◆会報第26号より-01 八幡大菩薩

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《講 演 会》
庶民信仰と八幡大菩薩
― 2012年5月  生涯学習センターにて ―

会員  土井三郎


はじめに

 八幡の歴史を探究する上で、石清水八幡宮や八幡神そのものの歴史は避けて通れない。しかし、私に八幡神そのものを学問的に論及する能力はない。私にできることは、人が八幡神をどのように寓してきたのかである。

 八幡神が朝廷(公家)と武家から崇敬され保護されてきたことは周知の事実である。だが、庶民との関わりは必ずしも明らかにされてこなかったように思う。今日は、そのことについて考えてみたい。

1.八幡神とは如何なる神か

 神の在り様を究明できなくても、歴史家が八幡の神をどう論じてきたかを紹介することはできる。田村圓澄の『仏教伝来と古代日本』は、宇佐に生まれた八幡神の性格を端的に紹介している。即ち、仏教との習合、中央志向性、託宣の三つは宇佐八幡の三つの特性であると。

 では、宇佐の八幡神が何故そのような性格をもったのか。そのことは、古代の宇佐を中心とした出来事や対外関係、宇佐と都との交流を見てみると分りやすい。

 528年(継体22)の磐井の乱は筑紫の国造(くにのみやっこ)磐井が新羅の支援を得て北九州で起こした反乱である。538年(宣化3)の仏教公伝には、百済が新羅等に圧迫される中で日本に軍事的な援助を求めることがその目的にあった。663年(天智2)の白村江の戦いで日本は敗北した。これらはすべて日本と朝鮮・中国(唐)との緊張関係を表すものである。対外関係の緊張の中で武力を旨とし、中央政府と直結する神が必要とされたのである。

 また、中央とのつながりを密にするためには例えば天皇の病気を治療する、国家の災いを祓い福をもたらすような神であってほしい。当時、中国や朝鮮から伝来した異国の神(=仏教)は道教的な呪を採用する宗教であった。460年の雄略天皇の時代に現れた豊国奇巫(とよくにきふ)や587年に用明天皇の病を治すとともに仏教を勧めたとされる豊国法師はそんな宗教者である。

2.八幡大菩薩とは何か

782年(延暦元)、八幡神が大菩薩として宇佐の小椋山(おぐらやま)に還座した。一体菩薩とは何か。仏教辞典では、菩薩とは「悟りを求める人」と「悟りをそなえた人」と説明している。菩薩は、悟り(仏)の世界から人間界におりてきて、人々と共歓同苦しながら衆生(すじょう)救済に努める存在なのである。菩薩号を名のることは、それまで、国家すなわち中央権力に直結していた八幡神が衆生救済に一定の方向転換をしたともいえる。

 859年(貞観元)に宇佐から八幡神が男山に遷座されて石清水八幡宮が成立するが、それは、衆生救済の「八幡大菩薩」として遷座されたのである。

3.古代・中世の庶民信仰

(1)各種の史料や絵図・文学作品から読みとる

 次に、石清水八幡宮がどのように庶民信仰の対象であり得たのかをいくつかの史料をもとに考えてみたい。

石清水に神主を定めたこと

 「類聚三代格」貞観18年(876)の條は、時の太政官が、紀御豊(きのみとよ)を石清水八幡宮の神主として定めたことを述べているが、この中で八幡宮が道俗男女が多数集い、霊験あらたかであると記している。すなわち、八幡神が勧請された貞観年間において既に庶民が多数集まる神社であったというのである。また、「御豊」とは石清水に八幡神を勧請した行教と叔父・甥の関係にあった。以来、御豊系の紀氏が石清水八幡宮全体を統括する別当職を世襲するのである。

山科藤尾寺の尼のこと

 続いて「扶桑略記(ふそうりゃっき)」天慶(てんぎょう)2年(939)8月の記事から考えてみたい。かいつまんで紹介すると、山科の藤尾寺の道場で、一人の尼が石清水八幡大菩薩像を造立し安置すると僧尼や貴賎男女が多数集まるようになった。尼は、8月15日に石清水八幡宮(本宮)で行っている放生会(ほうじょうえ)を同じ日に行った。そのことで石清水の方は寂れてしまった。そこで本宮の道俗は相談して、放生会を行うのはいいが別の日にやってもらいたいと藤尾寺の尼に申し入れた。だが尼はそれを無視した。そこで、同年の8月12日に本宮の「道俗数千人」が藤尾寺(山科新宮)に押し掛け神社を破壊し尼を縛り上げ「霊像」(八幡菩薩像)を石清水に移し奉ったというのである。都に近い山科で、八幡信仰が根付いていたのである。

巫女が将門に皇位を授けたこと

また、『将門記』は、同じ天慶2年12月に平将門(まさかど)が上野国(今の群馬県)の国府を襲い新皇を宣言したと述べている。その時一人の巫女(かんなぎ)が現れ「八幡大菩薩、八万の軍(いくさ)を起こして、朕の位を授け奉む」と託宣を述べた。

 このことは、八幡大菩薩が皇統(天皇の位)に関与し、しかも戦いの神であったことを北関東の庶民が認識していたということを示している。つまり、天慶年間において、八幡大菩薩の信仰は庶民レベルにおいて都だけでなく全国に広まっていたのである。

一遍上人の絵伝からわかること

 時代は一遍が活躍する鎌倉時代中期に入る。一遍は諸国を行脚しながら布教したことで知られるが、熊野詣でを全国に広めたことでもわかるように神仏習合を進める僧侶であった。石清水八幡宮を描いた絵画には大塔や八角堂も存在しているが、庫裏(くり)らしき建物も描かれていて興味深い。

 それ以上に注目したいのは、本殿外れにある摂社と思える場所で、巫女とそれに対面している女性の姿である。当時、石清水には多くの巫女がいた。彼女らは託宣を述べたり「調伏の神楽」を舞ったりしていたのである。

また、『男山考古録』第4巻によれば、元禄期(1688~1704)のころ巫女屋なる建物が石清水社の若宮と若宮殿の間にあったが、巫女どもの「不行儀の働き」によりこの所を「追退」させ、その後ここに「巫女屋」は建たなかったとのことである。

『徒然草』第52段より

 石清水への参詣とあれば『徒然草』を紹介しないわけにはいかない。第52段の「先達はあらまほしき事なり」の話である。仁和寺の法師が石清水にやってきたのに麓の高良社や極楽寺だけを訪れて本宮に登らずに帰って来たという有名な話である。だが、ここで注目したいのは、何事も案内役が必要だと述べる兼好法師の述懐よりも、「そも、参りたる人ごとに山へ登りし」という箇所である。山すなわち石清水八幡宮本殿になぜ人は登るのか。参詣に違いないのだが、その具体的な姿を知りたい。そもそも神社とは何をするところなのか。

(2)石清水における神事(祭)とはなにか

二月上卯の御神楽神事

 明治時代になるまで、石清水八幡宮では、「勅祭十箇度」といって朝廷関与の季節の祭を年間10回執り行っていた。

 正月一日、二月上卯日(御神楽)、三月三日(桃の節句)、四月八日(灌仏会)、五月五日(端午の節供)、七月七日(七夕)、八月一五日(放生会)、九月九日(重陽の節供)、十一月上卯日(御神楽)である。

 世阿弥作の謡曲「弓八幡」の下敷きになっている二月上卯の御神楽について、「八幡宮年中讃記」は、夜通し行われる神事で、朝廷からは近衛召人がやってきて当所の楽人などが楽を奏し歌を歌い、舞を舞うと述べている。

注目したいのは「鶏鳴の時(朝方)に及びて、歓宴、明りを待ちて終わり、ここに貴賎男女多く集う。通夜隙なく膝を並べて僧俗方々参り、春の時節まことに目を養ったものである」と記す記事である。まさしく神に祈りつつ、庶民と共に春の訪れを祝う儀式であり祭礼であったのである。なお、昨年出版された、石清水八幡宮宮司田中恒清著『神道の力』によれば、この御神楽は明治になって中断していたものを恒清氏の御尊父が復興されたとのことである。但し、現在は残念ながら非公開とされる。               

端午の節供

 「五月端午の節供」の方はどうか。今年は京都新聞に石清水の「灯燎華」のことが掲載されたが、端午の節供で行われた祭のことも「年中讃記」にある。その際、中世の絵巻物などに、庶民の家々では菖蒲の葉を屋根に葺いて邪気を祓ったことが描かれているが、そんな庶民の慣行に関わる神事が石清水八幡宮で行われていたのである。

 「年中讃記」を読むと、端午の節供において、筍や粽(ちまき)が献上され巫女は花の飾りをつけた薬玉を身につけ舞楽が行われ流鏑馬も披露される。また、童子が弓の技を披露するのである。観客はその勝負に目を奪われる。勝者と敗者の様も描かれていて楽しい。ここで注目されるのは、勝者に贈られる賜り物が豪華であることとそれが「皆是所司之巡回役也」と記されていることである。「所司」=「神人」とすれば、石清水の祭事を経済的に支えていた神人の姿が浮かび上がってくる。この辺りのことは、8月例会に予定されている国学院大学の鍛代敏雄氏の講演で深く学びたい。

4.近世の庶民信仰

(1)絵図に見られる庶民信仰

江戸時代の庶民信仰の在り様について絵図をもとに考えてみたい。

(「八幡山上山下惣絵図」や「城州八幡山案内絵図」がスクリーンに映し出される)

 江戸時代の八幡では、山上だけでなく山下にもたくさんの寺院があった。ことに東高野街道や森町や園町、橋本にも寺は多かった。つまり参詣路沿いにお寺があったのである。河内や大和、西国や都(京都)からの参詣者がそれ等の寺院に寄りながら石清水八幡宮寺にやってきたのである。八幡はまさに宗教都市であった。八幡山上も然り。八角堂や大塔、琴塔、護国寺、開山堂、元三大師堂や多数の僧坊が林立していた。現在の高野山のような賑わいを想像すればよい。

 案内絵図の宿院にある頓宮には、その脇に「厄神」と示されている。

 また、「都名所図会」では、「八幡御旅所疫神社」と記されている。御旅所は、放生会の際、山上のご神体が頓宮に遷座されたことからつけられた名前であるが、そこは「厄神」が宿る神殿であったのである。
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(2)厄除け信仰とは何か

 さて「厄神」とは何か。それは石清水とどんな関係があるのか。

 『広辞苑』には、「厄神詣で」を次の様に紹介している。「その年の厄をはらうため、正月19日、京都の石清水八幡宮の境内に勧請する厄神に参詣したこと」とある。石清水八幡宮は厄神参りの全国的な聖地であったのである。

 なぜ石清水が厄神信仰のメッカたりえたのか。『江戸時代祭祀風俗の研究』(吉原道正著)によると、「正月十九日に八幡に行ふ疫神祭は、山城と河内との境の疫神祭の遺風ならん。其外は疫神祭あることを聞ず」としている。石清水八幡宮が山城と河内の国境に建つ神社だから厄神祓いの機能を担っていたというのである。しかもその他の国境で厄神祭がなかったということは、山城が都のある特別な国だからで、その地に災厄が侵入することを防ぐ役割を石清水が担っていたことに他ならない。

 現在でも、1月15日から19日に頓宮で「青山祭」が行われ厄除け神事が行われている。なお、厄除け神事やそれにちなんだ神札や護符について『京都府立大学文化遺産叢書第3集』で竹中友里代氏が「嶋村家神札・護符等の版木と青山祭祭壇図」と題する論文を掲載しているので参照されたい。

 他に、神原交差点の近くの昌玉庵忍澂寺(しょうぎょくあんにんちょうじ)に関連して忍澂和尚の神仏習合観について触れたが紙数の関係でここでは省略する。

「一口感想」から

◎レベノレの高い内容で、充分理解できていませんが、知れば知る程おもしろいと思いました。(N)

◎ひとつの事柄について「考えるJことの大切さをあらためて感じました。いろいろと見えてくるものがあると思われます。根気がいりますね。今日はありがとうございました。(H.A)

◎大変むずかしく理解できたとはいえませんが、八幡さんの奥深さを少し感じることができました。八幡神が天皇家とどういう理由で結びついたのか、その背景や過程をもう少し詳しく知りたいと思いました。(H.M)

◎色々調べていただいて大変参考になりました。内容は少々むずかしかったです。会合は出来れば昼の時聞に企画してほしい。(匿名希望)


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by y-rekitan | 2012-05-28 12:00 | Comments(0)
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