◆会報第44号より-02 八幡の土器

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《講 演 会》
八幡の歴史と土器
― 日本の歴史に見る土器の役割と変遷 ―

2013年11月  ふるさと学習館にて
八幡市教育員会 文化財保護課 小森俊寛 


 11月例会は、ふるさと学習館を会場に、八幡市教育員会文化財保護課の小森俊寛さんに、標題のテーマで語っていただきました。講演に先立ち、講師紹介を兼ねて安立俊夫副代表が開会の挨拶。その中で、小森俊寛氏のプロフィールが語られました。
 小森氏は、昭和24年に大阪府門真市に生まれ、龍谷大学法学部を卒業後、京都市高速鉄道(地下鉄)烏丸線内遺跡調査に従事されました。その後、(財)京都市埋蔵文化財研究所にて、長年京都市の埋蔵文化財の発掘調査と研究に携わってこられました。そして、平成14年頃から八幡市における埋蔵物の発掘調査に関与し、同22年7月より文化財保護課に移籍されました。また、昭和59年頃から「古代の土器研究会」の副会長として数々のシンポジウムを開催し、全国の土器編年の確立に大きく寄与されました。
 以下、当日配布されたレジュメに沿って講演の概要を紹介します。参加者32名。

1、 土器および「かわらけ」

 「土器(どき)」について、『広辞苑』では、「釉薬(うわぐすり)を用いない素焼きの器物。可塑性に富む粘土を材料とするため、器形・文様などに時代・地域の特色が反映され、考古学の重要資料」 とし、考古学では、縄文土器・弥生土器・土師器(はじき)・黒色土器・瓦器(がき)・白色土器・須恵器に類別している。
 その中で、かわらけ(土器)は、考古学において主に土師器(はじき)の食器類として認識されてきた。

2、 律令的土器様式―天皇家の祭祀のルーツ 

都や神社境内から土師器(はじき)の食器類が各時代を通して大量に出土している。このことは、律令国家が成立した時点で、国家や神社の祭りごとの道具として土師器食器類(かわらけ)が採用されたことを意味している。それは、律令的土器様式の確立といえるものである。
 天皇の飲食物=供御(くご)に使用される土器(かわらけ)は「清き」ものでなければならないものと考えられ、食器は一度きりのものとされた。いわば使い捨てである。そのかわらけについて清少納言は次のように書いた。
「清しと見ゆるもの 土器(かわらけ) 新しき鋺(かなまり) 畳に刺す薦(こも) 水にものを入るる透影(すきかげ)」(『枕草子』141段)
 また、神社でも、かわらけに神饌(しんせん)の各種供物(くもつ)を盛ることが行われるようになった。伊勢神宮では今でもそのことが続いている。斎宮(さいぐう)もしかりである。
 日本の天皇家の食事(御饌(みけ))においても、1300年間の間、基本的にかわらけが使用されてきた。神社での祭祀や貴族層での年中行事には直会(なおらい)(酒宴)、饗宴がつきものであるが、それらの食器にもかわらけが神饌のうつわと同様に一回きりのものとして使われた。一度きりのものであるということは使われた後大量に廃棄されるということである。
 西洋或いは中国の皇帝の食事に供される食器は金・銀製の豪華なものである。それに比べて日本の天皇の食事に使われる食器=土器(かわらけ)は実に質素である。土から造り出し、土に返す。それは、日本の文化に根ざした感性によるものなのかもしれない。

3、 都の土器(かわらけ)の生産地の変遷

古代、大和政権に土師器を貢納した品部(しなべ)として、北九州から関東地方にかけて贄土師(にえはじ)、玉手土師(たまてはじ)と呼ばれる土師部(はじべ)集団が存在したとされる。都で使う食器をつくる集団として編成されたとの説である。
 『日本書紀』では巻十四、雄略天皇十七年のくだりに、「詔土師連等使進應盛夕御膳神器者。於是。土師連祖吾筍仍進津國進攝津國來狭村。俯見村。伊勢國藤形村及丹波。但馬。因幡私民部。名曰贄土師部」の記述が見られる。『延喜式』でも巻二十四主計上に「大和國。[行程一日]調。(中略)鍋二百二口。玉手土師坏五十口。間坏百口。贄土師竃廿八口。竃子卅四口。甑卅四口。瓫三百五十八口。片坏七十二口。自餘輸錢。 河内國[行程一日]調。(中略)贄土師鋺形二百七十口。」の記述がある。
f0300125_1584989.jpg 藤原京の頃には、伊勢神宮の祭祀の器に土器(かわらけ)が定着した模様で、それは斎宮の出土例からも確認できる。おそらく、このころに、河内・大和のかわらけの生産者たちが存在し、奈良時代後半になると大和に統合されていくようである。
 次に、平安時代前期になると、河内国交野郡楠葉に工人が移動している。このことは、『類聚国史』大同3年(808)正月に、男山西麓で供御の土器をつくるので、この地に埋葬を禁じる制があることからも確認できる。
 平安時代中期になると京域における主流派土器生産集団が深草に移動したことがわかる。西飯食(にしいいじき)町遺跡がそれで、これは伏見区深草池ノ内町に京都市青少年科学センター建設に伴う発掘調査で土師器窯が出土していることで確認された。
 楠葉の土師器生産集団のことは、後白河法皇編著の今様集『梁塵秘抄』に見ることができる。
「楠葉の御牧の土器(どき)造り、土器は造れど娘の貌(かお)ぞよき。あな美しやな。・・・・」
 「楠葉の御牧」は楠葉東遺跡(枚方市楠葉の青葉幼稚園のあたり)から発見された。そこで、土師器(はじき)や瓦器(がき)が生産されたのである。
 京都市の北部にある岩倉盆地の木野に日本史上最期の土器生産者が移り住んだ。移り住んだのは、江戸時代初めごろであろう。この生産者集団は、大正天皇の大嘗祭で使用された土器(かわらけ)を製作したことで知られる。ちなみに、伊勢神宮の土器は、現在も伊勢神宮境内の神宮土器調整所で女性工人が製作している。

4、 都の土器の形の変遷

f0300125_14353019.jpg 都で主に使われている土師器食器類は、ひとつの系統の生産集団が製作を継続してきたことに特徴がある。その結果、形の変遷を系統的に追跡することができる。これまで、膨大な都の土器を調査し分類してきた結果、20~30年単位で形が変化しているように見える。
例えば、私が「京都Ⅲ期」と「京都Ⅳ期」と呼んでいる土器類で見てみよう。
 図面で呈示した資料は、「京都Ⅲ期-中」と「京都Ⅳ期-中」としているもので、Ⅲ期には、古・中・新、Ⅳ期にも古・中・新の3段階ずつがあり、それぞれの段階が20~30年程の年代幅を持ち、古・中・新合わせてⅢ期・Ⅳ期ともに80年前後の時間幅がある。Ⅲ期からⅣ期への形の変化のポイントは器壁(きへき)全体の厚手化が進み、口縁端部の小さな突起を持つもの(A形式)が主体をなしていたⅢ期から小突起をもたず端部を外へそらせたもの(N形式)が主体をなすようになる事である。加えて、小さいものだけになるA形式には、厚手化と共に小突起も肥厚化して少し形のディフォルメ的変化の進むもの(A形式)と内側へ折り曲げたように発達して定型化するもの(コースター形=AC形式)など壁部変化(新しい器種分化)とも読み取れる。図のⅢ期中とⅣ期中の間に位置するⅢ期新とⅣ期古では、器種の組み合わせ、口縁端部の形、器壁の厚さなど型式変化するすべてのファクターにおいて進行する変化は前後に対して中間的様相をもった資料によって構成されている。それは、Ⅲ期~Ⅳ期のものに限らず、どの期のものでも同様の変遷を辿るように思われる。このような時間軸上の型式変化もそれぞれの間に位置する中間的様相をもつもので、変化のつながりを理解することができると考える。
f0300125_144641100.jpg このような型式変化を実物資料から読みとるには少数の代表例だけを対象とする観察では難しく、多数の個体群での個性レベルの情報を集積し、研究の基礎資料を蓄積してその分析をすることが必要である。私は、『京(みやこ)から出土する土器の編年的研究―日本律令的土器様式の成立と展開、7世紀~19世紀―』(京都編集工房、2005年刊)の型式年表の中で、各期のその変化を「古→中→新」で表すことにした。

 ちなみに、京都Ⅲ期は、平安前期(920~1000年頃)で、京都Ⅳ期は平安中期(1000~1080年頃)である。各期ともに20~30年単位で形が変化し、三つ集まって(古→中→新)一つの期を構成する。上記の書物にまとめた7世紀から10世紀の土器の編年は、15期×3段階の変化を追ったものである。その際、各期に起こった政治的事象は、土器の編年には直接的な関与がないことを付記しておきたい。

5、 八幡のなかの土師器

石清水八幡宮境内で膨大な土師器食器=かわらけ(平安時代~明治初年)が出土した。土師器が90%以上を占める出土地点が多い。それらの土師器はほとんどが楠葉産の土師器である。
 ところが、明治以降、それが白い素焼きに変わる。明治維新後、神社の神饌は神祇院教部省の指示で全国画一的な生饌の丸物神饌に変更されたのである。このときに神饌の器が土器(かららけ)から白色素焼き陶器に統一されたと見られる。但し、明治17年(1884)、明治天皇の旧儀復興(熟饌)の命で、石清水・賀茂・春日は旧儀に復された。賀茂・春日の神饌の食器もここでかわらけに戻ったと見られる。f0300125_2295689.jpg
 八幡宮門前町跡では八幡山路(平成19年度木津川河床遺跡19次)、八幡山柴(平成25年度木津川河床遺跡25次)など、それ以外では上津屋遺跡(平成13・14年度調査)などで土師器皿が大量に出土した。詳細については各調査報告書で確認してほしい。
一口感想

◎ 土器に対する興味は増しています。これからも、ふるさと学習館で勉強させて頂きたいです。(S)

◎ 一世代、古・中・新でワンセット。その中での「情報の共有化」という言葉に感銘を受けました。そこに、歴史のヒントがあるのではないか。(H)

◎ 今回、改めて小森俊寛さんの講演の概要を読み直して、小森さんの土器研究と編年史作成の意味が少しわかるようになってきました。そして、「かわらけ」の歴史を辿り、その意味を探ることが日本文化論に通底するように思われました。その点で、『枕草子』や『梁塵秘抄』の文学作品からの引用が説得力を与えてくれ
たようです。「かわらけ」に代表されるように、土から造りだし、土に戻すという日本文化特有の思想あるいは感性といったものに強い印象を持ったということです。(D)


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by y-rekitan | 2013-11-28 11:00 | Comments(0)
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