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◆会報第37号より-05 エジソン碑②

シリーズ「石清水八幡宮覚書」・・・②
御文庫とエジソン碑②

 石清水八幡宮 禰宜  西  中 道


 平成7年1月17日に発生した阪神淡路大震災では、参道の石灯籠48基が倒壊し、一の鳥居の貫(ぬき)と呼ばれる石材に亀裂が生じるなど、当宮にも相当の被害が出た。それ以前から傷みが進んでいた御文庫は、この地震でさらにダメージを受け、このまま放置しておけば参拝者に危害が及ぶ虞もあるとして、遂に平成17年夏までの取り壊しが決まった。その前に重要な古文書・古典籍類は収蔵庫に移し、さほど重要とも思われないが一応保管しておいた方がよいと判断されたものは、数十箱もの段ボール箱に容れ、石翠亭(参拝者休憩所)の一室に移した(昨年、それをまた社務所地下2階の一室へ移動)。
 こうして空っぽになった御文庫の解体工事が始められたのは、平成17年7月15日である。上部の木造建物は簡単に解体・撤去することができたが、その下から姿を現した鉄筋コンクリート製の巨大な構造物に工事関係者は目を見張った。それは、まるで頑丈な要塞のようであり、古代都市の廃墟が一部露出したもののようにも見えた。実は、これこそが、昭和8年に建設された元祖「ヱヂソン翁記念碑」の基礎部分だったのである。

◆会報第37号より-05 エジソン碑②_f0300125_15194932.jpg そもそも、ヱヂソン記念碑の境内建設について、日本電気協会から当時の田中俊清宮司(現恆清宮司の祖父)に申請があったのは、昭和8年8月12日のことであった。田中宮司は、早速翌日から記念碑建設に向け動き出す。

 当時、一定の格式を有する神社は、内務省神社局の管理下にあり、宮司といえども自己の裁量で全てを決することはできなかったが、国の出先機関である京都府に働きかけた結果、清浦奎吾会長(元首相・伯爵)名で出願されていたヱヂソン記念碑建設の件に対し、9月29日に京都府より許可通知が届いた。10月3日には京阪電鉄からも記念碑建設の許可が下りたことについて祝意が寄せられ、いよいよ境内の一角、大楠樹下に全国電気関係者からの浄財を集め、立派な記念碑を建設することとなり、同月22日には田中宮司自ら斎主となりヱヂソン翁記念碑建設地地鎮祭を執行、土台部分の建設工事に取り掛かった、―までは良かったのだが・・・。    (つづく)


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by y-rekitan | 2013-04-28 08:00
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