人気ブログランキング | 話題のタグを見る

◆会報第34号より-02 鳥羽伏見の戦い

◆会報第34号より-02 鳥羽伏見の戦い_f0300125_23262477.jpg
《講 演 会》
八幡・山崎の警備体制と
鳥羽伏見の戦い


― 2013年1月  八幡市文化センターにて ―
長岡京市教育委員会: 馬部 隆弘


  2013年1月20日(日)午後1時半より、文化センターを会場に1月例会が開かれました。講師は、長岡京市教育委員会の馬部隆弘さん。演題は「八幡・山崎の警備体制と鳥羽伏見の戦い」です。

 はじめに

  かつて、楠葉台場には次のような説明板が掲げられていた。
「元治元年(1864)徳川幕府は大阪湾から京都に侵入する外国船に備えて淀川左岸のここ楠葉と右岸の高浜(島本町)に砲台(台場)を築き、翌年には楠葉関門を設けました。(中略)慶応4年(1868)の鳥羽・伏見の戦いで高浜砲台を守っていた津藩藤堂家は、幕府軍の不利を見て官軍に内応し、小浜藩酒井家が守る楠葉砲台に砲撃を加えたので淀川を挟んで両台場は交戦状態になりました。楠葉砲台は、伏見・淀から敗走した幕府軍で混乱を極め、砲弾が尽きたので砲を破壊し退去しました。(後略)2004年11月 枚方市教育委員会」

  この掲示に見られる通り、台場どうしが戦うというめずらしい事例として知られていた。
楠葉台場はどういうものか。京都府総合資料館にその設計図が残っている。但し、設計図通りに施工されたのか、その点の検証がなされていなかった。
 実際に現地調査をしてみると、堀の名残であるL字型の田んぼが確認できるなど、設計図通りに造られたことがわかった。
 その後、保存運動の結果、枚方市および国が動き、2009年に国の史跡になった。
台場を考える上で淀川の警備がどういうものであったのかを考えないといけない。そうしないと楠葉台場の全体的な位置づけが見えてこない。
 そこで、淀川の警備がどのように進められたのか調べてみた。資料に示した「淀川警衛体制の変遷」がそれで、各藩の古文書にあたり、どこの藩がどこの部署についたのか1年ぐらいかかって調べ、まとめた。
 慶応4年(1868)1月3日、鳥羽伏見の緒戦で敗北すると、旧幕府軍は淀から八幡に退却してきて天王山と男山を結ぶラインで最終決戦をしようとする。その戦争を八幡山崎戦争と呼ぶが、そのラインを守れずに旧幕府軍は大坂城に退却する。
 それ以降、明治新政府が実質的に活動しはじめる。そんな時代を分ける大事な合戦であるにも関わらずこの戦いの経過はほとんど研究されてこなかった。
その原因の一つに山崎・八幡と呼ばれる範囲が広いということがある。江戸時代の資料を見ると天王山と男山の裾野一帯を八幡・山崎と呼んでいる。例えば山崎は現在の高槻市域まで広がり、枚方市域の楠葉も橋本にとらえられたり八幡のエリアに入れられたりした。
 そこで、鳥羽伏見の戦いの経過を説明するためには、そもそも幕府側がいつ、淀川沿いのどこにどんな軍事配置をしていたのかを正確につかんでおかないといけない。もう一つ、八幡山崎戦争を難しくしている理由に膨大な資料があるにも関わらす、それがどんな立場で作成されたのか分析しないといけない。そういう煩わしい問題を孕んでいるということもあって敬遠されてきた向きがある。
◆会報第34号より-02 鳥羽伏見の戦い_f0300125_23144057.jpg
1、淀川警衛体制の変遷

         
(1)禁門の変に至るまで 

 そもそも淀川の警備はどのように始まったか。
 安政元年(1854)にプチャーチンがロシアの艦船を率いて大阪湾に現れた。大阪湾の防御(摂海防御)をしないといけない。そして、淀川の警備をしないと、京都=朝廷が守れないということになってしまう。幕府は威信をかけてその事業を進めた。
 安政5年(1858)6月に松江藩の警衛場所が大阪湾岸から八幡・山崎に変更される。翌年、今の橋本公民館からバスのロータリー一帯とその周辺に橋本陣屋の設置が始まり、万延元年(1860)に完成する。松江藩は山崎側の警衛も命じられていたため、山崎に「兵器置き場」が置かれた。

(2)禁門の変以後

 ところが、文久3年(1863)に新たな警備体制が敷かれることになる。山崎には大和郡山藩が、八幡には福山藩、枚方には高槻藩が新たに警備につくことになった。このことは、この年、会津藩が淀川両岸に台場を造ることを提言したことに深く関わっている。
 問題は、なぜ会津藩がこのような警備体制を敷くよう提言したのか。本来、橋本に陣屋を築いたのは外国船対策が名目であるが、淀川に黒船が遡上するなんてことはあり得ない。そんな頃、会津藩主松平容保が京都守護職として赴任してくる。そして、その頃、会津藩が主張する公武合体という意見と、長州藩が主張する倒幕という意見の対立が先鋭化してくるのである。
 会津は、そういう意見の対立の延長戦で、淀川の警備体制を対長州の警備体制にすり変えていこうとする。
元治元年(1864)7月に禁門の変が起こる。過激な主張をする長州藩の者が朝廷から遠ざけられてから後、長州藩の武闘派は軍勢を率いて山口を出発し京都に向かってくるというのである。
 会津が想定していた長州との軍事衝突が現実になってきた。そんなことを見越して、元治元年の6、7月には、山崎にはそれまで郡山一藩だったのが郡山と小田原藩の二藩になり、八幡では宮津藩と小浜藩の二藩体制が敷かれ警備が強化されていく。

2、淀川両岸台場構想の変容

(1)警衛対象の変化

 文久3年(1863)に楠葉に砲台の築造が提言され、同年10月に久修園院の辺り(「木津代」)に現地調査が入り、同じころ対岸の「淀川表外嶋之内、高浜村・上牧村領堺」でも杭打ちが始まっている。ところが、それ以降工事は一向に進まない。現場の事情ではなく、会津藩と将軍後見職の一橋慶喜との不和が理由で、工事がなかなか進まなかったのであった。
◆会報第34号より-02 鳥羽伏見の戦い_f0300125_1483310.jpg 工事が急展開に進むのは武装した長州藩が押し寄せようとする元治元年5月から6月にかけてである。長州藩対策として台場の修築が火急の課題となったのである。
 ここでおもしろいのは、淀川右岸の台場が淀川から若干離れた西国街道上の梶原・上牧・神内三ヶ村の境界に設置されたことである。長州藩が上洛するときは、西宮に上陸し西国街道を用いるのが常であることから、淀川両岸台場が長州藩を対象に加えたことを明快に示している。残念ながら梶原台場はJRの敷設によって完全に消滅されている。そういう意味でも今残されている楠葉台場は貴重な遺跡である。
 実際には、梶原台場も楠葉台場も禁門の変には間に合わなかった。但し、再び攻めてくることを想定して工事は進められた。両者とも工事が完成するのは慶応元年(1865)である。

(2)船番所の設置

 ところが慶応2年2月に別の動きが出てくる。楠葉村と上牧村の関門(台場)に「船改(ふなあらため)」をする船番所を造れという触れが出されたのである。その背景には、慶応2年1月に坂本龍馬と長州藩士の三吉慎蔵が指名手配中にも拘わらず、薩摩藩の船印を川船につけて淀川を遡上し「伏見船宿寺田屋」に着いたという一件も関わっているかもしれない。沿岸では、八幡側は淀藩が、山崎側は津藩が警護していた筈であるが、台場付属の船番所がまだ建設されていなかったため見逃したのである。この直後、龍馬は薩長間で盟約が締結されるのを見届けて寺田屋に帰宿したところを急襲されたのはよく知られている。
 「不逞浪士」が行き来する淀川の警備に船番所の建造は欠かせないということで船番所の着工が進められた。楠葉台場には隣接して船番所が造られたのに対して、対岸では梶原台場から離れた淀川沿いの高浜に船番所が造られた。それは明治期に淀川改修に関わったオランダ人の設計図でも確認できる。
 「はじめに」で触れたように、「楠葉台場と高浜台場との砲撃戦」はよく知られるが、少なくともセットで造ったのは楠葉台場と梶原台場であって、後になって楠葉台場に付属して船番所が造られ、対岸の高浜にも船を見張るための船番所が造られたのである。それは台場といえるものではない。したがって「高浜台場」は実在しないのである。より具体的には、八幡側の駐屯所は橋本陣屋であって、楠葉台場はその出先の勤務場所、そして船番所はさらにその出先の見張り場である。山崎側の駐屯地は町場の近くにあったと思われる「兵器置場」で、梶原台場がその勤務場所、高浜の船番所はさらにその出先の見張り場に過ぎないのである。

 
3、鳥羽伏見の戦いの虚像と実像

(1)淀川右岸の動向(津藩)

 八幡山崎の合戦がどういう経過で起こったのか。1月3日に大坂城を出発して京都に向かっていた旧幕府軍が鳥羽伏見で新政府軍と遭遇・交戦し5日辺りに八幡・山崎に退却してくるということはわかっていたが、開戦の時期は統一的な見解がなかった。八幡のどこに誰が陣取ったのかも正確にはわかっていなかった。それを整理してみた
い。
 津藩勢は、四隊に分かれていた。すなわち藤堂采女が梶原台場、同新太郎が天王山、同九兵衛が高浜船番所、同隼人は応援(遊撃隊)として高浜船番所より手前の水無瀬の藪に控えていた。
資料を全体的にみわたすと、砲撃の開始時間は6日午前9時頃が最も妥当性がある。場所は高浜にある船番所からである。
津藩の資料を見てみると新政府側についた津藩に対し長州勢が加勢してくるようになり、津藩は船番所を横取りされたくないからかそれを断っている。だが、さすがに疲れたのか、昼ごろになると砲撃が止み始め、その頃になって長州藩が本格的に援軍として加勢するようである。
 問題は、津藩側の資料からは高浜船番所から楠葉台場に砲撃をしたことは書かれているが、八幡側(幕府方)の資料に楠葉が砲撃されたとは書かれていない。ここにどんな真相があるのか。

(2)淀川左岸の動向(旧幕府軍)

 鳥羽・伏見の合戦開始直前には、八幡の街中は宮津藩、橋本は小浜藩が固めることになっていた。ところが、八幡の町人の目にも宮津藩のやる気のない様子は映っていた。淀から敗走してきた旧幕府軍の参謀クラスは、橋本陣屋および楠葉台場に立て籠るようになる。だが、楠葉台場はもともと南向きに造られた砲台である。ところが敵は北から押し寄せてくるのである。南側に敵を想定した楠葉台場で北向きの戦などできる筈は無い。防衛線はあくまでも天王山・男山ラインなのである。
 そこで実戦部隊は、武器を持ち北に向けて陣を構えようと移動するのである。橋本陣屋および楠葉台場には参謀クラスしか残っていないのである。高浜船番所に集結する津・長州勢は、当然敵が散らばる男山から橋本・楠葉に分散しながら砲撃した筈である。だが、第一の戦功は、参謀クラスが集結している楠葉台場をたたいたことになる。そのため、戦功報告書ではそのことばかりが強調され、あたかも楠葉台場のみを砲撃したかのような説が定説化したのである。
 楠葉台場からも反撃はなされたが、高浜船番所からの先制攻撃による弾幕が張られていたため対処のしようがなく、楠葉台場から南北に散開して砲撃をすることになる。従って、「高浜台場と楠葉台場との交戦」は最初の一瞬はあったかもしれないが、それを「交戦」という言葉で表現するのは実態に合わない。

(3)新政府方からの視点から

 新政府軍は、淀から追撃して八幡に至ると二手に分け一手は八幡山より橋本まで追い落とし、一手は八幡町より橋本まで追いこめる作戦に出る。二手に分けることで競わせて最終目標である橋本陣屋と楠葉台場を陥落するというのである。二手に分けたのは、橋本を守るのが小浜藩であり八幡の町および男山を守るのが宮津藩であったということにもよる。
 最終目標は楠葉台場であるが、すべて「橋本台場」と表現されている。新政府側で「楠葉台場」が最終目的地だと誰も書いていない。なぜか。それもそのはず、淀から攻めて行く幕府軍の当時の感覚からいえば、橋本の町が「城下町」で、その奥にある台場は橋本の「本丸」と意識されているのである。また、鳥羽伏見の戦いは、橋本陣屋を落としたことで戦争に決着がついたという勝者の認識が定着することになった。
 今、楠葉砲台の新しい説明書きの脇に以前からの「橋本砲台場跡」の石碑(三宅碑)が建っている。それは、そんな新政府側の戦争の意識の投影ともいえる。

 馬部さんの熱のこもった講演の後で休憩を挟み、鋭い質問がなされました。また、それに対する明快な回答も返ってきましたが、ここでは論点のみの紹介とします。
①行政の側に地元の歴史に対し、できるだけ真実に近い説明をするよう働きかける必要がある。それは市民の側で進めるべき課題でもある。
②史料を見る場合、誰が、どんな立場で、何を目的に記録したのか、あるいは絵図に現したのかを見極めることが大事である。
③その際、何が正しく何が誤りかではなく、誰がどんな意図でそれを残そうとしたのかを吟味すべきである。そのことで、当時の人々の歴史認識が浮彫にされることがあるからである。
④淀藩の動きをどう見るか。譜代なのに幕府を裏切ったという評価があるが、門を閉ざしたのは中立の表明であるともいえる。戦争に対し幕末期ではある意味では会津藩や長州藩など、限られた藩だけが幕府側・藩幕府側の立場を貫いたのであって、他は傍観者であったといえる。それは幕末の戦争だけでなく、あらゆる戦争にいえる事柄ではないか。
⑤台場・関門を当時の人々はどう対処していたのか。警備を担当した伊勢亀山藩の家老の日記などがあるが、建造の際の経費などわからないことは多い。これからの課題だと思う。
 参加者100名。

【参考文献】
馬部隆弘「淀川警衛体制と京都守護職会津藩の関門構想」
馬部隆弘「鳥羽・伏見の合戦の記憶と楠葉台場」
いずれも『楠葉台場跡(史料編)』(財団法人枚方市文化財研究調査会・枚方市教育委員会、2010年)に所収

<<< レポート一覧へ    ひとつ前の《講演会》レポートは⇒⇒

by y-rekitan | 2013-01-28 11:00
<< ◆会報第34号より-01 神應... ◆会報第34号より-03 八幡... >>