◆会報第37号より-02 南山城の地域史

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《講 演 会》
南山城の地域史を学んで
― 2013年4月  松花堂美術館講習室にて ―

山背古道探検隊隊長・城南郷土史研究会代表・
山城国一揆研究会代表  中津川 敬朗


 4月21日(日)、午後1時半から松花堂美術館講習室にて、冒頭のタイトルで講演と交流の集いが開かれました。 講師は、中津川敬朗(なかつがわゆきお)さん。当日配布されたレジュメをもとに,その概要を紹介します。但し小見出しは編集担当者によるもので、発表する前に,中津川さんに目を通していただきました。 

はじめに

 「やましろ」古道は山城と書かず「山背」と書いている。奈良時代に「山背」といっていたのを、平安に都が遷された際、「山城」と改めるよう詔が出された。「古道の会」は「山城」と名乗ろうとしたけれど、一つの町に「山城町」と云うのがあってそれと混同してしまうということで、「山背」がいいだろうということになった。

 なぜ「背」なのかといえば、平城京の背に当たるのが山城だからである。そして「背」を越えたところに平安京がある。ということは、「山背古道」というのは、奈良の平城京と京都の平安京を結ぶ道筋に策定した散策路の名称である。

 同時にこの道筋は、飛鳥や藤原京の時代から、木津川右岸にそって造られ、北陸とつながる「古北陸道」の道筋であった。今、大勢の人が「山背古道探検隊」のイベントに参加なさっているが会の名称には、そんな背景がある。

尋尊の記した絵図から

 さて、私たちの歴史の会は、1953(昭28)年に発足した。そのきっかけになったのが山城国一揆である。
 山城国一揆と云うのは、約500年前に、山城の武士たちが、地元の住民の理解と協力を得て、南山城地域の「自治」を目指したできごとである。

 8年間とはいえ、なぜそんなことができたのか。それは、応仁の乱で東西の両軍が今の城陽市あたりを中心に対陣する。すると、地元の武士たちも両軍に分かれ対陣するということになり、そんなことやめようということになった。

 ところが、その時の記録が地元にはなくて、奈良の興福寺の寺務を担った大乗院の日記に記されている。尋尊(1430~1508)などが書いた「大乗院寺社雑事記」というもので、尋尊の使者が毎日伝令として両軍対陣の様子を報告し、それを克明に綴っている。

 戦前に、この尋尊などの記録は活字になって出版された。戦後そのことを知った私たちは、そこに記されている絵図にふしぎな地名を発見する。

 城陽と宇治の境に「フミ」と書かれている。「フミ」は「ふしみ」とも読める。何故こんなところに「ふしみ」があるのか。私たちの会の研究者がそのことを調べ、ようやくわかったことは、その辺りで男山方面を眺め、石清水八幡宮を「伏し拝む」遥拝所であったということである。つまり、京都からやってきた貴族などが、宇治を経て、正確にいえば、JRの「新田」駅の南側の高台に出て西側を眺めると男山が見える。そこで、石清水八幡宮を伏し拝んだというのである。

 そのことを最も早く自治体史に書いたのが宇治市である。「宇治の歴史」というもので、その中に「フシ」の遥拝所のことが記されている。それによれば、牛車に乗った貴族がこの地で牛車を降り、笏(しゃく)を持って何回か礼をするという決まりがあったということである。八幡神は国を護る神ということでそのような儀礼が行われていたのである。

山城という地域

 地形図を見ることで得られることもある。今は、衛星写真を見ることが簡単にできるようになった(城陽市史第1巻巻頭口絵)

f0300125_1533725.jpg 山城地方全体をよく見ると、東に笠置の山地、西に神南備の丘陵地帯があることがわかる。巨椋池のあった辺りもわかる。そして、男山の西北で、京都から流れてくる桂川、琵琶湖を起点に山間をうねうねと蛇行して来る宇治川、笠置の山地を迂回しながら,南の相楽から綴喜の真ん中を通って久世の西をかすめて北へ流れて来る木津川の三川が合流して淀川となる地形であることがわかる。そして、南に飛鳥・藤原を経て平城京の都、北に平安京と二つの都に挟まれた地域が山城地域であるということもわかってくる。つまり、宇治川や木津川が政治的・経済的な川であることが、新旧二つの都にはさまれた地域を流れる川であることからも説明がつく。

 云いかえれば古い中央と新しい中央の二つの中央に挟まれたこの地域が山城地域であるということである。その山城地域の歴史が、この30~40年ほどの間に研究者の手で編まれるようになった。例えば、門脇禎二氏によって木津町史や精華町史が、上田正昭氏によって山城町史が、井上満郎氏らによって加茂町史が編纂されるようになった。すると、そのような自治体史によって、二つの中央に挟まれたこの地域が、豊かな文化や歴史が眠っていることが明らかにされるようになった。二つの中央の間にあるということから、貴重な文化や歴史が育まれてきたということがわかるようになったのである。

 また、この時期は山城郷土資料館が発足することになったこととも重なる。いずれにせよ、二つの中央の谷間であって何もないと思われてきた山城地域で、人々は神に祈り仏と縁を結びながら労働に励み懸命に生きてきた。そのなかで歴史や文化をつくりあげてきたことがわかるようになった。

 これまで『万葉集』といえば、奈良というのが定番であったけれど、山城も結構詠まれていることがわかるようになった。120首ほど詠まれているが、その中に、滋賀の田上山から木を伐り出しているのがわかる歌がある。藤原宮を造る際、田上山からヒノキを伐りだし、急流の宇治川に一本ずつ流し、巨椋池で筏を組んで木津川を上らせるのである。そんなことが『万葉集』の長歌などを読むとわかってくるのである。

 2010(平成22)年と2011年には、行政と、研究者、資料館、市民が一体となって「もう一つの万葉の里」というシンポジウムなどが開催された。その時、山城資料館は同じように特別展をした。そのように、行政と研究機関、市民とが共同で進める文化活動が山城地域で進んでいる。

 八幡で「歴史カルタ」ができて市内の小学校に配ったという画期的なことが行われたが、私も協力させていただいたが、山城の教員に山城の地域の歴史をわかってもらう教材作りの仕事が進められようとしている。現在は、このように行政と市民とが一緒になって地域の歴史や文化をともに探り、明らかにすることができる時代となったのである。

地域の歴史との出合い

 昔は、そんな地域史など全く顧みられない時代であった。

 私は戦前(1930年代)、山城町上狛に瓦屋の倅として生まれた。瓦屋は村の東端にあったが、更に500mほど東に飛鳥寺の瓦と同范の瓦を使って造った高麗寺という京都府で最も古い寺があった。おそらくは高句麗系の渡来人が飛鳥の勢力と結んで造ったのであろうが、当時、伽藍は既になく瓦の破片が多数落ちていた。私の父は家業を放って毎日のように古瓦の収集に励んだが、やがて京都から研究者がやってきて発掘調査を始めた。京都帝国大学による発掘調査に、町役場と村の人たちも協力した。そのなかで、ある旧家から古い絵図が出てきた。高麗寺の伽藍配置も書きこんだものであるが、やがてそれが椿井文書であることがわかった。椿井文書とは、相楽郡椿井村出身の椿井政隆(1770~1837)が作成した偽文書や偽絵図のことである。‐発掘調査によって、父保一やむらの人たちは偽文書を乗り越えることとなった。

 椿井文書については、八幡の会が1月にお呼びになった馬部隆弘氏によってくわしく解明されたが今日、そういった問題を乗り越えて地域史研究が発展している。

 そんな地域史研究で明らかになった教訓は以下の点である。
① 事実と事実経過に基づいて歴史を説き明かして行くこと。
② 遺物、古文書、資料を独り占めしてはいけない。
③ 調査、研究の成果はすべて地域住民に知らせる。
  「むらびと」に帰すこと。

 京都の研究者と出会い、山城国一揆研究で学んだこと

 戦後の地域史研究は、戦後まもなく本格的に始まった。1952(昭27)年、京都大学の国史研究室の先生方が、私の家に泊まりこんで当時学生であった私や働く青年たちに歴史を語ってくれた。当時、若い研究者が農村の調査に入るのが社会運動として展開されるという時代でもあった。

 若き日の上田正昭氏、伊ヶ田良治氏、池田誠氏の面々である。寒い冬、囲炉裏を囲んで、握り飯をかじり番茶をすすりながら語ってくれたのである。聞き手は青年団の者や村のお百姓さんたちで、若い先生方が共通に語ったことは、村の歴史は村の人たちが作ってきたというものである。当時の村民は、歴史は偉い人が作ってきたものだと思わされていたから、半信半疑であったが、私には新鮮に聞こえた。中でも、山城国一揆の村人の動きが先ほど触れた尋尊の日記に出て来るという話は眼をみはるものであった。

 以来、山城国一揆の研究が始まったが、先生方は忙しいということで、熱田公氏を派遣してくれた。この人は国人層の動きを卒業論文のテーマにしていた人で、私たちは熱田公氏を指導者として研究を進めるのである。やがて高取正男氏が研究会の指導に来てくださった。この方は民俗学の先生で、後に高取民俗学と称されるほどの先生である。皆さん手弁当であった。

 歴史における民俗学の視点というものは、とても大事なもので、得難い経験をさせていただいた。いずれにせよ、研究者の指導と援助があって、地域の住民が勉強できる関係が作られたということである。それは、今日にもつながる関係と云ってよい。

 ところで、山城国一揆は、その研究が戦後始まったのかと云うとそうではない。三浦周行という京都帝国大学の先生が明治末年に、例の大乗院日記をもとに山城国一揆のことを発表している。それを受け継いだのが鈴木良一氏で、この先生は、山城国一揆の研究を体系化する。鈴木氏は東京帝国大学出身の方で、それを史学雑誌に発表する。東大の史学科は、当時、皇国史観の中軸の所だったので、まともな論文としては扱われず「雑評」の中に、「応仁の乱の一考察」というタイトルで出されることになる。そして、私たちの研究会がそれを地域住民に知らせ大衆化するということになる。今では、どこの教科書にも書かれている「山城国一揆」はそういう研究史を辿っている。

f0300125_13265796.jpg やがて、山城国一揆が成立して五百年という年を迎えることになった。1985(昭60)年のことである。山城郷土資料館ができたばかりの頃である。500年を記念して新たに山城国一揆のことを勉強しようというグループが出来る。テキストは木津町史の史料篇である。毎月40人ほどの者が集まり、ややこしい史料篇を読む勉強会が始まった。指導してくれたのは、黒川直則氏。黒川氏は次のように述べた。山城国一揆は、三浦周行によって発見され、鈴木良一によって体系化され、城南郷土史研究会によって大衆化されたと。

 研究は今も続いている。応仁の乱が始まり、尋尊が死ぬまでの僅か40年ほどの期間について、くわしい年表を作ろうということで始まったが、膨大な史料をずっと読んできた。最後は、八幡関連の史料である。八幡については手つかずの状態であるが、やはり「石清水文書」を読まないといけない。

 次回の田中淳一郎氏のお話はそれに関連するものだと思うけれど、それはそれで大変な作業になるけれど、やらないといけない。

 戦後の歴史学をふりかえった時、やはり皇国史観を乗り越えるということが標榜されたといえる。私たちの歴史運動もそういう影響のもとにあったことは事実である。マルクス主義歴史理論をふまえた石母田正の『中世的世界の形成』や『歴史と民族の発見』はすぐれた名著として読まれた。そんな時代を経験したのである。

 林屋辰三郎先生にもずっと指導をいただいてきた。先生たちが立ち上げた日本史研究会は西日本一大きな歴史研究会である。その林屋先生に、1953(昭28)年、私たちの研究会を立ち上げた時に上狛小学校に来て話をしてほしいと頼んだ。50畳敷きの作法室に160名の参加者があったことなども忘れることが出来ない。

人々の祈りの世界

 山城の国一揆が祈りの世界と深く結びついていることを若い時は考えていなかった。だが、国人衆が神前で集会をする。「両畠山方は山城に入れないこと」「寺社の所領はもとのようにする」「新しい関は立てない」「年貢・成物を無沙汰しないこと」そんな約束事を神様の前で集会して誓いあうのである。牛王法印(ごおうほういん)の裏にその約束事を書いて、それを焼き、できた灰を水に入れ、神様に供える。36人の国人衆がその水を廻し飲みにして約束事を神に誓って団結を固めたのである。

 山城地区にある寺社や宗教の行事は、平安時代に始まり、鎌倉・室町期に深化された人々の祈りの世界と不可分に結びついていることを私たちは思い知ることができる。

 おわりに

 地域史研究や学習を進めるにあたって大切にしてきたことは次の点である。(一部割愛)
① 外部資料も地域資料も断片的な資料であっても、徹底的に読み
   込む必要がある。
② 外部資料は、地域で発見される資料と結んで、具体的な歴史像を
   解明することができる。
③ 研究・調査活動は、地域に精通している「古老」の体験と知識に
   教えられることが多い。
④ 府や市町村の資料館、文化財保護行政の研究・調査活動に深く
   学ぶ。
⑤ 地域史の研究成果は、資料の独り占めや自己満足の研究を戒め
   ながら、地域へ渡さなければならない。帰さなければならない。
             <文責=土井三郎>

「一口感想」より

f0300125_13302844.jpg◎ 「地域史を学ぶこと」について、豊富な経験をふまえた講演がお聞きでき、これからの進む方向を示唆していただきました。ありがとうございました。また、「山背古道」の命名についても興味あるお話でした。(T)
◎ 過去の例会にはなかった興味深い講演でした。「歴探」が今後取り組むべき課題について、非常に示唆に富んだ内容だったと思います。中でも、次の二点が特に印象に残りました。①調査・研究の成果は「むらびと」に帰すこと。これは言いかえれば「公」の文化財・資料は出来るだけ「むらびと」に公開することと理解しました。
②歴史は、役人・貴族だけにあるのではない。民衆の歴史があるはずとのこと。これを探究することも、「歴探」の使命かと思います。(M)
◎ 地域史に限らず、自分の持っているものを、次の世代に伝えていくことが大事だという言葉に感銘を受けました。ヒストリーイズオープン! (H)
◎ ありがとうございました。和気あいあいの楽しい会。益々のご発展を!飛びこみです。(田辺英夫〔木津市鹿背山のお寺のご住職〕)
◎ 定年退職後、山背古道の全行程を二回に分けて二回ほど歩きまして感じたことですが、それまでその歴史について何も知らなかったので、今日の講演会に参加して大変参考になりました。」(T)
◎ 元気な話しぶりの中津川先生の姿を拝見できて嬉しく思いました。講演全体を通じて根気よく努力されていたことがよくわかりました。私は、井手町出身なので、現地の様子がよくわかり、お話の内容から「あ、あそこか」と思うことが度々ありました。先生、どうもありがとうございました。(M)
◎ 学んだことを帰してゆくことの重要さをつくづく感じました(地域に住んでいる者として)。(F)


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by y-rekitan | 2013-04-28 11:00 | Comments(0)
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