八幡神のルーツを探る 土井 三郎(会員) 11月18日、国の文化審議会は石清水八幡宮を史跡指定にするよう文部科学相に答申しました。 文化審議会は、「古代以来の神社境内の趣きを今に伝えるとともに、神仏習合の宮寺として坊舎跡などの遺構も良好に残り、我が国の宗教史を理解する上で重要である」との評価を与えたとのことです(『広報やわた』12月号8面)。 八幡市民として実に喜ばしいことであり、同時に、神仏習合の象徴的建造物としての八角堂等の修繕や保存がこれを期に抜本的に進むことを願わずにはいられません。 ところで、石清水八幡宮はその創始から仏教的色彩が強く、明治時代の廃仏毀釈までは石清水八幡宮寺とよばれていました。日本では他に類例を見ないくらいに神仏習合が進んだ神社であったとのことです。 一体「神仏習合」とは何か。いつ、どのような形でそれが形成されていったのか。そこで、八幡神と神仏習合について書かれた文献にあたってみました。その中で、一番要領よくこの疑問に応えてくれる論文に出合いました。 中野幡能編の『八幡信仰』(昭和58年雄山閣刊)所収の「八幡神の習合的成長」(村山修一著)と題するものです。中野幡能氏の論考をふまえ、平易にして論旨明快な論文でした。但し、それを紙上に再掲するには分量が多すぎます。幸いなことに、同氏の主張をコンパクトにまとめた文章を旧版の朝日百科『日本の歴史』54号(特集「大仏建立と八幡神」昭和62年刊)から見つけました。題して「八幡神と神仏習合」。 そこで、これから何回かにわたってこの小論を簡単に紹介しながら八幡神と神仏習合の問題を考えてみたいと思います。 「宇佐八幡宮は奈良朝の国家仏教が全盛であった頃、平城京に進出して初めて歴史の脚光をあびた(※1)が、その発祥は遥かに古い。そもそも周防灘に面する古代豊前(ぶぜん)の海岸地方には海氏(あまし)や宇佐氏などの豪族が割拠し、三角池(みすみいけ)の霊をまつった海氏の大貞(おおさだ)神の社や馬城(まき)峯の巨石をまつる宇佐氏の祖神の社があった。これらは共に農業信仰の基盤に立っていたことから、次第に統合され、豊前国南半を支配する宇佐神の信仰を形成していた。宇佐八幡宮の主要行事として古代、中世を通じ盛んであった行幸会(ぎょうこうえ)は三角池の薦(こも)をもって枕を調達し、六年ごとに宇佐宮へ納める儀式であって、そこに海氏・宇佐氏らのまつる農業神信仰の統合が象徴的に示されている。神社の発生を考える際、三つのキーポイントをおさえると分りやすいといわれます。一つは、神がどこに発生したか。二つ目に祭祀(神主)集団は誰か。三つ目は、どんな神かということです。 日本における自然崇拝を基調とした原始宗教を考えた場合、神の発生する場所は岩や山、池沼、海あるいは太陽などが考えられます。賀茂社や松尾社の場合ご神体は岩山(巖)であり、伊勢神宮は海や太陽である例を引き合いに出せば誰もが納得することでしょう。 原始八幡神の場合も同様です。豊前国南半(大分県側)の三角池(みすみいけ)であったり、同北半(福岡県側)の香春(かわら)岳であったりということです。三角池はむろん灌漑の池であって、故にそこに発生するのは農業神です。そして、灌漑用の池を造り農業生産をリードした海氏や宇佐氏といった豪族の存在が見えてきます。古代の神は、このような地方豪族が祭祀集団になることで成立した神社が少なくありません。但し、原始八幡神を考えた場合、宇佐氏は、その祖神が記紀神話に登場する程には活躍していません。豊前国宇佐郡を治める宇佐氏はやがて同国上毛(かみつみけ)・下毛(しもつみけ)郡に盤踞する海(あま)氏に圧倒されてしまうからです。やがて、海氏が支配する豊前国南半は「ヤマ国」(ヤマはアマの転訛)とよばれるようになるとのことです。 一方、豊前北半を支配する辛島氏とはどんな豪族なのでしょうか。「辛」は「韓」「加羅」であることでおわかりのように韓国、しかも新羅系の渡来人のようです。韓の銅採掘技術をもたらし、そのことで政治経済的にこの地を支配するようになるのです。同時にこの祭祀集団は、霊界と交感することで知られるシャーマン(巫祝)の信仰を携えてきたのでした。八幡神は託宣の神として知られますが、その兆しが見られるという事です。 また、豊前国南半を「山国」とよぶのに対し、北半は「豊国」と呼ばれるようになります。そして、豊国を支配する辛島氏は、やがて海氏の支配する山国を統合してしまうのです。豊国と山国の政治的統一が実現すればその中心になる神は「山豊神」となります。 筆者の村山氏は、『八幡信仰』所収の論文で、八幡神の語源の問題に言及し、「山豊国はけだし邪馬台国かもしれず、山豊神=ヤマトヨ神は「ヤマタイ」、「ヤバタイ」「ヤバタ」と転訛した八幡神であろうと考えることによってここに八幡神の原形が想定される」と論を展開します。これは中野幡能の見解でもありますが、何と大胆な、しかもあり得る所論でありましょうか。 尤も、「八幡」の語源が確定しているわけではありません。同じ中野幡能編『八幡信仰』には西郷信綱著「八幡神の発生」が収録され、西郷は、『日本書紀』推古紀31年条にある「新羅と任那が来朝し「仏像一具及び金塔、併て舎利、また大きなる潅頂幡(かんじょうばた)一具、小幡十二条を貢る」をとりあげ、その中の「潅頂幡」を八幡の語源としています。それは布製の仏具で、『和名抄』が「仏法ノ幡ヲ菩薩幡ト名ヅク」としているものと同義であるとし、まさに八幡神が仏教的な神である所以を語るものです。ついでにいえば、西郷は宇佐神の「比売神」(比咩(ひめ)神※2)を問題にする中で、それが母子信仰に根ざしたもので所謂ヒメ・ヒコ制であるとし、「(姉)妹が祭祀を、兄(弟)が政治をつかさどる原始的複式酋長制をヒメ・ヒコ制と呼ぶ」と述べています。いうまでもなく邪馬台国の卑弥呼と男弟との関係がこれにあたり、その意味でも八幡神と邪馬台国の親近性が考えられるというものです。 さて、原始八幡神の祭神について触れたいと思います。 辛島氏が創始した香春(かわら)神=「辛国息長大目命」は「息長帯比売(おきながたらしひめ)」(神功皇后、じんぐうこうごう)を思わせる名で、神功皇后神話が投影されているのかもしれません。ただし、香春神は『風土記』に「新羅神」とありますので、この時期、神功皇后を祭神としていたわけではありません。いずれにせよ、原始八幡神には、応神天皇が未だ登場していないのです。 「その後6世紀の後半には、任那日本府滅亡の国際情勢から、朝廷は北九州の政治的宗教的強化をはかる必要に迫られた。そこで、大和国三輪のシャーマン大神比義(おおみわなみよし)を宇佐の神官として古代の最有力君主とみられた応神天皇の神霊をもちこみ、辛島氏を抑えて八幡神を皇室関係のものへと転換させた。」 百済からの要請を受けて日本の朝廷はたびたび援軍を送ります。しかし、段々に圧倒され、新羅によって任那は滅亡(562年)。やがて百済も新羅・唐の連合軍に滅ぼされてしまう(660年)のです。 そんな国際関係の緊張の中、「蘇我氏は、帰化人と仏教文化によって保守派の物部(もののべ)氏を打倒し、半島と密接な関係にある豊前地方の八幡神を傘下に収めようとして神功・応神信仰を持つ大神比義を宇佐に送ったのであろう」。これは、「八幡神の習合的成長」で村山が述べていることです。これに対して西郷は「八幡神の擁立は古代国家の、つまり支配階級全体の要求にかかわることがらであって、ひとり蘇我氏などの策謀によるものではあるまい」(前掲論文)としています。いずれにせよ、大神氏が中央から宇佐に差遣わされたことは、「(宇佐地方の)土豪のいつく神を国家レベルの神にきりかえ再編成しようととられた」(同)施策であることは明らかなようです。 そして、応神天皇とその祭祀集団(大神氏)の登場は、八幡神が単に北九州の土着の神でないことの証左でもあります。 次回は、八幡神の中央進出、ことに大仏建立と道鏡事件に八幡神がどう関わったのかについて考えてみたいと思います。 ※1、「(宇佐八幡宮が)平城京に進出」
by y-rekitan
| 2011-12-28 11:00
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