◆会報第26号より-03 講田寺の地蔵

シリーズ「八幡に残る昔話と伝承」・・・①
講田寺(こうでんじ)の笑い地蔵さん

 丹波 紀美子(会員) 


 昔、難波の地を流れていた淀川は幾つもの流れとなって海に注ぎ、入り江は八十島といわれたほど島が多く、そこに架けられた橋は幾度となく流されていた。
 嵯峨天皇の勅命で北長柄から垂水庄の間に橋を再び架けることになった。「造るからには堅固な橋でなければならない。それには人を柱にして水底に沈めるのが一番ではなかろうか」と一人の翁の進言で、垂水近くに関所を設けて人柱にする者を探しておった。人々はこのことを伝え聞き、誰もここを通るものがいなくなり、ただ月日が経つばかりであった。
 ある日、垂水庄の岩氏(いわじ)長者が関所にやって来て「袴のまちに継ぎのある者を人柱にすればよいではないか」と教えてくれた。ところが言い出した長者自身が袴のまちに継ぎがあったため人柱にされてしまった。
 この岩氏には一人の娘があり、見目うるわしく朝日に輝くようだと「光照前」(てるひのまえ)と呼ばれておった。河内国の禁野の里へ嫁いでいたが、父が人柱になったショックで口がきけなくなってしまい、夫が「光照前」と呼んでも目だけで応えて返事はない。「ああ!かわいそうに何とか口がきけるようにしてやらなくては」と夫は神様や仏様にもすがってみたが何の効き目もなく、仕方なしに母の許に帰すことにした。
 夫と共に垂水に向かう途中一羽の雉子が声高く鳴き、飛び立ったので夫は透かさず雉子を射止めてしまった。その様子を見た光照前は「ものいわじ父は長柄の人柱鳴かずば雉子も射られざらまし」と美しい声で詠みあげた。「あっ!妻が和歌を詠んだ。口がきける!」夫はどんなに喜んだことか。「光照前、光照前」と妻の名を呼びながら、元来た道を河内に向かって帰って行った。
 でも世の虚しさ、悲しさを悟った妻は、夫の反対を押し切って父の菩提を弔うため髪を剃り、山城国山崎の里に草庵を結んで仏の道に入ってしまった。「称名山不言寺(ふごんじ)」という。
 f0300125_17244123.jpgそれからおよそ二百年ほどの後、後一条天皇のとき、かつて人柱を立てた長柄の朽ちた橋杭が水底から見つかったので、天皇にお見せしたところ、天皇はその一片に身の丈二寸六分七厘の、今でいえば九センチにも満たない小さなお地蔵様を彫って、「これを不言寺に持って行き岩氏の追善菩提の法要をするが良い」と勅使に四条大納言公任を遣わされた。
 公任はそのお地蔵様を拝見して「長柄江や藻に埋もれし橋柱また道かえて人渡すらん」と詠んだところ、不思議なことにそのお地蔵様がほほ笑んだという。それからは「橋杭の笑い地蔵尊」といい、水難除けや安産など不思議に御利益があると広まって遠い所からもわざわざお参りに来る人が多くなり、人々の信仰を集めることとなった。
 しかし長い年月の間に不言寺は荒れ果ててお地蔵様もいつしか忘れ去られていった。

 明治三七年、講田寺のお坊様が山崎の不言寺が廃寺になって久しく、お地蔵様は不言寺の本山である宇治の興聖寺に引き取られているのを嘆かれて、同じ曹洞宗の講田寺は興聖寺の末寺でもあることから、「淀川を見渡すこの平野山の地でお祀りすれば、お地蔵様もお喜びになる」と思い、お堂を建ててお迎えした。
 長柄の橋杭から彫られた地蔵尊は今では淀川を見下ろす安住の地を得て、ほほ笑みながら皆の幸福を見守っておられる。


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by y-rekitan | 2012-05-28 10:00 | Comments(0)
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