◆会報第42号より-02 村の暮らし

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《講 演 会》
江戸時代の村の暮らし
― 城陽市域の村を素材に ―

2013年9月 四季彩館別館 にて
城陽市歴史民俗資料館学芸員  三桝 佳世氏


はじめに

 本日は、「江戸時代の村の暮らし―城陽市域の村を素材に―」ということで、上津屋村に焦点をあてて、江戸時代の史料から、上津屋村とそこに住んでいる人々の暮らしをながめてみようという趣旨で話を進めていきます。城陽市域は、上津屋村から一番右下の市辺まで、12の地域からなっています。城陽市域は、江戸時代には、久世郡の平川・久世・上津屋・寺田・富野・長池・観音堂・枇杷庄・中村と、綴喜郡の水主・奈島・市辺から構成されていました。

上津屋村-川が分断する村-

 城陽市域には、江戸時代、宿場町であった長池を含めると12の村がありました。その一つである上津屋村は、村高1000.987石、家数92軒、人口365人(慶応3年(1867)上津屋村明細帳)の村です。村は中央を流れる木津川によって東西に分断され、川の西側の南に浜方、北側に里方、川の東側に、東向があり、明治22年(1889)まで、上津屋村は浜方・里方・東向かいの3つの集落から構成されていました。
 江戸時代には牛頭天王社と称した、現在の石田神社をはじめ、寺院は川西にあります。東向の集落を抜けて、木津川堤防を越えた辺りは、江戸時代には人や荷物を積んで木津川を行ききする川船や川東と川西を結ぶ渡し船の船着場となっていました。木津川によって分断されていた上津屋村では、日々の生活に渡し船が不可欠であり、村として1艘所有していました。
 城陽市域の村々は、複数の領主が1つの村を分有する相給村であり、1つの村が複数の集落から構成されるという複雑な条件のもとで運営されていました。上津屋村も幕府・転法輪三条家・大炊御門家の相給村であり、里方・浜方・東向の3集落から構成されていました。上津屋村は、幕領庄屋2名(里株・浜株)、転法輪三条家庄屋1名・大炊御門家庄屋1名の計4名をもって「四株」と称する組織を作り、うち1名をその年の代表(年番)とする運営を行っていました。
 江戸時代の村には、農業生産に携わる者だけが村に住んでいたわけでなく、大工などの職人、寺社などに関わる宗教者、医師、村の治安や葬送をになう村抱えの奉公人など、様々な人々が住んでいました。上津屋村にも、大工や僧、番人、煙亡といった人々が住んでいました。しかし、彼らは、村に所属していながらも、村以外の広域的もしくは全国的な組織にも組み込まれていました。

村掟・組の掟

 江戸時代の村々は、生産活動やその社会の秩序を守るための取り決めを行っていました。
 「上津屋村年中休日定書」は、文化7年(1810)に上津屋村で作られた上津屋村のみに適用される、一年間の休日定です。数えてみますと、合計21.5日の休み日が定められています。新しい歳の神を迎える正月と先祖の霊を迎える7月に休日が集中しています。そのほかに、3月3日、5月5日、7月7日、9月9日の節句や、土の神を祀る2月の社日、8月1日の八朔など、農作業の節目にあたる日も休日でした。このように、村の休日は、祖霊祭祀に関する休みと農耕儀礼に関する休みを組み合わせながら取り決めていたことがわかります。このほかに、臨時の休日である雨悦びの休日の取り決めについて触れた史料が、文化11年(1814)の「上津屋村雨悦休日記録」です。これには、雨悦びの休日は、上津屋村を構成する浜方・里方・東向の3集落で執り行うことが決められています。このように、休日は村単位で定められていました。
 村には、その社会の秩序を維持していく上で、秩序や制裁の取り決めがありました。天保3年(1832)の「雨乞火焼人足不勤詫状」には、寺田村では、村人の人足の一人が氏神の宮山での火焼きを怠けたため、詫状を出しています。雨乞いは村をあげての取り組みであり、それに応じた分担の仕事が割り当てられています。それを怠ると制裁の対象となったことがよくわかります。
 江戸時代の村は、年貢を徴収の単位であると同時に、その村の生産活動や日常生活は、村もしくは町(村組み)が管理していたのです。文化10年(1813)の寺田村の「博奕宿致につき町内立退証文」は、博奕宿をした者がしたためた詫び証文で、領主に内密にするという処置に対するお礼と寺田村の中の町内の取り決めに従い、村を立ち退くこと(村追放)を誓約したものです。村の秩序・維持については、村もしくは町を単位として行われています。

村々のつながり

 1つの村を単位にした社会は孤立して存在していたわけでなく、村の立地条件により異なりますが、隣の村もしくは複数の村々と関りあっていたのです。延宝7年(1679)の「五ヵ村野山内山法度」には、富野村・観音堂村・中村・市辺村・奈島村の5ヵ村連名で、共有山の利用期間と制裁(罰則)の取り決めが記されています。また、山地は、田畑に刈り草を敷き込んで肥料とする刈敷や燃料となる薪の確保、牛馬の飼料など、農業生産活動には不可欠なものでした。f0300125_1917453.jpg
 近世前期に描かれた「上林代官支配村々絵図」の東側には、上津屋・平川・大久保の三ヵ村立会山で、槇島村が所有する六石山を年間3.5266石の下作料を槇島村に支払って借用していました。このように、他の村の山を借用して利用していたわけです。
 江戸時代の山は、農業の生産という生業に関わっているので、山は村と村との利害関係が生じる現場でもあったのです。

村と木津川

 上津屋村は神社やお寺もすべて現在の八幡市側にあり、東上津屋の人たちは、普段から神社やお寺にお参りにいくには、木津川を渡らなければならないため、里上津屋と浜上津屋の人々より少なかったようで、祭りの神輿も石田神社から浜の御旅所まで行きましたが、東上津屋にはいかなかったようです。東上津屋の人々も石田神社の氏子でありながら、神輿が来ないのは困るということで議論になり、村役人を説き伏せて幕領代官の上林氏に、東上津屋にも神輿が渡御するようにと願い出たことが、文政3年(1820)の史料からわかります。東上津屋が神輿の担ぎ手になったときには、東側まで神輿が渡御することが行われました。
浜方の人々は、耕作地を川の東側にもっているので耕作するためには、渡し船を使う必要がありました。渡し船を一番使う浜上津屋の人が船頭になることができました。寛政8年(1796)「渡シ舟船頭証文」には、船頭は、朝6時から夕方6時まで勤めること、弁当持参のことなどが細かく記されています。また、天保2年(1831)の「渡シ舟ニ付浜方与里向申分一件」には、船頭は3人で5年間の年季、田畑が少なくて食べていけない人などを船頭に取り立てていたようです。ただし、船頭になるのは、浜方の人であることと記されています。この渡し船は、上津屋村で維持管理されていました。また、4人の船頭さんが村役人にあてて「来る11日、堤外(木津川河川敷)の荒地で相撲興行を行いたい」と願い出ました。相撲興行の目的は、渡し船に乗り込むための足場板を作る費用を集めるためでした。
 上津屋村は相撲の興行を行えば人々が集まる場所だったわけです。浜上津屋のお旅所前に伊佐家が建てた道標には、「川越東ハ長池宇治道」「堤通南ハ天神森奈良道」「堤内西ハ楠葉枚方道」「堤通北ハよど八幡道」などと刻まれています。この道標からも上津屋は人々が集まる場所で、交通量も多かったことを示しています。

木津川の水害と砂地畑の作物

 木津川の上流は、花崗岩が多く、風化しやすい地層のため、川に絶えず砂が流れ込み、それが堆積して洪水の原因となりました。江戸時代には、洪水は、たびたび起こり、多くの田畑を壊滅させましたが、一方で良質の砂地の畑として利用されていたわけです。
 慶応3年の上津屋村の明細帳には、畑方では主に木綿が栽培され、そのほかに桃や梨、茶などの作物が作られていました。木津川の洪水によって堆積した砂地は、お茶・綿の栽培に適しています。
 サツマイモは、琉球芋や唐芋などと呼ばれ、近世後期には盛んに栽培された作物です。サツマイモの栽培法を広めたのは、長池の嶋利兵衛の功績です。城陽市の長池の大蓮寺には、「琉球芋宗匠 嶋利兵衛」の銘が刻まれたサツマイモをかたどった利兵衛の碑があります。
城陽市内では長い間、嶋利兵衛の伝承が伝わっていましたが、それを裏付ける史料が上津屋村の石田神社で見つかりました。

まとめ

 江戸時代の史料から、上津屋村とそこに住んでいる人々の暮らしをながめてきました。江戸時代の村は、年貢を徴収の単位であると同時に、その村の生産活動や日常生活は、村もしくは町(村組み)が管理していたのです。   


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by y-rekitan | 2013-09-28 11:00 | Comments(0)
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