◆会報第36号より-02 八幡東部ウォーク

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《3月例会 歴探ウォーク》
春爛漫の歴史探訪ウォーク
― 2013年3月  八幡市東部にて ―



 「早春の八幡東部と神社を巡る」と題した歴史探訪ウオークでしたが、3月17日は汗ばむほどの陽気に恵まれました。
 午後1時に市役所を出発した一行は、まず川口天満宮をめざします。田起こし前の田園風景を右に、新興住宅地を左に見ながら歩むと、運送会社や倉庫の建ち並ぶ一角に御池跡碑を見つけました。
 長徳元年(995)、この地に天神の御尊像六体が出現。ときの帝(みかど)は社を造ることを命じます。f0300125_21363747.jpgそれが川口天満宮。本殿は木の香りがするほど新しく、数年前に造りかえられたとか。境内は清掃が行き届いています。本殿脇には謡(うたい)の奉納額が掲げられ、この地で謡がさかんだったことが偲ばれます。
 次に訪れたのが下奈良天満宮。江戸時代の下奈良村は、石清水八幡宮の神領である川口郷にふくまれていました。そして連歌がさかんであったことが伝えられています。

   
   川口の 天満宮にて 連歌三昧

 ガイドの高田さんは、境内の参道脇にある立ち石と丸石を説明。「道楽神」といわれ、以前は古札の納め所であったとか。本殿には祭りの際に使用された陶器皿が収蔵されているとのこと。「享保」や「天保」の銘が彫られた石燈籠もありました。
 国道一号線を潜って内里へ。防賀川にかかる蜻蛉尻(とんぼじり)橋のたもとで正徳4年(1714)に起こった水争いが説明されました。
 同年5月28日に、上奈良・内里村の村民がこの辺りの堤防を切る事件が発生。連日、上流と下流の村民が鍬や鎌を手にして対峙し、一触即発の険悪な空気の中で起きた事件です。下流域にある下奈良の村民が京都町奉行所に訴え争論は翌年の3月まで続きました。
 争いの背景に、上流域の内里・上奈良村が幕府領や朝廷領、公家領などの相給地であるのに対し、下流域の下奈良は神領であったことも指摘されています。

   寝ずの番 水になやんだ 防賀川

 内里は、綴喜郡の中で最も高い石高を誇った村でした。庄屋クラスの家は蔵を構え、どっしりとした造りで圧倒される思いです。その中で安田家を訪問。代々の庄屋で、米や綿商を経て酒造業も営み屋号を「薩摩屋」と称しました。明治なってからは郵便局を営み現在に至っています。
f0300125_21454493.jpg 内里の古い屋並の中を内神社へ。この神社は内臣の祖先である味師内宿禰(うましうちのすくね)を祀っています。『日本書紀』の朝鮮出兵の記事に出てくることから武人的な性格をもった氏族と推定されます。
(「発掘調査成果展-内里八丁遺跡を中心として-」八幡市教育委員会発行 より)
 中世には、「春日宗像神社」と呼ばれており、大永年間(1521~28)の戦乱で頽廃し、天正年間(1573~1592)にこの地に遷座されたとのことです。大永年間といえば戦国時代。室町幕府の管領細川氏や畠山氏に連なる在地勢力がこの辺りで戦を繰り広げていたのかもしれません。
 再び国道一号線をくぐって戸津の集落へ。この地は江戸時代、淀藩の領地でした。やはり風格のある豪農の屋敷と思しき家並みを歩き、戸津八幡神社に入ります。
 八幡神社とあるのは、鳥羽伏見の戦いで一時大住村に難を逃れていた八幡大神が還幸の途中にこの地で休憩された縁から、住民の願いにより石清水の御分霊が勧請されたことによるもの。

    類焼を のがれて神座 大住へ

 もとは、産土(うぶすな)神を祀る社であったらしく、寛永や宝永、明和、寛政の年号が彫られた石燈籠があります。また元来この神社には大梵天堂・薬師堂が存在していたらしく神仏習合の宗教施設であったことが確認されるとのことです。(『八幡地域の古文書・石造物・景観-京都府立大学文化遺産叢書、第4集』より)
 戸津八幡神社をあとに市役所へ帰りました。モクレンやユキヤナギ、レンギョウなどが咲き乱れる、正に春爛漫の歴史探訪ウオークでした。
 参加者34名。なお、参加希望をしながら花粉症により参加を見合わせた方もいらっしゃいました。収まる時期まで後半月ほどでしょうか。お大事になさってください。
(関連する三首の歌は「八幡歴史カルタ」 の読み札より)


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by y-rekitan | 2013-03-28 11:00 | Comments(0)
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