◆会報第49号より-07 今里遺跡発掘

神領墓地は何を語るか
―今里遺跡の発掘調査報告―

高田 昌史 (会員)

1.はじめに

 今里遺跡は、八幡市北東部の水田地帯の遺跡で、石清水八幡宮神領の八幡八鄕(やわたはちごう)の縁辺部の古い集落である川口と下奈良の間にあり、中世後半に成立したとされる「外四鄕(そとよんごう)」に位置する。
 この度、市道建設(二階堂川口線バイパス)に伴う下奈良隅田(隅田墓地西側)で、今里遺跡の発掘調査が八幡市教育委員会の文化財保護課により、平成25年12月から平成26年3月まで実施された。
 今回の発掘調査中に現場を訪れ見聞きしたことを現地説明会及び周辺の関連情報も含めて報告する。

2.発掘調査結果の概要

 調査対象地は下奈良の隅田墓地西側の畑地300㎡で、南区160㎡と北区140㎡の2回に分けて行われた。
 調査の遺構面は4面で、それぞれの遺構面の年代幅及び遺構や出土品等を一覧表(表1)にまとめた。
f0300125_22346.jpg

(1)南区 : 図 1

 安土桃山時代~室町時代後期までの第1面から第2面の遺構からは、多くの火葬の跡が発掘された。その火葬跡からは、1人ずつの1回使いの火葬土坑から、f0300125_16393076.jpg継続的な使用を目的とした常設施設の石組の火葬炉へと変遷がうかがえた。
 火葬炉(図2)は、床面に平石が敷き詰められ、側面には石塔の台座などの多くの転用石が見られる。この火葬炉の北面中央に斜め設置されている平石(図2の◯印部)には、三茎蓮(さんけいれん)の文様が彫られている。なお、この発掘地の東隣の下奈良隅田墓地の小屋内(龕前堂)に残っている棺台の台石の4側面に同じ三茎蓮の文様がある。(図3参照)
f0300125_17444912.jpg
 また、火葬炉の内面は煤がかなり付着している部分や、火を受け赤褐色に変色している石が確認された。火葬炉周辺の火葬骨片を含んだ炭灰で埋まっていた浅い大きな土坑からは、室町時代に流通した永楽通宝(宋銭)や明銭など多くの六道銭が見つかった。
 火葬炉の周囲には五輪塔などの石塔を並べて設置されており、北辺の中の一基のみは砂岩製で「国阿禅門/康安元年(1361)/五月九日」と刻まれていた。他の石塔は花崗岩製で地輪部のみが残っており、その一つに梵字が刻まれているものが見られた。これらの遺構の下、第3~4面は室町時代前半期~平安時代後期の遺構面で、火葬土坑は少なく第3面で4基ほどに留まり、土葬墓が数基見つかった。最下面の第4面は砂が広がる河原で、土葬坑や土器等の供献品や骨片が残っている遺構がいくつか検出され、調査地の西側沿いに古代から中世の木津川の古い川跡が北流していたことが、ほぼ明らかになってきており(注1)、その河原に埋葬され始めたことがわかる。
 (注1)川口扇遺跡発掘調査報告(2007年):(八幡市埋蔵文化財調査報告書)による。

(2)北区 : 図 4

 南区に多くあった火葬土坑は少なく、江戸時代前期~中期初め頃の大型土坑と大量の火葬によって生じた残渣の捨て場が見つかった。f0300125_1817231.jpg大型土坑の底部に小坑が密集して掘られ、それぞれの小穴には炭・灰・火葬骨あるいは土器や銭が埋められており、大きな時間差なく埋めることを繰り返している。この場が直接、火葬場として使用されていた訳ではなく、納骨あるいは廃骨のために掘った穴とみられる。
 調査区西壁沿いの斜面には五輪塔の部材や一石五輪塔、板碑、船形石仏など、15~16世紀の石塔類が3グループ程にまとめて埋められていた(図5)。その石の上や間には火葬残渣が厚く埋められて、その上層部から寛永通宝の六道銭が出土したので、江戸時代前期~中期初め頃に埋められたようである。六道銭は6枚きちんと重ねられた状態でも発掘された(図6は、供献品の六道銭と土師器の発掘時の状況写真)。
f0300125_18304079.jpg
 従って、南区は火葬炉が中心にあり、その周りに五輪塔などの石塔が並べられた墓地だった。しかし、文禄5年(1596)の伏見大地震で石塔が倒れるなどして使える状態でなくなり、墓地は北に広げられたが、江戸時代中期から後期初めに現在のように縮小されたと推定できる。
 なお、これらの地層上面からは、大地震の時に起きる液状化現象に伴う噴砂跡が、多く確認されており、遺物等の関連性から伏見地震に伴うものであると考えられる。 

3.発掘調査成果について

 今回の調査で、石清水八幡宮神領内の大規模な墓が初めて見つかり、中世墓の成立からの変遷が明らかになった大変貴重な成果を得たといえる。また、最下面の第4面の砂が広がる河原への土葬から埋葬が始まり、それから火葬が主になり、1人ずつの埋葬から集合的になっていく、変遷が追える貴重な事例であり、珍しい火葬専用の石組み炉も出土した。
 火葬の早くからの普及に加えて副葬品に中国製の輸入陶磁器や天目茶碗など高級品も多く出土しており、石塔も多く作られていることからも、経済的にも豊かな上位階層の人々が被葬者に含まれていることを示している。また、多く出土した六道銭には、室町時代に流通した永楽通宝(明銭)や皇宋通宝(宋銭)及び開元通宝(唐銭)などの国内で流通した多くの輸入銭や江戸時代の寛永通宝が出土した。
 また、納骨された状態で発掘された平安末期(12世紀)の蔵骨器(骨つぼ)は、愛知県の常滑あるいは渥美産であると考えられている。

4.発掘現場周辺の状況

 今回の発掘現場周辺の状況を図7に示したが、現場は巡検道(注1)北側で、川口・下奈良・二階堂の三集落の隅田墓地西側である。
f0300125_193502.jpg
この墓地周辺は地元の人からは「千日の墓」(注2)と呼ばれており、その南側には井関経塚(注3)がある。
 また、墓地の南東隅には、墓地内や周辺工事で出土した数百体の石仏や石塔・石碑類が集められている。それに、道路を挟んだ東側の水田と道路(巡検道)の間に、約百体の比較的小さい石仏が並べられている大変珍しい光景を目にする。これは、下の水田から出土した石仏を集めて並べられていたが、その他にもこの地区の巡検道や集落の道の各辻に必ず置かれていた「辻の地蔵さん」も多く持ち込まれ置かれて数が増加したと聞いた。
  (注1) この巡検道は八幡神原から旧市街を抜け、この田園地帯の下奈良に
      至る約2kmの道であり、神領の検見や収穫の管理にあたっていた。
  (注2) 明治初年に廃寺なった千日寺の墓。千日寺は、浄土宗三十六ヵ寺組には
      入っていない。
  (注3) 経塚(きょうづか)とは、経典を土中に埋納した塚のこと。井関経塚は
      幅約5mの盛り上がりが残っている。


5.おわりに

 今回の発掘調査により中世の大規模な墓地であることが確認出来たが、まだ、この墓地全体の規模が確認できていないので、引き続いての発掘調査を期待する。

参考資料
  (1)八幡市遺跡地図(2005年版):八幡市教育委員会
  (2)平成25年度今里遺跡発掘調査の現地説明資料
     (2014年3月15日):八幡市教育委員会
  (3)中世前期以前の八幡の墓について(八十島豊成)
     :同志社大学歴史資料館館報第5号
  (4)川口扇遺跡(第2次)発掘調査報告書(2007年)
     :八幡市教育委員会
  (5)「今里遺跡」(ほ場整備事業地内遺跡第3次発掘
     調査概報)1996年:八幡市教育委員会
  (6)八幡市誌第2巻

《謝辞》
 今回の発掘地は自宅から近い場所でもあり、発掘中に何回も現場を訪れたが、現場で発掘調査の指揮された、八幡市文化財保護課の小森主幹殿及び大洞係長殿(現市民部課税課係長)には、厳しい日程での発掘調査中にも拘わらず懇切な説明やご教授を頂きました。厚く御礼申し上げます。
 お陰様で発掘開始から、調査後の埋め戻しまでの発掘調査のほぼ全行程を確認することが出来ました。

by y-rekitan | 2014-04-28 06:00 | Comments(0)
<< ◆会報第49号より-06 墓石... ◆会報第49号より-08 水月... >>