洞ヶ峠 土井 三郎 (会員) 日本の大手新聞は、政治を政局がらみでしか描かないと云われる。一つの政策が国民の暮らしにどう結びつくのか、あるいは憲法の条項から見てどうなのかということは書かず、政治家の離合集散や政局の動向を優先し面白おかしく描くというものである。従って、そういった政治家の態度や動向を示す言葉が氾濫する。「模様眺め」や「お手並み拝見」がそれで、「洞ヶ峠を極め込む」もその一つである。 洞ヶ峠は、むろん八幡市が枚方市と接する地点にある峠である。 天正10年(1582)6月2日、信長の命で秀吉の毛利攻めの援軍として差し向けられた明智光秀は、主君信長が宿とする京都の本能寺を襲った。だが、信長を殺したものの光秀に味方する大名はいなかった。 6月13日に火ぶたが切られる山崎の合戦を前にして、明智光秀は洞ヶ峠に来て、大和(奈良)の郡山城主筒井順慶に、味方してくれるよう懇請し共に京都に向かおうとした。だが、順慶に拒まれ、光秀は空しく京都に戻らざるを得なかった。 洞ヶ峠に来たのは光秀であって順慶ではない。だが、順慶がここにやってきて、明智軍と秀吉軍の形勢を眺め、強い方に味方しようと極め込んだという誤伝がいつの頃からか広まった。実際、標高70メートルの峠に立っても、山崎や天王山方面は、円福寺を覆う藪や男山に遮られて全く見えない。ここから戦況をうかがうなど不可能なのである。 但し、洞ヶ峠は山城地域が河内や大和との境に位置する交通の要衝(ようしょう)にある事実は思い。 山崎の合戦をさかのぼる事230年前、文和元年(正平7、1352)3月、足利義詮(よしあきら)率いる幕府軍が、後村上天皇を雍して男山東麓に陣を張る南朝軍に襲いかかったのは、洞ヶ峠を拠点にしてのものである。「八幡合戦」の様を描いた『太平記』には、「洞峠に陣を取らんとす。是は河内・東条(富田林)の通路を塞ぎて、敵を兵粮に攻めんが為也」と記している。糧道を断つために洞ヶ峠は恰好の場所であったのである。
by y-rekitan
| 2012-09-28 09:00
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