◆会報第41号より-02 武家政権と八幡

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《講 演 会》
武家政権と石清水八幡宮
― 安居神事をめぐって ―

2013年8月 松花堂美術館講習室にて
國學院大學栃木短期大学 ・教授 鍛代敏雄


 8月18日(日)、会場を松花堂美術館講習室にして8月例会が聞かれました。標題をタイトルに、講師である鍛代敏雄(きたいとしお)氏が熱っぽく語ってくださいました。参加者は57名。以下、概略を報告します。

 
はじめに

 石清水の安居(あんご)は、4月16日から9旬(90日間)、山上僧が勤め、7月15日に南楼門前に宝樹に布を懸け、社頭を荘厳し、風流灯籠をかけ、高座の導師が菩薩戒を読誦、明年の諸頭役差定し、童舞などを奏した。主に鎌倉期は神領荘官が夏安居の頭料を、江戸期は宮寺近辺の豪家が12月上旬から15日の冬安居を勤めた。(日本思想体系20『寺社縁起』430頁補注)
 本日の報告の課題は、安居はどうして催行され続けたのか、その理由を問うものである。私自身の研究の目的は、安居会の祭祀儀礼としての機能と役割についてにある。

Ⅰ 鎌倉期の安居と頭役

 伝承としては、白河院(1053~1129)が石清水の別当光清と結んで安居神事を進めたとされる。そして、儀礼としては源頼朝の幣礼使に準じ、幕府によって保護された祭祀として位置づけられる。
 古文書での初見は、元久元年(1204)7月安達景盛(あだちかげもり)安居用途請文に見られる。また、13世紀初頭、関東の頭役用途の対捍(たいかん)(命令に従わず逆らうこと)に関する文書に所見される。関東の御家人が石清水の安居神事を行うための経済的負担を拒否する事例が発生しているのである。なお、安居頭料所は東海道・東山道・山陰道・山陽道、畿内(山城・河内)に所在していたが、13世紀以降、消滅している場合が多い。
 安居頭役人の身分としては、祠官(しかん)・所司(しょじ)などの山上役、別宮・神領の荘官・地頭・名主クラス諸所に散在する神人クラス、そして地元八幡の境内神領(内四郷・外四郷)の頭役神人に分類され、それぞれが頭人として課役を担っていた。
15世紀前期の史料では「粗散用分五十貫五十文」の記事も見える。田地1反が5貫文で永代売却されている事例から金額が想像されるが、相当な負担であったことは確かである。なお、頭人の数であるが、鎌倉後期で29人、南北朝の頃で31人、戦国期でも29人いたことが史料からわかる。
 鎌倉期、神領・別宮(遠隔地を含む)の預所や名主、神領の有徳人(金持ち)が「公事」(=税)として勤仕していた。ところが、戦国期になると、神領近郷の放生会神人や近郊の有徳人が主に勤仕するように変化している。石清水の安居を経済的に担う層が鎌倉期から戦国期にかけて地域的に狭まっているということである。

Ⅱ 南北朝・室町期の安居と頭役

 建武4年(1337)6月、足利尊氏が安居頭料の「毎年一頭」の沙汰として伊予国内の闕所(けつしょ)地を新たに寄進したことを示す文書がある。尊氏は、石清水の祠官家である善法寺通清と誼(よしみ)を通じ、通清-昇清を「将軍家御師(おし)職」に補任している。ちなみに通清の娘である紀良子は2代将軍足利義詮(よしあきら)に嫁ぎ義満を生んでいる。
 室町幕府の将軍家が石清水の安居会を支える「荘厳頭」を担ったのである。
 中世の神人は、勅祭である放生会に際し、「神訴」と称し、神威を楯にして幕府や朝廷に対し訴訟や裁許を請求することが多かった。それに対し、安居会を楯とした「神訴」は僅かである。その例が、応永31年(1424)6月に起こった石清水神人らによる石清水の護国寺に閉籠強訴した事件である。これは、14世紀後半以降、安居頭役の負担増がなされたことに対しておこされた。まさに、頭役神人身分(地下侍分・殿原衆)が主導する郷町惣中(神人と郷民)の一揆的連帯=都市共同体の成立と評価できるものである。
 ここで、安居神事を執行する側の論理を考えてみたい。それは、「宮寺無双の大神事・天下泰平の祈祷」の沙汰を大義名分(テコ)とした宮寺領からの収取の論理であり、「朝家第一・宮寺無双の大営」のために、宮寺祠官・所司・神人から神領の荘官以下百姓・住民に至るまで、差定にしたがい巡役としての安居頭を勤仕しようとする論理である。

Ⅲ 戦国・織豊・徳川初期の安居と頭役

 安居頭の実態を天文13年(1547)の安居頭役差符(さしふ)で見てみたい。
そこには、将軍家御沙汰を筆頭に、堂荘厳宝樹預として、金振郷住人、魚市御綱引神人、山路郷住人、駕輿丁神人が、大堂供宝樹預として、楠葉郷住人、内里郷住人御綱引神人、山路郷住人、戸津郷住人がそして、伝戒宝樹預として、科手郷住人、美豆郷住人御綱引神人、際目郷住人御綱引神人、下奈良獅子神人、楠葉郷住人、また、乞戒宝樹預・楽頭宝樹預・十童宝樹預として楠葉郷や河口郷・南生津郷、交野枚方の各住人の名が挙がっている(下線は現八幡市内と一部その周辺<編集担当が付した>)。
安居の頭役が八幡惣郷と近隣の神領の住人によって担われていることがわかる。同時に、安居頭役は、そのほとんどが放生会神人による勤仕であったことも了解できるであろう。
戦国期、安居の「宝樹頭役預」の多くを有徳の放生会神人が勤仕し、国家的な年中行事の費用が賦課されていたともいえる。やがて、放生会は停止され、八幡石清水の神人は安居頭役を奉仕することで神人身分が保障された。境内都市「八幡四郷」や楠葉郷の住人は頭役を勤仕し、安居頭役神人の身分を得ていたことになる。f0300125_9291011.jpg
 そのような経済的負担を引き受けて安居神人になる理由は何か。家伝の信心に加えて、安居頭役神人らの身分的かつ経済的な特権があるからである。
 一つには、「極楽(ごくらく)頼子(たのもし)」の運用ができるというメリットがあった。淀郷の石清水神人らが安居頭役の勤仕を名目に「極楽頼子」を興行し、合銭100貫文をもって利倍(高利貸)を行っていた。幕府は、「神物」「神用」と認定し徳政除外とした。阿弥陀信仰を標榜する石清水の神人が関わるから「極楽」となり、その金融活動を幕府が保障したのである。
 二つ目に、本願寺系の寺内町と石清水神人との関わりが指摘される。例えば、八幡の安居頭役神人(地下侍分)であり土倉の片岡氏や小篠(おざさ)氏が、河内国交野郡の招堤(しょだい)寺内の建設に資金を援助している。ちなみに、元亀(げんき)元年(1570)8月25日、信長は枚方の招堤道場(招堤寺)に陣を張った記録(『信長公記』)がある。本願寺系寺内町に放生会神人が居住し、安居頭役を勤仕、有徳神人による淀川の物流ネットワークが想定されるのである。
 そんな安居会であるが、豊臣期に中断される。
天正12年(15849)~天正17年の太閤検地により、石清水神領および境内は、差出(さしだし)がなされた。慶長4年(1599)、八幡八郷惣中の年寄衆は豊臣家奉行衆に、退転している安居(天下の祈祷)に関し、今後は検地免除の上、興行し天下安全・武運長久の祈祷を言上しているのである(「正法寺文書」)。
 慶長5年5月23日、八幡八郷惣中は、家康に「八幡山上山下知行高帳」を差し出し、祠官以下、神領百姓に至るまで朱印地が確定し、安居頭役神人は、以下のように「侍分」として認定された。
     安居本頭神人(侍分)を「内四郷」町ごとに摘出
       (鍛代著『戦国期の石清水と本願寺』26頁)

 12町60人、名字18(家)、総知行高1410石9斗7升(神領の20,8%)
科手郷;科手町(福田)・橋本町(橋本)
常盤郷;田中町(片岡)・柴座町(喜多村・小谷・片岡・松田・北村・柏村
     ・小寺)・紺座町(片岡・山内・横田)
山路郷;山路町(森元・山岡・小寺)・森之町(森元)
金振郷;薗町(林・小谷)・馬場町(神原)・志水町(志水・小篠・宇野田)
     ・神原町(神原)・城内町(松田)
 このように、八幡の神領が検地免除され、安居神人の身分保障がなされた背景に、お亀(相応院、尾張義直の母)とその出自の志水家が、慶長4年以降、社務廻職などに奔走していたことや検地免除を家康に嘆願していたこと、また都市共同体の主導層の尽力があった(石田三成等の家康弾劾状―中村孝也『徳川家康文書の研究』所収)。
 慶長15年(1610)、家康は田中・新善法寺・壇・善法寺の祠官家に朱印状目を下し、地下人役として安居神事を勤仕させ、将軍家の天下祈祷を命じ、検地免除と守護不入を保障しているのである。これは、中世的アジールの存続を宣言したものと見なされる。

おわりに

 安居神事の機能と役割ついて、三つの側面から以下のように整理できる。

(1) 政治面
  1. 放生会は朝廷主催の「殺生禁断」の平和的な祭祀である。それに対し、安居会は将軍家の武威の保護下に国家安全の祈祷として機能していた。
  2. 安居会は、室町・江戸幕府の武威を荘厳する祭祀として催行された。
  3. 近世の武家祭祀である安居神事役は、「奉公」と「知行安堵」で結ばれた、家康(将軍家)と安居本頭神人(地下侍分、有力者は祠官家の家人)との個別・人身的な契約事項であった。
(2) 経済面
  1. 宮寺を興行する(経済的に支える)ために、武家権門の祭祀を石清水側が創設した。
  2. 安居を大義名分とした収取の論理が貫かれている。例「極楽頼子」「寺内町の経営」
  3. 有徳人の公事の収取と下行(施行の分配)により、石清水八幡宮寺(祠官・山上所司=社僧)への銭と物の還流が図られた。
(3) 社会面
  1. 安居会に参加することで、祠官家(別当家)が血統をつなぐ得度の通過儀礼として位置づけられた。
  2. 安居頭役を負担する荘郷・別宮は神領(土地)の安堵、頭役人は石清水神人(人)という身分、頭役負担者は「有徳」「富貴」の身分が証明された。
  3. 安居会が催行されることを通して、安居頭役と神人身分を紐帯(ちゅうたい)とする郷町および惣中(八幡四郷・八幡八郷)の境内都市共同体が成立し、アジール性(守護不入・検地免除)の継承が図られた。

 以上、鍛代氏のレジュメをもとにしたとはいえ、飽くまでも編集者の主観による取捨選択にて概要がまとめられたことを付記しておきます。  (編集担当 土井三郎)

 講演が終わり、10分間の休憩の後、質疑応答がなされました。f0300125_9312062.jpg
質問は、安居会が江戸時代になって、それまで夏であったものが冬に行われるようになった理由を問うものや、放生会が旧暦の8月15日におこなわれていたことに関わりそれが平和を希求する「終戦記念日」と重なった意味(偶然とだけ律しきれないのでは?)等が出されたほか、以下の質問と返答がありました。質問者に、再度伺い文章を成文化してもらいましたのでそれを紹介します。
《質問》
安居頭差符には6頭の差符があり、それぞれ頭役を勤めたとありましたが、それぞれが屋敷の庭に祭壇を設けて神事を行ったのでしょうか。安居本頭神人等が一生に一度の安居頭役を勤めたときにやはり庭に祭壇を設けて神事を行い、祭りのクライマックスで切り取った松(宝樹)の枝を頭屋に祭祀して神事を終えたと理解しています。要するに全体の神事を代表する頭役の存在があったと思われますが。
《回答》
現時点では安居神事について、近世の由緒書はありますが、中世については判明しないことがまだまだ沢山あり、今後も課題として確かな史料等を探究したいと思います。
《私見》
八幡の資料によく名前の出る片岡、橋本、柏村、能村家等々には安居神事の斎主を勤めるといった記載もあり、それぞれ一代に一度、勤めをしているようです。これが一般にいう安居頭役と理解しています。先の「江戸尾張年頭御礼日記」にもありました通り、翌年、安居頭役から預かった安居祈祷神札を江戸将軍家に持参しています。今回、「宝樹預」にも4つの「預」があることを初めて知り、今後この差符や安居神事についてさらに追求し、理解を深めたいと思います。
 講演に際しご提供頂きました資料は何度も何度も読み直しています。それほど充実した安居参考資料と感じています。 (谷村 勉)

以下に「一口感想」を紹介します。

◎安居会の歴史や変遷が、各時代の政治情況とどのような関わりがあったのかがわかり易く話されて、興味深く聞くことができました。 (M)
◎安居と放生会の意味合いがおぼろげながら解った気がします。予備知識がOでしたが、面白く聞かせて頂きました。 八幡の地の歴史、特に八幡さんと神人に一段と興味をもちました。 (S)
◎中身の濃い講演ありがとうございました。昨年のお話に引き続き、石清水祭杷のことがよくわかりました。また、多くの関係資料を調査研究されていることに感服しました。(T)
◎中世から近世にかけて、神人、特に有徳人(金持ち)層の人たちが与えた影響は大きかったんですね。いつも「お金持ち」が世の中の一部をぎゅうじっているのですね。(H)

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by y-rekitan | 2013-08-28 11:00 | Comments(0)
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