◆会報第18号より-03 石清水祭

「俄神人ニ成候」-石清水祭参加記

土井 三郎  (会員)

 9月15日午前0時40分。暗闇の中、白装束をバッグに詰め、近所の方が運転する車で石清水八幡宮に向かう。途中、会のメンバーでもあるOさんやMさんも乗り込む。
 体育研修センターにて神事の衣装に着替える。日頃着つけないものなので時間が少しかかったが、帯を締めると神人(じにん)になった気になる。 本殿前に集合。童子・童女を含め大勢の人々が集まってくる。五百人程の数になるとのこと。
 待つこと1時間余り。ようやく宮司以下の参進がはじまる。f0300125_223359100.jpg
 御前(みさき)神人を先頭に、火長陣衆(かちょうじんしゅう)、火燈(かとう)陣衆等が続き、御弓(おゆみ)・御幡(みはた)・御鉾(みほこ)を携えた神人が厳かに歩み始める。私たち1対の真榊(まさかき)を担ぐ(奉舁)神人は計10名。五色絹をつけた大榊は結構重い。
 ことに、三ノ鳥居を過ぎて石段をそろりそろり降りて行くところは、提灯の灯りだけが頼りなのでよほど注意しないといけない。二ノ鳥居を過ぎたあたりから平坦な道となり、ほっとする。
 篝火に照らされた参道を歩む内に後の方から典雅な雅樂が聞こえてきた。やがて、行列が絹屋殿に到着。真榊を参道脇に降ろし汗を拭う。そして、未明にも拘わらず参集した見物客とともに、里神楽を眺めた。
 頓宮神幸の儀に則して真榊を頓宮本殿の脇に降ろして一日目の供奉(ぐぶ)を終えた。時刻は午前五時。そろそろ夜明けである。
 労いの品を受け、家に帰りシャワーを浴びる。冷えたビールが旨い。そのまま寝入ってしまった。午前八時から始まる放生行事を観に行こうと思っていたが、気がつけば午前九時過ぎ。
 写真はJさんに撮ってもらった。今年は、延暦寺の僧侶が放生行事に参列したとのことである。
 石清水祭に参列するよう勧められたのは数日前であった。百聞は一見に如かずということで、「俄(にわか)神人」を引き受けたのである。
 歴史のある石清水祭。明治以前では「放生会(ほうじょうえ)」と言われた。その名の通り仏教的な色彩の濃い祭礼である。f0300125_22365993.jpg
 『広辞苑』(第四版)には、「石清水八幡宮放生会」を720年(養老4)の創始としている。だが、これは変だ。石清水八幡宮寺が男山に勧請されたのは859年(貞観元)だから、それをさかのぼること140年も前ということになる。尤も、720年という年は、宇佐八幡宮において初めて放生会が行われたとされるので、根拠がないわけではない。
 ところで、宇佐八幡宮における放生会の来歴には諸説ある。宇佐八幡神が隼人征伐に赴き殺生をしたことを悔い、それで放生会を執り行ったというものである(『宮寺縁事抄』)。
 また、この時期(和同~養老年間)、「国家的体制の思想的基礎が固められ」、都に興福寺や法興寺・薬師寺等を遷すなど「政治が仏教の助けを借りようとした」との指摘がなされる(中野幡能著『宇佐宮』)。宇佐八幡の神宮寺としての弥勒禅院が建立したのもこの時期である。

     和銅元年(708) 武蔵国が和銅を献ずる。和同開珎を鋳造。
                伊勢神宮に平城宮造営を告ぐ 
         2年(709) 蝦夷征討。隼人来貢 
         3年(710) 平城遷都
         5年(712) 『古事記』を撰進 
         6年(713) 『風土記』の編纂を諸国に命ず
     養老 4年(720) 『日本書紀』を撰進

 八幡宮が神仏習合の神社であったという歴史的経緯は国家の施策と関わって興味深い。 さて、15日は夕刻より還幸の儀が執り行われる。私たちは白装束姿で頓宮に集合。夕闇の中、御鳳輦(ごほうれん)発御に供奉する。
 今度は登りである。ようやくにして登り切り、本殿前に真榊を納めた時はさすがに安堵したものである。汗びっしょりになったが一仕事成し遂げた爽快感があったこと云うまでもない。

          祭礼の篝火映える参道に 
                 進む鳳輦月も清かに   幸春

by y-rekitan | 2011-09-28 10:00 | Comments(0)
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