◆会報第37号より-06 狛犬考

狛 犬 考

大田 友紀子 (会員)

はじめに

 狛犬は、神社の鳥居の前に座して、参道の脇で見張り番をしています。仁王門の仁王さんと同様に邪悪な者の侵入を防ぐ役目をしていると言われていますが、伊勢神宮に狛犬はいません。そして、f0300125_10165636.jpg石清水八幡宮にも、境内社の水若宮社の前と、麓にある二の鳥居の前、高良神社の前に座するだけです。しかし、他の神社には、主要な門の前にはでーんと座して睨みをきかせています。   
 石清水の二の鳥居の狛犬は、右は「玉取り」で獅子、左は「子取り」で狛犬です。この配置は、内里の内神社本殿の前に置かれている狛犬と同じです。浪速狛犬で、大阪で造られた石造りの狛犬です。子連れの狛犬(獅子)は、特に中国と日本に多くあり、吉祥図案の一つになっています。獅子が中国にやってきたのは、漢代末期で、仏教の渡来と同時に、仏像の守護像として伝えられました。
 御所の一般公開で、清涼殿の御座所の前に鎮座しているのが元祖狛犬と聞いて、ますます好奇心を持ったのが、私の狛犬探究への始まりでした。

狛犬のルーツ

 狛犬(獅子)の起源は、エジプトのスフィンクスともいわれ、古代オリエントにまで遡ります。国王が強大な力を得るために、地上最強の動物(と思われていた)ライオン(後の獅子)の力を王に宿らせるという思想があり、玉座(王の椅子)の肘掛けに獅子頭を刻んだりするようになりました。インドでは、仏像の台座にライオンを刻み、それを「獅子座」と呼んでいます。その思想は、インド・ガンダーラを経由して中国に入ります。それまでも、中国人は龍や麒麟などの霊獣を生みだしていて、獅子もその一つとなりました。「唐獅子」といわれる派手な獅子像も、中国文化が生み出した独特のものです。 
 それ以後、獅子は中国皇帝の守護像として定着し、それを見た遣唐使の帰朝後の報告によって宮中に獅子座思想が持ち込まれたのです。唐獅子像は、初めは装飾調度品としての鎮子(おもし)と呼ばれて用いられ、併せて魔除けの意おもし味が付け加えられ、殿舎に置かれるようになります。平安中期の「枕草紙絵詞」には、中宮定子の御帳台の前に、向かって右に口を開けた獅子(阿形)、左に吽形の狛犬が描かれています。そして江戸時代、仁和寺に御所より「賢聖障子絵」(全二十面、狩野孝信筆)が下賜されますが、そこにも獅子・狛犬の一対が描かれていて、清少納言が「怖い」と書いたその姿を彷彿とさせてくれています。
 奈良時代までは、同形の獅子二頭だったのが、平安時代になると獅子・狛犬という新しいセットが作り出されました。獅子は黄色で口を開け角は無く、狛犬は白色で口を閉じ角があります。中国の獅子と日本の狛犬の違いは、中国獅子像が一対であってもほとんど相似形であるのに対し、日本では獅子と狛犬二つの異なるものが組み合わさっているということです。特に、頭に角のある狛犬は、日本の「発明」ではないかといわれています。これは、「左近の桜、右近の橘」のようにアンシンメトリー(左右非対称)配列を好む日本文化特有の気風により、片方には別のものを配したいという欲求から、獅子と釣り合う想像上の生き物として「狛犬」が誕生したと思われます。但し、時代が経るにしたがい、だんだんと獅子・狛犬の区別が曖昧になり、呼び方は単に「こまいぬ」となりました。
 ところで、狛犬の「狛」という字について諸説あります。その一つは、「狛」は本来、中華思想で「周辺の野蛮な地」を指し、狛犬は「中国の外に棲む正体不明の怪しい犬」という意味があるというものです。もう一つは、「狛」は本来「神獣」の意味で用いられ、犬に似ていて頭部に角があり、猛々しい姿をしているということで、「狛」の字が当てられたというものです。
 いずれにしても中国に発するもので、朝鮮とは関係がありません。日本では「こま」という音から「高麗」を連想し、「こま犬」=「高麗犬」=「朝鮮の犬」といった誤解が広まりました。

「神殿狛犬」と「参道狛犬」

 当初、狛犬は宮中に置かれていましたが、いつしか天皇家と縁のある神社に伝わり、神殿の中に安置されるようになります。その後さらに時を経て、一般の神社にも置かれるようになっていきます。
 日本古来の神道では、必ずしも姿や形のある神を祀ってはいませんでしたが、伝来した仏像の荘厳さに影響を受けて、神の姿を現したものを求めるようになり、神像が造られるようになりました。生き神様として天皇を模して造られた神像を置くようになると、それを護る霊獣として狛犬を置くようになって、神殿狛犬が普及します。阿形の獅子・吽形の狛犬、この「阿吽」形式は、おそらく寺の山門を護る仁王像の阿吽などを採り入れたものと思われます。仁王も狛犬も、神(天皇)・仏を守護するという役割は同じだということからでしょうか。これが、日本独特の「狛犬」の始まりで、天皇の玉座を護る守護獣として誕生したので、「神殿狛犬」または「陣内狛犬」と呼ばれます。 もともと獅子ではない別の神獣として発明された狛犬ですが、時代が下がるにつれて、形の上では獅子の方が主流となり、呼び方に「狛犬」が定着していきます。現在、中国獅子と狛犬は似ていますが、「狛犬」という文化が定着し、独自に発展したということで、「狛犬」は日本独自の文化であるといえるでしょう。
 それでは、「神殿狛犬」が参道に姿を見せるのはいつ頃のことでしょうか。橋本万平氏(『狛犬をさがして』の「日本東照宮説」)によると、「寛永13年(1636)、日光東照宮の徳川家康の墓の前に置かれた一対の狛犬が、関東から以西の太平洋側で一番古い石造狛犬であるとされる。これは、日光廟の増築を監督した二人の大名がその功績などで特に許され、神君の墓を護るために設置したのだそうだ。これを知った江戸の人たちが、自分達の町の神社にも狛犬を奉納するようになった」というのです。
 江戸狛犬の影響を受けて、大坂でも石造狛犬が設置されるようになり、元文元年(1736)設置の住吉大社の狛犬が大坂で最古とされています。これが「浪速狛犬」です。
橋本氏が「関東から以西の太平洋側」とことわっているのは、日本海側には、もっと古い有名な石の狛犬が参道にいたからです。それは、京都府宮津市の籠神社の狛犬で、重要こも文化財の指定を受けています。この狛犬は鎌倉時代末期の製作と推定されていて、「参道をはさむ石造の狛犬は、江戸時代以前にも存在していたので、橋本説は(中略)神社への狛犬奉納が、大衆化するきっかけとなったと考えればいいわけだ。狛犬が大挙して参道に出て来るのは、確かに江戸前期からであり、それ以前は大衆化していなかったのは事実である」(『狛犬学事始』ねずてつや著)という指摘もあります。
江戸前期に、そもそも「こまいぬ」を見たことがない石工が造る素朴な「犬」のような狛犬が全国各地で造られるようになりますが、やがて、伝統的な狛犬の姿形・様式と融合していき、江戸の庶民を中心にバラエティに富んだ狛犬文化が開花して、今日さまざまな狛犬を見ることができるのです。
 石造りの狛犬は庶民が奉納する形になり参道に置かれ、ここで狛犬は宮中から一般大衆の世界に降りてきたことになるのです。

終わりに

 八幡市内で一番古い狛犬は、御園神社にあります。南山城地域で一番古い狛犬といわれ、寛政8年(1796)9月吉日の奉納とあります。繰り返し起こったと思われる木津川の氾濫の中、「寛政8年からの約200年間(中略)よく狛犬を守ってきたものだ」(ねづてつや氏)と感嘆賞賛されています。
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この狛犬も浪速狛犬で、大坂で造られ、大坂商人により奉納されたものでしょう。
 最初に紹介した石清水八幡宮二の鳥居前の狛犬一対も同じ浪速狛犬です。そう言えば、八幡宮の熱烈な信奉者で名高い松下幸之助氏も大阪商人でした。
 今回は、狛犬のルーツ及び最初に成立した「神殿狛犬」、後に庶民のパワーにより成立する「参道狛犬」について述べました。けれども、私が本当に書きたかったのは「神殿狛犬」についてです。石清水八幡宮の宝前の狛犬一対も、賀茂下上社と同じか違うのか、違うとすれば何故か、などなど。そして、応神天皇が最も愛された皇子ウジノワキイラツコをお祀りしている水若宮社にだけ何故「神殿狛犬」と「参道狛犬」がセットでいるのか…。そんな疑問の一つ一つについて考え、書いてみたいと思っています。
by y-rekitan | 2013-04-28 07:00 | Comments(0)
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