◆会報第38号より-02 天下人と八幡

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《講 演 会》
天下人の時代と八幡
― 正法寺や石清水神人の立場から ―

2013年5月 松花堂美術館講習室にて
京都府立山城郷土資料館 : 資料課長 田中 淳一郎


  5月19日(日)午後1時半より探究する会の5月例会(「講演と交流の集い」)が、松花堂美術館にて開催されました。講演の概要は、田中さんご自身がメモとしたものを送ってくださったので、それをもとに作成しました。

はじめに

 八幡市については、正法寺文書の調査をしたり、竹中友里代さんと一緒に市内の調査をしたりしたことがある。京都府の文化財保護課の時代には、石清水八幡宮文書の修理を担当して、新善法寺家の文書の指定調査を行った。そのときから、市内の旧社家や神人の方のお宅に、徳川三代の朱印状がたくさん残っていることが気になっていた。正法寺文書調査のなかでも、4代家綱の朱印状の問題が気になっていた。
 今回、この場を与えられたことで少し事情を考えてみた。重い課題であるし、土井さんのメールで皆さんの求められている水準が非常に高いようなので、充分な話ができるか不安であるが、よろしくお願いしたい。
 まず、「天下人」であるが、信長、秀吉、家康のことを普通想定されている。彼らは、「天下」統一を目指していた。天下とは、日本国(北海道、沖縄は除く)の国土と住民と政権を指し、そして政権のトップに立つ者が天下人である。歴史的な表現をとれば、すべての大名を軍事動員できることと、全国土の所有者として大名以下に知行として分け与えることができること、とまとめられるだろう。
 織田信長は、入京する前年、永禄10年(1567)から「天下布武」の印章を使い始める。これは天下を自らの武力で平定することの表明で、将軍足利義昭に対しても、「天下のことは信長に任せ置かるるの上は」とした。個別戦国大名の領主権を越える権力を表明したのである。残るは天皇だけであるが、その地位をも左右したのである。
 豊臣秀吉は、関白になると「てんか」と自称した。関白「殿下」という意味とともに、「天下」を意識した称である。秀吉の政策のなかでは、いわゆる太閤検地が重要で、全国を統一尺度で検地し、田畑を一筆ごとにその所持者・耕作者まで把握したのである。そして石高制知行体系の頂点に立ち、大名、公家、寺社に領知を分け与えたのである。また、刀狩令のように、全国百姓に同一の命令を出すことができたのである。
 徳川家康については、慶長3年(1598)8月18日に秀吉が伏見城で死去したが、それは慶長4年に公表され秀頼が正月の年賀を受けたあと大阪城に移り、続いて閏3月3日に前田利家が没すると、翌日石田三成が追われて佐和山に移る一件があり、家康は13日に伏見城西丸に入った。これを聞いた興福寺の多聞院英俊は、「天下殿」になられたと日記に書いた。そして「目出」ているのである。同じことは、当時の公家を代表する人物、近衛信尹(このえのぶただ)も日記に「家康が伏見西の丸に移られた、諸人が大慶」と記している。秀吉と違い、家康は世間が認める「天下人」であったのである。それが寺院や公家をはじめ皆に歓迎されていたのである。その後の経過は、よく御存じの通りである。
 では、この時代の天下人と石清水八幡宮や八幡との関係について、とくに領知と朱印状の問題を中心に、さまざまな資料から見ていきたい。

1 石清水八幡宮神領の構造

 まず前提として石清水八幡宮の領地について確認しておきたい。いわゆる八幡八郷と呼ばれるところが神領である。四郷と呼ばれる神社の膝下にある門前町的なところが、南から金振(かなふり)、山路(やまじ)、常盤(ときわ)、科手(しなで)である。まとめて八幡荘とか言われている。
 その外側に、美豆(みず)、際目(さいめ)、川口、生津(なまつ)の四村がある。これらの村であるが、村高が不明である。あとで述べるが、神領であるが故に検地が行われなかったようだ。
 江戸時代には、下奈良村と戸津村(一部)も石清水領であるが、こちらは村高があるので、全体としては神領ではなかったのだろう。これは河内の星田村も中世からの石清水領であるが、江戸時代にも引き続き石清水領である。

2 中世までの石清水八幡宮

 石清水八幡宮の創建とか、神仏習合した信仰形態については、今日は触れない。荘園領主としては、狭山郷(現久御山町)や薪(たきぎ)荘、稲屋妻荘など近隣の地以外に、宇佐八幡宮の神宮寺である弥勒寺は本家職を石清水に寄進したことから九州にも多くの荘園を有したことをはじめ、多くの神社や寺院が寄進したことから、平安時代以来多くの荘園・領地を全国に有していた。しかし、その多くは室町・戦国時代までに他に取られた。狭山郷のみが膝下(しっか)荘園(しょうえん)として維持されていたようである。
 また、淀六郷も石清水領であったようで、それに関連するのか、木津川水運も石清水が支配していたとの主張がみられるがよくわからない。
 私が重要だと思っているのは、石清水の神人制度である。周辺村々に、放生会など神役を勤める人たちを配しているのである。八幡八郷にもたくさんの神人が居住し、安居祭りの頭役(とうやく)をはじめ大工、鍛冶等の技能で奉仕している者たちがいる。室町時代後半には整備され、それは江戸時代にも継続される。
 このようなことを踏まえながら、石清水八幡宮の領地が、天下人の時代を通してどのように変容していくのかみていきたい。

3 織田信長と石清水八幡宮

 織田信長は、永禄12年(1569)、元亀2年(1570)、天正3年(1575)と狭山郷が神領であることを認め、領知を安堵(あんど)しており、直務(じきむ)であることを認めている。信長には、中世以来の石清水領をどうこうする意図はなかったようである。
 また社殿の修復を行い、本殿の内殿と外殿の間にある樋を木樋から青銅に替えた。その樋は現在も「黄金樋」と称されて残っている。これには、写真で見ただけであるが、「天正八年五月」の銘文がある。
 宮中の天皇のお側近くに仕える女房たちの記録には、信長がこの年の8月15日に参詣したことを伝えている。本来なら放生会が行われる日であるが、戦国以降、実施されていない。御存知のとおり、文明年間(1469~87)以降、延宝7年(1679)まで中断される。

4 豊臣秀吉の時代の八幡

 豊臣秀吉は、本能寺の変(1582年)後、明智光秀を討ち、10月15日に大徳寺で信長の葬儀を主催することで、後継者としての地位を固めた。天正13年(1585)7月11日に関白に任じられた。これ以降、秀吉は「てんか」と署名し、自称したと言われている。秀吉の天下人は、関白という律令制以来の国家体制に基づくものであり、朝廷・公家や全国の農民等一般にも浸透できたと考えられている。
 秀吉は、征服地に検地を実施した。いわゆる太閤検地である。これは、全国に石高制で統一するというものである。石清水関係では、天正12年10月17日に狭山郷の検地帳が作成された。この後、狭山郷が石清水領であったという文書が見当たらないので、この検地によって、狭山郷は石清水から収公されたものと思われる。信長との違いである。
 秀吉は、大政所の病気平癒を祈願して造営料1万石を石清水に寄進し、翌年までに回廊を再興している。一方では、天正16年(1588)から17年ころに長束正家(なつかまさいえ)を奉行として山城国検地を実施している。石清水領については、慶長5年の記述になるが、このときの検地は、当知行を指し出したいわゆる指出(さしだし)検地(けんち)であったことが明らかになる。これは、武家政権側の役人が、実際に竿をいれて土地を測量し耕作人を把握したのではなく、当知行、すなわち現在知行、支配している田畑を、それぞれが書き上げて提出したものである。それを踏まえて、秀吉は、社務以下に朱印状で領知を宛(あて)がった。あるいは分け与えたのである。つまり、検地帳を指し出したことは、土地を指し出したのと同意であり、一端は領地を天下にお返しして、改めて分け与えられたという形式になった。信長は安堵し、知行を認めたのだが、秀吉は寄進し与えたのである。天下人の天下であることを表明したのである。社務だけでなく、正法寺にも出されている。神人以下はよくわからない。
 石清水八幡宮としては、諸荘園が領地から没収されていくわけではあるが、それに抵抗するだけの武力もないからか、受け入れざるを得ないのである。慶長元年(1596)ころから秀吉は病気がちとなり、石清水ではその平癒の祈祷をしている。しかし、慶長3年8月18日に秀吉は伏見城に没した。死は年明けまで秘されていたが、慶長4年(1599)3月5日になって、前田玄以は朝廷に秀吉の遺言を伝え、秀吉の望んだ「新八幡」神号の勅許を願い出たが、勅許はなく、17日になって「豊国大明神」が受贈された。
 「新八幡」号を望んだというのは、朝廷と武家との双方の守護神である八幡になろうとしたということだろうか。天下人にはなれても、八幡神にはなれないのか。

5 徳川家康と八幡

  秀吉の死後、慶長4年正月、豊臣秀頼が伏見城で諸大名から年賀を受けたが、まもなく大坂城に移った。閏3月3日に前田利家が死去すると、翌日には加藤清正や黒田長政らが石田三成を襲撃するという事件が起きた。三成は大阪から佐和山へ逃れたものの、政権中枢からは外れた。閏3月13日になり、家康は伏見城西丸に移り、これを聞いた興福寺多聞院英俊は、「天下殿」になられたと記しており、世間は家康を天下人と認めたのである。ここが信長、秀吉とは違うところである。f0300125_20595491.jpg
 石清水との関係では、慶長4年から5年にかけて、天正17年の検地帳の再度の提出を求めたようである。だが、八幡惣中は検地の赦免を願い出ており、当知行指出帳の写しが石清水八幡宮文書や正法寺文書に数多く残されている。そして5月25日付けで家康朱印状が発給された。これらからみると、石清水領に限ってではあるが、改めて竿を入れる検地は実施されず、天正段階での当知行を認める形での知行宛がいが実施されたとみられる。
社務家や正法寺等は秀吉と同じ知行高が安堵されている。また、当知行を指し出したものには、すべてそれが領知として認められ、朱印状が発給されたのである。それは百姓中であっても、わずか一石程度の「知行」であっても認めたのである。実際は知行というよりも所持地なのだろうが、指し出された以上は、知行地として認めなければならなかった。
 同じ日付で、家康は、石清水八幡宮社務の廻職についても、順番を裁許している。これは、室町時代から、将軍代替わりごとに石清水社務家も替わることになっていたのが、秩序が乱れてきていたのを家康が裁許し順番を定めたのである。このことで、石清水に対しては、家康が社務の支配もするし、領知の支配もしていることを同日付けで明らかにしたのである。
 ところで、この慶長5年(1600)5月25日付けの朱印状は、いずれも家康単独の署名で発給されている。まだ関ヶ原の合戦以前であるし、なぜ単独で可能であったのかよくわかっていない。家康は、実は将軍になっても外様大名には領知朱印状は発給していない。一部の大名にとどまっており、石清水の特異性は際立っている。
 家康は、関ヶ原の合戦に勝利し、征夷大将軍となり、名実ともに武家の棟梁天下人となった。家康は、慶長7年の幕府領検地のように、たびたび検地を実施している。八幡近辺でも慶長15、6年ころに検地の動きがあったが、慶長15年(1610)9月、家康は朱印条目を出して八幡八郷の検地免許と「守護不入」を認めた。守護とは武家権力と言っていいだろう。これで江戸時代を通して八幡八郷には検地が行われず、万事石清水八幡宮社務による支配が行われたのである。ただ、その支配の実態は、ほとんど研究されていない。いずれにせよ、家康によって江戸時代の石清水八幡宮と八幡の体制は形成されたといってよいだろう。
 徳川家康は、慶長10年に将軍職を秀忠に譲ったあとも「大御所」として政治をみたが、元和2年(1616)4月17日に駿府城で死去した。
 秀忠は、元和3年6月14日に諸大名を従えて上洛した。上洛により、秀忠は諸大名に対する軍事動員、指揮権が自分にあることを示し、さらに上洛前後に諸大名、旗本、公家、寺社に領知朱印状を交付した。公家・寺社のものは、家康時代のものを確認したものである。大名に一斉に交付した意味が大きく、この上洛により秀忠は「天下人」足り得たことになる。また、秀忠以降の将軍を「天下人」とはあまり言わないが、実質としてはまさに天下人であった。なお、秀忠朱印状では、法花宗関係は3か寺が一通になる、百姓は96人が一通になるなど、整理された形跡がみられる。これは4代家綱のときに一層徹底されるのである。

6 石清水八幡宮と八幡に関する諸問題

 徳川将軍の領知朱印状が、実にたくさん交付され残されている八幡について、徳川家綱の朱印状の問題をみていこう。ちなみに、八幡地域の人びとに対して、家康朱印状は360通、秀忠と家光は184通が交付されているが、家綱はわずか30通にとどまる。いかに実態に合わせて整理されたかがよくわかる。
 家綱は、慶安4年(1651)4月の家光の死をうけて、8月に将軍職に就く。ところが、このときわずか11歳であった。実権は将軍輔佐役の保科正之(ほしなまさゆき)や酒井忠勝、松平信綱らが握り、彼らによる協議政治がうまく機能し、政情は安定していた。寛文4年、5年(1664、1665)に領知朱印状を発給するが、これは前代までの朱印状を提出させ、それに基づいて新規に交付したもので、その内容は、「寛文印知集」として良く知られている。それによると、家綱朱印状は寛文4年4月5日付けで全大名に対して一斉に交付された。一斉に出されたのは初めてのことで、家綱が将軍として全大名を把握していることを物語る。
また、寺社には寛文5年7月11日付けで交付されるが、石清水関係に限り8月15日付けである。理由はよくわからないが、家康の朱印状日付の件といい、石清水が特別であったことがうかがえる。なお、家康と秀忠は伏見城で、家光は二条城で交付したが、家綱は江戸で発給しており、この点にも幕府支配が確立していることが示されている。
 以後は将軍代替わりごとに、前代の朱印を提出し、新しく交付されるという朱印改めの制度が確立した。これは幕初以来異動の多かった大名の配置が安定したことを示している。このことは、寛文3年の殉死の禁止寛文5年の人質の廃止にも示される。家綱というと家光と綱吉の間で影が薄いが、江戸時代前期の幕藩体制の確立期として重要である。
 八幡にとって重要なのは、家綱の朱印状からは、冒頭に「石清水八幡宮領内」の文言が付くようになったことである。そして、一人一通宛て発給されていた朱印状が、諸役ごととか神人単位とか百姓一括とか、まとまって交付されるようになった。
 これは、慶長以来60年が経過し、家康朱印と実態が合わなくなっていたためである。本来ならば許されない朱印地の売買が行われたりしたようである。たとえば百姓の場合を考えると、死去した者もいるであろうし、あるいは一石以下の知行高のものもいるが全員そのまま所持しているとは考えにくいので、おそらく整理したものであろう。
 逆に、3代家光までの朱印を伝えられている家が多いのは、このとき提出したものがそのまま保管されてきたのであろう。
 正法寺との関係で云えば、正法寺は特別の寺格であり、石清水領内ではないとして争論になる。最終的には、社務の下知や諸法度は守るものの、神社のための社役は勤めないこととした。ただし公儀御用に準じるものは受けるとした。なお、正法寺には、家綱の朱印状正本が残らず、写しとなっている。争論にともなって幕府に提出したものだろうか。また、石清水の田中家にも家綱朱印状がないようである。同じく幕府に提出したものなのか。善法寺家、新善法寺家には残っている。
 宮大工である長濵家の文書には、家綱朱印原本が残されているが、それを見ると、慶長時点では、宮大工畳刺しと別々であったのが、徳川家綱のときには、五座組役人として一括して渡されているのである。たぶん長濵氏に交付されたのであろう。「五座組」として獅子大夫、童子、宮鍛冶、宮大工、畳刺で一通となった。また、現在、宮鍛冶や畳刺の職人の分も長濵家に伝わっていることから、いずれかの時点で、朱印状及び土地が集積されたものと考えられる。このようにして、家康時点では、わずかの知行地でも認めて、各人に交付された朱印状も、家綱までに整理され、実態に近づけられたのであろう。

おわりに

 石清水八幡宮領について、以下の点を強調し、課題を明記したい。
① 江戸時代においても、石清水八幡宮の神領では、「守護不入」が認められた。
② 検地赦免と当知行の安堵により、それ以前の関係が継続している。
③ 神領支配の実態の研究については今後の課題としたい。
                               【文責=土井三郎】

 講演の後、いくつかの点で質問がなされましたが、紙面の関係で割愛致します。参加者は59名。

「一口感想」より

◎ 信長、秀吉、家康と天下人が変わるも、石清水八幡宮に対する扱いは、他の領地とは異なったものだったようで、八幡がいかに重要な場であった事が改めて理解出来た。(N)

◎ 淀際目町に25年前から住んでいますが、石清水八幡宮の神領だったとは、はじめて知りました。木津川の改修等で今では全く関係がなくなった歴史に、時の流れを感じました。ありがとうございました。(S)

◎ 実に面白かった。朱印状の意味がよくわかった。江戸中期以後の変化・移り変わりを知りたい。(K)

◎ 以前から、徳川家康が関ヶ原の合戦の前に、つまり征夷大将軍に任ぜられる前に、なぜ石清水の社務職の廻職を定めたり、石清水社務以下に朱印状を発給したりすることができたのか、そんな権限が家康のどこにあったのか疑問であった。今日の講演を聞いて、慶長5年5月段階で、家康が公家達から実質上「天下人」と認められていたというのは、その謎を解決する一つのヒントになると思った。同時に、家康が石清水八幡宮に関与したり、八幡の社務以下神人の領地を安堵したりすることを通して、八幡神・八幡大菩薩から加護されることを期待するとともに、家康が石清水に関与したという事実を近畿一円の公家や大名に知らしめたのではないか。つまり、そのような政治的パフォーマンスを演じてみせたということではないか。この辺りは、為政者と神仏の関係をさらに深めることを通して明らかにしたいと思った。(D)


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by y-rekitan | 2013-05-28 11:00 | Comments(0)
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