き込んで、武内宿禰と味師内宿禰が対立した。一時は武内宿禰の旗色が悪く壱岐直(いきのあたい)の祖の真根子(まねこ)が武内宿禰の身代わりになって死んだ。そのあと探湯〔盟神探湯(くがたち)、神の手に誓って手で熱湯を探らせ正邪を判断する古代の裁判の一種。〕によって武内宿禰が勝利をおさめたという。(『日本書紀』)。このような八幡市南部の有智の地は、朝鮮半島南部や中部九州とも強い関係をもった地であった。のちに九州の宇佐八幡宮が男山の地に勧請され石清水八幡宮になることにも、このような前史があったのである(注14)。」桝井豊成氏は「内氏に関する一考察」の中で、「(内臣は)尾張連、紀直、紀臣、隼人と密接な関係をもち水上交通に関係した武人的な氏族」といい、「応神紀の記事は、畿内の水軍統率勢力が山城から河内をへて紀伊へ移ったことを示す史実性に富んだ伝承」と述べています(注15)。また、ヒル塚古墳の墳頂部の円筒埴輪列の中からは須恵器が8個体出土していますが、これは5世紀後半頃のもので、ヒル塚古墳第1主体部埋葬時から一世紀近く後の遺物です。古墳への埋葬が行われなくなってからも長期間、墓上祭祀が行われていた――このことも被葬者像を考えるヒントになるように思います。今後のさらなる研究が期待されるところです。

おわりに

 当時、森浩一氏はヒル塚古墳の埋葬施設について「これほど見事な複数の埋葬施設が現れた古墳は、最近の発掘調査では見たことがない。」と言い、「相当な紙面が割かれると予想していたが、たまたまその翌日が宇野内閣発足の日にあたったため、(略)どの新聞も一面はおろか社会面でも報道しなかった。(注6)」と重要度と注目度の差に危惧を表明しています。しかし最近、研究者の間で八幡の古墳群について関心が高まりつつあるようです。例えば、次のような記述です。「畿内の重要古墳群でありながら、それに見合うだけの注目を集めていない八幡地域の古墳群の解明は、畿内の古墳群の動態を考える上で極めて重要である。」(注13)。

 最後に私の感想を一つ。長野県木島平村の根塚遺跡を訪ねたとき、根塚遺跡の近くに大塚・小塚という墳墓があり、さらに村への入り口付近にはヒル橋がありました。偶然でしょうが、八幡古墳名と似ているので不思議な感じでした。そして村の若い学芸員さんの案内で実物の渦巻き鉄剣を見学できたことがいい思い出として残っています。
 次回は「八幡茶臼山古墳について」考えてみます。

(注1)八幡市教育委員会『ヒル塚古墳発掘調査概報』,1990
(注2)京都府『京都府史蹟調査報告第二冊』,1920
(注3)ヒル塚古墳の一辺は報告書により「45m,47m,40m,52m以上」といろいろありますが、ここでは最新の八幡市教育委員会『八幡遺跡地図(2005年版)』を採用。
(注4)(注1)参照。八幡市教育委員会『八幡遺跡地図(2005年版),2005
『京都府埋蔵文化財情報第33号』,1989
『日本考古学年報42』日本考古学協会,1991
(注5)都出比呂志『古代国家はいつ成立したか』,岩波新書,2011
(注6)『朝日グラフ新遺跡発掘VOL.5 ’88~’90』,朝日新聞社,1991
(注7)斎藤忠『日本考古学用語辞典』,学生社,1998
(注8)田中琢『日本の原始美術⑧ 古鏡』,講談社,1979
(注9)『京都 古代との出会い』,(財)京都府埋蔵文化財調査研究センター,1990
(注10)『京都府埋蔵文化財論集第二集』, (財)京都府立埋蔵文化財調査研究センター,1991
(注11)『二上山邪馬台国シンポジュウム14 邪馬台国時代の甲・信と大和』,2014
(注12)日本史研究会ら『「陵墓」からみた日本史』,青木書店,1995
(注13)北山大熙「埴輪からみた八幡市ヒル塚古墳」『畿内の首長墳』,立命館大学文学部,2017
(注14)森浩一『京都の歴史を足元から探る[宇治・筒木・相楽の巻]』,学生社,2009
(注15)同志社大学考古学シリーズⅤ『考古学と生活文化』,同志社大学,1992




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# by y-rekitan | 2018-01-26 10:00 | Comments(0)

◆会報第83号より-04 四條隆資④

シリーズ「四條隆資卿」・・・④

四條隆資卿しじょうたかすけきょう物語  その4
~中国の故事「蟷螂の斧」と隆資卿~

 大田 友紀子(会員) 


 前回は、『太平記』の中での四條隆資卿、その姿は儒教思想の正論を語る代弁者で、その当時の理想的な公卿そのものであり、その斃死の有り様が人々の共感をよび、一つの伝説が生み出された、ということを書きました。熙仁(ひろひと)親王(後の伏見天皇)の乳母であった四条識子が生んだ御子が隆資卿ではないかという御落胤説などもあり、その悲劇的な死は、いつしか英雄伝説へと昇華して行ったようです。それ故に、四条家の御所車にカマキリが乗るという志向が生まれて、西洞院に住む町衆の熱意に動かされた陳大年宗奇の援助のもと蟷螂山が創建されたのです。f0300125_20214723.jpg
 なぜ、カマキリだったのかというと、古代中国の梁という国の皇太子であった昭明太子(しょうみょうたいし)(501~531)が編纂した『文選』に載っている『蟷螂の斧』という故事からきているのです。『文選』とは、古代中国の周から梁までのおよそ1千年間にわたる作家131人や無名の人たちなどが詠んだ詩・賦(ふ)・文章763篇を納めた現存最古の一大詞華(しか)選です。「賦」とは「詩の六義の一つで、心に感じたことをありのままに詠うもの。」(「漢和中辞典」)とあります。「詩の六義」とは、賦、比(ひ)(比喩を用いて詠う)、興(きょう)(事物に感じて思いを述べる)、風(ふう)(庶民の歌謡)、雅(が)(宮廷歌謡)、頌(しょう)(祖先の徳を讃える詩)の六つで、漢詩の表現法の形態です。日本風には順番に「かぞえ歌」「なずらえ歌」「たとえ歌」「そえ歌」「いわい歌」「ただごと歌」といいます。『文選』の日本への伝来は古く、すでに『十七条憲法』(604)に本書からの引用が指摘されています。
 編纂者である昭明太子は、梁の武帝の長子簫統(しょうとう)で、謚名(おくりな)が昭明です。聡明で仁愛に富み、幼い頃より学問を好み、皇太子に立てられるも、父に先立ち死去しています。皇太子のままで逝去(せいきょ)したことから、聖徳太子のモデルではといわれています。
 「蟷螂の斧」の故事ですが、「平家物語・巻第七」では、挙兵する木曾義仲が「義仲其後胤として、首(かうべ)を傾て年久し。今此大功(たいこう)を発(おこ)す事、嬰児の貝をもッて巨海を量り、蟷螂が斧をいからして隆車(りゆうしや)に向がごとし。(後略)」と、願文にしたためています。その注釈に「文選四十四〔為袁紹檄州郡文〕」に、「(中略)よった句。かまきりが斧をふりあげて大きな車に立ち向かうの意で、身の程を顧みず無益な抵抗をすることを譬えたもの。」とあり、「太平記・巻第十」では、「(前略)鎌倉殿ヲ亡サントセン事蟷螂車ヲ遮(さ)ヘギリ、綪衞(せいえい)海ヲ塡(うず)メントスルニ異ナラズ。ト欺合(あざむきあへ)リ。」と、北条高時を攻め滅ぼそうとする新田義貞の軍を嘲り合ったことが書かれています。「綪衞」は中国の想像上の鳥で、夏を司る炎帝の女が東海に溺れ、化した名前で、西山の木石をくわえて東海を埋めようとしたが、出来なかったという話であり、「蟷螂の斧」と同話として列挙されています。
 このように、『蟷螂之斧』の話は当初、古代中国の斉の荘公を感歎させて、車を返しては勇敢さを讃えた話として伝えられていますが、注釈には自分の弱さを顧みず、強敵に挑むこと、はかない抵抗のたとえ、とあります。そのことから、自分の力を考えずに猛進する愚かしさをあざ笑う喩えとなり、南北朝期の終わりには、再び勇敢さを讃える話へと、三度も変わっています。慣用句とかは、その使われ方などやその意味あいが変わる事があり、時代の世相にも翻弄されてさらに変わって行くこともあります。『蟷螂之斧』の故事の場合は、その話自体が持つドラマ性に起因して変わって行ったように思われます。
 漢和辞典(旺文社)によると、「螳螂の衛」は「微弱な兵備のたとえ。」であり、『螳螂之斧』は「かまきりのかま、微力の者が、自分の力をはからずに、大敵に当たるたとえ、かまきりが前足を上げて、斉の荘公の車に立ち向かった故事による。」と解説されています。その出典は『韓詩外伝』です。それから、「蟷」は「螳」の別字体で、南北朝後期には、別字体の「蟷」の字が使われるようになり、『蟷螂之斧』の故事も日本風にアレンジされて、「衆寡てきせず」、つまり、「多勢に無勢であっても、引かずに果敢に戦う」というように、意味が変わって行ったのでは、と思われます。
 南北朝期には、「三種の神器」の本物を南朝が所持していると信じられていたので、南朝が正統だ、という風に思われていました。「三種の神器」の正統性についても、真偽不確かな風聞(=噂話)が巷(ちまた)にあふれていて、時の天皇でさえ見たこともない「三種の神器」なのにです。踏み込んでいえば、中身の存在自体も不確かなものが「三種の神器」なのです。その不確かなものによって保障される天皇の権威をめぐって戦われたのが、南北朝の戦乱であり、都の人々は南朝びいきであったようで、「正統な皇位継承者である方が、都を追われて、吉野の山中におられて、不自由な暮らしをされている。お気の毒なことだ。」という風に、人々の同情は、南朝に集まって行きました。よく誤解されていわれていることですが、当時の都の公家たちは飛び込んできた情報に一喜一憂し、翻弄されてはいましたが、どっちつかずで居ただけで北朝びいきというわけではありません。ただ、彼らは四神に護られた都から一歩も出たくない、というのが正直なところで、とにかく一日も早い戦乱の収束を願い、どちらかの天皇が帰還されて、すべてが元通りになり、よみがえった宮中に出仕したい、と思っていたのです。
 足利義詮軍(その中の赤松軍)との(石)清水合戦で勇敢に戦い、身に10数槍の手傷を負って戦死した隆資卿の公卿に稀な武勇への称賛と中国故事の蟷螂の生態とが似ているところから、陳大年(宗奇)と町衆が共に時の悪権力(勝利者である足利将軍家)に対するレジスタンスとして創建したのが、蟷螂山です。その後、祇園感神院の支配者である比叡山延暦寺の強訴などにより、幾度となく神事である神輿渡御が行われない事がありました。「神事なくとも」、山鉾巡行は行われて、そんな時の山鉾はいつも以上に拍手喝采を浴びたようです。f0300125_20272044.jpg祇園祭は庶民の祭りといわれる所以でしょうか。隆資卿の「稀な武勇」とありますが、この当時、羽林家の公家は武官として仕えていたので、武芸に優れているのは当たり前のことでした。彼らは、実際に検非違使の長官となって任務を担い、部下を指揮して都の警備を行っていました。現在人が思っている公家のイメージ、つまり、優美な装束に身を包んで出仕して、歌舞音曲に親しむという公家の姿は、徳川幕府によって武装を解かれて、それ以後は文化面での活動のみを行った江戸時代の公家の姿なのです。
 そして、祇園祭の山鉾巡行が、豪華絢爛な懸装品をまとい、年々派手になって行ったのも、不思議なことにその江戸時代なのです。そんな様子を知ることができるのは、数ある「洛中洛外図屏風」の内でも林原美術館本で、元和年間(1615-23)頃に描かれたと考えられています。この屏風には、長刀鉾に乗る女性が描かれていたり、鉾に付き従う人々の顔も楽し気です。そんな光景を二階建ての町家で見物をする人々の服装も華やかで、長かった戦国の世は去り、訪れた平和な時代の到来を楽しむ様子が随所に描かれています。 
(おわり) 空白

(京都産業大学日本文化研究所 上席研究員) 空白



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# by y-rekitan | 2018-01-26 09:00 | Comments(0)

◆会報第83号より-05 絵馬

「石清水八幡宮と松本神社の絵馬」

野間口 秀國(会員)


 新年にふさわしい題材はないものかと考えていると、自室の壁に昨年6月に当会の歴史探訪ツアーにて訪れた兵庫県淡路市の伊弉諾(いざなぎ)神宮で買い求めた手のひらサイズの絵馬が目に入りました。多くの神社ではご利益、由緒、言い伝えなどが描かれた絵馬が授与されており、境内の絵馬掛け棚などに結ばれております。石清水八幡宮でも同様です。今回は地元の石清水八幡宮の絵馬と、お隣の城陽市の松本神社に昨年から結ばれるようになった絵馬について書いてみたいと思います。

 石清水八幡宮の御本殿南総門をくぐると、右前方に「お札・お守り授与所」があります。授与された絵馬には願い事が書かれて近くの結び棚に結ばれており、その種類は本殿と鳩のイラスト、エジソンの肖像画、干支のイラストなどです。歴史的には新年度の干支の描かれたものが最も新しいと言えるでしょう。またエジソンの肖像画の描かれた絵馬は形が正五角形で名前もアルファベッドで書かれており、珍しい部類に属するのではないでしょうか。エジソンと石清水八幡宮のご縁は、「彼の発明した白熱電球のフィラメントに八幡産の真竹(まだけ)が使われたことによるもの」であることは良く知られているところです。エジソンの描かれた絵馬がいつから授与所に並び始めたかは不明ですが、昭和9年にエジソン記念碑が建立された(*1) ことから考えても、これ以降であることは間違いなさそうです。今一つは、鳩の描かれた絵馬です。鳩の由来について 『山城綴喜郡誌・第十一編 伝説』には “鳩を神苑に飼養する起源、何れの年代なるか詳ならずと雖も、鳩を詠せし詩歌少なからず、 云々” と書かれてあり、鳩は石清水八幡宮の歴史に古くから登場していることは否めないと思われます(*2)。
 しかし私が注目したいのは、このように授与所でお求めいただける種類のものでは無く、石清水八幡宮に所蔵されていると書かれた「群鳩図絵馬」についてです。平成28年10月に発行された 『国宝指定記念 特別展 石清水八幡宮をめぐる8つのエピソード』 と題する冊子(*3)に掲載されたその絵馬は、丸山応挙筆とあり、天明7年(1787)に薩摩藩第8代藩主、島津重豪(しげひで・1745~1833) によって奉納されたことが冊子の説明文から分ります。同様に写真の絵馬に残る<右端奉納銘>の釈文には “薩隅日三州主兼領琉球国従四位上行左近衛中将源朝臣重豪 天明七年正月吉日” とあり、冊子にはまた、近世の島津家は近衛家領島津荘の地方荘官であったことを発祥とすることから藤原姓、または源姓を称した、とのことや鳩に関する石清水八幡宮に伝わる逸話も書かれています。薩摩藩にあった4つ(加治木、重富、垂水、今和泉の各家)の最高家格の1つ、加治木島津家に生まれた重豪は五百万両という莫大な藩債を生み出した元凶との好ましくない評価と共に、後に訪れる時代の転換期に薩摩藩が勇躍する基礎を築いた藩主としても評価されています。「群鳩図絵馬」が石清水八幡宮に奉納された天明7年正月に重豪は既に隠居しておりますが、藩主として過ごした時期には江戸参府の行き帰りに、宇治、兵庫、大坂などをお忍びで何回となく訪れていますので、この絵馬奉納の背景もとても興味あることではあります(*4)(*5)(*7)。石清水八幡宮へも参詣したであろうとも思われますが、現在この絵馬は京都国立博物館に保管されており石清水八幡宮で見られないのは残念ではあります(*6)。f0300125_1003572.jpg
 このように、石清水八幡宮には近代の絵馬のみならず、古くからの絵馬もあったことがわかりましたが、お隣の城陽市にある松本神社の絵馬は最近できたばかりのものです。昨年5月の新聞記事に興味を持ったのは、「絵馬づくりの予定有り」とのこともさることながら、松本神社自体についてでした(*8)。メディアに取り上げられる規模や知名度の神社なら知る機会もあったでしょうが、この神社の所在地も知りませんでした。日をおかずに松本神社を探して訪れました。このあたりかな、と思う所で車を停め下校中の小学生に聞くととても親切に案内してくれました。知らないと通り過ぎてしまうほどの小さな規模で、社殿らしきものも無く「絵馬づくりの予定有り」とは想像できませんでした。

 話は変わりますが、読者の皆様で「松潤(まつじゅん)」と言って、ああ彼のこと、とお分かりになる会員の方はいかほどおられるでしょうか。松本潤さん、大人気のアイドルグループ「嵐」のメンバーの一人でファンの皆さんには略して松潤と呼ばれています。8月30日が彼の誕生日であり、その日に合わせて松本神社で絵馬を発売することになったようです。嵐のメンバー5名(大野智さん、二宮和也さん、相葉雅紀さん、櫻井翔さん、そして松本潤さん)にちなんだ同名の神社には嵐ファンが多く訪れているようです。彼等の姓を冠した神社のうちで、松本神社が最後に残った絵馬の無い神社だったようで、多くの嵐(松潤)ファンからの熱い要望を受けて、市政45周年の城陽市が積極的に絵馬作成に取り組まれた結果であっただろうことは同市観光協会の方のお話しから伺えました。予定通り絵馬の発売がなされたことは「松潤ファン 絵馬に行列 城陽の松本神社」と題した絵馬発売翌日の京都新聞記事にて確認できました。ちなみに、メンバーの一人、大野智さんの姓を冠した「大野神社」は隣の県、滋賀県(栗東市)にございます。

 松本神社についてもう少し書いてみたいと思います。道路に面した神社の規模は、左右幅が約6.5m、奥行きが約7.5mで、周囲を瓦葺の白壁で囲まれています。正面の入り口には鳥居が建ち、中央に「松本神社」の額字が見えます。向かって左側の柱には「昭和五十七年十月吉日建之」と刻されており、鳥居は思いのほか新しい時代に造られてのものです。他にも、その歴史を教えてくれる数点のものが確認できます。年月を判読できる最も古い時代の二基の常夜燈の背面には「文化十癸酉(ミズノトトリ)八月日」と読み取れました。ちなみに文化十癸酉は1813年、江戸時代後期です。その他にも柴を供える左右一対の石の壺の1つには「弘化四年〇〇八月日」と確認できます。弘化四(1847)の干支は丁未(ヒノトヒツジ)であることより、〇〇部分は丁未と思われます。このように江戸時代のものに加えて、私の興味を引いたのは「献燈」と刻まれた「昭和六十三年九月建立」の石造りの石碑(燈篭)でした。その右側面に6名(男性4名、女性2名)の名前が刻まれており、この6名の皆様方は同級生であり、内女性1名は現在(2017年6月6日・訪問日時点)でもご存命とのことをご近所にお住まいの方より教えていただきました。
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 松本神社は前述のように規模も小さくて神職さんも常在されず、管理は近くの加茂神社の宮司さんによってなされています。旧名島村の氏神である加茂神社は、社殿の案内板によれば、上賀茂神社の祭神を移し祀ったとされること、旧五月の上賀茂神社の競馬に村から参加させたことなど、上賀茂神社と深いつながりがあるようです。現在では風雨を鎮め豊作を願う「八朔祭」が九月一日に催されています。ところで、前述のように8月30日には予定通り2種類の絵馬が松本神社近くで発売されました。その様子は割愛いたしますが、私も1枚を買い求めた帰り道、加茂神社にも足を運びました。翌日の「八朔祭」に備えて社殿を清めておられた宮司さんに幸いにも以下のようなお話しを聞くことができました。その1)、松本神社は地元の人達によって建てられたが、誰を祀ってあるかは書かれたものが残っていないので不明である。が、住吉大社の末寺であるようだ。その2)、「十六の渡し」の守護であったことは事実であり、神社のある集落は、古くは「大字名島小字十六」と呼ばれていたが現在の住所には「十六」は使用されていない、と。発売翌日の新聞記事にあった「木津川の渡し場の守護神」の木津川の渡し場は、十六(現・城陽市奈島)から草内(現・京田辺市)を結んでいた「十六の渡し」であると思われます。

 最後に、松本神社の結び棚に結ばれている真新しい絵馬の多くは「コンサートチケット当たりますように」の願いとなっておりました。日本中の神社で見られる絵馬の1つ1つに、それぞれの持つ歴史が垣間見える少し楽しい学びの経験でした。本稿をまとめるにあたり色々とご教示いただきました皆様方に紙面より厚く感謝申し上げます。
(2017.12.27)

(*1)『八幡市誌 第三巻』 八幡市刊
(*2)『山城綴喜郡誌・第十一編 伝説』 1908年刊
(*3)『石清水八幡宮をめぐる8つのエピソード』 八幡市立松花堂庭園・美術館刊
(*4)『島津重豪』 芳則正(かんばし のりまさ)著 吉川弘文館刊
(*5)『鹿児島県の歴史』 原口泉・永山修一・日隈正守・松尾千歳・南村武一共著山川出版社刊
(*6)『甦る島津の遺宝 ~かごしまの美とこころ~ 黎明館企画特別展』
展示史料 (鹿児島県歴史資料センター黎明館 2010年)
(*7)『島津重豪と薩摩の学問・文化』 栗林文夫著 勉誠出版刊
(*8)京都新聞2017.5.24、8.31、10.31各日付記事、11.21日付朝刊コラム

 
# by y-rekitan | 2018-01-26 07:00 | Comments(0)

◆会報第83号より-06 三宅碑⑩

《続》 2016年1月度の講演会より

『三宅安兵衛遺志』碑と八幡の歴史創出
その10

―松花堂・東高野街道・天皇聖蹟・綴喜郡―

中村 武生  (京都女子大学、天理大学非常勤講師)


(3)明治天皇聖蹟
 八幡は南北朝期だけでなく、幕末期の古戦場でもあります。この付近は戊辰戦争の緒戦、鳥羽伏見戦争の決戦の地です。伏見で敗れた新選組など徳川方が最後に拠った楠葉台場(現大阪府枚方市)が、淀川対岸の梶原台場(現同府高槻市)から砲撃され、そのため戦意を失い徳川勢は、水路大坂城へ敗走します。その後一戦も行われず、前将軍慶喜は江戸へ退去し、西日本は明治新政府の手に落ちました。いわば明治天皇聖蹟です。そのため「戊辰役」を冠した三宅碑が計三基建設されています。「戊辰史蹟念仏寺」(1927年10月、現八幡市)、「戊辰役戦場址」(1928年春、現京都市伏見区)、「戊辰役橋本砲台場跡」(1928年11月、大阪府枚方市楠葉)です。すべて1928年(昭和3)か、その前年秋の建立です。この年の干支は維新から初めての「戊辰」でした。そのため全国的な維新ブームが起きました。それゆえの建碑でしょう。芳次郎が明治戊辰の生まれであったことにも注意すべきでしょう。ちなみに淀小学校にも「天皇御駐輦之趾」碑が建てられています。戊辰戦争後の行幸の地ですが、これも明治天皇聖蹟にちがいありません。
 ここで注目すべきは「橋本砲台場跡」碑です。さきに述べましたように現大阪府枚方市の楠葉台場跡に建てられています(1928年11月)。もちろん誤りです。橋本は京都府綴喜郡域(現八幡市)ですが、楠葉は大阪府交野郡(現枚方市)です。どうしてこのような混乱がおきたのでしょうか。
 馬部隆弘さんは安政5年(1858)に建設された橋本陣屋と混同したためと理解されていますが(『ヒストリア』206号所収論文)、前述の『山城綴喜郡誌』には「名趾城堡」のひとつとして「橋本陣屋」は立項されています。当然のことながら位置は「橋本」とあります(285頁)。『山城綴喜郡誌』を読んでいる西村芳次郎が、樟葉に「橋本砲台場」跡碑を建てるとは思いがたいです。
 真相は不明なのですが、可能性の一つとして指摘しておきます。当該事業の原則は京都府下への建碑です。樟葉は大阪府下であるため、建碑を憚られた。それゆえ至近である京都府下の橋本を冠して三宅清治郎の理解を得ようとしたのではないでしょうか。とはいえ天皇聖蹟として大阪府下に「樟葉宮」(1927年7月)や「水無瀬神宮」(建立年不明)などを建碑した例はあり、これらと同様に天皇聖蹟として理解を求められなかったのだろうかと思わなくはありません。

(五)自邸の由緒の創出

(1)継体天皇の遊宴地
 天皇聖蹟の顕彰は自邸にも及んでいます。少なくとも父井上伊三郎(忠継)時代までに当地は「月の岡」と呼ばれており、転じて「月の岡邸」と名づけられ、芳次郎はそれを刻んだ三宅碑を門前などに建設しています。「月の岡」の由来は、「継体天皇河内国交野郡樟葉にて御即位あって此地にて月見の御宴ありし」こととします。自邸を1400年以前、継体天皇由緒地と位置づけたのです。しかしその根拠は希薄で、地名「月夜田」以外にはありません。『男山考古録』や『山城綴喜郡誌』など先行する地誌にもかかる伝説は見いだすことができません。おそらく芳次郎の創作でしょう。その創作意図の考察は後述いたします。ここで想起されるのは樟葉宮跡の建碑です。同天皇の居所「樟葉宮跡」が碑によって現出され、「月の岡邸」の由緒は説得力をもつという効果が期待されたのではないでしょうか。

(2)「大筒木真若王御墓」と「参考地」
 前述しましたが、芳次郎の邸内には東車塚古墳が存在します。この被葬者を「記紀」伝承上の人物、開化天皇の孫山代之大筒木真若王(やましろのおおつつきまわかのみこ)に治定し、それを示す三宅清治郎建立碑を建てています。ちなみにこれは事業終了後の行為のため、亡父安兵衛遺言による建碑の形を取りませんでした。「三宅清治郎建之」とあります。この建碑によって自邸の古墳を「陵墓」と位置づけたのです。現在でも被葬者の特定には墓誌の存在が不可分で、それがない以上、受け入れられることではありませんが、選ばれたのが山代之大筒木真若王であることに注意すべきです。芳次郎は「筒木、筒城、綴喜郡」などの地名がこの人物の名前から取られたものと判断するからです。すなわち自邸は「綴喜郡発祥」所縁の地と位置づけたわけです。なお同邸宅に西接する西車塚古墳にも、山代之大筒木真若王の妻「母泥之阿治佐波毘売(たにわのあじさわびめ)」墓と刻む清治郎建立碑が建てられています。
 あわせて注目すべきは、両碑には濱田青陵(耕作)の揮毫を得ていることです。濱田がこの治定を信じたとは思えません。両碑には「参考地」の文字が付記されているのはこれを意味しています。しかし京都帝国大学考古学教授の揮毫を得る目的として、「山代之大筒木真若王」墓に強い説得力を持たせようとしたと思われます。
 なお「参考地」を付した三宅碑が別に存在することを指摘しておきます。1929年春建立の「甕原(みかのはら)離宮国分尼寺遺阯参考地」です(現木津川市加茂町)。f0300125_1021571.jpgこれは三宅碑の存在を初めて広く紹介した岩永蓮代が、同碑に注目するきっかけとなった碑です。このことは最初のあたりでお話ししました。1960年代から80年代にかけて全国の国分寺・国分尼寺跡等の顕彰に尽力した岩永は、地名ていどの根拠しかもたない場所について、開発の危機から守るため自治体の協力をえて「参考地」と刻んだ建立を進めていました(兵庫県姫路市の播磨国分尼寺跡、群馬県前橋市の上野国分尼寺跡など)。そのさなかの1968年12月、訪れた京都府相楽郡加茂町法華寺野(当時)で「甕原離宮国分尼寺遺阯参考地」を確認、「参考地」建碑の先人の存在を知り感銘を受けるのです。碑銘にある建立者「三宅安兵衛」とはいかなる人物であろうかと捜索を開始し、7年後、平安博物館(当時)の大石良材の教示によって遺族と出会うことになります。この経過については岩永の著書『文化財保護ありのまま』に詳しいのですが、岩永は「甕原離宮国分尼寺遺阯参考地」建立の背景についてはふれていません。
 1926年、京都府が実施していた木津・加茂間の府道敷設工事中、法華寺野小字西ノ平の丘陵の桑畑を切り崩したところ、多数の古瓦が出土しました。これを受けて翌1927年7月および1928年1月から4月にかけて、京都帝国大学国史学教室の西田直二郎・佐藤虎雄をはじめとする京都府史蹟勝地調査会委員によって発掘調査が行われました。その結果、あらたな古瓦等が出土したほか、南北延長約55mの「遺壁」が検出されました。この遺構の性格は不詳ですが、佐藤虎雄はその報告「法華寺野の遺跡」に「甕原離宮或は国分尼寺に属するものなるかは将来の研究及び考古学的発掘を待ちて定め」るべきと記し、「此の遺蹟は古代の遺壁に属するものとして保存せられんことを希望する」と結びました。報告書は1930年3月刊行で、建碑以後です。報告書にはその後の建碑についてふれられていませんが、佐藤虎雄と芳次郎の関係を鑑みて無関係であるはずはありません。佐藤らの希望を受けて芳次郎が建碑地として選択したと考えられます。以上により当該碑に「参考地」とある事情は明らかでしょう。検出した「遺壁」は甕原離宮および国分尼寺に関わる可能性があるものの、確かなる根拠を得られなかった。そのため選んだ文言であったといえます。東車塚および西車塚両古墳に建てられた碑に濱田青陵が「参考地」と揮毫したのも同様の意図でしょう。確かなことは不明ですが、八幡の調査等で考古学教室および国史学教室はかなり芳次郎の世話になっています。両古墳を山代之大筒木真若王・母泥之阿治佐波毘売夫妻の墓に治定したい、芳次郎の希望を無碍にできなかった濱田の苦肉の処置だったのではないでしょうか。すなわち「参考地」文言は、安兵衛・清治郎父子はもちろん、芳次郎でもなく、濱田青陵や西田直二郎ら京都帝国大学の研究者によって付されたものと理解します。確実なこととそうでないことの区別を碑文で示そうとしたわけです。
 なお濱田や西田が揮毫したことを刻んだ三宅碑は四基現存していますが、f0300125_223042.jpgいずれも宮都や陵墓など天皇・皇族所縁の地であることを指摘しておきます。
 王塚について芳次郎は「宇智王子」の墓という「申伝」があると記しています。「宇智王子」とは大筒木真若王と同じく「記紀」伝承上の人物、味師内宿禰(甘美内宿禰)のことで、孝元天皇の孫(あるいは曾孫)です。武内宿禰の弟にあたります。f0300125_10534780.jpg「勅命ニ依リ南山城ヲ開拓シ此ノ所ニ住タマイ南山城ノ祖先タリ、又橘家武内家ノ先祖タリ、今ニ之ノ一族多し」と芳次郎は位置付けています。大筒木真若王とあわせて城南地域の「開拓」者である皇族への建碑を意識していることが分かります。なお井手町の橘諸兄(たちばなのもろえ)所縁の井堤寺跡、寿福寺等への建碑もこれに関わり選択されたのではないでしょうか。
 ちなみに『都名所図会』など近世の地誌のなかには、王塚の被葬者を「宇智王子」ではなく、継体天皇とするものがあることも注意すべきでしょう。継体天皇由緒地に三宅碑が多く建設されていることは前述しましたね。
(つづく) 一一ー




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# by y-rekitan | 2018-01-26 06:00 | Comments(0)

◆会報第83号より-end

この号の記事は終りです。


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# by y-rekitan | 2018-01-26 01:00 | Comments(0)

◆会報第82号より-top <スクロールだけで全記事が読めます>

f0300125_20324489.jpg
この号の会報からは現在、下記の記事が掲載されています。
このまま下にスクロールして頂くと順次連続してご参照頂けます。

◆シリーズ:“心に引き継ぐ風景” ⑬◆
◆《講演会》森本家文書からみた近世石清水の神人構成と身分◆
◆シリーズ:“八幡の古墳と鏡”⑥◆
◆シリーズ:“「三宅安兵衛遺志」碑と八幡の歴史創出” ⑨◆
◆勅祭・石清水祭に学ぶ◆
◆第45回八幡市民文化祭展示発表報告◆



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# by y-rekitan | 2017-11-27 15:00 | Comments(0)

◆会報第82号より-01 柏亭日記

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心に引き継ぐ風景・・・⑬

橋本へ象を見に行く・『柏亭日記』
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 江戸時代、8代将軍徳川吉宗の時にベトナムから日本に象がやってきました。大変珍しい象の一行は江戸に到着するまで、どこでも大人気で沢山の見物人であったと記録に残っています。長崎に着いた象の一行はその後大阪に到着し、京都に向けて京街道(東海道)を進みました。享保14年(1729)4月25日枚方宿を出て、伏見宿に向かいますが、休憩地の淀宿に至る途中、八幡を通過します。
 八幡宮の神人柏村直條(八幡八景選定者)が残した「柏亭日記」の中に橋本の象見物の記事がありました。
  「四月廿五日晴」 〇妻女孫共橋本へ象ヲ見物ニ罷ル
 妻女孫達は森町の家から科手道を経て橋本に入ったと思われますが、象が通過した八幡の京街道は現在、橋本東部から美豆の間が木津川と宇治川の川底になって分断されています。
 5月に入ると中御門天皇が詠んだ歌も伝わってきたようです。
  「五月五日曇、晴」   象   御製
    時しあれハ 人の国なる けたものを
    けふ九重に みるかうれしき
               
 錦市場の青物商の長男に生まれた伊藤若冲も13歳の頃、都でこの象に出会ったと伝わっており、長じて象を巧みに描いた作品が残っています。
(文と図 谷村 勉)空白


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# by y-rekitan | 2017-11-27 12:00 | Comments(0)

◆会報第82号より-02 森本家文書

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《講演会》
森本家文書からみた
近世石清水の神人構成と身分


2017年10月 八幡市文化センタ-第3会議室にて 

竹中 友里代(京都府立大学特任講師)

 
 10月15日(日)、午後1時30分より、八幡市文化センター第3会議室にて「講演と交流の集い」が行われました。表題のタイトルで京都府立大学の竹中先生に講演をしていただきました。先生は以前に八幡市教育委員会文化財保護課に勤務され文化財保護行政に当たられましたので、八幡市の文化財には精通されています。
 概要を以下に紹介いたします。当日の参加者は47名でした。


1.森本家文書 六位禰宜

 f0300125_15372114.jpg今日は江戸時代の石清水でどんな神人がいて、どんな仕事をしていたのか身分的なお話をしたいと思います。
 森本家文書については一昨年府立大学の学術報告書に掲載していて、インターネットでも見ることができます。興味のある方はご覧ください。
森本家というのは森という所を本拠地としています。
森町
男山考古録に「山路郷 檀所町の東 当地の一所森にありて、その名負いけん、今も当所の居住の社人に森本・森元なと称せり」とあり、立田牧場があった場所が森本家の屋敷跡と聞いています。
森本信魚については、「尚次若かりし時、当町森本信魚師として神道を学び道開く」と考古録の著者長濵尚次に指南した先生であったと記されています。1700年代の中頃に描かれた石清水八幡宮全図を見ると森町には多くの寺庵があります。徳川家康から朱印状を頂いている、浄土宗36ヶ組寺としては、観音寺、奥庵(大禰宜能村仲民建立)・玉樹院(森本三郎兵衛建立)・薬薗寺・瑞光寺等がみられますが、その内の薬薗寺については森本家と柏村家が寺の経営に関わるなど、江戸時代中期頃までは寺の建立にも多くの神人が関わっていました。
森本家25代信富(のぶあつ)は、自宅を森本蚕桑館とし、養蚕の研究を行い、明治23年養蚕伝習所委員となり、南山城の養蚕導入に尽力しました。なお、信富の養父信德時代に姓を森元から森本に統一しました。
森本家の文書は52点(神道伝授・祝詞・その他)が確認されていて、特筆されるのは石清水八幡宮補任状で16点が残っていて、その殆どが檀紙(縮緬様の皴がある)で格式の高い紙質です。

2.公文所

公文所とは公的文書を保管・処理する役所ですが、石清水では、天慶2年(939)三綱が設置され、それを公文所のはじめ、としています。
公文所は所司の三綱(上座・寺主・都維那)の上座に位置し、室町時代以降は上野家が代々勤めています。
年中行事・遷宮・将軍社参等の奉行を務め、山上山下僧俗諸神人の執頭であり、補任状交付や成文での神人召請、神人装束の管理を行ない、正月には立松飾・注連縄飾を行っています。
宮寺の公印、いわゆる「正印」は行教自作とされ、行教の身体と同じとして神格化され、将軍や尾張家に献上する祈祷神札には正印が使用されています。
正印は頓宮殿厨子内に保管され、祭列では御正印唐櫃として参列します。
補任状に押されている正印の数を見ると天正元年27顆、寛永11年8顆と中世の書式を踏襲したものから、寛文5年頃には正印1顆となり次第に近世的に様式化していく様が窺えます。
公文所は現在の石清水八幡宮五輪塔(重文)の南辺りにその跡地が記されていますが(石清水八幡宮全図)、寛永9年頃に倒壊したため、当時の田中家の東隣辺りに移転し(石清水八幡宮境内図)、そこで政務をとっていたと思われます。
上野家には、院専―院玉―‥‥―院秀―院芳―紀清慶(慶応4年の維新時に復飾)が確認されている。代々「院」を通字にしています。


3.石清水の外他領神人

 近隣自治体からも久御山、交野市、城陽、京田辺(駕輿丁・御綱曳・御前払・火長陣衆・駒形‥)の神人が奉仕しています。
 石清水坊領として内里村横坊30石、寺田村閼伽井坊15石、鴨川村公文所14石の所領があり、中世荘園の神領として古来より奉仕を通して石清水との関係を継続してきました。
勅祭奉仕では、百姓身分では許されない装束を着用し、村社会で特化した地位を示すことができました。
 具体的な一例として松井村の袖旗神人(御旗神人)の場合、祭礼に際して三韓征伐、神功皇后の袖を袖旗神人の長が箱に入れて奉じ、諏訪ケ原(諏訪明神勧請)で採取した榊を持って長の前後に従っています。(交野市教育委員会『石清水八幡宮放生会絵巻調査報告書』)
 松井村には、氏神の宮座(大座・新座)のほかに八幡座があり、御旗神人が石清水の祭礼奉仕後に、八幡座の頭屋の床の間に神饌・掛軸を、庭には「オヤマ」と称する(オハケ)を飾り、祝詞・拝礼をした後に直会となります。勅裁奉仕した後、村方でも祭祀を行う興味深い事例です。

 他領神人の補任状「宮寺符」は以下の時期に交付されます。
放生会(8/11)、安居神事(12/11)、御神楽(11/2)などの祭礼参勤時。
本社遷宮儀式の際。(元禄6年9月26日、安永7年7月22日)
 元禄6年9月19日には儀式の事前に社務新善法寺晃清による正遷宮儀式参勤命令、公儀普請の為検校による命令書として「宮寺政所下文」等が出されています。 
さらに不定期には家督相続の際にも交付されています。

 
4.石清水神領居住神人

 神宝所神人(神庫の管理、菖蒲革献上)・宮工司(大工)・仕丁座・宮守・神楽座・安居百姓等があり、特長としては徳川家康領知朱印状を持つことがあげられます。慶長5年5月25日付けで361通の領知朱印状が安居神事勤仕を条件に大量に発給されましたが、これは全国的にもめずらしい事例です。
 朱印状所持の神人が安居神事の頭役を勤めることになりますが、安居神事頭役には①宮寺符・安居頭役補任、②安居頭役差定「小差符」(命令書)、③堂荘厳宝樹預差定「木差符」(ご神木の許可) の3種の補任状が出されます。
 駕輿丁美豆下司神人の大森家には、家康朱印状6石8斗や補任状(寛文5~文政12年8通)、文化5年美豆村西堤で行倒人届、天保14年諸商人商物値段書(天保改革による諸品の値下げ)、町法度倹約之事等の古文書が伝わっています。
 八幡宮外四郷の内、大坂(京)への街道沿いの淀大橋の橋詰にあった美豆村は、元美豆村から町美豆へと発展しましたが(石清水八幡宮全図)、大森家は村の年寄として、村政に関わる神人でした。

5.六位禰宜

f0300125_16433735.jpg 森本家は、朱印状源左衛門6石9斗8升ですが、別家に朱印状与次郎48石7斗6升があり、役割として神前瑞垣の内で神官を補佐していました。
 同様に神官を補佐する四座神人(他姓・六位・大禰宜・小禰宜)の内、大禰宜の能村氏は「放生会の時、御こしの戸口を符申候御倉の鑰(かぎ)の役」、小禰宜の奥村氏は「御供を宮守より請取、六位他姓へ渡申、神輿をかさり申候御役人にて御座候」とあり、宮守が用意した神供を禰宜から受取り神前に供える役割を担っていました。
 
 神道伝授について、明和9年(1772)白川伯王家神道門人の小川玄蕃より、鳴弦の儀が森本家に伝授されています。
 また寛政4年(1792)武末霊社(社務田中要清)百年忌に際しては、吉田神道家吉田良倶より三壇妙行の神道儀式を伝授された田中養清に森元信良が従っており、森本家が神道祭祀に詳しい家であることが判ります。
 信恵(信魚)は天明8年(1788)新賀差定により神職神人身分を得、翌寛政元(1789)斎服免許を受けました。また文化14年(1817)息信邑へ家督を譲るに当り社務検校善法寺立清・田中家・新善法寺家へ挨拶と進物を行っています。
 公文所・兼官からは公文所安居頭人補任状(宮寺符)、斎服免許状〈裃着用にて受取る〉、社務(長吏)の袖印を受け、検知の紀直養からは新賀差定を受けて、神官としての神人身分の証を得〈狩衣着用にて受取る〉、放生会・御神楽・遷宮では神官系神人として勤仕しています。嘉永6年の放生会においては森本内蔵助・駿河一・二の鳳輦御太刀持ちをしています。

6.検知 

 神官三家(俗別当・神主・検知)は、紀氏が世襲し、鳳輦にそれぞれ供奉します。
 神前での祝詞奏上を三家が行います。
 俗別当家は慶安5年(1652)以降徐々に衰退していったようですが、詳しくは俗別当家の文書が出てきていないのでよく判りません。f0300125_1741196.jpg
 検知家代々としては紀朝臣検知氏家―検知大夫紀宿祢豊親―公豊―土佐守紀季豊―土佐守紀豊高―若狭守紀豊房―従五位下若狭守紀直養(正四位下近江守紀朝臣直養)―従五位上筑後守紀豊興が確認できます。
 補任状交付の謝礼金が収入源であり、豊かな神人からの援助もあったようです。

7.神官系神人の系譜と身分構造

 僧形の社務検校が神領全体を支配しますが、別当が検校補任によって当職となり、三家廻職により将軍代替り毎に交替します。
 石清水の役所としては所司という事務方が存在し、以下の構成となっていました。
 ・公文所:僧官の上野家が担当。
 ・絵所:僧官の藤木家(善法寺家の家臣)が担当。
 ・判官:俗官の片岡家(田中家の家臣)が担当。
 ・御馬所:俗官の今橋家(新善法寺家の家臣)が担当。
 ・巡検勾当:近世には俗官の小笹家、花井家、片岡家などが担当。
 また検校に付属する兼官の職があり、訴訟や幕府からの触れや事務連絡の窓口となり統治の実務を統括していました。藤木・片岡・今橋家が勤めましたが、社務家家臣、判官などの事務方や検校の秘書的役割を兼ね、検校交代と同時に兼官職も交代しています。
8.むすびにかえて

 公文所からは宮寺符の補任状、検知からも新賀差定・補任状等が交付され、神人が勤仕する儀式・補任状の種別によりにより、以下の神仏の身分的分別がありました。
僧侶系:別当・権別当修理別当 四十八坊‥‥承仕
公文所 安居本頭神人・安居脇頭神人・安居百姓‥‥他領神人
神官系:俗別当・神主・検知 四座・宮守…仕丁

 文化9年(1812)長濱尚次が本殿修復作業に着手する儀式で祭文を読み上げましたが、若干19歳の尚次に大工棟梁としての祭文作成や祭儀の次第等の手ほどきをしたのは森本家でした。森本信德は明治に入って神仏分離の困難な時代に主典として八幡宮の再生に尽力し、また森本信富は南山城に養蚕事業を導入するなど、森本家も代々八幡に大きな足跡を残しました。
以上 (文責 谷村勉)一一


『一口感想』より

今日のお話にもとづいて、神幸之図を見てみたいと思います。
(B.K.)
江戸時代八幡森に足跡を残した人がいたことがわかりました。私が住んでいる所が家田町、田中町の東となりです。もしかしたら、公文所のあった場所の上に私の家が建っているかも知れません。勅祭のこともわかりました。今は神人役がいないので大変です。八幡のことを再発見しました。用事が重なり参加出来ないことが多いですが、時間が空けば勉強させていただきます。
(T.M.)
今日のお話はちょっとむつかしい。また、ちがう切口、観点でお話が聞きたい。有り難うございました。
(K.T.)


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# by y-rekitan | 2017-11-27 11:00 | Comments(0)

◆会報第82号より-03 古墳と鏡⑥

シリーズ 「八幡の古墳と鏡」・・・⑥


八幡の古墳と鏡(6)


-王塚古墳とその副葬品の謎 -


濵田 博道 (会員)


はじめに 

 美濃山の王塚古墳の伝承について聞かれた方があるかもしれません。例えば、「継体天皇(6世紀前半、在位507~531?年)の陵墓である」あるいは「鳥羽天皇(1103~1156年、在位1107~1123年)の後宮美濃局の墳墓である」と。本当でしょうか。また、王塚古墳から八幡市内最多の13枚の古鏡出土と伝えられていますが、事実はどうでしょうか。さらに1927年(昭和2年)京都大学考古学教室へ「山城八幡大塚・・発見」品として、13の木箱に入った鉄製武器・武具類・土器などが寄贈されていますが、これらは王塚古墳出土品なのでしょうか。八幡地域では王塚古墳を最後に、50mを超える前方後円墳は築造されなくなります。なぜでしょうか。今回は謎の多い王塚古墳について考えてみます。

王塚古墳とは

 王塚古墳は宝寿院(ほうじゅいん)建立、その整地、竹林の土取り、民間人による発掘などのため大きく変形し、現在その面影をとどめていません。2010年までは円墳と認識されていました。大正9年(1920年)京都府発行の梅原末治「美濃山ノ古墳」『京都府史蹟勝地調査会報告第二冊』に概略次のように記述されています。

f0300125_15323199.jpg “綴喜郡有智郷村大字美濃山は八幡市志水の南に接して、木津川の西方、河内との境にある高台の一部を占める。この地には、昔の墳墓が少なくない。中でも最も有力なのは王塚古墳で、美濃山本郷の部落の東南隅にある。古墳は眺望のよい高台の端にある円墳(現在は前方後円墳と確認)である。”
 “その(後)円部について封土の直径は54mを超え、現存最高部の高さは9m程である。周囲は一段低くなっており、殊に南西の部分は、幅5~7mあって湟(ほり、堀)の跡かと思われる。大正4年(1915年)の頃、この古墳を発掘して、封土を縦断。基底部に達して、古墳は大きく変形している。頂部の中央に径7.2m、深さ1m前後の凹んだ所があるのは発掘によるものと思われ、その表面は小石を葺いた跡がある。封土の頂部を円筒埴輪列で取り囲んでいたが破壊の結果ほとんど見当たらない。西村芳次郎氏が埴輪の破断を所蔵していていたので存在は間違いない。”
 2005年~2008年にかけ八幡市教育委員会により範囲確認調査が行われ、その結果東側のくびれ部と埴輪列を伴う前方部一段目平坦面を確認したことにより前方後円墳であること、円部墳丘径は約62m、古墳全長は76m以上。古墳の築造年代は、出土した埴輪や副葬品から古墳時代中期前葉~中葉頃(400年代前葉~半ばごろ)であることが明らかになりました(注1)。この報告から時代的にみて継体天皇陵説や平安後期の美濃局の墳墓説は否定されます。ちなみに、継体天皇の陵墓は宮内庁では茨木市の大田茶臼山古墳と比定されていますが、高槻市の今城塚古墳を真陵とするのが定説です。美濃局の墳墓の所在地は不明です。

王塚古墳の埋葬施設と副葬品

 さらに梅原氏の記述を要約すると、次のようになります。
“内部の構造は古くから頂部に凹んだ所があって主要部は破壊されていたが、大正4年(1915年)の発掘で、封土頂部の北西端近くで地下60cm内外に粘土層があり、遺物を発見。埋葬状態の詳細は当時正確な調査を行える者がいなかったので不明だが、これを実見していた西村氏の略図によると、遺物は東西に長く埋納されていて、その施設は7.3m、幅は約1.8m。中央に冑(かぶと)、その両側に十数口の刀剣、鏃の類。東方の剣に接して漢鏡一面、玉類、兜(かぶと)一個。兜の東に鉄鏃、東南に鎧(よろい)一領。西方の刀剣の西には同じく兜一個、鏃などがあり、左右均勢の状態。四隅には斧頭各一個。武器類は特に豊富。これにより被葬者は男子だと推定。鏡は面径13.6cmの二神二獣鏡が出土。香川県香川郡鶴市御殿山の積石塚から出土した獣形鏡と同一手法。中国での製作を示す銘文があるが、五世紀のものと認められる。”
この記述から埋葬施設は後円部頂部と北西端の計二基と考えられます。

王塚古墳出土の武具・武器・鉄鏃

 昭和2年(1927年)9月「山城八幡大塚・・発見」品として13の木箱が京大考古学教室へ寄贈されました。京大総合博物館では1997年春の企画展「王者の武装-5世紀の金工技術」においてこれらの品々の一部を展示し、図録で6ページにわたって解説と写真を載せています。しかし、13の木箱の遺物には明らかに時期を異にするものも含まれており、すべてが同じ古墳から出土したものかどうかわからないといいます。また、元所有者(西村芳次郎氏)は東車塚古墳の遺物も所有しており、「大塚出土品」には梅原末治氏による「東車塚古墳」報告の出土品と掲載された鉄器が含まれていること。東車塚古墳では鏡以外の遺物については詳細不明で現在も不明なこと。よって、「大塚出土品は東車塚古墳出土品に当たり、その中に王塚古墳出土品が混在している」との見解を示しています。
これに対し、2010年八幡市教委発行『八幡市埋蔵文化財発掘調査報告書 第54集』では「(木箱には東車塚古墳の出土品も混じっているが)遺物の多くは王塚古墳出土と考えられる」としています。その理由として①王塚古墳の所在地は字美濃山小字大塚であり、資料名は王塚古墳の小字による可能性が高い。当時、既に東車塚古墳、王塚古墳の報告書があるので、東車塚古墳のことを単に「大塚」とするとは考えにくい。②末永雅雄『日本上代の甲冑』(1934)に、「八幡町大塚古墳出土」として東車塚は「衝角付冑(しょうかくつきかぶと)、短甲(たんこう)」、王塚は「衝角付冑(三角板革綴(かわとじ))、短甲頸鎧(くびよろい)、肩鎧(かたよろい)、草摺(くさずり)」と分けて記述されている。これらは京大所蔵資料と符合する。③冑甲は大正4年の西村氏による王塚発掘実見数と京大所蔵資料と矛盾しないことを挙げています。そして「甲冑は王塚古墳のものと推測されるが、武器・農工具類は東車塚古墳出土品混入の可能性が高い」としています。(八幡市民図書館に『報告書』有。)意見が分かれています。
 西村氏は当時、京大考古学教室の梅原末治氏、末永雅雄氏、島田貞彦氏らと交流がありました。(後に末永氏は関西大学教授、橿原考古学研究所所長、文化勲章受章、「考古学の巨星」といわれました。島田氏は京都大学教授。)末永氏は著書で次のように述べています。「昭和2年の夏か秋と記憶をするが、京都府山城八幡付近の横穴調査の実習に出かけたことがあった。八幡からよく考古学教室に来られた西村芳次郎氏の家で泊めて頂いたときに、八幡大塚出土で石油箱一杯の鉄製品破片があり、それがほとんど短甲関係であった。」「私は箱の中から目ぼしいものを選別して持って帰り、教室で整理をはじめた。その中に細片だが、亀甲形の小さな鉄製品があったので、その形を詳しく見ると、胴部に四個の小穿孔(しょうせんこう)があり、少し開いた一方に三脚らしいものの折れたあとが残るので、これは何らかの装具とみるべきだとして、はじめて三尾鉄(さんびてつ)(注2)の存在を知った。」(注3)
 末永氏が西村氏から貰った遺品類は時期的に見ても現在の京大考古学教室所蔵の「八幡大塚・・発見品」と推定され、その品々の中から末永氏が冑の三尾鉄を発見、上代の武器武具の研究に貢献しました。木箱の鉄鋌(てつてい)には紐を掛けて束ねた跡があり、鉄鋌の大量副葬は朝鮮半島の新羅や伽耶の地域の古墳で盛んに行われた風習であること、革綴冑が朝鮮半島南部の古墳から多数出土していること(京大博図録)から、朝鮮半島南部の勢力との関連が考えられています。5世紀の国内製鉄遺跡は発見されておらず(最初の製鉄遺跡は6世紀後半)、鉄製品の元となる鉄鋌は朝鮮半島南部からの輸入品です。その入手に八幡の勢力がどうかかわっていたのか興味深いところです。

(伝)王塚古墳出土の筒型銅器

 次に(伝)出土品とされるものに筒型銅器(つつがたどうき)があります。
「(筒型銅器とは)長さ10cm程度の筒状をなす青銅製品。一端がふさがり、他方には目釘(めくぎ)孔を伴う。普通四方に細長い透かし孔を2段に開ける。用途は不明だが、杖頭(つえがしら)や柄頭(つかがしら)もしくは石突(いしづき)[柄の端を包んだ金具]として用いられたと推定されている。内部に棒状のものが入る例もあり、鈴としての役割を果たしていたらしい。前期古墳から出土するが、朝鮮半島でも金海大成洞(きんかいたいせいどう)古墳群をはじめ、洛東江(らくとうこう)流域に分布し、もとはこの地域で製作されたという説がある。」(『日本歴史大辞典』小学館)
筒型銅器は王権の威信財とされ近年注目されています。韓国・伽耶(かや)地方の古墳から68本、日本では前期半ば~中期前半の古墳から73本出土しています(注4)。(伝)王塚古墳出土の筒型銅器は松浦武四郎氏の『雲烟過眼録』に、美濃山出土として「中国の鐓(いしづき)に相当する筒形の銅製品」として載っています。前期古墳からの出土が多く、中期の古墳から出土するのは稀で、八幡では唯一の出土品です。

(伝)美濃山の古墳出土鏡

 梅原氏は “地元の人からの古伝は何もなく不明だが、神田孝平男氏所集の『東堂雑集二』に八幡美濃山からの出土鏡の記述がある”と述べています。この書に「天保六年(1835年)四月城州(山城国)八幡美濃山掘出古鏡」として虁鳳鏡(きほうきょう)1、内行花文鏡3、方格規矩鏡(ほうかくきくきょう)2、半円方形帯渦文鏡2、半円方形帯神獣鏡1、鼂龍鏡(だりゅうきょう)2、変形神獣鏡1の計12枚の鏡が記録され図版が載っており、大正4年出土の二神二獣鏡と合わせると、鏡は13枚になります。(しかし、すべて現物はありません。)これらの鏡がなぜ王塚古墳出土といえるのか。梅原氏は美濃山でこれほど多量の鏡を副葬するのは王塚古墳しか考えられないといい、以後、鏡は王塚古墳出土(推定)とされてきました。

f0300125_1530957.jpg しかし、前掲の八幡市教委『報告書』では、“天保六年出土と伝わる鏡12面は拓本だけが収載されているが、出土地については「美濃山」と記録されているだけで、王塚古墳の出土品と限定することはできない。王塚古墳の南西100mには、朱を伴う主体部が出土したと伝えられる小塚古墳の存在も知られているし、美濃山の丘陵裾から北西の大字・内里にかけては、開発により早くに失われた古墳もあって慎重な姿勢が必要であり、王塚古墳出土とは限定できないだろう。”と疑問を呈しています。
 確かに美濃山・内里地域には、王塚古墳・小塚古墳の他にも鏡が出土したとされる三ツ塚古墳や内里古墳、東京国立博物館に獣形鏡が所蔵されている西ノ口古墳、東二子塚・西二子塚古墳、さらに御毛通古墳、柿谷古墳、内里池南古墳、女谷・荒坂地域には多くの横穴墓があります。しかし、これらの古墳の中には開発や竹林の土取り・土入れなどで消滅しているものも多く(東二子塚古墳は美濃山幸水の史跡公園に復元、柿谷古墳・横穴墓については発掘)、古伝もなく、12枚の鏡とこれらの古墳の関連は不明です。いずれにしても、これらの鏡が美濃山・内里地域の古墳から出土したことは間違いなく、この地域は八幡の古墳時代を解明する鍵を握っているといえます。

(伝)王塚古墳出土鏡

 梅原氏は(伝)王塚古墳鏡を概観して、“日本で製作されたもので、種々の形式を含んでいる。鏡の種類は多様で、その各原型の年代は必ずしも一致しないが、これをまとめてみた時、何れも相接する時期に製作したものと見るのがよく、その製作年代としては中国の六朝初期より中期(3~5世紀)にわたる時期だろう”(前掲書要約)と述べています。

①虁鳳鏡(きほうきょう)
 日本では虁鳳鏡の出土数は全国で約30枚と少なく、京都府下では2枚(八幡市と城陽市上大谷6号墳鏡)が確認されています(注5)。それだけに貴重です。虁鳳鏡は次のように解説されています。
「虁鳳鏡(きほうきょう) 裏面に鳳凰が翼を広げたように見える竜形の文様をつけた青銅鏡をいう。後漢のものが多い。虁(き)というのは竜のようで一本足、また牛のようで角がなく、水に出入りすると風雨あり、その光は日月のごとく、声は雷のようだといわれている。中国では漢代から六朝時代の墳墓、朝鮮では楽浪古墳、日本では弥生時代の遺跡あるいは古墳からも出土している。」(ブリタニカ国際大百科事典)
 中国を代表する考古学者王仲朱氏は虁鳳鏡を卑弥呼の鏡百枚の一つであるといいます。「河南省の洛南を中心とする中国の黄河流域の各地で出土した二世紀の後漢、三世紀の魏晋期の銅鏡の種類から判断すると、魏王朝が卑弥呼に賜った百枚の銅鏡は、『方格規矩鏡』『内行花紋(花文)鏡』『獣首鏡』『虁鳳鏡』『双頭竜文鏡』、それに『位至三公鏡』などであるに違いありません」(注6)というのです。
 前掲書で梅原氏も(伝)王塚古墳出土の“長宜子孫(銘)虁鳳鏡は最初に紹介すべき遺品で、日本の古墳から出土するのは稀である。径12.7cm、紐座より四葉紋(しようもん)を出し内区を四つに分け、その文様間に長宜子孫(ちょうぎしそん)の銘がある。」と述べています。梅原氏は仿製鏡(ぼうせいきょう)であるといいますが、『鏡と古墳』(京都府山城郷土資料館ら, 1987)では舶載鏡としています。

②内行花文鏡
 内行花文鏡は3枚あり、うち1枚は「君宜高官(くんぎこうかん)(君、高官に宜しい)」銘の鏡です。梅原氏は「この鏡は出土の際、破砕したとみえ、拓本では周縁がことごとく欠け、残存しているのは内区のみである。従って原形は明らかでないが復元すると面径約15.2cmである」(前掲書要約)と述べています。現在は「欠損11.5cm」(注4)、舶載鏡(『鏡と古墳』)と報告されています。
 紐(まん中のつまみ)のまわりに蝙蝠(こうもり)のような文様があり蝙蝠紐座(こうもりちゅうざ)内行花文鏡と呼ばれています。東車塚古墳から出土しているのは四葉紐座(しようちゅうざ)内行花文鏡といい、同じ内行花文鏡でも紐まわりの文様が違います。時代的に見て、四葉紐座の文様は長い期間作られます。両方とも弥生時代の鏡ですが、蝙蝠紐座は相対的にやや新しく、九州地方の弥生時代の遺跡をはじめ26枚しか出土していません。「長宜子孫」の銘文が入っているものが多いですが、(伝)王塚鏡は、「君宜高官」銘です。安本美典氏は卑弥呼の鏡の一つだと述べています(注7)。
 残りの10枚の鏡のうち、1枚は舶載の方格規矩四獣鏡で、9枚は仿製鏡とされていますが、今回は紙数の関係で割愛します。虁鳳鏡にせよ内行花文鏡にせよ、(伝)王塚古墳鏡の2枚が卑弥呼の鏡の候補とされていることは注目されます。
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王塚古墳以後の八幡地域の古墳について

 八幡地域ではこの古墳を最後に大形の前方後円墳が造られなくなります。その後は、大芝古墳や東・西二子塚古墳、柿谷古墳など小規模な円墳・方墳が築造される程度で、大規模な古墳の築造は木津川右岸・城陽市の久津川古墳群の地域に移っていきます。右岸も交通の要衝にあり、そこがヤマト王権の重要拠点になります。なぜ八幡で古墳が築造されなくなるのか。衰退の理由の一つとして、農地などの拡大ができなかったのではないか、といわれています(注8)。確かに弥生時代から内里八丁遺跡の田圃跡など農業生産がおこなわれていましたが、大規模な灌漑工事などの跡は見つかっていません。標高もそれほど高くなく、平野も限られ、大河川傍であるため、ひとたび洪水が起これば農業は大打撃を受けました。それに引き換え木津川右岸地域は八幡地域より標高が高く、『日本書紀』仁徳天皇12年(5世紀はじめ)10月の条に「栗隅県(くりくまのあがた)(城陽市・宇治市にかかる広範な地域)に大溝を掘って田に水を引き、これによってその土地の人々は毎年豊かになった」との記事があります。十分な標高、広い土地の開拓、交通の要衝などが揃います。理由の二つ目として、王権の政変の中で衰退したことが考えられます。左岸地域は佐紀盾列(曾布)の王権勢力と密接な関わりがありました。八幡の古墳から威信財の鏡、腕輪型石製品、刀剣、鉄類などが出土しています。しかし、ヤマト王権内部の主導権も時代を追い、大和東南部・佐紀盾列→河内の百舌鳥・古市の勢力へと変化していきます。魏・東晋が衰退し楽浪郡・帯方郡が滅びると大和東南部の勢力は衰退し、替わって鉄の獲得などで朝鮮半島南部との交渉にあたっていた政権内部の河内の勢力(百舌鳥・古市の勢力)が台頭し、内部での王権の移動が起きます。こうした中、八幡の勢力は新・旧の王権への対応に混乱が生じ、新勢力と連携ができなかったのではないかと推察されます。都出比呂志氏は次のように述べています。
 “巨大前方後円墳が大和盆地東南部から、大和盆地北部へ、そして河内へと移動した四世紀末から五世紀初頭、日本列島の多くの地域でも古墳の動向に大きな変化が生じる。瀬戸内沿岸や日本海沿岸に大前方後円墳が築造される。そして武器や武具の発達が顕著になる。三角板革綴短甲とよぶヨロイが各地の首長間に急速に普及する。これらの首長たちは、この時期の朝鮮半島の政治的緊張に備えて倭政権の中枢が同盟を結んだ有力な地方首長であるか、畿内中枢からの派遣者であった可能性がある。一方、それまである系譜が前方後円墳を代々築いてきたのに、古墳を築造しなくなったり、円墳しか造らなくなったりすると同時に、このような変化のあった系譜のすぐ近隣の、別の系譜の首長一族が大きな前方後円墳を築造するという変動が起こる。これは、一つの地域を治める首長が交代したことを意味し、一地域のみの独立した動きではなく、列島規模で一斉に起きていること、巨大前方後円墳が大和から河内に移動する時期であることを重視すると、列島規模の政変と考えるべきであり、大和を根拠地とした政権中枢が河内に拠点をもつ政権中枢とそれを支える別の地方有力首長の同盟により政治的イ二シャティブを奪われたと考えることができる”(要約)(注9)
 つまりこうした情勢の中で、木津川左岸の八幡の勢力も政変の中で衰退し、右岸の久津川車塚の勢力にとって代わられたのではないかと考えられるのです。
次回は、「ヒル塚古墳について」考えてみます。


(注1)八幡市教育委員会『八幡市埋蔵文化財発掘調査報告書 第54集
王塚古墳範囲確認発掘調査(第1~3次)報告書』,2010
(注2)冑の頂に飾りとして付けられた尾が三つに分かれた鉄器。分かれた部分に羽毛が付く。身分の高いことを表したものか?呪術的な要素有か?
(注3)『末永雅雄著作集5 遺跡調査と大和・河内』,雄山閣,1990,P234~P235
(注4)田中晋作『筒型銅器と政権交替』,学生社,2009
(注5)『国立歴史民俗博物館研究報告 第56集』,1994
(注6)『三角縁神獣鏡と邪馬台国』梓書院、1997
中国を代表する考古学者である徐苹芳氏も次のように述べています。
「幅広い調査発掘の成果によって、魏及び西晋時代の中国北方の銅鏡は、ことごとく方格規矩鏡・内行花紋鏡・獣首鏡・虁鳳鏡・盤龍鏡・双頭竜鳳凰文鏡・位至三公鏡・鳥文鏡などであることが立証されました。よって、わたくしたちは、邪馬台国の女王卑弥呼や、その後継者が中国から得たところの銅鏡は、以上挙げた種類の範囲を超えることはあり得ないと考えるのです。」(『三角縁神獣鏡の謎』角川書店、1985)
(注7)安本美典『「邪馬台国畿内説」徹底批判』,勉誠出版,2009
(注8)『八幡市誌第一巻』,八幡市,1986
(注9)都出比呂志『古代国家はいつ成立したか』,岩波新書,2011
都出比呂志『NHK人間大学 古代国家の胎動』,日本放送出版協会,1998


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# by y-rekitan | 2017-11-27 10:00 | Comments(0)

◆会報第82号より-04 三宅碑⑨

《続》 2016年1月度の講演会より

『三宅安兵衛遺志』碑と八幡の歴史創出
その9

―松花堂・東高野街道・天皇聖蹟・綴喜郡―

中村 武生  (京都女子大学、天理大学非常勤講師)


(二)建設地選択に影響された文献

 次に西村芳次郎の建碑地選択基準は何であったかを検討します。まず参考としたと思われる主たる文献を二点指摘できます。
 1つ目は、1908年刊行の『山城綴喜郡誌』です。その「第六編名趾城堡」及び「第一〇編古墳」「第一一編伝説」で取り上げられた項目を列挙してみましょう(表3)。これと表1(※)および表2(※)と比べて見ますと、類似の項目が多く含まれていることが気づかれます。(※)表1及び表2は会報79号の「その8」に掲載)
表3『山城綴喜郡誌』 第六編名趾城堡、
第一〇編古墳、第一一編伝説、項目一覧

第六編 名趾城堡

 第一章 名所
1.雄徳山(又男山云ふ)、2.鳩嶺附狩尾山、3.石清水、4.香爐峯馬場、5.月弓岡、6.細橋、7.猪鼻坂、8.大阪自字平谷相槌稲荷社至本宮坂路也、9.放生川在頓宮東、10.かへらずの橋、11.伏拝松、12.夫婦石、13.七井、14.筒城野(又曰筒城之原)、15.筒城岡、16.玉川、17.山吹山、18.青谷梅林

 第二章 旧蹟
19.護国寺、20.宝塔院、21.大塔、22.愛染明王堂、23.開山堂、24.太子堂、25.瀧本坊附松花堂、26.山の井、27.絹屋殿趾、28.高良社、29.極楽寺、30.神宮寺、31.高橋、32.安居橋、33.橋本津及橋、34.意足軒、35.塩竃跡、36.足立寺、37.降宮跡、38.筒城都跡、39.玉の井頓宮、40.蛙冢、41.下紐、42.駒岩、43.玉の井、44.岩橋、45.井手山、46.推尾山観音寺、47.御栗山、48.御邸(大院馬場小院馬場)字高尾に在り、49.温泉趾、50.石童山、51.禅定寺峠関所趾、52.医王教寺旧蹟、53.行在所、

 第三章 城趾
54.内山城、55.天王山城、56.井出城、57.城山、58.山口城、59.岩本城、60.橋本陣屋

 第四章 古戦場
61.如法経塚、62.佐羅科、63.洞ヶ峠、64.狐川の陣、65.八幡山上山下の陣及び八幡宮炎上の事、66.梨間の宿

第一〇編 古墳

67.大石塔、68.大河内秀元之墓、69.車塚、70.上臈墓、71.桃井塚(或曰経塚)、72.小野杜冢、73.一休禅師廟、74.佐河田壺斎黙々叟墓、75.三村五郎墓、76.穴山梅雪之墓、77.近衛基通公憤、78.橘諸兄公憤、79.小野小町憤、80.田原又太郎忠綱墓、81.信西入道之墓、82.莵皇子憤、83.曽保利曾々保利の旧蹟(椀子の王墳、桜井王の墳、上殖葉皇子墳神前王女墳、神魂の丘、酒屋連墳、仲皇子墳、姫皇女墳―中村武生注)、84.美努王墳、85.美濃局憤、86.長谷川肥前守橘清福墓、87.下岡正康及同正詮の墓

第一一編 伝説

88.小えのゝ池(井手村)、89.玉水(井手村)、90.蛙、91.中道、92.下露の跡、93.玉井山荘(井手村)、94.高坊、95.男山中絶末社、96.新勝院、97.任覚坊、98.財園院、99.山瀧寺、100.弘法寺、101.相楽別業、102.井隄寺、103.虚空蔵堂、104.多賀城趾、105.浅井城趾、106.田原天皇祠、107.諸兄公山荘(井手村)、108.大光明寺、109.于貫岩、110.腰掛名号、111.美女石、112.神輿流失、113.艮の鬼門坤の鬼門、114.さじか谷の里謡、115.竹の由来、116.楠及び鳩の由来

 それはたんに項目名だけではありません。西村の著作の解説文(八幡史蹟名勝記ほか)の内容も、『山城綴喜郡誌』のそれとほぼ同一か、一部を抄出したにすぎません。例えば「大河内秀元墓」についての『山城綴喜郡誌』と西村執筆の「八幡史蹟名勝誌」の記載内容を比較してみます。

A『山城綴喜郡誌』(三六八頁)
 大河内秀元之墓
八幡町大字八幡荘鎮西派浄土宗正福寺内に在り、碑銘に云、興龍院前光録性成也、大居士 寛文六年七月二十日卒 云々とあり。
伝云、大河内茂右衛門尉秀元源三位頼政卿十九世之孫也父善兵衛尉政綱母大久保忠世妹慶長二年朝鮮之役太田飛騨守に属して南原城攻の先登し城将慶州判官を斬り、而して蔚山籠城に功あり、元和元年大阪の役に、井伊家の先鉾となり、城兵を若江に破り、河崎和泉守を斬りて、其従騎二人を擒にす、其後彦根を去て、山城八幡に住し、近衛関白信尋公の執奏を辱ふして、従五位下大膳太夫に任せりと云ふ。(傍線―中村)

B西村芳次郎「八幡史蹟名勝誌」
大河内秀元墓 正福寺
(略)一墳墓 大阪城元和役井伊侯ノ先鉾トナリ功アリ、其后井伊家去リ八幡ニ住シ近衛鷹山公ヲ執奏ヲ辱ヲシ従五位下大膳太夫トナリ。寛文六年七月没ス。是大河内秀元ナリ。此所埋ム。

 一見して「八幡史蹟名勝誌」の記載が、『山城綴喜郡誌』のそれの抄文であると理解できるでしょう。三宅碑建立地選択に『山城綴喜郡誌』の情報は大きく影響したといえます。
 なお八幡地域の地誌としては、嘉永元年春(1848年)成立の長浜尚次『男山考古録』を無視できません。『山城綴喜郡誌』にも一部が引用されていますし、芳次郎も目にしていました。ただし刊行されたのは昭和戦後で、芳次郎の没後です。おそらく写本などを入手していたのではないでしょうか。しかしその内容については頗る不満であったようで、自身の著作のなかで多く辛辣な批判をしています。それゆえ存在を意識していたことは確実ですが、建碑地選択の直接の根拠にはならなかったと判断されます。
 2つ目は『京都府史蹟勝地調査会報告』(のち『京都府史蹟名勝天然紀念物調査報告』)全20冊です。同書に取り上げられた史蹟・名勝のうち、20件に三宅碑が建立されています(表4)。

表4『京都府史蹟勝地調査会報告』(『京都府史蹟名勝天然紀念物調査報告』)の論文のうち三宅碑建立地と関連すると思われるもの。
執筆者の略称は以下。梅原末治〈梅〉、魚澄惣五郎〈魚〉、西田直二郎〈西〉、
中村直勝〈中〉、佐藤虎雄〈佐〉。

第1冊(1919年)
 八幡町西車塚〈梅〉、泉橋寺〈梅〉、高麗寺址〈梅〉

第2冊(1920年)
 美濃山ノ古墳〈梅〉、飯ノ岡ノ古墳〈梅〉

第3冊(1922年)
 淀城址〈魚〉、神童寺〈魚〉

第4冊(1923年)
 井手寺址〈梅〉、銭司ノ遺跡〈梅〉、瓶原国分寺址〈梅〉、綴喜郡八幡町
 茶臼山古墳〈梅〉

第6冊(1925年)
 法勝寺ノ遺址〈西〉

第8冊(1927年)
 禅定寺〈中〉

第10冊(1929年)
 美濃山の横穴〈佐〉

第11冊(1930年)
 笠置山の史蹟及び名勝〈佐〉、法華寺野の遺蹟〈佐〉

第12冊(1931年)
 朱智神社〈佐〉

第13冊(1932年)
 東車塚庭園〈佐〉、山瀧寺遺蹟〈佐〉

第19冊(1939年)
 高麗寺阯の調査〈梅〉

 同書は1917年7月創立の京都府史蹟勝地調査会の調査成果で、京都帝国大学国史学教室及び考古学教室の教員・教室員等によって執筆されています。芳次郎が同大学国史学・考古学両教室関係者と親しく関わっていたことはすでに述べました。城南の三宅碑の建立地として実に玄人跣な場所が選ばれているのは、この書、もしくはこれに関わった京都帝大両教室関係者からの情報に依拠しているからでしょう。
 ただし三宅清治郎が主に建碑を行った、京都市およびその近接地域では、同書の同地域の旧蹟地がほとんど選ばれていないことは注意を要します。例えば同書は聚楽城(聚楽第)跡、西寺跡、洛中惣構土居堀(「御土居」)、山科本願寺跡、等持寺跡、船岡山城跡などを取り上げています。聚楽城跡や洛中惣構土居堀には京都市教育会が1915年11月などに建碑しているため別にしても(拙著『京都の江戸時代をあるく』)、その他の旧蹟には当時全く建碑されていませんでした。建碑の意味はあったはずです。それにもかかわらず実現していないのは、三宅清治郎の身近には京都帝国大学の国史学や考古学関係者がなく、〈史蹟〉への建碑意識がもちにくかったことがうかがわれます。
 なお建碑地と密接に関わると思われる『京都府史蹟名勝天然紀念物調査報告』所収論文の多くは、佐藤虎雄執筆によるものであることを指摘しておきます。そのなかには芳次郎邸である「東車塚庭園」が含まれているほか、佐藤はのち芳次郎の負債にともない同所が差し押さえられた際、仮史蹟に指定し消失の危険を回避した京都府の旧蹟保存の実務担当者でした。これは後述します。

(三)道標

 ではこの2著などを参考に、建立地としていったい何が選ばれたのか、その対象及び場所の特徴を検討します。
f0300125_13103045.jpg まず当時存在していた寺社とは直接には無縁の紀念物(史蹟)への建碑が多くなされています。前述しましたように芳次郎が建碑にかかわる1926年以前には、古墳、古戦場、廃寺跡などへの建碑はほとんどなく、大半が当時存在していた寺社やそれに付属するものに建碑されていました。例えば「名古曾の滝」は大覚寺に付属したものです。一般に三宅碑イコール史蹟碑という印象があるかと思います。これまで当然のことのように三宅安兵衛もしくは清治郎が建立地の選択も行ったと理解されてきました。しかし実は大半は三宅父子ではなく、西村芳次郎の選択であったのです。
 ただそれらの碑に全く清治郎の意向が反映されていないわけではありません。例えば多くの史蹟碑に道標的文言が加味されている点は無視できません。たとえば「宇智王子故宮址」の場合(表2、105)、下部に割注のように小さい文字で「王塚八丁」と併記されています。また「水月庵」など規模の大きな碑なら、側面に「向て右、北八幡宮本社十丁、西幣原水月庵八丁/招提十八丁、枚方二里」などと刻まれています。清治郎の主導が確実な石碑の大半が、道標として建立されていたことを思い出してください。表1をご覧下さると「道」や「分岐点」などに多く建碑されていることが指摘できます。清治郎にとって当該事業は先祖供養のためでした。城南の史蹟碑に道標的文言が併記されるのは偶然ではないでしょう。西村の建碑地選択にあたって、原則として道標的文言を刻むよう清治郎が指示した可能性は高いと思います。

(四)天皇聖蹟

(1)宮都跡
 紀念物のなかでもいわゆる天皇聖蹟が多いです。例えば「神武帝旧跡祝園神社是十町」、「崇神帝十年役武埴安彦被斬旧跡」、「崇神帝十年役挑川故蹟」、「天武天皇故址」、「後醍醐天皇旧蹟是東一里半田村新田」、「恭仁宮大極殿阯」(聖武天皇)、「継体天皇皇居故趾」(筒城宮跡)、「樟葉宮跡」(継体天皇)、「水無瀬神宮」(後鳥羽天皇)などです。「仁徳天皇皇后磐之姫古蹟」「宇智王子故宮址」「宇智王子陵墓」「施基皇子故址」「田原天皇旧蹟」「高倉宮以仁王旧蹟」など后、皇子に関するものも含めてよいかもしれません。
 その大半が1928年以後に集中して建設されていることに注目します。というのは、この時期、史蹟名勝保護・顕彰に関する国の方針が、天皇聖蹟を第一に推進することを方針としているからです。それが周知されるのはその管轄が内務省から文部省へ移管する一九二八年で、三宅碑が天皇聖蹟を建設する時期と全く一致します。しかも文部省は、天皇聖蹟のなかでも宮都跡の保存・顕彰を最重要に挙げていますが、前記のように、三宅碑も城南に所在した宮都跡・離宮跡伝承地などの大半に建てられています。
 その意味で興味深いのは継体天皇の樟葉宮跡及び後鳥羽上皇の水無瀬神宮への建碑です。樟葉宮跡は「日本書紀」によると同天皇即位の地で、水無瀬神宮は後鳥羽上皇の水無瀬殿の故地に明治時代に創建したものです。いわば都城跡に準ずるものといえます。ところが両所とも京都府下ではなく、大阪府内に位置するのです。現枚方市及び現三島郡島本町です。周知のように、三宅碑は「京都の公利公益に役立てよ」という亡父安兵衛の遺言に従っています。亡父の遺言の履行期間の建碑(1921年~1929年上半期)でも、例えば現福井県小浜市や現滋賀県甲賀郡甲西町など、京都府以外に建碑する場合は、「安兵衛遺志」と刻まず、「清治郎建之」と自らの名で建碑しています。水無瀬神宮の碑は未確認のため亡父の名を刻んだか不明ですが、とはいえ『木の下蔭』所収「建碑箇所一覧」に掲載されているため、「安兵衛遺志」と刻まれていた可能性はきわめて高いと思います。確認できた福井県小浜市の碑など「三宅清治郎建之」と刻まれた碑は、例外なく「建碑箇所一覧」には列記されていません。ところが「樟葉宮蹟」は京都府に位置しないにもかかわらず、亡父の名を刻んでいます。天皇聖蹟には〈京都〉に建碑という原則を無視するのである。両所を選択したのは芳次郎であろうが、清治郎もこれを承認していることは注目してよい。が、清治郎の思いは別にして、芳次郎には、原則を無視してでも樟葉宮跡に建碑しなければならない理由がありました。それについては後述します。

(2)後村上天皇聖蹟
f0300125_12313081.jpg芳次郎の住む八幡は、「太平記」によると、南北朝期の正平七年(文和元、一三五二)、正平一統のおりに南朝の後村上天皇が皇居とした地です。ここでは合戦も行われたらしく、その戦蹟に関する三宅碑が多い。ただどういうわけか、村上天皇皇居跡そのものを示す建碑が行われませんでした。「俊馬」碑なるものさえ存在するにもかかわらずです。これについても後述します。
(つづく)


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# by y-rekitan | 2017-11-27 09:00 | Comments(0)

◆会報第82号より-05 石清水祭

勅祭・石清水祭に学ぶ

野間口 秀國(会員)


 私たちの住む八幡市にても季節を通して大小数多くの祭りや行事が催されていますが、それらの全てを知り、直接見たり参加したりすることは容易では無いのが実情ではないでしょうか。「勅祭・石清水祭」もその一つでした。五年前に一度、深夜に御鳳輦(ごほうれん)が八幡宮山上から頓宮へ降られるご遷座の行列を見学し、引き続き放生川(現在の大谷川の一部で、男山考古録(*2)に、 ・・上ハ飼屋橋より、下ハ禅昌寺前の石橋まで・・ とある)で執り行われた放生会の諸次第も見学いたし、とても興味を持っておりました。そんな中、この秋に幸いにも、石清水八幡宮で年間百余り斎行される祭典の中で、最も重要な祭典である「勅祭・石清水祭」(*1)の斎行に初めて参加できる機会をいただきました。本号では、そこでの体験談と学びを書いてみたいと思います。

 九月十五日未明から夜にかけて執り行われる「勅祭・石清水祭」に先立ち、同十二日午後二時半から石清水八幡宮の山上にある体育館で「ご奉仕のご案内」と題する説明会があり参加いたしました。小雨模様の中、開始時刻より少し早めに会場に入ると、体育館の広い床にはそれぞれの役割に対応した装束や履物などが大小おおよそ100ブロックほどに別けられ準備されており、係の方々が必要なものの確認や補充などをされておりました。参加できることへの緊張感が改めて感じられたひと時でした。定刻になると石清水八幡宮のご担当権禰宜様よりご挨拶をいただき、引き続いて祭りの意義や心構え、肌着は白色で首周りはV首もしくはU首のものなど、身に着ける衣服などの具体的な説明を受けました。

 その後、指定された所定のブロックに移り、参加する所属団体の係の人(先達)より当日のご奉仕概要やタイムスケジュールなど具体的な事項の説明がなされ、引き続き装束の説明とそれらの着付けの練習に入りました。f0300125_10442726.jpgなにしろ初めてのことゆえ、指導していただく方に従って衣装を身にまとうことに集中しました。肌着の上に、先ず白衣(はくい)を身に着け、白い袴(はかま)をはき、黄色の衣装・黄衣(おうえ)をまとい、白足袋(しろたび)をはき、草鞋(わらじ)をはいて、最後に烏帽子(えぼし)をかぶります。上半身、下半身の装束はその殆どがフリーサイズで、特に袴は最下部にある紐を使って身の丈に合せられるように工夫されておりました。このことは、この夏、とある演奏会会場にて有名な和楽器奏者の説明されたことがとても役立ちました。こうして身に着けたすべての装束を脱いで元のようにたたみ、着付けの練習は終わりました。最後に開催当日の細かなスケジュールを再度確認の後、参加者用の駐車券や石清水祭用ケーブル臨時運転時刻表などをいただき午後四時頃に説明会は終わりました。

 ここで石清水祭について少し記したいと思います。石清水祭の起源は、清和天皇の貞観五年(八六三)旧暦八月十五日、宇佐宮の放生会に倣って始められた石清水放生会に遡るとされています。これは、そもそも諸々の霊を慰め供養するため、男山の裾を流れる放生川のほとりで生ける魚鳥を解き放つ法会を催してほしい、との八幡大神ご自身の願い(神願=じんがん)に基づくものでした。また、石清水祭は勅祭であり、天皇陛下の御使いである勅使が参向され、天皇陛下からのお供え物を奉献される祭典で、八万社ある神社の中でもこの勅祭が斎行される神社「勅祭社」は十六社しかありません(*1)。

 さて当日(九月十五日)は、真夜中、午前零時半までに前述の体育館に集合することになっておりましたので、遅れることなく日付の替わる頃には出向きました。十二日の練習どおり、全ての装束を順番に身に着けると不思議と緊張感が高まりました。ご奉仕の途中で緩むことがないようにと草鞋の紐は特にしっかりと締めました。当日私に与えられた役割は「御綱曳神人(みつなひきじにん)」であり、「黄衣を身に着けて各御鳳輦の前後に結びつけられた朱綱で参道の昇降を佐ける」ことでありました。今回参加して、石清水祭は思いの外祭りの次第が多く、実際には十四日の夕刻から十六日の午前中まで、足掛け三日にわたる行事であることも初めて解りました。装束を整えてから待つこと二時間近く、午前二時に「神幸の儀」が始まるまでの時間は、短くも、また長くも感じられました。私たちも御神霊のご移動に用いられる御鳳輦(ごほうれん)の近くへと移動して、午前三時ごろいよいよ「御鳳輦発御(ごほうれんはつぎょ)」を迎えます。三基の御鳳輦を中心に約五百名の神職・楽人、また神人と呼ばれるお供の行列が松明や提灯の灯りだけを頼りに山上の御本殿から山麓の頓宮へと向かいます。

 この時間帯にはさすがにほとんどの物音は聞こえませんでした。本殿から参道を提灯の灯りを頼りに降りることは容易なことでは無く、滑ったりしないように、油断なく一歩一歩と歩みをそろえて足で探るように進んでゆきました。おそらく四~五十分ほど経過したでしょうか、行列は麓の絹屋殿(きぬやでん:六本の掘立柱に支えられ、四方に白絹を張り廻らした臨時の建物)に到着します。ここでは里神楽(さとかぐら)の奉奏などがあり御神霊が奉迎されます。その後、「頓宮神幸の儀」に移り御鳳輦が頓宮殿に入御されます。ここで私たちの前段の役目が終わり、少し緊張が解けるのが分かりました。そのまま車を停めてある駐車場へと向かい一旦帰宅しましたが、祭りは御鳳輦の入御の後にも多くの次第が執り行われ、f0300125_10522149.jpg午前八時すぎには放生行事がありました。これは前述のとおり宇佐宮の放生会に倣って貞観五年(八六三)に始まるといわれ、生類の殺生を慎み、捕らわれた魚鳥を山川に解き放つ善行が尊ばれて多くの人々が奉仕されます。安居橋で奉納された胡蝶の舞いも翌日の新聞にて報じられております(*4)。

 さて、夕刻(十七時)より執り行われる「還行の儀(かんこうのぎ)」に遅れることなく、再び頓宮へと集合いたしました。この儀式は十八時三十分頃の「御鳳輦発御(ごほうれんはつぎょ)」まで頓宮の内側にて執り行われました。この儀式のあいだ、浅葱幕(あさぎまく:薄い水色の地に白の矩形のある布)で覆われた頓宮の頓宮殿裏あたりで発御を待ちました。この間、私たち御綱曳神人とは異なる役目で行列を構成する、他の役目の人達の装束・用具・提灯などを直に目にすることができたことは貴重な時間でした。ところで、この行列の構成や順番は「八幡宮寺年中讃記 下」(*3)の項にとても詳しく書かれていることが解りました。八月十五日に行われるこの行事名をはじめ、御輿次第の項には、御綱引二十人、前左五人、右五人、後左五人、右五人とあり、これらは三基の鳳輦すべてに共通の内容でした。私の担当は次三御輿(三番目の御輿)の引手二十人の一人であり、位置は後右五人に該当していたことが理解できました。着衣に関しても、役割毎に記されてあり、とても興味ある内容でした。同時に、本稿冒頭の「ご奉仕のご案内」の個所にて「およそ100ブロックほどに区分して準備されており・・・」と書きましたが、これらの準備や管理がいかに大変なことであるかを改めて理解でき、お世話いただいた方々に感謝の念で一杯でした。

 「御鳳輦発御(ごほうれんはつぎょ)」は暗くなるのを待つようにして十八時三十分頃から開始されました。暗くなった参道を提灯の灯りを頼りに気を引き締め、御鳳輦に従って山上の本殿へと向かい、無事に著御(ちゃくぎょ)がなされると役目を終えることができました。文中で何回か使いました「御鳳輦」は、石清水祭における御神霊のご遷座(ご移動)が「御神輿」ではなく「御鳳輦」といわれるためであり、前号での「御輿」とは呼称が異なることや、直前の文章中にある「著御(ちゃくぎょ)」の表現なども「着」と「著」の独特の使い分けの用例であることも学びました。

 このような貴重な体験の一カ月後、10月15日には「森本家文書からみた近世石清水の神人構成と身分」と題する当会主催の竹中友里代氏をお招きしての講演(*5)を聴講する機会がありました。その講演にて話された、年中行事における神人招請の目的の成文(なしぶみ)と呼ばれる「補任状」が、現在でも石清水祭にて石清水八幡宮の印が押されて公布されていることも後日学ぶことができました。「動く古典」といわれる斎行の体験とその後の講演の聴講は、神人と石清水祭のこと、そして石清水八幡宮の活動に関する理解がさらに深まるものでした。本稿をまとめるにあたり色々ご教示いただきました石清水八幡宮の関係者の皆様に紙面より感謝申し上げます。
(2017.11.02記)一一
 
(*1)『勅祭石清水祭』 石清水八幡宮発行の冊子
(*2)『石清水八幡宮史料叢書一 男山考古録』 第十一巻 藤原尚次著
 石清水八幡宮社務所発行
(*3)『石清水八幡宮史料叢書四 年中神事・服忌・社参』
 石清水八幡宮社務所発行
(*4)京都新聞の2017.9.16付け朝刊記事
(*5)「講演と交流の集い」の配布資料、2017.10.15 八幡市文化ホールにて開催
講師:竹中友里代氏

 
 
# by y-rekitan | 2017-11-27 07:00 | Comments(0)

◆会報第82号より-06 文化祭発表

第45回八幡市民文化祭での展示発表報告

八幡の歴史を探究する会「八幡の道探究部会」


 2017年10月28日、29日の二日間の八幡市民文化祭において、八幡市文化センター3階ロビーで展示発表をしました。
 会場では専門部会「八幡の道探究部会」の会員が、2年間かけて現地に出向き調査した江戸時代の八幡市内(22基)及び市外(54基)の八幡道標(みちしるべ)と設置場所を示した地図をパネルに掲示しました。f0300125_11175696.jpg
 また、古地図や古道地図もパネルに掲示しました。文化祭の両日共に台風接近の影響で生憎の雨天となり例年より来場者は減少しましたが、来場の皆様は熱心に道標写真や地図で設置場所を確認されていました。会場では道部会員や歴探の幹事が中心となって説明にあたりました。

1.江戸時代の八幡道標(みちしるべ)

 『「石清水八まん宮道」に誘う道標群(江戸時代の八幡道標)』のタイトルで展示パネル5枚に京都市南区から南は東大阪までを10地域に区分した拡大地図には八幡道標設置位置を矢印で示し、各地図の周囲には道標写真を掲示しました。道標写真から、①行先のみ標示の道標、②地蔵道標、③指差道標、④墓碑道標等々の形態がある事が判り、特にお地蔵さんが彫られた道標が多く設置されている事が確認されます。設置場所は一番北の八幡道標は京都東寺近くの「矢取地蔵堂前の道標」で、南は東大阪市の「喜里川町の道標」(下図)です。
「地域別の八幡道標数」は次の通りです。f0300125_1222057.jpg
①八幡市内:22基
②京都市南区:1基
③京都市伏見区:7基
④長岡京市:1基
⑤大山崎町:1基
⑥高槻市:3基
⑦茨木市:1基
⑧枚方市:26基
⑨交野市:2基
⑩寝屋川市:2基
⑪四條畷市:3基
⑫大東市:2基
⑬東大阪市:5基
以上、合計76基が今回の調査で確認され今回展示発表をしました。

 また、今回の調査結果を「昔と今を結ぶ掛替えのない歴史遺産として保護する」とともに「後世に引き継ぎたい」との願いから、冊子『「石清水八まん宮道」に誘う道標群』に取りまとめて発刊しました。冊子は会場で販売しましたが、2日間で50名越の多くの方にお買い求めいただきました。

2.古地図、古道地図の展示

 ロビーの向かい側の展示パネル3枚には八幡市の代表的な古地図と「中世~近世の男山周辺の道」を現在の地図上に記載した地図を掲示しました。来場の皆様は、石清水八幡宮参詣道や山麓の道を現在も使用されている道や廃道になった道を地図上で確認されていました。

これからの部会活動について

 「八幡の道探究部会」は八幡市文化祭では昨年に引き続き2回目の展示発表でしたが、来場者の方々には掲示の道標や地図を熱心に見ていただいたことを感謝いたします。これからも部会は自分の足で現地に出向いて調査確認をする地道な活動を続けて行く所存です。
# by y-rekitan | 2017-11-27 06:00 | Comments(0)

◆会報第82号より-end

この号の記事は終りです。


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# by y-rekitan | 2017-11-27 01:00 | Comments(0)

◆会報第81号より-top <スクロールだけで全記事が読めます>

f0300125_2392286.jpg
この号の会報からは現在、下記の記事が掲載されています。
このまま下にスクロールして頂くと順次連続してご参照頂けます。

◆シリーズ:“心に引き継ぐ風景” ⑫◆
◆《講演会》石清水八幡宮の牛玉宝印◆
◆シリーズ:“八幡の古墳と鏡” ⑤◆
◆シリーズ:“「四條隆資卿物語」” ③◆
◆高良神社の太鼓祭りを楽しむ◆
◆「石清水八まん宮道」に悠久の歴史がある◆
◆「『石清水八まん宮』に誘う道標群」の発刊にむけて◆



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# by y-rekitan | 2017-09-26 15:00 | Comments(0)

◆会報第81号より-01 瀧本坊乗祐

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心に引き継ぐ風景・・・⑫

瀧本坊に乗祐じょうゆうあり
f0300125_18184623.jpg
 瀧本坊昭乗こと松花堂昭乗の墓石は八幡平谷の泰勝寺にある。境内地の奥に3基並べられた中央が昭乗で「寛永十六年九月十八日(没)大阿闍梨昭乗」の碑文がある。向かって右が師の実乗で「寛永四年二月廿三日(没)大阿闍梨實乗」とあり、左が萩坊乗円(松花堂門人・書画にて高名なり)で「延宝三年四月廿六日(没)大阿闍梨乗圓」とある。実は昭乗の師である実乗の先代に乗祐という瀧本坊にとって重要なキーパーソンがいる。天正十年の本能寺の変の後、近衛前久を援助したことから五摂家筆頭の近衛家と親密になり、瀧本坊繁栄の基を築いた。
 過日、松花堂昭乗研究所研究報告会での奥山邦彦氏の報告「乗祐と実乗」によって乗祐の輪郭を理解するとともに、津田宗及や千利休とも茶人として親密な関係にあったことを知った。その後、奥山氏と泰勝寺を訪ねて乗祐の一石五輪塔の存在を再確認した。天正十九年二月廿ニ日(没)権律師乗祐とあるが、乗祐没後6日、二月廿八日に千利休が自刃している。まさに同時代を駆け抜けた人物だった。昭乗達の墓石の奥の一角に瀧本坊歴代住職や関係者と共に乗祐も祀られている。
(写真と文 谷村 勉)空白


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# by y-rekitan | 2017-09-26 12:00 | Comments(0)

◆会報第81号より-02 牛玉宝印

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《講演会》
石清水八幡宮の牛玉宝印ごおうほういん

2017年8月 
さくらであい館(イベント広場)にて

鍛代 敏雄(東北福祉大学教育学部教授) 
                 (石清水八幡宮研究所主任研究員) 

 
 平成29年8月26日(士)午後2時より、今春建造されました「さくらであい館イベント広場『淀』」で「石清水八幡宮の牛玉宝印」の講演と交流の集いが開催されました。
 「牛玉宝印」とは聞き慣れない言葉で、現物も見たこともないものでした。 社寺から出される厄除けの護符で、石清水八幡宮でも出されていたものです。今回の講演で、その内容を知り、現物の映像を見る事ができました。講師の鍛代敏雄教授は、石清水八幡宮研究所主任研究員として毎夏八幡にお越しになり、その都度講演をご依頼しております。今回もまた、新しい演題でお話を聞くことが出来ました。 鍛代先生ご自身によるご報告は以下の通りです。なお、当日の参加者は、40名でした。

はじめに

 牛玉宝印とは、主に権門寺社の修正会および修二会の年始法会において作成された、神仏と結願した護符のことです。一般には、宝印を翻して、起請文が書かれることが多く、その料紙は鎌倉時代の13世紀半ばころのものが残っています。f0300125_17114199.jpg
 石清水の場合は、文献上、13世紀前半に確認できます。実際の牛玉宝印の料紙は、14世紀後半のものが石清水八幡宮に所蔵されています。石清水八幡宮の牛玉宝印について調査・研究する意義は、牛玉宝印を通して、①神仏習合(神仏同体)の祭祀と信仰の実態を究明できる点、②文献(古記録・古文書)・料紙・版木・宝珠印の総合的な研究が可能な点、③中世の荘園制的社内経営に関し、牛玉宝印の頒布を通じた師檀(師匠-檀那)関係にみる信仰経済への転換が知られる点、以上があげられます。

Ⅰ 修正会と修二会の作法 

 石清水八幡宮牛玉宝印の文献は、寛元2年(1244)の石清水八幡宮所蔵「宮寺並極楽寺恒例仏神事惣次第」(『石清水文書』1-62号)の修正会・修二会において初見できます。本社本殿では、元日に俗別当・神主・禰宜らによる土祭神事(地鎮祭)が執行されました。
ついで社務・別当・所司らが参列し、社僧の導師が十二相の声明など、国家安泰・護国豊穣・万民快楽の仏事を執行します。牛玉宝印は正月から中御前大床上に、4日まで北向、4日から南向に置かれました。7日には、外陣の正面に棚を据えて、その上に牛玉杖(牛玉宝印を折りたたんで柳や竹の棒を挟んで杖状にしたもの)を並べて、祈祷を通して結願、結縁させました。また導師は別当・祠官・所司らの額に宝印(如意宝珠朱印)を捺します。そして、牛玉賦と称し参列者に牛玉杖が賦られました。
 8日は、若宮殿の修正会が山上所司、公文所・目代・正印預らによって執行されました。同じく8日には、護国寺の修正会が催行されました。社僧によって荘厳された堂内、仏前(本尊・薬師如来)に牛玉を置きます。12日まで北向→12日から南向です。14日、仏前の棚に牛玉杖を積み、同じく別当らの額に宝印が捺されます。ついで牛玉賦が行われました。興味深い点は、本社ではない、「鬼走」という作法が14日夜に催行されます。鬼形の衆僧が鬼走といって乱声、牛玉杖で身体を打ちながら堂内を3周走り廻り、穢と災厄を祓いました。
 なお、牛玉杖は、何本、何把と数えられ、百本単位、社内で配布されました。石清水では明治維新後、神仏判然令にしたがい、仏事が廃されて作成されていません。

Ⅱ 本社系と坊舎系

 現在残っている八幡宮牛玉宝印を通覧しながら、石清水の場合の特質を確かめていきます。現存最古の宝印は、応安5年(1372)の新善法寺永清起請文(『石清水文書』6-404号)に用いられた、墨書(肉筆)の牛玉宝印です。牛玉宝印の先駆的研究者、相田二郎氏は、石清水の場合、墨書が先行し後に版木刷となり、また墨書が登場すると書かれていますが、鎌倉以降、江戸期に至るまで大量に頒布されていますので、墨書の牛玉宝印は例外的な特殊事情により作成されたと見なされます。
 版木により作成された牛玉料紙の法量については、最小が縦23.7㎝、横34.2㎝、最大が縦31.5㎝、横44.5㎝になります。15世紀には「小牛玉」という名称が登場しますが、大量に頒布されるようになると、小型化するものと思われます。この点は東大寺などと同様の事象で、千々和到氏の研究により、東大寺二月堂の縦切紙は15世紀前半から知られています。
 石清水の八幡宮牛玉宝印の字配りは、中央に「八幡宮」、右側に「牛玉」、左側に「宝印」とあり、中世から近世まで共通していますので、それ以外の形態は石清水以外の八幡宮牛玉宝印と考えて間違いありません。ただ、「八」の字形は、楷書の「八」の書き出しを鳩の首のように曲げたものと、「神鳩」の意匠で「八」としたものとに大別されます。後者の神鳩は、顔を向かい合わせとした向鳩と、首・背中合わせのものとに分けられ、坊舎の版木で刷られた牛玉宝印に用いられています。
 したがって、遅くとも織豊期以降は、本社の御蔵で作成された本社系牛玉宝印と、各坊で作成された坊舎系牛玉宝印が各坊でさくせいされたものとに分類できます。前者は、小綱(少綱)神人や仕丁神人らによって本社東回廊東門下の北側にあった御蔵で刷られ、宝珠朱印を捺して、本社で結願されました。後者の坊舎系は、坊内で刷られ宝印を捺して、供僧を勤めていた神宮寺の護国寺で結願されたものと思われます。
 如意宝珠の朱印については、印文の「八」「卍」が定型です。先に述べた最古の牛玉料紙、版木刷りの現存最古、大永8年(1528)の山吉政久起請文(『上杉家文書』1-351号)、天正16年(1588)の島津龍伯(義久)起請文(『永青文庫叢書細川家文書中世編』口絵、84号文書)などに用いられています。
 その外は、主に近世の宝印に認められるように、印文がないかわりに、宝珠印のなかに小形宝珠を3つほど配した印章がありました。
 なお、特例としては、現在、奈良柳生の芳徳寺所蔵の石清水八幡宮牛玉宝印には、種子「ア」(胎蔵界大日如来、真義真言宗では阿弥陀如来と同体)の印文のある宝珠朱印が捺されています。石清水の社僧は真言僧ですから、違和感はありませんが、この1点以外に確認できません。なおまた、この牛玉宝印の料紙には、牛玉杖にする際の折り目の筋がはっきりとのこっており、石清水においてどのように料紙を折りたたんで牛玉杖が作成されたか明らかになります。

Ⅲ 版木と如意宝珠印

 石清水八幡宮には、「八幡宮牛玉宝印」の版木が所蔵されています。法量を調べますと、版木は縦28.3㎝、横48.0㎝で、枠端の厚2.3㎝、内側の厚1.8㎝、端の幅2.0㎝で、枠左端の中央に幅1.3㎝、深さ0.4㎝の凹があります。おそらく刷る際に左手の親指で料紙を抑えるための窪みだったと思われます。
 また、版木の文字の法量については、縦最長で「八幡宮」は24.8㎝、「牛玉」19.7㎝、 「宝印」22.0㎝、横最長が36.5㎝です。料紙の大きさは区々ですから、今後の調査では、文字の法量も測っておくと、比較する上で効果的であると考えられます。
 なお、本版木と類似の牛玉宝印はありますが、まったくの同じ版刷りの石清水八幡宮牛玉は残存していません。
f0300125_17172068.jpg
 次に相伝の宝珠印章をみましょう。
 その一つは、嶋村家に残った印章で、竹中友里代氏の調査報告によれば、火焔の光背に囲まれた「八」「卍」の印文があり、法量は縦9.8㎝、横8.4㎝のものです。いま一つは、最近、再発見されました石清水八幡宮相伝のほぼ同様の印章で、光背と二重郭内に「八」「卍」の印文が刻まれた、縦8.9㎝、横8.1㎝の宝珠印です。おそらく上記の版木とセットで残ったものと考えられますが、明治以降に神職として石清水八幡宮に奉職された、辻村氏が保存していた印章だったとみて間違いありません。辻村家は、嶋村家とひとしく近世の仕丁神人ですから、かれらには牛玉宝印の作成という重要な家職があったということができます。

Ⅳ 贈与と頒布

 石清水八幡宮の牛玉宝印について、文書上の表記・呼称を調べてみますと、
  ア)「牛玉宝札」
  イ)「御祈念牛玉」
  ウ)「御祈祷牛玉札」
  エ)「祈祷札」「御祈祷札」
などを確かめることができます。國學院大學図書館が所蔵する橘本坊の牛玉宝印には、「石清水八幡宮 御祈祷御札 橘本坊」の貼紙と、「(宝珠朱印)石清水八幡宮守護所」の短冊形の神札、向鳩の牛玉宝印に宝珠朱印が3顆捺されています。3セットで檀那に頒布されたものでしょう。
 このように、護国寺や極楽寺の供僧を勤め、境内の仏神事を実際に執行し、なお社内経営にかかわった坊人・社僧の坊舎は、延べて60舎ほど知られていますが、それぞれが檀那をかかえていました。たとえば、上記の橘本坊は足利将軍家・政所伊勢氏・政所代蜷川氏、小田原北条氏・古河公方足利義氏、橘坊は尼子晴久、泉坊は島津義久、滝本坊は豊臣政権、豊蔵坊は徳川家康・秀忠といったように、幕府、戦国大名、天下人までも檀那でした。
 いわば師檀契約に基づく、石清水八幡宮の取次坊だった坊は、牛玉宝印とともにいくつかの贈り物を神物として贈与、頒布しました。もちろん、返礼・報謝がありましたので、坊舎の経済基盤ともなりました。たとえば、牛玉宝印とセットで贈られたものには、巻数(祈祷報告書)・香水・扇・杉原・筆・紅帯、とくに武家には弓懸・菖蒲革が戦勝祈願に贈られています。
 贈与の例は、室町時代からわかりますが、その内実は、荘園の管理といった神領関係、戦国期の本社造営(幕府が守護大名に命じた国役としての勧進奉加)にかかわる寄進関係、また坊舎の師檀関係をめぐって史料がのこっています。

おわりに

 今回の報告について、最後に要約しておきたいと思います。
 その(1)は、石清水八幡宮の「八幡宮牛玉宝印」は、史料上、寛元2年(1244)が初見です。石清水八幡宮の本社、若宮、護国寺などの修正会および、護国寺・大塔・極楽寺などの堂舎で修二会が催行され、かかる神仏習合儀礼の場で神仏と結縁・結願された護符である「八幡宮牛玉宝印」が作成されました。
 その(2)は、石清水八幡宮の「八幡宮牛玉宝印」は、中世から近世を通して、主に版木によって刷られ大量に頒布されました。まれに墨書(肉筆)のものがありました。現在のこっている中世・近世の料紙から判明することは、まず字配りは、中央部に「八幡宮」、右側に「牛玉」、左側に「宝印」と見えます。また本社系と坊舎系とに大別できます。その特色は、本社系のものが、「八」と刻まれているのにたいし、坊舎系のものは、「八」を「神鳩」の意匠となっている点にあります。ついで、朱印で捺された宝珠印の印文については、「八」と「卍」が定型で、宝珠の中に小形の宝珠がある場合も見られ、なお1点だけ胎蔵界大日如来(種子)が確認できます。
 その(3)は、贈与・頒布からみた信仰経済の問題です。石清水八幡宮の「八幡宮牛玉宝印」は、戦国期以降、主に武家との師檀関係にもとづいて贈与・頒布されていました。中世末期における荘園制度の崩壊は石清水の場合も例外ではありません。社内の経済は、荘園経済からの転換がはかられました。とくに社僧である坊舎は、全国に檀那を抱え、参拝の取次や宿坊などの経営が主になります。その中世から近世への転換期の古文書から、戦国大名や天下人、幕府との信仰経済が確かめられました。

〔付記〕今回の報告については、拙稿「石清水八幡宮の牛玉宝印に関する一考察」(『東北福祉大学芹沢銈介美術工芸館 年報 8号』(2017年6月)を土台にしています。詳細についてはこの報告書をご参照ください。
 
『一口感想』より

永青文庫に残る島津の起請文のお話はとても面白かったです。それとともに檀那の契約が売買されたというのもび‘っくりです。 (K・B)
起請文として使われた牛王宝印のことを初めて知ることができました。ありがとうございました。  (T・Y)
 

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# by y-rekitan | 2017-09-26 11:00 | Comments(0)

◆会報第81号より-03 古墳と鏡⑤

シリーズ 「八幡の古墳と鏡」・・・⑤


八幡の古墳と鏡(5)


-石不動古墳と画文帯神獣鏡がもんたいしんじゅうきょう


濵田 博道 (会員)


はじめに

 石不動古墳は西車塚古墳、東車塚古墳に続き、八幡市で3番目に大きい古墳です。第一回目(会報NO.77)で述べたように、この古墳から出土した鏡について弥生文化博物館・卑弥呼特別展パンフレット(2015年)では「新たな卑弥呼の鏡の候補か」と注目すべきタイトルを付け、紹介しています。このシリーズを書くようになった動機も石不動古墳出土鏡にあります。なぜ「新たな卑弥呼の鏡の候補か」といわれるのか。石不動古墳とはどんな古墳なのか、気になります。しかし、この古墳は八幡市の中でもあまり知られておらず、実際に古墳を見た人はわずかだと思います。文献も多くありません。ここでは1955年京都府発行の『京都府文化財調査報告第21冊』中の梅原末治「石不動古墳」をもとに考えてみます。

1、石不動古墳とは

f0300125_147296.jpg 京阪バス男山車庫の北側にNTTの電波塔がそびえ建ち、その真下が石不動古墳の後円部にあたります。現在無線中継所の建物が建っています。それゆえ、“古墳は原形をとどめていない”といわれています。私は古墳の近くまで行ってみましたが、その先は「立ち入り禁止」で入れませんでした。古墳を見るのも難しい状況です。
 前掲書に次のようにあります。「北の方、天王山と対峙して淀川の河口を扼する(やくする=要衝を占める)男山は、北に高く、南にゆるやかに延びている。この古墳の所在は男山八幡宮の鎮座する山の主峯の南方に近い山岳上にあって、地籍は八幡町(現八幡市)大字八幡字石不動である。山城中部の盆地から見られるように、男山では神社のある峯から南に続く、その脈にいくつかの隆起した山丘がならんでいる。ここに石不動と呼ぶ古墳は、中でも最もそれに近い山丘上にあって、八幡の街並みの中ほどから西のかた西山の部落に通ずる里道の南に接して高くそびえたものである。(中略)頂部からの眺望は、北方を除くと、他の三方とも眼をさえぎるものがなく、まことに絶佳である。」
1943年(昭和18年)2月、ここに山荘を営むために地元の前田氏が土堀をしていた際、偶然に遺物を発見し届け出たことから、京都府の要請により京都大学考古学教室の発掘調査が始まりました。
古墳は卑弥呼の時代より150年~200年ぐらい後の4世紀後半(西暦360年~390年頃)に築造された前方後円墳です。全長88m、後円部径60m、高さ8m(注1)。葺石を敷き、円筒埴輪が巡っていました。八幡市の古墳の中で、西・東車塚古墳など他の前方後円墳が南北を向いているのに対し、この古墳は前方部を東にして東西方向を向いています。また、茶臼山古墳と同じように見晴らしの良い頂に築造されていることも特徴の一つです。大阪市立大学の岸本直文氏は八幡地域の古墳を男山(茶臼山古墳、石不動古墳)、八幡(西・東車塚古墳)、美濃山(ヒル塚古墳、王塚古墳)の3地域に分けて編年表を作っています(注2)。
古墳の後円部には並行して2つの粘土槨(ねんどかく、死者を葬る粘土の室)がありました。北粘土槨(7.6m)と南粘土槨(6.7~6.9m)で、北粘土槨の被葬者が古墳の主であったと思われます。

2、粘土槨と副葬品

①南粘土槨(南槨[みなみかく])の副葬品
  “埋葬施設の南粘土棺床(=南槨)は土堀のため上辺がかなり削られていたが、中央東部分から画文帯神獣鏡、碧玉製石釧(へきぎょくせいいしくしろ)、管玉(くだたま)、棗玉(なつめだま)など、東辺凹みの南辺近くから鉄片、直刀(ちょくとう、刀身がまっすぐでそりを持たない刀)、剣身、その北側から多数の刀子(とうす、古代の小型の刀、ナイフ)、さらに東端の切り崩した部分から長方板革綴短甲(ちょうほうばんかわとじたんこう、剣道の「胴」のような、上半身をつつむよろいの一種)が出土、鏡などの副葬品は朱に染んだ間にあり、朱の痕跡が床の西辺でよく認められた、埋葬はほぼ中央に東枕の遺骸を伸展して、頭辺に鏡・釧(くしろ)・その先に刀剣・短甲などを副葬したと想定される”(前掲書要約)とあります。
 ここで石釧・玉類・鉄類について考えてみます。釧は腕にはめて使う装身具(腕輪、ブレスレット)です。縄文時代の貝輪(かいわ)に始まり、弥生時代にゴホウラとイモガイでつくった貝釧(かいくしろ)になりますが、これらの貝は奄美・沖縄などの南方でしか生息せず、遠方との交易の存在を証明する貴重なものです。古墳時代には貝が手に入りにくくなったようで、石で作った釧(石釧)が作られます。ヤマト王権から各地の首長に配布された威信財といわれており、持つのは身分が上位の人に限られていました(注3)。この古墳からは出雲など日本海側に産出地が限られた碧玉製の石釧が三個出土しています。いずれも入念な作りですが、互いにその細部が違っており、一個は新緑のなめらかな碧玉で、色つやが特に美しいものです。「一部に有機質が付着、また朱に染んで、遺骸に近接して存したことが推される」(前掲書)とあります。次に玉類です。管玉は被葬者を特別に飾る装身具ですが、碧玉製のものが40個出土。よく研磨されており、首飾り用に環状に身につけたようです。色は深緑4、他は青灰色です。棗玉(なつめだま)はナツメの実に似た形をした玉で南槨から29個、青みや白灰色の細長く、なめらかでつやのあるものです。5,6世紀代に盛んですが、4世紀前半の古墳(例えば吹田市紫金山古墳、しきんざんこふん)からも出土しています。石不動古墳は山頂に築造されていること、主体部の構造に前期の特徴があるので古風様式ですが、棗玉や短甲などが出土していることから築造年代は4世紀後半と推定されています。鉄剣は50cm強で“酸化が著しく破断”、刀子は“19口の外に、破断辺が少なくない”とのことです。“短甲は一領分があったと思われるが、原形を確かめるにははなはだ程遠い。横矧板(よこはぎいた)などから短甲たるを推し得るに過ぎない”(前掲書要約)とあります。

②北粘土槨(北槨)の副葬品
 北槨は既に盗掘されており、詳しいことはよくわかっていません。“東辺で刀剣類、小玉類、鉄鏃(てつぞく)、鉇(しゃ、農耕具の一種か?矛か?)の類があり、直刀類は折り曲げられた数本が雑然として本来の副葬とは認められない状況で出土。中央部は破壊されて形跡を失っており、一度取り出され後に再び遺棄され、副葬品は盗掘でほとんど無し。刀身は60cmを超えるものが少なくとも5,6口あったと推測。剣は21cmの断片。他に玉類が79。青水色・半透明ガラス質の良質のもの”(要約)とあります
この他、新聞記事によって盗掘された内容物が少し明らかになりました。
「大正6年(1917年)3月9日の『大阪朝日新聞』の記事によって、それ(=盗掘)が大正4年(1915年)8月の事で、当時城南・北和地帯に盛んであった古墳墓盗掘団の行うたものたることが知られる。この盗掘団の裁判の判決を載せた右の記事中に
一 大正四年八月頃、京都府綴喜郡八幡町大字八幡同所字石不動山林の古墳。
  発掘者(略)三名。勾玉(まがたま)二個、古鏡一面、外に管玉・小玉
  類数十点。森本正太郎氏へ百円にて売却。
とあって、それのまさに本古墳(=石不動古墳)に当たること思はしめるものがある。更に同時の『日出新聞』にはその古墳の所有者を河原崎文治氏と記していて、この地区がもと同氏の所有林であったことから、この想定の誤らざるを示すのである。」その副葬品の行方については、「今日ではこれを明らかにすることはできない」が、森本氏から押収した出土品で、後に奈良国立博物館が所有している遺品のうちの鏡一面が、「その朱に染んだ黒漆の色沢であり、森本氏の購入した価格の点などから推して、記事中の一面の鏡に比定し得る公算の多い」(前掲書)とあります。北槨から盗掘されたと伝えられる鏡もまた舶載の画文帯神獣鏡でした。最近、奈良市教委などの研究グループによりこの画文帯神獣鏡が石不動古墳から盗掘された鏡であることがほぼ確実になりました(注4)。

3、画文帯神獣鏡とは

 上述のことから、石不動古墳からは2枚の画文帯神獣鏡が出土していると考えられます。その鏡はいつの時代に作られ、またどのようなものでしょうか。歴史事典や古代史の雑誌によると、
“画文帯神獣鏡は中国後漢代(25~220年)の鏡の一種。日輪(=太陽)を乗せた車や飛ぶ鳥、走る獣などの絵画的な文様帯(画文帯)を外周に巡らせている。三角縁神獣鏡のように縁が三角形にとがっておらず、上が平らである(平縁、ひらぶち)。内区と縁との境界に、半円形と方形を交互に配置した半円方格帯(半円方形帯)を持つものが多い。内区(内側の部分)に、神仙思想を表す神像や龍・虎などの霊獣を、半肉彫(浮彫表現の一種)で描き出した文様を持つ。神仙は西王母(せいおうぼ)や東王父(とうおうふ)、伯牙(はくが)、黄帝(こうてい)など後漢代に流行した図像と考えられる。日本では弥生末期から古墳時代の遺跡・古墳から出土。また古墳中期から後期にかけての古墳からは、これの踏み返し品が出土している(注5)。”
 しかし、画文帯神獣鏡にもいろいろな種類があり、南槨鏡と(伝)北槨鏡は大きさ、型式・文様が違います(注6)。

① 南槨の画文帯神獣鏡(=画文帯同向式神獣鏡) 面径19.2cm
 南槨の鏡は画文帯同向式神獣鏡といいます。「細かく破砕して出土、若干欠失した部分はあるが、ほぼ全形が推される。f0300125_830363.jpg径六寸三分余(19.2cm)、縁厚(ふちのあつさ)一分四厘(約4mm)。(中略)その内区は完好な鈕(ちゅう)の孔(こう、あな)の通った方向を上下にして一方から見る様に構図されており(同向式)、また幅広い外縁に一種の連環状渦文を配した点に特色がある。そして通じて鮮鋭巧緻(せんえいこうち、細かな微妙なところまで鮮やかに巧みにち密に描かれていること)なる鋳上(いあが)りを示している。(略)相似た鏡としては韓国平壌大同江面第三号墳から出土したものなどが挙げられるが、しかも小異がある。それらと並んでこの種の鏡式中での優れたものと云ふべきであろう」「鏡体は一部に銹(さび)を見受けはするが、なほ通じて鉛黒色の滑択の多い地肌を存して、破断面は白銅本来の色択を表はし、質の桂良なるを示している。この鏡が中国からの舶載品であることは疑を容れないのであって、鏡式のうちでは時代の遡るもの、その鋳造の年代はけだし西紀三世紀の前半を下らないであらう」(前掲書)とあります。

画文帯神獣鏡が「新たな卑弥呼の鏡の候補か」とされるわけ
 この南槨鏡が「新たな卑弥呼の鏡候補か」となったのはどういう理由からでしょうか。千田稔氏は「奈良県黒塚古墳からは三十三面の三角縁神獣鏡が出土したが、被葬者の頭部に画文帯神獣鏡が一面置かれてあったことから、現在はこの鏡こそが重要で、魏帝から賜った百枚の鏡の一つではないかという説が浮上している」(注7)と述べています。さらに1998年、ホケノヤマ古墳(桜井市、全長約80m)の発掘でサプライズがありました。この古墳の棺(ひつぎ)の中と外から画文帯神獣鏡が一面ずつ、計二面出土したのです。三角縁神獣鏡は出土していません。棺の中から出土した鏡は石不動古墳の南槨鏡と霊獣が乳(にゅう)を取り巻く点が同じで、大きさも1mmしか違わない鏡でした(注8)。この古墳は卑弥呼の墓ではないかといわれる箸墓古墳(はしはかこふん、桜井市、全長280m)の東300mに位置し、箸墓古墳が築造される直前の邪馬台国連合の時代、つまり三世紀前半~中頃に築造された前方後円形墳です。箸墓古墳の周辺にはホケノヤマ古墳をはじめ、三世紀前半に築造された80~110m級の墓がいくつかあり、卑弥呼共立(注9)に関わった勢力の墓ではないかといわれています。画文帯神獣鏡がクローズアップされてきた理由の一つは副葬状況から被葬者が大切にしていた鏡であったこと。もう一つはその製作年代が『魏志』倭人伝にいう卑弥呼が共立された時期の鏡である、ということです。それまで舶載鏡の分布の中心が北部九州であったのが、畿内大和を中心とする分布に一変し、広域の政治連合を完成した時期だというのです。こうしたことから石不動古墳出土鏡も「新たな卑弥呼の鏡候補」として浮上してきました。岸本直文氏は各種の画文帯神獣鏡を比較検討し、「石不動古墳出土の同向式などは中平(ちゅうへい)四年(187年、中平は漢代の年号)のもの(鏡)に近いのでは」と述べています(注10)。

②(伝)北槨の画文帯神獣鏡(=画文帯環状乳神獣鏡) 面径13.6cm
 北槨出土とされる画文帯神獣鏡は画文帯環状乳神獣鏡といいます。神像や獣形が真ん中の鈕(ちゅう、つまみ)に向かって環状に配置されているのでその名が付いています。この環状乳神獣鏡も同向式神獣鏡も同じ後漢代の鏡ですが、環状乳鏡が同向式鏡よりやや早くに製作が始まっています。梅原氏は(伝)北槨鏡を「優れた舶載画文帯環状乳神獣鏡」であり、「斑銹(まだらさび)こそ多いが地肌をとどめた部分は漆黒色の美しい色沢(しきたく、いろつや)をしたもので、その内区では四方から見るように半肉刻出の神像を交互に配して、それぞれの一部が大きな環状乳となっている。半円方形帯は幅が広くて、十個を数える方格にそれぞれ四字宛の銘文を配する」(前掲書)と述べています。

4、石不動古墳出土鏡の銘文

①南槨鏡(画文帯同向式神獣鏡)の銘文
  半円方形(格)帯に各4字
原文:吾作明竟 幽凍三商 配像万彊 競ロロ序 ロロロロ ロロロロ 
百身拳楽 百精ロロ 衆羊主羊 学者高徳 士至公卿 富貴安楽 
子孫番晶 与師命長 (合計14区)
訳:「私は三種類の金属を溶かし、この美しい鏡を作りました。それには仙人や多くの怪獣が飾られており、この鏡を手に入れた人は立身出世し、一家が安楽に、子孫までも繁栄し、命永らえるであろう。」――『八幡市誌第一巻』P106より

②(伝)北槨鏡(画文帯環状乳神獣鏡)の銘文
  半円方形(格)帯に各4字
原文:上方作竟 自有紀 辟去不羊 古市 ロロロロロ 西王母令人長命 
ロロ紀天 孫吉兮 君宜子兮 長宜官王 (合計10区)
試訳:「上方(じょうほう、工房名か?)はこの鏡を作る。自ずから紀(しるす)。災害・不吉を退け、商売を・・(不明)西王母は人を長生きさせ・・(不明)子孫は繁栄し、立身出世するだろう。」
――試訳濵田

銘文は神仙思想を背景としています。しかし、訳されている銘文は少ないので浅学の私が試訳しており、誤りがありましたら教えてください。

5、八幡市出土の画文帯神獣鏡

 画文帯神獣鏡は日本全国で146枚、京都府で15枚出土と報告されています[2012年現在](注11)。そのうち八幡市から4~5枚出土しています。京都府出土鏡のおよそ4分の1を占めていますから、八幡市での出土率は高いです。その理由は何か。興味あるところです。内訳は、
石不動古墳2枚画文帯同向式神獣鏡、面径19.2cm、銘文有、京都大学総合博物館
画文帯環状乳神獣鏡、面径13.6cm、銘文有、奈良国立博物館
西車塚古墳1枚画文帯環状乳四神四獣鏡、面径14.4cm、銘文無、東京国立博物館
内里古墳1枚画文帯環状乳神獣鏡、面径21.0cm、銘文有、広島県耕三寺博物館
半円方格帯 方格内に各四字「天王日月」 合計14個
不明1枚画文帯神獣鏡、破片18.9cm、銘文無、京都大学
                   (注12)

おわりに

 “画文帯神獣鏡は、二世紀後葉から三世紀初めごろにつくられ、ちょうど倭国大乱が終息し、卑弥呼が共立されて邪馬台国の女王になった時期にあたる。”(注13)といわれています。京都大学の岡村秀典氏は「その分布をみると、畿内にいちじるしく集中し、北部九州に希薄なことから、楽浪・帯方郡から畿内に直接もたらされ、新たに成立した首長間の同盟体制にもとづいて、畿内の盟主的な首長から一元的に分配されたものと考えられる。また、首長層の定型化した前方後円(方)墳からの出土が多く、その体制は古墳時代前期までそのまま維持されたことがうかがえる。(注14)」と述べており、具体的には「奈良盆地東南部の桜井茶臼山古墳から四面以上、天理市天神山古墳から四面がまとまって出土し、奈良県広陵町新山古墳から三面、京都府八幡市石不動古墳・大阪府和泉市黄金塚古墳・神戸市西求塚古墳・香川県寒川町雨滝山奥十四号墳から二面ずつ出土していることに注意される。」と述べています。古墳時代前期を代表する古墳がいくつか含まれています。八幡の石不動古墳の勢力(その祖先)もその一員として活躍していたと思われ、研究が進んで、石不動古墳出土鏡が『卑弥呼の鏡』の可能性を増せばさらに注目されてくるでしょう。今後の研究を待ちたいと思います。
次回は『美濃山の王塚古墳について』考えてみます。

(注1)石不動古墳の全長(墳長)は文献により88mと75m、後円部径は60mと45mの2通りの見解があります。
(注2)岸本直文「山城の前方後円墳と古墳時代史」『山城の王権の実像に迫る!!乙訓古墳群と久津川古墳群』,ふるさとミュージアム山城,2016
(注3)西車塚古墳からは石釧をはじめ、高い威信財である腕輪型石製品の鍬形石、車輪石が出土しています。会報NO.79参照。
(注4)2017年(平成29年)8月30日朝日新聞夕刊4面「単眼複眼」に「100年前に盗掘 出土古墳特定 奈良市教委などの研究グループ」として石不動古墳など盗掘鏡の記事が載っています。
(注5)『日本歴史大事典』,小学館、雑誌『邪馬台国 第106号』,梓書院など参照
(注6)画文帯神獣鏡には、画文帯環状乳神獣鏡,画文帯重列式神獣鏡,画文帯同向式神獣鏡,画文帯求心式神獣鏡,画文帯対置式神獣鏡などがあります。
(岡村秀典『三角縁神獣鏡の時代』,吉川弘文館,1999参照)
(注7)千田稔『邪馬台国』, 青春出版社,2010
(注8)岡村秀典氏は漢代四百年間の鏡を、文様と銘文の流行の推移をもとに、およそ五十年前後の目盛りで次のように七期に区分
 漢鏡1期 (前二世紀前半、前漢前期)
 漢鏡2期 (前二世紀後半、前漢中期前半)
 漢鏡3期 (前一世紀前半から中ごろ、前漢中期後半から後期
       前半)
 漢鏡4期 (前一世紀後葉から一世紀初め、前漢末から王莽代)
 漢鏡5期 (一世紀中ごろから後半、後漢前期)
 漢鏡6期 (二世紀前半、後漢前期)
 漢鏡7期 (二世紀後半から三世紀初め、後漢後期)画文帯神獣
       鏡など
これに三世紀の三角縁神獣鏡をはじめとする魏鏡を加え、都合、漢・三国時代の中国鏡を八期に大別しています。(注14参照)
(注9)「共立(共に王を立てる)」に関わって『魏志』倭人伝に次の文章があります。
「その国、もとまた、男子を以て王と為す。とどまること七、八十年、倭国乱れ、相攻伐すること歴年、すなわち一女子を共立して王と為す。名は卑弥呼という。」(佐伯有清『邪馬台国論争』, 岩波新書,2006)
北九州、瀬戸内(吉備、伊予、讃岐、阿波など)それに近畿などの勢力が卑弥呼共立に関わったといわれています。
(注10)福永伸哉ら『シンポジウム三角縁神獣鏡』,学生社,2003,P231
(注11)安本美典『大崩壊「邪馬台国畿内説」』,勉誠出版,2012
(注12)安本美典『大崩壊「邪馬台国畿内説」』,勉誠出版,2012
(注13)都出比呂志・山本三郎編『邪馬台国の時代』,木耳社,1990
(注14)岡村秀典『三角縁神獣鏡の時代』,吉川弘文館,1999


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# by y-rekitan | 2017-09-26 10:00 | Comments(0)

◆会報第81号より-04 四條隆資③

シリーズ「四條隆資卿」・・・③

四條隆資卿しじょうたかすけきょう物語  その3
~『太平記』と隆資卿~

 大田 友紀子(会員) 


 四條隆資卿の「物語」と銘打って開始したこのシリーズも3回目となりました。初回は、四條隆資卿が戦死された「正平の役」八幡合戦、そして、その首塚が中ノ山墓地にあり「正平塚古跡」として存在していること、そして、その存在地である中ノ山墓地の歴史とその景観の特別な存在意義の重要性などを書かせていただきました。2回目は、四條隆資卿の生い立ち、生家である四條家の家格は羽林家であり、代々近衞府の武官として、天皇に仕えた家柄です。羽林家の娘たちはというと、御所に出仕して天皇の傍で身辺の世話などをしたことから、天皇の寵愛を受けて皇子女を生み、天皇の生母となることもありました。そんな家柄の四条家に生を受けたことから、隆資卿にも伏見天皇の御落胤説がささやかれている、ということを書きました。その当時のことは「とはずがたり」などを引用して説明させていただきました。作者の後深草院二条の母は、四条家の出で後深草院に仕えていました。
 そして、3回目となる今回は、後日談として、祇園祭・前祭の「蟷螂山」が創建された経緯について考えてみたいと思います。(四条家から下賜された)御所車の上にカマキリを乗せるという山で、そのカマキリは、四條隆資卿の武勇を表しているとされています。その武勇伝は、どこから来たのでしょうか。それは、南北朝内乱の際、現在のルポライターのような働きをしたのではと考えられている陣中僧たちが書き送った記事などにより作られた軍記物語『太平記』で、時事ニュースとして早くも読み聞かせることで広く流布したと思われています。陣中僧とは常に市井に暮らしていて庶民の傍に居て、布教に努めている僧たちですが、医薬にも明るく、律宗の僧たちが多かったようです。内乱期には各地の合戦場に駆け付けて戦死者の臨終の際に立ち合い、引導を渡したとされています。そして、戦死者の埋葬にも立ち会ったのでは、と考えられています。

『太平記』の成立

 まずはその成立についてですが、『太平記』の著者は不明とされていますが、南北朝末期の『洞院公定日記』の応安7年(1374)5月3日の項には、小島法師なる人物を『太平記』の作者として書いています。洞院公定は、南北両朝から有職故事などに堪能なので、諮問されたりした洞院公賢の孫です。祖父に倣って日記を残しています。
 しかし、今日では1人の作者の手になったものではなく、複数の書き手による完成後も幾度となく書き加えられ、そうした中で、有力武将たちの関与などによる挿入部分も多くて、ある程度の期間に渡って書き継がれたのでは、とする説が有力です。
 というのも、室町初期の武将で歌人でもある今川了俊の著書『難太平記』には、昔時、(南)等持寺において、法勝寺の恵珍上人(1281~1356)が、出来上がったばかりの『太平記』の30余巻を持参して、足利直義に見せて、玄恵法印に読ませたことがありました。その時、聞いていた直義ははなはだしい誤認などがあるのを指摘して改稿を命じます。その改稿作業などでしばし中絶するも、ふたたび書き継いだ、とあるところから、恵珍の生存中すでに30余巻が出来上がっていたと考えられています。このことから、法勝寺に「太平記」の製作工房があり多くの僧が従事していたことが考えられ、その維持と管理に多少なりとも足利氏の関与があったようで、言い換えれば、『太平記』製作のスポンサーを足利直義と考えると、その目的が何であったのか、と疑問が残りますが。
 その後も、正平7年(1352)閏2月12日、f0300125_8345940.jpg恵珍上人が足利義詮の要請で、南朝の後村上天皇の住吉行宮に参候していますし、足利側に立った動きが目に付きます。そして、後村上天皇の京都進撃の風聞を受けて、同月16日に再び恵珍上人が足利の使いとして住吉行宮に和談に向かいましたが、この時すでに伊勢国司の北畠顕能(きたばたけあきよし)が数100騎をもって洛中に入り、今夜にも両朝軍の間で戦いが始まるのでは、との風聞も立ち、形勢は急転して行きます。そして、後村上天皇はこの日には天王寺に行幸され、その後19日には八幡に到着、石清水宮寺の別当である田中定清邸を行宮とされました。正平7年の春は、八幡の地に場所を移した南北両朝の内乱の幕開けとなったのです。

『太平記』と四條隆資卿

 応安4年(1371)に成立した『太平記』が、「太平記読み」という物語僧の出現によって一般民衆の前で語られるようになったのは、室町末期以降から江戸時代に入った頃といわれています。けれども、「太平記」は製作当初から武士や没落公卿などに読まれることを目標として書かれたものであり、一般民衆に読み聞かせるために書かれたものではありませんでした。それは、太平記の各話の最後に独特の批判文があることからも、武士や公卿たちの教養を高めるために書かれた事が想像されるのであり、そこには宋学(儒教)の影響が見受けられ、大義名分論や勧善懲悪の思想に貫かれて書かれていることからもうなずけます。その頃、後醍醐天皇の宋学への過大な傾倒があり、宋学の奨励が進められていました。そうした時代背景を受け、いつしかその取り巻きの公卿たちの間にも深く浸透した結果、宋学の思想は「建武の中興」を推し進める原動力ともなって行きました。
 太平記の根幹を流れる思想について見て行くと、「太平記40巻は、文保2年(1318)2月の後醍醐天皇の即位された時から筆を起こし、後光厳天皇の貞治6年(1367)12月12日に終わっている(西源院本末尾による)。」(「軍記物とその周辺―太平記中の批判文・漢語・漢詩文・故事の二、三について」大矢根文次郎著より)とあり、混乱の時代を収拾するために儒教思想に裏打ちされた理想の実現を目指して書かれています。この論文では、「その付題には中国の故事物語が21箇もあることに注目される(略)さらに、小題説話の末尾にある作者の批判文のあることを注意しなければならない。(略)ほぼ、21箇所にこれを見ることが出来る。」とされて、この批判文の挿入には、中国の歴史文学からの影響が考えられることを論じておられます。そして、その論拠として「中国の歴史文学の方を通覧するに、皆、その篇末に批判文があるのである。」と結ばれていて、その一例として「巻22の四條隆資が(語っている)周の武王(の故事で)、大将を立てんとして太公望に問うたのに、太公望の答を引き載せている(漢語)が348字(に及ぶ)」のをあげて論じておられます。
 この箇所は、なかなか難解なところですが、儒教思想の理想を語る代弁者として、四條隆資卿を登場させているところに、作者の意図が見え隠れしています。その巻22「義助吉野へ参らるる事ならびに隆資卿物語の事」は、暦応4年の頃のことで、脇屋刑部卿義助(わきやぎょうぶきょうよしすけ:新田義貞の弟)が籠城していた美濃の根尾(ねを)の城を攻め滅ぼされて、吉野に帰参したところ、後村上天皇は敗北の責任を問わず、そのことを責めることなく、ここ5、6年の間の北国での戦闘の功績に報い、無事に帰還したことを喜ばれて、その次の日には臨時の宣旨を下され、一階級進められてその労をねぎらわれたのでした。けれども、そのことに不満を抱いた洞院実世左衛門督(とういんさねよさえもんのかみ:洞院公賢の長男)は、殿上人が伺候する席で、後村上帝を批判されて、「(敗北したのには触れずに)お褒めになって官位を進ませられたのは、治承の昔に、平維(これ)盛(もり)が富士川で水鳥の羽音に驚いて逃げ帰ってしまったのに、祖父の清盛入道が一(階)級進めたのと変わらないのでは(呆れたことだ。)」とおっしゃって苦笑いされ、一同に会する殿上人たちに意見を求められた。
 その話を聞いていた隆資卿が辞を低くして申されたことは、「この度の宣下は、今上帝の叡慮から出た事です。」と後村上帝を擁護することから話し始められました。そして、その理由として『六韜(りくとう)』を引用して説かれたところは、先帝(後醍醐天皇)の独断専行が武将たちの判断を狂わせ、その威信を失わせて、結果的には北国の敗戦を招いたと思われる事を語り、最後に秦の穆公(ぼくこう)の故事を持ち出し、(儒教の)道理を尽くして話されたので、それを聞いて才気に富んだ気質を持つ洞院実世卿は、言い返す言葉を失ってその場から退出されたという。
 この場面で、四條隆資卿に儒教の正論を朗々と語らせる代弁者の役割をさせて、その後に批判文を書いて締めくくっているところから、「太平記」の作者の意図は、儒教思想の理想を述べさせ、聞き手に理解させようとしているのかもと思います。つまり、あの南朝一筋で闘っている四條隆資卿がおっしゃっている事は正しいことであるという風に、当時の都の人々に理解出来るように、四條隆資卿の人物像が周知されていた事が分かります。
 同様に、正平2年(1347)12月12日、「太平記」中でも著名な逸話である楠正行(まさつら)のf0300125_8435413.jpg最後の参候の折の話においても、後村上天皇に拝謁した正行の言葉を隆資卿が伝奏として取り次いでいます。その時、後村上天皇は御簾を高く上げさせて、じかに正行と対面し、「慎重に行動して、命を全うするように」と言葉をかけられます。ですが、最終決戦に臨む決意をした正行は何も答えずに退出しました。その後、後醍醐天皇の御廟に参って別れを告げて、その横に建つ如意輪堂の壁板に一族銘々の名を書き連ねて、最後に正行がしたためたのが、「返らじと兼ねて思へば梓弓 なき数にいる名をぞとどめる」の和歌でした。四条畷の激戦で、南朝軍の敗北を見届けた隆資卿はすぐに吉野へ戻り、より奥地である賀名生へ撤退を申し出ます。まずは引いて再起を促すことを進言して、後村上天皇を護ったのです。

蟷螂山の創建へ

 戦いに明け暮れる日々が続いていたので、京の人々は町の辻や小屋などで「太平記」を読み聞かせる物語僧を待ちかねたことでしょう。そのような理由で、物語僧という存在が生み出されたのは必然であり、『太平記』の成立当初からのことでした。物語僧の活動により、正平の役での八幡合戦で、四條隆資卿の斃死(へいし)の有り様が、時をおかずに都の人々に伝わり、四條隆資卿の伝説が生み出されて行きました。f0300125_8514057.jpg
 その結果、隆資卿の屋敷があった西洞院に住む町衆の間では、隆資卿の勇猛果敢な生きざまが語り継がれて行きました。それに追い打ちをかけたのが、「太平記」の中での隆資卿の勇姿と生きる姿勢で、南朝一筋に散って行った潔さでした。
そんな町内の人々の思いはいつしか、周りの町内が山鉾を持つようになって来ると、「うちでも山を持ちたい。四条はんの勇姿を讃える勇壮な山を(作りたい)」という思いが、年を経るごとに高まり、「どないやろ、同じ町内のあのお人、お薬やらを商うてはる陳外郎大年宗奇さんに相談してみようやないか」ということとなり、そんな町衆らの熱い思いを聞いた陳大年宗奇は心を動かされて、「隆資卿没後25年忌大法会を岡崎(にある四条家の菩提寺である)善勝寺において行っている記(録)がみえる。当町よりも若干の人が参列したものと思われることは、祇園祭の巡行に蟷螂の模型を乗せ参加しているからである。いずれにしても陳大年の構想と資金は大であったとおもわれる。」(「蟷螂山由来記」)とあります。すべては想像の域を出ませんが、蟷螂山保存会の本井氏の話を聞いた時、こんなことを想像してしまいました。
(つづく) 空白

次回は、「蟷螂之斧」の故事について考えてみたいと思います。
(京都産業大学日本文化研究所 上席研究員) 空白



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# by y-rekitan | 2017-09-26 09:00 | Comments(0)