◆会報第45号より-05 三昧聖

三昧聖と八幡の墓地
―「五カ町墓替一件」を巡って―
大田 友紀子 (会員)


葬送(そうそう)法師から三昧聖(さんまいひじり)へ

 あはれむかしいかなる野べの草葉より かかる秋風ふきはじめけん

 この和歌は『風雅集』にあり、後鳥羽院が奈良坂の中腹にあった般若寺の西南に広がる般若野に臨んで詠まれた、と思われます。般若寺は、西大寺末寺の真言律宗の寺院で山号は「法性山」。現在の般若寺は、本堂を背に石仏が並んで立ち、秋ともなればその周りには無数のコスモスが咲き、風に吹かれる様に無縁仏を弔う光景が有名で、「コスモス寺」ともいわれています。
 『保元物語』では、保元元年(1156)の乱で敗死した藤原頼長(よりなが)の遺骸を興福寺の僧侶が「般若野ノ五三昧ト云フ所ヘ渡奉テ、土葬ニシ奉テ、泣々帰ヌ」とあり、父忠実に一目会いたいとの思いで落ち延びてきた頼長は、父の拒絶に会い輿の中で亡くなります。その処置をめぐり、葬送に係ること自体を禁じられていた興福寺の僧たちは般若野に運ぶことしかできませんでした。乱の謀反人となっていた故に、葬儀すらさせてもらえなかった頼長は、供養料と共に奈良坂の葬送法師の手に委ねられたのでしょう。
 平安中期に、葬送に従事する下級僧侶が「葬送法師」と呼ばれていたことは、右大将藤原実資(さねすけ)の日記『小右記(しょうゆうき)』長元4年(1031)9月26日条に、「祇園四至葬送法師」とあることでも判ります。その他に「陣僧(じんそう)」と呼ばれた中世の従軍僧は、臨終の念仏を勧め、戦死者の供養にあたったそうです。南北朝期まで陣僧には、諸国を遊行(ゆぎょう)し念仏による往生を説いた時宗の僧がもっぱら担当しましたが、応仁の乱以降は、戦国大名が、宗派の別無く下級僧に課すようになっていきます。
 そして、奈良坂般若野の例のように遺骸の火葬・埋葬に従事した人々は、いつ頃からか「三昧聖(さんまいひじり)」と呼称されるようになり、俗に「煙亡(おんぼう)」とも呼ばれたりしていました。本来は、「何ものかに心を集中することによって、心が安定した状態に入ること」を意味する仏教用語であった「三昧」の語が、「僧として死者の冥福を祈らせる意から、墓所・葬場の意に転じた」(中村元『仏教語大辞典』)事例が文献に見出せるのは、鎌倉後期になってからです。

八幡の三昧聖をめぐる抗争 ―「五カ町墓替一件」ー

 正法寺のある志水の町に生まれ育った私は、小学生の頃のほとんどを曽祖母と共に過ごしました。曽祖母から「お山」は石清水八幡宮、「お寺」は正法寺、「律寺」と言えば、善法律寺と言うふうに教えられました。f0300125_1243999.jpg
 いろいろな話をしてくれた曽祖母を送ったのも、中ノ山墓地の龕前堂(がんぜんどう)でした。中心にある長方形の施設で、往古より葬儀を行っていた所です。確か最後は亡父の葬送で、覚えているのは大きな墓穴と、傍に立っていた8人ばかりの男の人達、「正平塚」を覆い込んでいた雑木の大木が強風により左右に揺れる影が不気味でした。ゴォーという風の音もはっきりと覚えています。
 田中淳一郎氏の「南山城の三昧聖」(細川涼一編著『三昧聖の研究』所収)では、近世の南山城(相楽・綴喜・久世三郡)と八幡地域の三昧聖の存在形態を明らかにされております。他の南山城地域では、一村落ごとに墓所を持つ例がほとんどで、三昧聖も村方によって各村ごとに一軒から数軒と散在して抱えられているということ、そして、その存在形態が、石清水八幡宮の神領地である八幡ではかなり異なっていたことを、正法寺文書を紹介しながら解明されています。
 江戸時代の八幡では七、八カ所の墓地に三昧聖がいて、それぞれの「持内」の町を葬送の檀家としていました。現在の中ノ山墓地がある頂上付近の領域は、通称上臈墓(じょうろうぼ)と呼ばれていて、正法寺境内に居住する志水角垣内(すみかいと)三昧聖(「角之町(すみのまち)」とも呼ばれていた)が管理しており、志水町・神原町などが檀家でした。
 田中氏は、正法寺の文書から、三昧聖同士の争いに巻き込まれ、いつしか石清水八幡宮寺と正法寺の抗争事件に発展した事件の顛末を論じています。「五カ町墓替一件」と称するものです。以下に、私見も交え紹介します。
 安永八年(1779)に、次のような事件が起こった。
 八幡のうちの今田町、山本町、菖蒲池町、城之内町、平谷町の五カ町は、「薗(その)の幡河(ばんが)」(番賀墓地)が墓所であったが、墓に行く途中にある石橋が破損した。そこで、墓支配の「薗之町」で修理し、費用の分担を、墓を使用している各町に求めた。
 ところが、上記の五カ町は、分担金を払わず、志水町にある上臈墓(中ノ山墓地)へ埋葬に変更した。
 薗の三昧聖としては、葬送に預かる持ち分が減れば彼らの死活の問題になるため、志水の三昧聖に五カ町の葬送を行わないよう働きかけたがらちがあかず、彼らを支配する正法寺に墓替を差し止めるよう願い出た。
 正法寺は、先例にないとして正法寺境内に居住する志水角垣内の三昧聖に五カ町の葬送に関与しないよう命じた。だが、彼らは正法寺の命に服するとの誓約書を提出するも守らなかった。そこで、正法寺は彼らの立ち退きを命じた。それに対しても志水の三昧聖は従わなかった。
 そこで、薗の三昧聖は先ず石清水八幡宮寺に陳情した。だが、石清水からの答えは、「墓替之義ハ本人望ニまかせ勝手次第ニ候間、施主人差支無之様取葬候様」というものであった。五カ町の言い分を是認したことに等しい。これでは薗の三昧聖が得心できない。
 そもそも、八幡は家数約千軒のところに七、八カ所の墓所があり、各方面に置かれていた。それは、八幡が神領であるので、皇武の祈祷のために神人が男山に登るときに、死穢に行き逢わないためであった。つまり、神社からみて町はずれにある所に墓所を定め、神社に向かう神人と墓所に向かう葬列とが出会うことのないようにしたのである。その論理からすれば八幡宮寺の言い分は矛盾している様にも見える。
 事件の流れは、正法寺が志水の三昧聖の立ち退きを命じたことから、これ以降は彼らの進退を決定する権限を有するのは正法寺なのか、それとも石清水八幡宮寺なのかという争いに発展する。
 争論は、京都町奉行所に持ち込まれた。天明七年(1787)正法寺は、正法寺境内の三昧聖に立ち退きを命じても聞かないので領主の立場がないことを主張し、領主としての権限行使を願い出たのである。
 「墓替一件」による三昧聖の立ち退きについて、正法寺には権限がないという判決に落ち着いた。結局は、墓所は施主人の望みに任せるべしという、石清水八幡宮寺と志水の三昧聖および墓替を企てた五カ町の人々の主張が通ったことになる。
 たとえ尾張藩の菩提寺であり、五百石高の朱印状を持つ正法寺であっても、京都町奉行所=江戸幕府の裁定に異を唱えることが出来なかったようで、寛政二年(1790)には、志水の三昧聖に出していた退去命令を取り下げている。江戸時代は、石清水八幡宮寺の威光が燦然と輝いた時代であったということである。

さいごに

 現在の中ノ山墓地は、龕前堂(がんぜんどう)自体が残存していて、全国でも珍しい墓地となっています。龕前堂は、木津川市の木津郷総墓では火屋と呼ばれ、その他の所では喪屋とも呼ばれています。呼び名の相違はありますが、いずれも葬儀が行なわれていた場所です。
 私にとって、現在の中ノ山墓地の二十五菩薩などが居並ぶ光景は、奈良坂の般若寺の本堂前の石仏と同じように、往古の人々と向き合い死を悼む場所であり、亡き人を偲ぶ場所として、いろいろなことを考えさせられる所です。
 石清水宮八幡宮寺の神領地であった八幡の地は、まだまだ解明されていないことがたくさん埋もれ隠れている、奥深い歴史の闇の中にある町ともいえます。
                   (平成25年12月3日)
 
by y-rekitan | 2013-12-28 08:00 | Comments(0)
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