人気ブログランキング | 話題のタグを見る

◆会報第40号より-04 エジソン碑⑤

シリーズ「石清水八幡宮覚書」・・・⑤
御文庫とエジソン碑⑤

 石清水八幡宮 禰宜  西  中 道


 「大寅」の創業者・小谷寅吉氏は、大正4年頃から男山一帯の土地を購入して開発を進めていたが特に八幡宮本殿北側に位置する平地 ― 明治維新前はここに門口坊という宿坊が存在した ― からの眺めは絶景であったから、ここを展望台として重点的に整備することとなり、その結果、人々はこの辺りを「大寅遊園地」と呼ぶようになった。

 大正15年6月に開業した男山ケーブルの経営主体は、男山索道株式会社であるが、その当初の代表者は小谷寅吉氏であり、昭和2年から同5年まで社長の任にあったのは寅吉氏の養子で後に大寅2代目社長となる小谷権六氏である。つまり男山ケーブルは、そもそも「大寅遊園地の乗り物」という性格が強かったというべきであろう。

 ただ小谷氏ら「大寅」関係者は、資金提供や名義上の面では男山索道に関与していたものの、実務面は別の人物に任せていたらしく、その周囲には不動産関連の会社や土建業者など、さまざまな利権が絡んでいて、どうも一筋縄では行かなかったようだ。それやこれやで、開業当初から経営不振が続いていた同社は、昭和3年に男山鉄道と社名を変更、翌4年8月には京阪電気鉄道の子会社となることで、何とかその存続が図られることとなった。そうした状況下、当時は八幡宮駅と呼ばれていたケーブル山上駅のすぐ近くに、ヱヂソン記念碑が建設されることは、男山鉄道とその親会社である京阪電気鉄道にとっても、それなりの集客効果が期待でき、いわば「渡りに船」であったろうことは想像に難くない。

 昭和9年3月15日、金津禰宜以下奉仕によりヱヂソン記念碑敷地清祓式が執行され、同年5月23日には完成した記念碑の除幕式が、同じく金津禰宜以下神職4名の奉仕により華々しく挙行された当時の社務日誌によると、松田長三郎京都帝大教授の長女・静子嬢(当時11歳)が除幕し記念碑建設会実行委員長の青柳栄司博士が事業報告、同会長清浦奎吾伯爵、米国領事ホワード・ドナバン氏、京都府の斉藤宗宜知事らが祝辞を述べたとある。しかし、その晴れの舞台に田中俊清宮司の姿はなかった。   (つづく)

<<< 連載を抜けてTOPへ        この連載記事の続きは⇒⇒

by y-rekitan | 2013-07-28 09:00
<< ◆会報第40号より-03 大谷... ◆会報第40号より-05 京大博物館 >>