女 郎 花 と 頼 風 土井 三郎 八幡市民図書館近くの和菓子店「志"(じ)ばん宗」(八幡市八幡今田)の裏に頼風(よりかぜ)塚があります。塔の高さは1m程で、五輪塔の形態といってよいでしょう。他に石塔はなく、周囲には芦と思われる草が植わっており、心なしか葉が南の方にたなびいているように見えます。いつ訪れても塚とその周辺は綺麗に掃き清められていて、篤信家が常に世話していることを窺わせるものです。 そして、遠く離れた松花堂庭園内に女郎花(おみなえし)塚が建っています。これも形は五輪塔ですが、土台にあたる方形の石に人の形が彫られていて、周囲には石の囲いがあるのが特徴です。謡曲「女郎花」は、頼風が女郎花の後を追って放生川に入水したというストーリーです。ならば何故二つの塚が遠く離れ離れに建っているのでしょうか。 また、二人の悲恋の物語は、「古今和歌集仮名序」にある一文とそれにまつわる和歌をもとにしているといわれます。二人の悲恋の物語は、どのように生まれたのでしょうか。そして、塚と物語にどんな背景があるのでしょうか。そんなことをさぐってみたいと思います。 松花堂庭園内の女郎花塚の近くに「謡曲「女郎花」と女塚」と題した駒札(解説板)があります。そのまま掲載してみます。 「男山の麓に住む小野頼風と深い仲にあった都の女が、男の足が遠のいたのを恨み悲しんで、放生川に身を投げた。女のぬ主捨てた衣が朽ちて、そこから女郎花が咲きだし、恨み顔に風になびいている姿をはかなんだ頼風も、後を追って入水した。これを哀れんだ人々は塚を築いて女塚、男塚とした。邪淫の妄執に苦界をさ迷っていた男女の亡霊がこの塚から現われて旅僧に回向を乞い、そのおかげで結ぼれた(※ 1)。」という物語で、名所旧跡にことよせた(※2)能作の一つである。駒札を地元の方の協力のもとに建てた謡曲史保存会は、京都市右l;京区を本部とした団体で、平成23年には『駒札百三十三番を立てる』という写真集を発行し野ています。 その数133の駒札は、北は青森市(「善知鳥(うとう)」)から南は鹿児島県の硫黄島(「俊寛(しゅんかん)」)までの地域に建てたとのことです。それぞれの謡曲の故郷を訪ね、由緒あるその地に地権者の許しを得ながら、その来歴を語る駒札を建てるというのは実に頭の下がる行為で、謡曲ファンのみならず地域史愛好家に恰好の資料を提供して下さるというものです。 そのことに敬意を払った上で、上記の駒札には、いくつか気になる記述があることを申し添えたいと思います。下線を付した三か所がそれです。 「男女の亡霊」(=頼風と女郎花) が旅僧に回向を乞い、「そのおかげで結ぼれた」とあります。実際はどうなのでしょうか。謡曲「女郎花J(観世版)を読む限り、亡霊である頼風も女郎花もすさまじいばかりの邪淫の悪鬼にさいなまれ、ひたすら二人の罪を赦してほしいと希8ねが)うばかりで、救済されるか否かは不明のままです。 この辺りの評価については、本誌第20号に石野はるみ氏が「色香に愛ずる花心謡曲『女郎花』」に鋭い考察をしています。ご参照ください。 二つ目に、「名所旧跡にことよせた能作」とある点です。文字通り解釈すれば、男塚・女塚が以前から存在し、そこから物語が生まれたと読み取ることができます。果たしてそうなのでしょうか。 次号にて詳述しますが、男塚(頼風塚)と女塚(女郎花塚)は、謡曲「女郎花」に登場する謂わば小道具で、物語の展開上そこに設定されたとすべきものです。言い換えれば、物語(フィクション)が成立し、その結果名所・旧跡が誕生したと解釈すべきです。その点、例えば謡曲「俊寛」は、とかシテである俊寛が平家打倒の陰謀を企てた科で喜界ケ島(硫黄島)に流され、他の共謀者が赦されたのに、自分だけが許されず島に残されたという史実をもとに成立しています。事実をもとにした名所・旧跡から物語が生まれたのです。話曲「女郎花」は、物語が生まれたことで名所・旧跡が誕生したのですから順序が逆です。 三つめが、頼風塚が八幡市八幡今田にあり、女郎花塚が八幡女郎花にあって、「せめて同じ場所にあればと、哀れを誘う」と述べられる点です。 男塚と女塚はもともと遠く隔てられた所に建っていたのでしょうか。そのことを自明のこととしてよいのでしょうか。これについては、謡曲「女郎花」のストーリーを詳しく追う事で真相を明らかにしたいと思います。 (次号につづく)
by y-rekitan
| 2014-06-28 09:00
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