◆会報第43号より-02 八幡浄土信仰

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《講 演 会》
八幡における浄土信仰
― 宝寿院阿弥陀如来立像をめぐって ―

2013年10月 松花堂美術館講習室にて
浄土宗安心院住職  本庄 良文  


 10月10日、松花堂美術館にて頭書のタイトルで講演と交流の集いが開催されました。八幡の寺院のご住職による初めての講演会です。講演の概要をレジュメにそって簡単に紹介します。参加者64名。

(1) 浄土信仰の基礎としての源信『往生要集』

  浄土教の起源はインドに求められるが、浄土三部経のひとつである『無量寿経』にその基礎となる教えが説かれている。――久遠の昔、もと国王であった法蔵菩薩という僧が、世自在王如来の指導により、自分の打ち立てるべき理想の世界(浄土)の見取り図を四十八箇条(四十八願)にまとめ上げ、「もしこれらが叶わなければ仏にはならない」と誓った(これを過去の誓願という意味で本願という。)法蔵菩薩は長い年月の間、生まれ変わり死に変わりしつつ修行を積み、阿弥陀仏となって西方極楽浄土に住まっている。この世で善行を積む者はそこに生まれ変わって、楽々と修行を積み、仏となってこの世に還って人々を救うことができる――との教えである。
 日本において、最初に浄土教を体系的にまとめあげ、信仰の上だけでなく、後代の文学や美術の分野にも決定的な影響を与えたのは源信(942~1017)である。『往生要集』を著し、この世の厭い離れるべきありさまと対比して極楽の極楽たるゆえんを「十楽」にまとめ、往生極楽のためには「念仏」が肝要であると説いた。ただし、後代の浄土宗の念仏の解釈とは異なって、念仏には仏をありありと見る観仏といった困難な修行が含まれるし、念仏以外にも様々な善行が勧められている。

(2) 浄土宗宗祖法然と専修念仏

  法然(1133-1212)が唐の善導(613~681)の解釈に基づいて浄土宗を立てるまで、宗派としての浄土宗は存在しなかった。法然は、「善人も極悪人も分け隔てなく、念仏すれば極楽往生できる」と主張した。法然は念仏の意味を、口に南無阿弥陀仏と称える称名念仏に限定し、念仏こそが阿弥陀仏をはじめとするすべての仏たちによって選択された、比類なき価値をもつ行法であると説き、念仏以外の行法を差し置いて、念仏に専念することを勧めた。この「専修念仏」の考え方は、称名念仏以外の修行の価値を否定し、仏教を滅ぼすものであるとして、当時の仏教界からの猛烈な反発を招き、国家権力による弾圧を受けた(建永の法難、嘉禄の法難など)。

(3) 石清水八幡宮と浄土信仰

 石清水八幡宮を中心とする八幡地域と、浄土教との深い関係を示す事例を、知る限り幾つか挙げてみたい。(本格的に調べたわけではないのでその点お断りしておきたい。)それは八幡地域に浄土宗寺院が突出して多いことの根拠にもなるだろう。
第一に、八幡神の本地(本源たる仏・菩薩)が阿弥陀如来であるということである。つまり八幡神への帰依はそのまま阿弥陀仏への帰依なのである。石清水八幡宮の本殿近くの阿弥陀堂(八角堂)に鎮座していた阿弥陀如来座像が、明治になって、西車塚頂上に遷座し、つい最近、正法寺の法雲殿に納められたのは周知の通りである。
 第二に、「男山四十八坊」と称されるように、石清水本殿の周辺には四十八の僧坊があるとされた。実際の数は定かではないが、ほかならぬ四十八という数が選ばれたのは、阿弥陀如来の前身である法蔵菩薩の「四十八願」に由来すると考えられる。
  第三に、石清水八幡宮の社務家である紀氏と法然の直弟子とに血縁関係があった事実を挙げたい。法然の有力な直弟子の一人に源智がいた。信楽の玉桂寺の阿弥陀如来像(現在は浄土宗の所有)を造立したことでも知られるが、造立願文の分析により彼の母方が紀氏に連なることが判明している。
  第四に、時宗との関わりを指摘したい。時宗は、一遍(1239~1289)によって開創された浄土教の一門である。『一遍聖人絵伝』の中に、一遍が石清水に参詣した絵図がある。中世の石清水の社殿とその周辺の様子を伝えるものとして資料価値が高いものであるが、一遍の石清水への帰依を語るものでもある。一遍の高弟に聖戒がいた。一遍の諸国行脚に随伴したといわれるが、正応4年(1291)、聖戒は八幡に善導寺を創建した。現在、京都の山科にある歓喜光寺の前身といえる。
 第五として、これは時代が下るが、今の頓宮近くにあった極楽寺(この寺号こそが浄土教的である)に安置されていた阿弥陀如来座像についてである。京都の新京極にある誓願寺(浄土宗西山深草派)の本尊である阿弥陀如来座像は度重なる火災で焼失し、現在の本尊は、神仏分離に際し、八幡の極楽寺から移されたものであるとされる。f0300125_21412454.jpg
 最後に、正法寺の存在がある。室町時代の後期に浄土宗に改めた正法寺は、お亀の方(相応院)の菩提寺となるなど、尾張徳川家から厚い庇護を受けた。そのことで寺勢が隆盛となり、塔頭や末寺も多く、八幡の浄土宗全体としての隆盛につながったといえる。

(4) 宝寿院の歴史

  「宝寿院(庵)」は、もともと正法寺の末寺として清水井にあった寺の名である。檀家は60-70軒。1822-32年頃の中ノ山墓地の整備はこの寺の第5世良秀による。だが、明治初期に無住となり、後に安心庵と合併された。その本尊は、現在、安心院に安置されている。その庵号が明治期に美濃山地区の寺に移されることになった。
美濃山地区のうち60-70軒はもと八幡市戸津、寿覚山無量院の檀家であった。位置も、無住となった後堂宇が廃絶した時期もよくわからない。戸津の浄土宗寺院が兼務していた。明治期以来、美濃山宝寿庵の住職を清水井安心庵の住職が兼務するようになった。本尊である阿弥陀如来立像は戸津無量院の本尊であったと考えざるを得ない。

(5) 宝寿院阿弥陀如来立像胎内墨書発見の経緯

  平成18年(2006)8月、八幡市教育委員会によって清水井安心院、美濃山宝寿院の現地調査があり、関西大学の山岡泰三名誉教授・長谷洋一教授が立ち会った。その時、美濃山宝寿院の阿弥陀如来立像は、長谷教授により「快慶より一代後の作」であろうと鑑定された。痛んでいたので修復を施すことが予定されていたが「出来るだけ手を加えないように」と助言された。同年末に京都市内の仏具商に修復を依頼したところ、胎内に墨書が発見されたと伝えられた。平成19年1月8日のことである。すぐに八幡市教委に通知し、仏像は安心院に移された。長谷洋一教授を招き、再度調査することになった。
その後、京都府文化財保護課専門員と八幡市教委の竹中友里代さん(当時)から「文化財としての修復をしてはどうか」との助言を得て、美術院で修復することとなった。その際、京都府と八幡市からの、文化財に対する補助金制度を利用することができた。平成19年4月に美術院に移送され、20年(2008)3月に修復が成り、当面は安心院に安置されることになった。そして、文化財の保全という観点から翌年5月に京都府立山城郷土資料館へ寄託されることになった。美濃山宝寿院には、4年に一度の法要の際にお迎えすることにしている。

(6) 阿弥陀如来立像および墨書をめぐって

胎内から発見された墨書に記載されていることは以下の通りである。仏師は、これまで知られている三名の定慶とは別人であろうと推測されている。願主の行範についてはわからない。
    奉造立阿弥陀如来像
 右為志者一切衆生成仏也致向後破壊
 見及人奉加修鋪可令遂一仏浄土素懐給也
       歳次    癸巳時正
 文暦二年 二月丗日 始之 願主僧行範
   乙未 第二日 泉州別当定慶造也

          
 「右為志者」以下を簡単に現代語訳すれば、次のようになる。
 「阿弥陀仏を造るのは、一切の衆生が仏の覚りを得るためです。将来、この像が壊れたら、寄付を募り修復してください。そうすれば、この仏様は私たちを導いて、皆一同に極楽浄土に往生するという私たちの宿願を叶えて下さることでしょう。」

「一口感想」より

◎余命いくらもない高齢者で、平素不勉強のため有難いお話を十分我がものにすることが出来ませんが、命ある限り学んで参りたいと思いました。(関通夫94才)

◎私も安心院さまには、仏事等でお世話ななっています。八幡宮と浄土宗の関係が解りました。ご住職のお人柄も一段と分りよかったです。(S)

◎八幡の歴史の深みを再確認しました。まだまだ埋もれた貴重な歴史があると思います。これからも期待します。(I)

◎8 0 0 年代からの古い山城国八幡の多岐にわたる歴史には興味があるが、中でも庶民の生活により一層関心がある。講話としてはなかなか難しいことでしょうが。(I)

◎興味深い歴史的なお話に心打たれました。 浄土宗門徒として、もっと勉強したいと思います。ありがとうございます。(T)


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by y-rekitan | 2013-10-28 11:00 | Comments(0)
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