◆会報第42号より-09 昭乗の下馬碑

 昭乗の下馬碑を探る
 
―藤原尚次が見たという下馬碑を四天王寺に求めて―

高田 昌史 (会員)

はじめに

 八幡平谷には松花堂昭乗の書と言われる下馬碑があり親しまれているが、それを見た藤原尚次は『男山考古録』(嘉永元年1848刊)巻第9の中で「此碑に依て思ひ得たる事あり、攝津國四天王寺に詣で、南門外道の東南向きに下馬碑あり、其形ち文字の大きさ彫刻の模様、當碑と露計も違はず、傍に寛永十四丑年と彫たり、同昭乗の筆痕なる事疑なく・・」と記している。ならばそれを確認できればと今年1月に四天王寺に赴いたところ、尚次の言う南門外道の東南向きは何と大きな交差点の真っただ中。しかし由緒ある石碑なら南門近くのいずれかに退避しているのではと探したが見当たらず、念のためにと東門、西門をあたっても遂にそれらしきものには出会えなかった。

 その後すっかり忘れていたところ、7月の会報40号表紙の「下馬碑と昭乗」の記事を見て、忘れていた宿題を思いだしたかのように本格的な下馬碑の調査を再開した。だがそれは約400年前の下馬碑設置時に遡る本格的な炎天下での調査となった。

見つかった下馬碑

 改めて資料等で調べてみると四天王寺の下馬碑は、現在境内北東隅の本坊にあり、しかも何と3基もあるとのことで、さっそく出向いてみると確かに本坊唐門前に1基、そして奥の庭園入口と西通用門にもある。

f0300125_183717.jpg そこで3基の写真を撮り寸法を測りながら、このいずれかが尚次の言うように八幡平谷と姿かたちや字体が同じで傍に寛永十四年 (1637年)と書かれているならば、昭乗由来の下馬碑が特定できると期待しながら下馬碑の比較に取り組くむこととなった。

まずは八幡の下馬碑との類似性比較

➀本坊唐門の下馬碑
 この碑のみ「馬」の最後の書体(////)が(―)になっており、明らかに八幡平谷と異なる。また、「下馬」文字の開始位置が高い。それに碑の屋根はこの下馬碑のみ鋭角であり、台座の前面への突き出し量も大きい。
背面の刻銘は〈奉寄進、寛永十四年丁丑年閏三月十五日〉と何とか読み取れ、男山考古録に記載の「寛永十四年丑と彫たり・・・」の年代とは合致する。なおこの下馬碑は損傷が激しく、途中で折れたところをつなぎ合わせる修理がなされている。

➁本坊庭園の下馬碑
 3基の中では一番筆跡も碑の形状も八幡平谷に似ており、男山考古録に著者が南門の下馬碑が「其形ち文字の大きさ彫刻の模様、当碑と露計(つゆばかり)も違はす・・・」と書いていることからして可能性はあるが、この下馬碑には残念ながら背面の設置年等の記銘は全く読み取れない。

➂本坊西通用門の下馬碑
 この下馬の筆跡は他の2基の力強さと異なり温和しく上品な感じがして、八幡平谷とは異なる。碑の花崗岩の痛みは比較的少ないが、肝心の背面の設置年が一部判別しづらいところがある。

それでは松花堂昭乗由来の下馬碑は

 尚次の言う南門外道の碑1基を求めて調査に入ったにもかかわらず、3基もの碑が並んでしまうこととなった。そこで、各々の碑は元はどこにあったものかと寺に確認したところ、どこから移設されたものかは不明であるが、かつては四天王寺には東西南北それぞれの門の前に計4基の下馬碑があったとのことであった。現在残っている3基の下馬碑がどこから移設されたのかが不明となると、行方不明の残り1基が南大門の下馬碑であった可能性もあり得ることになるが、3基の下馬碑の内であえて選ぶなら②の本坊庭園下馬碑が八幡平谷の碑と最も似ているとの印象はある。

四天王寺の下馬碑探究の経緯

 ところで東西南北に下馬碑があったとなると当時の様子が知りたくなるが、調査を進めるうちに下馬碑が設置された元和、寛永年間の四天王寺については『攝津名所圖會(ずえ)』に詳しいとの情報を得た。この本は寛政10年(1798)ごろに編纂されたとのことで、その復刻本(同名、古典籍刊行会、1975年刊)を探し出し紐解いてみるとその上巻には何と、7枚に分割されてはいるが当時の四天王寺の鳥瞰図があった。それを合成したのが下の図であるが、そこには4門(図中↓)と4基の下馬碑(図中▽)が名札付きではっきりと描かれている。
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f0300125_1123327.jpg ただ困ったことにこの名所圖會では本文の下馬碑の項で「碑は4門にあり、下馬の文字は朝鮮の雪峰の筆なり。寛永年中来朝の時書かしむ」と書いている。

 雪峰とは当時の朝鮮通信使一行の金義信のことであり、朝鮮使節の一員として来日した人のようであるが、別の資料によると金義信の初回の来日は寛永20年(1643)であり、尚次のいう碑陰の寄進年号とは辻褄が合わない。第一、昭乗の書によるとの考古録の指摘とも合致しない。そこで更に調べていくと、『攝津名所圖會大成』(柳原書店、1976年刊)という新たな本に遭遇した。

 この本は『攝津名所圖會』を上回る内容を持ち、100年後の安政年間に素稿がまとめられていながら昭和になって初めて刊行されたもので、この本の“其之一”には、さらに新たな記載があった。

f0300125_8252969.jpg すなわち、四天王寺の下馬碑は元和年間(1615~1624年)にそれまでの木製の下馬札に変わり石碑として設置された。その際石碑にすることは前例に反すると反対が強く、石碑にはしたもののそれへの誹謗を避けるためになんと“朝鮮人の書”(朝鮮の下馬碑はもともと石碑)と傍記したとのことである。またその後も何回となく修理修復を重ねているとも記載されている。

 なお今回は『攝津名所圖會』などの本に合わせて歴代の四天王寺周辺の古地図についても当たった。それによると周りには門前町を抱え広大な寺領を有していた四天王寺が、何段階にもわたって境界を狭めていった様子が窺える。その大きな変化は近代に入って以降の明治初期の寺領召し上げ、大正・昭和の都市化による道路用地への供出(これも召し上げみたいなものか)によるものであり、その都度下馬碑は居場所を失っていったということのようである。しかしながら幸いなことにその内の3基が、現在はすべて鳥瞰図で点線囲み表示をした本坊に移設されて今に至っている。(移設後の下馬碑は同図▼印の場所で、番号は上述の碑番号に対応)

 実は、八幡平谷の下馬碑はその文字の筆運びから見て昭乗の時代より古く、よって昭乗の筆ではないとの説もあるが(佐藤虎雄氏の『松花堂昭乗』、河原書店・昭和13年)、何しろ格調を要する下馬碑のこと、なんらかの意図で古い書式で書くことはあり得るから、それだけで昭乗の筆ではないとは言い切れない。

 おわりに

 今回の調査として、当初の目的であった四天王寺の松花堂昭乗由来の下馬碑は特定できなかったが、一方でいろいろなことが判ったことは成果であり、感動でもあった。

 寛永年間以前の四天王寺には4門に4基の下馬碑があったこと、そしてその後の紆余曲折を経て残った3基が本坊にあることは確かである。しかし『攝津名所圖會大成』にもあるように、その間何回となく異変や災害に見舞われ修理修復を重ねたに違いなく、現に本坊唐門の碑は真っ二つに折れたものがつなぎ合わされて立っている。もっと砕けて新たにつくられたものもあったかもしれない。今に残る3基が寸法、書体と何がしかそれぞれに異なることもそれぞれの紆余曲折を物語っているのかもしれない。だとすると今は失われているもう1基と合わせて、朝鮮通信使の書によるもの、昭乗の寄進によるものなども混じっていたのかもしれない。そうしたいろんな疑問や可能性を窺わせるかのように3基の下馬碑は今本坊に佇んでいる、というのがいろいろな資料を渡り歩いてなお思う印象である。

  なお、下馬碑自体は中国にも朝鮮半島にも、そして日本の各地にも存在し今に残っている。しかし木製の下馬札の姿を忠実に反映し切妻屋根を冠した下馬碑は今回の調査では、四天王寺と、八幡平谷、そして仙台の瑞鳳寺にしか見当たらなかった。もしかしたら切妻屋根を冠した下馬碑は四天王寺特有で、他の地にあるものも四天王寺に何がしかの縁のある下馬碑の証なのかもしれないと思ったりもする。

 最後に事前の資料調査や炎天下2回の四天王寺の現地確認調査までも同行されて、全面的に協力していただいた友人の田中満男氏(茨木市在住)に感謝したい。
by y-rekitan | 2013-09-28 04:00 | Comments(0)
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