◆会報第15号より-01 東高野街道

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《歴探ウォーク》
東高野海道を歩く
― 2011年6月  東高野街道(八幡市) ―

 田中 良憲 (会員)


 6月19日(日)、探究する会6月例会「八幡歴史探訪」として表記の企画が実施された。
曇り模様の天気。雨の心配さえなければ却って曇り空はありがたい。
 午後1時集合だが、12時40分頃から参加者が集まり始めたので、15名の者が先発隊として出発。中ノ山墓地をスタートに、歴史探訪が始まった。ガイドのお一人である田中良憲さんには、資料作りで大変お世話になった。
 その資料の冒頭にある正平の役(1352年)関連碑の一つである「四条隆資(しじょうたかすけ)卿塔」や「三百人塚」がある頂上部に登り説明を受け、歌舞伎でおなじみの「引き窓」の主人公吾妻と与五郎の墓にも訪れる。但し、これは三宅碑の表示に従ったままである。f0300125_852460.jpg
 中ノ山墓地は、数多の石仏の林立する場所でもある。総計で65体も一地域に集中する墓地はそうあるまい。長い年月の風雪によってかなり風化されてはいるものの穏やかな表情に心洗われる。
 頂上部は眺望もよい。木津の流れから城陽方面、洞ヶ峠から京田辺方面へと視界が広がる。

 次に宝青庵を訪れる。苔の青が印象的。本堂では扉が開けられ、本尊である阿弥陀如来座像の他に閻魔十王像も庵主のご好意で見せて頂いた。ここに閻魔像があるのは、八幡広門にあった閻魔堂が取り壊された際、堂内にあった閻魔像十体をこの御堂が引き受けたからだということを聞いている。宝青庵正面右に見える「小野篁(たかむら)公作十王像閻魔堂」なる碑も三宅碑である。小野篁が閻魔大王の副王としてふるまったという伝承は、京都東山の六道珍皇寺に行った事のある人であればお馴染みのものであろう。
 信号を越え八角院をめざす。途中、「正平役血洗池古跡」碑にちなんで小さな池に案内された。「血洗い池」であるが、この辺り茅原(ちはら)であったとも言われる。4月例会で文化財保護課の大洞さんより、西車塚古墳の後円部の周囲が濠であったか不明との説明を受けたが、周濠があったとすれば、池はその名残なのかもしれない。
 西車塚古墳の後円部の頂上部に登る。むろん八角堂がある。昔、ここには元三大師堂もあったとか。元三大師堂は神仏習合時代には石清水八幡宮の三ノ鳥居近くにあった建物だが、八角堂と同時期に神仏分離令でこの地に移築させられたものである。脇にある地蔵堂と地蔵尊については、本号にある望月さんの原稿に詳しい。
 八角堂周辺は、環境ボランティア団体である八幡ルネッサンスが定期的に整備し、このほど島百合が植えられ、京都新聞でも報道された。花を植えることなどを通してさらに八角堂が注目され、文化財保護が具体化されることを望みたい。
 東高野街道を北上し、民家の塀内にある「橋本(樟葉)道」の道標をみつける。軽四輪一台がようやくにすり抜ける程の狭い道が昔の街道であったのだ。正平の役では、こんな狭路を南北双方の兵士が駆け抜けて行ったのかもしれない。いずれにせよ、正法寺までの抜け道は、昔の面影が残りのどかなたたずまいである。
 いよいよ正法寺へ入る。

 正法寺は慶長5年(1600)の知行高帳の数値がずば抜けている。八幡宮社務である田中家や禅法寺家がせいぜい百石程度なのに正法寺は五百石である。むろん尾張徳川家の篤い保護に支えられてのものであるが、七堂伽藍などその威容に圧倒される。f0300125_854494.jpg
 本堂、大方丈、小方丈などめぐる。書院様式のしつらえもさることながら、襖絵なども江戸初期の狩野派の絵師によって描かれたものであるとか。金箔で施された大方丈上段の間は、書院様式ながら、違い棚と付書院が対面しているという大変珍しいものである。
豪華絢爛たる大方丈に対し、小方丈は数寄屋の茶室を彷彿としたもので、禅画の掛け軸があるなど風雅な文化人の趣味が反映されているようだ。
 法雲殿に赴き、巨大な阿弥陀如来座像(重要文化財)を見上げる。鎌倉時代の作であるとか。もともと八角堂に鎮座していたものであるが、明治初期に移転させられ、その後10数年間京都国立博物館に収容され、昭和20年に建設された法雲殿に収蔵されたものである。
堂々とした体躯は平等院鳳凰堂の弥陀仏をも思わせるものであるが、永年の風雪によって胸から腰に至る彩色が剥落しており苦難の遍歴を想わずにいられない。
正法寺がこのような隆盛の時期を迎えるのは二つの画期があったと住職は語る。一つは後奈良天皇の帰依を受け勅願寺となった(1546年)こととお亀(相応院)が徳川家康の側室となり尾張藩祖義直の母となったことである。現在の伽藍は相応院の寄進によるもので寛永6年(1629)に建立されたとのこと。おもしろいのはその創建が文明年間(1469~86年)のものとされる地蔵堂が正門わきに控えていることである。それは鎌倉幕府御家人の高田忠国が当寺を開創したとき(1191年)の面影を伝えてくれているようでもある。
雨にたたられることなく歴史探訪ウオークは大きな収穫をのこして閉幕。参加者35名。ガイドしていただいた八幡観光ボランティアガイド協会の田中会長と大田友紀子さんに改めて感謝の気持ちをお伝えしたい。
 ありがとうございました。

 枚方のボランティアガイドの会の福島万喜子さんからお便りが届きました。紙上に掲載することを承諾して頂きましたので紹介します。
「前略 八幡の良さを今回もたっぷり味わわせていただきました。ありがとうございました。京都・奈良の寺々と比べても遜色ない正法寺、何よりも鮮やかだった苔の艶々しさ、タイムスリップの一時・・・。久々に会った友人も「来て良かった!」と。また、よろしくお願い致します。今、私達枚方のボランティアガイドの会にも八幡を研修で歩きたいと提案しております。 (後略)」   (文責 土井三郎)


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by y-rekitan | 2011-06-28 12:00 | Comments(0)
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