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◆会報第19号より-02 一枚の写真から③

シリーズ「一枚の写真から」・・・③
『八幡駅前広場』の開発

 八幡まちかど博物館「城ノ内」館長 : 高井 輝雄 

混雑に耐えていた駅前
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 上の写真は、今から42年前の昭和44(1969)年、京阪八幡駅の改札口(当時はケーブル側にあった)付近。ケーブル駅舎屋上から撮ったラッシュ時の風景である。(小生撮影)男山団地の造成が始まり、八幡駅前広場の整備(開発)が急がれていたときである。 
 当時の駅前は電車やバス、タクシーなどの建物と商店街に挟まれた平均9mの道路幅とケーブル前の広場を合せて920㎡(約280坪)のスペースしかなかった。広場といってもバス2台が回転し停車するのが精一杯。ケーブル前広場へ向かってくるバスは、手前のバスが出て行かないと、回転し停車できない状態である。
 当時、八幡駅の1日の乗降客数は約1万2千人。その大半は通勤者や学生。特に、朝夕のラッシュ時には往来がはげしかった。人並みをかき分けるように路線バスが乗り入れ、タクシー、自家用車、バイク、自転車が狭い空間をぬって駅へと急ぐ。それは大変な混雑を呈していた。駅前は、息絶え絶えに機能していた。 
 市(当時は八幡町)の人口は当時約2万3千人であった。昭和44年といえば男山団地(計画戸数8120戸、人口32000人)が造成に着手。47年春には第1期入居を控えていた。民間住宅団地の開発も含めると、昭和50年の町の人口は約7万人と推計していた。(実際には5万人超の50132人に止まったが、昭和52年の市制施行の人口要件はギリギリ充たした)
 さらに、当時の景気の反映と立地条件の良さから工場・事業所が枚方バイパス(現国道1号)沿線を中心に進出が見込まれ、数年後には激増する利用者や車で、駅前通りはマヒ状態になると予測されていた。

「まちの顔」づくり難産

 もちろん町当局は、町の表玄関であり「まちの顔」である京阪八幡駅前の拡張整備=「八幡駅前広場開発」を緊急の課題として整備を急いでいた。男山団地の初入居を真近にして町議会でも、表玄関づくりを急ぐための白熱した議論が交わされていた。この写真を撮った44年、土地を先行取得するための特別会計を設けることが議会で承認され、都市計画事業として取組む構想が樹てられた。このときの駅前広場の完成目標は、昭和50年としていた。
 ところで、もともと「駅前広場」の開発は、現ロータリーを含むその西側の民家及びケーブル前広場までの全体を計画区域にと考えられていた。しかし、いま現存している西側一帯は地権者が入組んでいて、民家の敷地は何代も前から借地、中には借家も結構あるという複雑な一画で、全区域を開発することは期間もかかり難しいと判断され、約三分の二に相当する現在のロータリー区域が整備区域になったと聞いている。
 随分長らくかかって、ようやくその区域の大半を占める用地を町が先行買収できたのは昭和45年。計画決定から早いように思えるが、それ以前から計画区域の主要用地と家屋(元別荘)の確保には、所有者との折衝は行われていた。それから表通りの民地等と家屋買収交渉、駅前整備計画の地元等との話合いが長く続く。 
 昭和52年になって、駅前広場整備計画の実施主体は、市に代わって府が都市計画事業として進めることになった。駅前に東から新しく繋がる線路沿いの道路新設計画と共にである。市が事業費の一定率を負担し、府の事業に協力するという立場となったが、駅前整備により移転される商店等の代替用地整備、駅と調和のとれた商店街形成計画の策定等は町が主体で取組むことになった。ここからも、残りの用地買収や換地を含む整備計画の地元との交渉、協議に何日も幾夜も費やした。
 また、駅前開発には利権が絡むこと、しばしばである。買収途中で仲介人が介在しているとも風聞したが明らかでない。日時は要したがトラブルも現れずに済んでいる。

14年費やし広場完成

 昭和47年春には男山団地の第1期入居(2150戸、約6000人)が始まった。人口は前年に比べ一挙に20%増に。当然、八幡駅を利用する人も増加し駅前の混雑は増大する一方。大阪のドーナツ化現象による民間の宅地開発も各地で進み駅前の整備は、いよいよ急務となってきた。 
 「町」から「市」となった昭和52年、混雑を当面少しでも解消することを求められ、先行取得用地の一部を使い仮設のターミナルが設けられた。バスの駅前停留所も兼ね、回転と複数台の一時停車も可能になった。これで駅改札付近の混雑は幾分解消した。併行して仮設ターミナル周辺の整備も継続して進んだが、肝心の駅前整備計画は、駅前を中心地する商業者団体等との話合いは難しく、なかなかまとまらない。 
 地元商業団体や住民からは自らの要望ばかりでなく、地域づくりや駅前の活性化策に関し有効で具体的な提案が出されてきていた。単なる駅前だけの思いではなく、町の将来構想に及ぶ駅前広場計画への提案も盛込まれていた。 
 そんな経過を辿り、十分満足を得られない形にしても昭和58年4月、計画目標より8年遅れ実に14年の歳月を費やし「八幡駅前広場」は完成した。 
 総合計画を担当していた50年代初めだったか、現ターミナル西側駅前地域を合せた駅舎と駅前広場のプランづくりを命じられたことがある。八幡宮の門前に相応しい景観の二階建て橋上駅舎と商業施設、居住者の代替マンションに交流施設やビジネスホテルも設ける等の構想をまとめた。当時、次の市の総合計画にも掲げられた。駅前の商業団体も、同じような提案をされていたと思う。が、この夢の構想は未だ実現を見ず今日に至っている。あのときのジオラマは、どこで眠っているのか。

〔余話〕
百年の大計と京阪電車

 明治43(1910)年4月15日、京阪電車が五条~天満橋間に開通した。ところが、初日早々の始発が淀~八幡間で車両が故障し、加えて野田橋付近で脱線事故も発生、各駅に乗客が溢れさんたんたる開業だったということである。
 ところで、京阪電車の敷設にあたって、淀から八幡へ、そして枚方へのルートは、当初、木津川を渡って真直ぐ南に直進するコースであったと聞いた。今の市役所付近を南北に通る計画であったのではと思う。当時は、電車の利便性や将来の町づくりに結びつくとまで考えず、多くの農地等が潰れたり迷惑が及んだりするのではないかと、そのときの思惑を今誰に聞くこともないが、反対が強く現在のコースになったと聞く。
 広報を担当していた20才後半、「合併10周年記念誌」を編集するため、当時市内で要職にあった人を訪ねた際、「百年の大計をもって町づくりを考えないといかん」と、京阪電車が町の北の端を通った当時のことに反省をこめ、私を諭されたことを思い出している。
 京阪電車としてもカーブを極力避けて、効率の良い敷設をしたかったはずだと思う。現状は八幡に入ってカーブも勾配も至極多い。京阪本線では43%(創業当時46%)の曲線率で、徐々には改善されているものの「京阪電車カーブ式会社」の異名まで冠せられている。
 京阪電車が開通して今年で101年目。「百年先」は、なかなか見通せないが、その当時、真直ぐ横断し通っていれば、町はどんなに違っていただろうと、つくづく思うことがある。肝に銘じねばならない。
         (元八幡市職員、前松花堂美術館職員)


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by y-rekitan | 2011-10-28 11:00
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