◆八幡の歴史を探究する会

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 本会では、2010年より京都府八幡の歴史についての探究と共有を目指して、講演会や歴探ウォークの開催、会報の発行等の活動を積極的に続けています。

江戸時代の八幡道標をとりまとめた冊子は、好評につき増版販売中です! ⇒


12/1 アクセスtop3を更新、 11/27 新しい会報記事が6件、11/7 新掲示板に投稿が1件、10/30 最近のトピックが1件、10/16 新しい集いの案内が1件 追加されています。

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お急ぎの方は 最新の 《会報記事集いの案内》 に直行 できます。
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本会では定期的に会報を発行し現在 82号 を数えていますが、このサイトには
そこから 383件 の記事を掲載しております。

f0300125_22323752.jpgf0300125_22333646.jpg"11月度の記事別アクセス数 TOP3"
第53号:木田醤油株式会社訪問記
第22号:吉井勇歌碑(松花堂庭園)
第51号:浅井周斎の墓石について
11月度の人気タグ top3⇒  八幡宮の神人  橋本地区  古道

“アクセスtop3” コーナーについての 《解説とご案内》をこちらに 入れております。

なお個々の記事には以下の四つのルートから簡便にアクセスして頂けます。f0300125_20584995.jpgf0300125_20591768.jpgf0300125_20594243.jpgf0300125_210420.jpg

11/27 以下の朱書き部の連載や個別記事を追加掲載しました。
(前回更新日は 9/26)

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会報号番をクリックして頂くと、後はスクロールのみでその号の記事を一気にお読みいただけます。
なお朱書きが追加された号を示しております。

ブログ管理会社のシステム変更の影響で、現在以下をクリックすると、各号報のトップではなく記事一覧が出ます。お手数ですが その一覧ではクリックせず、そのまま下にスクロールしてご参照ください。
(各号のトップやエンドから前後の号報に移る場合も同じです)

《お知らせ》 第73号より会報は奇数月の隔月発行となっています。

2017年11月 第82号     2017年09月 第81号
2017年07月 第80号     2017年05月 第79号
2017年03月 第78号     2017年01月 第77号
2016年11月 第76号     2016年09月 第75号
2016年07月 第74号     2016年05月 第73号
2016年03月 第72号     2016年02月 第71号

2016年01月 第70号     2015年12月 第69号
2015年11月 第68号     2015年10月 第67号
2015年09月 第66号     2015年08月 第65号
2015年07月 第64号     2015年06月 第63号
2015年05月 第62号     2015年04月 第61号

2015年03月 第60号     2015年02月 第59号
2015年01月 第58号     2014年12月 第57号
2014年11月 第56号     2014年10月 第55号
2014年09月 第54号     2014年08月 第53号
2014年07月 第52号     2014年06月 第51号

2014年05月 第50号     2014年04月 第49号
2014年03月 第48号     2014年02月 第47号
2014年01月 第46号     2013年12月 第45号
2013年11月 第44号     2013年10月 第43号
2013年09月 第42号     2013年08月 第41号

2013年07月 第40号     2013年06月 第39号
2013年05月 第38号     2013年04月 第37号
2013年03月 第36号     2013年02月 第35号
2013年01月 第34号     2012年12月 第33号
2012年11月 第32号     2012年10月 第31号

2012年09月 第30号     2012年08月 第29号
2012年07月 第28号     2012年06月 第27号
2012年05月 第26号     2012年04月 第25号
2012年03月 第24号     2012年02月 第23号
2012年01月 第22号     2011年12月 第21号

2011年11月 第20号     2011年10月 第19号
2011年09月 第18号     2011年08月 第17号
2011年07月 第16号     2011年06月 第15号
2011年05月 第14号     2011年04月 第13号
2011年03月 第12号     2011年02月 第11号

2011年01月 第10号     2010年12月 第09号
2010年11月 第08号     2010年10月 第07号
2010年09月 第06号     2010年08月 第05号
2010年07月 第04号     2010年06月 第03号
2010年05月 第02号     2010年04月 第01号

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連載企画の記事はこちらから直接初回記事に入り、以降は文末でクリックすることで
連続参照して頂けます。 今回の号では朱書きの連載記事が追加 されています。


《連載》 “四條隆資卿物語” (第79号~継続中)
《連載》 “八幡の古墳と鏡” (第77号~継続中
《連載》 “八幡に見る古代植物” (第74号~第77号)
《連載》 “詩歌に彩られた八幡の歴史” (第73号~第77号)
《連載》 “宮廷と歌合、そして石清水宮寺” (第71号~第72号)
《連載》 “心に引き継ぐ風景” (第70号~継続中
《連載》 “五輪塔あれこれ” (第70号~第79号)
《連載》 “『三宅安兵衛遺志』碑と八幡の歴史創出” (第70号~継続中
《連載》 “八幡の道を「高野街道」となぜ呼ぶのか?” (第67号~71号
《連載》 “松花堂昭乗が詠んだ八幡の町"  (第63号~第68号)
《連載》 “川の旅日記"  (第62号~第64号)
《連載》 “八 幡 八 景”  (第58号~第60号)
《連載》 “『歴史たんけん八幡』の発行"  (第56号~第68号)
《連載》 “御園神社考”  (第55号~第58号)
《連載》 “古代の声を聞く ”  (第53号~第54号)
《連載》 “自転車で巡る名所案内 ”  (第52号~第56号)
《連載》 “ 物語はどのように生まれたか ”  (第51号~第56号)
《連載》 “ 石清水八幡宮の歴史Q&A ”  (第50号~第57号)
《連載》 “ 伊佐家のしきたりとくらし ”  (第48号~第51号)
《連載》 “ 謡曲のふるさと八幡 ”  (第41号~第43号)
《連載》 “ 大谷川散策余話 ”  (第38号~第50号)
《連載》 “ 御文庫とエジソン碑 ”  (第36号~第45号)
《連載》 “ 墓石をたどる ”  (第33号~継続中)
《連載》 “ 八幡の歴史スポット ”  (第30号~第32号)
《連載》 “わが心の風景 ” (第28号~第69号)
《連載》 “八幡太鼓祭り ”  (第28号~第29号)
《連載》 “八幡に残る昔話と伝承 ”  (第26号~第30号)
《連載》 “ 八幡文学碑巡り ”  (第22号~第26号)
《連載》 “八幡神と神仏習合 ”  (第21号~第25号)
《連載》 “ 一枚の写真から ”  (第16号~第19号)
《連載》 “ 八幡の歴史の謎とは何か”  (第15号~第16号)
《連載》 “古歌に詠まれた南城山”  (第11号~第15号)
《連載》 “八幡の祭りについて”  (第5号~第17号)
《連載》 “八幡の歴史を彩る文化”  (第4号~第9号)
・・・
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現在掲載しているスポット記事は以下の通りです。クリックで直接お読み頂けます。

“勅祭・石清水祭に学ぶ " (第82号)
“第45回八幡市民文化祭展示発表報告 " (第82号)
“高良神社の太鼓祭りを楽しむ " (第81号)
“「石清水八まん宮道」に悠久の歴史がある " (第81号)
“「『石清水八まん宮』に誘う道標群」の発刊にむけて " (第81号)
“八幡の京街道は川底に沈んだ " (第80号)
“消えた踏切道に思う " (第80号)
“今年白寿を迎えました " (第80号)
“『太平記』 八幡合戦の石碑を訪ねる " (第79号)
“「八幡の歴史を学ぶ連続学習会」2016年 " (第79号)
“石清水八幡宮を指し示す「八幡宮道」の道標の数々 " (第78号)
“大阪府下の東高野街道に「やわた道」の道標を訪ねて" (第77号)
“歴探サイト(ホームページ)の現況報告" (第77号)
“第44回八幡市民文化祭展示発表を終えて" (第76号)
“御幸橋南詰「石清水八幡宮鳥居通」道標は何処に?" (第75号)
“『茶揉み歌』を復活"  (第73号)
“「八幡大縁起」に参加して"  (第71号)
“上津屋橋(流れ橋)の復旧に向けて"  (第71号)
“新刊案内「戦国大名の正体"  (第70号)
“本妙寺文書「沢庵の書状」と紫衣事件"  (第69号)
“「古寺巡礼」で出会った仏さま"  (第69号)
“八幡の文化財(国宝指定)"  (第69号)
“国宝指定の答申に思う"  (第69号)
“京の街角の「湯たく山茶くれん寺"  (第69号)
“旅人は何故片手を挙げているのか"  (第67号)
“「八幡の道 探究部会」が発足しました"  (第67号)
“石清水八幡宮が国宝に!"  (第67号)
“第119代光格天皇と大江磐代君とその母"  (第64号)
“クイズ「私は誰でしょう」"  (第62号)
“西国三十三所観音石仏群の墓所"  (第61号)
“陸橋の名前"  (第61号)

これより古い号の個別記事インデックスはこちらに

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◆八幡のおすすめキーワードで関連記事を◆
この画面の右上の “タグ” 欄のおすすめキーワードをクリックして頂くと、ブログ内の
関連記事をまとめてご参照頂けます。
最初に記事一覧が出ますが、そこではクリックせずスクロールでお読みください。
なおタグ記事閲覧後に元に戻る場合は、一旦上端までスクロールし画面左上隅の
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任意のキーワードで記事を検索
右上の “検索ボックス” に八幡に関わる任意のキーワードをセットして頂きますと、
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# by y-rekitan | 2018-12-31 20:00 | Comments(0)

◆コーナー・講演会の記録

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「八幡の歴史を探究する会」では、定期的に講演会や歴探ウォーキングの集いを実施していますが、このコーナーでは、その講演会のレポートを紹介しております。

 11/27 朱書きの記事を追加掲載しました。 現在の記事数は 59件です。 

下記の任意の記事をクリックして頂くと、それ以降は記事下端で“次のレポート”をクリックして頂くことで連続参照して頂けます。 

  《講演会録》 82号 2017年10月 森本家文書からみた近世石清水の神人構成と身分
  《講演会録》 81号 2017年08月 石清水八幡宮の牛玉宝印
  《講演会録》 79号 2017年04月 三川合流の変遷と周辺都市
  《講演会録》 78号 2017年02月 謡曲から見た八幡
  《講演会録》 76号 2016年10月 八幡の古代遺跡と道
  《講演会録》 75号 2016年08月 石清水八幡宮の成立と機能
  《講演会録》 73号 2016年05月 石清水八幡宮の由緒と建築様式
  《講演会録》 71号 2016年02月 中世都市 八幡
  《講演会録》 70号 2016年01月 『三宅安兵衛遺志』碑と八幡の歴史創出

  《講演会録》 68号 2015年11月 継体大王の謎を追う
  《講演会録》 67号 2015年10月 弥生時代の八幡市とその周辺
  《講演会録》 66号 2015年09月 江戸時代の村の暮らし
  《講演会録》 63号 2015年06月 酒麹作りがビジネスの八幡神人がなぜ奉納詩歌に
  《講演会録》 62号 2015年05月 知っているようで知らない松花堂昭乗のこと
  《講演会録》 61号 2015年04月 幕末政治と攘夷―長州・京都・八幡
  《講演会録》 59号 2015年02月 二宮忠八と八幡
  《講演会録》 58号 2015年01月 史跡 松花堂庭園の成立
  《講演会録》 57号 2014年12月 中村家住宅の国登録有形文化財指定
  《講演会録》 56号 2014年11月 中世大山崎の商業活動について

  《講演会録》 55号 2014年10月 「安居頭諸事覚」を読む
  《講演会録》 54号 2014年09月 地誌に見る八幡
  《講演会録》 54号 2014年08月 神国論の系譜
  《講演会録》 51号 2014年06月 八幡を掘る
  《講演会録》 50号 2014年05月 門前町の八幡「今」「昔」
  《講演会録》 49号 2014年04月 石清水八幡宮の年中行事と庶民信仰
  《講演会録》 47号 2014年02月 松花堂昭乗の茶の湯
  《講演会録》 46号 2014年01月 歌人吉井勇の歌行脚
  《講演会録》 44号 2013年11月 八幡の歴史と土器
  《講演会録》 43号 2013年10月 八幡における浄土信仰

  《講演会録》 42号 2013年09月 江戸時代の村の暮らし
  《講演会録》 41号 2013年08月 武家政権と石清水八幡宮
  《講演会録》 39号 2013年06月 八幡社士総代「江戸尾張年頭御礼日記」
  《講演会録》 38号 2013年05月 天下人の時代と八幡
  《講演会録》 37号 2013年04月 南山城の地域史を学んで
  《講演会録》 35号 2013年02月 松花堂昭乗の江戸下向
  《講演会録》 34号 2013年01月 八幡・山崎の警備体制と鳥羽伏見
  《講演会録》 32号 2012年11月 松花堂昭乗と近世前期の文芸
  《例会報告》 30号 2012年09月 「八幡歴史カルタ」読み札の決定
  《講演会録》 29号 2012年08月 石清水際と神人の経済活動

  《講演会録》 28号 2012年07月 良いまちには良い川がある
  《講演会録》 27号 2012年06月 八幡の町の成り立ち
  《講演会録》 26号 2012年05月 庶民信仰と八幡大菩薩
  《講演会録》 25号 2012年04月 男山文化園の中心・八幡
  《講演会録》 23号 2012年02月 古代の八幡を探る
  《講演会録》 21号 2011年12月 高度経済成長期の八幡を語る
  《講演会録》 20号 2011年11月 八幡八景の成立とその背景
  《例会報告》 19号 2011年10月 八幡の歴史を次代に遺そう!
  《講演会録》 18号 2011年09月 墓地で探る八幡の歴史(1)
  《講演会録》 18号 2011年09月 墓地で探る八幡の歴史(2)

  《講演会録》 16号 2011年07月 地名で学ぶ八幡の歴史
  《講演会録》 14号 2011年05月 中世都市橋本を学ぶ
  《講演会録》 13号 2011年04月 八幡の古墳とその特徴を学ぶ!
  《講演会録》 12号 2011年03月 神仏習合の実像に迫る
  《講演会録》 11号 2011年02月 近代の門前町と参詣路を語り合う
  《講演会録》 10号 2011年01月 南北朝の争乱と八幡
  《講演会録》 08号 2010年11月 淀屋の歴史をたどる!
  《講演会録》 06号 2010年09月 石清水八幡宮の絵図を読み解く!
  《講演会録》 04号 2010年07月 松花堂昭乗の出自を追う!
  《講演会録》 02号 2010年05月 古代の遺跡から八幡の歴史を学ぶ

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# by y-rekitan | 2018-12-31 18:00 | Comments(0)

◆コーナー・歴探ウォークの記録

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「八幡の歴史を探究する会」では、定期的に講演会や歴探ウォーキングの集いを実施していますが、このコーナーでは、その歴探ウォークのレポートを紹介しております。

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 7/24 朱書き記事を追加掲載しました。 現在の記事数は 19件です。 

下記の任意の記事をクリックして頂くと、それ以降は記事下端で“次のレポート”をクリックして頂くことで連続参照して頂けます。

  《歴探散策》 80号 2017年06月 東山寺と伊弉諾神宮を訪ねて(バスツアー)
  《歴探散策》 77号 2016年12月 八幡の古寺巡礼 第4回
  《歴探散策》 74号 2016年06月 丹後を訪ねてのバスツアー報告
  《歴探散策》 72号 2016年03月 石清水八幡宮 山上伽藍の探訪
  《歴探散策》 69号 2015年12月 八幡の古寺巡礼 第3回
  《歴探散策》 64号 2015年07月 長岡宮を訪ねてのバスツアー報告
  《歴探散策》 60号 2015年03月 橋本の歴史(2)「平野山・西山を歩く」
  《歴探散策》 57号 2014年12月 八幡の古寺巡礼 第2回
  《歴探散策》 52号 2014年07月 対岸の町「山崎・大山崎」を訪ねる

  《歴探散策》 48号 2014年03月 橋本の歴史(1)「京街道を行く」
  《歴探散策》 45号 2013年12月 八幡の古寺巡礼(第1回)
  《歴探散策》 40号 2013年07月 二つの資料館をめぐる
  《歴探散策》 36号 2013年03月 春爛漫の歴史探訪ウォーク
  《歴探散策》 33号 2012年12月 男山参詣路を歩く
  《歴探散策》 31号 2012年10月 八幡の古建築の探訪
  《歴探散策》 25号 2012年04月 歴史探訪「男山参詣路を歩く」
  《歴探散策》 15号 2011年06月 東高野街道を歩く
  《歴探散策》 07号 2010年10月 上津屋の名所をめぐる
  《歴探散策》 03号 2010年06月 八幡の名所・旧跡を歩く

なお歴探ウォークの自転車版、サイクリングツアーについても概要を連載記事として掲載していますので、併せてご参照ください。
《連載記事》 “自転車で巡る名所案内 ”

# by y-rekitan | 2018-12-31 16:00 | Comments(1)

◆コーナー・新しい集いのご案内

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本会では八幡の歴史の探究と共有を目指して、講演会や歴探ウォーク等の集いを定期的に催しておりますが、このコーナーではそのスケジュール等を掲載しております。
併せて本会のトピックスや出版物等についても掲載しておりますのでご参照ください。

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ただ今、以下の集いやイベントを案内中です。詳しくはリンクのパンフレットをご参照のうえ、ご参加ください。 12/9更新


f0300125_1833548.jpg(2017年度)八幡の歴史を学ぶ連続学習会

   ・概要  2017年度 八幡の歴史を学ぶ連続学習会(隔月開催)
   ・日時  2017年 5月18日(木) 「八幡神と男山遷座」
《終了しました》 参加者は47名でした。 空白空白
        2017年 7月20日(木) 「元寇から南北朝の争乱まで」
《終了しました》 参加者は43 名でした。 空白空白
        2017年 9月21日(木)  「天下人と八幡」
《終了しました》 参加者は34 名でした。 空白空白
        2017年11月16日(木) 「鳥羽伏見の戦いと八幡・橋本」
《終了しました》 参加者は33 名でした。空白空白
   次回は⇒ 2018年 1月18日(木)「八幡東部の神社(川口天満宮、内神社)」 
        2018年 3月16日(木) 「近代化の八幡と戦時下の八幡」
    
       ※何れも午前10時~11時半
   ・場所  ふるさと学習館2階研修室



f0300125_1833548.jpg◆歴史探訪ウォーク(2017年12月)

《終了しました》 参加者は39名でした。
   ・概要  八幡の古寺巡礼 ー第5回:男山南部の寺を巡るー
   ・日時  2017年12月7日(日) 午後1時10分~4時頃
   ・場所  松花堂庭園前の昭乗広場



f0300125_1833548.jpg◆講演と交流の集い(2017年10月)

《終了しました》 参加者は47名でした。
   ・概要  森本家文書からみた近世石清水の神人構成と身分
   ・日時  2017年10月15日(日) 午後1時30分~4時
   ・場所  八幡市文化センター3階 第3会議室



f0300125_1833548.jpg◆講演と交流の集い(2017年8月)
 
《終了しました》 参加者は40名でした。
   ・概要  石清水八幡宮の牛王宝印
   ・日時  2017年8月26日(土) 午後2時~4時
   ・場所  さくらであい館 イベント広場「淀」




f0300125_1833548.jpg◆歴史探訪バスツアー

《終了しました》 参加者は39名でした。

   ・概要  歴史探訪バスツアー
   ・日時  2017年 6月15日(木) 午前7時50分~午後6時頃
   ・場所 《訪問先》バスで淡路島に向かいます
         伊弉諾(いざなぎ)神社⇒(昼食:海鮮料理)⇒東山寺
        ー詳細はバスツアーのパンフレット参照ー



f0300125_1833548.jpg◆年次総会及び講演と交流の集い

《終了しました》 参加者は58名でした。
   ・概要 (八幡の歴史を探究する会) 年次総会
        (講演と交流の集い)   「淀川・三川合流の歴史とその周辺」  
   ・日時  2017年 4月23日(日) 年次総会:午後1時30分~2時10分
                   講演と交流の集い:午後2時30分~4時30分
   ・場所  さくらであい館(イベントホール)



f0300125_1833548.jpg◆八幡の歴史を学ぶ連続学習会>

《終了しました》
   ・概要  八幡の歴史を学ぶ連続学習会(隔月開催)
   ・日時  2016年 5月19日(木) 「大むかしの八幡」(29名参加)
        2016年 7月14日(木) 「町の成り立ちと神人の活躍」
                             (37名参加)
        2016年 9月15日(木)  「松花堂昭乗という人がいた」
                             (32名参加)
        2016年11月17日(木) 「淀屋と八幡」(34名参加)
        2017年 1月19日(木)  「河川と歩んだ八幡」(30名参加)
        2017年 3月16日(木) 「昭和から平成へ」(28名参加)     
        ※午前10時~11時半
   ・場所  ふるさと学習館2階研修室



f0300125_1833548.jpg◆会員研究発表

《終了しました》 参加者は40名でした。
   ・概要  謡曲から見た八幡
   ・日時  2017年 2月15日(水) 午後1時30分~
   ・場所  松花堂美術館 講習室



f0300125_1833548.jpg◆歴史探訪ウォーク

《終了しました》 参加者は46名でした。 
   ・概要  八幡の古寺巡礼
        ー第4回:男山山麓の寺を巡る(Partー3)ー
   ・日時  2016年 12月8日(木) 午後1時~4時頃
   ・場所  京阪八幡市駅→法園寺→正福寺→単伝寺



f0300125_1833548.jpg◆「八幡の道探究部会」の展示発表

《終了しました》 2日間とも多くの来場者がありました。
   ・概要  「八幡の古道」展示発表(八幡市民文化祭)
   ・日時  2016年 10月29日(土) 午前10時~午後5時
        2016年 10月30日(日) 午前10時~午後4時
   ・場所  第44回八幡市民文化祭
         八幡市文化センター 3階エレベーターホール



f0300125_1833548.jpg◆講演と交流の集い(10月)

《終了しました》 参加者は33名でした。
   ・概要  八幡の古代遺跡と道
   ・日時  2016年 10月16日(日) 
   ・場所  八幡市文化センター第3会議室



f0300125_1833548.jpg◆講演と交流の集い(8月)

《終了しました》 参加者は42名でした。
   ・概要  石清水八幡宮の別宮の成立と機能
   ・日時  2016年8月27日(木) 午後2時~4時半
   ・場所  八幡市文化センター 第3会議室



f0300125_1833548.jpg◆歴史探訪バスツアー(6月)

《終了しました》 参加者は38名でした。 
  ・概要  丹後を訪ねて
  ・日時  2016年6月9日(木) 午前8時~午後6時頃
  ・場所  《訪問先》 丹後郷土資料館 ⇒ 籠神社 ⇒ ちりめん街道
       ―バスツアーの詳細はパンフレット参照―



f0300125_1833548.jpg◆年次総会及び講演と交流の集い(4月)

《終了しました》 参加者は38名でした。 
   ・概要 (八幡の歴史を探究する会)年次総会
       (講演と交流の集い)  「石清水八幡宮の由緒と建築様式」  
   ・日時 2016年4月21日(木)  年次総会:午後1時~1時40分 
                   講演と交流の集い:午後2時~4時
   ・場所 石清水八幡宮研修センター(男山山上)


f0300125_1833548.jpg◆講演と現地探訪の集い(3月)

《終了しました》 参加者は52名でした。 
    ・概要  石清水八幡宮 山上伽藍の探訪
    ・日時  2016年3月13日(日) 午後1時~4時頃
    ・場所  石清水八幡宮研修センター(講演)及び男山山上探訪


f0300125_1833548.jpg◆男山考古録を読むパートⅢ(第12回)

《終了しました》 参加者は23名でした。 
    ・概要  男山考古録」を読む パートⅢ第4回(通算:第12回)
    ・日時  2016年2月17日(水) 午前10時~11時30分
    ・場所  八幡市立生涯学習センター 会議室

f0300125_1833548.jpg◆講演と交流の集い(2月)

《終了しました》 参加者は58名でした。 
    ・概要  中世都市 八幡
    ・日時  2016年2月14日(日) 午後1時30分~4時
    ・場所  松花堂美術館 講習室


f0300125_1833548.jpg◆講演と交流の集い(1月)

《終了しました》 参加者は78名でした。 
    ・概要  「三宅安兵衛遺志」碑と八幡の歴史創出
    ・日時  2016年1月17日(日) 午後1時30分~4時
    ・場所  八幡市文化センター第3会議室




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# by y-rekitan | 2018-12-31 15:00 | Comments(0)

◆コーナー・トピックス & 出版活動のご案内

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◆2017年10月28日~29日 第45回八幡市民文化祭に出展
 八幡市民文化祭には例年通り出展会場は、八幡市文化センター3階ロビーでした。今年は専門部会「八幡の道探究部会」が2年間かけて現地に出向き調査した八幡市内(22基)及び市外(54基)の『江戸時代の八幡道標(みちしるべ)』をパネル5枚に掲示しました。
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 2日とも台風接近の影響による生憎の雨天のために屋外の展示は中止になり来場者も例年より少なかったですが、来場の皆さんは江戸時代に設置され今に残る八幡道標に興味をもたれてパネルに展示の道標写真や設置場所を地図で確認されていました。また、会場で販売した調査結果を纏めた『「石清水八まん宮道」に誘う道標群”ー江戸時代の八幡道標ー』の本は、予想より遙かに多くの方に購入していただきました。
 展示パネル前のテーブル上には、本と共に「八幡の歴史カルタ」や会報(2年間のバックナンバー)、例会や連続学習会のチラシ等も並べました。
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◆2016年10月29日~30日 第44回八幡市民文化祭に出展
 今年の文化際には、昨年10月発足した専門部会『八幡の道探究部会』の1年間の活動成果を展示発表しました。展示のテーマは「八幡の古道」で、①古地図(6枚)、②古道の作製地図(2枚ー写真6点)、③江戸時代の道標地図(2枚ー写真27点)などを展示しました。
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 展示会場の八幡市民文化センター3階ロビーには、2日間で約200人の大勢の方が訪れられ、展示物を見ていただきました。また、部会員の説明を熱心に聞いておられました。今回の展示発表は当初予想より皆様の古道や古い道標への関心は高くて、準備していた古道や道標地図及び道標リストは多くの方が求められてたので途中で増刷しました。中には関心のある道標を今から見に行くと仰る方も居られました。
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◆2016年6月12日 『八幡の歴史カルタ』の関連史跡めぐり
 「安居塚ブロック福祉委員会(ふれあいサロン)」の皆様が本会制作の『八幡の歴史カルタ』に詠まれている史跡巡りをされている様子が、八幡市社会福祉協議会の広報誌「やわたし社協だより」第108号(2016年6月1日発行)に紹介されました。
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 催しを主催された福祉委員会の安居塚ブロック長 中崎幸子様から「八幡の歴史カルタ等に紹介されている名所巡りを今年3月と5月実施しましましたが、皆様に好評なので11月にも計画しています」と伺いました。

◆2016年6月12日 カルタ資料館に『八幡の歴史カルタ』を寄贈
 この度、福岡県大牟田市立三池カルタ・歴史資料館から、当会制作の「八幡の歴史かるたカルタ」の寄贈依頼があり1セットを寄贈しました。f0300125_1521852.jpg この資料館は日本及び世界のカルタ(歌カルタ・いろはカルタ・トランプ・タロットなど)を専門に収集・展示・研究をする日本で唯一の資料館です。
(注記)
 日本のカルタは、ポルトガルからの影響を受け、16世紀末頃、筑後の三池地方で作り始められたと言われている。その関係で大牟田市が1991(平成3)年に日本で唯一のカルタ専門館を開館した。

2015年10月31日~11月1日第43回八幡市民文化祭に出展
 今年も八幡市文化センターでの市民文化祭に出展しました。「八幡の歴史クイズ」の実施と「歴史カルタ」及び「歴史たんけんマップ」を掲示しました。約100名の方が歴史クイズに挑戦されました。
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◆2015年9月27日 「歴史たんけん八幡」出版記念の集い
 松花堂庭園・美術館別館において実施された、第Ⅰ部記念講演、第Ⅱ部「出版記念」交流の集いは、堀口八幡市長をはじめ多くの方が参加されて盛況でした。
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 ◆2015年5月9日 八幡市生涯学習センター「わくわくドキドキ縁日」に出展。
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 ◆2015年04月18日 発足5周年記念で会の旗製作の記事が京都新聞に。
 ◆2015年02月13日 2月例会「二宮忠八と飛行神社」が京都新聞に掲載。 
 ◆2014年12月23日 「やましろのタカラフェステバル」(文化パルク城陽)に出展。
 ◆2014年11月1~2日 第42回八幡市民文化祭に出展
 ◆2014年08月15日 会報50号達成記念(バックナンバー増刷)が京都新聞に掲載。
 ◆2014年06月09日 KBS京都ラジオで本会活動紹介の放送がありました。
 ◆2014年06月01日 八幡山柴公民館フェスティバルで、歴探クイズの展示。
 ◆2014年05月28日 「歴史探訪サイクリング」が京都新聞で紹介されました。


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◆『石清水八まん宮道』に いざな道標みちしるべ
     ―江戸時代の八幡道標― を発刊しました

 好評につき、増版し販売を継続中です! 

 専門部会「八幡の道探究部会」の立上げ後2年間で、の江戸時代の道標調査結果を取りまとめて予定通り2017年10月12日に冊子を発刊しました。

 本書は150年以上前の「江戸時代」に建立された八幡市内及び市外の「八幡道標」ともいうべき道標群を「昔と今を結ぶ掛替えのない歴史遺産として保護する」とともに「後世に引き継ぎたい」との強い願いから、76基の道標を会員が自分の足で調査した結果をまとめたものです。
 多くの方々に感心を持っていただくことが、道標の保護につながると確信しています。
 是非この冊子を片手に各地の江戸時代と現在を結ぶ八幡道標を訪ねられることを願って出版致しました。

出版冊子の概要
 A5版フルカラーで96ページです。また、掲載している地図は、現地で迷わないように道標設置の場所をピンポイントで示しています。本書は極力廉価で皆様にご提供できることを目指し、すべて本会で自家編集し、それをそのままネット印刷で本にしました。

主な内容
f0300125_21252046.jpg1.刊行にあたって
2.江戸時代の八まん宮道 エリ
  ア区分地図
3.「八幡道標」の紹介―以下の
  合計76基
  ・八幡市 :22基
  ・京都市内:8基
  ・長岡京市:1基
  ・大山崎町:1基
  ・高槻市 :3基
  ・茨木市 :1基
  ・枚方市 :26基
  ・交野市 :2基
  ・寝屋川市:2基
  ・四條畷市:3基
  ・大東市 :2基
  ・東大阪市:5基
4.八幡道標の調査を終えて
5.編集後記

本書の販売について
・販売価格 : 900円(会員価格)
・販売場所 : 本会の行事や催し物会場などで都度販売します。
       
・委託販売所: 松花堂ミュージアムショップ
        石清水八幡宮(本殿)授与所
        
・本会での販売について
   事務局  高田昌史 宛に連絡ください。
   電 話   090-2011-7503
   メール  takata@cd6.so-net.ne.jp
   または、お近くの本会の幹事までお願いします。

・郵送販売について
   販売価格+郵送料(180円)をいただきます。
   お支払方法は下記口座あての郵便振り込みを願いします。
    申し込み: 歴探事務局 takata@cd6.so-net.ne.jp
    支払振込: 郵便振込口座番号:00970-2-322353
         (加入者名:八幡の歴史を探究する会)
    ・お願い ー 振込前にご一報下さい、早くお送りできます。

この本の発行がニュースとして京都新聞に掲載されました。
 江戸時代の八幡道標をとりまとめた冊子の発刊を記念し、冊子で取り上げている全76基の道標位置をグーグル地図上に正確にプロットした専用のマップを作成しました。道標の位置や設置場所の様子を確認する補助ツールとして、冊子と共にご利用いただければ幸いです。
 グーグル“江戸時代の八幡道標”マップへ⇒
 道標マップの御利用法はこちらに⇒
  


◆歴史と文化の本、『歴史たんけん八幡』は好評のうちに完売。

2015.9.1 大人も子供もこの一冊で、八幡の歴史と文化がよくわかる本、『歴史たんけん八幡』が発刊されました。
 発行日の9月1日にはこの本を八幡市に贈る贈呈式が行われ、その後ミュージアムショップやイベント会場で販売を行ってまいりましたが、好評のうちに販売を完了しました。
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『歴史たんけん八幡』、発刊よもやま話

f0300125_0485928.png 本会ではこの本の一年半にわたる企画から編集、発刊に至る経緯や本の概要を、シリーズ記事として会報で紹介してまいりました。
以下にその記事をリストアップしていますのでご参照ください。
(写真は制作委員会の風景です)


発刊に向けて ▼『歴史たんけん八幡』の発行にむけて
 ▼本の紹介として「特別連続講座」を開設
 ▼本の紹介としての「特別連続講座②」を開催
 ▼いよいよ『歴史たんけん八幡』の発行が迫る

発刊に寄せて ▼刊行に寄せて・・・『歴史たんけん八幡』と私
 ▼『歴史たんけん八幡』が発行されました
 ▼八幡の歴史にこの本の刊行が刻み込まれた
 ▼出版記念の集いが開かれました!
 ▼『歴史たんけん八幡』の普及と活用 / 読書感想

                    


◆本会制作の 『八幡の歴史カルタ』 を販売中です。
2013年2月に発売した《初版》は好評のうちに完売しました。現在は装いを新たにした改訂版を販売中です。

発行:2013年5月25日
販売価格:1,000円
制作:八幡の歴史を探究する会
絵札:森川 修
ケース:石瀬謙三
句:歴探会員応募作より
句の解説:歴探会員有志 (読み札の裏はその句の歴史的な解説になっています)
       
販売所:松花堂ミュージアムショップ、
・歴探事務局 takata@cd6.so-net.ne.jp
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◆本会の会報のバックナンバーを販売しています。

f0300125_15224688.jpg  ご要望が多いこともあり、会報50号を発行した記念にバックナンバーを増刷し販売しております。
  • 各号とも1部100円です。
  • 体裁は白黒A4版で、各号ともおおむね10~20ページの構成となっております。(但し古い号では10ページ未満のものもあります)
  • ご希望の方は講演会等の例会の際にお買い求め下さい。
  • また非会員の方を含め郵送をご希望の方は、下記「歴探事務局」まで希望会報の号番号、送付先等の必要事項をメールでご連絡ください。会報を10号分(部)以上まとめて購入される方の郵送料は、当会で負担させて頂きます。

    なおお支払方法は下記口座あての郵便振り込みとさせていただきます。
       申し込み: 歴探事務局 takata@cd6.so-net.ne.jp
       支払振込: 郵便振込口座番号:00970-2-322353
              (加入者名:八幡の歴史を探究する会)
       

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# by y-rekitan | 2018-12-31 14:50 | Comments(0)

◆統合版・・・集いのパンフレット

新しい集いのご案内 パンフレット集


《終了》◆歴史探訪ウォーク(12月)

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《終了》◆講演と交流の集い(10月)

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《終了》◆講演と交流の集い(8月)

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《終了》◆歴史探訪バスツアー

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◆(2017年度)八幡の歴史を学ぶ連続学習会

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《終了》◆年次総会及び講演と交流の集い

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《終了》◆会員研究発表

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《終了》◆歴史探訪ウォーク

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《終了》◆「八幡の道探究部会」展示発表

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《終了》◆講演と交流の集い(10月)

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《終了》◆講演と交流の集い(8月)

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《終了》◆歴史探訪バスツアー(6月)

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◆八幡の歴史を学ぶ連続学習会

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《終了》◆年次総会及び講演と交流の集い(4月)

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《終了》◆講演と現地探訪の集い(3月)

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《終了》◆男山考古録を読む会パートⅢ第4回

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《終了》◆講演と交流の集い(2月)

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《終了》◆講演と交流の集い(1月)

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《終了》 ◆男山考古録を読む会パートⅢ第3回(通算第11回)

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# by y-rekitan | 2018-12-31 14:00 | Comments(0)

◆コーナー・本会の概要と入会のご案内

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このコーナーでは「八幡の歴史を探究する会」の概要紹介や、入会のご案内を掲載しております。
2015.09.10 本会の沿革コーナーに追記    2015.04.21 本会の会則を更新
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 「八幡の歴史を探究する会」は2010年4月に 発足しました。
 八幡は、弥生時代の遺跡をはじめ、さまざまな古墳や、石清水八幡宮、善法律寺、正法寺、松花堂などすぐれた文化遺産に恵まれています。ところがその歴史的意義や文化的価値が必ずしも明らかにはされておらず、そこに暮らす私たち自身もその存在にすら気づいていないという現実があります。 

 そうした中で私たちは「八幡の歴史を探究する会」を設立し、①講演会、②現地見学会、③会員の研究発表、を事業の3本柱として各種イベントを開催するとともに、その活動内容を市民内外に広く知ってもらうために、「会報」を発行しております。
 私たちは関係団体や機関とも連携しながら、歴史探究の活動を通して市民の誰もが郷土の歴史と文化に誇りをもち、未来の町を築いていくことに貢献できればと願っております。
 「八幡の歴史を探究する会」 代表幹事 安立 俊夫空白

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 本会の概要や会則にご賛同いただき、ともに活動して頂ける会員を募っております。
  • 八幡市以外にお住まいの方も会員になれます。
  • 会員には、「会報」及び例会案内チラシ等を郵送いたします。
  • 会費:年会費は(4月~3月締めで)1,500円  
      10月以降入会は、1,000円、
  • お申し込みは下記の事務局までメールで、また会費の振込は下記の郵便振込みをご利用ください。
       申し込み: 歴探事務局 takata@cd6.so-net.ne.jp
       支払振込: 郵便振込口座番号:00970-2-322353 
             (加入者名:八幡の歴史を探究する会)
     

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 以下の会則(2改)は、2015年4月19日の総会にて承認された。

第1条 名称
本会は「八幡の歴史を探究する会」と称する。

第2条 目的
八幡の歴史を探究し、事業を通じて会員相互の交流を深めるとともに、地域文化の進展と次世代への継承に貢献する。

第3条 事業
1、講演会の開催
2、現地見学会の開催
3、会員の研究発表
4、会報を発行し,会員の情報交換・投稿の場とする。
5、その他第2条の目的を達成するための事業

第4条 会員
前条の趣旨に賛同する人々をもって構成する。

第5条 幹事及び幹事会
1、会員中より選任された幹事により幹事会を構成する。
2、幹事の任期は設けない。

第6条 代表幹事
幹事の中から互選により代表幹事、副代表幹事を選任する。

第7条 事務局長
1、幹事の中から互選により事務局長を選任する。
2、事務局長は幹事会を主宰する。

第8条 会議
この会の活発かつ円滑な運営を図るために、次の会議を開催する。
1、総会
   年1回開催し、会務・会計を報告するとともに必要
   事項を審議する。
2、幹事会
   必要に応じ開催し重要事項を審議する。

第9条 会費及び会計年度
1、会の運営のための年会費を徴収する。額については
  幹事会で決定する。   
2、会計年度は毎年4月1日より翌年3月31日までと
  する。 
3、会計監査は会員の中より選出し、総会にて会計監査
  報告を行う。

第10条 その他
本会則に定める以外の必要事項は幹事会で協議し、本会の必要な場合は細則を別に定める。

第11条 付則
この会則は2011年度(平成23年度)総会開催後から施行する。
   1改)2012年度(平成24年度)総会にて一部改訂。
   2改)2015年度(平成27年度)総会にて一部改訂。

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本会の沿革に代えて、ここに代表の折々の年次総括やイベント報告の記事を紹介させて頂きます。
        2015年09月 『歴史たんけん八幡』を発刊しました!
        2015年04月 2015年度の総会が開かれました
        2015年04月 発足からの5年を振り返る
        2015年03月 発足5年周年を記念し、会の旗が出来ました
        2014年06月 会報50号 発行の節目を迎え
        2014年01月 新年を迎え、5年目の節目を大切に
        2012年04月 発足以来 3年目の節目を迎えて
        2010年04月 なごやかに、探究する会が発足


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このサイトへの来訪者は先月(11月)末で46,469人となりました。

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2017.08.06…お蔭様でこのサイトへの来訪者がのべ4万人を超えました。
2017.01.10…お蔭様でこのサイトへの来訪者がのべ3万人を超えました。
2016.02.26…お蔭様でこのサイトへの来訪者がのべ2万人を超えました。
2015.06.10…お蔭様でこのサイトへの来訪者がのべ1万人を超えました。
2014.12.05…併設の歴探掲示板をリニューアルし、画像やリンクの投稿が容易になりました。
2014.11.05…開設一周年を迎え関連サイトリンクのコーナー新設、歴探掲示板へのリンク等の機能アップを実施しました。
2014.07.07…本会概要紹介やイベント案内等、本会の活動を総合的に紹介するサイトとしてリニューアルしました。
2013.11.01…本会の会報記事を紹介するブログとして発足しました。

《備考》 来訪者数は、携帯やスマートフォンを除きパソコンからの来訪のみをカウントしたものです。また同じ人が一日に何回訪れてもその日は1 回としてカウントする方式としています。

《改定》 2016.11.15よりアクセスカウントにモバイル端末からのアクセスも加えることになりました。これにより今後はカウント値が3割ほど大きくなる見込みです。

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f0300125_1548513.jpg この歴探サイトではH26年10月から「先月の記事別アクセスtop3」と称するコーナーを設け、会員の方だけでなく全国からの検索来訪を含めて1か月間のアクセスが多かった記事を紹介させて頂いております。

 おかげさまでこのサイトの掲載記事数は順調に増え続けておりますが、せっかくの熱のこもった会報記事も数が多くなり時間を経ると、昔の記事を改めて読み返す機会は少なくなるものと思われます。そこで月替わりのアクセスランキングに名を借りたこのコーナーを設け、クリックして頂くことで毎回3件のなつかしい力作記事を改めて味わっていただく機会になれば・・・ そんな思いでこのコーナーを設けておりますので、ぜひご利用ください。

《追記》 H29年1月より、アクセスtop3欄の下に“人気タグtop3”のコーナーを付設しました。毎月のアクセスが多かったタグ(キーワード)のtop3です。合わせてご利用ください。

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# by y-rekitan | 2018-12-31 13:00 | Comments(0)

八幡歴探 リンク集

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このコーナーは八幡の歴史にかかわる情報が網羅的に閲覧できるサイトや、本会に縁の深いサイトのリンク集です。


f0300125_12175720.jpg八幡市観光協会
“みどころ”コーナーの各スポットの写真と解説は圧巻です。

f0300125_21374037.jpg八幡市公式サイト/観光情報のコーナー
八幡の名勝の情報が満載。また、祭り等の動画も見られます。

f0300125_2543626.jpg枚方市公式サイト/歴史のコーナー
枚方の文化財や歴史に関する催しの情報が満載です。

f0300125_2244728.jpg城陽市公式サイト/文化財のコーナー
市内にある国、府、市の史跡、文化財が網羅されています。

f0300125_246395.jpg久御山町公式サイト/文化財のコーナー
久御山町の文化財が写真、解説付きで閲覧できます。

f0300125_23464785.jpg宇治市公式サイト/文化財のコーナー
世界遺産を含め市内にある国、府、市の史跡、文化財の一覧です。

f0300125_21385651.jpgサイト「八幡散策」の “八幡ぶらりゆく”
神社仏閣、伝説、道標等、広範囲に網羅されています。

f0300125_23474058.jpg松花堂庭園・美術館
松花堂昭乗のデータベース、催し物案内等が掲載されています。

f0300125_063725.jpg石清水八幡宮
860年に都の裏鬼門を守護する鎮護の神として創建されました。

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# by y-rekitan | 2018-12-31 12:00 | Comments(0)

◆スポット記事インデックス《続》

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60号以前の会報のスポット記事は以下の通りです。クリックで直接お読み頂けます。

“九州の横穴・近畿の横穴"  (第60号)
“二宮忠八掌話"  (第60号)
“会の旗が出来ました!"  (第60号)
“松井横穴群に学ぶ"  (第59号)
“平野山・西山はミステリー"  (第59号)
“ずいき祭り"  (第58号)
“小特集: わがまち 八幡"  (第57号)
“流れ橋存廃の意見表明"  (第56号)
“磯田道史氏の講演に学ぶ"  (第56号)
“代々つづく神原の講 =秋編="  (第55号)
“八幡森の石仏と地蔵盆"  (第54号)
“お気軽歴史講座に行きました"  (第54号)
“ひょっこり訪問記  木田醤油㈱社長”  (第53号)
“地誌には、どんなものがあるか?"  (第53号)
“松花堂庭園とその魅力"  (第52号)
“島崎藤村と八幡"  (第52号)
“神領墓地は何を語るか”  (第49号)
“水月庵 藪を抜ければ円福寺”  (第49号)
“変わりゆく橋本”  (第48号)
“芭蕉と遊女との巡合い”  (第48号)
“遊女 江口の君”  (第47号)
“八幡の浄土宗寺院にみる地蔵菩薩 ”  (第45号)
“ 三昧聖と八幡の墓地  ”  (第45号)
“ 五榜の掲示  ”  (第44号)
“個人所有重文民家の課題について ”  (第43号)
“重文「伊佐家住宅」について ”  (第43号)
“ 昭乗の下馬碑を探る ”  (第42号)
“ 京大博物館にある八幡の遺跡・遺物 ”  (第40号)
“ヌートリア考、そして「郷土囗史物語」”  (第37号)
“ 狛 犬 考 ”  (第37号)
“ 探訪会のしおりを作成して ”  (第36号)
“歴史探訪ウォーク参加記”  (第36号)
“代々続く神原の「講」”  (第36号)
“「八幡の歴史カルタ」に驚く”  (第36号)
“女坂・荒坂横穴古墳群から学んだこと”  (第35号)
“魅力的な八幡東部の集落と神社”  (第34号)
“ 二宮忠八翁と飛行神社 ”  (第31号)
“ 石清水臨時祭と平清盛 ”  (第31号)
“「八幡椿は」何処に”  (第24号)
“陣屋と鳥羽伏見の戦い”  (第22号)
“八幡八景解説奮戦記”  (第20号)
“色恋に愛づる花心ー謡曲「女郎花」”  (第20号)
“俄神人ニ成候”  (第18号)
“八角院地蔵尊の碑文を読む”  (第15号)
“長宗我部盛親が潜んだ家”  (第15号)
“「やわたものしり博士」検定にチャレンジ!”  (第10号)
“木津川・宇治川沿いの屋並みを巡る”  (第9号)


ブログトップの《スポット記事一覧》に戻ります。

# by y-rekitan | 2018-12-31 08:00 | Comments(0)

◆会報第82号より-top <スクロールだけで全記事が読めます>

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この号の会報からは現在、下記の記事が掲載されています。
このまま下にスクロールして頂くと順次連続してご参照頂けます。

この号が最新号です。

◆シリーズ:“心に引き継ぐ風景” ⑬◆
◆《講演会》森本家文書からみた近世石清水の神人構成と身分◆
◆シリーズ:“八幡の古墳と鏡”⑥◆
◆シリーズ:“「三宅安兵衛遺志」碑と八幡の歴史創出” ⑨◆
◆勅祭・石清水祭に学ぶ◆
◆第45回八幡市民文化祭展示発表報告◆



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ご意見は各記事下端のcomments欄をクリックしてお寄せください。

# by y-rekitan | 2017-11-27 15:00 | Comments(0)

◆会報第82号より-01 柏亭日記

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心に引き継ぐ風景・・・⑬



橋本へ象を見に行く・『柏亭日記』
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 江戸時代、8代将軍徳川吉宗の時にベトナムから日本に象がやってきました。大変珍しい象の一行は江戸に到着するまで、どこでも大人気で沢山の見物人であったと記録に残っています。長崎に着いた象の一行はその後大阪に到着し、京都に向けて京街道(東海道)を進みました。享保14年(1729)4月25日枚方宿を出て、伏見宿に向かいますが、休憩地の淀宿に至る途中、八幡を通過します。
 八幡宮の神人柏村直條(八幡八景選定者)が残した「柏亭日記」の中に橋本の象見物の記事がありました。
  「四月廿五日晴」 〇妻女孫共橋本へ象ヲ見物ニ罷ル
 妻女孫達は森町の家から科手道を経て橋本に入ったと思われますが、象が通過した八幡の京街道は現在、橋本東部から美豆の間が木津川と宇治川の川底になって分断されています。
 5月に入ると中御門天皇が詠んだ歌も伝わってきたようです。
  「五月五日曇、晴」   象   御製
    時しあれハ 人の国なる けたものを
    けふ九重に みるかうれしき
               
 錦市場の青物商の長男に生まれた伊藤若冲も13歳の頃、都でこの象に出会ったと伝わっており、長じて象を巧みに描いた作品が残っています。
(文と図 谷村 勉)空白


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# by y-rekitan | 2017-11-27 12:00 | Comments(0)

◆会報第82号より-02 森本家文書

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《講演会》
森本家文書からみた
近世石清水の神人構成と身分


2017年10月 八幡市文化センタ-第3会議室にて 

竹中 友里代(京都府立大学特任講師)

 
 10月15日(日)、午後1時30分より、八幡市文化センター第3会議室にて「講演と交流の集い」が行われました。表題のタイトルで京都府立大学の竹中先生に講演をしていただきました。先生は以前に八幡市教育委員会文化財保護課に勤務され文化財保護行政に当たられましたので、八幡市の文化財には精通されています。
 概要を以下に紹介いたします。当日の参加者は47名でした。


1.森本家文書 六位禰宜

 f0300125_15372114.jpg今日は江戸時代の石清水でどんな神人がいて、どんな仕事をしていたのか身分的なお話をしたいと思います。
 森本家文書については一昨年府立大学の学術報告書に掲載していて、インターネットでも見ることができます。興味のある方はご覧ください。
森本家というのは森という所を本拠地としています。
森町
男山考古録に「山路郷 檀所町の東 当地の一所森にありて、その名負いけん、今も当所の居住の社人に森本・森元なと称せり」とあり、立田牧場があった場所が森本家の屋敷跡と聞いています。
森本信魚については、「尚次若かりし時、当町森本信魚師として神道を学び道開く」と考古録の著者長濵尚次に指南した先生であったと記されています。1700年代の中頃に描かれた石清水八幡宮全図を見ると森町には多くの寺庵があります。徳川家康から朱印状を頂いている、浄土宗36ヶ組寺としては、観音寺、奥庵(大禰宜能村仲民建立)・玉樹院(森本三郎兵衛建立)・薬薗寺・瑞光寺等がみられますが、その内の薬薗寺については森本家と柏村家が寺の経営に関わるなど、江戸時代中期頃までは寺の建立にも多くの神人が関わっていました。
森本家25代信富(のぶあつ)は、自宅を森本蚕桑館とし、養蚕の研究を行い、明治23年養蚕伝習所委員となり、南山城の養蚕導入に尽力しました。なお、信富の養父信德時代に姓を森元から森本に統一しました。
森本家の文書は52点(神道伝授・祝詞・その他)が確認されていて、特筆されるのは石清水八幡宮補任状で16点が残っていて、その殆どが檀紙(縮緬様の皴がある)で格式の高い紙質です。

2.公文所

公文所とは公的文書を保管・処理する役所ですが、石清水では、天慶2年(939)三綱が設置され、それを公文所のはじめ、としています。
公文所は所司の三綱(上座・寺主・都維那)の上座に位置し、室町時代以降は上野家が代々勤めています。
年中行事・遷宮・将軍社参等の奉行を務め、山上山下僧俗諸神人の執頭であり、補任状交付や成文での神人召請、神人装束の管理を行ない、正月には立松飾・注連縄飾を行っています。
宮寺の公印、いわゆる「正印」は行教自作とされ、行教の身体と同じとして神格化され、将軍や尾張家に献上する祈祷神札には正印が使用されています。
正印は頓宮殿厨子内に保管され、祭列では御正印唐櫃として参列します。
補任状に押されている正印の数を見ると天正元年27顆、寛永11年8顆と中世の書式を踏襲したものから、寛文5年頃には正印1顆となり次第に近世的に様式化していく様が窺えます。
公文所は現在の石清水八幡宮五輪塔(重文)の南辺りにその跡地が記されていますが(石清水八幡宮全図)、寛永9年頃に倒壊したため、当時の田中家の東隣辺りに移転し(石清水八幡宮境内図)、そこで政務をとっていたと思われます。
上野家には、院専―院玉―‥‥―院秀―院芳―紀清慶(慶応4年の維新時に復飾)が確認されている。代々「院」を通字にしています。


3.石清水の外他領神人

 近隣自治体からも久御山、交野市、城陽、京田辺(駕輿丁・御綱曳・御前払・火長陣衆・駒形‥)の神人が奉仕しています。
 石清水坊領として内里村横坊30石、寺田村閼伽井坊15石、鴨川村公文所14石の所領があり、中世荘園の神領として古来より奉仕を通して石清水との関係を継続してきました。
勅祭奉仕では、百姓身分では許されない装束を着用し、村社会で特化した地位を示すことができました。
 具体的な一例として松井村の袖旗神人(御旗神人)の場合、祭礼に際して三韓征伐、神功皇后の袖を袖旗神人の長が箱に入れて奉じ、諏訪ケ原(諏訪明神勧請)で採取した榊を持って長の前後に従っています。(交野市教育委員会『石清水八幡宮放生会絵巻調査報告書』)
 松井村には、氏神の宮座(大座・新座)のほかに八幡座があり、御旗神人が石清水の祭礼奉仕後に、八幡座の頭屋の床の間に神饌・掛軸を、庭には「オヤマ」と称する(オハケ)を飾り、祝詞・拝礼をした後に直会となります。勅裁奉仕した後、村方でも祭祀を行う興味深い事例です。

 他領神人の補任状「宮寺符」は以下の時期に交付されます。
放生会(8/11)、安居神事(12/11)、御神楽(11/2)などの祭礼参勤時。
本社遷宮儀式の際。(元禄6年9月26日、安永7年7月22日)
 元禄6年9月19日には儀式の事前に社務新善法寺晃清による正遷宮儀式参勤命令、公儀普請の為検校による命令書として「宮寺政所下文」等が出されています。 
さらに不定期には家督相続の際にも交付されています。

 
4.石清水神領居住神人

 神宝所神人(神庫の管理、菖蒲革献上)・宮工司(大工)・仕丁座・宮守・神楽座・安居百姓等があり、特長としては徳川家康領知朱印状を持つことがあげられます。慶長5年5月25日付けで361通の領知朱印状が安居神事勤仕を条件に大量に発給されましたが、これは全国的にもめずらしい事例です。
 朱印状所持の神人が安居神事の頭役を勤めることになりますが、安居神事頭役には①宮寺符・安居頭役補任、②安居頭役差定「小差符」(命令書)、③堂荘厳宝樹預差定「木差符」(ご神木の許可) の3種の補任状が出されます。
 駕輿丁美豆下司神人の大森家には、家康朱印状6石8斗や補任状(寛文5~文政12年8通)、文化5年美豆村西堤で行倒人届、天保14年諸商人商物値段書(天保改革による諸品の値下げ)、町法度倹約之事等の古文書が伝わっています。
 八幡宮外四郷の内、大坂(京)への街道沿いの淀大橋の橋詰にあった美豆村は、元美豆村から町美豆へと発展しましたが(石清水八幡宮全図)、大森家は村の年寄として、村政に関わる神人でした。

5.六位禰宜

f0300125_16433735.jpg 森本家は、朱印状源左衛門6石9斗8升ですが、別家に朱印状与次郎48石7斗6升があり、役割として神前瑞垣の内で神官を補佐していました。
 同様に神官を補佐する四座神人(他姓・六位・大禰宜・小禰宜)の内、大禰宜の能村氏は「放生会の時、御こしの戸口を符申候御倉の鑰(かぎ)の役」、小禰宜の奥村氏は「御供を宮守より請取、六位他姓へ渡申、神輿をかさり申候御役人にて御座候」とあり、宮守が用意した神供を禰宜から受取り神前に供える役割を担っていました。
 
 神道伝授について、明和9年(1772)白川伯王家神道門人の小川玄蕃より、鳴弦の儀が森本家に伝授されています。
 また寛政4年(1792)武末霊社(社務田中要清)百年忌に際しては、吉田神道家吉田良倶より三壇妙行の神道儀式を伝授された田中養清に森元信良が従っており、森本家が神道祭祀に詳しい家であることが判ります。
 信恵(信魚)は天明8年(1788)新賀差定により神職神人身分を得、翌寛政元(1789)斎服免許を受けました。また文化14年(1817)息信邑へ家督を譲るに当り社務検校善法寺立清・田中家・新善法寺家へ挨拶と進物を行っています。
 公文所・兼官からは公文所安居頭人補任状(宮寺符)、斎服免許状〈裃着用にて受取る〉、社務(長吏)の袖印を受け、検知の紀直養からは新賀差定を受けて、神官としての神人身分の証を得〈狩衣着用にて受取る〉、放生会・御神楽・遷宮では神官系神人として勤仕しています。嘉永6年の放生会においては森本内蔵助・駿河一・二の鳳輦御太刀持ちをしています。

6.検知 

 神官三家(俗別当・神主・検知)は、紀氏が世襲し、鳳輦にそれぞれ供奉します。
 神前での祝詞奏上を三家が行います。
 俗別当家は慶安5年(1652)以降徐々に衰退していったようですが、詳しくは俗別当家の文書が出てきていないのでよく判りません。f0300125_1741196.jpg
 検知家代々としては紀朝臣検知氏家―検知大夫紀宿祢豊親―公豊―土佐守紀季豊―土佐守紀豊高―若狭守紀豊房―従五位下若狭守紀直養(正四位下近江守紀朝臣直養)―従五位上筑後守紀豊興が確認できます。
 補任状交付の謝礼金が収入源であり、豊かな神人からの援助もあったようです。

7.神官系神人の系譜と身分構造

 僧形の社務検校が神領全体を支配しますが、別当が検校補任によって当職となり、三家廻職により将軍代替り毎に交替します。
 石清水の役所としては所司という事務方が存在し、以下の構成となっていました。
 ・公文所:僧官の上野家が担当。
 ・絵所:僧官の藤木家(善法寺家の家臣)が担当。
 ・判官:俗官の片岡家(田中家の家臣)が担当。
 ・御馬所:俗官の今橋家(新善法寺家の家臣)が担当。
 ・巡検勾当:近世には俗官の小笹家、花井家、片岡家などが担当。
 また検校に付属する兼官の職があり、訴訟や幕府からの触れや事務連絡の窓口となり統治の実務を統括していました。藤木・片岡・今橋家が勤めましたが、社務家家臣、判官などの事務方や検校の秘書的役割を兼ね、検校交代と同時に兼官職も交代しています。
8.むすびにかえて

 公文所からは宮寺符の補任状、検知からも新賀差定・補任状等が交付され、神人が勤仕する儀式・補任状の種別によりにより、以下の神仏の身分的分別がありました。
僧侶系:別当・権別当修理別当 四十八坊‥‥承仕
公文所 安居本頭神人・安居脇頭神人・安居百姓‥‥他領神人
神官系:俗別当・神主・検知 四座・宮守…仕丁

 文化9年(1812)長濱尚次が本殿修復作業に着手する儀式で祭文を読み上げましたが、若干19歳の尚次に大工棟梁としての祭文作成や祭儀の次第等の手ほどきをしたのは森本家でした。森本信德は明治に入って神仏分離の困難な時代に主典として八幡宮の再生に尽力し、また森本信富は南山城に養蚕事業を導入するなど、森本家も代々八幡に大きな足跡を残しました。
以上 (文責 谷村勉)一一


『一口感想』より

今日のお話にもとづいて、神幸之図を見てみたいと思います。
(B.K.)
江戸時代八幡森に足跡を残した人がいたことがわかりました。私が住んでいる所が家田町、田中町の東となりです。もしかしたら、公文所のあった場所の上に私の家が建っているかも知れません。勅祭のこともわかりました。今は神人役がいないので大変です。八幡のことを再発見しました。用事が重なり参加出来ないことが多いですが、時間が空けば勉強させていただきます。
(T.M.)
今日のお話はちょっとむつかしい。また、ちがう切口、観点でお話が聞きたい。有り難うございました。
(K.T.)


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# by y-rekitan | 2017-11-27 11:00 | Comments(0)

◆会報第82号より-03 古墳と鏡⑥

シリーズ 「八幡の古墳と鏡」・・・⑥


八幡の古墳と鏡(6)


-王塚古墳とその副葬品の謎 -


濵田 博道 (会員)


はじめに 

 美濃山の王塚古墳の伝承について聞かれた方があるかもしれません。例えば、「継体天皇(6世紀前半、在位507~531?年)の陵墓である」あるいは「鳥羽天皇(1103~1156年、在位1107~1123年)の後宮美濃局の墳墓である」と。本当でしょうか。また、王塚古墳から八幡市内最多の13枚の古鏡出土と伝えられていますが、事実はどうでしょうか。さらに1927年(昭和2年)京都大学考古学教室へ「山城八幡大塚・・発見」品として、13の木箱に入った鉄製武器・武具類・土器などが寄贈されていますが、これらは王塚古墳出土品なのでしょうか。八幡地域では王塚古墳を最後に、50mを超える前方後円墳は築造されなくなります。なぜでしょうか。今回は謎の多い王塚古墳について考えてみます。

王塚古墳とは

 王塚古墳は宝寿院(ほうじゅいん)建立、その整地、竹林の土取り、民間人による発掘などのため大きく変形し、現在その面影をとどめていません。2010年までは円墳と認識されていました。大正9年(1920年)京都府発行の梅原末治「美濃山ノ古墳」『京都府史蹟勝地調査会報告第二冊』に概略次のように記述されています。

f0300125_15323199.jpg “綴喜郡有智郷村大字美濃山は八幡市志水の南に接して、木津川の西方、河内との境にある高台の一部を占める。この地には、昔の墳墓が少なくない。中でも最も有力なのは王塚古墳で、美濃山本郷の部落の東南隅にある。古墳は眺望のよい高台の端にある円墳(現在は前方後円墳と確認)である。”
 “その(後)円部について封土の直径は54mを超え、現存最高部の高さは9m程である。周囲は一段低くなっており、殊に南西の部分は、幅5~7mあって湟(ほり、堀)の跡かと思われる。大正4年(1915年)の頃、この古墳を発掘して、封土を縦断。基底部に達して、古墳は大きく変形している。頂部の中央に径7.2m、深さ1m前後の凹んだ所があるのは発掘によるものと思われ、その表面は小石を葺いた跡がある。封土の頂部を円筒埴輪列で取り囲んでいたが破壊の結果ほとんど見当たらない。西村芳次郎氏が埴輪の破断を所蔵していていたので存在は間違いない。”
 2005年~2008年にかけ八幡市教育委員会により範囲確認調査が行われ、その結果東側のくびれ部と埴輪列を伴う前方部一段目平坦面を確認したことにより前方後円墳であること、円部墳丘径は約62m、古墳全長は76m以上。古墳の築造年代は、出土した埴輪や副葬品から古墳時代中期前葉~中葉頃(400年代前葉~半ばごろ)であることが明らかになりました(注1)。この報告から時代的にみて継体天皇陵説や平安後期の美濃局の墳墓説は否定されます。ちなみに、継体天皇の陵墓は宮内庁では茨木市の大田茶臼山古墳と比定されていますが、高槻市の今城塚古墳を真陵とするのが定説です。美濃局の墳墓の所在地は不明です。

王塚古墳の埋葬施設と副葬品

 さらに梅原氏の記述を要約すると、次のようになります。
“内部の構造は古くから頂部に凹んだ所があって主要部は破壊されていたが、大正4年(1915年)の発掘で、封土頂部の北西端近くで地下60cm内外に粘土層があり、遺物を発見。埋葬状態の詳細は当時正確な調査を行える者がいなかったので不明だが、これを実見していた西村氏の略図によると、遺物は東西に長く埋納されていて、その施設は7.3m、幅は約1.8m。中央に冑(かぶと)、その両側に十数口の刀剣、鏃の類。東方の剣に接して漢鏡一面、玉類、兜(かぶと)一個。兜の東に鉄鏃、東南に鎧(よろい)一領。西方の刀剣の西には同じく兜一個、鏃などがあり、左右均勢の状態。四隅には斧頭各一個。武器類は特に豊富。これにより被葬者は男子だと推定。鏡は面径13.6cmの二神二獣鏡が出土。香川県香川郡鶴市御殿山の積石塚から出土した獣形鏡と同一手法。中国での製作を示す銘文があるが、五世紀のものと認められる。”
この記述から埋葬施設は後円部頂部と北西端の計二基と考えられます。

王塚古墳出土の武具・武器・鉄鏃

 昭和2年(1927年)9月「山城八幡大塚・・発見」品として13の木箱が京大考古学教室へ寄贈されました。京大総合博物館では1997年春の企画展「王者の武装-5世紀の金工技術」においてこれらの品々の一部を展示し、図録で6ページにわたって解説と写真を載せています。しかし、13の木箱の遺物には明らかに時期を異にするものも含まれており、すべてが同じ古墳から出土したものかどうかわからないといいます。また、元所有者(西村芳次郎氏)は東車塚古墳の遺物も所有しており、「大塚出土品」には梅原末治氏による「東車塚古墳」報告の出土品と掲載された鉄器が含まれていること。東車塚古墳では鏡以外の遺物については詳細不明で現在も不明なこと。よって、「大塚出土品は東車塚古墳出土品に当たり、その中に王塚古墳出土品が混在している」との見解を示しています。
これに対し、2010年八幡市教委発行『八幡市埋蔵文化財発掘調査報告書 第54集』では「(木箱には東車塚古墳の出土品も混じっているが)遺物の多くは王塚古墳出土と考えられる」としています。その理由として①王塚古墳の所在地は字美濃山小字大塚であり、資料名は王塚古墳の小字による可能性が高い。当時、既に東車塚古墳、王塚古墳の報告書があるので、東車塚古墳のことを単に「大塚」とするとは考えにくい。②末永雅雄『日本上代の甲冑』(1934)に、「八幡町大塚古墳出土」として東車塚は「衝角付冑(しょうかくつきかぶと)、短甲(たんこう)」、王塚は「衝角付冑(三角板革綴(かわとじ))、短甲頸鎧(くびよろい)、肩鎧(かたよろい)、草摺(くさずり)」と分けて記述されている。これらは京大所蔵資料と符合する。③冑甲は大正4年の西村氏による王塚発掘実見数と京大所蔵資料と矛盾しないことを挙げています。そして「甲冑は王塚古墳のものと推測されるが、武器・農工具類は東車塚古墳出土品混入の可能性が高い」としています。(八幡市民図書館に『報告書』有。)意見が分かれています。
 西村氏は当時、京大考古学教室の梅原末治氏、末永雅雄氏、島田貞彦氏らと交流がありました。(後に末永氏は関西大学教授、橿原考古学研究所所長、文化勲章受章、「考古学の巨星」といわれました。島田氏は京都大学教授。)末永氏は著書で次のように述べています。「昭和2年の夏か秋と記憶をするが、京都府山城八幡付近の横穴調査の実習に出かけたことがあった。八幡からよく考古学教室に来られた西村芳次郎氏の家で泊めて頂いたときに、八幡大塚出土で石油箱一杯の鉄製品破片があり、それがほとんど短甲関係であった。」「私は箱の中から目ぼしいものを選別して持って帰り、教室で整理をはじめた。その中に細片だが、亀甲形の小さな鉄製品があったので、その形を詳しく見ると、胴部に四個の小穿孔(しょうせんこう)があり、少し開いた一方に三脚らしいものの折れたあとが残るので、これは何らかの装具とみるべきだとして、はじめて三尾鉄(さんびてつ)(注2)の存在を知った。」(注3)
 末永氏が西村氏から貰った遺品類は時期的に見ても現在の京大考古学教室所蔵の「八幡大塚・・発見品」と推定され、その品々の中から末永氏が冑の三尾鉄を発見、上代の武器武具の研究に貢献しました。木箱の鉄鋌(てつてい)には紐を掛けて束ねた跡があり、鉄鋌の大量副葬は朝鮮半島の新羅や伽耶の地域の古墳で盛んに行われた風習であること、革綴冑が朝鮮半島南部の古墳から多数出土していること(京大博図録)から、朝鮮半島南部の勢力との関連が考えられています。5世紀の国内製鉄遺跡は発見されておらず(最初の製鉄遺跡は6世紀後半)、鉄製品の元となる鉄鋌は朝鮮半島南部からの輸入品です。その入手に八幡の勢力がどうかかわっていたのか興味深いところです。

(伝)王塚古墳出土の筒型銅器

 次に(伝)出土品とされるものに筒型銅器(つつがたどうき)があります。
「(筒型銅器とは)長さ10cm程度の筒状をなす青銅製品。一端がふさがり、他方には目釘(めくぎ)孔を伴う。普通四方に細長い透かし孔を2段に開ける。用途は不明だが、杖頭(つえがしら)や柄頭(つかがしら)もしくは石突(いしづき)[柄の端を包んだ金具]として用いられたと推定されている。内部に棒状のものが入る例もあり、鈴としての役割を果たしていたらしい。前期古墳から出土するが、朝鮮半島でも金海大成洞(きんかいたいせいどう)古墳群をはじめ、洛東江(らくとうこう)流域に分布し、もとはこの地域で製作されたという説がある。」(『日本歴史大辞典』小学館)
筒型銅器は王権の威信財とされ近年注目されています。韓国・伽耶(かや)地方の古墳から68本、日本では前期半ば~中期前半の古墳から73本出土しています(注4)。(伝)王塚古墳出土の筒型銅器は松浦武四郎氏の『雲烟過眼録』に、美濃山出土として「中国の鐓(いしづき)に相当する筒形の銅製品」として載っています。前期古墳からの出土が多く、中期の古墳から出土するのは稀で、八幡では唯一の出土品です。

(伝)美濃山の古墳出土鏡

 梅原氏は “地元の人からの古伝は何もなく不明だが、神田孝平男氏所集の『東堂雑集二』に八幡美濃山からの出土鏡の記述がある”と述べています。この書に「天保六年(1835年)四月城州(山城国)八幡美濃山掘出古鏡」として虁鳳鏡(きほうきょう)1、内行花文鏡3、方格規矩鏡(ほうかくきくきょう)2、半円方形帯渦文鏡2、半円方形帯神獣鏡1、鼂龍鏡(だりゅうきょう)2、変形神獣鏡1の計12枚の鏡が記録され図版が載っており、大正4年出土の二神二獣鏡と合わせると、鏡は13枚になります。(しかし、すべて現物はありません。)これらの鏡がなぜ王塚古墳出土といえるのか。梅原氏は美濃山でこれほど多量の鏡を副葬するのは王塚古墳しか考えられないといい、以後、鏡は王塚古墳出土(推定)とされてきました。

f0300125_1530957.jpg しかし、前掲の八幡市教委『報告書』では、“天保六年出土と伝わる鏡12面は拓本だけが収載されているが、出土地については「美濃山」と記録されているだけで、王塚古墳の出土品と限定することはできない。王塚古墳の南西100mには、朱を伴う主体部が出土したと伝えられる小塚古墳の存在も知られているし、美濃山の丘陵裾から北西の大字・内里にかけては、開発により早くに失われた古墳もあって慎重な姿勢が必要であり、王塚古墳出土とは限定できないだろう。”と疑問を呈しています。
 確かに美濃山・内里地域には、王塚古墳・小塚古墳の他にも鏡が出土したとされる三ツ塚古墳や内里古墳、東京国立博物館に獣形鏡が所蔵されている西ノ口古墳、東二子塚・西二子塚古墳、さらに御毛通古墳、柿谷古墳、内里池南古墳、女谷・荒坂地域には多くの横穴墓があります。しかし、これらの古墳の中には開発や竹林の土取り・土入れなどで消滅しているものも多く(東二子塚古墳は美濃山幸水の史跡公園に復元、柿谷古墳・横穴墓については発掘)、古伝もなく、12枚の鏡とこれらの古墳の関連は不明です。いずれにしても、これらの鏡が美濃山・内里地域の古墳から出土したことは間違いなく、この地域は八幡の古墳時代を解明する鍵を握っているといえます。

(伝)王塚古墳出土鏡

 梅原氏は(伝)王塚古墳鏡を概観して、“日本で製作されたもので、種々の形式を含んでいる。鏡の種類は多様で、その各原型の年代は必ずしも一致しないが、これをまとめてみた時、何れも相接する時期に製作したものと見るのがよく、その製作年代としては中国の六朝初期より中期(3~5世紀)にわたる時期だろう”(前掲書要約)と述べています。

①虁鳳鏡(きほうきょう)
 日本では虁鳳鏡の出土数は全国で約30枚と少なく、京都府下では2枚(八幡市と城陽市上大谷6号墳鏡)が確認されています(注5)。それだけに貴重です。虁鳳鏡は次のように解説されています。
「虁鳳鏡(きほうきょう) 裏面に鳳凰が翼を広げたように見える竜形の文様をつけた青銅鏡をいう。後漢のものが多い。虁(き)というのは竜のようで一本足、また牛のようで角がなく、水に出入りすると風雨あり、その光は日月のごとく、声は雷のようだといわれている。中国では漢代から六朝時代の墳墓、朝鮮では楽浪古墳、日本では弥生時代の遺跡あるいは古墳からも出土している。」(ブリタニカ国際大百科事典)
 中国を代表する考古学者王仲朱氏は虁鳳鏡を卑弥呼の鏡百枚の一つであるといいます。「河南省の洛南を中心とする中国の黄河流域の各地で出土した二世紀の後漢、三世紀の魏晋期の銅鏡の種類から判断すると、魏王朝が卑弥呼に賜った百枚の銅鏡は、『方格規矩鏡』『内行花紋(花文)鏡』『獣首鏡』『虁鳳鏡』『双頭竜文鏡』、それに『位至三公鏡』などであるに違いありません」(注6)というのです。
 前掲書で梅原氏も(伝)王塚古墳出土の“長宜子孫(銘)虁鳳鏡は最初に紹介すべき遺品で、日本の古墳から出土するのは稀である。径12.7cm、紐座より四葉紋(しようもん)を出し内区を四つに分け、その文様間に長宜子孫(ちょうぎしそん)の銘がある。」と述べています。梅原氏は仿製鏡(ぼうせいきょう)であるといいますが、『鏡と古墳』(京都府山城郷土資料館ら, 1987)では舶載鏡としています。

②内行花文鏡
 内行花文鏡は3枚あり、うち1枚は「君宜高官(くんぎこうかん)(君、高官に宜しい)」銘の鏡です。梅原氏は「この鏡は出土の際、破砕したとみえ、拓本では周縁がことごとく欠け、残存しているのは内区のみである。従って原形は明らかでないが復元すると面径約15.2cmである」(前掲書要約)と述べています。現在は「欠損11.5cm」(注4)、舶載鏡(『鏡と古墳』)と報告されています。
 紐(まん中のつまみ)のまわりに蝙蝠(こうもり)のような文様があり蝙蝠紐座(こうもりちゅうざ)内行花文鏡と呼ばれています。東車塚古墳から出土しているのは四葉紐座(しようちゅうざ)内行花文鏡といい、同じ内行花文鏡でも紐まわりの文様が違います。時代的に見て、四葉紐座の文様は長い期間作られます。両方とも弥生時代の鏡ですが、蝙蝠紐座は相対的にやや新しく、九州地方の弥生時代の遺跡をはじめ26枚しか出土していません。「長宜子孫」の銘文が入っているものが多いですが、(伝)王塚鏡は、「君宜高官」銘です。安本美典氏は卑弥呼の鏡の一つだと述べています(注7)。
 残りの10枚の鏡のうち、1枚は舶載の方格規矩四獣鏡で、9枚は仿製鏡とされていますが、今回は紙数の関係で割愛します。虁鳳鏡にせよ内行花文鏡にせよ、(伝)王塚古墳鏡の2枚が卑弥呼の鏡の候補とされていることは注目されます。
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王塚古墳以後の八幡地域の古墳について

 八幡地域ではこの古墳を最後に大形の前方後円墳が造られなくなります。その後は、大芝古墳や東・西二子塚古墳、柿谷古墳など小規模な円墳・方墳が築造される程度で、大規模な古墳の築造は木津川右岸・城陽市の久津川古墳群の地域に移っていきます。右岸も交通の要衝にあり、そこがヤマト王権の重要拠点になります。なぜ八幡で古墳が築造されなくなるのか。衰退の理由の一つとして、農地などの拡大ができなかったのではないか、といわれています(注8)。確かに弥生時代から内里八丁遺跡の田圃跡など農業生産がおこなわれていましたが、大規模な灌漑工事などの跡は見つかっていません。標高もそれほど高くなく、平野も限られ、大河川傍であるため、ひとたび洪水が起これば農業は大打撃を受けました。それに引き換え木津川右岸地域は八幡地域より標高が高く、『日本書紀』仁徳天皇12年(5世紀はじめ)10月の条に「栗隅県(くりくまのあがた)(城陽市・宇治市にかかる広範な地域)に大溝を掘って田に水を引き、これによってその土地の人々は毎年豊かになった」との記事があります。十分な標高、広い土地の開拓、交通の要衝などが揃います。理由の二つ目として、王権の政変の中で衰退したことが考えられます。左岸地域は佐紀盾列(曾布)の王権勢力と密接な関わりがありました。八幡の古墳から威信財の鏡、腕輪型石製品、刀剣、鉄類などが出土しています。しかし、ヤマト王権内部の主導権も時代を追い、大和東南部・佐紀盾列→河内の百舌鳥・古市の勢力へと変化していきます。魏・東晋が衰退し楽浪郡・帯方郡が滅びると大和東南部の勢力は衰退し、替わって鉄の獲得などで朝鮮半島南部との交渉にあたっていた政権内部の河内の勢力(百舌鳥・古市の勢力)が台頭し、内部での王権の移動が起きます。こうした中、八幡の勢力は新・旧の王権への対応に混乱が生じ、新勢力と連携ができなかったのではないかと推察されます。都出比呂志氏は次のように述べています。
 “巨大前方後円墳が大和盆地東南部から、大和盆地北部へ、そして河内へと移動した四世紀末から五世紀初頭、日本列島の多くの地域でも古墳の動向に大きな変化が生じる。瀬戸内沿岸や日本海沿岸に大前方後円墳が築造される。そして武器や武具の発達が顕著になる。三角板革綴短甲とよぶヨロイが各地の首長間に急速に普及する。これらの首長たちは、この時期の朝鮮半島の政治的緊張に備えて倭政権の中枢が同盟を結んだ有力な地方首長であるか、畿内中枢からの派遣者であった可能性がある。一方、それまである系譜が前方後円墳を代々築いてきたのに、古墳を築造しなくなったり、円墳しか造らなくなったりすると同時に、このような変化のあった系譜のすぐ近隣の、別の系譜の首長一族が大きな前方後円墳を築造するという変動が起こる。これは、一つの地域を治める首長が交代したことを意味し、一地域のみの独立した動きではなく、列島規模で一斉に起きていること、巨大前方後円墳が大和から河内に移動する時期であることを重視すると、列島規模の政変と考えるべきであり、大和を根拠地とした政権中枢が河内に拠点をもつ政権中枢とそれを支える別の地方有力首長の同盟により政治的イ二シャティブを奪われたと考えることができる”(要約)(注9)
 つまりこうした情勢の中で、木津川左岸の八幡の勢力も政変の中で衰退し、右岸の久津川車塚の勢力にとって代わられたのではないかと考えられるのです。
次回は、「ヒル塚古墳について」考えてみます。


(注1)八幡市教育委員会『八幡市埋蔵文化財発掘調査報告書 第54集
王塚古墳範囲確認発掘調査(第1~3次)報告書』,2010
(注2)冑の頂に飾りとして付けられた尾が三つに分かれた鉄器。分かれた部分に羽毛が付く。身分の高いことを表したものか?呪術的な要素有か?
(注3)『末永雅雄著作集5 遺跡調査と大和・河内』,雄山閣,1990,P234~P235
(注4)田中晋作『筒型銅器と政権交替』,学生社,2009
(注5)『国立歴史民俗博物館研究報告 第56集』,1994
(注6)『三角縁神獣鏡と邪馬台国』梓書院、1997
中国を代表する考古学者である徐苹芳氏も次のように述べています。
「幅広い調査発掘の成果によって、魏及び西晋時代の中国北方の銅鏡は、ことごとく方格規矩鏡・内行花紋鏡・獣首鏡・虁鳳鏡・盤龍鏡・双頭竜鳳凰文鏡・位至三公鏡・鳥文鏡などであることが立証されました。よって、わたくしたちは、邪馬台国の女王卑弥呼や、その後継者が中国から得たところの銅鏡は、以上挙げた種類の範囲を超えることはあり得ないと考えるのです。」(『三角縁神獣鏡の謎』角川書店、1985)
(注7)安本美典『「邪馬台国畿内説」徹底批判』,勉誠出版,2009
(注8)『八幡市誌第一巻』,八幡市,1986
(注9)都出比呂志『古代国家はいつ成立したか』,岩波新書,2011
都出比呂志『NHK人間大学 古代国家の胎動』,日本放送出版協会,1998


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# by y-rekitan | 2017-11-27 10:00 | Comments(0)

◆会報第82号より-04 三宅碑⑨

《続》 2016年1月度の講演会より

『三宅安兵衛遺志』碑と八幡の歴史創出
その9

―松花堂・東高野街道・天皇聖蹟・綴喜郡―

中村 武生  (京都女子大学、天理大学非常勤講師)


(二)建設地選択に影響された文献

 次に西村芳次郎の建碑地選択基準は何であったかを検討します。まず参考としたと思われる主たる文献を二点指摘できます。
 1つ目は、1908年刊行の『山城綴喜郡誌』です。その「第六編名趾城堡」及び「第一〇編古墳」「第一一編伝説」で取り上げられた項目を列挙してみましょう(表3)。これと表1(※)および表2(※)と比べて見ますと、類似の項目が多く含まれていることが気づかれます。(※)表1及び表2は会報79号の「その8」に掲載)
表3『山城綴喜郡誌』 第六編名趾城堡、
第一〇編古墳、第一一編伝説、項目一覧

第六編 名趾城堡

 第一章 名所
1.雄徳山(又男山云ふ)、2.鳩嶺附狩尾山、3.石清水、4.香爐峯馬場、5.月弓岡、6.細橋、7.猪鼻坂、8.大阪自字平谷相槌稲荷社至本宮坂路也、9.放生川在頓宮東、10.かへらずの橋、11.伏拝松、12.夫婦石、13.七井、14.筒城野(又曰筒城之原)、15.筒城岡、16.玉川、17.山吹山、18.青谷梅林

 第二章 旧蹟
19.護国寺、20.宝塔院、21.大塔、22.愛染明王堂、23.開山堂、24.太子堂、25.瀧本坊附松花堂、26.山の井、27.絹屋殿趾、28.高良社、29.極楽寺、30.神宮寺、31.高橋、32.安居橋、33.橋本津及橋、34.意足軒、35.塩竃跡、36.足立寺、37.降宮跡、38.筒城都跡、39.玉の井頓宮、40.蛙冢、41.下紐、42.駒岩、43.玉の井、44.岩橋、45.井手山、46.推尾山観音寺、47.御栗山、48.御邸(大院馬場小院馬場)字高尾に在り、49.温泉趾、50.石童山、51.禅定寺峠関所趾、52.医王教寺旧蹟、53.行在所、

 第三章 城趾
54.内山城、55.天王山城、56.井出城、57.城山、58.山口城、59.岩本城、60.橋本陣屋

 第四章 古戦場
61.如法経塚、62.佐羅科、63.洞ヶ峠、64.狐川の陣、65.八幡山上山下の陣及び八幡宮炎上の事、66.梨間の宿

第一〇編 古墳

67.大石塔、68.大河内秀元之墓、69.車塚、70.上臈墓、71.桃井塚(或曰経塚)、72.小野杜冢、73.一休禅師廟、74.佐河田壺斎黙々叟墓、75.三村五郎墓、76.穴山梅雪之墓、77.近衛基通公憤、78.橘諸兄公憤、79.小野小町憤、80.田原又太郎忠綱墓、81.信西入道之墓、82.莵皇子憤、83.曽保利曾々保利の旧蹟(椀子の王墳、桜井王の墳、上殖葉皇子墳神前王女墳、神魂の丘、酒屋連墳、仲皇子墳、姫皇女墳―中村武生注)、84.美努王墳、85.美濃局憤、86.長谷川肥前守橘清福墓、87.下岡正康及同正詮の墓

第一一編 伝説

88.小えのゝ池(井手村)、89.玉水(井手村)、90.蛙、91.中道、92.下露の跡、93.玉井山荘(井手村)、94.高坊、95.男山中絶末社、96.新勝院、97.任覚坊、98.財園院、99.山瀧寺、100.弘法寺、101.相楽別業、102.井隄寺、103.虚空蔵堂、104.多賀城趾、105.浅井城趾、106.田原天皇祠、107.諸兄公山荘(井手村)、108.大光明寺、109.于貫岩、110.腰掛名号、111.美女石、112.神輿流失、113.艮の鬼門坤の鬼門、114.さじか谷の里謡、115.竹の由来、116.楠及び鳩の由来

 それはたんに項目名だけではありません。西村の著作の解説文(八幡史蹟名勝記ほか)の内容も、『山城綴喜郡誌』のそれとほぼ同一か、一部を抄出したにすぎません。例えば「大河内秀元墓」についての『山城綴喜郡誌』と西村執筆の「八幡史蹟名勝誌」の記載内容を比較してみます。

A『山城綴喜郡誌』(三六八頁)
 大河内秀元之墓
八幡町大字八幡荘鎮西派浄土宗正福寺内に在り、碑銘に云、興龍院前光録性成也、大居士 寛文六年七月二十日卒 云々とあり。
伝云、大河内茂右衛門尉秀元源三位頼政卿十九世之孫也父善兵衛尉政綱母大久保忠世妹慶長二年朝鮮之役太田飛騨守に属して南原城攻の先登し城将慶州判官を斬り、而して蔚山籠城に功あり、元和元年大阪の役に、井伊家の先鉾となり、城兵を若江に破り、河崎和泉守を斬りて、其従騎二人を擒にす、其後彦根を去て、山城八幡に住し、近衛関白信尋公の執奏を辱ふして、従五位下大膳太夫に任せりと云ふ。(傍線―中村)

B西村芳次郎「八幡史蹟名勝誌」
大河内秀元墓 正福寺
(略)一墳墓 大阪城元和役井伊侯ノ先鉾トナリ功アリ、其后井伊家去リ八幡ニ住シ近衛鷹山公ヲ執奏ヲ辱ヲシ従五位下大膳太夫トナリ。寛文六年七月没ス。是大河内秀元ナリ。此所埋ム。

 一見して「八幡史蹟名勝誌」の記載が、『山城綴喜郡誌』のそれの抄文であると理解できるでしょう。三宅碑建立地選択に『山城綴喜郡誌』の情報は大きく影響したといえます。
 なお八幡地域の地誌としては、嘉永元年春(1848年)成立の長浜尚次『男山考古録』を無視できません。『山城綴喜郡誌』にも一部が引用されていますし、芳次郎も目にしていました。ただし刊行されたのは昭和戦後で、芳次郎の没後です。おそらく写本などを入手していたのではないでしょうか。しかしその内容については頗る不満であったようで、自身の著作のなかで多く辛辣な批判をしています。それゆえ存在を意識していたことは確実ですが、建碑地選択の直接の根拠にはならなかったと判断されます。
 2つ目は『京都府史蹟勝地調査会報告』(のち『京都府史蹟名勝天然紀念物調査報告』)全20冊です。同書に取り上げられた史蹟・名勝のうち、20件に三宅碑が建立されています(表4)。

表4『京都府史蹟勝地調査会報告』(『京都府史蹟名勝天然紀念物調査報告』)の論文のうち三宅碑建立地と関連すると思われるもの。
執筆者の略称は以下。梅原末治〈梅〉、魚澄惣五郎〈魚〉、西田直二郎〈西〉、
中村直勝〈中〉、佐藤虎雄〈佐〉。

第1冊(1919年)
 八幡町西車塚〈梅〉、泉橋寺〈梅〉、高麗寺址〈梅〉

第2冊(1920年)
 美濃山ノ古墳〈梅〉、飯ノ岡ノ古墳〈梅〉

第3冊(1922年)
 淀城址〈魚〉、神童寺〈魚〉

第4冊(1923年)
 井手寺址〈梅〉、銭司ノ遺跡〈梅〉、瓶原国分寺址〈梅〉、綴喜郡八幡町
 茶臼山古墳〈梅〉

第6冊(1925年)
 法勝寺ノ遺址〈西〉

第8冊(1927年)
 禅定寺〈中〉

第10冊(1929年)
 美濃山の横穴〈佐〉

第11冊(1930年)
 笠置山の史蹟及び名勝〈佐〉、法華寺野の遺蹟〈佐〉

第12冊(1931年)
 朱智神社〈佐〉

第13冊(1932年)
 東車塚庭園〈佐〉、山瀧寺遺蹟〈佐〉

第19冊(1939年)
 高麗寺阯の調査〈梅〉

 同書は1917年7月創立の京都府史蹟勝地調査会の調査成果で、京都帝国大学国史学教室及び考古学教室の教員・教室員等によって執筆されています。芳次郎が同大学国史学・考古学両教室関係者と親しく関わっていたことはすでに述べました。城南の三宅碑の建立地として実に玄人跣な場所が選ばれているのは、この書、もしくはこれに関わった京都帝大両教室関係者からの情報に依拠しているからでしょう。
 ただし三宅清治郎が主に建碑を行った、京都市およびその近接地域では、同書の同地域の旧蹟地がほとんど選ばれていないことは注意を要します。例えば同書は聚楽城(聚楽第)跡、西寺跡、洛中惣構土居堀(「御土居」)、山科本願寺跡、等持寺跡、船岡山城跡などを取り上げています。聚楽城跡や洛中惣構土居堀には京都市教育会が1915年11月などに建碑しているため別にしても(拙著『京都の江戸時代をあるく』)、その他の旧蹟には当時全く建碑されていませんでした。建碑の意味はあったはずです。それにもかかわらず実現していないのは、三宅清治郎の身近には京都帝国大学の国史学や考古学関係者がなく、〈史蹟〉への建碑意識がもちにくかったことがうかがわれます。
 なお建碑地と密接に関わると思われる『京都府史蹟名勝天然紀念物調査報告』所収論文の多くは、佐藤虎雄執筆によるものであることを指摘しておきます。そのなかには芳次郎邸である「東車塚庭園」が含まれているほか、佐藤はのち芳次郎の負債にともない同所が差し押さえられた際、仮史蹟に指定し消失の危険を回避した京都府の旧蹟保存の実務担当者でした。これは後述します。

(三)道標

 ではこの2著などを参考に、建立地としていったい何が選ばれたのか、その対象及び場所の特徴を検討します。
f0300125_13103045.jpg まず当時存在していた寺社とは直接には無縁の紀念物(史蹟)への建碑が多くなされています。前述しましたように芳次郎が建碑にかかわる1926年以前には、古墳、古戦場、廃寺跡などへの建碑はほとんどなく、大半が当時存在していた寺社やそれに付属するものに建碑されていました。例えば「名古曾の滝」は大覚寺に付属したものです。一般に三宅碑イコール史蹟碑という印象があるかと思います。これまで当然のことのように三宅安兵衛もしくは清治郎が建立地の選択も行ったと理解されてきました。しかし実は大半は三宅父子ではなく、西村芳次郎の選択であったのです。
 ただそれらの碑に全く清治郎の意向が反映されていないわけではありません。例えば多くの史蹟碑に道標的文言が加味されている点は無視できません。たとえば「宇智王子故宮址」の場合(表2、105)、下部に割注のように小さい文字で「王塚八丁」と併記されています。また「水月庵」など規模の大きな碑なら、側面に「向て右、北八幡宮本社十丁、西幣原水月庵八丁/招提十八丁、枚方二里」などと刻まれています。清治郎の主導が確実な石碑の大半が、道標として建立されていたことを思い出してください。表1をご覧下さると「道」や「分岐点」などに多く建碑されていることが指摘できます。清治郎にとって当該事業は先祖供養のためでした。城南の史蹟碑に道標的文言が併記されるのは偶然ではないでしょう。西村の建碑地選択にあたって、原則として道標的文言を刻むよう清治郎が指示した可能性は高いと思います。

(四)天皇聖蹟

(1)宮都跡
 紀念物のなかでもいわゆる天皇聖蹟が多いです。例えば「神武帝旧跡祝園神社是十町」、「崇神帝十年役武埴安彦被斬旧跡」、「崇神帝十年役挑川故蹟」、「天武天皇故址」、「後醍醐天皇旧蹟是東一里半田村新田」、「恭仁宮大極殿阯」(聖武天皇)、「継体天皇皇居故趾」(筒城宮跡)、「樟葉宮跡」(継体天皇)、「水無瀬神宮」(後鳥羽天皇)などです。「仁徳天皇皇后磐之姫古蹟」「宇智王子故宮址」「宇智王子陵墓」「施基皇子故址」「田原天皇旧蹟」「高倉宮以仁王旧蹟」など后、皇子に関するものも含めてよいかもしれません。
 その大半が1928年以後に集中して建設されていることに注目します。というのは、この時期、史蹟名勝保護・顕彰に関する国の方針が、天皇聖蹟を第一に推進することを方針としているからです。それが周知されるのはその管轄が内務省から文部省へ移管する一九二八年で、三宅碑が天皇聖蹟を建設する時期と全く一致します。しかも文部省は、天皇聖蹟のなかでも宮都跡の保存・顕彰を最重要に挙げていますが、前記のように、三宅碑も城南に所在した宮都跡・離宮跡伝承地などの大半に建てられています。
 その意味で興味深いのは継体天皇の樟葉宮跡及び後鳥羽上皇の水無瀬神宮への建碑です。樟葉宮跡は「日本書紀」によると同天皇即位の地で、水無瀬神宮は後鳥羽上皇の水無瀬殿の故地に明治時代に創建したものです。いわば都城跡に準ずるものといえます。ところが両所とも京都府下ではなく、大阪府内に位置するのです。現枚方市及び現三島郡島本町です。周知のように、三宅碑は「京都の公利公益に役立てよ」という亡父安兵衛の遺言に従っています。亡父の遺言の履行期間の建碑(1921年~1929年上半期)でも、例えば現福井県小浜市や現滋賀県甲賀郡甲西町など、京都府以外に建碑する場合は、「安兵衛遺志」と刻まず、「清治郎建之」と自らの名で建碑しています。水無瀬神宮の碑は未確認のため亡父の名を刻んだか不明ですが、とはいえ『木の下蔭』所収「建碑箇所一覧」に掲載されているため、「安兵衛遺志」と刻まれていた可能性はきわめて高いと思います。確認できた福井県小浜市の碑など「三宅清治郎建之」と刻まれた碑は、例外なく「建碑箇所一覧」には列記されていません。ところが「樟葉宮蹟」は京都府に位置しないにもかかわらず、亡父の名を刻んでいます。天皇聖蹟には〈京都〉に建碑という原則を無視するのである。両所を選択したのは芳次郎であろうが、清治郎もこれを承認していることは注目してよい。が、清治郎の思いは別にして、芳次郎には、原則を無視してでも樟葉宮跡に建碑しなければならない理由がありました。それについては後述します。

(2)後村上天皇聖蹟
f0300125_12313081.jpg芳次郎の住む八幡は、「太平記」によると、南北朝期の正平七年(文和元、一三五二)、正平一統のおりに南朝の後村上天皇が皇居とした地です。ここでは合戦も行われたらしく、その戦蹟に関する三宅碑が多い。ただどういうわけか、村上天皇皇居跡そのものを示す建碑が行われませんでした。「俊馬」碑なるものさえ存在するにもかかわらずです。これについても後述します。
(つづく)


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# by y-rekitan | 2017-11-27 09:00 | Comments(0)

◆会報第82号より-05 石清水祭

勅祭・石清水祭に学ぶ

野間口 秀國(会員)


 私たちの住む八幡市にても季節を通して大小数多くの祭りや行事が催されていますが、それらの全てを知り、直接見たり参加したりすることは容易では無いのが実情ではないでしょうか。「勅祭・石清水祭」もその一つでした。五年前に一度、深夜に御鳳輦(ごほうれん)が八幡宮山上から頓宮へ降られるご遷座の行列を見学し、引き続き放生川(現在の大谷川の一部で、男山考古録(*2)に、 ・・上ハ飼屋橋より、下ハ禅昌寺前の石橋まで・・ とある)で執り行われた放生会の諸次第も見学いたし、とても興味を持っておりました。そんな中、この秋に幸いにも、石清水八幡宮で年間百余り斎行される祭典の中で、最も重要な祭典である「勅祭・石清水祭」(*1)の斎行に初めて参加できる機会をいただきました。本号では、そこでの体験談と学びを書いてみたいと思います。

 九月十五日未明から夜にかけて執り行われる「勅祭・石清水祭」に先立ち、同十二日午後二時半から石清水八幡宮の山上にある体育館で「ご奉仕のご案内」と題する説明会があり参加いたしました。小雨模様の中、開始時刻より少し早めに会場に入ると、体育館の広い床にはそれぞれの役割に対応した装束や履物などが大小おおよそ100ブロックほどに別けられ準備されており、係の方々が必要なものの確認や補充などをされておりました。参加できることへの緊張感が改めて感じられたひと時でした。定刻になると石清水八幡宮のご担当権禰宜様よりご挨拶をいただき、引き続いて祭りの意義や心構え、肌着は白色で首周りはV首もしくはU首のものなど、身に着ける衣服などの具体的な説明を受けました。

 その後、指定された所定のブロックに移り、参加する所属団体の係の人(先達)より当日のご奉仕概要やタイムスケジュールなど具体的な事項の説明がなされ、引き続き装束の説明とそれらの着付けの練習に入りました。f0300125_10442726.jpgなにしろ初めてのことゆえ、指導していただく方に従って衣装を身にまとうことに集中しました。肌着の上に、先ず白衣(はくい)を身に着け、白い袴(はかま)をはき、黄色の衣装・黄衣(おうえ)をまとい、白足袋(しろたび)をはき、草鞋(わらじ)をはいて、最後に烏帽子(えぼし)をかぶります。上半身、下半身の装束はその殆どがフリーサイズで、特に袴は最下部にある紐を使って身の丈に合せられるように工夫されておりました。このことは、この夏、とある演奏会会場にて有名な和楽器奏者の説明されたことがとても役立ちました。こうして身に着けたすべての装束を脱いで元のようにたたみ、着付けの練習は終わりました。最後に開催当日の細かなスケジュールを再度確認の後、参加者用の駐車券や石清水祭用ケーブル臨時運転時刻表などをいただき午後四時頃に説明会は終わりました。

 ここで石清水祭について少し記したいと思います。石清水祭の起源は、清和天皇の貞観五年(八六三)旧暦八月十五日、宇佐宮の放生会に倣って始められた石清水放生会に遡るとされています。これは、そもそも諸々の霊を慰め供養するため、男山の裾を流れる放生川のほとりで生ける魚鳥を解き放つ法会を催してほしい、との八幡大神ご自身の願い(神願=じんがん)に基づくものでした。また、石清水祭は勅祭であり、天皇陛下の御使いである勅使が参向され、天皇陛下からのお供え物を奉献される祭典で、八万社ある神社の中でもこの勅祭が斎行される神社「勅祭社」は十六社しかありません(*1)。

 さて当日(九月十五日)は、真夜中、午前零時半までに前述の体育館に集合することになっておりましたので、遅れることなく日付の替わる頃には出向きました。十二日の練習どおり、全ての装束を順番に身に着けると不思議と緊張感が高まりました。ご奉仕の途中で緩むことがないようにと草鞋の紐は特にしっかりと締めました。当日私に与えられた役割は「御綱曳神人(みつなひきじにん)」であり、「黄衣を身に着けて各御鳳輦の前後に結びつけられた朱綱で参道の昇降を佐ける」ことでありました。今回参加して、石清水祭は思いの外祭りの次第が多く、実際には十四日の夕刻から十六日の午前中まで、足掛け三日にわたる行事であることも初めて解りました。装束を整えてから待つこと二時間近く、午前二時に「神幸の儀」が始まるまでの時間は、短くも、また長くも感じられました。私たちも御神霊のご移動に用いられる御鳳輦(ごほうれん)の近くへと移動して、午前三時ごろいよいよ「御鳳輦発御(ごほうれんはつぎょ)」を迎えます。三基の御鳳輦を中心に約五百名の神職・楽人、また神人と呼ばれるお供の行列が松明や提灯の灯りだけを頼りに山上の御本殿から山麓の頓宮へと向かいます。

 この時間帯にはさすがにほとんどの物音は聞こえませんでした。本殿から参道を提灯の灯りを頼りに降りることは容易なことでは無く、滑ったりしないように、油断なく一歩一歩と歩みをそろえて足で探るように進んでゆきました。おそらく四~五十分ほど経過したでしょうか、行列は麓の絹屋殿(きぬやでん:六本の掘立柱に支えられ、四方に白絹を張り廻らした臨時の建物)に到着します。ここでは里神楽(さとかぐら)の奉奏などがあり御神霊が奉迎されます。その後、「頓宮神幸の儀」に移り御鳳輦が頓宮殿に入御されます。ここで私たちの前段の役目が終わり、少し緊張が解けるのが分かりました。そのまま車を停めてある駐車場へと向かい一旦帰宅しましたが、祭りは御鳳輦の入御の後にも多くの次第が執り行われ、f0300125_10522149.jpg午前八時すぎには放生行事がありました。これは前述のとおり宇佐宮の放生会に倣って貞観五年(八六三)に始まるといわれ、生類の殺生を慎み、捕らわれた魚鳥を山川に解き放つ善行が尊ばれて多くの人々が奉仕されます。安居橋で奉納された胡蝶の舞いも翌日の新聞にて報じられております(*4)。

 さて、夕刻(十七時)より執り行われる「還行の儀(かんこうのぎ)」に遅れることなく、再び頓宮へと集合いたしました。この儀式は十八時三十分頃の「御鳳輦発御(ごほうれんはつぎょ)」まで頓宮の内側にて執り行われました。この儀式のあいだ、浅葱幕(あさぎまく:薄い水色の地に白の矩形のある布)で覆われた頓宮の頓宮殿裏あたりで発御を待ちました。この間、私たち御綱曳神人とは異なる役目で行列を構成する、他の役目の人達の装束・用具・提灯などを直に目にすることができたことは貴重な時間でした。ところで、この行列の構成や順番は「八幡宮寺年中讃記 下」(*3)の項にとても詳しく書かれていることが解りました。八月十五日に行われるこの行事名をはじめ、御輿次第の項には、御綱引二十人、前左五人、右五人、後左五人、右五人とあり、これらは三基の鳳輦すべてに共通の内容でした。私の担当は次三御輿(三番目の御輿)の引手二十人の一人であり、位置は後右五人に該当していたことが理解できました。着衣に関しても、役割毎に記されてあり、とても興味ある内容でした。同時に、本稿冒頭の「ご奉仕のご案内」の個所にて「およそ100ブロックほどに区分して準備されており・・・」と書きましたが、これらの準備や管理がいかに大変なことであるかを改めて理解でき、お世話いただいた方々に感謝の念で一杯でした。

 「御鳳輦発御(ごほうれんはつぎょ)」は暗くなるのを待つようにして十八時三十分頃から開始されました。暗くなった参道を提灯の灯りを頼りに気を引き締め、御鳳輦に従って山上の本殿へと向かい、無事に著御(ちゃくぎょ)がなされると役目を終えることができました。文中で何回か使いました「御鳳輦」は、石清水祭における御神霊のご遷座(ご移動)が「御神輿」ではなく「御鳳輦」といわれるためであり、前号での「御輿」とは呼称が異なることや、直前の文章中にある「著御(ちゃくぎょ)」の表現なども「着」と「著」の独特の使い分けの用例であることも学びました。

 このような貴重な体験の一カ月後、10月15日には「森本家文書からみた近世石清水の神人構成と身分」と題する当会主催の竹中友里代氏をお招きしての講演(*5)を聴講する機会がありました。その講演にて話された、年中行事における神人招請の目的の成文(なしぶみ)と呼ばれる「補任状」が、現在でも石清水祭にて石清水八幡宮の印が押されて公布されていることも後日学ぶことができました。「動く古典」といわれる斎行の体験とその後の講演の聴講は、神人と石清水祭のこと、そして石清水八幡宮の活動に関する理解がさらに深まるものでした。本稿をまとめるにあたり色々ご教示いただきました石清水八幡宮の関係者の皆様に紙面より感謝申し上げます。
(2017.11.02記)一一
 
(*1)『勅祭石清水祭』 石清水八幡宮発行の冊子
(*2)『石清水八幡宮史料叢書一 男山考古録』 第十一巻 藤原尚次著
 石清水八幡宮社務所発行
(*3)『石清水八幡宮史料叢書四 年中神事・服忌・社参』
 石清水八幡宮社務所発行
(*4)京都新聞の2017.9.16付け朝刊記事
(*5)「講演と交流の集い」の配布資料、2017.10.15 八幡市文化ホールにて開催
講師:竹中友里代氏

 
 
# by y-rekitan | 2017-11-27 07:00 | Comments(0)

◆会報第82号より-06 文化祭発表

第45回八幡市民文化祭での展示発表報告

八幡の歴史を探究する会「八幡の道探究部会」


 2017年10月28日、29日の二日間の八幡市民文化祭において、八幡市文化センター3階ロビーで展示発表をしました。
 会場では専門部会「八幡の道探究部会」の会員が、2年間かけて現地に出向き調査した江戸時代の八幡市内(22基)及び市外(54基)の八幡道標(みちしるべ)と設置場所を示した地図をパネルに掲示しました。f0300125_11175696.jpg
 また、古地図や古道地図もパネルに掲示しました。文化祭の両日共に台風接近の影響で生憎の雨天となり例年より来場者は減少しましたが、来場の皆様は熱心に道標写真や地図で設置場所を確認されていました。会場では道部会員や歴探の幹事が中心となって説明にあたりました。

1.江戸時代の八幡道標(みちしるべ)

 『「石清水八まん宮道」に誘う道標群(江戸時代の八幡道標)』のタイトルで展示パネル5枚に京都市南区から南は東大阪までを10地域に区分した拡大地図には八幡道標設置位置を矢印で示し、各地図の周囲には道標写真を掲示しました。道標写真から、①行先のみ標示の道標、②地蔵道標、③指差道標、④墓碑道標等々の形態がある事が判り、特にお地蔵さんが彫られた道標が多く設置されている事が確認されます。設置場所は一番北の八幡道標は京都東寺近くの「矢取地蔵堂前の道標」で、南は東大阪市の「喜里川町の道標」(下図)です。
「地域別の八幡道標数」は次の通りです。f0300125_1222057.jpg
①八幡市内:22基
②京都市南区:1基
③京都市伏見区:7基
④長岡京市:1基
⑤大山崎町:1基
⑥高槻市:3基
⑦茨木市:1基
⑧枚方市:26基
⑨交野市:2基
⑩寝屋川市:2基
⑪四條畷市:3基
⑫大東市:2基
⑬東大阪市:5基
以上、合計76基が今回の調査で確認され今回展示発表をしました。

 また、今回の調査結果を「昔と今を結ぶ掛替えのない歴史遺産として保護する」とともに「後世に引き継ぎたい」との願いから、冊子『「石清水八まん宮道」に誘う道標群』に取りまとめて発刊しました。冊子は会場で販売しましたが、2日間で50名越の多くの方にお買い求めいただきました。

2.古地図、古道地図の展示

 ロビーの向かい側の展示パネル3枚には八幡市の代表的な古地図と「中世~近世の男山周辺の道」を現在の地図上に記載した地図を掲示しました。来場の皆様は、石清水八幡宮参詣道や山麓の道を現在も使用されている道や廃道になった道を地図上で確認されていました。

これからの部会活動について

 「八幡の道探究部会」は八幡市文化祭では昨年に引き続き2回目の展示発表でしたが、来場者の方々には掲示の道標や地図を熱心に見ていただいたことを感謝いたします。これからも部会は自分の足で現地に出向いて調査確認をする地道な活動を続けて行く所存です。
# by y-rekitan | 2017-11-27 06:00 | Comments(0)

◆会報第82号より-end

この号の記事は終りです。


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# by y-rekitan | 2017-11-27 01:00 | Comments(0)

◆会報第81号より-top <スクロールだけで全記事が読めます>

f0300125_2392286.jpg
この号の会報からは現在、下記の記事が掲載されています。
このまま下にスクロールして頂くと順次連続してご参照頂けます。

◆シリーズ:“心に引き継ぐ風景” ⑫◆
◆《講演会》石清水八幡宮の牛玉宝印◆
◆シリーズ:“八幡の古墳と鏡” ⑤◆
◆シリーズ:“「四條隆資卿物語」” ③◆
◆高良神社の太鼓祭りを楽しむ◆
◆「石清水八まん宮道」に悠久の歴史がある◆
◆「『石清水八まん宮』に誘う道標群」の発刊にむけて◆



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# by y-rekitan | 2017-09-26 15:00 | Comments(0)

◆会報第81号より-01 瀧本坊乗祐

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心に引き継ぐ風景・・・⑫

瀧本坊に乗祐じょうゆうあり

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 瀧本坊昭乗こと松花堂昭乗の墓石は八幡平谷の泰勝寺にある。境内地の奥に3基並べられた中央が昭乗で「寛永十六年九月十八日(没)大阿闍梨昭乗」の碑文がある。向かって右が師の実乗で「寛永四年二月廿三日(没)大阿闍梨實乗」とあり、左が萩坊乗円(松花堂門人・書画にて高名なり)で「延宝三年四月廿六日(没)大阿闍梨乗圓」とある。実は昭乗の師である実乗の先代に乗祐という瀧本坊にとって重要なキーパーソンがいる。天正十年の本能寺の変の後、近衛前久を援助したことから五摂家筆頭の近衛家と親密になり、瀧本坊繁栄の基を築いた。
 過日、松花堂昭乗研究所研究報告会での奥山邦彦氏の報告「乗祐と実乗」によって乗祐の輪郭を理解するとともに、津田宗及や千利休とも茶人として親密な関係にあったことを知った。その後、奥山氏と泰勝寺を訪ねて乗祐の一石五輪塔の存在を再確認した。天正十九年二月廿ニ日(没)権律師乗祐とあるが、乗祐没後6日、二月廿八日に千利休が自刃している。まさに同時代を駆け抜けた人物だった。昭乗達の墓石の奥の一角に瀧本坊歴代住職や関係者と共に乗祐も祀られている。
(写真と文 谷村 勉)空白


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# by y-rekitan | 2017-09-26 12:00 | Comments(0)

◆会報第81号より-02 牛玉宝印

f0300125_273775.jpg
《講演会》
石清水八幡宮の牛玉宝印ごおうほういん

2017年8月 
さくらであい館(イベント広場)にて

鍛代 敏雄(東北福祉大学教育学部教授) 
                 (石清水八幡宮研究所主任研究員) 

 
 平成29年8月26日(士)午後2時より、今春建造されました「さくらであい館イベント広場『淀』」で「石清水八幡宮の牛玉宝印」の講演と交流の集いが開催されました。
 「牛玉宝印」とは聞き慣れない言葉で、現物も見たこともないものでした。 社寺から出される厄除けの護符で、石清水八幡宮でも出されていたものです。今回の講演で、その内容を知り、現物の映像を見る事ができました。講師の鍛代敏雄教授は、石清水八幡宮研究所主任研究員として毎夏八幡にお越しになり、その都度講演をご依頼しております。今回もまた、新しい演題でお話を聞くことが出来ました。 鍛代先生ご自身によるご報告は以下の通りです。なお、当日の参加者は、40名でした。

はじめに

 牛玉宝印とは、主に権門寺社の修正会および修二会の年始法会において作成された、神仏と結願した護符のことです。一般には、宝印を翻して、起請文が書かれることが多く、その料紙は鎌倉時代の13世紀半ばころのものが残っています。f0300125_17114199.jpg
 石清水の場合は、文献上、13世紀前半に確認できます。実際の牛玉宝印の料紙は、14世紀後半のものが石清水八幡宮に所蔵されています。石清水八幡宮の牛玉宝印について調査・研究する意義は、牛玉宝印を通して、①神仏習合(神仏同体)の祭祀と信仰の実態を究明できる点、②文献(古記録・古文書)・料紙・版木・宝珠印の総合的な研究が可能な点、③中世の荘園制的社内経営に関し、牛玉宝印の頒布を通じた師檀(師匠-檀那)関係にみる信仰経済への転換が知られる点、以上があげられます。

Ⅰ 修正会と修二会の作法 

 石清水八幡宮牛玉宝印の文献は、寛元2年(1244)の石清水八幡宮所蔵「宮寺並極楽寺恒例仏神事惣次第」(『石清水文書』1-62号)の修正会・修二会において初見できます。本社本殿では、元日に俗別当・神主・禰宜らによる土祭神事(地鎮祭)が執行されました。
ついで社務・別当・所司らが参列し、社僧の導師が十二相の声明など、国家安泰・護国豊穣・万民快楽の仏事を執行します。牛玉宝印は正月から中御前大床上に、4日まで北向、4日から南向に置かれました。7日には、外陣の正面に棚を据えて、その上に牛玉杖(牛玉宝印を折りたたんで柳や竹の棒を挟んで杖状にしたもの)を並べて、祈祷を通して結願、結縁させました。また導師は別当・祠官・所司らの額に宝印(如意宝珠朱印)を捺します。そして、牛玉賦と称し参列者に牛玉杖が賦られました。
 8日は、若宮殿の修正会が山上所司、公文所・目代・正印預らによって執行されました。同じく8日には、護国寺の修正会が催行されました。社僧によって荘厳された堂内、仏前(本尊・薬師如来)に牛玉を置きます。12日まで北向→12日から南向です。14日、仏前の棚に牛玉杖を積み、同じく別当らの額に宝印が捺されます。ついで牛玉賦が行われました。興味深い点は、本社ではない、「鬼走」という作法が14日夜に催行されます。鬼形の衆僧が鬼走といって乱声、牛玉杖で身体を打ちながら堂内を3周走り廻り、穢と災厄を祓いました。
 なお、牛玉杖は、何本、何把と数えられ、百本単位、社内で配布されました。石清水では明治維新後、神仏判然令にしたがい、仏事が廃されて作成されていません。

Ⅱ 本社系と坊舎系

 現在残っている八幡宮牛玉宝印を通覧しながら、石清水の場合の特質を確かめていきます。現存最古の宝印は、応安5年(1372)の新善法寺永清起請文(『石清水文書』6-404号)に用いられた、墨書(肉筆)の牛玉宝印です。牛玉宝印の先駆的研究者、相田二郎氏は、石清水の場合、墨書が先行し後に版木刷となり、また墨書が登場すると書かれていますが、鎌倉以降、江戸期に至るまで大量に頒布されていますので、墨書の牛玉宝印は例外的な特殊事情により作成されたと見なされます。
 版木により作成された牛玉料紙の法量については、最小が縦23.7㎝、横34.2㎝、最大が縦31.5㎝、横44.5㎝になります。15世紀には「小牛玉」という名称が登場しますが、大量に頒布されるようになると、小型化するものと思われます。この点は東大寺などと同様の事象で、千々和到氏の研究により、東大寺二月堂の縦切紙は15世紀前半から知られています。
 石清水の八幡宮牛玉宝印の字配りは、中央に「八幡宮」、右側に「牛玉」、左側に「宝印」とあり、中世から近世まで共通していますので、それ以外の形態は石清水以外の八幡宮牛玉宝印と考えて間違いありません。ただ、「八」の字形は、楷書の「八」の書き出しを鳩の首のように曲げたものと、「神鳩」の意匠で「八」としたものとに大別されます。後者の神鳩は、顔を向かい合わせとした向鳩と、首・背中合わせのものとに分けられ、坊舎の版木で刷られた牛玉宝印に用いられています。
 したがって、遅くとも織豊期以降は、本社の御蔵で作成された本社系牛玉宝印と、各坊で作成された坊舎系牛玉宝印が各坊でさくせいされたものとに分類できます。前者は、小綱(少綱)神人や仕丁神人らによって本社東回廊東門下の北側にあった御蔵で刷られ、宝珠朱印を捺して、本社で結願されました。後者の坊舎系は、坊内で刷られ宝印を捺して、供僧を勤めていた神宮寺の護国寺で結願されたものと思われます。
 如意宝珠の朱印については、印文の「八」「卍」が定型です。先に述べた最古の牛玉料紙、版木刷りの現存最古、大永8年(1528)の山吉政久起請文(『上杉家文書』1-351号)、天正16年(1588)の島津龍伯(義久)起請文(『永青文庫叢書細川家文書中世編』口絵、84号文書)などに用いられています。
 その外は、主に近世の宝印に認められるように、印文がないかわりに、宝珠印のなかに小形宝珠を3つほど配した印章がありました。
 なお、特例としては、現在、奈良柳生の芳徳寺所蔵の石清水八幡宮牛玉宝印には、種子「ア」(胎蔵界大日如来、真義真言宗では阿弥陀如来と同体)の印文のある宝珠朱印が捺されています。石清水の社僧は真言僧ですから、違和感はありませんが、この1点以外に確認できません。なおまた、この牛玉宝印の料紙には、牛玉杖にする際の折り目の筋がはっきりとのこっており、石清水においてどのように料紙を折りたたんで牛玉杖が作成されたか明らかになります。

Ⅲ 版木と如意宝珠印

 石清水八幡宮には、「八幡宮牛玉宝印」の版木が所蔵されています。法量を調べますと、版木は縦28.3㎝、横48.0㎝で、枠端の厚2.3㎝、内側の厚1.8㎝、端の幅2.0㎝で、枠左端の中央に幅1.3㎝、深さ0.4㎝の凹があります。おそらく刷る際に左手の親指で料紙を抑えるための窪みだったと思われます。
 また、版木の文字の法量については、縦最長で「八幡宮」は24.8㎝、「牛玉」19.7㎝、 「宝印」22.0㎝、横最長が36.5㎝です。料紙の大きさは区々ですから、今後の調査では、文字の法量も測っておくと、比較する上で効果的であると考えられます。
 なお、本版木と類似の牛玉宝印はありますが、まったくの同じ版刷りの石清水八幡宮牛玉は残存していません。
f0300125_17172068.jpg
 次に相伝の宝珠印章をみましょう。
 その一つは、嶋村家に残った印章で、竹中友里代氏の調査報告によれば、火焔の光背に囲まれた「八」「卍」の印文があり、法量は縦9.8㎝、横8.4㎝のものです。いま一つは、最近、再発見されました石清水八幡宮相伝のほぼ同様の印章で、光背と二重郭内に「八」「卍」の印文が刻まれた、縦8.9㎝、横8.1㎝の宝珠印です。おそらく上記の版木とセットで残ったものと考えられますが、明治以降に神職として石清水八幡宮に奉職された、辻村氏が保存していた印章だったとみて間違いありません。辻村家は、嶋村家とひとしく近世の仕丁神人ですから、かれらには牛玉宝印の作成という重要な家職があったということができます。

Ⅳ 贈与と頒布

 石清水八幡宮の牛玉宝印について、文書上の表記・呼称を調べてみますと、
  ア)「牛玉宝札」
  イ)「御祈念牛玉」
  ウ)「御祈祷牛玉札」
  エ)「祈祷札」「御祈祷札」
などを確かめることができます。國學院大學図書館が所蔵する橘本坊の牛玉宝印には、「石清水八幡宮 御祈祷御札 橘本坊」の貼紙と、「(宝珠朱印)石清水八幡宮守護所」の短冊形の神札、向鳩の牛玉宝印に宝珠朱印が3顆捺されています。3セットで檀那に頒布されたものでしょう。
 このように、護国寺や極楽寺の供僧を勤め、境内の仏神事を実際に執行し、なお社内経営にかかわった坊人・社僧の坊舎は、延べて60舎ほど知られていますが、それぞれが檀那をかかえていました。たとえば、上記の橘本坊は足利将軍家・政所伊勢氏・政所代蜷川氏、小田原北条氏・古河公方足利義氏、橘坊は尼子晴久、泉坊は島津義久、滝本坊は豊臣政権、豊蔵坊は徳川家康・秀忠といったように、幕府、戦国大名、天下人までも檀那でした。
 いわば師檀契約に基づく、石清水八幡宮の取次坊だった坊は、牛玉宝印とともにいくつかの贈り物を神物として贈与、頒布しました。もちろん、返礼・報謝がありましたので、坊舎の経済基盤ともなりました。たとえば、牛玉宝印とセットで贈られたものには、巻数(祈祷報告書)・香水・扇・杉原・筆・紅帯、とくに武家には弓懸・菖蒲革が戦勝祈願に贈られています。
 贈与の例は、室町時代からわかりますが、その内実は、荘園の管理といった神領関係、戦国期の本社造営(幕府が守護大名に命じた国役としての勧進奉加)にかかわる寄進関係、また坊舎の師檀関係をめぐって史料がのこっています。

おわりに

 今回の報告について、最後に要約しておきたいと思います。
 その(1)は、石清水八幡宮の「八幡宮牛玉宝印」は、史料上、寛元2年(1244)が初見です。石清水八幡宮の本社、若宮、護国寺などの修正会および、護国寺・大塔・極楽寺などの堂舎で修二会が催行され、かかる神仏習合儀礼の場で神仏と結縁・結願された護符である「八幡宮牛玉宝印」が作成されました。
 その(2)は、石清水八幡宮の「八幡宮牛玉宝印」は、中世から近世を通して、主に版木によって刷られ大量に頒布されました。まれに墨書(肉筆)のものがありました。現在のこっている中世・近世の料紙から判明することは、まず字配りは、中央部に「八幡宮」、右側に「牛玉」、左側に「宝印」と見えます。また本社系と坊舎系とに大別できます。その特色は、本社系のものが、「八」と刻まれているのにたいし、坊舎系のものは、「八」を「神鳩」の意匠となっている点にあります。ついで、朱印で捺された宝珠印の印文については、「八」と「卍」が定型で、宝珠の中に小形の宝珠がある場合も見られ、なお1点だけ胎蔵界大日如来(種子)が確認できます。
 その(3)は、贈与・頒布からみた信仰経済の問題です。石清水八幡宮の「八幡宮牛玉宝印」は、戦国期以降、主に武家との師檀関係にもとづいて贈与・頒布されていました。中世末期における荘園制度の崩壊は石清水の場合も例外ではありません。社内の経済は、荘園経済からの転換がはかられました。とくに社僧である坊舎は、全国に檀那を抱え、参拝の取次や宿坊などの経営が主になります。その中世から近世への転換期の古文書から、戦国大名や天下人、幕府との信仰経済が確かめられました。

〔付記〕今回の報告については、拙稿「石清水八幡宮の牛玉宝印に関する一考察」(『東北福祉大学芹沢銈介美術工芸館 年報 8号』(2017年6月)を土台にしています。詳細についてはこの報告書をご参照ください。
 
『一口感想』より

永青文庫に残る島津の起請文のお話はとても面白かったです。それとともに檀那の契約が売買されたというのもび‘っくりです。 (K・B)
起請文として使われた牛王宝印のことを初めて知ることができました。ありがとうございました。  (T・Y)
 

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# by y-rekitan | 2017-09-26 11:00 | Comments(0)

◆会報第81号より-03 古墳と鏡⑤

シリーズ 「八幡の古墳と鏡」・・・⑤


八幡の古墳と鏡(5)


-石不動古墳と画文帯神獣鏡がもんたいしんじゅうきょう


濵田 博道 (会員)


はじめに

 石不動古墳は西車塚古墳、東車塚古墳に続き、八幡市で3番目に大きい古墳です。第一回目(会報NO.77)で述べたように、この古墳から出土した鏡について弥生文化博物館・卑弥呼特別展パンフレット(2015年)では「新たな卑弥呼の鏡の候補か」と注目すべきタイトルを付け、紹介しています。このシリーズを書くようになった動機も石不動古墳出土鏡にあります。なぜ「新たな卑弥呼の鏡の候補か」といわれるのか。石不動古墳とはどんな古墳なのか、気になります。しかし、この古墳は八幡市の中でもあまり知られておらず、実際に古墳を見た人はわずかだと思います。文献も多くありません。ここでは1955年京都府発行の『京都府文化財調査報告第21冊』中の梅原末治「石不動古墳」をもとに考えてみます。

1、石不動古墳とは

f0300125_147296.jpg 京阪バス男山車庫の北側にNTTの電波塔がそびえ建ち、その真下が石不動古墳の後円部にあたります。現在無線中継所の建物が建っています。それゆえ、“古墳は原形をとどめていない”といわれています。私は古墳の近くまで行ってみましたが、その先は「立ち入り禁止」で入れませんでした。古墳を見るのも難しい状況です。
 前掲書に次のようにあります。「北の方、天王山と対峙して淀川の河口を扼する(やくする=要衝を占める)男山は、北に高く、南にゆるやかに延びている。この古墳の所在は男山八幡宮の鎮座する山の主峯の南方に近い山岳上にあって、地籍は八幡町(現八幡市)大字八幡字石不動である。山城中部の盆地から見られるように、男山では神社のある峯から南に続く、その脈にいくつかの隆起した山丘がならんでいる。ここに石不動と呼ぶ古墳は、中でも最もそれに近い山丘上にあって、八幡の街並みの中ほどから西のかた西山の部落に通ずる里道の南に接して高くそびえたものである。(中略)頂部からの眺望は、北方を除くと、他の三方とも眼をさえぎるものがなく、まことに絶佳である。」
1943年(昭和18年)2月、ここに山荘を営むために地元の前田氏が土堀をしていた際、偶然に遺物を発見し届け出たことから、京都府の要請により京都大学考古学教室の発掘調査が始まりました。
古墳は卑弥呼の時代より150年~200年ぐらい後の4世紀後半(西暦360年~390年頃)に築造された前方後円墳です。全長88m、後円部径60m、高さ8m(注1)。葺石を敷き、円筒埴輪が巡っていました。八幡市の古墳の中で、西・東車塚古墳など他の前方後円墳が南北を向いているのに対し、この古墳は前方部を東にして東西方向を向いています。また、茶臼山古墳と同じように見晴らしの良い頂に築造されていることも特徴の一つです。大阪市立大学の岸本直文氏は八幡地域の古墳を男山(茶臼山古墳、石不動古墳)、八幡(西・東車塚古墳)、美濃山(ヒル塚古墳、王塚古墳)の3地域に分けて編年表を作っています(注2)。
古墳の後円部には並行して2つの粘土槨(ねんどかく、死者を葬る粘土の室)がありました。北粘土槨(7.6m)と南粘土槨(6.7~6.9m)で、北粘土槨の被葬者が古墳の主であったと思われます。

2、粘土槨と副葬品

①南粘土槨(南槨[みなみかく])の副葬品
  “埋葬施設の南粘土棺床(=南槨)は土堀のため上辺がかなり削られていたが、中央東部分から画文帯神獣鏡、碧玉製石釧(へきぎょくせいいしくしろ)、管玉(くだたま)、棗玉(なつめだま)など、東辺凹みの南辺近くから鉄片、直刀(ちょくとう、刀身がまっすぐでそりを持たない刀)、剣身、その北側から多数の刀子(とうす、古代の小型の刀、ナイフ)、さらに東端の切り崩した部分から長方板革綴短甲(ちょうほうばんかわとじたんこう、剣道の「胴」のような、上半身をつつむよろいの一種)が出土、鏡などの副葬品は朱に染んだ間にあり、朱の痕跡が床の西辺でよく認められた、埋葬はほぼ中央に東枕の遺骸を伸展して、頭辺に鏡・釧(くしろ)・その先に刀剣・短甲などを副葬したと想定される”(前掲書要約)とあります。
 ここで石釧・玉類・鉄類について考えてみます。釧は腕にはめて使う装身具(腕輪、ブレスレット)です。縄文時代の貝輪(かいわ)に始まり、弥生時代にゴホウラとイモガイでつくった貝釧(かいくしろ)になりますが、これらの貝は奄美・沖縄などの南方でしか生息せず、遠方との交易の存在を証明する貴重なものです。古墳時代には貝が手に入りにくくなったようで、石で作った釧(石釧)が作られます。ヤマト王権から各地の首長に配布された威信財といわれており、持つのは身分が上位の人に限られていました(注3)。この古墳からは出雲など日本海側に産出地が限られた碧玉製の石釧が三個出土しています。いずれも入念な作りですが、互いにその細部が違っており、一個は新緑のなめらかな碧玉で、色つやが特に美しいものです。「一部に有機質が付着、また朱に染んで、遺骸に近接して存したことが推される」(前掲書)とあります。次に玉類です。管玉は被葬者を特別に飾る装身具ですが、碧玉製のものが40個出土。よく研磨されており、首飾り用に環状に身につけたようです。色は深緑4、他は青灰色です。棗玉(なつめだま)はナツメの実に似た形をした玉で南槨から29個、青みや白灰色の細長く、なめらかでつやのあるものです。5,6世紀代に盛んですが、4世紀前半の古墳(例えば吹田市紫金山古墳、しきんざんこふん)からも出土しています。石不動古墳は山頂に築造されていること、主体部の構造に前期の特徴があるので古風様式ですが、棗玉や短甲などが出土していることから築造年代は4世紀後半と推定されています。鉄剣は50cm強で“酸化が著しく破断”、刀子は“19口の外に、破断辺が少なくない”とのことです。“短甲は一領分があったと思われるが、原形を確かめるにははなはだ程遠い。横矧板(よこはぎいた)などから短甲たるを推し得るに過ぎない”(前掲書要約)とあります。

②北粘土槨(北槨)の副葬品
 北槨は既に盗掘されており、詳しいことはよくわかっていません。“東辺で刀剣類、小玉類、鉄鏃(てつぞく)、鉇(しゃ、農耕具の一種か?矛か?)の類があり、直刀類は折り曲げられた数本が雑然として本来の副葬とは認められない状況で出土。中央部は破壊されて形跡を失っており、一度取り出され後に再び遺棄され、副葬品は盗掘でほとんど無し。刀身は60cmを超えるものが少なくとも5,6口あったと推測。剣は21cmの断片。他に玉類が79。青水色・半透明ガラス質の良質のもの”(要約)とあります
この他、新聞記事によって盗掘された内容物が少し明らかになりました。
「大正6年(1917年)3月9日の『大阪朝日新聞』の記事によって、それ(=盗掘)が大正4年(1915年)8月の事で、当時城南・北和地帯に盛んであった古墳墓盗掘団の行うたものたることが知られる。この盗掘団の裁判の判決を載せた右の記事中に
一 大正四年八月頃、京都府綴喜郡八幡町大字八幡同所字石不動山林の古墳。
  発掘者(略)三名。勾玉(まがたま)二個、古鏡一面、外に管玉・小玉
  類数十点。森本正太郎氏へ百円にて売却。
とあって、それのまさに本古墳(=石不動古墳)に当たること思はしめるものがある。更に同時の『日出新聞』にはその古墳の所有者を河原崎文治氏と記していて、この地区がもと同氏の所有林であったことから、この想定の誤らざるを示すのである。」その副葬品の行方については、「今日ではこれを明らかにすることはできない」が、森本氏から押収した出土品で、後に奈良国立博物館が所有している遺品のうちの鏡一面が、「その朱に染んだ黒漆の色沢であり、森本氏の購入した価格の点などから推して、記事中の一面の鏡に比定し得る公算の多い」(前掲書)とあります。北槨から盗掘されたと伝えられる鏡もまた舶載の画文帯神獣鏡でした。最近、奈良市教委などの研究グループによりこの画文帯神獣鏡が石不動古墳から盗掘された鏡であることがほぼ確実になりました(注4)。

3、画文帯神獣鏡とは

 上述のことから、石不動古墳からは2枚の画文帯神獣鏡が出土していると考えられます。その鏡はいつの時代に作られ、またどのようなものでしょうか。歴史事典や古代史の雑誌によると、
“画文帯神獣鏡は中国後漢代(25~220年)の鏡の一種。日輪(=太陽)を乗せた車や飛ぶ鳥、走る獣などの絵画的な文様帯(画文帯)を外周に巡らせている。三角縁神獣鏡のように縁が三角形にとがっておらず、上が平らである(平縁、ひらぶち)。内区と縁との境界に、半円形と方形を交互に配置した半円方格帯(半円方形帯)を持つものが多い。内区(内側の部分)に、神仙思想を表す神像や龍・虎などの霊獣を、半肉彫(浮彫表現の一種)で描き出した文様を持つ。神仙は西王母(せいおうぼ)や東王父(とうおうふ)、伯牙(はくが)、黄帝(こうてい)など後漢代に流行した図像と考えられる。日本では弥生末期から古墳時代の遺跡・古墳から出土。また古墳中期から後期にかけての古墳からは、これの踏み返し品が出土している(注5)。”
 しかし、画文帯神獣鏡にもいろいろな種類があり、南槨鏡と(伝)北槨鏡は大きさ、型式・文様が違います(注6)。

① 南槨の画文帯神獣鏡(=画文帯同向式神獣鏡) 面径19.2cm
 南槨の鏡は画文帯同向式神獣鏡といいます。「細かく破砕して出土、若干欠失した部分はあるが、ほぼ全形が推される。f0300125_830363.jpg径六寸三分余(19.2cm)、縁厚(ふちのあつさ)一分四厘(約4mm)。(中略)その内区は完好な鈕(ちゅう)の孔(こう、あな)の通った方向を上下にして一方から見る様に構図されており(同向式)、また幅広い外縁に一種の連環状渦文を配した点に特色がある。そして通じて鮮鋭巧緻(せんえいこうち、細かな微妙なところまで鮮やかに巧みにち密に描かれていること)なる鋳上(いあが)りを示している。(略)相似た鏡としては韓国平壌大同江面第三号墳から出土したものなどが挙げられるが、しかも小異がある。それらと並んでこの種の鏡式中での優れたものと云ふべきであろう」「鏡体は一部に銹(さび)を見受けはするが、なほ通じて鉛黒色の滑択の多い地肌を存して、破断面は白銅本来の色択を表はし、質の桂良なるを示している。この鏡が中国からの舶載品であることは疑を容れないのであって、鏡式のうちでは時代の遡るもの、その鋳造の年代はけだし西紀三世紀の前半を下らないであらう」(前掲書)とあります。

画文帯神獣鏡が「新たな卑弥呼の鏡の候補か」とされるわけ
 この南槨鏡が「新たな卑弥呼の鏡候補か」となったのはどういう理由からでしょうか。千田稔氏は「奈良県黒塚古墳からは三十三面の三角縁神獣鏡が出土したが、被葬者の頭部に画文帯神獣鏡が一面置かれてあったことから、現在はこの鏡こそが重要で、魏帝から賜った百枚の鏡の一つではないかという説が浮上している」(注7)と述べています。さらに1998年、ホケノヤマ古墳(桜井市、全長約80m)の発掘でサプライズがありました。この古墳の棺(ひつぎ)の中と外から画文帯神獣鏡が一面ずつ、計二面出土したのです。三角縁神獣鏡は出土していません。棺の中から出土した鏡は石不動古墳の南槨鏡と霊獣が乳(にゅう)を取り巻く点が同じで、大きさも1mmしか違わない鏡でした(注8)。この古墳は卑弥呼の墓ではないかといわれる箸墓古墳(はしはかこふん、桜井市、全長280m)の東300mに位置し、箸墓古墳が築造される直前の邪馬台国連合の時代、つまり三世紀前半~中頃に築造された前方後円形墳です。箸墓古墳の周辺にはホケノヤマ古墳をはじめ、三世紀前半に築造された80~110m級の墓がいくつかあり、卑弥呼共立(注9)に関わった勢力の墓ではないかといわれています。画文帯神獣鏡がクローズアップされてきた理由の一つは副葬状況から被葬者が大切にしていた鏡であったこと。もう一つはその製作年代が『魏志』倭人伝にいう卑弥呼が共立された時期の鏡である、ということです。それまで舶載鏡の分布の中心が北部九州であったのが、畿内大和を中心とする分布に一変し、広域の政治連合を完成した時期だというのです。こうしたことから石不動古墳出土鏡も「新たな卑弥呼の鏡候補」として浮上してきました。岸本直文氏は各種の画文帯神獣鏡を比較検討し、「石不動古墳出土の同向式などは中平(ちゅうへい)四年(187年、中平は漢代の年号)のもの(鏡)に近いのでは」と述べています(注10)。

②(伝)北槨の画文帯神獣鏡(=画文帯環状乳神獣鏡) 面径13.6cm
 北槨出土とされる画文帯神獣鏡は画文帯環状乳神獣鏡といいます。神像や獣形が真ん中の鈕(ちゅう、つまみ)に向かって環状に配置されているのでその名が付いています。この環状乳神獣鏡も同向式神獣鏡も同じ後漢代の鏡ですが、環状乳鏡が同向式鏡よりやや早くに製作が始まっています。梅原氏は(伝)北槨鏡を「優れた舶載画文帯環状乳神獣鏡」であり、「斑銹(まだらさび)こそ多いが地肌をとどめた部分は漆黒色の美しい色沢(しきたく、いろつや)をしたもので、その内区では四方から見るように半肉刻出の神像を交互に配して、それぞれの一部が大きな環状乳となっている。半円方形帯は幅が広くて、十個を数える方格にそれぞれ四字宛の銘文を配する」(前掲書)と述べています。

4、石不動古墳出土鏡の銘文

①南槨鏡(画文帯同向式神獣鏡)の銘文
  半円方形(格)帯に各4字
原文:吾作明竟 幽凍三商 配像万彊 競ロロ序 ロロロロ ロロロロ 
百身拳楽 百精ロロ 衆羊主羊 学者高徳 士至公卿 富貴安楽 
子孫番晶 与師命長 (合計14区)
訳:「私は三種類の金属を溶かし、この美しい鏡を作りました。それには仙人や多くの怪獣が飾られており、この鏡を手に入れた人は立身出世し、一家が安楽に、子孫までも繁栄し、命永らえるであろう。」――『八幡市誌第一巻』P106より

②(伝)北槨鏡(画文帯環状乳神獣鏡)の銘文
  半円方形(格)帯に各4字
原文:上方作竟 自有紀 辟去不羊 古市 ロロロロロ 西王母令人長命 
ロロ紀天 孫吉兮 君宜子兮 長宜官王 (合計10区)
試訳:「上方(じょうほう、工房名か?)はこの鏡を作る。自ずから紀(しるす)。災害・不吉を退け、商売を・・(不明)西王母は人を長生きさせ・・(不明)子孫は繁栄し、立身出世するだろう。」
――試訳濵田

銘文は神仙思想を背景としています。しかし、訳されている銘文は少ないので浅学の私が試訳しており、誤りがありましたら教えてください。

5、八幡市出土の画文帯神獣鏡

 画文帯神獣鏡は日本全国で146枚、京都府で15枚出土と報告されています[2012年現在](注11)。そのうち八幡市から4~5枚出土しています。京都府出土鏡のおよそ4分の1を占めていますから、八幡市での出土率は高いです。その理由は何か。興味あるところです。内訳は、
石不動古墳2枚画文帯同向式神獣鏡、面径19.2cm、銘文有、京都大学総合博物館
画文帯環状乳神獣鏡、面径13.6cm、銘文有、奈良国立博物館
西車塚古墳1枚画文帯環状乳四神四獣鏡、面径14.4cm、銘文無、東京国立博物館
内里古墳1枚画文帯環状乳神獣鏡、面径21.0cm、銘文有、広島県耕三寺博物館
半円方格帯 方格内に各四字「天王日月」 合計14個
不明1枚画文帯神獣鏡、破片18.9cm、銘文無、京都大学
                   (注12)

おわりに

 “画文帯神獣鏡は、二世紀後葉から三世紀初めごろにつくられ、ちょうど倭国大乱が終息し、卑弥呼が共立されて邪馬台国の女王になった時期にあたる。”(注13)といわれています。京都大学の岡村秀典氏は「その分布をみると、畿内にいちじるしく集中し、北部九州に希薄なことから、楽浪・帯方郡から畿内に直接もたらされ、新たに成立した首長間の同盟体制にもとづいて、畿内の盟主的な首長から一元的に分配されたものと考えられる。また、首長層の定型化した前方後円(方)墳からの出土が多く、その体制は古墳時代前期までそのまま維持されたことがうかがえる。(注14)」と述べており、具体的には「奈良盆地東南部の桜井茶臼山古墳から四面以上、天理市天神山古墳から四面がまとまって出土し、奈良県広陵町新山古墳から三面、京都府八幡市石不動古墳・大阪府和泉市黄金塚古墳・神戸市西求塚古墳・香川県寒川町雨滝山奥十四号墳から二面ずつ出土していることに注意される。」と述べています。古墳時代前期を代表する古墳がいくつか含まれています。八幡の石不動古墳の勢力(その祖先)もその一員として活躍していたと思われ、研究が進んで、石不動古墳出土鏡が『卑弥呼の鏡』の可能性を増せばさらに注目されてくるでしょう。今後の研究を待ちたいと思います。
次回は『美濃山の王塚古墳について』考えてみます。

(注1)石不動古墳の全長(墳長)は文献により88mと75m、後円部径は60mと45mの2通りの見解があります。
(注2)岸本直文「山城の前方後円墳と古墳時代史」『山城の王権の実像に迫る!!乙訓古墳群と久津川古墳群』,ふるさとミュージアム山城,2016
(注3)西車塚古墳からは石釧をはじめ、高い威信財である腕輪型石製品の鍬形石、車輪石が出土しています。会報NO.79参照。
(注4)2017年(平成29年)8月30日朝日新聞夕刊4面「単眼複眼」に「100年前に盗掘 出土古墳特定 奈良市教委などの研究グループ」として石不動古墳など盗掘鏡の記事が載っています。
(注5)『日本歴史大事典』,小学館、雑誌『邪馬台国 第106号』,梓書院など参照
(注6)画文帯神獣鏡には、画文帯環状乳神獣鏡,画文帯重列式神獣鏡,画文帯同向式神獣鏡,画文帯求心式神獣鏡,画文帯対置式神獣鏡などがあります。
(岡村秀典『三角縁神獣鏡の時代』,吉川弘文館,1999参照)
(注7)千田稔『邪馬台国』, 青春出版社,2010
(注8)岡村秀典氏は漢代四百年間の鏡を、文様と銘文の流行の推移をもとに、およそ五十年前後の目盛りで次のように七期に区分
 漢鏡1期 (前二世紀前半、前漢前期)
 漢鏡2期 (前二世紀後半、前漢中期前半)
 漢鏡3期 (前一世紀前半から中ごろ、前漢中期後半から後期
       前半)
 漢鏡4期 (前一世紀後葉から一世紀初め、前漢末から王莽代)
 漢鏡5期 (一世紀中ごろから後半、後漢前期)
 漢鏡6期 (二世紀前半、後漢前期)
 漢鏡7期 (二世紀後半から三世紀初め、後漢後期)画文帯神獣
       鏡など
これに三世紀の三角縁神獣鏡をはじめとする魏鏡を加え、都合、漢・三国時代の中国鏡を八期に大別しています。(注14参照)
(注9)「共立(共に王を立てる)」に関わって『魏志』倭人伝に次の文章があります。
「その国、もとまた、男子を以て王と為す。とどまること七、八十年、倭国乱れ、相攻伐すること歴年、すなわち一女子を共立して王と為す。名は卑弥呼という。」(佐伯有清『邪馬台国論争』, 岩波新書,2006)
北九州、瀬戸内(吉備、伊予、讃岐、阿波など)それに近畿などの勢力が卑弥呼共立に関わったといわれています。
(注10)福永伸哉ら『シンポジウム三角縁神獣鏡』,学生社,2003,P231
(注11)安本美典『大崩壊「邪馬台国畿内説」』,勉誠出版,2012
(注12)安本美典『大崩壊「邪馬台国畿内説」』,勉誠出版,2012
(注13)都出比呂志・山本三郎編『邪馬台国の時代』,木耳社,1990
(注14)岡村秀典『三角縁神獣鏡の時代』,吉川弘文館,1999


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# by y-rekitan | 2017-09-26 10:00 | Comments(0)

◆会報第81号より-04 四條隆資③

シリーズ「四條隆資卿」・・・③

四條隆資卿しじょうたかすけきょう物語  その3
~『太平記』と隆資卿~

 大田 友紀子(会員) 


 四條隆資卿の「物語」と銘打って開始したこのシリーズも3回目となりました。初回は、四條隆資卿が戦死された「正平の役」八幡合戦、そして、その首塚が中ノ山墓地にあり「正平塚古跡」として存在していること、そして、その存在地である中ノ山墓地の歴史とその景観の特別な存在意義の重要性などを書かせていただきました。2回目は、四條隆資卿の生い立ち、生家である四條家の家格は羽林家であり、代々近衞府の武官として、天皇に仕えた家柄です。羽林家の娘たちはというと、御所に出仕して天皇の傍で身辺の世話などをしたことから、天皇の寵愛を受けて皇子女を生み、天皇の生母となることもありました。そんな家柄の四条家に生を受けたことから、隆資卿にも伏見天皇の御落胤説がささやかれている、ということを書きました。その当時のことは「とはずがたり」などを引用して説明させていただきました。作者の後深草院二条の母は、四条家の出で後深草院に仕えていました。
 そして、3回目となる今回は、後日談として、祇園祭・前祭の「蟷螂山」が創建された経緯について考えてみたいと思います。(四条家から下賜された)御所車の上にカマキリを乗せるという山で、そのカマキリは、四條隆資卿の武勇を表しているとされています。その武勇伝は、どこから来たのでしょうか。それは、南北朝内乱の際、現在のルポライターのような働きをしたのではと考えられている陣中僧たちが書き送った記事などにより作られた軍記物語『太平記』で、時事ニュースとして早くも読み聞かせることで広く流布したと思われています。陣中僧とは常に市井に暮らしていて庶民の傍に居て、布教に努めている僧たちですが、医薬にも明るく、律宗の僧たちが多かったようです。内乱期には各地の合戦場に駆け付けて戦死者の臨終の際に立ち合い、引導を渡したとされています。そして、戦死者の埋葬にも立ち会ったのでは、と考えられています。

『太平記』の成立

 まずはその成立についてですが、『太平記』の著者は不明とされていますが、南北朝末期の『洞院公定日記』の応安7年(1374)5月3日の項には、小島法師なる人物を『太平記』の作者として書いています。洞院公定は、南北両朝から有職故事などに堪能なので、諮問されたりした洞院公賢の孫です。祖父に倣って日記を残しています。
 しかし、今日では1人の作者の手になったものではなく、複数の書き手による完成後も幾度となく書き加えられ、そうした中で、有力武将たちの関与などによる挿入部分も多くて、ある程度の期間に渡って書き継がれたのでは、とする説が有力です。
 というのも、室町初期の武将で歌人でもある今川了俊の著書『難太平記』には、昔時、(南)等持寺において、法勝寺の恵珍上人(1281~1356)が、出来上がったばかりの『太平記』の30余巻を持参して、足利直義に見せて、玄恵法印に読ませたことがありました。その時、聞いていた直義ははなはだしい誤認などがあるのを指摘して改稿を命じます。その改稿作業などでしばし中絶するも、ふたたび書き継いだ、とあるところから、恵珍の生存中すでに30余巻が出来上がっていたと考えられています。このことから、法勝寺に「太平記」の製作工房があり多くの僧が従事していたことが考えられ、その維持と管理に多少なりとも足利氏の関与があったようで、言い換えれば、『太平記』製作のスポンサーを足利直義と考えると、その目的が何であったのか、と疑問が残りますが。
 その後も、正平7年(1352)閏2月12日、f0300125_8345940.jpg恵珍上人が足利義詮の要請で、南朝の後村上天皇の住吉行宮に参候していますし、足利側に立った動きが目に付きます。そして、後村上天皇の京都進撃の風聞を受けて、同月16日に再び恵珍上人が足利の使いとして住吉行宮に和談に向かいましたが、この時すでに伊勢国司の北畠顕能(きたばたけあきよし)が数100騎をもって洛中に入り、今夜にも両朝軍の間で戦いが始まるのでは、との風聞も立ち、形勢は急転して行きます。そして、後村上天皇はこの日には天王寺に行幸され、その後19日には八幡に到着、石清水宮寺の別当である田中定清邸を行宮とされました。正平7年の春は、八幡の地に場所を移した南北両朝の内乱の幕開けとなったのです。

『太平記』と四條隆資卿

 応安4年(1371)に成立した『太平記』が、「太平記読み」という物語僧の出現によって一般民衆の前で語られるようになったのは、室町末期以降から江戸時代に入った頃といわれています。けれども、「太平記」は製作当初から武士や没落公卿などに読まれることを目標として書かれたものであり、一般民衆に読み聞かせるために書かれたものではありませんでした。それは、太平記の各話の最後に独特の批判文があることからも、武士や公卿たちの教養を高めるために書かれた事が想像されるのであり、そこには宋学(儒教)の影響が見受けられ、大義名分論や勧善懲悪の思想に貫かれて書かれていることからもうなずけます。その頃、後醍醐天皇の宋学への過大な傾倒があり、宋学の奨励が進められていました。そうした時代背景を受け、いつしかその取り巻きの公卿たちの間にも深く浸透した結果、宋学の思想は「建武の中興」を推し進める原動力ともなって行きました。
 太平記の根幹を流れる思想について見て行くと、「太平記40巻は、文保2年(1318)2月の後醍醐天皇の即位された時から筆を起こし、後光厳天皇の貞治6年(1367)12月12日に終わっている(西源院本末尾による)。」(「軍記物とその周辺―太平記中の批判文・漢語・漢詩文・故事の二、三について」大矢根文次郎著より)とあり、混乱の時代を収拾するために儒教思想に裏打ちされた理想の実現を目指して書かれています。この論文では、「その付題には中国の故事物語が21箇もあることに注目される(略)さらに、小題説話の末尾にある作者の批判文のあることを注意しなければならない。(略)ほぼ、21箇所にこれを見ることが出来る。」とされて、この批判文の挿入には、中国の歴史文学からの影響が考えられることを論じておられます。そして、その論拠として「中国の歴史文学の方を通覧するに、皆、その篇末に批判文があるのである。」と結ばれていて、その一例として「巻22の四條隆資が(語っている)周の武王(の故事で)、大将を立てんとして太公望に問うたのに、太公望の答を引き載せている(漢語)が348字(に及ぶ)」のをあげて論じておられます。
 この箇所は、なかなか難解なところですが、儒教思想の理想を語る代弁者として、四條隆資卿を登場させているところに、作者の意図が見え隠れしています。その巻22「義助吉野へ参らるる事ならびに隆資卿物語の事」は、暦応4年の頃のことで、脇屋刑部卿義助(わきやぎょうぶきょうよしすけ:新田義貞の弟)が籠城していた美濃の根尾(ねを)の城を攻め滅ぼされて、吉野に帰参したところ、後村上天皇は敗北の責任を問わず、そのことを責めることなく、ここ5、6年の間の北国での戦闘の功績に報い、無事に帰還したことを喜ばれて、その次の日には臨時の宣旨を下され、一階級進められてその労をねぎらわれたのでした。けれども、そのことに不満を抱いた洞院実世左衛門督(とういんさねよさえもんのかみ:洞院公賢の長男)は、殿上人が伺候する席で、後村上帝を批判されて、「(敗北したのには触れずに)お褒めになって官位を進ませられたのは、治承の昔に、平維(これ)盛(もり)が富士川で水鳥の羽音に驚いて逃げ帰ってしまったのに、祖父の清盛入道が一(階)級進めたのと変わらないのでは(呆れたことだ。)」とおっしゃって苦笑いされ、一同に会する殿上人たちに意見を求められた。
 その話を聞いていた隆資卿が辞を低くして申されたことは、「この度の宣下は、今上帝の叡慮から出た事です。」と後村上帝を擁護することから話し始められました。そして、その理由として『六韜(りくとう)』を引用して説かれたところは、先帝(後醍醐天皇)の独断専行が武将たちの判断を狂わせ、その威信を失わせて、結果的には北国の敗戦を招いたと思われる事を語り、最後に秦の穆公(ぼくこう)の故事を持ち出し、(儒教の)道理を尽くして話されたので、それを聞いて才気に富んだ気質を持つ洞院実世卿は、言い返す言葉を失ってその場から退出されたという。
 この場面で、四條隆資卿に儒教の正論を朗々と語らせる代弁者の役割をさせて、その後に批判文を書いて締めくくっているところから、「太平記」の作者の意図は、儒教思想の理想を述べさせ、聞き手に理解させようとしているのかもと思います。つまり、あの南朝一筋で闘っている四條隆資卿がおっしゃっている事は正しいことであるという風に、当時の都の人々に理解出来るように、四條隆資卿の人物像が周知されていた事が分かります。
 同様に、正平2年(1347)12月12日、「太平記」中でも著名な逸話である楠正行(まさつら)のf0300125_8435413.jpg最後の参候の折の話においても、後村上天皇に拝謁した正行の言葉を隆資卿が伝奏として取り次いでいます。その時、後村上天皇は御簾を高く上げさせて、じかに正行と対面し、「慎重に行動して、命を全うするように」と言葉をかけられます。ですが、最終決戦に臨む決意をした正行は何も答えずに退出しました。その後、後醍醐天皇の御廟に参って別れを告げて、その横に建つ如意輪堂の壁板に一族銘々の名を書き連ねて、最後に正行がしたためたのが、「返らじと兼ねて思へば梓弓 なき数にいる名をぞとどめる」の和歌でした。四条畷の激戦で、南朝軍の敗北を見届けた隆資卿はすぐに吉野へ戻り、より奥地である賀名生へ撤退を申し出ます。まずは引いて再起を促すことを進言して、後村上天皇を護ったのです。

蟷螂山の創建へ

 戦いに明け暮れる日々が続いていたので、京の人々は町の辻や小屋などで「太平記」を読み聞かせる物語僧を待ちかねたことでしょう。そのような理由で、物語僧という存在が生み出されたのは必然であり、『太平記』の成立当初からのことでした。物語僧の活動により、正平の役での八幡合戦で、四條隆資卿の斃死(へいし)の有り様が、時をおかずに都の人々に伝わり、四條隆資卿の伝説が生み出されて行きました。f0300125_8514057.jpg
 その結果、隆資卿の屋敷があった西洞院に住む町衆の間では、隆資卿の勇猛果敢な生きざまが語り継がれて行きました。それに追い打ちをかけたのが、「太平記」の中での隆資卿の勇姿と生きる姿勢で、南朝一筋に散って行った潔さでした。
そんな町内の人々の思いはいつしか、周りの町内が山鉾を持つようになって来ると、「うちでも山を持ちたい。四条はんの勇姿を讃える勇壮な山を(作りたい)」という思いが、年を経るごとに高まり、「どないやろ、同じ町内のあのお人、お薬やらを商うてはる陳外郎大年宗奇さんに相談してみようやないか」ということとなり、そんな町衆らの熱い思いを聞いた陳大年宗奇は心を動かされて、「隆資卿没後25年忌大法会を岡崎(にある四条家の菩提寺である)善勝寺において行っている記(録)がみえる。当町よりも若干の人が参列したものと思われることは、祇園祭の巡行に蟷螂の模型を乗せ参加しているからである。いずれにしても陳大年の構想と資金は大であったとおもわれる。」(「蟷螂山由来記」)とあります。すべては想像の域を出ませんが、蟷螂山保存会の本井氏の話を聞いた時、こんなことを想像してしまいました。
(つづく) 空白

次回は、「蟷螂之斧」の故事について考えてみたいと思います。
(京都産業大学日本文化研究所 上席研究員) 空白



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# by y-rekitan | 2017-09-26 09:00 | Comments(0)

◆会報第81号より-05 太鼓祭り

高良神社の太鼓祭りを楽しむ

野間口 秀國(会員)


 高良神社の太鼓祭りに関することがらは 『洛北史学第14号 石清水八幡宮門前町における摂社高良社と太鼓祭り』(*1)と題した研究論文にて、専門的に、また分かり易く報告されており、拙稿をまとめるに当り多くを学ばせていただいたことをまずもって述べておきたいと思います。人生のおおよそ半分を八幡市に住みながら「高良神社の太鼓祭り」についても知らない事ばかりでした。八幡の歴史に興味を持ち、退職してから大小さまざまな疑問を自分なりに調べてはおりますが、高良神社の太鼓祭りにも素朴な2つの疑問を持っておりました。その1つは「祭りがなぜ7月18日となったのか」であり、もう1つは、「4区と5区の神輿はなぜ無いのか」でした。ちなみに7月18日は私の誕生日でもあり、疑問を解くためにも今年は祭りをじっくりと見ることから始めました。

 祭り当日の夕刻、電車を降りて一の鳥居あたりまで歩を進めると、あたりは祭りの雰囲気にあふれていました。法被姿の担ぎ手たちが祭り見物の人達に混ざり、三々五々宮入の時刻を待っているといった様子でした。鳥居の手前には「7月18日は八幡の氏神さま高良神社のお祭りです」と書かれた大きな横断幕が掲げてあり、祭りの空気を身体で感じながら神輿の並ぶ頓宮へと向かいました。頓宮の中庭には各区の神輿が整列し、それらを囲むように談笑する人々や、昼間に相当活躍されたのでしょうか、疲れて座り込んでいる人などさまざまでした。宮入りまで暫く時間があり、缶ビール1本とコロッケ1個を買い求めて一の鳥居の近くで待ちました。それまで少し怪しかった空は「熱気を少し冷やしたら・・・」と言うように夕立へと変わりました。最寄りの店の軒下に逃れて缶ビールを開けコロッケを口にしながら上がるのを待ちました。同じ軒下に「あおぞら子供会」なる法被の子供達がいたせいでしょうか、「清めの雨」と呼ばれた夕立もほどなく止んで雨宿りの人達も頓宮へと移動を始めました。f0300125_184614.jpg
 
 ところで、高良神社の例祭について前述の論文(*1)の冒頭に以下のようにありますので引用させていただきます。「石清水八幡宮の摂社高良社は、八幡宮遷座以前からの産土神であり、そこでの氏神への祈りは、八幡宮の祭祀とは一線を画しており、六月の例祭は、十八世紀中ごろには、河原の夕涼みを兼ねた遊楽として定着していた。太鼓神輿は、若衆の自己顕示と町の結束の発露として門前の主要な町々から俄か太鼓が担ぎ出される。(以下略)」引用終わり。ここには「六月の例祭」とあります。また、『男山考古録 巻十』 (*2)の「高良社獻燈用道具藏」の項にも以下のように書かれています。 曰く「・・・こは近く天明三四年の比、土俗の私に河原大明神を郷民の氏神と崇め、毎歳六月十八日を祭日と定めて、申語らひて毎家に釣挑燈を照し、又社頭所々に堤燈を建列ね、前十七日を夜宮と称へ参詣する事、年を追て盛に相成て、・・・(略)」と。ここでも「六月十八日」とあります。また 「太鼓まつり 案内チラシ」(*3)には「高良神社例祭の始まりは天明3年(1783)頃」とあり、十八世紀中頃には祭りは定着し、天明(1781~1789)年代初期には祭用具納め置土蔵を営むほど盛んになった様子が分かります。しかし、この祭りの開催日が六月十八日から七月十八日と変更されるにはおよそ百年の時代を下ってからのようです。

 慶応4年・明治元年(1868)正月、鳥羽伏見で始まった戦いにて八幡の町も大きな被害を蒙り、高良神社も炎上をまぬかれませんでした。戦火で焼失した高良神社は山上の若宮社に合祀され、六月十八日の神事は若宮社にて営まれ、翌年も太鼓は出ず社士の屋敷の門前の提灯にのみ淋しく灯された、と前述の論文にも書かれております。山下住民の高良神社再建の思いは強く、明治14年末には再建願いが出されました。住民の寄付金で再建費用が賄われ、明治17年5月6日に社殿が落成しました。高良神社の祭日は、明治に入って太陽暦が採用(明治5年12月)された後も6月に行われていましたが、新暦の6月は、田植えなどで農作業が繁忙期の為に、明治15年には1ヵ月後の「七月十八日」への祭日替届けが出されて受理されました。その結果明治15年(1882)から祭日は新暦の「七月十八日」となって現在に至っているのです(*1)。しかしながら平成8年(1996)に国民の祝日「海の日」が施行されたことにより、今年の宮入は祝日前夜の七月十六日に行われたのです。

 さて、もう少し宮入の様子を書いてみたいと思います。夕立が過ぎてきれいになった空も日が陰り始めるといよいよ宮入の始まりです。頓宮の中庭で待機していた各区の神輿が、子供神輿を皮切りに順番に繰り出してゆきます。威勢の良い掛け声とともに担ぎ上げられた神輿は頓宮を出ます。頓宮を出た神輿は提灯の灯りで照らされた高良神社の鳥居の前で、その荒々しい動きをしばし止め、担ぎ手の皆さんも神妙な面持ちとなります。石清水八幡宮の神官によりお祓いを受けるのです。少し高い台の上で、提灯の灯りに照らされた白い大幣(おおぬさ)が神官によって左、右、左とかざされ、引き続き、白い紙が1cm角くらいに切られた切幣(きりぬさ)が撒かれました。
f0300125_1875449.jpg お祓いが終わると、再び威勢の良い「ヨッサー、ヨッサー」の掛け声に合わせて神輿を大きく揺らしながら参道を二の鳥居方向へと進みます。頼朝公ゆかりの松近くまで進むと一旦止まり、またお祓いを受けた位置へと戻り、再び二の鳥居方向へと進みます。最後に、訪れた多くの人達に向かって今一度勇ましい掛け声をかけあい、観客から大きな拍手を受けて退場します。 当夜は子供神輿3基に続いて大人神輿が1、2、3、6区から繰り出されました。

 かつては4区、5区の神輿もあったようですが、今では4区と5区の神輿はありません。この2つ目の疑問の答えを、私は前述の論文に書かれた「石清水八幡宮の摂社高良社は、八幡宮遷座以前からの産土神であり、そこでの氏神への祈りは、八幡宮の祭祀とは一線を画して・・・(略)」にあるのでは、との思いに至りました。すなわち、これは高良神社を氏神と祀る人々のお祭りなのだ、と。また山下に長年住んでおられる方にもお聞きすると、「4区と5区には他の氏神様がおられるからだろう」とも話していただけました。ここで八幡の区割りについて書かれた『八幡市誌 第3巻』(*4)に目を通すと、4区、5区の氏神様のことにも気づきました。八幡の区割りは、明治22年6月28日から7月2日の町議会で決められたことが市誌に書かれており、「若干の変化はあるが、ほぼこの行政区で第二次大戦終了まで実施された」とあります。ちなみに、1区は36の小字(こあざ)からなり299戸、同じく2区は31小字で280戸、3区は38小字で268戸、4区は29小字で172戸、5区は11小字で79戸、6区は4小字で11戸、と記されてあります。これらの小字をここで列記はいたしませんが、これらを手許の地図(*5)にも照らし合わせると、4区には「狩尾神社」が、また5区には「川口天満宮」があることも分りました。

 実際に祭りを見たり、調べたりして当初の疑問への私なりの答えは得られた、との思いは持てました。来年もまた祭りを楽しみたいと改めて思います。近年ではこの祭りを楽しんでおられる外国からの旅行者と見られる人たちが増えていることも記して本稿を締めさせていただきます。冒頭の論文(*1)には高良神社の「雨乞い神事」に関することも書かれてありますが、ここでは祭りに関してのみを参考にさせていただきました。また私の疑問に親切にご教示いただきました皆様方に紙面より感謝申し上げます。 (2017.8.27)

参考資料・書籍等:
(*1)『洛北史学第14号 石清水八幡宮門前町における摂社高良社と太鼓祭り』平成24年(2012)6月発行 竹中友里代著
(*2)『男山考古録 巻十』 石清水八幡宮社務所 長濵尚次編著
(*3)太鼓まつり 案内チラシ(平成24年及び27年版)
(*4)『八幡市誌 第3巻』 八幡市発行 
(*5)『都市地図 京都府4 八幡市・久御山町』 昭文社刊

# by y-rekitan | 2017-09-26 08:00 | Comments(0)

◆会報第81号より-06 八まん宮道

「石清水八まん宮道」に悠久の歴史がある


 谷村 勉(会員)


【八幡の道と空海】


 高野街道とは嘗て空海が高野山への道をとったという古い街道を指しました。
空海が実際に高野山へと足を運んだと思われる八幡の道は橋本にあります。
大山崎・橋本間の淀川に架かる「山崎橋」(神亀2年・725架橋)を大山崎から橋本に渡り、楠葉、招堤南町の「日置天神社」を通って出屋敷、津田の集落に入る道です。橋本の近く楠葉中之芝の「久親恩寺」に古い地蔵道標がありました。

f0300125_1422085.jpg 鎌倉期の道標でしょうか、両手で宝珠を持つ「地蔵菩薩立像」の崩れた光背の左に「すく 八まん宮」、右には「右 かうや 左 はし本道」と彫られて、橋本から楠葉を通る旧高野道の存在を証明する貴重な地蔵道標だと確認できました。
 空海は石清水八幡宮遷座の25年前に入定しています。八幡宮遷座後、八幡の北の限りである橋本町や科手町は淀川水運と共に早くから道や町々が整備され、その後に男山東麓の南北の道が整備されていきますので、空海が洞ヶ峠に至る男山東麓の道を歩くことはありませんでした。八幡宮が遷座される以前の道路は現京田辺市大住の府道22号関屋橋から内里を通り木津川に沿って伏見区淀美豆(旧八幡神領内)に至る「旧山陰道」と府道22号関屋橋から分岐して志水廃寺跡(八幡月夜田)周辺を通り、丘陵を越え足立寺跡付近から楠葉に入り橋本へ向かう「旧山陽道」の二つの古代官道を中心に発展して行く経緯があります。

【八幡の宝物】


 江戸時代の中頃に描かれた「石清水八幡宮全図」をご存知の方も多いと思いますが、八幡にとりましては「宝物」と云えるような絵図で、八幡の歴史の底力を感じさせる作品です。
八幡市民図書館(八幡菖蒲池)の入口のロビーやふるさと学習館1階展示室(八幡東浦)にも同様の実物大の絵図が展示してあります。ゆっくり見て行くと色んな事が読めてきて楽しくなります。当時の地形や神社仏閣、建物などと共に、幸いにも今も沢山残る各町名や歴史上に出てくる史蹟名勝など八幡の歴史を確認する手引きとしても貴重な絵図で、江戸時代の町の様子を伝えるこの絵図こそ我々の「宝物」といえます。いつかこの絵図から読み取れる数々の物語を解説できる機会があればと思う程です。絵図の北側に「御幸道」と「京街道」が交差する地点に「御幸道立石」と書かれた箇所があります。これが「男山考古録」に記されている「正徳3年(1713)」に「石清水八幡宮検校新善法寺行清」が建立した「石清水八幡宮鳥居通御幸道」の石碑で一の鳥居までの「御幸道」(行幸大路)を指しています。この石碑は現在も残り、御幸橋の付け替え工事で八幡宮の頓宮の中庭に一時保管されていることが分りました。
 明治になって、木津川、宇治川の流域が現在のように変わった為に、「御幸道の石碑」の位置も変わりましたが、年度内には御幸橋の南詰に再び建つと「市の担当者」から聞きましたので、300年前の江戸時代に建立された歴史的文化財として、じっくりこの石碑をご覧ください。
f0300125_158512.jpg

【やわた道標の調査】


 一昨年から凡そ2年をかけて八幡市内はもちろん近隣自治体を含め、江戸時代の道標調査を行いました。「やわた」の文字や里程が彫られた道標を「やわた道標」と捉えて、その写真撮影とともに自治体別に「やわた道標」の本数を確認しました。総数で76基ありました(八幡の22基を含む)。詳しい内容は別の機会に報告しますが、それぞれが歴史的価値のある重厚な道標群でした。
 京都市内では南区唐橋羅城門の矢取地蔵堂前に「左 やわた八幡宮」と彫られた道標を含めて8基がありましたが、八幡に近い伏見区に7基が残り、長岡京市に1基、大山崎町に1基ありました。
大阪府には枚方市に26基もの道標があって「八まん宮道」、「八まん道」、「八幡街道」などと彫られた見事な道標が残っています。高槻市には3基、茨木市は1基、交野市に2基、寝屋川市に2基、四條畷市に3基、大東市に2基、東大阪市には5基があり「やはた」、「京 やわた」、「やハたみちすじ」などの文字が強く印象に残りました。このように今でも近隣自治体には多くの「やわた道標」が残り、自治体や住民にとって江戸時代の道標は大切な文化財であると自覚して、できる限り現場保存に努力し、大事に扱われている様子がひしひしと伝わってきました。
          
【八幡の道は八まん宮道】


f0300125_14533014.jpg 「八幡」へ案内する道標の数々は主に江戸時代に入って街道が本格的に整備されるに従い、往来する人々も飛躍的に増大しました。それに伴って道標もその地方の住人や有徳人、信仰心のあつい人々によって建立されたようです。「地蔵菩薩像」の道標が大変多く目につきますが、墓石に道案内を刻んだ道標も有りました。
道標には「京・やわた」をセットで案内するケースも目立ちます。現代の様な案内地図や電話もない時代ですから“やわた道 石の地蔵に 聞いて行く”と多くの地蔵道標に道を教えられては、ほっとするような息遣いが感じられ、「京やわた」の文字を見ては、都に近く何となく「みやび」な雰囲気を感じ取っていたかもしれません。
 八幡以外に54基もの道標群が「八幡道標」として現存します。如何に多くの人々が八幡宮参詣道としての「八幡の道」を歩いたものでしょうか。特に河内や大和、摂津の人々の往来が多く、放生会や安居神事の祭には沢山の人々がその役割を担ったり、多くの参詣人で賑わう様子が古文書からも読み取れます。
 「やわた道」あるいは「京やはた道」の道標に導かれた人々が実際に八幡宮の神領に入れば「八幡宮道」と書かれた道標が多く目につき、いよいよ「石清水八幡宮」も間近に迫っているのだ、と実感したものでしょう。
 「京・やわた道」「やはた道」「八まん宮道」の道標は八幡に数多くありますが、これだけの「やわた道標」の数の多さは一体何を物語っているのかはすでに明らかです!それに比べて男山東麓の南北の道に「東高野街道」と書かれた道標は1基もありません。これらからも八幡では決して「東高野街道」と呼ぶような道はなかったことが誰でもすぐ理解できます。江戸時代に、さも「高野道」や「東高野街道」が男山東麓を走っていたとするような文章があればこれは間違いです。歴史を解説する場合はその当時の常識や規範(スタンダード)で語らねばなりません。現在の規範をあてはめて解説するのは間違いのもとになります。ここは歴史を語る者が一番気を付けるところです。
 八幡では「八幡の道」の名称を他の宗教施設を連想するような名称に置き換えるようなことは決してありませんでした。「男山考古録」でも洞ヶ峠辺りから大阪寄りの道を「高野道」と呼んでいたことが明らかです。古来八幡に「東高野街道」という名称の道は無かったという真実を知って「ビックリする人」がなんと多いことでしょうか!
 凡そ90年前、昭和初期に八幡のあちらこちらに「三宅碑」(京都の三宅安兵衛遺志碑)が建てられました。その三宅碑の建立場所については「西村芳次郎」(当時の松花堂所有者)が大きく関わって、男山東麓の南北の道も「高野道」としたかったような気配が感じられますが、住民から受け入れられるものではなく、仕方なく西村芳次郎をしても、現在の月夜田交差点にある「右 高野街道」(昭和2年建立)の三宅碑を建てるのが精一杯だったようです。但し元々この「三宅碑」はここに建ってはいません。現在の「宝青庵」(もみじ寺)と中ノ山墓地の間の旧道(本来の古道)にありました。右に行けば洞が峠の高野道に至るという意味です。志水町(道)のはずれがすぐ洞ヶ峠という認識が当時は在ったのかも知れません。なお、この三宅碑には「文学博士 西田直二郎書」とあって、何とも含蓄のある石碑に見えます。
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【借物では「宝物」になり得ない】


 楠葉中之芝の「久親恩寺」にある両手で宝珠を持つ「地蔵道標」が橋本から楠葉を通る旧高野道の存在を証明する「地蔵道標」であることが判り、これは楠葉はもちろん、八幡の橋本にとっても「宝物」の発見になりました。
 また江戸時代から伝わる「石清水八幡宮全図」も「宝物」です。これ程の絵図を他の地域ではあまり見かけません。しかも江戸時代から繋がる町名や道筋がそのまま残り、いろんな歴史の舞台となった物語がこの絵図から次から次へと浮かび上がります。
f0300125_14584216.jpg 八幡や近隣自治体の「やわた道標」の調査では総数76基もの道標が残っていました。その殆んどが江戸時代に建立されたもので、歴史の重みを感じさせるほどの重量感がありました。京都市内ではやはり八幡の近くの伏見区に集中しており7基が残っていました。一つの自治体では概ね1基あるいは2~3基程度でありましたが、近隣の枚方市では牧野、楠葉を中心に何と26基もの道標があり、昔から同じ八幡宮文化圏であったことが窺い知れます。八幡には22基の江戸時代の「やわた道標」が残っています。「すぐ八幡宮」「やわた道」「八まん宮道」と書かれた道標群はこれらも我々のかけがいのない「宝物」です。
 さて、最近になって「石清水八幡宮参詣道」として「やわた道」、「八幡宮道」などはるか昔から八幡信仰の道として、その役割を果たしてきた男山東麓の道を「東高野街道」などと言い出して、誰が何時建てたか解らない薄っぺらな道標が僅か3kmの距離に13基も建ってしまいました。常識的に2,3基もあれば十分の処に、13基もの道標を建てないと信用してもらえない、との思いからでしょうか、これでもか、これでもかと建つ姿を見て、段々見苦しくなりました。この道標に歴史観を彷彿させるものがあるのでしょうか。
 自ら歴史的な調査も実施せずに、何処かの学者の意見を鵜呑みにするだけで建てたようですから間違いだらけで、理屈に合わない無駄な道標が沢山あるように思われてなりません。聞けば平成に入って、大阪から発信された歴史街道運動に乗っかって、観光集客を目的に建立したようです。我々八幡の住民に殆ど馴染みのない「高野街道」がなぜ八幡に突然に出現するのか?驚きです。この様な高野山ブームに乗っかったような借物の名称では八幡の「宝物」にはなり得ません。先般、八幡のとある協会のネット記事を見ていると、八幡は「東高野街道の宿場町」であったという誤った引用記事を掲載していました。何をかいわんや!事実誤認を誘引させるネットの引用記事は安易に掲載しないのが鉄則です。
       
【男山東麓の道は「石清水八まん宮道」がふさわしい!】


 我々の世代が受け継いできた八幡の歴史は次の世代にもしっかり引き繋いでゆくことこそ歴史や伝統が繋がりをもって活きてきます。男山の東麓を南北に走る道の名称は八幡の住民にとっては歴史的にも、江戸時代の道標の数々の存在を見ても「石清水八まん宮道」とあってこそ本物でネイティブな名称であり、通称「八まん宮道」だとすれば、近隣の八幡道標や八幡市内の道標と結びついて、一気に歴史が繋がり、ここに悠久の歴史を感じるとることができるはずです。現在、日本で一番多い神社は八幡神社で、いたる所に「八幡宮道」や「八まん道」があると想像されますが、「石清水八まん宮道」の名称であれば、ここ八幡にしかない固有の道になります。
 八幡に男山あって高野山なし、八幡に「八まん宮道の道標」あって「高野道の道標」なし、八幡に「石清水八幡宮」あって「八まん宮道」あり、八幡に「石清水八幡宮」あって「宝物」あり。
 八幡の歴史を調べてゆくと、幸いにも八幡にしかない「宝物」が続々とでてきます。一般には殆ど知られていない歴史的事実や文化財などを含めて驚くほどですが、残念なことに自治体には発信力が期待できそうにありません。市井の郷土史家の活躍こそが期待されるところです。八幡の歴史を探究し、自分の目で確かめ、信頼される確かな情報を共に発信してゆきたいと願うところです。  
以上  

# by y-rekitan | 2017-09-26 07:00 | Comments(0)

◆会報第81号より-07 本の発刊

『石清水八まん宮道』にいざな道標みちしるべ
―江戸時代の八幡道標―
の発刊にむけて

「八幡の道探究部会」編集委員会


 2015年10月に古道の調査を目的として本会の専門部会「八幡の道探究部会」を立上げて活動しています。その一環として編集委員会を設けて約2年間の道標調査結果を取りまとめて題記の冊子を発刊する準備を進めていましたが、このたび予定通り発刊する運びとなりましたので概要をお知らせします。

出版の趣旨

 八幡の古道を歩いてみると、当時の人々が生活する上で必要、かつ現在も貴重な道標(みちしるべ)が多く残されています。しかし残念ながら壊されたり、倒されたり、あるいは他所に移されたり、意味のない形で放置されているものも見受けられます。一方で八幡市に通じる市外の古道には、石清水八幡宮や八幡を目指す多くの道標が残り、現在も大切に保護されています。 
 本書は150年以上前の「江戸時代」に建立された八幡市内及び市外の「八幡道標」ともいうべき道標群を「昔と今を結ぶ掛替えのない歴史遺産として保護し」、「後世に引き継ぎたい」との強い願いから、現状を会員が自分の足で調査した結果をまとめて出版を企画・実施したものです。

本の主な記事

f0300125_9283025.jpg1.刊行にあたって
2.江戸時代の八まん宮道 エリア
  区分地図
3.道標群の紹介―以下の合計76基
  ・八 幡 市 :22基
  ・京都市内:8基
  ・長岡京市:1基
  ・大山崎町:1基
  ・高 槻 市 :3基
  ・茨 木 市 :1基
  ・枚 方 市 :26基
  ・交 野 市 :2基
  ・寝屋川市:2基
  ・四條畷市:3基
  ・大 東 市 :2基
  ・東大阪市:5基
4,八幡道標の調査を終えて
5.編集後記


お願い(2017年10月12日発行)

 是非、一人でも多くの方が冊子を片手に各地の江戸時代と現在を結ぶ八幡道標を訪ねられる事を願っています。道標に関心をもっていただくことが、道標の保護にもつながると確信し、最後の仕上げをしています。 
掲載している地図は、現地で迷わないように道標設置の場所をピンポイントで示しています。
 本書はA5版フルカラーで96ページになる予定です。本書は“本会で自家編集し、それをそのままネット印刷で本にする”ことで極力廉価で皆様にご提供できることを目指しています。
 発行日は10月12日の予定で、10月例会(講演と交流の集い)会場でもお求めいただけますように準備中です。

※)本書の刊行に関する事前問合せは、編集委員会 高田昌史 宛にお願いします。
  電話 090-2011-7503 または メールtakata@cd6.so-net.ne.jp

# by y-rekitan | 2017-09-26 06:00 | Comments(0)

◆会報第81号より-end

この号の記事は終りです。


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# by y-rekitan | 2017-09-26 01:00 | Comments(0)

◆会報第80号より-top <スクロールだけで全記事が読めます>

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この号の会報からは現在、下記の記事が掲載されています。
このまま下にスクロールして頂くと順次連続してご参照頂けます。


◆シリーズ:“心に引き継ぐ風景” ⑪◆
◆《歴史探訪バスツアー》伊弉諾神宮と東山寺を訪ねて◆
◆シリーズ:“八幡の古墳と鏡” ④◆
◆シリーズ:“四條隆資卿物語” ②◆
◆八幡の京街道は川底に沈んだ◆
◆消えた踏切道に思う◆
◆今年白寿を迎えました◆



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# by y-rekitan | 2017-07-24 15:00 | Comments(0)

◆会報第80号より-01 豊蔵坊信海

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心に引き継ぐ風景・・・⑪

豊蔵坊信海と北村季吟きたむらきぎん


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 豊蔵坊信海(孝雄)は松花堂昭乗の門人であり、藤田友閑、中村久越らと共に
歴史に登場する。後年は狂歌作者として名を馳せ「豊蔵坊信海狂歌集」がある。
豊蔵坊は三河以来の徳川家の祈願所であった為、107石の領地朱印状を有し、年に3度、将軍に拝謁している。他に伏見奉行所より300石を支給されており、壮大な坊舎が絵図から見て取れる。今、跡地には「豊蔵坊跡」の三宅碑が建ち、石垣のみが往時を偲ばせる。
 信海、終生の友として、北村季吟がいる。季吟は現在の滋賀県野洲市の出身で
父宗円が京都に出て医や連歌を学んだ為、季吟も早くから医業を学び、長じて山城長岡藩の藩医であったことが知られている。俳諧は初め安原貞室(やすはらていしつ)に学び、後に松永貞徳の門に入る。貞徳没後「宗匠」として独立後の門人には、かの松尾芭蕉がいる。季吟が八幡豊蔵坊を直接訪れたのは寛文元年(1661)8月28日、季吟38歳、信海36歳の時であった。5日間逗留し、その時の贈答歌が残る。
信海が元禄元年(1688)9月13日に63歳で没した翌年、季吟は幕府歌学方として五代将軍綱吉に仕える。神應寺19世・廓翁鉤然(かくおうこうねん)に帰依する大奥総取締「右衛門佐(えもんのすけ)」はこの時期に多くの上方文化人を江戸に呼び寄せたが、季吟の推挙にも関わった事が容易に想像できる。

(写真と文 谷村 勉)空白



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# by y-rekitan | 2017-07-24 12:00 | Comments(0)

◆会報第80号より-02 淡路島バスツアー

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《6月例会 歴史探訪バスツアー》

伊弉諾神宮いざなぎじんぐう東山寺とうさんじを訪ねて~


  藤田 美代子 (歴史探訪担当幹事)



 昨年よりさらに遠く淡路島へと企画いたしました。
 従来通り市内4ケ所の集合場所にお集まりいただき、順次バスに乗車、4番目の一の鳥居を予定より10分早く、総勢39名にて出発致しました。当初見込みの参加人数を越えましたので参加費を8,500円から8,000円に値下げさせて頂きました。
 今年度は当日の不参加者は居られず、遅刻される方もなくスムーズな集合で出発することができました。
 途中名塩でお手洗い休憩を取り、伊弉諾神宮へと向かいました。

 伊弉諾神宮は、古事記・日本書紀に、国生みに始まるすべての神功を果たされた伊弉諾大神が御子神なる天照大神に国家統治の大業を委譲され、最初にお生みになられた淡路島の多賀の地に「幽宮(かくりのみや)」を構えて余生を過ごされた、と記されていることに由来するそうです。f0300125_1194210.jpg
 境内地は約一万五千坪、日本最古の社です。江戸時代の地誌によれば二丁四方の社地を領したこともあり、広大な神域でありました。
 バス到着後、神明鳥居の一の鳥居・二の鳥居をくぐり、神地の反り石造りの神橋を渡り、手水舎を経て、重厚な檜皮葺きの表神門に至ります。

 拝殿にて宮司様に厳粛に祝詞(のりと)を奏上頂き、f0300125_11142154.jpg巫女さんによる雅な神楽を堪能したのち、割り拝殿形式であるため、改めて本殿に向き直し、皆さん一同の二礼二拍手一礼の参拝をさせて頂きました。その後宮司様より、神社のこと、また、石清水八幡宮の別宮であったことがあり、今では当社の宮司様が兼務をされている鳥飼八幡宮の説明を頂きました。鳥飼八幡宮には美福門院から石清水八幡宮へ御造進され、f0300125_1119463.jpg安貞二年(1228)に贈与せられた重要文化財(昔は国宝)御鳳輦が安置されていること。現在も石清水八幡宮の放生会に際し、毎年土地の名産「鶏冠海苔(とさかのり)」が奉納されていること、例祭には勇壮な神輿が出ること等々興味深いお話でした。そして境内に出て二班に別れて末社、樹齢九百年の夫婦大楠、神幸式に召される六角鳳輦型の豪華な御神輿、その格納神輿庫、神馬の銅像や御手植えの松、元禄元年(1688)以前に藩主蜂須賀家の寄進した東西神門等の説明を受けました。面白かったのは、神池のそばに伊弉諾神宮を中心とした太陽の運行図という石碑があったことです。当神社を中心として主要な神社が日本全土に意図的に配置されているというものです。
 「夏至日の出」の方角に「諏訪大社(信濃国一宮)」
 「夏至日の入」の方角に「出雲大社(出雲邦一宮)」
 「冬至日の出」の方角に「熊野那智大社」
 「冬至日の入」の方角に「高千穂神社(天岩戸神社)」f0300125_11255858.jpg
 淡路島を中心につまり、夏至のとき太陽は「諏訪大社」の方角から昇り「出雲大社」の方角へ沈む。冬至のとき太陽は「熊野那智大社」の方角から昇り「高千穂神社」の方角へ沈む。東へまっすぐいったところは「伊勢神宮」となっております。太古の昔天文学・測量技術がそんなにも発達していたのでしょうか?

 伊弉諾神宮を後に昼食会場「きとら」へと向かいます。こちらはツアー下見時案内頂いた伊弉諾神宮権禰宜様より教えて頂いたお店で、海鮮料理がおいしく、団体でも可能とのことで、試食もした上で決めたレストランです。 今までのバスツアーでは昼食は各自の好みで取って頂くことを原則としておりましたが、今回は近くに十分な数の店もなく、たまには交流を兼ての合同の昼食も良いのではということの結果です。皆さんから印象は悪くなかったという感想を頂いており、企画した者として胸をなでおろしているところです。

昼食後は東山寺へと向かいます。
 高速道路を降りた後、東山寺への道はせまく、険しいもので、最後はバスを降りて歩かざるを得ませんでしたが、歩くのはさしたる距離ではありませんでした。
f0300125_11343274.jpg 山門及び本堂は室町時代淡路守護職細川家の寄進とされ、淡路最古の木造建築です。
 石清水八幡宮護国寺にあった薬師如来と十二神将は現在国の重要文化財ですが、かっては国宝に指定されていたものです。
 今回のツアーの大きな目玉であることからも、皆さんは逸るこころで東山寺の階段を駆け上られたのではないでしょうか?私も下見時の気持ちの高鳴りを再び覚えました。
f0300125_1137244.jpg ここでも二班に別れて、本堂と薬師堂を見学させていただきました。
 御本尊は十一面観音で一木三体の名作と伝えられ、常隆寺・千光寺とは木兄弟です。
薬師如来及び十二神将は現在鉄筋コンクリートの近代的建物の薬師堂内に安置されております。これは旧木造薬師堂が昭和40年の秋の台風により倒壊寸前の状態に陥り、津名・一ノ宮両町教育委員会のご尽力により、文部省・県・町のご厚意により建設されたのだそうです。
 尊像が大切に保存されており、有難いことだと思わずにはいられませんでした。
 これ等の仏像が何故に淡路の地に来ることになったのかについて以下のように伺いました。
 1867年幕府は政権を朝廷に返上し、鳥羽伏見の戦いを経て、明治維新を迎えました。明治新政府は王政復古の名のもと、神道を重んじる政策を打ち出し、廃仏毀釈の嵐が吹き荒れます。石清水八幡宮・護国寺の別当であった道基上人は何年もお祀りしてきた仏像が捨てられることが耐えがたく何とかしたいと思っておられました。幕末動乱の中、密使として働いていた佐伯心随尼僧が東山寺復興を目指していることを聴き、復興の手助けになればと当地に仏像を運ぶことを決意されたようです。険しい山道を仏像を背負ってこの地に持ち込まれたそうです。明治二年六月十二日のことです。
 どのように運ばれたのか質問してみますと、樽に入れて運ばれたとのことでした。
其の後道基上人は淡路島に移り住み、永寿寺という小さな寺の住職となり、明治二十二年心随尼の東山寺復興を見届け、七十四才で生涯を閉じられたそうです。

f0300125_11395768.jpg 別れていた二班が一緒に本堂に入り、高野山尼僧学院で教鞭を執ってこられた住職様より、講話を頂きました。感謝して生きることの大切さを教えられました。
 東山寺に心惹かれながら、帰路に向かいました。ハイウェイオアシスで小休止して、予定通り全員無事八幡に到着しました。

 皆様お疲れ様でした。
 最後になりましたがこの場をかりまして、下見時、当日とご丁寧に御案内並びに御説明頂きました、伊弉諾神宮、東山寺の皆様に心より御礼申し上げます。
 来年もまた、八幡にゆかりのある旅の企画ができればと思っています。


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# by y-rekitan | 2017-07-24 11:00 | Comments(0)

◆会報第80号より-03 古墳と鏡④

シリーズ「八幡の古墳と鏡」・・・④
八幡の古墳と鏡 (4)
-東車塚古墳について-

濵田 博道 (会員) 


東車塚古墳とは

 東車塚古墳は国史跡名勝に指定されている松花堂庭園(八幡市大字女郎花)内にある古墳です。というより、もともと古墳があったところを開発、利用して名勝松花堂庭園ができたという方が正確でしょう。この付近は江戸時代の終わりごろから畑地として開拓が始まっています。
『男山考古録』(1848年)巻14「東車塚」に概略次のような記述があります。
f0300125_171013.jpg「女郎(花)塚(おみなえしづか)といふ処の東に、四十間(約73m)ほどの小山のような塚があり、このことである。
(中略)この地は社士神原氏の所領だったが、志水町の民小衛門と儀右衛門という人が40年ほど前、山頂の樹木を切りここを開拓し畑にしようとして、鋤鍬で耕そうとしたが、皆その夜から病に伏して掘り崩すことはやんだ。
儀右衛門の子どもの清兵衛という人が恐れおののいて丘上に小祠を建てて祭った。このようなことは西車塚でもあった」。
 梅原末治氏の『久津川古墳研究』(大正9年(1920年)、水木十五堂発行)には次のような記述があります。
「(東車塚古墳は)北北西面の前方後円墳にして、北西にある西車塚と相去る約一丁(約109m)なり。後円部の西方に女郎花塚なる小円墳を伴ふ。f0300125_1743012.jpg古墳の全部は今全く井上氏の別荘の内に入て、大部分は地均を行ひ庭を形造り、ために原形を明にする能わざる(後略)」。
 古墳は「推定全長90m、後円部径50m、前方部50m、前方部幅30m、葺石・埴輪列、粘土槨(後円部)、木棺直葬か(前方部)」(注1)とされています。前方部は削平されており、現在その痕跡はなく、詳しい墳形や何段築成の古墳であったのか不明です。古墳としてはわずかに後円部が松花堂庭園の築山として残っているのみです。

東車塚古墳の埋葬施設・埋葬状態

 前書で、梅原末治氏は別荘工事を観察していた西村芳次郎氏より話を聞き、次のように記しています。「古墳の外形すでにこの如きを以て内部の構造、遺物の埋葬状態等は既に明瞭にする能わざる点多きも、(中略)この塚においては前方部と後円部との両者に埋葬物存せりが如く、最初前方部の地均の際古鏡一面と剣身一口を発見し、(中略)地表下約二尺(約60cm)にして、土砂に混じ偶然上記の二品を得たるものにして、なんらこれに特殊の造構を認めざり」。
 前方部に於いては「何らこれに特殊の造構を認めざり」とありますから、きちんとした埋葬施設があったのか、不明です。それゆえ、『八幡市遺跡地図』も「木棺直葬か(前方部)」と記述しているのでしょう。この前方部から出土した鏡が三角縁神獣鏡です。
 後円部の埋葬施設については、封土の下、約150~160cmの所に「やや前者(前方部)と様子を異にして、一種の粘土と礫石(れきせき)とより成る槨(かく)の如きものあり」。底に栗石を一列に並べた礫床(れきしょう)があり、次に朱層があってその上に粘土層を置き、「遺物はこの朱層中に存せり」とあります。「西に偏して長宜子孫内行花文鏡(ちょうぎしそんないこうかもんきょう)一面存し、それに隣て東にほぼ相重なれる位置に古鏡二面あり。両者の中間より硬玉製勾玉(こうぎょくせいまがたま)二個を発見せり。刀剣、斧頭、鏃(やじり)の類は鏡よりさらに東に並列し、鏃、甲冑(かっちゅう)の類は刀剣の北側、二面の鏡の東に位置せりと伝へ、鏡は三面共表面を上にして存せり。」(注2)と記されています。
 礫床(れきしょう)・朱層・粘土層を敷いた埋葬施設が一基あり、豪華な副葬品を持つことから、後円部の被葬者がこの古墳の主体であり、遺物も大切に埋葬されていることがわかります。

東車塚古墳出土の副葬品

 さらに「遺物の中にて最も貴重なる鏡にしてその中(中略)長宜子孫内行花文鏡は京都帝国大学に蔵せられその他は個人の有に帰せり」(注3)とあります。現在、鏡4枚のうち京都大学総合博物館(内行花文鏡1枚)と泉屋博古館(三角縁神獣鏡及び仿製六神像鏡の2枚)に分散、所蔵されています。残りの鏡1枚(鼉龍鏡(だりゅうきょ))、碧玉製勾玉(へきぎょくせいまがたま)二個、甲冑などは不明です。甲冑は衝角付冑(しょうかくつきかぶと)及び短甲(たんこう)であることがわかっています。梅原末治氏は大正5年(1916年)にこの古墳を訪れ実見し、「副葬品はその後四散して今行方を失せるもの少なからず。」(注2)と記しています。
 副葬品の刀剣「素環頭大刀」「大刀」(計9本)(注4)の写真が『八幡市誌第1巻』に載っており、松花堂資料館蔵とあります。この「素環頭大刀」とは何か。どのような意味を持った大刀なのか。そのことに関して松木武彦氏の『人はなぜ戦うのか』(講談社選書メチエ)に興味深い記事があります。
 “『魏志』倭人伝によると卑弥呼は晩年、「南」にある狗奴国(くなこく)と仲が悪く交戦していた。狗奴国を攻めあぐねた卑弥呼側は中国・魏の皇帝に援助を求める。皇帝はこれに応え、使者を立て、詔書(しょうしょ)と軍旗をつかわす。武器が供与された可能性がある(京都大学、岡村秀典氏)”(要約)。「その治世の後半頃に卑弥呼を支えたとみられる有力者たちの墓からは、把(は)(=つか)の先をリング状にした大刀が出る。素環頭という中国王朝風の大刀だ。これら素環頭のなかに、247年の軍事支援の折に魏から卑弥呼側にもたらされたものがあると考えている。素環頭は、卑弥呼側の最新兵器として威力を発揮しただろう」。
 東車塚古墳から大刀と共に出土した素環頭大刀(数本)ですが、“古墳の築造は4世紀末~5世紀初頭で、卑弥呼の時代は3世紀前半~半ばだから時代が違うし、関係ないではないか”と思われる方もおられるでしょう。もっともです。しかし、この古墳からは弥生時代後期の鏡(内行花文鏡)も出土していますので、この素環頭大刀が弥生時代後期・卑弥呼の時代のものでないとは断定できません。調査に値すると思います。また、“卑弥呼の側に立たなかった陣営(例えば出雲)の墓からは素環頭大刀は出土せず、そのリング(素環頭)を切り取った大刀が出土しており、陣営により区別していた”(注5)というのです。仮に素環頭大刀が弥生時代のものだとすれば、八幡の地域の勢力は卑弥呼側だったといえると思います。また、4世紀~5世紀の古墳に弥生時代の内行花文鏡と素環頭大刀が埋葬されているとすれば、そのことについてどう考えるか。それらは独自に手に入れたものなのか、伝世したものなのか、伝世したものであるとしても大首長やヤマト王権から配布されたのか、それはいつなのか、など興味深い点が多々あります。
 松花堂美術館で「大刀はどこで見られますか」と尋ねると、現在は所蔵していないとのことです。どこに所蔵されているのかについての最終確認はできていません。所在を市民が個人で訪問して調べたりすることの限界があります。八幡市民としては、市内出土の遺物を見学したいところですが、難しい状況です。

三角縁神獣鏡と甲冑

 東車塚古墳の副葬品の中に三角縁神獣鏡と甲冑(かっちゅう)が同時に存在するのは注目すべきことです。f0300125_9145539.jpg古墳時代前期(3世紀半ば~4世紀末)の有力古墳に共通してみられる三角縁神獣鏡の副葬は中期(5世紀)に入ると近畿を除いてほとんど見られなくなります。替わりに、中期には甲冑を含む多量の武器が河内の百舌鳥(もず)古墳群(堺市)や古市(ふるいち)古墳群(藤井寺市)を中心に出土するようになり、これらの古墳群からは三角縁神獣鏡は出土していません。三角縁神獣鏡が副葬されている古墳には甲冑は副葬されず、逆に甲冑が副葬されている古墳には三角縁神獣鏡は副葬されなくなります。ところが、東車塚古墳では古墳時代前期の三角縁神獣鏡と中期の甲冑、両方が出土しています(埋葬施設は異なりますが)。こういう古墳は珍しく、現在、近畿で7基しか見つかっていません(注6)。すべて前期から中期へ変化していく時期あるいは中期初頭、遅くとも中期中頃までの古墳です。大型古墳群は時代とともに、大和盆地東南部(3世紀半ば~4世紀半ば)→佐紀古墳群西群(4世紀半ば~5世紀半ば)→百舌鳥・古市古墳群(4世紀末~5世紀初頭)へと地域を移動します。それぞれの時期に主導権を握ったヤマト王権中枢の勢力の古墳と考えられています。大古墳群が移動するにつれ、古墳群の構成も複雑になり、副葬品も変化していきます。新時代の要請に対応する組織を作り出す勢力が主導権を握ります。東車塚古墳築造時期はまさに政権の移動の時期にあたります。東車塚古墳の勢力はそのキャスティングボートを握った勢力の一つであり(注7)、その結果、両方の威信財が埋葬されているのではないかと考えられるのです。しかし、そのことがよかったかといえばそうともいえません。八幡市域ではこれ以後古墳築造は衰退し、中期半ばの美濃山王塚古墳を最後に目立った古墳は築造されなくなります。西車塚古墳・東車塚古墳の時代は八幡における古墳時代の頂点の時期、東車塚古墳はその分岐点の古墳ともいえます。田中晋作氏はいいます。「西車塚古墳は、東車塚古墳より先に築造された古墳だが、周辺ではこれより古い古墳が現在のところ確認されておらず、また、東車塚古墳の後続古墳についても知られていない。南山城の古墳編年によると、久津川古墳群で久津川車塚古墳が築造されるころに、この地域(=八幡)の勢力が衰退する。この現象は久津川古墳群との関係によるのか、百舌鳥・古市古墳群を含めた畿内全体の動向の中でとらえるべきか、即断できないが、八幡東車塚古墳を最後に古墳の築造が停止する現象は注意しておく必要がある。」(注7)

三角縁神獣鏡の副葬状態

 東車塚古墳では前方部において「なんらこれに特殊の造構を認めざる」ところから三角縁神獣鏡が発見されました(前出)。このような状態で鏡が発見された例が他にもあります。第2回目でふれた徳島市宮谷古墳の発掘概要(『日本考古学年報42』、P541~P542』1989年)によると、三角縁神獣鏡は「3面分が第2トレンチ(前方部先端)より出土している。いずれも、本来鏡が副葬される内部主体から大きく離れており、後世の盗掘あるいは開墾などによる墳丘削平等によって原位置を移動したと思われる。」とあります。東車塚古墳の出土状況と似ているようにも思います。そのような埋葬状態から、三角縁神獣鏡はそんなに大事に扱われなかったのではないか、葬具、呪具ではなかったのか、という専門家の意見が出ています。

東車塚古墳出土の三角縁神獣鏡の銘文

 三角縁神獣鏡は「三角縁銘帯二神二獣鏡」といいます。『八幡市誌』には「尚方作二神二獣鏡」という名で載っています。次のような銘文があります。
銘文:尚方作竟佳且好 明而日月世少有 刻治今守悉皆右 長保二親宜孫子 富至三公利古市 告後世
 
(この鏡は尚方が作った鏡で立派で良い。明るく日月の世はまれだ。政治を刻み、今を守れば皆右。両親は長寿で子どもや孫に恵まれ 富貴になり出世し商売は繁盛する 後の世まで告げる。[訳:濵田] )
『尚方作竟』(竟=鏡)の「尚方」とは何か。松本清張氏は「漢の宮廷の鋳造所」といいます(注8)。森浩一氏は『考古学と古代日本』(中央公論社)の中で「『尚方作竟』の銘文も多くの三角縁神獣鏡にあるが、『尚方』とは国の官営工場のことで、漢から晋代にかけて中・左・右の三つがあり、魏では右尚方が鏡をつくっていた。」「また『尚方鏡』の銘文の中に『買此鏡者大富』(この鏡を買うものは大いに富む)とあるように、『尚方鏡』は私営工場でつくっていたことを示していて、三角縁神獣鏡の『尚方作竟』銘は尊大な虚詞」と述べています。『尚方作竟』と銘記されていても必ずしも官営工場で作られたものではない、というのです。いずれにしても、中国・魏の官営工房の銘が入った鏡が東車塚古墳から出土していることは事実です。

東車塚古墳出土三角縁神獣鏡の同笵鏡

 東車塚古墳出土三角縁神獣鏡の製作は舶載鏡C段階、260年代といわれています(注9)。同笵鏡は次の3枚が確認されています。  
 ①熊本県芦北郡出土(伝)
 ②奈良県新山(しんやま)古墳出土
 ③出土地不明(福原家所蔵)
 ①の芦北郡は八幡茶臼山古墳石棺・阿蘇溶結凝灰岩の産出地氷川(ひかわ)のすぐ南に位置します。八女市と水俣市の間にあり、八代海に面する南北に長い郡です。「鏡片」が出土したと報告されていますが、その場所の特定はできていません。他の出土品も不明です。
 ②の新山古墳は葛城地方最古・全長126mの前方後方墳です。4世紀前半の築造です。この古墳から鏡34、碧玉製管玉16、車輪石3、石釧1、金銅製帯金具24、鉄刀16、鉄剣16、鉄刀子16など数多くの遺物が出土しています。そのうち鏡は直弧文鏡(ちょっこもんきょう)3、三角縁神獣鏡9、画文帯神獣鏡3、方格規矩鏡(ほうかくきくきょう)4、内行花文鏡14と貴重な鏡が多いです。

長宜子孫内行花文鏡(ちょうぎしそんないこうかもんきょう)

 東車塚古墳出土の鏡の中で、「最も貴重なる鏡として」(注3)位置づけられ、「全面黒漆色を呈せる美麗なる鏡なり。」「外区は細密精巧なる直線と円の文様により成り、四葉座紐(ちゅう)の間に長宜子孫の銘を印す。」(注2)と記されています。面径22.3cmで大型に近い中型鏡です。内行花文鏡というのは日本独特の呼び名で、鏡の弧の連続模様を花弁と見て付けられましたが、真に花弁を表したものかは疑問とされています。鏡の中には宇宙が描かれていてその宇宙の幕(連弧文はその幕である)を開けたものともいわれています(注12)。中国では連弧文鏡(れんこもんきょう)といいます。(『広辞苑』に鏡の図)
 中国・新(しん)-前漢(紀元前202~紀元8年)と後漢(25~220年)の間に15年ほど存在した国(8~23年)-の“王莽(おうもう)の時代に出現した可能性が強い”(注10)といわれています。主に後漢時代―日本では弥生時代―に作られた鏡で、「もっともオーソドックスな(=正統的な、一般に認められた)鏡」(注11)といわれています。「卑弥呼の鏡」候補の一つです。この時代、倭・中国(楽浪郡)・朝鮮半島南部の間で結構交流がありました。白石太一郎氏は「古墳副葬鏡について、二種類の機能」があり、「一つは(内行花文鏡など)司祭者の象徴として祭器とされていた鏡、もう一つは三角縁神獣鏡など呪具として葬送にともなって使われていた鏡」(注13)であるといいます。
 鏡名のはじめにある「長宜子孫」というのは「長生きし、子孫に恵まれる(子孫繁栄)する」という吉祥句(きっしょうく)で、内行花文鏡をはじめ多くの鏡に記銘されています。上に出てきた三角縁神獣鏡の銘文「長保二親宜孫子」も似たような内容です。
 内行花文鏡をはじめ、舶載鏡(=中国鏡)はまず北部九州に入ってきました。弥生時代の鏡の約300枚中200枚ぐらいが舶載鏡で、そのうち150枚ぐらいの舶載鏡が北部九州から出土しているそうです(注14)。そうだとすると、残りの舶載鏡は50枚ぐらいということになりますが、東車塚古墳の鏡は舶載鏡です。当時の倭の首長たちは「司祭者の象徴としての祭器」であるこの内行花文鏡が欲しかったようで、舶載鏡を真似た小型(5~12cm)の仿製(=倭製)鏡が多数出土しています。京都府下で内行花文鏡をみると26枚出土(注12)していますが、仿製鏡が14枚と過半数です。大きさでは小型、中型がそれぞれ12枚ずつ、大型が1枚(椿井大塚山古墳、3世紀後葉、27.7cm)です。東車塚古墳の内行花文鏡は府下2,3番の大きさです。
 福岡県(伊都国(いとこく))の平原(ひらばる)遺跡(弥生時代末期~古墳時代初期)では内行花文鏡だけでも20枚、うち巨大な(46.5cm)仿製内行花文鏡が5枚(出土40枚の鏡はすべて国宝)出土しており、当時の北九州勢力の強大さがわかります。私は福岡県・伊都国歴史博物館-ここは『魏志』倭人伝にある伊都国のあったところ-を訪問し、これらの鏡を見、その大きさと数に驚き圧倒されました。

半円方形鼉龍鏡(だりゅうきょう)

 鼉龍鏡について、梅原末治氏は「四面の古鏡中最も見る可きものなり」と書いています。「鼉龍鏡:仿製鏡(=倭鏡)の一種。だというのは、わにの一種であるといわれている。首の長い獣形が、半肉彫りに表され、その頸部に棒状のものが出ている。獣と獣の間に神像を配したものもある。山口県柳井市の茶臼山古墳から直径44.5cmの大型のものが出土している」(ブリタニカ国際百科事典)。また「鼉」は「形は蜥蝪(せきえき=トカゲ)に似るとも、龍に似るともいわれる。また横に飛ぶが、上に謄(のぼ)ることはできないともいう。その声は恐ろしくて、気を吐いて雲をつくり、雨をもたらすともいう。」(樋口隆康『古鏡』新潮社)と説明されています。しかし『日本歴史大事典』には「鼉龍とは鰐(わに)の一種をさすが、本鏡の文様とは直接の関係がない。」とあり、なぜ鼉龍鏡という名が付けられたのかはよくわかりません。
 この鏡は「独創的な図像」で「文様の精緻なことと共に古墳時代の仿製鏡の製作技術の高さを示す鏡の一つ」(『日本歴史大事典』)とされています。残念なことに東車塚古墳出土の鼉龍鏡は「現物なし」と報告されています(注15)。なお、鏡名の最初にある「半円方形」というのは鏡の内区に棒をくわえる怪獣がおり、次に半円方形帯があるのでその名が付けられています。
 次回は「石不動古墳出土の鏡について」考えてみたいと思います。 
(つづく)

(注1)『八幡遺跡地図』,八幡市教育委員会,2005
(注2)梅原末治『久津川古墳研究』, 水木十五堂, 1920
(注3)佐藤虎雄「東車塚庭園」『京都府史跡名勝天然記念物調査報告第十三冊』,京都府,1932
(注4)「古く用いられた直刀(ちょくとう)を『大刀』と表記し、平安時代以後のものを『太刀』と書く」(広辞苑)。つまり「大刀」には日本刀のような「そり」がありません。
(注5)松木武彦『人はなぜ戦うのか』,講談社選書メチエ,2001
(注6)三角縁神獣鏡と甲冑が共存する7古墳は室宮山古墳・池ノ内5号墳・円照寺墓山古墳、八幡東車塚古墳・久津川車塚古墳・芝ヶ原11号墳・和泉黄金塚古墳。(注7)のP64参照。
(注7)田中晋作『筒型銅器と政権交替』,学生社,2009
(注8)福永伸哉『三角縁神獣鏡の研究』,大阪大学出版会,2005
(注9)松本清張「三角縁神獣鏡への懐疑」『遊古疑考』,河出文庫,2007
(注10)岡村秀典「後漢鏡の編年」『国立歴史民俗博物館研究報告第55集』,1993
(注11)大塚初重『最新日本考古学用語辞典』,柏書房,1996
(注12)森岡秀人「銅鏡を作り始めた近畿弥生人の捜索」講義ノート,古代学協会,2017
(注13)西川寿勝ら「考古学と暦年代」,ミネルヴァ書房,2003
(注14)西川寿勝「三角縁神獣鏡の研究」,古代学協会佛教大学提携講座,2017
(注15)『国立歴史民俗博物館研究報告第56集』,1994 



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# by y-rekitan | 2017-07-24 10:00 | Comments(0)