◆会報第48号より-03 橋本

変わりゆく橋本を目の前にして

石野 善幸 (会員)


 橋本は田畑の耕作地もほとんどない。はるか三重、滋賀、福井、京都のかなたから命の水を運んでくる母なる川淀川に沿っており、また武家の守護神「戦いの神」として崇められた八幡大神の鎮座する男山鳩ガ峯の麓にあり、山と川に挟まれた地域である。
 古代より境界として河内の国、摂津の国、大和の国への通過地であり、また石清水八幡宮巡礼の門前町でもあった。人の往来が多く、茶店、宿屋などがあり遊女たちも各地から集まり賑やかな遊里となっていった。
遊郭の中央をつらぬく京街道(大坂道)は嘗ては人、馬、車の往来が多くあった。
 江戸時代は、朝鮮通信使の一行、又参勤交代で紀州のお殿さま、今から2 8 5 年前には将軍徳川吉宗の要請で象が一頭長崎から江戸へ向かう時、ここ橋本を歩いたとの事。昭和20年代までこの通りは旧国道一号線であった。橋本は常に時代の渦中にあり、幾たびかの戦乱に巻きこまれ衰退と繁栄を繰り広げてきた。各時代を通して橋本の繁栄を支えてきたのは遊郭であった。近世以降では貧しい者が差別され、社会の中で最も下層の貧しい女性たちが搾取されてきた。明治時代においては以下の状況である。
 自らの身体を張って客の相手をしなければならなかった芸娼妓のほとんどは、生活苦に陥った家族を救うため犠牲になった者であり、自ら望んでなったのではない。また彼らは誇りを持てる職業として毎日を勤めていたのでもない。そのため男尊女卑の徹底した社会の中で、遊郭はさまざまな悲劇を背負った女性の社会の縮図であった。
    (守屋敏彦著「近代京都府八幡市の住民生活」1987年刊より)
 1958年(昭和33)、売春防止法が施行され橋本も遊郭もその長い歴史を閉じ、一時静けさを取り戻した。
 遊郭が廃止された翌年の1959年(昭和34)、狩尾地区の宅地開発が始まり、ベッドタウンとなっていった。山の中腹にある狩尾神社はとがのおとばっちりを受け社を残して丸裸同然となやしろり、地元ではプリン山と呼ばれている。また、京阪電鉄の線路近くにあった鳥居は住宅地完成後現在地に移設された。元遊郭地の廓跡も老朽化が進み、あちらこちらで解体が行われ空き地が目立ってきた。
 2013年(平成25)より橋本南山線の高架道路工事に伴い、現在のバスターミナルおよび駐車場、枚方市との境界道路周辺の大工事が実施されている。今まさに橋本は大きく変わろうとしている。橋本の開発の波は次々に押し寄せ、橋本の昔日の面影を消滅させていくようである。
 変わりゆく橋本を目の前にして過ぎ去った歴史を学んできた私達は地域の見聞を記録し、建造物などの遺産を記念に残す行動をしていかなければならない。今私たちは次世代のために過去、現在、未来を繋いでいかねばならないだろう。    
               (橋本遊郭跡を訪ねて2014年3月15日)
by y-rekitan | 2014-03-28 10:00 | Comments(0)
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