◆会報第39号より-02 八幡社士日記

f0300125_273775.jpg
《講演会》
八幡社士惣代「江戸尾張年頭御礼日記」を読む
― 2013年6月  ふるさと学習館にて ―

 会員 谷村 勉  


年頭御礼とは何か

 「文化六年、江戸尾張年頭御礼日記」(以下「日記」)と題されたものは、次に参府する御礼人に参考となるように書かれた記録で、筆者は谷村市之進光冬である。八幡の社士の惣代として、11代将軍家斉や尾張藩主、家老志水家に年頭御礼するために江戸に出向き、「祈祷神札」・「菖蒲革(しょうぶかわ)」などを献上したことを記したものである。f0300125_2247220.jpg
 江戸城内での儀式の様子、江戸までの往復の道中の様子など克明に記してあるが、プライベートな記述は一切ない。また、かなりの達筆で、八幡に戻ってから清書したものと思われる。
 八幡を出立したのが1月20日、江戸に着いたのが2月2日。江戸まで13日間かかっている。また、江戸を出立したのが2月20日、八幡着が3月朔日なので、帰りは12日間要しているのがわかる(陰暦で文化6年は1、2月とも30日)。行きは、中山道・美濃路・東海道を通り、帰りは甲州道・中山道・東海道を通っている。
 将軍お目見えが2月15日、本丸白書院で、独礼とある。江戸には18日間の逗留となった。
 年頭御礼は、以下の理由で始まったと思われる。
 慶長15年(1610)の9月に徳川家康は、条目を下し、八幡神領を検地免除・守護不入の地とした。翌年8月相応院(お亀)は、検地免除を喜ぶと共に、八幡宮山上山下惣衆より家康に御礼として菖蒲革10枚が送られたことについての礼状を社務三家に送っている。その後、江戸時代を通して毎年年頭御礼のために惣衆が江戸に出向くようになったとみられる。
 献上の菖蒲革は、鹿皮に菖蒲文様の染色を施したもので、殊に武将に贈られることが多く、鎧などの武具の一部に使用された。
 慶長5年(1600)5月、家康より社務家をはじめ、山上山下の惣衆に三百数十通の朱印状が給付され、八幡の神領はその所領を各々に直接朱印地として与えられた。朱印地の給付は安居神事執行のための役料の意味があったようだ。安居神事は多額の費用を要するため、八幡社士はそれぞれ一生に一度のみ安居神事の頭役を勤めて、天下泰平・御武運長久を祈願していた。
 年頭御礼人は、前年の11月には人選が決められ、社士仲間が路銀など出しあっている。

江戸に向けて出立

 文化6年1月4日に、吉書回状、吉書献立が行われ、6日に八幡宮に参っている。吉書とは、めでたいことを記述したもので、それを仲間と廻しあったり、神に捧げたりした後に御神酒を進献、正明寺鎮守社(鳥羽伏見の戦いで焼失か)拝礼の後、京都の糸物商と面会し進物を、神寶所からは菖蒲革をそれぞれ受取っている。
また、社務である善法寺殿、新善法寺殿を廻り、田中殿にて祝盃をあげている。そして1月18日には、親類中を招いて料理を振舞い、同日、淀から品川宿までの先触(さきぶれ)と添状を発信している。
f0300125_22513322.jpg
 1月20日、いよいよ出立である。中山道を経て美濃路を経由。23日には名古屋に宿をとった。翌日、尾張藩家老の成瀬隼人正、竹腰山城守屋敷へ行く。両家老とも江戸出府の為、取次に面会し、江戸での旅宿先を知らせる。
 国家老志水甲斐守の屋敷では菖蒲革を献上した後、料理を振舞われている。
f0300125_2256247.jpg 箱根の関所は輿(かご)に乗ったまま通過。但し、顔が見えるように「乗物左之戸」を開けたとある。
1月30日に小田原宿に到着。江戸には2月2日に着いた。日本橋通三丁目中横丁万屋(よろずや)利右衛門の宿(屋敷)である。竹腰山城守殿より使者が来て口上を述べた。

江戸城での儀礼

 4日には、三井越後屋(三越の前身)に使いを出して、鷹大緒(たかおおお)(鷹の足に括り付ける組紐)を誂るよう指示している。
 6日には寺社奉行に届けを出し、市ヶ谷にある尾張御殿と志水甲斐守屋敷に挨拶に出向いている。
7日、江戸城内での世話役、幕府同朋衆の四人に金子百疋、目釘竹、煙草入れ、南鐐1片等を進呈し、手紙を付けて登城・御暇(おいとま)の際の取り持ちを依頼している。金子百疋は現在の2万から2万5千円程度、南鐐1片は1万円程度だと考えられる。目釘竹とは、刀の刀身と柄(つか)を結び付けるもので、八幡の竹が珍重されたとのことである。
 ここに、「手札」というものを紹介したい。横6㎝、縦16.5㎝のもので、「城州八幡社士、谷村市之進」が何の目的で江戸に参ったのか、どこに宿をとっているか等を記し、名刺代わりに使用し、進物品などに添えられた。(写真)f0300125_22592023.jpg
 10日に、志水甲斐守殿屋敷に赴き、留守居役牧野団之進へ献上品などについて相談している。というのも献上品である「鷹大緒」について前例があるとかないとか、何度もやり取りの記述があるのである。
12日に尾張様御目見え許可の書状が来て返書をしたためている。
13日に、御小書院弐之間にて御礼披露しているが、御礼の前に習礼(しゅうらい)(予行演習)が行われているその後、料理が出された。鷹大緒献上については御公儀倹約中ということで辞退となったようだ。
 14日には将軍家献上品の準備がなされ、公方様には菖蒲革、大納言様(次期将軍家慶)には轡手助(くつわたすき)を贈るよう整えられ、衣装なども準備された。
轡手助とは、馬の口にあてがう轡の部品である。
 いよいよ15日。江戸城白書院にて独礼の形で年頭御礼がなされた。f0300125_2333929.jpg
寅刻(午前4時頃)より支度をいたし、卯刻(午前6時頃)前に登城。大手門は乗與のまま過ぎ、下乗橋の所で輿(かご)を下り御玄関庭苑の上にて長持より献上品を出し、その後は同朋衆の世話を受け、寺社奉行による習礼の後、御目付衆の案内により松の廊下を進み、御白書院にて「御礼首尾好く相済む」、とある。
平伏したままで、顔をあげることなく御礼をするのである。その後、老中、若年寄などに回礼をして宿に戻った。
 その日に八幡へ書状を出す。社士仲間に壱通、家内へ壱通とある。これは早便(江戸-八幡を三日で到着するもの)で出した。当然料金は割高である。
 16日にも本丸と西の丸に登城して、安居神事の神札御祓を献上し、寺社奉行に回礼している。
 17日には浅草観音前へ従者を連れて、浅草海苔を調達している。八幡への土産であろう。
 19日に御暇の挨拶のために登城しているが、この時、五つの寺社関係者が登城している。五つの関係者とは以下の通り。
 壱 八幡、弐 日光、三 熊野、四 京今宮、五 愛宕両人である。

八幡への帰郷

 20日、八幡にむけて出立。甲州道中を経て八王子に宿。21日鳥沢、22日石和、23日金沢。続いて下諏訪から中山道に入り、24日本山、25日上松、26日馬籠、27日御嶽、28日赤坂、29日武佐、30日大津である。
大津には走井餅の店があり、八幡一ノ鳥居近くに有る「走井餅」店の前身である。そして3月朔日に八幡に到着している。3月5日には、社務中等に土産を持参している。

【挿入された資料等の典拠】
  ・街道図;江戸時代&古文書虎の巻(柏書房)
  ・日本橋;歌川広重(二玄社)
  ・手札と日記の一部;ともに個人蔵
  ・大手門; 失われた江戸城( 洋泉社)
  ・白書院(模型) ;江戸東京博物館

 報告が終わり10分程の休憩をはさんで、質疑応答がなされました。主な論点を紹介します。f0300125_2371237.jpg
① 八幡の知行高はどれ位か。一一
 八幡八郷だけで6500石弱。他にも知行地があったので、l万石を超えていたのではないか。
② 八幡宮と神人のかかわりはどうか。一一
 具体的な姿はよくわからないところがあるが、八幡宮を統括する社務の家来が社士(神人)というわけではない。将軍家より、ともに朱印地が与えられるという点で神人等の力の強さが認められる。
③ 明治維新後、社士はどうなったのか。一一
 東京遷都や神仏分離の政策がとられたり、幕藩体制が解体されるなかで、進取の気性を持つ社士達は学校の教師になったり、医者になったり、新しく事業を起こす者もいたが、八幡を離れて行く者も多かった。
④ 江戸には何人ぐらいで行ったのか。一一
 従者は3人程で、鑓持ちゃ人足など現地で調達することが多かった。
⑤ 街道は上部から決められていたのか。一一
 自分達で決めていたと思う。水陸の交通事情を把握しながらコースや行程を自らで決めていたと思われる。
 
「一口感想」

◎イギリス人の写真家(F ベアト )によって撮られた写真が幕末にしてはかなり鮮明で驚きでした。谷村さんのご説明は大変わかりやすく、楽しい講演会でした。有難うございました。(FU)

◎直系の方の古文を読み込んでのお話、大変おもしろく、勉強になりました。また、ベアトの写真や錦絵、図録や系図などを見ることで理解が深まり有難かったです。古文の読み込み、資料の収集、発表レジュメ等などキメ細かい準備と発表でした。(M)

◎八幡一江戸の行程が非常に細かく日記でわかりました。尾張・徳川との関連が非常にあったことがよく理解できました。(F)

◎本日の講演は、画や写真を多く見せて頂き、江戸までの道中や江戸城へ登城したような気分が味わえ、とても興味をもって拝聴できました。(S)

◎市内には、この様に貴重な文書が残っていると思われます。これからも紹介していって下さL、。(I)

◎液晶大画面の迫力もありましたが、谷村さんの資料の周到な準備で、年頭御礼の旅程、出立から八幡帰着までビジュアルな情報体験ができ、よく解り、体感できました。(I )

◎谷村勉様。今日はありがとうございました。幕府体制の中で、八幡の神人・社士の活動と位置付けの一端がわかり勉強になりました。(T)


<<< レポート一覧へ        次の《講演会》レポートは⇒⇒

by y-rekitan | 2013-06-28 11:00 | Comments(0)
<< ◆会報第39号より-01 落書き寺 ◆会報第39号より-03 大谷... >>