◆会報第45号より-03 地蔵菩薩

八幡の浄土宗寺院にみる地蔵菩薩

石瀬 謙三 (会員) 


 浄土宗寺院には一般に、阿弥陀三尊、宗祖法然、高祖善導大師の尊像が置かれていることは知っていましたが、今回巡った八幡の浄土宗寺院では、それぞれに個性的な「お地蔵さん」も祀られ拝観できました。そこで地蔵菩薩について少し述べてみます。
 私は八幡の観光ガイドをしていて、そのなかで知ったことですが、同じ浄土宗の正法寺(八幡清水井)には千体地蔵を祀る立派な地蔵堂があります。地蔵は浄土宗プロパーの仏と得心しました。西方浄土に住される阿弥陀さまと、あらゆる苦界に出入りして地獄に落ちた衆生をも救おうというお地蔵さまの「コラボ」で、全ての衆生を浄土へ導こうとする「鬼に金棒?」の関係を想像しました。
 地蔵は、石仏も含めると造立数はダントツの身近な仏ですが、僧侶と同じ姿(比丘形)で六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上)に出現し、六道抜苦の来世利益を施す仏として、また他の菩薩がいずれは仏陀になるのに対し、永久に菩薩のままで无(無)仏の時代の衆生を救済する仏として信仰されてきました。
 現代にも、地蔵堂あるいは路傍に地蔵を祀り、香花を捧げて現世利益を願う風習があり、関西では地蔵盆(地蔵祭りと盂蘭盆会の習合)として8月24日に京都等、街の辻々で子供を中心に行われています。地域社会の崩壊が進むいま残して欲しい習俗のひとつです。
 八幡での地蔵信仰は、どのように変遷したのでしょうか。江戸時代のご朱印組寺院は浄土宗36寺、律宗、禅宗それぞれ5寺あり、朱印安堵されました。朱印寺以外の寺にも八幡地下寺分として55寺、まとめて300石弱の朱印が発行されていたようです。しかし、地蔵信仰は宗祖がおらず、三宝(仏・法・僧)も整わない俗信?として、他宗と比較すると厳しい立場に立つ寺院も多かったようです。江戸時代初期と中期・末期にかけて、寺の無住化や宗旨変更がみられ、地蔵を本尊とする寺院の経営の難しさが感じられます。
 ところで、山上・山下に寺がひしめく宗教都市八幡の中心「石清水八幡宮寺」の主祭神が僧形八幡(比丘形)として表現されることは周知のことです。
 廃仏毀釈で山上から降ろされたという善法律寺の本尊は八幡大菩薩で僧形です。
いつ頃から八幡神が僧形になったのか、八幡信仰と地蔵信仰はどう位置づけられるのか、松花堂昭乗による「僧形八幡神像」や、僧形による元寇の祈祷図「篝火御影」等あるそうですが、これから勉強しようと思います。この辺りにも八幡の地蔵信仰の特異性があるように思えます。
 石清水八幡宮に至る裏参道の地蔵堂が崩れ、法然院を再興した忍澂(1645~1711)によって地蔵頭部が修補され山下の南三昧堂に移された丈六の地蔵尊は、流転の果て、東大阪市の延命寺に大阪府の指定文化財として伝わっています。もしかすると、男山は山上・山下に無住と競望を繰り返し、神仏習合を発展させてきたのかもしれません。そう思うと歴史のダイナミズムと、他にも地蔵にまつわる伝承がありそうな気がしてきます。
 前置きが長くなりましたが、今回歴史探訪ウォーク(*注)で拝観したそれぞれの地蔵尊を振り返ってみます。
    (*注) 本会では去る12/12、“八幡の古寺巡礼”の第1回として浄土宗の
         寺を巡る歴史探訪 ウォークを実施し、念仏寺、世音寺、安心院を
         訪問しました。 (編集担当者記)


念仏寺

 「勝軍地蔵」は清水寺の秘仏が有名です。本来、馬上の「お地蔵さん」だそうですが、念仏寺のお地蔵様は馬には「お跨がり」になっていなかったように私には見えました。江戸幕府が江戸に勧請し、江戸市中に弘まったそうです。武士には武神として、町人には防火の神として信仰されたようです。ともかく幕末、鳥羽伏見の戦いで佐幕派の潜む寺となったという念仏寺の、その墓地に眠る大垣藩士、銃刀兼用隊で24才という若さで亡くなった名波常蔵の霊を慰めているようで、しばらく幕末の感傷に浸りました。古来多くの戦場の舞台となった八幡を護る地蔵尊として、また防火の神として大切にされてきたのでしょう。

世音寺(せおんじ)

  
 八幡市指定文化財「地蔵菩薩立像」の立派さは、本尊の阿弥陀尊像を「食っている」ように感じました。ただ、胸の「よだれかけ」は母性愛を現していると言うことですが、「しおり」の写真のように正装?した胸飾を見せて頂いたほうがありがたいです。靴を履いている珍しいお地蔵さんだそうですが、足元が地蔵堂の建付の横板に隠れて見えないこと、また「裳裾」を飾る截金模様も隠れて残念でした。しかし、流れる衣紋に藤原様の端正な作風を充分に感じました。鎌倉初期の地蔵尊として八幡市の指定ではもったいなく、「広報やわた」にあるように重文級への昇格を期待したいところです。ところで、世音寺の開基が室町中期(1458年)とすれば、鎌倉初期(1200年初頭)の作風との時差をどう理解すればいいのか。たとえば、近くの無住となった寺から後年退転し、地蔵堂を作って納めたなどと勝手な歴史ロマンを想像しました。

安心院(あんじんいん)

 地蔵菩薩半跏像(厨子入)は近くの無住になった地蔵院から預かられたそうです。小さな掌善・掌悪童子が脇侍していました。暗くて厨子内部が、よく見えなかったのですが、ご住職様に蝋燭を付けていただいて、金箔が輝くありがたい地蔵三尊を拝観させていただきました。二童子は本来、不動明王の脇侍(こんがら、せいたか童子)ですが、何故か地蔵の脇に立つときは子供達に諭しやすくするためか、善悪を掌る脇侍となったようです。八幡では杉山谷の不動尊の脇侍が八幡市指定文化財になっていますが、もとは忍澂が開いた南三昧堂の地蔵尊の脇侍だったものです。
 そして、掛け軸の十三仏図のお地蔵さん(閻魔大王の本地仏)です。お軸の中心に座して、冥界に君臨する十王の代表が地蔵菩薩です。「十王信仰」は、輪廻転生の命、死ぬと冥府において生前の行為により十王の裁きを受けなければならないという勧善懲悪説を根底に中国で始まりました。日本では平安時代から地蔵信仰と結びついて六道を輪廻するうちに賽の河原、三途の川の苦しみ、六地蔵への渡し銭等の俗信が生まれました。冥界を支配する十王の代表が閻魔王で、その本地仏が地蔵菩薩です。亡者への十王による十回の裁きが初七日から始まり参周年にいたる十回の法要となります。
 閻魔王は、重要な五回目の裁きをし、地蔵菩薩がその弁護役です。地獄に赴いて衆生を救済する。そうした信仰が室町時代以降、十三仏に一般化し、十三の忌日になりました。絵図に表現されたり仏像の光背に彫刻されたりして衆生を諭したそうです。なお、十三仏画の最上部は、三十三回忌の虚空蔵菩薩です。
 以下、初七日より三三回忌に至る忌日に祭る十王と十三仏の対応表を下に示してみます。

         (忌日)     (冥府の王)     (十三仏)    
         初七日      秦広王       不動明王
         二七日      初江王       釈迦如来
         三七日      宋帝王       文殊菩薩
         四七日      五官王       普賢菩薩
         五七日      閻魔王      ◎地蔵菩薩
         六七日      変成王       弥勒菩薩
         七七日      太山王       薬師如来  
           (四十九日=満中陰・忌明け)
         百か日      平等王       観音菩薩
         一周年      都市王       勢至菩薩
         三周年      五道転輪王    阿弥陀如来
         七回忌      蓮上王       阿閦如来
         十三回忌     抜苦王       大日如来
         三三回忌     慈恩王       虚空蔵菩薩

  *「吉見誠一郎氏(京都産業大学日本文化研究所)の「地蔵信仰
    概説」より、適宜、引用しました。
by y-rekitan | 2013-12-28 10:00 | Comments(0)
<< ◆会報第45号より-02 八幡... ◆会報第45号より-05 三昧聖 >>