◆会報第18号より-01 八幡の墓地1

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《講 演 会》
墓地で探る八幡の歴史(1)

近世後期八幡神領の病・死・墓
― 社士史料と墓地 ―
2011年9月 松花堂美術館本館にて
京都府立大学  東 昇


 はじめに       

 京都府立大学は、ここ数年、地域貢献型の事業として府下の文化遺産をとりあげ情報化する取り組みを進めてきた。その一環として、昨年度3月に、文化遺産叢書の第4集「八幡地域の古文書・石造物・景観」を発行した。

 八幡を取り上げるのは第3集に続いてのものであるが、八幡の歴史を探究する会から増刷してほしいという要望が出され、それに応える形で100冊増刷した。この種のものは、図書館や研究機関などには配布できるのだが、市民の方々に頒布することがなかなかできず、今回、探究する会に印刷費の一部負担をしてもらい実現できた。こういう形で市民の皆さん方に広く読んで頂けるということは喜ばしいことである。(写真)

 ただし、今日の私の話は、文化遺産叢書の第1集「南山城・宇治地域を中心とする歴史遺産・文化的景観」に収録されているものである。

 1、息子の疱瘡

 社士の日記だが、プライベートな内容に関わるので名前等は伏せて紹介する。
 その日記には、天保3年(1832)に誕生した徳太郎の疱瘡発病までのことが書かれている。

 「午中刻男子出安産、母子共剛強可喜候、予去文政甲申春三月女子出産不幸ニ而夭、今年迄九年今日男子誕生可喜」とあるので、娘が夭折して9年ぶりに授かった子供で、その上男子であり、また母子ともに健康であることを喜んでいることがわかる。

 約1ヶ月後の4月26日には宮参り、翌日にかけて発節句のため粽を作っている。また、4月29日には京に出向いて端午の節供の具足錺物を購入し、5月5日から3日連続で親類縁者を招いて豪勢に発節句を祝っている。

 翌天保4年3月25日には誕生日の祝いをしており、同年9月には橋本の久修恩院へ箕加持の祈祷に連れて行っている。箕加持とは、多分、箕が穀物の殻などを選別することから、疱瘡の生死を選り分けるもの、また疱瘡神の依り代と見ているのではないか。徳太郎の場合も、この時期に流行していた可能性の高い疱瘡を予防するため、箕加持を行ったと思われる。だが、その疱瘡(痘瘡)にかかってしまう。

 罹患して以来のことは以下の史料1の通り。(…以下は講師東氏によるコメント。一部、編集担当の注釈も入る)
 

 《天保4年》
 11月4日 
徳太郎発熱ニ而臥居、神原靫負頼候而腹薬候事
 11月7日 
徳太郎痘瘡見点候事(・・・疱瘡の徴候である粒々が発見され、疱瘡であることが判明)
 11月8日 
清七見廻ニ来、徳太郎ニ一角服薬為致候事、目方壱匁ニ付代銀弐拾匁余也
(・・・一角というかなり高価な薬を飲まさせた)。一角というのは鯨の仲間でその牙は解毒剤に利用された。
 11月9日 
片岡へ惣代之衆集会候得共倅痘瘡故不参
 
 11月11日 
徳太郎痘瘡ニ而両眼共腫閉候事      
 
 11月17日 
痘瘡神送り致 (・・・疱瘡神とは一種の厄病神のことで、それを送りだすことで疱瘡を治すと信じられていた)。
 
 11月18日 
眼少々開候事(・・・眼が少々開く。これで、疱瘡=天然痘が山場を越えたことがわかる疱瘡はウイルスから感染するもので世界中に流行した。致死率が高かったが、日本では幕末に種痘が入り、恐ろしい病気と言われなくなった。今日、人類が絶滅させた唯一の感染病と言われる)。
 
 11月晦日 
暁徳太郎驚風ニ而気絶、色々介抱相加漸巳中刻正気ニ帰候事、然共泣声少茂不出
(…驚風とは癲癇の発作のことで、色々介抱した結果巳中刻(午前10時ごろ)にようやく正気になった。けれども少しも泣かない)。
 
 12月1日 
徳太郎大病故安居頭屋へ不行、昼後少々泣声発候事
(…安居というのは社士が勤める神事。本来なら勤めなければならない公務だが、徳太郎の病気が心配で行かなかった。11月9日の記事もそれに類したものである。
 12月6日 
徳太郎追々快気候事、昼後頭屋へ道具受取手伝ニ行
(…ようやく病気が快方に向かい、昼過ぎに安居神事のための道具を取りに行った)。
 12月21日 
京師へ歳暮ニ使遣ス、予伏見竹田医者へ徳太郎虫薬調ニ行
(…京師とは京都のこと)

 《天保5年》
 2月17日 
徳太郎召連片鉾村医師へ赴
(…片鉾は枚方にあった村のことか)。
 3月14日 
徳太郎召連京師へ行始久野玄好へ赴候得共他出故夜大和屋ニ止宿
(…久野玄好は『平安人物史』にも登場する小児科の医師)。
 4月2日 
徳太郎痘瘡湯懸ヶニ赤飯賦ル
(…湯懸ヶとはお酒を混ぜた湯を疱瘡の患者に浴びせる祝いの行事。赤飯はもちろん祝いのためのものであるが、同時に疱瘡には赤いものを与えると効くと言われているの でそのことを兼ねたものと思われる)。
次に、疱瘡対策として何をしたのかを見てゆきたい。

 徳太郎の場合、薬、医者、疱瘡神送り、箕加持を行っている。疱瘡神送りというのは、当時、疱瘡の神が人についたために疱瘡を発病すると考えられており、この神を送る神事のこと。弘化2年(1845)4月、同じ社士の息子の三次郎の疱瘡の際、「痘瘡神ヲ九反田四辻ヘ送ル」とある。隣の久御山町では近代でも、同種の神事が行われていた。
 また、近世のものと思われる疱瘡御守が旧社士家に現存し、「石清水八幡宮疱瘡御守」と彫られた版木も残っている。八幡宮において疱瘡御守を発行し、配札していたということであろう。

2、娘の死

 次に話すのは、徳太郎の妹田鶴の死についてである。田鶴は天保4年(1833)に生まれ、兄と同様に節句や誕生日の祝いがなされ、7歳で手習いに通わせ、大坂の四天王寺や住吉大社へのお参り、伏見の花火見物などにも連れて行っていることがわかる。だが、弘化2年(1845)に病気に罹った。病名がわからず、医者に診てもらったが、翌年4月3日から食を受け付けず、13日尿が出ない状態になった。以後は、次に記す史料2の通り。

 《弘化3年》
 4月18日 
巳上刻(午前9時頃)病気不愈卒去当年十四歳、悲嘆愁傷甚絶言語、天保四年巳十一月十八日丑刻出誕、橋本・谷村・片岡・松田・鵜殿等へ為知ニ遣、昼後尊兄・主税入来、主税帰去左馬宿、出入之男女止宿( ・・・出入りの男女とは中間や女中のことか)。
 4月19日 
雨降、出入中来、主税・左馬終日来万事世話致呉、平井豊之介来、酉之刻(午後6時頃)女郎花丘へ葬埋畢、溝口駿河・斎藤右京手伝ニ来呉ル、戌刻(午後8時頃)相済是迄微雨亥ノ刻(午後10時頃)ヨリ大雨、豊之介は駕ニ而帰去主税宿ス
 4月20日 
室内中墓参、武介・清七・留・そ代・みき来諸事片付物致ス、晩主税・お庵帰去
 4月21日 
墓参
 4月23日 
初七日待夜ニ逸山長老出入中男振廻
 4月29日 
今日予髪月代致し門口忌札安居札ノ張紙等取除、亮雅房尋訪
 端午  
穢中に而慎居三次郎・武助鵜殿へ尋訪ニ遣わす
 5月8日 
三七日待夜逸山長老出入中招請、曽心庵墓所へ手桶壱箇寄付
 5月9日 
橋本三軒へ忌明ニ参入他へ者不赴
 5月17日 
放生川浚宿院石橋・上地穢故不参(…忌明けは済ませたものの、放生川の浚え等は穢れがあるからとのことで参加していない)。
 閏5月6日 
玉容善女尽七々日法事相営、猷禅・逸山・叔主座・喜内・主税・左馬入来
(…四九日が済み、「玉容善女」という戒名をもらう)。
 6月28日 
玉容善女百ヶ日逸山和上招請

 《弘化4年》
 3月4日 
貞心大師墓参山田へ赴、玉容善女石牌彫刻申付ル、表七寸幅五寸高壱尺五寸台石壱尺弐寸四方、表田鶴女墓裏弘化丙午四月十八日卒ト自筆ニ而渡ス
(…墓は一周忌に間に合わせるように造らせるのだが、表には「田鶴女墓」と裏には「弘化」以下の文章を自筆にて書き、その通り彫らせる)。
 4月11日 
玉容善女石碑女郎花墓江内四人来橋本石屋ヨリ建之  
 4月18日 
麗光玉容善女一周忌、逸山和尚・喜内・左馬招請

3、八幡の墓地

 八幡の墓地は、橋本の焼野墓地、番賀墓地、中ノ山墓地(女郎花墓)などの外、田中家・善法寺家など社務の家の墓がある。その中で、古いものでは中ノ山墓地が関西で最も規模が大きいのではないか。

4、社士の墓

 社士の墓の特徴としては、百姓の墓がかまぼこ型のものが多いのに対し、角柱型のものが多く、戒名ではなく人名や生前の官職が刻まれていることが多い。そしてその人物の来歴を記した墓誌を記したものが多い。ちなみに番賀墓地には、「男山考古録」を書いた長濱尚次の墓があり、墓誌として彼の事績がかなり詳しく書かれている。

おわりに

 墓誌が多く記されている墓はそれ自体貴重な資料になる。同時に、それが信仰の対象であることをふまえて、管理者やお寺、各家の理解、同意が必要であることはいうまでもない。今後は、現地調査を続け、墓地・墓碑についての情報をデータ化し、文献史料とリンクさせ、近世の地域情報データーベースの構築をめざしたい。


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by y-rekitan | 2011-09-28 12:00 | Comments(0)
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