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◆会報第47号より-04 大谷川余話⑩

シリーズ「大谷川散策余話」・・・⑩
第10章 放生区 不思議な橋の名前

 野間口 秀国 (会員) 


 サ・カ・イ。この3文字の読みから皆様はどのような文字を想像されるでしょうか。「読み(オン:音)が合えば文字はかまわずの時代も・・・」との考えもありましょうが、少なくとも大阪では多くの皆様が「堺」の文字を想像されるのではないでしょうか。堺市在住の知人曰くは「和泉国と河内国の国境だから本来なら境なのではと思うけどな」と。他にも「酒井」「坂井」「逆井」など複数の表記が考えられます。
 ならば「カ・イ・ヤ」にはどのような文字(意味)がふさわしいのでしょう。放生区の中ほど、大谷川の流れが西から北に向きを変える少し手前で八幡城ノ内と八幡山柴間に架かる現在の橋の橋歴板には「買屋橋」と表記されています。本「大谷川散策余話」第10章放生区・不思議な橋の名前章では橋歴板の橋名「かいやばし」について少しこだわってみたいと思います。
 本題に入る前にしばし寄り道しましょう。安居橋と全昌寺橋の下を流れる川の名をそれぞれの親柱で確認すると、漢字表記は共に放生川です。ひらがな表記は全昌寺橋では「ほうじょうがわ」と書かれています。一方、2013年夏の改修前の安居橋では「ほうしょうがわ」だったと調査時の自身のメモにあり、濁る、濁らないがあって面白いな、と初稿に書きためていました。本章をまとめるにあたり改めて確認すると「ほうじょうがわ」でした。改修前表記をメモと共に写真で残さなかったことが悔まれますが、念のためにと改修前表記の確認をお願いして、いただいた回答は「・・・ほうじょうがわ(濁る)・・・」(*1)でした。昔の書き物には濁音をつけないという習慣があり、故に「ほうしょうかわ」と書き、読みは「ほうじょうがわ」であったかも知れませんが、私にとりましては今でも幻の「ほうしょうがわ」ではあります。
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 カイヤ橋に戻りましょう。この橋名の表現・表記は、描かれ又は書かれている地図、繪圖、書籍、文書などで実に変化に富んでおり、新しい発見をするとなぜか少し楽しくなっていました。ちなみにこれまで確認できたものは、順不同ですが、1)轟橋、2)飼屋橋、3)貝屋橋、4)飼(買)屋橋、5)カイヤ橋、6)山路土橋(かいや)、7)ツチハシ(土橋)、8)買屋橋など多岐に亘っています。
 上記の各表記は具体的にどこにあるのか?と、一つずつ見てみたいと思います。
 1)、2)、3)の3つの表記は小山嘉巳氏の画集『京都八幡百景・第1集』の「作品012 買屋橋」の添書きに、…古くは「轟橋」「飼屋橋」「貝屋橋」という字が使われたこともあった…と記されてありました。しかしながら、私自身、轟橋と貝屋橋の出典には今のところ出会えずにおりますが、近くの小谷食堂の主人、小谷昌徳氏の3)貝屋橋に関する「昔はこのカイヤ橋のあたりは魚が多く棲んでいた。魚が取れると貝も取れたのではないか?だから貝を売る店も、貝屋橋も有ってもおかしく無いのでは」と話され、当時の川や橋の様子を良くご存じの方のお話には「なるほどな」と思いました。
 4)飼(買)屋橋。この表記は冊子『石清水八幡宮山上山下のまち、八幡』にある地図に見られます。この表記を見ると、まさにどちらが正しいのか、正しく無いのか、どちらも有り得るのでは…等々、侃々諤々の議論の結果を反映した両論併記の対応と思われて仕方ありませんでした。
 5)カイヤ橋。この表記は皆様も一度はご覧になられたと思いますが、八幡市図書館の入り口正面、1階のエレベーターホールに掲示されている古図『八幡山上山下絵図』(江戸時代・18世紀中頃)にあります。「カイヤ橋」と記されていることより、冒頭の「読み(オン:音)が合えば…」との考え方で、特にカイヤに意味を有していなかったのではなかろうかとも想像されます。
 6)山路土橋(かいや)。八幡市立生涯学習センターにて開催されている「男山考古録を読む会」(2013.11.20開催)の八十島豊成氏提供の資料「八幡末社御朱印高之覚」(天明7/1787年9月)に「山路土橋(かいや)」と見えます。この資料の書かれた年代に注目すると、上記の「5)カイヤ橋。」と極めて近いことが分かりますので、八幡城ノ内と八幡山柴間にあった土橋が「カイヤ橋」と呼ばれていたであろうことはほぼ間違いないのではと思われます。なお、資料には土橋の漢字表記に「かいや」と振り仮名が付与されています。
 7)ツチハシ(土橋)。上記の「6)山路土橋(かいや)。」の資料の年代から80年を経てもなお「ツチハシ」と呼ばれていたことの証ではないでしょうか。この表記は『八幡市誌・第3巻』P36にも「慶応4/1868年正月の砲撃による…。放生川に架かる安居橋・土橋とも焼落ちてしまった。」との記載が見られます。
 8)買屋橋。この表記は八幡市教育委員会刊の『男山で学ぶ人と森の歴史』P29の地図に見られます。地図は昭和20~3 0年頃(1950年前後)の街並みを描いているかと思われます。◆会報第47号より-04 大谷川余話⑩_f0300125_10038100.jpgまた、その後の『京都府の地名』1981.3平凡社刊のP155、放生川の項やP175、山路町の項に「買屋橋」とあります。なお、平成8/1996年5 月に架設された現在の橋が「買屋橋」であることは前述のとおりですが、私にはいまだに「買屋」とはどのような意味かが分からずじまいなのです。最後になりましたが、2)飼屋橋。そもそも「飼屋」とは何、と、とても気になっていましたが、以下のように各年代に見出すことができました。
 <1700年代初期> 「かいや」は芭焦が尾花沢で紅花問屋を訪れた際に読んだ句に見える飼屋である。「這出よかひやが下のひきの声」。元禄時代に活躍した俳人松尾芭蕉による紀行文集『奥の細道』・元禄15 / 1702年刊に収められたこの句について、ちくま新書刊『「奥の細道」をよむ』で著者の長谷川櫂氏は「かいや」は飼屋、蚕室のこと。蚕室の床下で鳴いている蟇(ひきがえる)よ、ちょっと出ておいで。そう解説されています。 
 <1800年代中頃> 石清水八幡宮の宮工司長濱直次の子として生まれ、父の後を継いで宮大工となった藤原尚次(ふじわらひさつぐ 寛政9/1797年~明治11/1878年)の著した『男山考古録・巻第十一』嘉永元年/ 1 848年刊、P 393には「飼屋橋」の記載が見えます。
 <1800年代末頃> 京都府立大学の竹中友里代氏の講演資料(2013.9.29付)「南山城における養蚕・製糸業ー城陽長池と八幡の関係から- によると明治23/1891年4月20日、石清水八幡宮一の鳥居内に府立第一区高等養蚕伝習所が開所されています。竹中氏は資料で橋の表示内容などに触れておられる訳では無いですが、当時の養蚕伝習所の存在の史実と芭蕉の句からも、カイヤ橋がはっきりとした意味を持つ「飼屋橋」であっただろうと推察できそうですが、養蚕業にからめて「カイヤ」という橋の名に「飼屋」を充てるのは少し無理でしょうか。
 こうして改めて振り返ってみますと「カ・イ・ヤ」にはどのような文字が当てはまるのでしょうか。また現在の買屋橋はどのような理由でそう表記されるようになったのでしょうか。私にとっては不思議な橋の名前のままなのです。
 さてカイヤはこのくらいにして次に進めたいと思います。2013年秋のある日、府外ナンバーのバスから降りてこられた人から聞こえた橋の名前が「ヤスイ橋」。どこにそんな名前の橋が、と思いきや目の前には「安居橋」が。これでは歴史のある八幡の安居橋も形無しだなあ、と思っていたら、すかさずお連れのご婦人が「アンゴ橋よ」と…。この言葉に救われた思いでした。
 ともあれ『男山考古録・巻第十一』には「安居橋」「五位橋」「六位橋(或曰泉橋、和泉橋)」「添橋」「高橋(或曰反橋、輪橋)」「石橋」など数々の橋の名前が登場します。「石橋」は現在の「全昌寺橋」と思われますが、現存する安居橋が「安居橋」「五位橋」「六位橋」のいづれなのかは私には分からずじまいです。高橋(反橋)は現在の安居橋より15 0mほど川下に(* 2 )に架けられていたようです。◆会報第47号より-04 大谷川余話⑩_f0300125_9381428.jpg
 放生川右岸の一部で、石積みが部分的に異なることも地元にお住まいのご婦人に教えていただきました。実際に歩測して岸辺で確認すると「ここがそうかな?」と思える箇所にも出会うことができました。
 橋はその本来の機能にとどまらず、地域の文化的・歴史的資産であり、観光資源としての役割を持つことも見逃せません。安居橋は車こそ通れませんが基本的な役割以上の役目を果たしている橋と言えるでしょう。安居橋については、八幡市図書館蔵の『八幡散策資料』の安居橋の項にも更なる説明がなされていますし、松花堂美術館の地下にある江戸時代の男山の様子を描いた『城州八幡山案内繪圖』に描かれた安居橋(当時は平橋であった模様)からもかつての橋の様子がわかります。
 ◆会報第47号より-04 大谷川余話⑩_f0300125_9463210.jpgなお、高橋(反橋)は現在でも滋賀県の多賀大社(*3)や大阪府の住吉大社などで見ることができますが、本来は宮参りの橋として、人の世界と神の世界を分ける特別な重みと役割を有するもののようです。また、その独特の形から高橋をはじめとして、多賀大社での太閤橋(*3)の他にも、反橋、輪橋、太鼓橋などさまざまに呼ばれたりもするようです。19世紀の印象派を代表するフランスの画家、クロード・モネ(1840.11.14~1926.12.5)の晩年の作品『睡蓮の池と日本の橋』に描かれている橋は、この橋の形が持つ独特の何かがあるからに他ならないのでは無いのでしょうか。
 また、全昌寺橋がかつて葬儀の時に使われていたことから「葬式橋」と呼ばれていたことを、八幡まちかど博物館『城ノ内』館長、高井輝雄氏に教えていただきました。また「弥生橋(やよいばし)」は架設年月が昭和42年3月(弥生)だったことからその名になったようです。しかし、第5章・公園区に登場した「五月橋(さつきばし)」は架設が五月(皐月)であることとは無関係で他の理由のようですね。最後に、大谷川に架かる唯一の鉄道橋(八幡市駅東側)の正式名称は「大谷川橋梁」では無くて「放生川橋梁」であることも京阪電車の担当の方より教えていただきました。
 まだまだ書くことの多い放生区ではありますが、次章では「川や橋の管理者は誰?」について書きたいと思います。

 (*1)八幡市道路河川課の皆様にご協力いただきました。紙面を
    お借りして感謝申し上げます。
 (*2) 安居橋の左岸下流側近傍に立つ説明板の記載より。
 (*3) 平成23年3月・多賀町発行のガイドブック『多賀大社とその
    周辺』より


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by y-rekitan | 2014-02-28 09:00
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