◆会報第23号より-01 古代の八幡

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《講 演 会》
古代の八幡を探る
― 2012年2月  八幡市立生涯学習センターにて ―

会員  濱田 英子


 2月15日(水)、午後6時半より、八幡市立生涯学習センターにて2月例会を開きました。
 講師は、西山地区在住の濱田英子さん。京都府の小学校教員として永年勤務し、八幡市内でも教員をしていたとのことです。
 古代史に造詣があり、退職後はご夫妻で日本各所の古代遺跡を巡っているとのこと。そんな目で、八幡の古代史を学び、私たちに提起して下さいました。
 以下、その概要を簡単に要約します。

1、先史時代―八幡のあけぼの
 男山は、日本海、琵琶湖、巨椋(おぐら)池、宇治川、木津川、桂川、河内湾(湖)、瀬戸内海を結ぶ要の地にあり、いわば「水の回廊」といえる地点にある。このことが八幡の歴史を規定した。男山丘陵東南には高句麗系の狛氏、西は百済王氏、北は秦氏の居住地であるなど国際色豊かである。

2、旧石器・縄文時代
 1~2万年前、男山丘陵に人々が動物を追って姿を現した。金右衛門垣内遺跡からナイフ形石器がみつかった。男山周辺は水が得やすく展望がきく。けもの、木の実、魚介類が得やすかった。

3、弥生時代
 弥生時代は稲作と金属器の時代である。八幡市で最も古い弥生遺跡は平地部の内里八丁遺跡である。八丁遺跡から方形周墳墓が発見され、有力な指導者がいたと考えられる。近畿各地で生産されたと思われる土器が発見され、近江・生駒西麓、丹後・丹波などとの交流がうかがえる。弥生後期の稲株の痕跡を持つ水田が2層出土。これは全国的に数例しかない。
 弥生中期には美濃山丘陵で大規模な集落遺跡やその墓域がみつかった。他にも高地性集落が確認される。高地性集落は、「倭国大乱」に対応する逃げ城的集落でもあり、時には烽火(のろし)台も持つ。
 弥生後期の式部谷遺跡からは、現在定岡町の正木美術館が所蔵する銅鐸が出土。銅鐸は、農耕祭に用いられ、一般的に山深い谷沿いの土地に埋められた。銅鐸の発見場所の近くは『男山考古録』による「金振山」の比定地で、地名も銅鐸との関連が予想される。
 同じく弥生後期の幣原(しではら)遺跡(高地性集落)には、烽火(のろし)を上げる通信施設があったとされる。南から西にかけてきわめて眺望が良く、南山城の前線基地の役割をも担っていたと考えられる。

4、古墳時代
 出現期(3世紀半ば~4世紀初頭)の古墳は畿内でも、北の淀川水系、北河内、摂津の要所にある。つまり、そこにはある意味で、大和王権から独立した政治勢力が存在していたと考えられる。その反面、南の大和川水系では、大和盆地東南部に集中しているだけで、他には全く見られない。大和・河内勢力が完全に大和王権の支配下にあったと考えられる(白石太一郎『継体天皇の時代』)。
その後、大王墓は大和・河内に造られ、淀川水系の勢力は後退していく。淀川水系が水運・防衛・交易などの要地であったため、大和・河内勢力に押さえ込まれ、継体大王の出現まで、淀川水系は表舞台には立たなくなる。
 南山城の古墳の動向で見ると、出現期古墳の代表として、椿井大塚山古墳(全長85m)がある。最大の特徴は、36面の中国鏡を持ち、そのうち32面が三角縁神獣鏡である。それと同笵(どうはん)の鏡が全国から発見され、それの配布に重要な役割を果たした椿井大塚山古墳の被葬者は、大和王権の中枢にいた人物であったと思われる。
 しかし、その勢力は長続きせず、盟主権は他地域へと移っていく。つまり、次に、男山丘陵へ、さらに久津川水系へ、そして6世紀初めに突如として宇治川沿いに宇治二子塚古墳が出現する。継体大王出現とともに築造された宇治二子塚を最後に、その後木津川水系の大型の古墳築造は衰退してゆく。

 以下、八幡に存在した古墳について、被葬者を中心に紹介することにする。

茶臼山古墳 (古墳時代前期)前方後方墳
 熊本地方産の舟形石棺があることから、被葬者は、九州方から瀬戸内海勢力と交流があり、淀川の水運を支配していた人物であると考えられる。
西車塚古墳 (古墳時代前期)前方後方墳
 南山城で最高の副葬品、木津川左岸最大の古墳から、椿井大塚山古墳の被葬者から木津川盟主権を引き継いだと思われる。
ヒル塚古墳 (古墳時代前期後半)方墳
 蕨手紋(わらびてもん)(渦巻き飾り付)鉄剣が出土。よく似た形のものは、朝鮮半島南部、古代の加羅国の古墳からみつかっている。
王塚古墳 (古墳時代中期前半)前方後円墳
 副葬品に武具が多いことから武人的要素の強い被葬者と考えられる。

 
 男山丘陵に築造された有力な古墳は二つの系列があり、二重の首長系譜があった考とえられる。前方後方墳系の茶臼山―ヒル塚-(大住東車塚)と前方後円墳系の西車塚-石不動・東車塚-(大塚)の二系列である。前者は九州・瀬戸内さらに朝鮮半島とつながりを持つ勢力、後者はヤマト王権と深い関係を持つ勢力である。

5、隼人
 隼人の地盤である南九州といっても様々な特性・個性をもった地域がある。墓制も一様ではない。但し、以下のような特徴をもつ。
名門の家がある、移住性に富む、畑作が得意、海産物の利用が上手、軍事的にたけている、等。
隼人の移住は6世紀、場合によっては5世紀後半にもさかのぼり、ヤマト王権によって移住させられた場合もあるが、様々な理由で自らの意思で移住してきたものもいると考えられる。天武朝になって、律令国家づくりが進められる中で、移配が進められた。畿内各地に移配されたが、八幡・大住と五条市が隼人の二大移住地となった。
八幡で隼人の存在を確認できるのは地名と地下式横穴墓群である。「内里」の「内」には、「ヤマト朝廷と隼人の移住地の堺で、隼人側の地」という意味があるそうだ。男山丘陵の南側の谷筋に横穴墓群があるが、自分たちのアイデンティティを持ち続けた隼人の人々の誇りを感じる。

6、継体大王と八幡
 継体大王は、近江、越前、美濃、尾張、北河内、摂津の有力な勢力を背景にヤマトに進出した。さらに、ヤマト王権中枢にいて、大きな勢力を持つ和邇(わに)氏の娘を妃とし、継体大王がヤマトに進出するきっかけとなった。その和邇氏の拠点の一つが南山城である。
 継体出現期の南山城の勢力として、宇治二子塚の被葬者と八幡の内里八丁集落の人々が考えられる。
 内里八丁遺跡は、弥生時代後期から近世初頭まで続いた集落遺跡である。弥生時代後期の2層の水田遺跡、古墳時代初頭の方形周溝墓、飛鳥~奈良時代の掘立柱建物跡5棟、竪穴住居1棟、墨書土器などが出土した。近くを山陰道が通っていたことから役所的な性格を持った集落と考えられる。
 継体大王は、樟葉宮・筒木宮・弟国宮と男山の周りを半周するように宮を移した。何故男山周辺なのか。次のことが考えられる。
 水運・陸路など、交通・防備・物流などの要所であった、和邇氏の存在、内里八丁に有能な技術者がいた、男山は情報発信の地(烽火台)である、北河内に官営の牧があり、馬の生産・訓練の場であった、などである。

7、瓦窯と古代遺跡
 樟葉・平野山瓦窯(がよう)は、7世紀前半から半ばごろまでの日本最古、最大規模の瓦窯である。寺の屋根の飾りである鴟尾(しび)片も樟葉側の灰原から出土した。
 八幡市には美濃山廃寺・志水廃寺・西山廃寺という古代寺院が三つも男山丘陵部に集中して建立されている。古代寺院は、信仰の対象というだけでなく、勢力を誇示し、防衛・情報伝達・収集の役割も担っていた。3つの古代寺院は、都に近く、木津川の水運、古代官道に面し、高地に建立された。古山陽道に沿って3寺院がほぼ等間隔に並び、見事な景観をなしていたと考えられる。

8、ヤマト王権(朝廷)と八幡・南山城
 南山城全域の古代伝承として「崇神(すじん)記」(建波仁(たけはに)と吾田姫(あたひめ)の乱)、「神功(じんぐう)・仲哀(ちゅうあい)記」(かご坂・忍熊(おしくま)王の乱)があるが、これらの伝承から南山城地域に強大な勢力が、ヤマト王権の対抗勢力として存在したことを窺わせる。また「仁徳記」にある磐姫の伝承から、難波から淀川を経て八幡を通り木津川から奈良坂を越えて大和に入るルートがあったことがわかる。
f0300125_9495220.jpg 最後に、濱田さんは、「夢・八幡市立歴史考古博物館」の展示構想と各コーナーの展示内容を、夫である博道さんは、八幡と同時代の中国や朝鮮の出来事、南山城や近畿の様子を比較した年表を紹介しました。
 質疑では、「隼人」についてはいつ、どこからやってきたのか等厳密に検討した方がいいのではないか。横穴墓と「隼人」を短絡に結び付けるのはどうかなどの疑問も出されました。参加者44名。

<一口感想より>

 「大変愉しい講演でした。八幡にこんなに深い古代史があることを知り嬉しくなりました。濱田さん有難うございました。」  (F)

 「本日は、ありがとうございました。今までで自分が一番知りたかったことです。これから、もっと先生のお話を詳しく学ばせて頂きたいと思います。ご主人様の年表比較は、とっても嬉しいです。(後略)」 (U)

 「非常に勉強になりました。講師の夢の博物館ができる事を願っています。素晴らしい講演でした。この内容を多くの市民に知ってもらう機会を継続してつくる必要があると思います。」  (N)

 「すごく細かく色々と調べてくださっていて、レジュメの量にも驚いた。また、夫婦で色々見に行ってらっしゃるのもステキだと思った。みんな八幡のことが大好きなんだというのも感じた。」  Y(学生)

 「内容・物量共すばらしい資料を頂き有難うございました。お話も玄人はだしで、ご自分で調べられた事がよく判ります。何よりも八幡への思い入れが随所に出ており感服しました。(後略)」  (M)


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by y-rekitan | 2012-02-28 12:00 | Comments(0)
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