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◆会報第11号より-02 古歌の南山城①

シリーズ「古歌に詠われた南山城」・・・①
『万葉集』と八幡

八木 功 (会員)


 表題の「古歌」とは、主として『万葉集』(781~783年頃成立)、『古今和歌集』(905年)、『新古今和歌集』(1205年)などに見られる歌、「南山城」とは、巨椋(おぐら)池周辺から南に広がる木津川流域を指すものとして、5回にわけて述べてみたいと思います。なお、「山城」は、古代には「山代」、奈良時代には「山背」、平安遷都以後「山城」と変わりますが、引用文以外では「山城」に統一したことをお断りしておきます。

 『万葉集』には約4500首の歌が収められていますが、舒明(じょめい)朝(629~641)から淳仁(じゅんにん)朝(758~764)の宝字3年(759)までの約130年が本格的な「万葉歌の時代」であり、それ以前の「古代万葉時代」の歌として特定の個人の実作ではない歌が8首収められています。これは持統朝(690~697)の人々が、伝承をもとに作りあげた伝承歌謡であり、『古事記』(712)下巻(仁徳~推古)にも見られるものですが、この歌謡の中に、古代の八幡へと想像をかきたてる歌をみつけることが出来ます。

 『万葉集』には、「宇治」という地名は約20回現れますが、「八幡」という地名は皆無で、詠まれている南山城の地名の大部分は、現在の木津から宇治、木幡、山科を通り近江に向かう古北陸道に沿うもので、木津川の東側に偏在しており、西側では、平城京からほぼ近鉄京都線沿いに北上していた古山陰道沿いの田辺(筒城・筒木・綴喜)のみです。巨椋池に流入していた名木川の歌は5首ありますが、八幡の歴史を考える場合、その巨椋池の干拓や、三川合流、淀川という広大且つ壮大な治水工事の歴史を無視することは出来ません。しかし、本稿では詳述する余裕がありませんので、最小限の説明で往時を想像していただきたく思います。

 さて、『古事記』には、難波(なにわ)から淀川・木津川を遡り、筒木(現在の京田辺市)に現れた仁徳天皇と皇后磐姫の話がありますので、まず『万葉集』の「磐姫皇后、天皇を思ひて作らす歌四首」(巻第二 相聞)を紹介します。
 激しい愛情と嫉妬の持ち主として知られる磐姫の深い愛情が、「煩悶・興奮・反省・詠嘆」の順に詠い込まれている伝承歌謡です。

       君が行き日(け)長くなりぬ山尋ね
                 迎へか行かむ待ちにか待たむ(85)

(君の旅は日数が重なり長くなった 山を尋ねて迎えに行こうか それともここでずっと待っていようか)

       かくばかり恋ひつつあらずば高山の
                岩根し枕(ま)きて死なましものを(86)

   (このようにむなしく恋い続けていないで、いっそ高い山の上の岩を枕にして死んでしまいたい) 
           死人を高山に葬る当時の慣習をふまえている。


       ありつつも君をば待たむうち靡(なび)く
                   我が黒髪に霜の置くまでに(87)

     (このままいつまでも君を待っています 黒髪が白髪に変わるまで)

       秋の田の穂の上に霧(き)らふ朝霞
           いつへの方(かた)に我(あ)が恋やまむ(88)

  (秋の田の稲穂の上に立ちこめる朝霧のように いつになったら私の恋ははれるのだろうか)

 磐姫の愛情の起伏が、激しく、或いは抑制され、端的且つ率直に詠い込まれていますが、二人に関わる興味深い伝承が、「仁徳天皇の皇后磐姫が難波(なにわ)より山代河を遡る」及び「仁徳天皇難波より河を遡り、山代に行幸」(『古事記』)です。

 磐姫が紀の国へ出掛けて留守の間に天皇が浮気をしたと聞き、姫は難波宮(なにわのみや)には帰らず、山代河を遡り、奈良山から故郷である葛城を眺めた後、筒木まで引き返し、そこに住む百済国の人、奴理)能美(ぬりのみ)の家に住むことになりました。それと知った天皇は使者を遣わしたり、自ら訪れたりしますが、姫は天皇に会おうとせず、また天皇の浮気を許すこともなく、5年後にこの世を去りました。
 姫の激しい愛情と嫉妬、一本気な性格が窺われる話でありますが、現在、同志社大学の構内にあるように、継体天皇(507~531)が山城で開いた「筒城宮」と磐姫が住んだ「筒木の宮」(奴理能美の家)とが同じ場所にあったという確証はないようです。

 磐姫が遡上した頃の山代河は、古代地図を見て大体推測出来ますが、はっきりと堤防らしきものもない葦の生え茂る沼沢湿地帯を気ままに流れていたと思われます。その川辺の一齣を詠み込んだ歌謡があります。

 つぎねふや 山代河を 河上り 我が上れば 河の辺(へ)に
 生ひ立てる 鳥草樹を 鳥草樹の木 其(し)が下に 生ひ立てる
 葉広 ゆつ真椿 其が花の 照りいまし 其(し)が葉の 広りいますは
 大君ろかも (『古事記』58)
 つぎねふや=「山代」の枕詞、鳥草樹=ヒサカキに似た灌木、  ゆつ真椿=神聖な椿、其が花の以下は、「椿の花のように照り輝き、椿の葉のように広くゆったりくつろいでおられるのは、大君であるよ」の意。

 天皇を川辺に咲き輝く椿になぞらえた賛歌ですが、水草や葦の生い茂る茫漠とした流れの中で、時折目を引く椿はこの古歌の情趣を豊かなものにしています。

◎歴史短歌 三首
 ① 初春の雪は豊年瑞兆と 家持ことほぎ歌集をむすぶ
     (注)『万葉集』最後の歌は、大伴家持が石清水創建(859)の
          100年前(759)に作ったものです。

     ○新しき年の初めの初春の今日降る雪のいやしけ吉事(4540)
 ② 磐の姫筒木の宮まで尋ねきし 浮気の夫を毅然と拒む
 ③ 磐姫が詠みし真椿いまもなお 科手(しなで)の堤に生い立つ花か


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by y-rekitan | 2011-02-28 11:00
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