◆会報第10号より-01 南北朝の争乱

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《講 演 会》
南北朝の争乱と八幡
―2011年1月  松花堂美術館ギャラリーⅡにて―

 土井 三郎 (会員) 


f0300125_11244416.jpg 1月29日(土)、松花堂美術館ギャラリーⅡにて今年初めての例会が行われました。今回は「南北朝の争乱と八幡」と題して土井三郎さんが講演なさいました。 概要を紹介します。
 八幡には「正平の役」関連碑が存在する。「正平の役」(八幡合戦)はどう位置づけられるのか、そして「南北朝の争乱」とは何だったのか、その歴史の見方や考え方をトータルに考える場としたい。

南北朝の争乱の時期区分

 1336年南北朝分立から1392年合一まで、後醍醐天皇が笠置(かさぎ)で挙兵した元弘の乱から数えると、凡そ60年にわたった南北朝の争乱は、次のように時代区分できる。 
①前期  元弘の乱(1331年)~鎌倉幕府の滅亡(33年)~足利氏の離反(36年)
②第1期 南北朝分立(36年)~幕府軍による吉野襲撃(48年)・・・南朝側が組織的軍事力を擁し、独力で北朝・足利方に対抗できた時期。
③第2期 足利氏に内訌(ないこう)勃発(49年)~観応(かんのう)の擾乱(じょうらん)(50年)~正平の役(’50年)~義詮、政務を義満に譲り、細川頼之(よりゆき)を管領とする(67年)・・・幕府内の権力闘争が激化し、尊氏派・直義(ただよし)派・南朝方の三者が鼎立(ていりつ)し争乱を展開した時期。

③第3期 義満が政務につく(67年)~南北朝の合一(92年)・・・幕政が安定し、九州を除いて南朝方の凋落は歴然。合一が時間の問題となった時期。

人物の動きから争乱の性格を探る

さらに、登場する人物の動きを通して争乱の性格を探ってゆきます。
 後醍醐天皇(南朝)(1228~1339)
 時明院統・大覚寺統の両統迭立(りょうとうてつりつ)の中で、皇位を全うし、それを子孫へ伝えようとする。
 楠木正成(南朝)(?~1336)
 「悪党楠木兵衛尉」、湊川の戦いで戦死。
  後醍醐天皇が決起した笠置の位置には木津川の水運、伊賀・大和・河内の悪党の存在があった。
 足利尊氏(北朝)(1306~1358)
  1336年「建武式目」を制定。足利幕府を開く。
 高 師直(もろなお)(北朝)(?~1351)「バサラ大名」
 摂津で戦死。足利家執事から幕府直轄軍団長へ。兄(弟?)師泰(もろやす)は侍所長官に。
南朝方に与(くみ)した「悪党」も「北朝」・幕府に味方した「バサラ大名」も旧体制を否定する思想を懐き、反体制の運動を展開する点で同質であり根は一つであった。

 自身が学生だったころ、「足利尊氏の図」とされていたものが、今はただ「騎馬武者の図」、或いは「高師直の図」とされている話、足利尊氏が戦勝祈願を石清水八幡宮の善法寺家に依頼したとされる「元結(もとゆい)の御教書(みぎょうしょ)」の話など画像を交えて、面白い話が続く。

                 (元結の御教書)
今月廿八日自宰府所進発也、祈祷事可令抽懇丹給之状如件
                     三月廿日 (花押)
                    八幡宮社務法印御房
           【京都新聞 石清水八幡宮のたからもの⑲】より

なぜ60余年に亘って戦いが続いたのか

  公武を問わず、惣領(そうりょう)と庶子(しょし)、嫡流(ちゃくりゅう)と傍流(ぼうりゅう)が拮抗・対決した時代であった。家督と家領をめぐる争いであり、嫡流が北朝方につけば傍流は南朝方につくといった具合で、いずれが「正」であり「偽」であるかなどという理念の対立は存在しない。在地勢力の領主権を巡る戦いが全国的に展開され、「悪党」が跋扈(ばっこ)し、「バサラ大名」が勢力を伸張させる時代であった。「巨視的にみれば、荘園公領制から守護両国制への過渡期を画する戦乱であり、王朝国家そのものの最後的消滅というべきであろう」(『中世内乱期の社会と民衆』永原慶二)との指摘も。 
 足利幕府における、尊氏(軍事・恩賞を担当)の執事で武士の荘園侵略を容認する高師直と、直義(裁判・行政を担当)の引付頭人で荘園領主の訴えをうける上杉重能との対立は、やがて尊氏・直義兄弟の争いへと発展(観応(かんのう)の擾乱(じょうらん)1350年~52年)し、戦乱を長引かせることになる。

「八幡合戦」とは何か

 観応の擾乱はやがて南朝を巻き込み三派の抗争となった。尊氏の戦略から「正平の一統」が実現したが、尊氏の弟直義(ただよし)の没落と南軍の京都進攻により「正平の一統」は瓦解し、関東の尊氏に呼応した義詮が率いる幕府軍の反撃により一時京都を陥れていた南軍が窮地にたたされた戦(1352年)(文和元、正平7)であった。
 1352年3月27日、洞峠で開かれた八幡合戦は、美濃山・淀の橋詰・財園院(ざいおんいん)・守堂口(もりどうぐち)・園殿口(そのどのぐち)・佐羅科(さらしな)などを戦場に約50日間にわたって戦われた。だが、幕府軍の圧倒的な兵力を前に南朝軍(「官軍」)は「御山(おやま)の陣」に追い込まれ、妙法経塚(みょうほうきょうづか)への夜襲などで戦果をあげることがあったが、ついに5月11日、大和路をめざして木津川沿いに落ち延びていった。その途次300名の官軍が討死し、南軍を率いる四条隆資(しじょうたかすけ)も戦死した。
「八幡合戦関連図、石碑・塔類分布図」
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遺跡にはどんなものがあるか

・「後村上天皇行宮跡」昭和3年、田中俊清建立。
・「正平役城ノ内古跡碑」「園殿口古戦場碑」「血洗古跡碑」昭和2.3年三宅安兵衛の遺志によるもの。
・「四条隆資卿塔」昭和19年3月建立
八幡合戦関連図、遺跡・塔類の場所が図示作成されていて、非常に分りやすい。  

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南北朝の争乱はどう描かれたか

以上、南北朝の争乱と八幡合戦について概観してきましたが、歴史上どの様に取り扱われてきたのでしょうか。
① 映画「彼岸花」1958年(昭和33)9月公開の「同窓会」のシーン。
「帰ラジト兼テ思ヘバ梓弓ナキ数ニイル名ヲゾトドムル」(太平記 巻26、「正行吉野ヘ参ル事」
「青葉茂れる桜井の・・」(太平記 巻16、「正行兵庫へ下向ノ事」
②南北朝正閏問題
 1911年(明治44)1月、政府は南朝正統説を採用(『日本史広辞典』山川出版社)、それ以降「南北朝」の呼称は終戦までタブーとされた。
③国民の歴史意識の形成に関わって
  「楠木正成=忠臣」論(『楠木正成と悪党』)とそれを批判する意見(前近代の正義像―福沢諭吉の正成評)を紹介、『太平記』を下敷きにして醸成されてきた南北朝観・忠臣観は江戸時代後期の国学者・儒学者たちによって著述され、王政復古による近代国家建設のプランとして幕末・維新期に幅広い基盤となったのである。

『太平記』は誰によって何のために書かれたか

『太平記』は、室町幕府が法勝寺(ほうしょうじ)を拠点に活躍した恵鎮(えちん)教団に『太平記』を編集させたものである。
 その第一の理由が、南北朝内乱で死に、怨霊になった人々の鎮魂にあった(『太平記―鎮魂と救済の史書』)と話を結ばれた。


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by y-rekitan | 2011-01-28 12:00 | Comments(0)
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