◆会報第24号より-03 八幡椿

『八幡椿』は何処に

八幡まちかど博物館「城ノ内」館長 : 高井 輝雄


▇ 東高野街道に古椿・銘椿・巨椿あり
  昨(2011)年4月、旧東高野街道に開設した小館・「八幡まちかど博物館・城ノ内」では、本年の4月22日迄の間、第4回目の展示「東高野街道の椿たち」を開催しています。
 タイトルのとおり街道筋の社寺、旧家に所在する古花・名花・巨樹の椿を、楽しみ散策していただくのも我々の大事な活動の一環と考え、昨年撮った開花期の写真を展示し招介しています。
 今回の展示で紹介している椿は、松花堂庭園の古椿・胡蝶侘助始め約200種の椿、上村家の八重日光、正法寺の大木紅椿、林家の垣根椿、善法律寺の紅藪椿、常昌院の八幡随一の巨椿・日光、石清水八幡宮の群生と巨樹の椿・社殿椿彫刻・供花神饌などであります。 (各々の椿の開花期は3月中旬から4月上旬頃)

▇ 近世初頭屈指の椿の絵巻物『百椿図』
 ところで今回の展示では、近世初頭の椿ブームを知る屈指の代表作の一つ『百椿図』に関する史料を展示しています。
 百椿図の原本は、丹波篠山城主であった松平忠国が絵師狩野山楽に依頼したものと伝えられ、最近、根津美術館で初公開され、全貌が明らかになりました。
 優れた意匠で表現されている絵図2巻・68図で構成されていて、鼓や扇子、花籠、漆器、硯、懐紙、陶磁の水差、文具や調度品等に100余種の椿を配し、当時の暮しに溶け込んだ椿を見事に描いています。
 これらの椿画に皇族、門跡、公家、大名、文人、僧侶、儒者の、江戸前期から中期に活躍した多岐にわたる寛永の文化人が52首(49名)の画賛を寄せています。
 原本が世に出たのは、平成7年頃のことで、写本が発見されてから実に48年目、桃山期の画風というのが第一印象で、細部の粋な意匠に寛永文化の息吹を感じると、高く評価されています。

▇ 昭乗が近衛公に進上した『八幡椿』
 大変興味深いことに、この百椿図の中に『八幡椿』が描かれています。このことを知ったのは未だ年浅く、そのときは随分感銘を受けたものです。
 椿の花木を愛好する小生は、以前から松花堂昭乗が近衛信尋公に宛てた書状に八幡椿の記述があることは、「随筆松花堂」(井川定慶氏著)で知っていました。その書状には、
 「八幡椿之取木之事とくもたせ進上之申度存上れとも、あるは出かはり、あるはわつらひ候て、下部無く 御座、遅引、無念、御座候、云々」とあります。寛永6年8月12日の興味ある書状です。
 昭乗は「八幡椿の取木をお届けしようと思っているが、使いに出す下働きの者に出入りがあったり、病気のために遅延していることを無念である」と詫びているのです。
 文箱か、重ね合せた画帳の上に描かれている八幡椿は大輪の真赤な牡丹咲きの絵図です。 
因みに、この八幡椿には〈水無瀬中納言氏成〉が次のような画讃を寄せています。
       梓弓やはたときけは今も猶 
                  心ひかるゝ玉椿かな    氏成

玉椿」とは、美しく素晴しい花の形容であります。八幡椿に対する熱い思いが伝わってきます。

▇ 策伝の『百椿集』に八幡椿の来歴
 そもそも八幡椿の来歴について最初に記録されたのは、落語の祖として名高い安楽庵策伝が寛永7年に著した『百椿集』であります。
 八幡椿は、赤椿の22番にあり、そこには、「是は八幡山の麓、橋本と云ふ処に、卜意と云ふ花嗜みの出家ありし。天然この椿を持ち合はせたるが、世にひろがりて、八幡椿と云ひならわし、又は牡丹椿とも号す。勝れて赤き大輪のなかの大輪。八重九重に咲きて、内の方へ寄り、四処五処花の間を置き、黄蘂一村充て交じる」と、記されています。
 先の百椿図及び昭乗の書状と、この百椿集をみると、昭乗の居た石清水八幡宮と橋本は極めて近い所で、昭乗が早くに母樹の八幡椿を入手したことは、この策伝の情報から推測できます。また、卜意が昭乗の茶会に招かれている記録があることをみても、椿の交流があったことは想像に難くありません。
 寛永の三筆と称され、朝幕の融和に尽くした昭乗が、近世初頭の椿ブームを支えていた一人であったと言っても間違いないと思います。

▇ 何処へいったか、幻?の『八幡椿』
 さて、この『八幡椿』は、当時、昭乗が住持していた男山の坊近くに今もあるのか、或いは卜意が居た八幡山(男山)麓の橋本に存在するのか、2度にわたり調査したが、発見することは出来ずにいます。
 古典椿を研究している専門家によると、この品種(八幡椿)は現在の「紅麒麟」ではないかと言われています。 
 日頃何気なく、特に花期でないときは、気付かず散策している男山、よくよく見ると椿が群生し、所によってはトンネル状態を成しています。中には、400~500年も年輪を刻んでいる古椿も植生しています。 昭乗が慈しんだ寛永期の男山の椿のことを始め、先に記したその門前の東高野街道の社寺、旧家の古花・名花・巨樹の椿の存在からして、昔から八幡は風雅な椿の名所、宝庫であると言えます。
 それにしても『八幡椿』は、何処にいったのか、幻の椿だったのではあるまいし、引続き探索したいと思っています。

-【追記】-
▇ 百椿図の『桃椿』に昭乗が画讃
 百椿図に画讃を寄せる当代一流の文人に交じって、昭乗も着賛している椿があります。それは『桃椿』です。
 椿文化研究者によると「柿右衛門の水注に入れた桃色の小輪の椿はどれも雄蘂がなく、今の蘂なし侘助に似た園芸品種である。(中略)他にも白や赤色の侘助を見つけ、寛永期も盛んに太郎冠者(関西では「有楽」)の実生をして、これらの侘助を作ったのを初めて知った」と言われているのが桃椿です。
  この桃椿に寄せた昭乗の画讃は、
        みちとせややちよにそへてももといふ   
                つはきそ花のかきりしられぬ   昭乗 

 たぶん桃の名から、西王母(中国の神話にでてくる想像上の女仙)が、3000年に一度花が咲き実がなるめでたい桃を、漢の武帝に贈った故事にあやかり、それに荘子の八千代の椿を加えれば無限だと、長寿の椿を言祝いでいるのです。

(本稿の執筆に当り、椿文化研究家・渡邉光夫氏の文献等を参考にしています)
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by y-rekitan | 2012-03-28 10:00 | Comments(0)
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