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◆会報第43号より-05 エジソン碑⑧

シリーズ「石清水八幡宮覚書」・・・⑧
御文庫とエジソン碑⑧

石清水八幡宮 禰宜 : 西 中道  


 宮司交替の直前、昭和12年7月7日には「盧溝橋事件」が勃発、いよいよ大陸での戦争が本格化する中、新宮司を迎えた八幡宮では、いきおい戦時下の時流に棹さす形となり、同年11月から19年末頃まで、近衛文麿首相をはじめ、寺内寿一元陸相(陸軍大将)、杉山元元参謀総長(同)、阿部信行元首相(同)、小磯國昭首相(同)といった政府高官や軍首脳の参拝を連年受け入れ、また皇軍将兵の武運長久祈願祭を度々執行したりした。

 この間、副島宮司は強い指導力を発揮し、先の室戸台風で大きな損害を被った境内各所の修復を進めつつ、それと並行して南総門を建て替え、社頭全体を南へ拡張し、神楽殿も新築するなど、次々に積極策を実行に移していく。足掛け5年にわたった本殿修復工事も昭和14年秋に竣功、11月14日夜には勅使を迎えて本殿遷座祭が厳粛に執り行われた。

 翌15年8月には、境内大楠下に造成された元祖エヂソン碑の土台部分に、上から覆い被せるような形で、それまで三ノ鳥居の東北側に建っていた「御文庫」を移転・増築する工事が完成した。こうして、前宮司が境内地にエヂソン碑を建設しようとした痕跡も、これ以後65年の長きにわたって、人々の目から完全に覆い隠されることとなったのである。展望台のエヂソン碑はどうか。昭和16年12月8日の「真珠湾攻撃」以降、米国はまさしく日本の主敵となった。いかに偉人とはいえ、エヂソンは米国人である。その敵国人の顕彰碑を、護国の神たる石清水八幡宮の間近に居座らせておいてよいのかと、自称愛国者たちの発する異議申し立ても喧しくなってきたが、神社としては「神域外のことゆえ関知せず」と、非難の声も記念碑の存在そのものも有って無きが如く、無視し続けた。

 昭和19年に入ると、日本は深刻な物資不足に陥り、民間にも金物類の提供が広く求められる中、男山ケーブルは同年2月10日に営業を停止し、橋脚等の鉄材を軍需物資として供出した。かくして、今や訪れる者とてない展望台のエヂソン碑は、雑草や蔓草に半ば埋もれたまま、昭和20年8月15日、ひっそりと終戦の日を迎えるのである。  (つづく)

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by y-rekitan | 2013-10-28 08:00
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