◆会報第32号より-02 昭乗と近世文芸

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《講 演 会》
松花堂昭乗と近世前期の文芸
― 男山に集う門人たち ―

2012年11月 松花堂美術館講習室にて
松花堂庭園・美術館  川畑 薫


 11月29日(木)、松花堂美術館講習室にて11月例会を開きました。
 講師は松花堂庭園・美術館学芸員の川畑薫氏。標記のタイトルで語っていただきました。以下、当日配布されたレジュメをもとに概略を紹介します。

1、 はじめに―松花堂昭乗と寛永文化
  • 松花堂昭乗(1584~1639)は、書画をはじめ、茶の湯、造園、和歌といった諸芸をよくした。ことにその書は、後世「寛永の三筆」に数えられる。
  • 昭乗は、近世初期の寛永文化を代表する人物として知られるが、特に、近衛家と尾張徳川家の間を取りもつ上で活躍した。
  • 昭乗の茶会では、町人と武士が同席することもあり、既存の枠組みにとらわれていなかったことも指摘される。
  • 瀧本坊を中心として、文化活動を通じた人的交流の場が形成されていたといえる(「男山文化圏」)。
  • 寛永文化の展開は公家・僧侶層に豊かに蓄えられてきた中世以来の高度の教養が、新たな自己主張をはじめた上層武士によって触発され、啓蒙と創造をくり返しながら、伝統文化として継承される遺産を残すと同時に、偉大な啓蒙者を数多く生み出した。(中略)次の元禄文化の基盤となる幅広い文化社会を用意していった…」(熊倉功夫『寛永文化の研究』)
  • 寛永文化のキーワードは「複合的」である。「武士的なものと公家的なもの、関東的なものと、上方的なもの、豪奢と洗練、それらが対立しつつ融和してゆく」(松田修他編『近世の文学』上、「第四章 寛永文化の波動」松田修執筆)
2、 近世前期(17世紀)における松花堂流形成の要因

(1)書流・松花堂流の特質について
  • 松花堂流とは、松花堂昭乗を祖師と慕う門人によって、石清水八幡宮の瀧本坊を拠点に形成され、以降、幕末に至るまで命脈を保った書流である。それは、昭乗が自ら企画したものではなく、門人である藤田友閑、乗因父子によるところが大きい。
  • その特質として、伝書作成によって段階的な伝授構造を構築したこと、修習過程の規定を行ったこと、一流派を家元制度的な枠組みで形成したこと等があげられる。
(2)松花堂流の門人たち
  • 第一世代に属する主な門人は以下の通り(  )内は階層。
     中村久越(社人)、平野仲安(庶民)、法童坊孝以(社僧)、豊蔵坊孝雄(社僧)、萩坊乗 圓(社僧)

3、 近世的書流の形成と藤田友閑、乗因父子

(1)藤田友閑、乗因父子について
  • 友閑は摂津の在郷町、富田の出身。藤田家は酒造業を営んでいたようである。19歳の頃 に松花堂昭乗に入門。友閑の著した伝書はどれも松花堂流における秘伝書として位置づ けられるものであり、その性格上刊行されずに写本で伝わっている。
  • 乗因は藤田友閑の息である。幼少の頃、父に連れられて昭乗に謁見。友閑とともに、松花堂流における筆道伝書を作成し、流派の確立に尽力した。1647年江戸に下り、1651年には、松花堂流における江戸での筆道指南を友閑から託された
  • 松花堂流形成における藤田父子の担った役割およびその事績については、従来、ほとんど知られていなかったが、流派のあり方には、彼らの志向が大きく作用したものと考えられる。
(2)新たな在郷町人像 (略)

4、 作品スライド
(松花堂流書の鑑賞)

5、 おわりに

(1)幕末期の書流意識と寺小屋
  • 乙竹岩造『日本庶民教育史』(目黒書店、1929年)によれば、幕末期の「習字の書流」について、御家流が実数で1565、全体の74%をしめ、瀧本流は実数で38、全体の1.8%で、第4位である。
(2)幕末~明治期における八幡の寺小屋
  • 幕末から明治期の八幡の寺小屋・私塾を調査したもの(文部省遍『日本教育史史料』八、富山房、1892年)によれば、明治4年(1871)に八幡荘では寺小屋が4箇所あり、次の様に整理されている。
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 講演の後、様々な質問がありましたが、二つに絞って紹介します。

① 松花堂流とは、松花堂昭乗を祖師と慕う門人によって形成されたとあるが、門人達は、昭乗の書のどんなところに魅力を感じたのか。また、町中で松花堂流を取り入れようとする書の師匠も生まれたとあるが、彼ら庶民の書が何ゆえ松花堂の書に親近感を感じたのか。
《A》 字の形がよいということの他に、昭乗が目指す書のあり方、思想にあこがれた面が大きいのではないか。つまり、一口に書と云っても手紙文もあれば和歌や漢詩もある。昭乗は、その対象に応じた書のあり方を示した。例えば、手紙文ではオーソドックスな御家流を、和歌では定家流の流麗な書体を、漢詩ではそれにあった例えば大師流の文字をという様に使い分けた。また、江戸時代には武家・公家・庶民の間の交流も増え、そのような階層間の文書のやり取りも生まれた。そんなときに、松花堂の書は、例えば目上の者にはこのように、目下の者にはあのようにと、時と場合をふまえた書のあり方を示した。礼状や挨拶状の用例など具体的な需要に応える面が大きかったといえる。

② 藤田友閑と乗因の父子の事績がとりあげられたが、在郷の商人がどのようにして松花堂昭乗の書をじかに学ぶことができたのか。
《A》 昭乗のもとには、武家の求めに応じて彼らの子弟を預かり書を教える事が見られたが、武士に限らず、庶民にも書の手ほどきをするなど門戸を広くした。友閑の場合、その著書で彼が19歳の頃に「初めて松花堂にまみえた」と自ら記している。多分、書の師匠を探し求め、男山に松花堂昭乗がいることを伝え聞き、昭乗の門をたたいたのであろう。
 参加者は42名でした。

「一口感想」から

f0300125_1213989.jpg◎内容が深く、わかりやすくて、すばらし。い講演会でした。 ( F)
◎(中村)久越に深く関係すると思われる石碑が神応寺にあります。一度確認されてはどうでしょうか( 私にはしっかりと解読できません) 。(T)
◎初めて参加させて頂きました。 とても詳しくて難しかったですが、・・・脳がひきしまる思いで・・・でも楽しかったです。これからも、八幡の歴史を勉強したいと思います。 (S)
◎久々に昭乗のお話を聞きました。 ずいぶん研究が進み、広がっているんだなと感心しました。 古い八幡の町の人々のことがわかればいいですね。(M)
◎門人達の下絵に書かれた書がいろいろ見られ、また江戸から幕末までの流れも学べ大変有意義でした。(A)
◎昭乗の門人達の多さ、人脈の広さを学びました。非常に参考になり、講義はていねいでわかりやすかった。 書体の書きわけがいろいろあることも学びました。(B)
@ 寛永文化を代表する人物、寛永の三筆に数えられる書家などと呼ばれた松花堂昭乗の具体的な活動の例をわかりやすく話され、門人たちの多さや活動の様子も理解できました。(N)

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by y-rekitan | 2012-11-28 11:00 | Comments(0)
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