◆会報第51号より-02 八幡の発掘調査

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《講 演 会》
八 幡 を 掘 る
― 上山下の発掘調査から -

2014年6月  松花堂美術館講習室にて
大洞 真白 (前八幡市 文化財保護課)


 6月例会は、長年にわたり八幡市文化財保護に携わられた大洞真白さんに、表題テーマで松花堂美術館講習室にて講演をしていただきました。
 大洞さんには今までに何回も講棋や発掘現場での現地説明会でお世話になりましたが、今回は石清水八幡宮の山上山下発掘調査の状況とこれからの事について皆様と一緒に考えていきたいと話され講演が始まりました。
10ページの詳細なレジュメに沿った講演でしたが、この講演の概要報告も大洞さんご自身に作成いただきました。 参加者54名。

1.八幡市域の発掘調査の歩み

(1)昭和40年代(1965)~
 八幡市内で行われたはじめての発掘調査は西山廃寺(足立寺跡)で、京都府が実施した。外部研究者によって西山廃寺の建物跡や西山瓦窯が調査され、続けて古代寺院の志水廃寺・美濃山廃寺、さらに須恵器窯跡の松井交野ヶ原窯跡、石清水八幡宮の西谷などが調査された。中には報告書がでてないものがある。1984年には京都府が楠葉平野山窯跡の調査を行った。

(2)昭和60 年(1985)~
 八幡市に埋蔵文化財担当者が配属され、開発に先立つ重要遺跡の調査が実施された。
 特に1989年調査のヒル塚遺跡は、粘土槨(かく)がとりわけ大きい古墳時代前期末の方墳で、副葬品の渦巻き飾り付き鉄剣は国内で2例しか出土していない。当時アサヒグラフの古代史発掘総まくりに、森浩一氏による「なぜ起こる重要度と注目度の差」と題したコラムに、ヒル塚の新聞発表が宇野内閣誕生と重なり、地域版にしか取上げられない不公平な事態になったことを書かれている。

(3)平成5年(1993)~
 建物建設に先立つ緊急発掘調査(大芝古墳、上奈良遺跡、橋本奥ノ町遺跡、清水井遺跡等)で成果を得た。また、京都府の第2京阪道路建設による内里八丁遺跡等の調査が実施された。

(4)平成11年(1999)~
 文化庁による発掘取扱変更により、建物建設に先立つ調査が減少し、反して区画整理やミニ開発など新設道路に先立つ緊急発掘調査で成果が多く得られた。f0300125_1115660.jpg
 (上津屋遺跡、上奈良遺跡、女郎花遺跡、木津川河床遺跡”八幡宮門前町跡”調査等)
 また、国庫補助事業による重要遺跡の範囲確認調査が定着し、計画的に遺跡内容の把握に努め、開発との調整をはかった。
 (美濃山廃寺、美濃山遺跡、王塚古墳、石清水八幡宮、女谷・荒坂横穴群等)

(5)平成21~24年(2009~2012)
 平成20年に始めた石清水八幡宮境内の調査をもとに歴史シンポジウム開催、平行して調査を進め、平成24年1月に国史跡に指定された。
 最初の調査から約半世紀を経て、失われる遺跡に対する対応から、遺跡保存を目指した計画的調査を行うよう進化した。

2.山上山下の空間構造の解明に向けて

(1)門前町跡(「内四鄕」中心)の発掘調査
 「門前町の発展過程」の今後の調査課題を皆さんに託すにあたり、門前町跡(「内四郷(うちしかごう)」中心)の発掘調査成果をまとめる。木津川河川敷から多くの土器類が見つかり設定された「木津川河床遺跡」は、男山周辺門前町の内四鄕北部を含む広範囲に渡る。府と市の調査で、既に第25次までの発掘調査報告書を発行している。さらに、祠官家邸宅跡の馬場遺跡・清水井遺跡も調査している。
 図1の地層断面模式図では、内四郷北部での各調査地の各時代の地層を比較できる。
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全体に室町時代でも3m、平安時代まで至るには4mあり、とにかく深い。発掘技術で深さを克服するのが課題。各時期の遺構面に数メートルの差があり、御幸橋北詰の中世墓が出土した辺りの最北部が最も低く、山柴や森が高い。山柴や森はもともと自然堤防の上にあったと考えられる。相対的に低い北部は江戸時代以降耕作地化していく。
 地層の年代は土器で判定する。土器からは遺跡性格もわかることがある。河川敷の木津川河床遺跡20次で出土した土器は、八幡宮が遷座前後の頃の、貴族が使用するような高級遺物が出土している。
 森にも古い土器があるが、八幡宮遷座以前から人々が住んでいる。まとまって遺物がみえてくるのは平安時代後期頃で、山路でも12世紀頃の遺物が一番多くなる。
 下が掘りきれてないものがあるので断定的にはいえないが、平安時代後期以降の遺物はまとまって広範囲から出土するので、山路郷以北は同時代には多くの人々が居住していたことを示している。また、地形的に低い現在の河川敷で出土した平安時代前期の高級遺物は、高貴な人物に関係する施設が存在した可能性を示している。

(2)祠官家邸宅の位置解明
 次に、文献史料を手掛かりに門前町の開発推移について考える。それには、文献に記録が残りやすい祠官家邸宅の位置を見ていくのが有効である。邸宅はまとまった面積を要するので、未開の地に選地することが多いと考えられるためである。
 図2は祠官家邸宅の推定位置を示したものである。
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 以前の当会での講演で、5枚セットで門前町の発展過程を時代ごとに示しした図をひとつにまとめたもの。平成21年のシンポジウム「三大八幡宮―その町と歴史」のために作ったものだが、その根拠のほとんどは『男山考古録』の記述である。『男山考古録』は江戸時代末に残っていた様々な資料を見て書かれたもので、他の市町村にはほぼ存在しない奇跡的な地誌だが、それら資料の多くが現存しないので、どこまで史実なのかは検証されなければならなず、その記述は一旦は伝承として取り扱う必要がある。よって、これらの図はあくまで仮説であるが、その文献的典拠を明らかにしておきたいと思った。以下特に記さないものは『男山考古録』の記述による。
 最も古いのは元命の高坊(ア)で宿院内にあった。元命は宇佐からやってきて藤原道長と結び石清水のトップに登りつめた僧である。常盤町の北に元命孫の頼清邸宅。その子・垂井光清は娘を鳥羽上皇の後宮に入れた。この2人の邸宅が、科手よりさらに北にあったとの文献の記述と、木津川河床20次の調査成果との関係が注目される。
 光清五男の「河合屋敷」(エ)も、科手以北に12世紀前半に邸宅をつくれる条件があったことを示している。発掘成果では、平安時代中~後期に洪水が起こって砂が1m程堆積し、その後耕作地化した可能性が指摘されている。同じく光清の子で田中家の祖となる勝清は、科手北から園に邸宅を移す(オ)が、邸宅の移動がこの洪水によるものなのか、今後注目したい。さらに田中家の慶清は邸宅「家田殿」(カ)は、木津川河床19次の成果と関連する。『男山考古録』には非常に豪華な御殿であったことが書かれている。木津殿(キ)は八幡市域でないが、このような邸宅の存在を頭に留めておく必要がある。
 鎌倉時代に入り、馬場町の東南に宮清邸が造られ善法律寺となる(ク)ことは「石清水祠官家系図」にも書かれているが、『男山考古録』には現在地と別の場所と読める。遺跡範囲にも入っていない可能性が高く、地名調査や分布調査が必要であろう。
 科手では、洪水被害からの復興を示すものか不明だが、13世紀頃には壇家が営まれる(ケ)。
 室町時代に至り、善法寺家が馬場町へ移る(コ)記述は、馬場遺跡での発掘成果に符合する。調査ではそれ以前から人の居住が伺える。新善法寺家邸宅跡である清水井遺跡(サ)の発掘調査では、江戸初期の高級な遺物が多く出土している。居住が始まった頃を推定するには、膨大な発掘資料を再度分析するとわかってくる。

(3)門前町跡周辺の発掘調査
 内四郷の外側での調査は、平成9年度の橋本奥ノ町遺跡のほか、八幡八郷の成立過程をより明確にするには、平成25年度に調査された下奈良遺跡、今里遺跡の成果等が重要である。
 さらに、平成24年度に八幡市に隣接する枚方市 中之芝遺跡で大規模な発掘調査が行われ、12~13世紀の大きな区画溝が見つかり、有力土豪の居館の可能性、と発表されたが、淀川沿いにあった津の管理に関係する施設の可能性も考え得る。

(4)古代から中世の都市遺跡との比較視点
 古代からの都市遺跡といえば、平城京・平安京・三重県の斎宮跡・多賀城・平泉・大宰府などがあるが、平安時代にはじまり現在までつながっている都市遺跡は、平安京と八幡に限られるといっても過言ではない。八幡は規模こそ小さいが、人工的な整地層がこれほど連綿と積み重なって人が住み続けたところは、ごく少ない。まだあまり意識されていないが、日本の歴史にとってそれほど重要なところである。f0300125_18284725.jpg
 平安時代の貴族邸宅跡は京都市内でいくつも発掘されており、寝殿造の建物配置と園池の存在が特徴。祠官家の邸宅も、同じように立派なものがたくさんあったはずで、私たちの足元にそのような邸宅跡がいくつも眠っていると考えるだけでワクワクするではないか。また、三川合流地点の住みにくいところに努力して都市形成を進めていく点も重要で、歴史研究には現在の防災やまちづくりの観点からも学ぶところが多いはずである。
 八幡市は絵図や文献も多く、誰にでも歴史研究がはじめられる。今後もみなさんの研究の進展を期待しています。

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 続いて質疑応答がなされました。紙数の関係から論点のみ紹介します。応答するのは、講師の大洞さんの他に文化財保護課の小森俊寛主幹、石清水八幡宮研究所の鍛代敏雄氏も交えたものでした。

①江戸時代の神領絵図などを見れば、大谷川の下流がぐねぐねと蛇行し、いかにも低湿地帯と思われる科手であるが、中世期には祠官家の邸宅があった。その一つの理由として、木津川等の水運を利用する際に科手は都合がよかったことがあげられる。

②八幡の都市空間では、南北に延びる街道沿いに町場が形成され、男山の東麓においては、大和・河内など他地域との流通という点から東西にも街道と町の形成が図られたことが考えられる。

③出土された土器など遺物からは、土器の編年だけでなく、使用した階層もわかる。八幡の場合、白色土器など天皇家や摂関家などが使用する土器も出土されていることに特徴がある。
「一口感想」より
  • これまでの発掘調査の成果から普段歩きまわっている八幡市内に豊富に史跡が眠っていたことがわかり驚きました。また、八幡市(教育委員会)がどのように発掘調査にとりくみ、山上山下の空間構造の解明に向かおうとしているかがわかり、大変勉強になりました。 (Y)

  • 発掘された埋蔵品を分類し、資料館による展示によって一般に公開し、説明会を実施するなどしてほしい。ふるさと学習館についてももっと周知されるようにしてほしい。(一部割愛) (T)

  • 今回は、発掘の成果を古文書と対比させて考えると共に、それを八幡の地図にプロットして話されたことに新鮮さを覚えた。これまで参加させていただいた現地説明会の内容が更に深まったと思います。ありがとうございました。 (N)   

  • たまたま今日は仕事がないので参加できうれしいです。とても楽しみにしていました。ありがとうございます。夫はこれが終わると宿直の勤務にでかけます。一緒に先生のお話をきくことができ本当に幸せです。 (京田辺のTさん)


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by y-rekitan | 2014-06-28 11:00 | Comments(0)
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