◆会報第15号より-03 長宗我部盛親

長宗我部盛親が潜んだ家

会員:丹波紀美子


          
                                     
 長宗我部盛親が自分の家に潜んでいたと言う話を聞いたのは十数年前のことである。
 Tさんの家は一部だけが400年程前の慶長年間の建物で、盛親が隠れて寝起きした二部屋や外を窺う出窓も昔のまま残っている。
 T家は高知ではよく知られた家らしく、何度か高知新聞にも掲載されたと言う。
 長宗我部盛親は元親(もとちか)の四男で長兄の信親が戦死した為、家督相続をめぐり熾烈な争いがあった。父元親の強硬な後押しで長兄の娘を娶って世継に指名され、父の死後家督を継いだ。尚、盛親の母は斉藤利三の妹で、徳川家光の乳母お福(春日局)は姪に当たる。
 関ヶ原の合戦では西軍に属した為、土佐を没収された。剃髪して京都に寓居し、寺小屋の師匠をしていたとの記録も残っている。
 慶長19年9月、豊臣秀頼に招致され大坂城へ入った。夏の陣では木村重成らと共に主力軍勢で、藤堂・井伊軍と戦う。これが大坂の陣での屈指の激戦として名高い5月6日の八尾若江の戦である。
 この戦で盛親は敗れて大坂城に入り、翌5月7日京橋口の守備についたが敗北が決定的になると、夜に乗じて逃れ石清水八幡宮の麓の科手の民家に隠れた。
 T家の言い伝えによると、盛親は当家に潜みながら目前に広がる木津川河畔の葦原に家来を配し通りかかる徳川本軍に奇襲する機会を窺っていたと言う。
 西隣の井筒屋という餅屋が密告して東軍の蜂須賀至鎮(よししげ)の家来で長坂三郎左衛門の手で捕えられ5月11日伏見城へ送られた。
 元和元年(1615)5月15日、六条河原で五男一女の子女と共に斬首され、三条河原で梟首(きょうしゅ)された。亨年41歳。墓は五条の蓮光寺にある。
 T家には、盛親や家臣たちの甲冑の他遺品も数多くあったが、維新の際に大半を亡失し、明治の末には軍中用抹茶器や家来の和田勘兵衛の背幟、馬具、飯具の数点のみ残っていた。しかし、時代の変遷で、つい十何年か前迄は軍中用抹茶器だけがT家の手元にあった。それもTさんに話を聞く少し前に盗難にあい、持ち去られたしまった由。現在、T家に残っているものは、盛親が数日間を過ごしたと言われる朽ちかけた二部屋と出窓だけである。
f0300125_1449876.jpg 平成12年(2000)10月17日の高知新聞に載った、土佐山内家18代当主山内豊秋さん(当時89歳)らが来訪し明暗を分けた歴史の因縁の家を偲んでいる写真が、家の重さと歴史の証を示しているのかも知れない。
 それにしても、何故盛親は八幡に逃れてきたのか? 単なる偶然なのか? 或いは京都に上る途中に上れない程の包囲網が敷かれていたのか? それとも八幡の神人(じにん)との関係なのか? T家も神人であり、園のK家も盛親を匿ったと伝えられる神人の家だ。何か八幡宮と関わりがありそうな気もする。八幡宮は必勝祈願の神と伝わっている。再起を図る盛親の心の拠り所として八幡を選んだのかもしれない。
by y-rekitan | 2011-06-28 10:00 | Comments(0)
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