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◆会報第18号より-02 八幡の墓地2

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《講 演 会》
墓地で探る八幡の歴史(2)

中ノ山墓地の景観と庶民信仰

― 2011年9月 松花堂美術館本館にて ―
京都府立大学  竹中友里代


はじめに

 中ノ山墓地は、史料上は「上﨟墓(じょうろうはか)」や「万称寺山」の名称で出てくる。東高野街道からと幣原(しではら)道の二つの入り口には、それぞれ六体地蔵がある。墓地の中心には龕前堂(がんぜんどう)があり、石仏として十三仏・二十五菩薩・三十三観音が整然と並んでいる。

 概観すればそんな墓地であるが、昔はここに万称寺があった。また、個々の墓を見てゆくと、男山山上坊の主たちの墓が見られる。石清水の山上は聖域なので墓が造れなかったので、中ノ山にて埋葬されたと思われる。また、近代になって正平塚(四条隆資供養塔)、吾妻与五郎の墓も設置された。

1、万称寺

 墓地の東高野街道側からの入り口近くに三宅安兵衛の石碑があるが、そこには「万称寺跡 右正平塚半丁 左中ノ山1丁」と刻まれている。万称寺は今では住宅開発のために所在はわからなくなっているが、中ノ山墓地と寶青庵(ほうしょうあん)の間にあったと思われる(図1)。また、本来の中ノ山は墓地から南100mの所にある丘陵であった(図3)。そして、「八幡山上山下惣絵図」を見ると本堂や鐘撞堂を持ったお寺であったことがわかる。
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 山号は浄業山(じょうぎょうざん)、開創は1654年、即童和尚である。即童は正法寺の17世住職でもあった。つまり、万称寺は正法寺の末寺の一つであった。正徳3年(1713)大坂の二人の商人による多額の寄進によって梵鐘が鋳造され、そこには夥しい寄進者の法名が刻銘されていた。この寺が多くの人に支えられていたことがわかる。また、境内地は南北100m、奥行き50mの広さがあることもわかってきた。

 宗教活動として「常(じょう)念仏(ねんぶつ)回向(えこう)」が延宝6年(1678)から安永8年(1779)までに5回にわたってなされている。「常念仏回向」とは、日時を定め間断なく念仏を唱え極楽往生を祈る仏事で、近郷近在から多くの信者が集まった。枚方にある津田村庄屋日記にも万称寺の回向の記事があり、それを読むと、芝居興行など娯楽を兼ねたイベントも行われていたようである。

 貞享4年(1687)の宗旨改証文には、正法寺末寺の住僧が記されているが、他の末寺が1名か2名で八幡か近在の出身者が多いのに対し、万称寺は9名も居住し大坂・京・奈良・河内など他郷出身者で占められている。

 特筆されることは、この万称寺が百姓・町人の集会の場になったことである。

 文化4年(1807)に、洪水による凶作がもとで、橋本町をはじめ八幡領内の百姓による打ちこわしが引き起こされたが、11月12日頃より百姓が年貢不納の相談に集会したのが、ここ万称寺である。

 文政12年(1829)、八幡宮の祠官家より橋本・志水の百姓・町人に用金の申しつけがなされた。神領の百姓・町人は万称寺に集結し、祠官家の役人が出張して百姓らの動きを見張るなどして捕縛されたものも出た。その中で、社士の一部が仲裁に動き、正法寺の旦那である尾張徳川家の家老志水・竹腰両家を頼み、解決を試みる作戦を行使。尾張徳川家の威光を巧みに利用した解決策である。

 弘化5年(1848)には、大雨・堤切れ・土砂崩れなどで修復に間に合わず、年貢納入日に万称寺で集会が行われている。そこで、10人の団体が社務や年貢納入先へ手分けして訴える作戦が行使された。時間をおいてまた訴える。そんな動きが神領各所に広がっていった。百姓町人の巧みな交渉術と統一した行動力によって、これまで百姓側に立っていた正法寺・社士らにとっても脅威に感じる存在に成長していた。

 そんな万称寺であるが、安政2年(1855)に無住となり、明治5年(1872)には廃寺となった。明治18年による陸軍の測量によれば寺跡は藪地になっている。

2、龕前堂と石仏群

 龕前堂を中心に、北(B区)に十三仏、南(C区)に二十五菩薩、そこから一段下がった北斜面(A区)に三十三観音の石仏が整然と並んでいる。 

 龕前堂は、文政5年(1822)百姓町人の願いにより、八幡志水の田町や勘ケ由垣内・神原町谷畑の百姓町人らが世話人となって建設されたものである。なお石仏はそれぞれに戒名や先祖代々と刻まれ、それ自体供養塔として建立された。

 B区の石仏十三仏は、死後初七日から七日毎の中陰(四十九日)迄と三十三回忌までの法要を司る仏を表現し、文政5年春に完成した。

 C区の二十五菩薩(C区)は、阿弥陀に従い、様々な楽器を奏で、勇躍しながら来迎する菩薩群である。文政6年(1823)春に完成。

 A区の三十三観音は、西国三十三所の各札所に祀る観音菩薩をかたどったと推定される石仏群である。天保3年(1832)に完成。

 これら石仏群の所有者は、明治の墓地台帳や墓石名から判断するとその身分のほとんどが百姓町人であり、これらの石仏群の墓地の広さは一定している(B・C区は4坪、A区は3坪)。

なお、龕前堂を中心にこのような石仏群の配置を考えた者は宝寿庵5世法誉義道良秀。良秀を筆頭に正法寺の末寺中が中心になって浄土の世界を教え導いたものと考えられる。

3、石清水の阿弥陀信仰

 阿弥陀如来は、神仏習合時代、八幡神の本地仏とされた。それほど八幡は阿弥陀仏ないし阿弥陀信仰と深い関係にある。そのことを歴史的にみてみたい。

 浄土思想は、源信が『往生要集』を撰述したことで画期をむかえた。末法の世の中にあっていかに極楽往生できるかということを分かりやすく説いたことでその教えが広まった。それは浄土美術にも現れ、彫刻では阿弥陀様、絵画では来迎図などが描かれるようになった。正法寺に、「浄土三部経」という経本があるが、極楽往生の根本的なテキストといえるものである。

 平安時代になって、阿弥陀信仰といえば、宇治の平等院鳳凰堂の阿弥陀如来が思い浮かぶが、これと石清水との関連が見られる。

 石清水八幡宮寺が創建されてから検校(今の宮司)は紀氏が世襲してきたが、紀氏以外の人が検校になっている。宇佐からやってきた栗林氏で、元命・清成という親子だが、彼らは藤原道長・頼通を背景に検校になったと言われている。そんな関係から平等院の影響が石清水に表れているのではないか。例えば、念仏寺にある釈迦如来像。これは元々阿弥陀如来であったものが近世になって釈迦如来に変えられたと言われている。しかも、(平等院鳳凰堂と同じ)定朝様式が地方に伝播した阿弥陀像である。

 鎌倉時代では、善法寺(ぜんぽうじ)祐清(ゆうせい)をとりあげたい。八角堂は今でこそ西車塚の上にあるが、男山山上にあったもので、それは慶長12年(1607)に豊臣秀頼が再建したとされる。以後、元禄期(1688~1703)に修繕が施され、今ある建物は元禄期のものとされる。別名阿弥陀堂といわれる八角堂であるが、建保年間(1213~1218)に善法寺祐清によって創建されたものである。八幡宮の史料によれば、「本尊丈六阿弥陀、金色也、長日供養法、供僧三口、新田有之」とある。現在、修復されて正法寺に安置されているが、巨大な金色の像が山上にあった様を想像してみたい。「山越阿弥陀」といえるものではないか。

 祐清の血縁に在る人に源智なる僧がいる。法然の有力な弟子で、元滋賀県玉桂寺の阿弥陀如来像を造立した。その胎内納入文書に、法然没後1周忌に際し結縁者5万人が記され、源頼朝や後鳥羽院の名があるが、その中に祐清の一族6名もあったのである。

 法然以降は、阿弥陀信仰が観想念仏から称名念仏へと転換する時代である。

 美濃山の宝寿院の阿弥陀様は現在山城郷土資料館が保管・展示しているが、その胎内墨書銘から、文暦2年(1235)、願主僧行範、仏師泉州別当定慶(慶派仏師)によって「奉造立阿弥陀如来像、右為志者一切衆生成仏也・・・」されたものであることがわかった。阿弥陀が来迎して往生者を極楽浄土へ導くという構図である。

◆会報第18号より-02 八幡の墓地2_f0300125_19182152.jpg さて、中ノ山墓地山上にある龕前堂は阿弥陀如来座像が鎮座するお堂である。阿弥陀様は西を背にした西方極楽浄土の教主である。左右に石仏群を従えたその様は、来迎の場面を立体的に墓地空間に再現したものといえる。信仰を通じて地域自治の力を得た庶民によって整然とした墓域整備が可能となった。石清水における阿弥陀信仰の昇華した姿といえるのではないか。


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by y-rekitan | 2011-09-28 11:00
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