◆会報第31号より-06 石清水臨時祭

石清水臨時祭と平清盛

大田 友紀子 (会員)


はじめに

 今年のNHKドラマ「平清盛」の第2回目の放送後の「清盛紀行」にて、我が石清水八幡宮が紹介され、12歳で元服したばかりの清盛が、石清水臨時祭の舞人として奉仕したことが取り上げられました。今回のドラマは、史実とかけ離れた設定(例としては、清盛の母を殺害する場面がありましたが、法皇などの御殿の庭先で血を流すことは絶対にありえません)が矢継ぎ早に登場し、当初はかなり期待していたので、本当にびっくりしました。
 確か平成17年は「源義経」で、ちょうど京都アスニーの一階に「平安京都ゾーン」が誕生した年で、わたしは研修後に解説ボランティアを勤めることになりました。そこには、平安時代400年間の平安京の街並みを復元した模型が展示されていて、初夏の緑あふれる街がありました。大河ドラマでは、平安京の街を表現するために時間をかけて撮影されたことなどのエピソードがありました。清盛を渡哲也さんが演じられ、牛若丸の滝沢秀明さんと三十三間堂にて別れを告げるシーンがあり、印象的でした。そこでは平安時代全般をざっくりと解説した後で、「平安京で生まれた歴史上の人物は?」とクイズ形式で尋ねて「平清盛と源義経です」と答えたりしました。今は、「古典の日記念、京都市平安京創世館」と名称は変わりましたが、引き続き解説ボランティアを勤めています。
 そんなことから、平清盛については独自の思い入れがあり、厳島神社の造営にみられる彼の文化度の高さや「平家納経」における娘たちへの愛の深さ等、人間的な一面にも惹かれるものがあります。といいますのも、当時の仏教では女人は罪障が深く成仏できないとされていて、そのために死後の世界への恐怖や不安をかかえていました。清盛は、龍女が一瞬変成(へんじょう)男子して成仏した場面を「平家納経」(法華経提婆達多品、ほけきょうだいぼたったほん、第十二)に描き、女人往生を説く経典をみごとに絵画化しています。そしてこのことが、平家滅亡後の一門の娘たちを勇気付け、それを生きていく糧として残りの人生を送ることができたのではないでしょうか。建礼門院徳子をはじめ、他家に嫁いでいった娘たちのその後の生き方に、清盛が残していった心の強さがみてとれます。
 今回の大河ドラマは清盛の生い立ちやその他のことがらについても史実とかけ離れており、そのことなどを質問されることを予想して、全放送を見ておくことが必要で、多少のイライラはあっても今後の展開への期待をこめて日曜日の夜8時、テレビの前に座っています。とはいっても、あとわずかな日々ですが・・・。

平清盛の生母について
―平安後期の社会事情からー

 平清盛は、永久6年(1118)正月18日に生まれました。「それは鎌倉前期の摂政関白・九条道家の日記『玉蕊(ぎょくずい)』の建暦元年(1211)3月14日条によってわかる。この時代、臣下で誕生日までわかる人は稀なのだが、『正月誕生の人、皆最吉なり』という例としてあげられた。30年後の若手政治家も、平家の悲劇的な滅亡にもかかわらず、彼のたぐい稀な人生を『最吉』と理解していたのである」(高橋昌明『清盛の目ざした者』)とあり、第一級資料に記載されています。
 そしてその生母については、「夕方、伯耆守忠盛の妻、俄に卒去すと云々。是れ仙院の辺りなり」(『中右記』保安元年(1120)七月十二日)とあり、その死は清盛3歳の時のことで、そのことを時の有能な政治家である藤原宗忠が書きとめているのが少し気にはなります。というのも、当時の日記には尋常でないことや不思議に思ったことなどがときたま書かれますが、多くは子などに伝える目的の儀式次第や行事が中心です。「俄に」の字が使われているのも意味深ですが、この記事と「仏舎利相承(そうしょう)系図」(近江・胡宮(このみや)神社)とを典拠にして、清盛の生母を祇園女御の妹とする説が一般的です。仙院とは白河法皇自身をさし、その御所に仕えていた女房であったと考えられています。
 とにかく清盛の母はなくなり、平忠盛はその後、白河院庁の判官代・院御厩預(いんみうまやよ)に任じられ、同時に北面の武士たちを率いる首領的地位に立ちます。その忠盛が藤原宗兼の娘(後の池の禅尼)を正妻とし次男家盛をもうけ、その後、待賢門院(たいけんもんいん)の女房の元に通い、異母弟教盛が生まれるのが大治3年(1128)です。一夫多妻のその頃の習慣のもと、清盛の異母兄弟が次々と誕生する中、清盛は12歳となり石清水臨時祭に舞人として参加し、衝撃的な公家社会デビューを果たすこととなるのです。
「大治4年(1129)3月16日、この日は石清水臨時祭である。舞人をつとめる公達の中で、一人の少年貴公子に従う雑色たちの、美々しい装束がひときわ人々の目をひいた。白河法皇の猶子(ゆうし)に当たる内大臣源有仁(ありひと)の随身が、少年の馬の口取りをつとめているのも驚くに十分なことだった。先日元服したばかりの12歳の平清盛こそ、この少年である。元服に際して従五位下、佐兵衛佐(さひょうえすけ)とされたおりにも、その破格の待遇が話題にのぼったばかりのことだった。」(上横手雅敬『源平争乱と平家物語』)とあるように、祇園女御の手で養育された平清盛の公家社会へのデビューは華やかで、当時の人々を驚かせました。美々しい装束は、白河法皇の近臣であり清盛の乳父である藤原家保(いえやす)が整え、その御供は時の内大臣・源有仁(ありひと、彼も法皇の猶子の一人)の随臣たちで、そこに法皇の意向が反映されていることを当時の貴族たちは勿論、見物していた人々にもすべてに周知させたのです。
 白河法皇と祇園女御がおそろいでその有様を特別に設(しつら)えさせた桟敷(さじき)にて見物していますし、その年の7月に法皇が崩御されていることなどを考え合わせると一つの推論が浮かびあがってきます。法皇は老齢の身を思い、清盛の元服を早めて今回の石清水臨時祭に舞人として参加させたということです。ご落胤云々はわかりませんが、法皇が清盛を可愛がっていたことは疑いなく、そのことは祇園女御への寵愛故であったと思われても仕方がないのです。
 平安時代後期の社会は「婿入り婚」で、妻の元へ夫が通い、出来た子は母方にて養育されました。清盛の生母が祇園女御の妹であったので、女御の手元で養育されたとも考えられますが、法皇の意思で親王並に乳母が決められていることはとても重要で、その事実は、母である女性が「白河法皇の身近な女性だという情報は、やはり重要である」と、高橋昌明もその他の論拠をあげて落胤説に立たれています。乳母である隆子(家成の母で藤原隆宗の娘)の夫は臨時祭の美々しい装束を調えた藤原家保で、その父は白河上皇の乳母子である藤原顕季(あきすえ)で白河上皇の寵臣です。同時に顕季は祇園女御の親人(しんじん)ともいわれて二人を引き合わせた人物ともされ、同じ受領(ずりょう)として平正盛・忠盛父子と気脈を通じ、隆子の兄・宗兼も院近臣として顕季に近い貴族で、平忠盛の後妻となる宗子(後の池禅尼)の父であり、家成とは従兄弟の間柄です。
 このように、当時の白河上皇の近臣たちはお互いに婚姻関係などを結んで協力し合い、天皇の権威を保守して伝統的な権力を守ろうとする藤原摂関家とそれに属する貴族たちと対峙していました。
 顕季一門は、顕季の母親子(ちかこ、白河法皇の唯一の乳母)が建立した善勝寺を氏寺とし、嫡流の長男は善勝寺長者と称して、院政期には巨万の富を蓄え、その力をもって娘たちを天皇家や新興勢力の貴族などの正妻として、朝廷に隠然たる影響力を持ちました。清盛を支えた親平家公卿の筆頭もこの顕季一門で、家成の嫡男隆季(たかすえ)です。彼の嫡男・前大納言隆房(たかふさ)が書いた、後白河上皇の50歳の祝賀をしるした『安元御賀記』には、別当権大納言隆季と平家一門が協力する姿が描かれています。
 また、平清盛の盟友ともいわれる藤原邦綱は、娘を歴代の天皇の乳母にしたことから数多くの邸宅は里内裏(さとだいり)や院御所として使用されますが、それはその頃の、娘が邸宅を伝領するという婿入り婚の形態によるものですが、院政期になると多少の変化があり『江家次第(ごうけしだい)』には「近代露顕(ところあらわし)は一夜なり、よりて後朝使いなし」とあり、摂関家当主以外の貴族層では短縮されて第一日目の夜に露顕を行うようになります。露顕とは、平安貴族層の結婚は婿入り婚で新郎が夜に新婦の家に来訪して初夜を迎え翌朝には帰り、翌日も同様なことを行い、三日目の夜に新婦方で、新婚夫婦が一緒に三日夜餅(みかよのもちい)を食べ、婿と従者に饗応して初めて正式に新婦の両親以下の親族と対面する儀礼を持ちました。この三日目の祝宴を露顕といい、結婚の事実を広く知らしめるために、それまでの「訪婚」から「同居婚」にいたる過程で始まった儀礼だとされています。この日から新郎は新婦の邸宅で同居をはじめ、新婚夫婦は昼間にお互いの顔を見る事ができました。また、陰陽師に吉日を占わせて露顕の日を決めるようになり三日目ではなくなりました。
 今回の大河で、平重盛の婚礼場面が描かれていますが、あたかも「嫁取り婚」の形式のように描かれていて少々ガッカリさせられました。
 最後に、清盛がご落胤であったかどうかははっきりしませんが、「男寵、女寵数知らず」と言われる法皇なので、清盛以外にも白河法皇の落胤であったとされる子どもが多数あり、清盛が特異な例ではなかったということを付け加えておきたいと思います。

石清水臨時祭と平清盛

 清盛が舞人を勤めた石清水臨時祭は、今では廃絶されて行われていませんが、毎年、旧暦3月の午の日に行われ、石清水宮寺の場合は、恒例の放生会に対して臨時に行われた祭であるので「臨時祭」と呼ばれていました。但し、天録2年(971)3月8日の臨時祭から永式となりました。
 朱雀天皇の御宇天慶5年(942)4月27日、平将門・藤原純友の乱平定の報賽(ほうさい)に勅使を立て神封歌舞(しんふうかぶ)を奉ったのが始まりで、将門は戦闘中眉間に流れ矢を受けて落馬し絶命しましたが、それは八幡大菩薩が東に向って放った矢であるという大菩薩のお告げを石清水宮寺の神官が朝廷に申し出て八幡神の神威が語られたことに由来します。『将門記』の記述との矛盾はありますが、天慶2年(939)に伊勢神宮の次の奉幣を受けることとなり、「第二の宗廟」の地位を得た石清水宮寺の面目躍如といったところでしょうか。
 「臨時祭は賀茂社でも行われるので、都の人々は賀茂臨時祭を『北祭』、石清水臨時祭を『南祭』と呼び親しんでいたが、永享3年(1431)4月29日の臨時祭を最後に翌年からは戦乱のために中絶した。その後文化10年(1813)3月15日に臨時祭は再興されたが、明治3年(1870)神祇官の通達により廃止された」(石清水八幡宮の解説より)とあり、平安時代の国家的な祭祀で都人を熱狂させた様子が伝わります。本殿の前の舞殿で、清盛たち6人の舞人が「東游(あずまあそび)」を舞うシーンを想像するだけで胸が高まります。「これらの舞楽は(中略)多くの楽人を抱え、雅楽も盛んに行われていたことが知られている。例えば天慶5年(942)に行われた臨時祭では『東游』が奉納されているが、現在において『東游』は行われていない。石清水八幡宮の禰宜である西中道氏によれば、かって石清水八幡宮に所属していた楽家は多(おおの)、豊(ぶんの、豊原)、安倍、大神(おおが、山井)の四家があったといい、一部には宇佐からやってきたという伝承を持つ家もあるそうだ。また『古事談』には平安時代に八幡の楽人が活躍する説話がいくつも見られる。京都、奈良、大阪を結ぶ結節点として、また聖なる山上の世界と俗なる麓の世界を結ぶ特異な場所として、楽人のみならず様々な人々がここに集まってきた。八幡に伝わる楽の歴史はそうしたこの土地の持つ歴史的な特異性と関係があるのだろう」(別冊太陽「雅樂」)とあり、権門社寺としての石清水宮寺の一面が見受けられ、石清水臨時祭の盛行がこうした楽人たちにより育まれ、いつしか石清水宮寺にて舞人すらも独自に抱えることになっていったのではないでしょうか。
 石清水臨時祭は、起源・由来は異なりますが、賀茂臨時祭とよく似ています。そして、国家祭祀を取り仕切る「行事所」(そのつど臨時に組織される実行委員会方式で行事もしくは祭祀を行う)が設けられます。行事所のメンバーは、太政官の公卿と事務官から適宜選任され、責任者の上卿(しょうけい、中納言以上の公卿)、事務方の弁・史によって構成されました。彼らは、その祭祀の参加者の手配や日程調整、必要な物を整え、費用を調達するといった極めて雑多な職務を、天皇・摂関の指示を仰ぎ、部下を指揮しながら遂行します。祭祀行事の当日まで費用の調達を指揮する上卿の姿は涙ぐましいものがありました。
「政務は儀式、儀式は政務」の貴族社会に生きる彼らの熱意と誇りによって、国家祭祀などの行事がつつがなく行われ、今日まで各神社の祭祀が伝統として受け継がれてきたのです。

終わりに

 「公家」とは、元来「こうけ」「おおやけ」と読み、もともと平安時代初期には皇室の名称だったのですが、後に皇室をめぐる貴族を含めて、武家に対する言葉として使用されるようになりました。
また、「公卿」は公と卿との併称で、太政大臣と左・右大臣を「公」、三位以上を「卿」と呼びました。位階はとても重要で、彼ら公家にとっては生きる糧でした。
 私の心の中の平清盛は、平安京に生まれ平安京で成長し、ある時期貴族であることより武士として生きる事を選んで、新しい国(貿易国家)を創ることを志し、新都・福原に遷都するも時期尚早で、志半ばで没した一人の政治家であった、という人なのです。但し、貴族であることを否定しても、彼は貴族社会の中で生まれ、貴族社会の中で成長し、その中で権力を握ったことは疑いようもありません。つまり、平家は、そして清盛は貴族であったのです。貴族化したから平家が滅んだという俗説は改めてほしいと思います。
by y-rekitan | 2012-10-28 07:00 | Comments(0)
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