◆会報第50号より-02 八幡門前町

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《講演会・シンポジューム》
門前町の八幡「今」「昔」
― 2014年5月  飛行神社にて ―

共催: 東高野街道八幡まちかど博物館協議会
第一部: 講演 同協議会 高井輝雄
第二部: 各位による シンポジューム


 5月11日(日)、飛行神社を会場に、標題のタイトルで5月例会が開催されました。今回は、東高野街道八幡まちかど博物館協議会と共催で行われました。参加者46名。
 第一部は、まちかど博物館協議会の高井輝雄さんが、これまで蒐集されてきた写真を映しながら、「写真で見る、門前町の今・昔」と題してお話して下さいました。

第一部 「写真で見る、門前町の今・昔」

  「写真で見る門前町の八幡の今・昔」は、近代以降、現代(昭和50年代始め)に至るまでの門前町の様子や発展の過程を、写真を中心に紹介しました。番号を付し、その説明の要約を以下にまとめました。

① 門前町・八幡の近代始めの出来事は、明治元年「木津川付替え工事」の着工(明治3年完成)である。そして、明治33年から施工された宇治川の改修、宇治川と桂川の隔流工事と続き、昭和5年この一連の大事業は完成した。(三川合流工事完成時の写真を紹介)
 この工事と共に、木津川・宇治川の二つの御幸橋がコンクリートで架橋、京都方面から入る門前町・八幡の表玄関となった。

② 今や日本一の桜の名所である「背割り堤」が、昭和40年代までは「山城の天の橋立」と言われる黒松並木であった写真を映した。

③ 初代「御幸橋」は大正2年、木製の土橋として架橋。昭和5年にコンクリート橋に。現在の橋は三代目で平成22年に架け替えられた。2代目の橋の横に、今まで見たことのない仮橋の写真を見る。

④ 八幡小学校の前身校・「知周校」は、今の八幡駅前に明治6年創立した。大正3年、敷地内に在った町役場と共に八幡菖蒲池(現在地)に移転した。いずれも興味ある写真を紹介。

⑤ 明治43年4月、京都五条~天満橋間に「京阪電車」が開通した。電車は一輌のレトロな車両で、珍しい電車に八幡駅には多くの人が押寄せてきている模様の写真を写した。女性1期生として昭和19年電車を運転した馬淵慶子さんの回顧談を紹介した。
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⑥ 「飛行神社」が創建は大正4年、世界で初めてゴム動力による飛行器を飛ばした二宮忠八によってである。創建時の小さな祠を見る。
今年、神社は創建99年を迎えている。友田宮司の挨拶で、再来年目標に二宮忠八の生涯をアニメ化されることが述べられた。

⑦ 「男山ケーブル」は、大正15年開業、開業時の欧風のオシャレな駅舎と共に写真を見ることができた。

⑧ 八幡を内水被害から守る要の施設は「八幡排水機場」である。昔から内水に悩まされてきた八幡は「水害の町と言えば八幡町」と、昭和40年代まで有難くない代名詞をいただいてきた。内水害は、町の発展を阻害する大きな課題であった。
先人の弛まぬ努力と行政の対応により排水能力大幅アップ、橋本樋門の改築完成。町中心部の開発も急速に進んだ。(昭和36年10月の琵琶湖と化した町中心部の写真を見る)

⑨ 八幡の竹をフィラメントに使い、白熱電球の実用化に成功した発明王エジソン。その「エジソン記念碑」は、昭和9年男山展望台(写真見る)に設けられていたが、昭和33年、現在地に移転、後に改装された。

⑩ 昭和9年、近畿を直撃した「室戸台風被害甚大」であった。八幡小学校では、校舎が倒壊し先生を含む34名が亡くなり、117名が重軽傷を負う史上最悪の大惨事となった。校舎倒壊現場を茫然と見る児童の姿を映した。
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⑪ 今となっては、とても懐かしい「やわた水泳場」の写真も映された。戦後22年再開され、途中から町も経営に参画、41年に閉場となった。今は想像できない白砂清流の木津川に多くの水泳客が賑わう写真を紹介。

⑫ 事業の巨大さと課題山積の「男山団地の開発」の経緯は、あまり知られていない。
 開発前の男山丘陵、着工及び完成の写真が映される中、開発のきっかけとなった状況、開発前の苦汁、開発後の難題克服の取組みについての説明をした。
⑬ そして、昭和52年11月、新生「八幡市」が誕生した。
 
以上の他に門前町八幡の「情景あちこち」と題して、主に東高野街道筋の珍しく、懐かしい昔の写真を紹介した。
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第二部 シンポジウム「門前町の八幡の今と昔」

 第2部のシンポジウムでは、以下の方々が、それぞれの思いや経験などを語ってくださいました。
 【基調の提言】
   堀尾行覚さん(“らくがき寺”住職、65歳)
 【パネリスト】
   吉岡久江さん(八幡土井在住、86歳)
   柏村昌男さん(西山足立在住、85歳)
 以下、概略を紹介します。
《堀尾行覚さん》
 仏教の世界では、「諸行無常」という言葉が世の中をとらえる指針になっています。すべてのものが移ろいゆくということです。そういう移ろいゆく世の中で、私自身がどう生きてきたかということが問われてきます。
 移ろいゆくものには、町もあります。町はどう変わってきたか。もっと言えば、私たちは何をどう変えてきたか。そして、これからの町づくりを考えた時に、何を変えるのか、何を変えてはならないのかが問われてくるのではないか。
 私たちは、この間、「便利さ」や「効率」「速さ」を選んできました。私が子どもの頃、テレビや電気冷蔵庫、電気掃除機、そして自動車が急激に普及してきました。それらは便利なもので、効率がよく、速いものでした。
 そして今、私自身は仏教の世界に身を置いていることもあり、敢えて不便なものを残しています。五右衛門風呂がそうであり、汲み取り式便所、かまどがそうです。私のお寺(単伝庵)では敢えてそういうものを残しています。円福寺もそうです。たくあんを干し、うめぼしを漬けています。
 記憶に新しい東北大震災。人々が避難所に求めたのは何だったのでしょうか。電気が回復しない中で機能したのは「五右衛門風呂」であり、汲み取り式便所であり「かまど」だったのです。勿論保存食は欠かせません。
 寺は、大震災がおきた際の緊急避難所になります。皆さんが求めているものをさっと提供しなければなりません。そういう時に便利なもの、効率だけを追ったもの、早さを追求したものは用をなさないのです。
 今、そのような非常時ばかりではなく、日常の暮らしの中に、あえて不便なものを残し、効率や速さだけを追求しない生き方、暮らし方が求められているのではないでしょうか。
そして町づくりにもそんな考え方があるのではないかと思うのです。
 私たちが暮らす八幡は、今日のシンポジウムの標題にあるように、紛れもなく門前町です。石清水八幡宮の門前町として発展してきたのです。それを抜きには考えられないのです。そのことを今一度噛みしめることでこれからの町づくりを共に考えて行きたいと思います。

《吉岡久江さん》
 私がここに嫁いできた時に、お姑や年長者が語ったことで覚えていることが二つあります。
 一つは、「葬礼(そうれん)橋」です。今、ツジトミスーパーの前の放生川に架っている橋のことです。科手の方の墓に向かう時に使う橋だから葬礼橋と呼ばれ、祝い事があるときにはこの橋を渡ってはいけないと言われました。ですから、そんな時には、私はその橋を渡らず、わざと安居橋まで迂回して八幡の駅に歩いたものです。
 もう一つは、私の住む前の通りが「市場通り」と呼ばれていたことです。市場もそれらしい町並でもないのに何故そのように呼ばれていたのか不思議に思ったものです。
※ 『八幡市誌』第2巻によれば、康平6年(1063)宿院河原(放生川右岸)で市が開設されたとあり、13世紀に市場町が形成されたと指摘する文献も見られる。また、江戸時代に描かれた八幡絵図には、放生川東岸の安居橋から高橋にかけて南北に「市場町」の地名を見ることができる。(編集部)

《柏村昌男さん》
 私は、昭和11年に八幡小学校に入学しましたが、そのころ、志水の商店街はたいそう賑わっていました。
円相園という大きな茶舗があり、店先に大きな茶壷があったことを今でも憶えています。建物は、昭和61年に買い取られアメリカのカリフォルニアに移築されたとのことです。
 酒屋があり豆腐屋、塩・醤油・麹屋、八百屋、呉服屋が軒を連ねていました。先ほど、八幡駅前に「八ツ橋」お菓子の店が映されていましたが、それは「ヨシヤ」で製造されていたのです。連日、近郷近在から来る多くの買い物客で賑わっていたのです。
 泥松稲荷は「ドロマッタン」と呼ばれていました。毎年2月11日になると、大阪から信者の方々(講)が大勢来られ、湯を沸かす神事が行われたりしました。そんな時、子ども達は大阪の講の方々が配る粟おこしを楽しみにしたものです。
 いま一区の公会堂がある所では、春になるとタケノコの市場になりました。筍は男山の藪でとれたのです。そして筍のシーズンが終わるとそこで、芝居小屋が立ち、チャンバラや大衆演劇が行われました。
 小学校時代の記憶にあるのは、昭和15年に石清水八幡宮で行われた正遷宮のことです。それは賑やかに行われたものです。また、当時は軍国主義の時代でもあり、毎日男山に登り戦勝祈願のようなことをさせられました。そして昭和16年の太平洋戦争を迎えるのです。
 戦時中、淀川工業学校に入った私は、松下電器で学徒動員の日々を送りました。志水の商店街は、統制がだんだんに厳しくなり店舗もすたれてきました。
 戦後、商店街は再び賑わいを見せるものの車社会の到来と共にシャッターを下ろす店舗が増え始め今日に至っています。

 休憩をはさんで、参加者を交えた質疑応答がなされました。論点のみ紹介します。

① 志水の商店街が賑わっていたのは、近郷近在からの来客者が多かったことによるが、松井山手や大住、上津屋、内里、上奈良・下奈良等の東在所だけでなく、楠葉や川向うの高槻辺りの方達も足を運んだからである。

② 志水町の賑わいは、石清水八幡宮へ参拝する際に見せるお札がここで発行されたことでもわかるように、八幡宮への参詣客が行き交ったからである。

③ 男山団地の造成は、次の理由による。一つは、男山の一角に珪砂を発掘する工場建設の動きがあり、それに対抗する手段として団地造成の計画が起こったものである。また、橋本狩尾地区に始まった乱開発を押さえるためにも、行政主導による計画的な街づくりが求められたことによる。

④ 街並み保存という課題をクリアするためには、一個人だけの努力では限界がある。府や市の援助はもちろん、市民あげての街並み保存への声の高まりが不可欠である。

⑤ 「門前町」という事では寺院の存在も欠かす事が出来ない。八幡の寺院がそれぞれの個性を尊重しつつ連携を模索する中で、観光資源としての寺の在り方が明らかになるのではないか。

⑥ その際、わきまえなければならないのは、寺は檀家・信徒があって成り立っているということである。

⑦ 町づくりで大事なことは役割分担である。門前町である八幡の将来を考えた場合、行政はもちろん、神社や寺院の自覚的な取り組み、市民意識の向上は無くてはならない要素である。今日のような取り組みもその一つになる。

⑧ そして、今私たちは八幡らしいまちづくりをどう模索するのかということである。楠葉や美濃山周辺で大型商業施設の開発が進んでいるが、そんな方向を目指すのか。景観保存を含め、必ずしも便利さ、効率、早さを求めない、歴史と文化の息づく街づくりこそ求められるのではないのではないか。
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by y-rekitan | 2014-05-28 11:00 | Comments(0)
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