◆会報第49号より-02 八幡宮の行事

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《講 演 会》
石清水八幡宮の年中行事と庶民信仰
― 2014年4月  八幡宮研修センターにて ―

石清水八幡宮 禰宜   西 中道


                                     
 4月16日(水)、午後1時より石清水八幡宮の研修センターにおいて、講演と交流の集いが行われました。通例と異なり、今回は講演に先立ち「資料展示と解説」が行われ、「石清水放生会神幸之図」をはじめ、境内古図、牛玉寶印(ごおうほういん)などの版木、御神楽(みかぐら)で奏でられる和琴(わごん)などを拝観しました。講演は午後1時半から標題のタイトルで行われました。その概要を以下に紹介します。

1、八幡の歴史とは何か

 
八幡から八幡を見る
 東京からでもなく、京都からでもなく、八幡から見る八幡の歴史というものがあるのではないか。
 八幡は、八幡の特性をいかした独自な歴史がはぐくまれてきた。その一つに、昔から八幡輩出の人物に優れた教養人がいる。江戸前期の社僧・松花堂昭乗は言うまでもないが、江戸中期には『建武年中行事略解』を著した谷村光義や、『石清水尋源抄』の著者・谷村光信、また「八幡八景」を選定し宮中にも関わりの深かった柏村直條など、神官たちの活躍が目立つ。さらに幕末になると、男山に関する百科全書的労作・『男山考古録』を著した長濱尚次は、まさに博覧強記の人物というべきだが、本来の職掌は石清水八幡宮の宮大工であった。いずれにせよ、神官、僧侶、武士、農民、町人の区別なく八幡には傑出した文化人を次々に生み出しうる豊かな土壌があったということは強調してよい。そして、そうした人々が互いに切磋琢磨しつつ、高い知的水準を維持しつづけてきた、そんな歴史がある。
 八幡における独自の歴史は、石清水八幡宮の境内にも表れている。例えば、蒙古襲来の際にお百度を踏む起点になった「一つ石」、石灯籠に刻まれている様々な事柄、楠木正成が植えたといわれる大楠などもあって、それらは枚挙にいとまがない。
 そんな八幡を東京から、あるいは京都から眺めるのではなく、八幡から見る視点が大事である。

 
視点の違い
 それでは、例えば男山に鎮座する八幡宮を八幡のどこから見るのか。男山は、東側の麓から見れば威圧感を感じるが、川口、下奈良あたりから見ると優しげな印象を受ける。また、西側の橋本・西山方面から見ると全く別の印象を受ける。同時に、過去と現在ではそれぞれ違う様相が現れて来る。様々な角度から男山を見ることが重要ではないか。

 
古代から中世へ
 八幡宮の創建を語る場合、貞観元年(859)の宇佐での託宣を起点とした国家鎮護の八幡神が強調される。だが、男山に八幡神が勧請される以前には行基がここに石清水寺を建てたということもあり、その延長で八幡神が鎮座されたということも見ておく必要がある。また、八幡神は朝廷とか武家政権との関わりで語られることが多かったが、一方で庶民との関わりも無視できない。
 例えば、平安時代後期における荘園を考えた時、石清水はあくまで名目上の領主に過ぎなかったという見方もある。当時、地方を支配した土豪層がいわば節税対策として土地を石清水に寄進し、自らは石清水神領の預所や下司という立場に納まり、僅かばかりの年貢を納めて国家からの収奪を免れるというシステムが確立された。そうした流れの中で、地方に八幡神が分霊され全国に八幡宮が広がってゆく。むろん、彼ら地方の土豪層によって八幡信仰が幅広く受容されたという信仰上の側面を抜きにして考えることはできないが。
 貞観年間は平成23年3月の東日本大震災に匹敵する貞観大地震が起こった時代でもある。富士山の大噴火もあり、国家財政を揺るがす天変地異が相次いだ。そうした不測の事態も与って律令体制に修復不可能な綻びが生じ、やがて地方の治安が乱れていく中から、将門・純友の乱が起こる。
 そんな時期、天慶元年(938)に、石清水で放生会を行う同じ日に、山科の藤尾寺で尼僧が、歌舞音曲を採用した派手な祭りを行い、本家本元の石清水の放生会に人が集まらないということになり、日を変えてほしいと要請しても無視するので、石清水の神人が藤尾寺を襲い尼僧を縛り上げるという事件が発生している。また天慶8年(945)には摂津に起こった志多羅神(しだらしん)の神輿をかついだ群衆が乱舞の中、入京する事態となり、あわてた朝廷が石清水八幡宮の威光によって入京を阻み、沈静化させる事件も発生している。
 そんな動きの中で、石清水における放生会において、応和3年(963)頃、神輿(しんよ)渡御(とぎょ)といって、人々によって神輿が山下に下りて頂く神事が、勅許を得て始まったとされる。まさに民衆のエネルギーが朝廷を動かしたというべきであろう。それ以降、神幸が確実に実施され、山下では競馬(くらべうま)や相撲などが行われ人々が賑わった。

2、年中行事の歴史的諸相

 
中世の年中行事=二十四節神事
 今でも石清水において年間大小90回ほどの祭事が行われているが、鎌倉時代に書かれた「恒例仏神事惣次第」によれば24度の神事が行われている。重要なのは「勅祭十個度」と呼ばれるもので、正月一日の歳旦祭(さいたんさい)、二月上卯日の御神楽(みかぐら)、三月のひな祭り、四月八日の灌仏会(かんぶつえ)(花祭)五月五日の端午の節句、六月晦日の大祓、七月七日の七夕、八月一五日の放生大会、九月九日の重陽の節句、そして十一月上卯日の御神楽の十箇度は文字通り勅祭として執り行われた。その際、「土祭」と称して勅願によって丑の刻に地神を祭ることが行われている。石清水の場合、本殿の北東の位置、つまり科手の方に地壇が設けられそこで地の神を祭る神事が行われた。八幡宮の祠官家の壇家はそこの出身といわれる。やがて地壇の位置が変わった。八幡旦所(だんじょ)もその一つといわれている。
 他に「御国忌四箇度」と呼ばれ、応神天皇などの忌日に行う祭礼があった。また「余節十箇度」といって正月一五日の「踏歌」という土地を踏み固める舞踏の神事、四月三日の「日使(ひのつかい)」祭などがあった。「日使」祭は、大山崎の離宮八幡から「日使」がやってきて賑々しく祭事が執り行われたようである。七月一五日は盂蘭盆会(うらぼんえ)=安居(あんご)の仏神事が行われ、本殿の前に六本の松の大木を立てて祭礼が行われた。
安居とは、四月一五日から九〇日間、僧侶が堂宇に引き籠り修行を行うのであるが、それが開ける日が七月一五日なのである。石清水では、その日、行教が宇佐において、八幡神を男山に勧請する託宣を受けたので特別にこの日を記念する仏神事として重要視されたようである。
 他に、正月一四日の護国寺修正会結願の「鬼走」神事、同一九日の宿院での「心経会」(疫神齋)、三月中午日の臨時祭などが特筆される。

 
戦国期の断絶と近世の再編
 だが、それらの仏神事は、応仁の乱(1467年~)を境にして衰退ないしは中絶した。(放生会の場合、応仁の乱を期に中絶し、復活するのは霊元天皇の1670年代を待たねばならなかった。)
やがて、信長・秀吉・家康ら天下人によってそれらが庇護されるようになる。例えば、安居神事は、家康の内室である於亀の方の口添えもあって、徳川幕府の肝いりによって復活する。また、幕府による社殿造替も進んだ。八幡神は源氏の氏神として崇敬されてきた歴史があり、徳川家康は源頼朝を範としたので、頼朝によって始められたとする安居の神事には特別力を注いだようである。但し、安居の祭事を執行する安居頭人の経済的負担は相当に大きく、そのため頼母子講のようなものが存在し、彼らの経済的負担を和らげる措置も講じられたと伝えられる。

 
明治維新による断絶と変容
 明治維新によって石清水は大きなダメージを受けた。一つは、慶応4年=明治元年(1868)から始まった「神仏分離」の政策である。太政官布告などにより、石清水八幡宮の本殿にあった阿弥陀如来像や僧形八幡神像が山下に移され、山上にあった堂宇など仏教施設も移動ないし破却された。また、明治2年(1869)における東京遷都の影響も大きい。即ち、石清水八幡宮が担っていた王城鎮護の役割が大きく揺らいだのである。影響の大きなものに、明治5年から始まった太陽暦の採用がある。明治5年(1872)旧暦12月3日が明治6年新暦1月1日になったのである。
 石清水では、4つの対応が講ぜられた。①旧暦のままの神事。例えば、御神楽は旧暦2月上卯日に行われていたが、そのまま旧暦2月上卯日に執行した。②新暦に変更の神事。例えば、水無月祓は旧暦6月晦日に行われていたが、新暦6月晦日に変更した。③一ヶ月遅らせた神事。例えば、石清水祭の場合、旧暦8月15日に放生会として行ってきたが新暦9月15日に行うことにした。④過去の特定の日を新暦に換算し固定化した神事。例えば、紀元祭は、西暦紀元前660年旧暦1月1日を新暦2月11日に。

3、諸行事にみる庶民信仰

 
庶民群集の行事
 一般民衆が、群集する行事がいくつかあった。それらを独自な解釈で考えてみたい。
ア、疫神会・・・・・・『徒然草』52段の話は、仁和寺の法師が石清水にやってきたが山下にある神社を八幡宮と見なして山上に上らなかったというものである。但し、当時の記録をみると、厄年の人は山上に上らず、山下にて厄祓いをしたというのがある。実際、1月19日を中心にした数日は、宿院(頓宮)をはじめ高良社、極楽寺界隈が疫神信仰の人々で賑わっていたとのことである。従って、仁和寺の法師も、山下の頓宮(宿院)にて疫落としをして、それで用が済んだから帰ったという解釈が成り立つのではないか。
イ、放生会・・・・・放生会は、一面では当時の庶民の夢が実現した祭礼ではないか。要するに、仲秋の名月の夜、山から天人が妙なる音楽とともに降りて来て、麓では朝廷の公卿=雲の上の人がそれを迎えるというシチュエーションで行われる。まさに、仲秋の名月と八幡の竹、王朝の雅な貴人が登場するという意味で「竹取物語」を具現化した祭事ということができる。また、御鳳輦に供奉するのは、石清水の荘園の神人であるということから、そういった神人の夢を実現した祭礼ということも可能である。同時に、放生会は僧侶が主導する。大念仏寺の如来・菩薩の御練(おねり)の如き世界の具現である。そういう意味では、皇室・朝廷・社寺と民が合作したもの、それが放生会であるといえるのである。
ウ、御神楽・・・・・御神楽は今でこそ秘祭として非公開で行われているが、当初は誰でも参加できるものであった。いわば「素人演芸会」として始まったものではないか。夜の祭礼であって、幣殿にて庭火を焚く中で行われる。輪榊が用意されるが、それは海中の精霊を引きあげる道具であるという解釈があり、故に顔中貝殻に覆われた人物も登場するなど神遊び的な要素の濃厚なものである。
エ、安居神事・・・・・安居はもともと7月15日の仏事(安居会(あんごえ))であった。それが近世において12月15日に行われる神事(安居祭)となった。また、御壇・頭人・宝樹が登場することから土祭の後身という性格が強い。そして、それが武家政権の肝煎りで行われる意味を考えれば、土地を安堵することにつながり、土祭を主導することで武家(政権)の存在をアッピールしているとも言える。

 
八幡大菩薩の諸相
 八幡大菩薩は多義的な存在で語られることがある。即ち、薬師三尊(脇侍に日光・月光菩薩)、釈迦三尊(脇侍に普賢・文殊菩薩)、阿弥陀三尊(脇侍に観音・勢至菩薩)三様の姿である。f0300125_22165728.jpg一方で、釈迦の前世や生まれ変わりという文脈で語られることがある。「輪廻からの解脱」という仏教の根本理念とは相反する思想のようにも思われるが、応神天皇の前世は釈迦であり、廣幡八幡麿なる存在=人聞(仁聞)菩薩の前世が応神天皇であるという「入れ子」構造のようになった捉え方もある。八幡宮縁起や社殿彫刻の意匠等にもたびたび登場する「鷹と鳩」、「月と兎」の組み合わせなども、釈迦の本生譚と何処かで繋がっているのではないか。  (文責=土井三郎)

          
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by y-rekitan | 2014-04-28 11:00 | Comments(0)
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