◆会報第46号より-02 吉井勇

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《1月例会 講演と交流の集い》
歌人吉井勇の歌行脚
― 2014年1月  松花堂美術館講習室にて ―

後援 やわた市民文化事業団
 洛南艸舎吉井勇京都記念資料展示室 主宰 古川 章


 1月12日(日)、松花堂美術館講習室を 会場に2014年最初の例会が開かれました。 いつものように概要をお知らせしますが、今回は、講師である古川氏ご提供の 資料をもとに編集担当者の責任でまとめました。なお、古川さんに、「言い 残した」ことを書いて頂けませんかとお願いしたところ、快く文章をお寄せいただきました。それを最後に掲載させていただきます。参加者は56名でした。

吉井勇の生涯

 明治19年(1886)に東京、 芝高輪の伯爵家に生れる。 青年期に交友の深まる石川啄木や谷崎潤一郎は同期。東京府立第一中学校時代に初めて短歌をつくり、それが最高位を得た。

    出雲なる簸(ひ)の河上はそのむかし
            八頭(やまた)の大蛇(おろち)住みけるところ
がそれである。

 やがて20才のときに、与謝野鉄幹の新詩社に入り、雑誌「明星」に短歌を発表していく。その後、勇は北原白秋、木下杢太郎らと「パ ンの会」を設立して新たな活動を開始した。f0300125_752286.jpg
 明治42年(1909)に歌壇史に残る第一 歌集『酒ほがひ』を上梓。これが、以後の勇の評価を不動のものにした。
 大正10年、36歳のときに、22歳の柳原徳子と結婚。翌年には長男滋が誕生した。そして、関東大震災が起こる 。このころから伯爵家の名家も家運が傾く。勇に光から影の兆す年代である。加えて徳子夫人との不和もあり、傷心の勇は四国を始め越後、信州、京都など多くは旅にあって作歌を続ける。短冊や色紙を求められるままに書き、糊口をしのいたのではなかろうか。やがて、昭和10年(1935)、徳子夫人と離婚、爵位も返上することになる。


 若き日の歌に、

       紅灯の巷にゆきてかへらざる
              人をまことのわれと思ふや (歌集『昨日まで』より)

という自省の歌がある。世 間が勇を酒と女に入り浸りの生活だと揶揄することへの反発 と憤りが込められていると思う。

 やがて勇にも、再び「光」の時代が訪れる。昭和12年(1937)、52 歳で国松孝子という才女を迎え入れ たのである。東京の浅草から突如、土佐の猪野々に吉井勇を訪ねたという 。俗にいう押しかけ女房であった。 孝子は、終生勇に仕え、周辺の人たちには賢夫人として誉れ高い。
 新婚の土佐から京都へ、さらに戦争中は富山県八尾町に疎開しそこで終戦を迎えた。再び京都に帰って来たかったが、食糧難などの都合で市内には入れず、やむなく八幡町の東南の地にある宝青庵を仮住まいとした。始めは逡巡した仮住まいも、思いのほか気に入り 、落ち着いて、堰を切ったように文章活動は進み、著作は次々刊行された 。戦後すぐの出版界では、歌人の中で吉井勇だけが別格だった。
 勇の八幡生活は約三年間続き、その時代の歌には、歌集『残夢』(昭和23年12月刊)がある。夫婦の一日の生活ぶりを克明に読み込んだ515首である。
 京都へ帰った勇は、宮中歌会始の選者を13年間務め昭和23年には日本芸術院会員となった。
 私(古川章)が初めて吉 井勇という歌人に接したのは、昭和30年11 月8日、祇園の「かにかくに祇園はこひし寝るときも枕の下を水のながるる 」の歌碑の除幕式当日である。 詰め襟姿の高校生は私一人。その翌年であったか、私は西村大成さんに連れられて銀閣寺近くの勇の自宅を訪問した。帰りに先生は、君にふさわしくない歌だが、と言って、「ゆるやかにだらしの帯のうごく時はれがましやと君のいふとき」の短冊をくださった。
 昭和35年11月19日肺がんにて永眠。75 歳であった。同30日、京都建仁寺で告別式 。私は西村大成さんと二人で小雨の中、 葬祭の列に連なった。

八幡時代の勇

 八幡時代の勇は、後年、日経新聞連載「私の履歴書」(昭和32年4月)に次のように書いている。「洛南八幡の町はずれ、字月夜田というところは、視界がきわめて広く、ずっと山城の平野が遠く宇治の向こうの鷲峰山あたりまで見渡せるところであった。月夜だという地名が残っているとおり、月光の美しい晩などは、まるでそこら一面大海になった感じがした」という。こんな牧歌的な八幡市の郊外は昭和30年代の初めまで続いていた。
  およそ三年間の八幡暮らしであったが、勇はセキを切ったように文筆活動を開始した。それが歌集『短歌風土記』大和の巻、山城の巻となり、『残夢』、『形影抄』、『形影抄以後』に収まっている 驚くのは、主としてこの四冊の歌集に収まっている、泥龍和尚(でいりゅうおしょう)を詠んだ歌の数である。 泥龍は「どじょう」のことらしい。泥龍和尚とその周辺を詠んだのは76首を越える。昭和 36 年に私が就職した田辺町役場の町長室に「一円融合」と書いた額が掲げられていた。泥龍和尚の揮毫であると後で知ったのだが、雅号泥龍は井沢寛州と云う。明治28 年の神戸生れ。長じて西宮の海清生寺に入り修行を積むとともに書画や茶・華道、陶芸にもすぐれ、 水泳、剣道も得意であったから文武両道の僧であったのだろう。後年、八幡の円福寺に入っ て昭和29年に60歳で遷化された。
 私は、歌人吉井勇とこれほどまで肝胆相照らす仲というのは、三つの共通点があったからだと思う。まず酒好きであること、そして泥龍の豪快さは勇の九州男児の血が好んだこと、多種多様な芸術を身につけていたこと、さらには、勇晩年の禅への傾斜である。

泥龍を詠んだ歌を紹介する。

      酒好きの泥龍和尚明日あたり
              来るベき寒さをおもひこもれる

       我が友の泥龍和尚世を去りぬ
              その枕辺の遺偈もおもはむ
  
      八幡より友はきたりぬかの寺の
              泥龍死後のことを語りに

巨匠勢ぞろいの写真のこと

 松花堂庭園を入るとすぐに吉井勇の歌碑が目に入る。そして、脇に建つ説明板に、四巨匠とその夫人たちの姿がセピア色に映っている。
 昭和61 年(1986)10 月4日の読売新聞夕刊にその写真が掲載された。
  「松花堂に顔をそろえた(右から)志賀直哉、(一人おいて)谷崎潤一郎、谷崎夫人、梅原龍三郎、西村大成、吉井勇、吉井夫人」 当時の新聞の記事をもとに、記念撮影に収まるまでの経緯を簡単に紹介したい。この写真は、八幡月夜田の西村静子さん方に秘蔵されていた。
 谷崎、志賀、梅原、吉井の4人が、昭和23年3月頃に、雑誌の座談会に出席するために西村邸(現在の松花堂)を訪れたときに撮影されたものである。
  西村家は、先代の芳次郎さんが京都で生糸商を営み、明治維新の神仏分離で石清水八幡宮境内にあった松花堂昭乗の茶室、書院などが取り払われた際、これを譲り受けて現在地に移築、別邸とした。跡を継いだのが静子さんの亡夫、大成さん(昭和46 年5月死去)で、貿易商などをしながら文学、美術などに理解を示し、西村家には多くの文人、画家が出入りして松花堂は、“文化サロン”のようになっていた。f0300125_7124734.jpg

 当時京都に住んでいた谷崎、静岡住まいの梅原両氏ともしばしば出入りしており、東京から京都に来ていた志賀氏と座談会を催すことになり、同席した記念に写真に収まったものである。雑誌の名は『座右宝』。洛南艸舎文庫が所蔵している。座談会は、座右宝刊行会の編集・ 発行人が志賀直哉の京都入りに合わせて企画されたものである。                    以上、文責=土井三郎

 
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“平明さは愛誦を誘う”
―言い残したこと ―

 「短歌」という表現形式で自分の心中を吐露することは手段として短くて都合がよい。私も一歌人としてそんな時もある。深読みして見破る人もあれば、簡単に受け入れられることもある。私は、歌人吉井勇が早々と初期歌集群の中に「紅灯の巷に行きてかへらざる人をまことのわれと思ふや」の一首を入れたことで、なるほど吉井勇は我々と違って偉い人だなあと思ったり、 本当にそうだろうかと自分自身をかえりみて疑ったりしていた、私の若い時期もある。しかし、その思いも全歌集を一通り読了し、さらに、勇のマルチ文人ともいうべき十指を越える文芸ジャンルの林をさまようと紅灯の歌がやっぱり本物だったと納得する。日々酒と女の中にあけくれた青春の日々で、放蕩無頼であっても心底、酒にも女にも溺れなかったし、終生、文芸の鬼であったと思える。
 処女歌集「酒ほがひ」は、当時、きっと石原の「太陽の季節」のように、寺山修司の歌集「空には本」のように迎え入れられたのではなかったか。詩人堀口大学が終生、勇に興 奮したように、晶子、春夫、潤一郎、弴、順らも勇に一目置いた。
 その平明さ故に愛誦を誘う。歌は流麗であり、格調があり、格調は矜持につながる。それはまた天性の 韻(ひびき)であろう。少年の日に
  「出雲なる簸の河上はそのむかし八頭の大蛇住みけるところ」と詠じたDNAは、また祖父につながる隔世のもつ誉である。少年の日の処女作が約三万首をやがて回帰して、今に還っている。その大らかな調べは空に舞い、 山を仰ぎ、海に波うつ。海山の歌の多さはそれを物語る。
 里にあっては酒に酔い、女人との戯れの中にさえ相聞の世界を描く。友、竹久夢二を得て、その情感は大正の浪漫と抒情をたたえ、当時の子女の心をとらえたのであった。勇ほど歌人の中にあって人生の浮沈を味わい、光と翳に身をまかせた者はいない。
 そして、老いてよき伴侶を得て、惜しまれてその行路の幕を閉じた。思えば波乱に富んだ74年の男の一生だった。 ( 古川章)


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by y-rekitan | 2014-01-28 11:00 | Comments(0)
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