◆会報第31号より-04 飛行神社

二宮忠八翁と飛行神社

恩村 政雄 (会員)


 先月の例会で選定された八幡歴史カルタの作品に次の句がある。
       「飛行機の 無事を見守る 二宮忠八」

 歴史的に価値ある社寺、古建築物、史跡、名所などが数多くある中で、近代的ニュアンスの濃い飛行機や二宮忠八が何故異彩をはなっているのかと関心を持った。また、「空に夢、世界に光展」の展覧会のボランティア要員に応募した際に、以下の疑問がわき、二宮忠八と飛行神社について調べてみることにした。
   ①航空関係に縁が薄いと思われる八幡市になぜ飛行神社が
     あるのか?
   ②飛行神社を建立した二宮忠八は航空業界とどういう関係が
     あるのか?
   ③飛行神社にはなぜ薬祖神が祀られているのか?  

1、 二宮忠八について

(1)二宮忠八の生い立ち
  二宮忠八は、慶応2年(1866)愛媛県八幡浜市で海産物商の7人兄妹の4男に生まれた。幼名は忠人。父が病没後(忠八12歳)、家業が思わしくなくなり呉服店に丁稚奉公(この時に商人らしい名前「忠八」に改名)、以後活版印刷業、写真業、薬種商、測量業といろいろな職業を経験する。
  22歳の時に徴兵されたが、本科兵基準身長(5尺3寸以上)に4分足りなかったために看護助手として丸亀歩兵第12連隊に入営。
  この頃、村田経芳少将によって村田銃が発明されたのに発奮し、二宮忠八もことあるごとに発明に興味を持つようになり、明治22年(1889)秋季機動演習時に大休止した琴平に向う樅の木峠で、カラスが飛行する時は羽ばたきをするのではなく滑空することに気づき、飛行への大きなヒントを得る。
 その後、丸亀衛戍(えいじゅ)病院、京城郊外の野戦病院に転属。京城郊外で負傷し、広島衛戍病院に配属される。軍勤務時の25歳の時に結婚する。
 軍勤務のかたわら、明治24年(1991)空を飛ぶ夢であるカラス型ゴム動力1号器を丸亀飛行場でテスト飛行。さらに、明治26年(1993)全長2mの玉虫型人力2号器の飛行テストを行う。
 飛行テストを踏まえて改良を加えた設計図をもとに上官に上申するが却下。1年後、2回目の上申も前回同様に却下され、失意の内に軍隊を退役する。

 退役後、明治31年(1898)大阪にある大日本製薬㈱に職工として入社。忠八が創製・改良した薬品は百数十種におよび、中でも明治39年(1906)に開発した潟利塩は大ヒットし、同社の業績伸長に大きく貢献する。
  その後、大日本製薬㈱の支配人に就任し、医薬業界の重鎮である武田長兵衛、田辺五兵衛、塩野義三郎などとの人脈を広げるが、経理部門の不正事件の監督責任をとって引責辞任、同社を退職する。
 大日本製薬㈱在籍中に、木津川河川敷が飛行テストの適地と見定め、明治33年(1900)八幡町に住宅を購入。退職後、大阪・北浜から京都府八幡町に居を移し、持病の療養に努めるが、飛行機に寄せる情熱は衰えることがなく、飛行機製作とテストに情熱を傾けていった。
  一方では、飛行機の発展と共に数多くの殉難者の報道に接し、心を痛め、殉難者を慰めるために宅地内に飛行神社を建立し慰霊に勤める。
晩年の日課は、飛行神社に仕え、幡山と号して飛行千歌、幡詞、幡画を友として余生を送り、昭和11年(1936)71歳で永眠する。

 
(2)飛行器に寄せる挫折と栄光
  • 凧好きの二宮忠八が空を飛びたい、どうしたら空を飛べるだろうか、と飛行器製作に悩んでいた時に、カラスが滑空する時は羽を羽ばたかしていない、玉虫は2枚の翅をたくみに使い分けて飛んでいることにヒントを得て、空飛ぶ器具(飛行器)を製作する。更に地上移動に必要な車輪をも装備する。
  • ライト兄弟が有人で滞空時間12秒の飛行を成功に先立つこと12年前(明治24年)に、すでに二宮忠八はカラス型ゴム動力1号器を製作し、丸亀歩兵場で35mの滑空に成功、更に1号器のテストを踏まえ、改良を重ね2年後(明治26年)には玉虫型人力2号器を製作しテスト飛行を実施。
  • 画期的なアイデアと独創性で飛行テストにまでこぎつけたが、長時間飛行には動力源としてガソリンエンジンが欠かせない。しかし、個人資力では限界があり、これ以上の研究は軍の協力が不可欠となり、今までの設計図を添えて明治27年頃(1894)に上申、明治28年頃に再度(2回目)上申を行うが、またも上官に却下される。
  • 明治36年(1903)ライト兄弟が有人飛行(車輪の装備はなし)に成功したとの報道に接し大いに落胆し、枠組みまで出来上がっている製作途中の飛行器をハンマーで叩き壊し、飛行機研究・製作を断念する。
  • ライト兄弟の有人飛行の成功以後、世界各国は軍備増強にとって飛行機の有意性に着目し、競って飛行機の研究に邁進。日本も明治42年(1909)陸軍が中心となって軍用気球研究会を組織し、飛行機研究が国家戦略となる。
         (軍用気球研究会長は、二宮忠八が2度に亘って飛行器
                   研究・開発を上申した上官(長岡外史陸軍中将))

  • その後、世界的に飛行機の開発競争が熾烈さを増す中において、陸軍航空本部は、二宮忠八答申の玉虫型設計書を改めて精査して、すでに明治26年にはこうした立派な飛行原理とテスト飛行が行われていたことに驚く。また、帝国飛行の記者が我が国航空界の貴重な資料として「二宮式飛行機について」と題する論文を「帝国飛行」に発表。その後の飛行機研究・開発を大いに加速させていった。
  • 二宮忠八の飛行機原理発明の功績を讃えて、大正10年(1921)航空本部長から感謝状が授与される。
    大正14年(1925)飛行原理の気づきを得た香川県・樅ノ木峠に顕彰碑建立。更に愛媛県・八幡浜市、韓国・京城にも顕彰碑が建立され、さらに帝国飛行協会から賞状と有効金杯受領、八幡町長から表彰状と商品受領など、二宮忠八の足跡のある航空業界、薬品業界、関係市町村から顕彰が相次いだ。
    昭和2年(1927)勲六等瑞宝章叙任、その功績は国語の国定教科書に採択された。航空医学の寺岡義信博士が英独両文で「欧米列強に先んじた日本飛行機発明史」の論文を各国航空首脳部に送付し、世界の二宮忠八となった。


2、飛行神社について

(1)創建のいきさつf0300125_151984.jpg
  • 飛行機の研究・開発・飛行が急速に進展するにともない、殉難者も増大する報に接し、自分(二宮忠八)が飛行業界に今後とも尽くすことができる唯一の道は「犠牲者の慰霊」にあると考え、大正4年(1915)京都府・八幡町の自宅内に「祠」を建立し、毎日祈願する。
  • 神職試験を経て神官となり、昭和2年(1927)「祠」を本格的な飛行神社に建立し、殉難者の霊を慰め、かつ航空界発展を祈る。
  • 飛行神社の碑文は白川大将の筆、額は長岡外史中将の自筆、鳥居や灯篭は飛行連隊飛行学校憲兵隊より寄進される。
  • 昭和11年(1936)に二宮忠八が没した後、維持母体の(財)飛行義会(昭和8年結成)に人が得られず、飛行神社は二宮家で維持されていたが、昭和30年(1955)二宮忠八次男の顕二郎氏が社主となり飛行神社を本格復興する。
  • 平成元年(1989)飛行神社を建替え、資料館を新設する。

(2)祭神について
 祭神は「饒速日命(ニギハヤヒノミコト)」、向って右に「祖霊社(航空殉難者・先覚者関係)」、向って左に「薬祖神(製薬業界関係)」
  • 祭神「饒速日命(ニギハヤヒノミコト)」
     古事記・日本書紀に天の岩船のことが出ているのを思い出し調べると、神代にニギハヤヒノミコトが地上に降臨する際に鳥の岩樟船、天の鳥船、天の岩樟船など、空を飛ぶ船のことが記述されていて、飛行慰霊の趣旨に適うと、ニギハヤヒノミコトが祀られている磐船神社(大阪府・交野市)から分霊を受け、祭神として祀る。
  • 祖霊社
     「世界の空は一つだ」の信条の下、全世界の航空殉難者・航空先覚者を合祀し、その慰霊と航空界の安全発展を祈る。毎年の例祭は、カラス型飛行器を飛ばした 4月29日。お祀の霊位は15万柱以上を数える。
  • 薬祖神
     薬業に関係した偉人を祀る。
      (長井博士、下山順一郎氏、丹波敬三氏、武田・田辺・塩野義の先祖の霊)

3、「空に夢、世界に光」の展示会に参加して

(1) 飛行神社参拝者と展示会来館者
 「空に夢・世界に光展」が本年10月19日(金)~28日(日)開催され、堀口八幡市長を初め八幡市役所の関係部局や外郭団体の責任者、市議会員が相次いで来館すると共に、朝日新聞、毎日新聞、京都新聞の取材も受ける。
 一般来館者は八幡市内だけでなく愛知県等、広範囲の各地から来館がみられ、同展への関心の深さがうかがわれる。

(2)二宮忠八の事蹟
 同展の説明員に参加して、当初抱いていた3つの疑問は解消したが、同時に、二宮忠八は飛行機の発明家ということだけではなく、実業家として、文才家としても抜きん出ていたという思いを深くし、二宮忠八に対する認識を新たにする。  
  • 飛行機の発明家として
     空を飛びたいと飛行原理の究明、飛行機開発に心血を注ぎ、ライト兄弟の有人飛行成功後は、空で犠牲になった人たち、航空業界関係者の慰霊に勤め、航空を生涯のバックボーンとする。
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  • 実業家として
     軍退役後、大日本製薬株式会社に奉職し、数々の医薬品の発明、改良を行い、同社の業容発展に大きく貢献し弱冠ながら支配人まで昇格。さらに発明した「潟利塩」は今日でも「エンリッチ」ブランドで販売されていて、二宮家の経営企業(マルニ株)として、飛行神社の支援企業として生成発展している。
        (エンリッチ塩はスーパーツジトミで137円(450g)で販売されている)
  • 文才家として
     若年時に幡詞、幡画をその道の第一人者から習い、晩年には幡山と号し「幡詞会」を結成。後進の指導に邁進する。二宮忠八直筆の飛行千歌、幡詞、幡画は数多く残され、文才の深さがうかがい知れる。
      
参考文献: 飛行神社社殿案内書、 二宮忠八小伝、二宮忠八と飛行神社、飛行神社と二宮忠八(以上4誌は飛行神社発行)、幡詞歌(幡山二宮忠八著)、 二宮忠八翁の飛行器 (統合幕僚会議事務局・永尾和夫 1等空佐著)

by y-rekitan | 2012-10-28 09:00 | Comments(0)
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