◆会報第49号より-04 伊佐家暮らし②

シリーズ「伊佐家の暮らしとしきたり」・・・②
伊佐家の暮らしとしきたり その2

伊佐 錠治 (会員) 

はじめに

 伊佐家は庄屋として農業を営んできたので、四季の自然を取り入れた暮らしとしきたりが培われてきた。我が国の伝統的な生活観に見だされてきたものに「ハレ」と「ケ」がある。ハレ(晴れ)は表向きの暮らしで、儀礼や祭り、盆や正月、節句などの年中行事であるから非日常的な暮らしであり、これに対して、ケ(褻)は日常の暮らしであり普段の生活全般をさしている。
 伊佐家には十二代貞武(1803~1854)と十三代貞利(1835~1899)が綴った日記が残されている。特に貞武日記には、ハレに相当する「格式日記」(図16)とケに相当する日常の暮らしを記録した「日常日記」(図17)が残っている。両者を比較することによって江戸時代のハレとケの生活様式を知ることができると考え、天保九年(1838)の日記を比較してみた。
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 格式日記には村の年中行事とその際に提供した料理が詳しく記載されているので、料理を中心に一年間を通して日記の一部を取り上げた。従って、格式日記で取り上げた月日に相当する日常日記を取り上げ比較した。
 この年の時代背景は、徳川家慶の時代で冷害、風水害によって大飢饉と記録されている。また、関西では緒方洪庵が大坂に適塾を開いた年でもある。

(1) 格式日記(天保九年)

 先ず、格式日記の内容を紹介する。格式日記は村の毎年の諸行事・しきたりを綴った覚書であるが、結構、個人的な内容の記載も認められる。元日の初詣から始まり、新年の挨拶、藪入りと続くが、人が集まると酒やご馳走を振る舞う習慣があったようで、正月だけでなく年間を通じてもこの傾向は認められる。村の行事で大切な初詣、伊勢講、お日待ち講、節供、宗門判、生霊会、氏神の神事、亥の子、せちく免割など参加者の氏名から料理の内容まで村の習慣として詳しく記載されている。記載されている人名は100名以上になり、何時、何処で、誰が、何をするのか、村の行事を毎年継承して行くには必要不可欠な記録であるように考えられる。
 個人的な内容としては藪入り、節句祝い、土用入り、井戸替え、墓参り、誕生日、すす払い、歳暮の挨拶など記載されているが、次項で記載する「日常日記」ではなくて「格式日記」に何故書いてあるか判らない。12月9日に「頼母子講」が書かれているが、これは当時賭け事が盛んであったと言う事実の裏付けになっているようで興味深い。
1月1日
初詣は氏神へ裃を着て村人23名でお参りに出かける。半切百枚を伊右衛門に渡し、夫娘にはお年玉としてぬり手本を一つ渡す。
2日
羽織に着替えて村人が訪れる。上奈良の判之丞が訪れ、台所で年酒、組重、吸い物(しじみ)、鉢(ぶり)をご馳走する。甚七も台所で年酒、無左は玄関で振るまう。七つ時(16時)、全員帰る。
7日
米三郎が夕方に来訪、生姜を持参。年酒を出す。徳左衛門の倅と米三郎の弟に算術を春から教えることを頼まれたが、これは間違いで、幾二と民作の手習であった。おその娘は鏡餅小一重を持って藪入り。佐古村の岩吉(17歳)も鏡餅一重、木綿入りパッチ、足袋を持参して藪入り。
16日
与兵衛娘いく(17歳)は鏡餅一重、木綿嶋袷、下駄、足袋、前たれを持って藪入り。
21日
伊勢講宿(市郎左衛門)  神酒[鉢(干大根、昆布、くわい)、鉢(かづのこ)、鉢(にぼし、そら豆)]  舟の一件のため先年から食事を中止していたので、仲間に上記の神酒だけ振る舞っていた。当年から食事を再開したが、市郎左衛門は神酒だけの宿を勤めたので、神酒が終わり次第直ちに伊左衛門の伊勢講宿に移動して食事をした。
本膳  膳(肴、大根、うど)平(棒たら、牛蒡、小芋、椎茸、くわい)汁(大根、海老、ざこ)飯、猪口(小鮒)。10名が南北に分かれて座る。奥の間、次の間共に上敷きをあげて座布団を敷く。当年の参宮について相談し、3月21日に出立が決まる。
23日
村の日待ち宿  初左衛門
2月23日
宗門の判取(押印を取る)。前日、昼食後に久右衛門に宗門帳2冊、5人組帳、小入用帳2冊を渡す。当日、昼食後、久右衛門と勝二郎が来る。百姓・寺方共に判取り、酒を振るまう。
鉢 にしめ(くわい、ずいき、小芋、人参)、にしめ(豆腐、にしん、こんぶ巻き、したし、数の子)。西雲寺には食事を台所で出す。これは先の寺方(一向宗)が未だ帰っていなかったので台所で振るまうことになった。夕食  魚物(昆布巻き、にしん)かさ(したし)汁(こんぶ、棒たら)飯、鉢(田楽)、これらの材料は豆腐25丁、米は2升で余る、みそ。
30日
三月節句祝い。粉3升5合 餅3升。寺2軒と6軒に団子4個、餅3勺 おそのにはだんご3個と餅2勺を渡す。粉は3升5合では少し余る。
3月1日
手習い子 節句祝い。餅3勺 又よもぎ6勺 権蔵へ。餅2勺 又よもぎ3勺 吉治へ。餅3勺 又よもぎ10? ふさ吉へ。
2日
里の徳右衛門の子 幾二郎へ 餅5勺 又よもぎ4勺。里の徳次郎の子武之助 祝いに来なかった。
18日
伊勢参りに出立。前日に参宮に出かける人の見計らいをする。22名を選出。留守見舞いの人は、朝に庄左衛門、昼過ぎにおりう、おさわ。
19日
朝におむら、作十郎、安兵衛、米二郎、甚七。
20日
夜 油屋 作左衛門母 おひさ おもん 勘左衛門 米三郎
21日
里 庄兵衛 紋右衛門 由右衛門 十兵衛 義兵衛家内
5月3日
五月節句祝い。ちまき用の米粉8升。節句の参拝 早朝、氏神へ参詣。その他は何処へも参拝しなかった。挨拶に来た人は新右衛門 寺子屋で学んでいる子供(幾二郎、民之助、吉松)3人には各人にちまき2本を渡す。利右衛門が早朝に菊の花を持参し、改めて祝いの挨拶の様子。
30日
土用入り。餅米、白米、小豆で牡丹餅を作り、両家へ15個を渡す。昨年は出入り方と寺へも渡していたが、当年は取りやめる。
7月7日
西雲寺へ墓参り。白米3升 銭100文(半紙に包む) そうめん(大束6輪)例年は小束20輪であったが、当年は高値につき変更。18ををぎ。これらは6日の夕方に寺に渡す。おふみ、郷右衛門、乙八郎が参詣する。井戸替え 権七と市之助を雇い入れる。4つ時(10時)に酒を振る舞った。昼食は平(こんぶ、なすび、隠元豆)、かさ(もみ、うり)、汁(なすび)飯、酒。内井戸の様子が替わる。
12日
煙亡の与三郎に20文を紙に包まず渡す。
13日
生霊会の買い物。白餅20個、饅頭20個、ありの実5勺、もも10個。他にあさぎ色のかわらけは去年の残りがあったので買わなかった。髪結いに、盆の祝儀として100文を半紙に包んでのしを付けて渡す。この時、小兵衛が髪を結ってもらう。
22日
いくが藪入りのため、半期の給銀として30匁を渡す。これは覚え帳に記載あり。他に心付けとして布前だれ、鯖代として50文、ビイドロかんざし1本。与左衛門死去につき素麺7輪を遣わす。
9月?日
神事。買い物 鯖大20匹、中25匹、〆て45匹。これのすし、米3升にて作る。かまぼこ2枚、小生ぶし1本、しいら(鱪)。長濱氏が訪れる。酒。酒の肴 すし1鉢、硯ふた(かまぼこ、からすみ、はじかみ生姜)、鉢。本膳 ずいき膾、平(松茸、生ぶし、かぶらあんかけ)、魚物(しいら?すし3本)、汁(かまぼこ)、飯。
8日
亥の子おはぎ(餅米2升、白米3升、6合)本来は30日であるが、今日にした。利右衛門に9勺、九郎兵衛に7勺、西雲寺に7勺、久二郎に7勺、権七に7勺、勘右衛門に7勺、兵四郎に5勺を月番のおすへに持って行ってもらう。家内は小兵衛、おふみ、郷右衛門、おさきの4名、下働きの3人(岩、いく、こと)、大工2人が来る。郷蔵番(村に設置してある郷蔵の番人) 19名
11月24日
すす払い。未明に起きる。貞武の誕生日につき、以下の料理を準備して、雇人2人と家内(小兵衛、おふみ、郷右衛門、おさき)4人で誕生祝いをする。雇人2人には100文づつを渡す。朝食 平(いりがら-コロ、菜)、魚物(いわし)、汁(だいこん)、飯。
四ツ時(10時)  酒、うるめ。昼食 くき?。 夕食 平(だいこん、小芋)、魚物(いわし、酒肴)、汁(だいこん)、飯。
12月3日
免わり。8人が集まり、昼食をする。平[のっへい(ながいも、くわい、ごんぼ、にんじん、かまぼこ、しいたけ)] 魚物(いり付けのいな)、汁(大根、かき)飯。酒の肴[すずりぶた(くわい、たこ、こうや豆腐、みかん、かまぼこ)、鉢(たたきごぼう)]
15人が集まり夕食。平(上げ、菜)、かさ(たたきごぼう)。酒の肴[鉢(ぼら、大根)、鉢(たこ)、鉢(ぼら、たら)、鉢(小とうふ)、鉢(同上)、鉢(たたきごぼう)、鉢(くき)]。送り膳 清右衛門へ飯1杯、平(かき、ごぼう)。利右衛門へ小鉢とにしめ1杯、平1勺。久二郎へ先と同様 清七へも先と同様。平四郎へ重箱とにしめ1杯、平1勺。勘左衛門へ先と同様これらを遣わす。揚げ45丁 少々あまる。茶飯 白米8升 この米1升につき、水1升2合。茶をみそこしでこし、1杯焚き越し。
4日
寒さの中、浜・里の庄屋、年寄、4ケ寺が渋谷省吾宅へ出向く。
6日
内里(長村権左衛門)へ出向く。
9日
源吉は頼母子興行1枚、60匁を掛ける。頼まれたので半枚持つことを聞き入る。その為に夕食後に送り膳が届いた。魚物(いとより)、膳(作り身、ちりめん麩、だいこん、みしま、くり)、汁(かき、たこ) 飯(小おはちに1杯)、平(ぶり、長芋、くわい、さくら麩、みずな)、茶碗、酒の肴(たこ、かまぼこ、九年、なし、紅葉麩、長芋、こまめ、ごぼう、くわい、氷豆腐、数の子)
大晦日
歳暮に拙者が庄屋4軒、寺4ケ寺、伊右衛門、佐二衛門、利右衛門へ、去年の通り参る。

(2) 日常日記

 日常日記は当時の暮らしを引き出す貴重な資料と考え格式日記と比較してみたが、興味深い内容の記述を見だすことはできなかった。図17に示したように表紙もないし、見るからに簡素で普段のメモ帳と言った感じを受ける。しかし日常日記の記載内容は少ないが、天候に関しては詳しく書かれているので、当時の気候を知るうえで参考になる。また家族の病気についても記載があって、11月24日には乙八(十三代貞利の幼名)が痘瘡から回復したことを知ることができる。その他、伊勢講のお金の受け渡し、免割りの調整など行事に伴う裏方の格式日記には沿わない記載が見だされる。この日常日記は格式日記に記載した月日に限定して拾い出したもので、年間を通して詳しい記録が残っている。一年間の記録には多くの情報が残っているので全体を把握しないと日記の価値判断はできないかもしれない。
1月1、2、7、16、21日
記載なし
2月23日
天気 おと殿不快なので岩が上京。
30日
記載なし
3月1日
天気。過日 南村の清二郎より側道の杭に付き手紙が届いた。一件について 今日 伊三郎を呼寄かたく申し付けた。清二郎は心得違いのため書付を取って、当方へ持参した。勝二郎殿が入来し、伊勢講の銀子を今日 先もって入金する。これを今冬の勘定とする。清二郎が野尻へ出向いたが、お留守なので、改めてすぐさま参り書付でもって申し伝えたが、伝わらなかった。予期した通り手紙でも伝わらなかったと聞き及んだ。右の様に、道の杭を今日切り直すよう申しつけた。
2日
夜前より大雨 今昼迄に止む。
18日
天気 講参りへ出立。
5月3日
天気 渋谷同道 淀へ行く。
30日
記載なし
7月7日
天気 作兵衛が帰る。
13日
曇天 朝折々雨
9月8日
御名五百唱
11月24日
天気 すす払い。痘瘡後 乙八は初めて入湯する。
12月3日
天気 免割
4日
天気 割高だったので、両株役人が庄兵衛へ参り馳走になった。
9日
(空白)
30日
記載なし

(次号へ続く)

         
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by y-rekitan | 2014-04-28 09:00 | Comments(0)
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