◆会報第25号より-01 男山参詣路1

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《歴探ウォーク》
歴史探訪「男山参詣路を歩く」
― 2012年4月  男山周辺にて ―



f0300125_1445918.jpg3月31日(土)は、「男山参詣路を歩く」と題する例会日でしたが、朝からあいにくの雨。雨模様の場合は会場を神応寺にして、住職の話や御仏の拝観を予定していたのでその連絡を参加希望者にしましたところ40名の皆様に集まっていただきました。
 住職による神応寺の来歴の話、そして国の重要文化財に指定されている行教律師坐像をはじめとして豊臣秀吉木像や障壁画、襖絵などを拝観した後本堂にもどり、ガイド3名(石瀬さん・丹波さん・土井)によって男山参詣路の名所案内をガイダンスしました。
 石瀬さんは、清水井古墓と昌玉庵忍澂(にんちょう)寺、石不動などを、丹波さんは金明孟宗竹や男山に自生する「山藍(やまあい)」の話、また神応寺の墓地にある墓の話をしました。ちなみに神応寺の墓地にある主な墓は以下の通りです。
 淀屋道雲、箇斎、言当、辰五郎(廣当)、二宮忠八、永井家先祖供養塔、長沢蘆雪(ろせつ)、山本官助孫正之、右衛門佐局、行教律師。
なお、3月24日から4月8日まで石清水八幡宮社務所書院にて「春の文化財特別公開展」が催されましたが、臨時祭などで着用される青摺袍が展示されていました。それは山藍(やまあい)で染めたものだとのことです。 

 土井は、巣林庵(そうりんあん)の往時の隆盛ぶりを『石清水八幡宮史』第1輯にあった古文書をもとに説明しました。大永三年(1523)四月三日幕府奉行奉書(ほうしょ)と称する文書で、内容は以下の通り。
「石清水八幡宮造営事、守先例於奉行者、被仰付善法寺興清、至納下(のうげ)者、有子細、巣林庵祖俊(そしゅん)首座令存知之、既過半造立之條、可有遷宮云々、早任御内書之旨、可被致奉加(ほうが)之由、所被仰下也、仍執達如件、    大永三年四月三日
近江前司(飯尾貞運)(花押)
       丹後 守 (松田秀俊)(花押)
伊達左京太夫(稙宗(たねむね))殿」
 要するに、1507年に社殿が炎上した石清水八幡宮の再建のために、室町幕府が善法寺興清を奉行(指揮者)に、巣林庵(そうりんあん)の祖峻首座を納下(出納)役にして、全国の守護クラスの者に「奉加金」を提出するよう命じたものです。宛先の「伊達稙宗」とは独眼竜で知られる政宗の曽祖父で、当時陸奥の守護をしていました。まさに、中世の八幡山下にあった寺院の性格を垣間見る思いです。
 「しおり」を制作してもらった石瀬さんに、今回の男山参詣路にとりくんだ思いを寄稿していただきました。

忍澂の取材から思ったこと
          
 石瀬 謙三 
私の生業が「美術」だった習性からか「見える物」にしか「リアル」を感知できない単純人間にとって、歴史という「時間軸」は「見えない物」という抽象的なものでした。それに具体性を与える歴史的事実をどんな文脈で読み込み、構成していけばいいのか。その手法を知らない私の今回の取材は不毛の連続でした。
しおりを読み返して、①から⑯までそれぞれに自分なりの「リアル」を盛り込む意気込みが、記事に濃淡・強弱・温度差の「ばらつき」と「ごった煮感」を露呈し、読まれた方にはその乱文に辟易されたことと平身低頭お詫び申し上げます。
素人の言い訳をお許し願えれば、男山周辺の魅力的な歴史的事跡の豊富さに溺れ、歴史探究2年生の私には「目移り、執着」の連続で「しおり」を纏めるのに荷が重すぎ、心潰れたと言う実感です。丹波さんや土井さんの助けがなかったら、「時間切れ」の体たらくで、どうなっていたことかと思うと恐ろしい経験、修羅場でした。
忍澂(にんちょう)上人が、どんな人だったのか「惹きつけられる」もの多く、思い入れの割にはしおりに表現できていないと今、反省します。過去の文献や伝承を読んでそれぞれの文脈に翻弄され、なにが事実か解らなくなり、それが歴史探究の醍醐味、迷宮と勝手に思い込んで、解らないことは「どうでもいいこと」と逃げてしまい後味の悪い「雨の日の結果発表」になったのかと自戒しています。
取材の感想として残ることは、法然院中興の祖「忍澂上人」にとって八幡が隠遁の地として生涯、「信仰の個性化・内在化」?に真剣に取り組まれた気概の地になったのでは、という思いです。
『男山考古録』、『忍澂上人行状記』、『行業記』ほかの材料の信憑性を判断する能力は私にはありませんが、温度差のあるそれらの表現、文意を通読して、上人の八幡の地に掛ける篤い思いを感じます。
これまで忍澂上人と言えば法然の浄土宗を引き継ぎ京都獅子が谷に法然院を再興し、今に伝わる浄土宗の各々の規律を立てた人くらいにしか記憶していませんでした。もちろんそれは大きな事績ですがそれを進めたバックボーンが隠遁の地この八幡にあったという事実を感知したとき、私の忍澂感は高揚しました。
男山の山上に薬師信仰の護国寺仮堂が再興され、長く行われなかった放生会が再興され神仏同体の八幡山が現世利益へと新たな一歩を踏みだした延宝年間、それを予見していたかのように若き忍澂は男山の麓、神原に残る弁天堂を隠遁の地と決めます。
f0300125_1395578.jpg後に山上の地蔵の頭部を貰い受け、補修した地蔵尊を昌玉庵本尊とします。「せいたか、こんがら童子」を脇に配し、四囲を四天王に護らせる本堂を再建。宗派にこだわらない寺、忍澂寺は布施の集まる寺だったようです。
また「山上の放生会」を補完する「月放生会」を立案し、御馬所神人「今橋安貞」に放生田を開かせ放生亭を営むよう勧め、放生会の民間化を図ります。
思いは死の床に伏して尚、放生会の進め方を気遣い、思いつく事を筆に認めてから涅槃に入ったとか。私の感じた忍澂上人は江戸時代の檀家制度が進める回向寺の堕落を感知して、一度は「律宗」にあこがれながらも阿弥陀に回帰し、阿弥陀信仰をより具体化、個性化して大衆化。地蔵・弁天信仰を振興し、庶民の信仰深化に多彩な展開を図った希有な宗教経営僧だったのではという思いです。
不断念仏の始祖と崇められる一方、膨大な印施出版活動や寺院経営の新機軸は枚挙に暇なく、その心は平成の法然院が芸術の癒しを仏心と捉え芸術振興に積極的で若い芸術家や志あるものにその発表の場を与え、宗教・観光都市京都の都市景観計画にその斬新な提案をされるなど、現代宗教の可能性を切り拓こうとするユニークさと共通すると思えます。
現代法然院の積極性は忍澂上人の気概が伝わっているからでは!と得心します。なにより、その法然院再興を推し進めた精神力がここ、八幡の地「インキュベーター昌玉庵忍澂寺」で充電されたのではと思うとなおさらです。
    ※ 写真は神原にある昌玉忍澂寺跡(弁天堂)


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by y-rekitan | 2012-04-28 12:00 | Comments(0)
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