◆会報第52号より-05 藤村と八幡

島崎藤村と八幡

八木 功 (会員)



 藤村は八幡を訪れたことはありませんが、名作『夜明け前』(1935)の中で、八幡のある場所から、ある地域を現地で観察したことがあるかのように詳細に描写しています。次の一節です。

 公使の一行が進んで行ったところは、広い淀川の流域から畿内中部地方の高地へ向ったところにあるが、生憎と曇った日で、遠い山地の方を望むことは叶はなかった。二艘の小蒸気船は対岸に神社の杜や村落の見える淀川の中央からもっと先まで進んだ。そこまで行っても、遠い山々は隠れ潜んで容をあらわさない。天気が天気なら初めて接するそれらの山嶽から、一行のものは激しい好奇心を癒し得たかも知れない。でも、そちらの方には深い高地があって、その遠い連山の間に山城から丹波に跨るいくつかの高峰があるという日本人の説明を聞くだけにも満足するものが多かった。中でも、一番年若なカションは、一番熱心にその説明を聞いていた。どんな白い眼で極東の視察に来る欧羅巴人でも、この淀川に浮かんで来る春を眺めたら、いかにこの島国が自然に恵まれていることの深いかを感じないものはあるまいとするのも、彼だ。
               ・・・・・・・・・・・・・

 ご一読いただき、ここが淀川のどの辺りかお分かりでしょうか。この前後の淀川描写の中に、それぞれ次の二文があればどうでしょうか。
  • よく耕された平野の光景は行く先に展けた。(大阪平野の沃田)
  • 次第に淀の駅の船着場も近いと聞く頃には、煙るような雨が川の上へ来た。
 そうです。此処は、現在では、しっかりとした背割堤辺りを左手に見て、遡上するあたりです。慶応4年(1868)、鳥羽・伏見の戦いが終わって間もなくの早春の頃、フランス公使一行6人が、安治川口から小船に乗り、初めて、参内のため京都に向かう場面です。藤村は、淀川を遡上した経験も全くないのに、これだけの描写が出来るのには驚きますが、実は、観察を武器として散文修行に徹した藤村は、京都の西山連山を東海道線の車窓から凝視したことがあったのです。長編『新生』(1919)からの一節ですが、どの辺りでしょうか。

 ・・・岸本は淀川一帯の流域とも言うべき地方を汽車の窓から望んで行った。汽車がいくらかづつ勾配のある地勢を登って行くにつれて、次第に遠い山々も容を顕した。彼は飢え渇いたように車の窓を開け放ち、山城丹波地方の連山の眺望を胸一ぱいに自分の身に迎え入れようとして行った。大阪から京都まで乗って行く途中にも、彼は窓から眼を離せなかった。

f0300125_19125837.jpg 山崎駅から西大路駅までの間で見える西山連山(天王山、ポンポン山、小塩山、愛宕山など)の眺望ですが、登り勾配が始まる地勢を直感しているのは驚きです。
 事実の詳細は省きますが、この大阪から京都までの汽車の旅は、三年あまりに及ぶ故国脱出・逃避先のフランスからの、苦悩を抱え、孤独な、内密の帰国であり、久方ぶりに見る車窓を流れる風景を、まさに「飢え渇いたように」全身で観察・受容している藤村が目に浮かんできます。大正5年(1916)7月4日のことですが、この経験をふくむ小説『新生』を朝日新聞に連載したのは、車窓の風景もまだ鮮明な2、3年後のことです。それから10年後、昭和4年4月、『夜明け前』を年4回、『中央公論』に連載し始めますが、最初に引用した部分は、恐らく昭和9年(1934)頃に執筆したと推定されるので、実に、18年ぶりに、あの脳裏に焼き付いた心象風景が復活されたのです。そうでないと、ガイドの詞であれだけ西山連山にまつわる説明は書き得なかったと思います。驚くべきは、観察を武器として物を観る眼を養い続けてきた藤村の作家としての姿勢ですが、この場合は、特に全身で受け入れた連山の原画を、経験の全くない背割堤辺りを遡上する小船からの視界に収め、活用するという技法には、感嘆せずにおれません。
 (※ 挿絵は『淀川両岸一覧』より山崎の図の一部。手前は橋本)

 藤村と八幡といえば、藤村と吉井勇との縁をも思い出さずにはおれません。私の推定では、明治40年初頭、藤村(36歳)を訪れた勇(22歳)は、恐らく、文学、人生、自らの進むべき道などを問いかけたでしょうが、それ以後、二人の関係は、無かったようです。ところが、藤村の訃報を知り、「藤村先生の死を悼む」と題して詠んだ短歌六首を歌集『玄冬』に収めているので紹介しておきます。

     しづかなれどかなしき宵やわが遅き 
                  夕餉の飯も胸につかえて

        (藤村は昭和十八年八月二十二日永眠。)

     「東方の門」書きさして死にたまふ 
                  み心思へば泣かれぬるかな

        (「東方の門」未完の歴史小説。)

     大磯の梅の林の奥ふかく 
                  眼りてもなほ生きさせたまへる

        (大磯にある藤村の墓地の梅は、印象的です。)

     君が児の鶏二が描きし死顔は 
                  しづかなれども人を泣かせる

        (鶏二は藤村の次男。画家。)

     浅草の新片町の先生の 
                 二階の書斎いまも目離れず

        (初顔の二人は、ここで、熱い想いを交わしたことでしょう。)

     ルーソオの懺悔録もち吾に示し 
                 のたまひしことも忘られなくに

        (「懺悔録」は若い藤村の愛読書でした。)

 端的・素朴な言葉遣いで、生涯の心の師に対する無限の哀悼・敬慕の情が、響き伝わってくるように、私には思えます。      
            (2014・6・13)
by y-rekitan | 2014-07-28 08:00 | Comments(0)
<< ◆会報第52号より-04 物語... ◆会報第52号より-06 八幡... >>