◆会報第22号より-04 鳥羽伏見の戦い

陣屋と鳥羽伏見の戦い

田坂 喜彦 (会員)


 橋本公民館は昨年11月26日、歴史講座を開き、歴史愛好家の梶谷茂さんが「鳥羽伏見の戦い 最後の戦闘 橋本陣屋と樟葉台場」と題して講演された。
 鳥羽伏見の戦い4日目の慶応4年(1868)1月6日、鳥羽、伏見から敗走してきた幕府軍(会津藩・桑名藩)は、橋本陣屋を中心に戦線を立て直して新政府軍(薩摩藩等)を食い止めようと頑強に戦うが、淀川対岸の津藩(藤堂家)の裏切りもあって最後の防御線が破られ、大阪へ落ち延びていくことがよく知られている。
 この橋本関門(橋本陣屋・楠葉台場)での戦いの様子が、枚方市文化財研究調査会が2007年から翌年にかけて行った楠葉台場跡の発掘調査と史料調査でいっそう明らかになった。この調査は、1993年に京都府立総合資料館で資料主任の松田万智子さんが偶然発見した「楠葉台場の設計図(河州交野郡楠葉村関門絵図)」どおりに施工されていたかを確認するために行われたもので、堀の跡が今も畦道になって残っているのがわかり人々を驚かせた。台場跡は今年2月に国の史跡に指定された。
f0300125_18574152.jpg
 梶谷さんの講演は、これら最新の研究成果と独自の調査を元に行われ、橋本陣屋と楠葉台場の建設の経過や橋本での戦いの様子などを資料に基づいて話された。
 橋本陣屋は幕末の1860年に、淀川の警護のために7000坪もの土地を召し上げて設置された。1865年には楠葉台場も完成する。表向きは淀川をさかのぼり京都に侵入する外国船を阻むことが目的であったが、薩長などの尊攘派志士の京都侵入を取り締まる意図もあったので、京街道を台場内に引き込み、番所も設けた。当初の橋本陣屋詰めが楠葉台場を警護する体制は崩れるが、両所は相互に深い関連性をもっていた。
 橋本での戦闘について梶谷茂さんは、橋本の社士・山田直躬の日記や各藩士の当時の記録などの資料を紹介しながらリアルに紹介された。4時間にわたる大砲・小銃の撃ち合い、対岸の高浜船番所からの砲撃、橋本の家屋80軒の焼失などで幕府軍は総崩れになり、楠葉台場も素通りして大阪に敗走、午後4時前には長州勢が橋本陣屋を占拠した。前夜に幕府軍が軍議を行った橋本の山田家も、新政府軍の寄宿舎にされた。梶谷さんは、この戦いを決定したのは新政府軍の「錦の御旗」で、「西郷隆盛は幕府軍も官賊の汚名により士気をそぐことは間違いないと確信した」と述べられている。
 梶谷茂さんの資料を駆使した、迫力に満ちた講演の内容に、橋本も歴史の転換点の舞台になっていたことを実感させられた。八幡市は、2012年に橋本陣屋の発掘調査を行う予定をしている。

 《参考文献》
 八幡市誌第3巻、楠葉台場跡<調査報告書>(枚方市文化財研究
 調査会刊)、鳥羽伏見の戦い(中公新書)
by y-rekitan | 2012-01-28 09:00 | Comments(0)
<< ◆会報第22号より-02 八幡... ◆会報第22号より-05 神仏習合② >>