◆会報第4号より-02 八幡歴史文化①

シリーズ「八幡の歴史を彩る文化」・・・①
『双蝶々曲輪日記(ふたつちょうちょうくるわにっき)』
「引窓」の巻


土井 三郎 (会員)

  昨年の夏、会員であるEさんから上記の歌舞伎が大阪の日本橋にある国立文楽劇場で上演されているということを紹介されたので観に行った。若手俳優陣による芝居であったが、八幡を舞台にしていることもあって興味深く観たことを覚えている。
 それが好評であったかどうか知らないが、この夏大阪松竹座で『双蝶々曲輪日記』の「井筒屋」「米屋」「難波裏」「引窓」が一挙に公演されることを知った。これは観ないわけにはいかない。

 『双蝶々曲輪日記』は1749年7月に大坂の竹本座で初演された人形浄瑠璃で、翌月、京都で初めて歌舞伎として初演され、その後大坂でも江戸でも上演されて好評を博し、今日まで上演を繰り返されてきたとのことである。
 「双蝶々」は、主要登場人物である相撲取りの濡髪長五郎(ぬれがみちょうごろう)と放駒長吉(はなれごまちょうきち)の名にある「長」の音に由来し、「曲輪日記」は二組の恋人同士の廓での色模様を描いていることに拠ったと言われている。

 あらすじは以下の通り。遊女都と吾妻は二人ともそれぞれ末を誓った相手がいるのだが、横恋慕した商人と侍がいて、強引に身請け話をもちかける。
 そして吾妻と恋人与五郎が久しぶりの逢瀬を愉しんでいるところに強欲の侍平岡郷左衛門が現れ、権柄づくで吾妻を意に従わせようとする。そこに現われたのが関取の濡髪長五郎(下の写真、市川染五郎)。与五郎に頼まれ、吾妻の身請けに必要な手付けの金を払い、この場に駆け付けたのである。すると郷左衛門は、放駒長吉を呼び出し、関取どうしの対決でことの決着を図ろうとした。二人の対峙はひとまず持ち越され、米屋の場面へ。ここでは、長五郎がやくざな仲間といるから身を持ち崩しているのだと長吉に意見し、二人の遺恨が消え義兄弟の杯を交わすのであった。
 遊女吾妻を諦めきれない平岡郷左衛門は三原なる同僚の手を借り吾妻を連れ出した。知らされた長五郎は難波裏に追いつき吾妻を救い出す。すると、郷左衛門たちは吾妻を思いきったと嘘をついて長五郎をだまし討ちしようとするのが、かえって長五郎に討たれてしまうのである。
 急変を知らされた長吉がやってきて、人を殺めてしまった言い訳に切腹しようとする長五郎に身を隠すよう勧める。長五郎は、母の住む八幡の里に落ち延びて行くのであった。

 続いて「引窓」の場面。八幡が舞台である。
 八幡の里。明日は石清水八幡宮で放生会が行われるので、南与兵衛の義理の母は嫁のお早とその支度に勤しんでいるのである。
 与兵衛の家は代々郷代官を勤める家柄であったが、与兵衛の父の没後、職も召し上げられていた。そんな折、新町の廓の傾城で都と名乗っていたお早を女房としたが、折から、この辺りを治める領主が変わり、与兵衛は役所へ呼び出された。
 訳あって5歳の折に養子に出された長五郎は、凶状持ちとして追われる身となって母の元を訪れたのである。偶然とはいえ、そこに旧知の都あらためお早がいて晴れて与兵衛と夫婦になった経緯を聞かされる。長五郎は、暇乞いをして立ち去ろうとするが、引きとめられ二階座敷に案内される。
 そこへ与兵衛が登場。(写真、片岡仁左衛門)代官に取り立てられ十手持ちの身となったのである。お早と義母は喜ぶのも束の間、なんと、濡髪長五郎の召し取りを仰せつかってきたのである。
 ここから三人の葛藤が始まる。母は義息に手柄をたてさせたい。だが、それは実子を召し取ると云うもの。やがて、そんな事情を与兵衛は気づく。引窓(明かりとり)が偶々二階座敷から顔を覗かせた長五郎の顔を手水鉢に映させたからである。義理と人情の間に苦しんだ末、与兵衛は、樟葉・橋本は危ないと告げ、河内への抜け道を長五郎に教えて逃がすのであった。  

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by y-rekitan | 2010-07-28 11:00 | Comments(0)
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