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◆会報第39号より-04 エジソン碑④

シリーズ「石清水八幡宮覚書」・・・④
御文庫とエジソン碑④

 石清水八幡宮 禰宜  西  中 道


 エジソン翁は、昭和4年(1929)に世界各国で開催された電灯発明50年祭の時点では健在であったが、実はその記念パーティーの席で倒れ、2年後の昭和6年に満84歳で亡くなっている。つまり、この時期のエジソンは遠い過去の人ではなく、つい最近亡くなったばかりの、いわば生臭さの残る同時代人であり、彼の名声を貶めるような芳しからざる人物評も、米国内では密かに囁かれ始めていたらしい。皮肉なことに、電灯50年祭が催された同じ年の秋、アメリカに端を発した大恐慌は、一朝にして世界を暗転させ、我が国では昭和6年に満州事変、同7年に五一五事件が起こり、翌8年(1933)、欧州ではヒットラーが政権を掌握、世界はいよいよ戦時一色に塗りつぶされていくこととなる中央官僚の嗅覚は、すでにこの時、エジソンの米国内における評価が未だ流動的であったという問題ばかりでなく、日米関係の 急速な悪化という近未来の国際情勢をも敏感に嗅ぎ取っていたのかもしれない。実際、それから僅か8年後には、真珠湾攻撃で日米決戦の火蓋が切って落とされるのであり、もしも戦時下において、石清水八幡宮の境内に米国人の顕彰碑が在ったとしたら、宮司以下神職は非国民だの国賊だのと罵られ、身の危険さえ覚えずにおられなかったであろう。そういう意味で、石田局長にしてみれば、石清水八幡宮を救って差し上げたのは自分だと、むしろ自負するところがあったのではあるまいか。

◆会報第39号より-04 エジソン碑④_f0300125_13404193.jpg 昭和8年10月28日に地鎮祭を執行し、建設工事が始まったヱヂソン記念碑は、基礎部分のコンクリート打設工事を終えた時点で、完全にストップしてしまっていた。内務省からの許可が下りぬ以上、このまま工事を進めるわけにはいかない。そこで関係者一同が鳩首協議を重ね、境内地以外の場所に代替地を見つけだし、そこに記念碑を建設するのであれば、何処からも文句は出ないであろう、というあたりで事態の収拾が図られることとなった。明けて昭和9年春、新たなヱヂソン記念碑建設地として白羽の矢が立ったのが、蒲鉾の「大寅」経営者、小谷寅吉氏の所有する男山展望台の一角であった。 (つづく)
 

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by y-rekitan | 2013-06-28 09:00
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