大乗院の五輪塔と石工集団 谷村 勉 (会員) だれがいつ移設したのか 大乗院は、現在の京阪八幡市駅付近にあった寺院ですが、川筋拡張工事による廃寺(明治2年)の際に、五輪塔はそのまま地中に埋められ、風雨によって地表からはみ出た地輪は長い年月の間に削り取られた様子が伺えます。また、大乗院五輪塔本体に銘文はありませんが、西大寺の叡尊とその石工集団による造立と見て間違いないようです。 大正十年、五輪塔を現在地に移設した時は板看板に由縁を書いたものの、皇紀二千六百年(昭和15年)を記念して石碑に建て替えられたようです。 五輪碑銘文中の人物について調べた結果、以下のことがわかりました。 谷村久吉氏は、昭和13年発行の『八幡町誌』によれば、明治43年から昭和12年まで町会議員を、大正12年と昭和8年には町長を務めた人物であることがわかりました。 皇紀二千六百年とは昭和15年(1940)が神武天皇の即位から2600年に当たるとし、大東亜戦争開戦の1年前、官民一体となって「国民意識」の高揚や窮乏生活の払拭を狙って各地でいろんな行事を実施しました。戦後世代にとっては実態がよく分からないものですが、昭和15年前後に生まれた子供に「紀」とつく名前が多かったようです。ちなみに旧日本海軍の零式艦上戦闘機(ゼロ戦)は皇紀2600年に採用され、零戦と名づけられました。 大乗院五輪塔の概要と製作者 五輪部分の塔高は198.7cm、地輪52.0cm、水輪54.2cm、火輪45.0cm、風輪18.5cm、空輪29.0cmで台座の高さ20.0cmを加えると総高凡そ218.7cmの巨大な五輪塔であるということです。 製作者と思われる叡尊教団は鎌倉時代から南北朝期にかけて、塔高2メートルを超える巨大五輪塔を数多く造立したことで知られますが、その造立の背景には、叡尊らの弥勒信仰があったと指摘されます。彼らは56億7千万年という途方もない未来に仏となって、世に下生し、3度説法して衆生を救済する弥勒仏の救済に会いたいという弥勒信仰です。 それゆえ、56億7千万年という年月に耐えられるよう硬い石で、巨大な五輪塔を作り、その下に頑丈な金銅製の骨蔵器に入れた火葬骨を納めたとのことです。叡尊の弟子の忍性が、3度の説法のいずれかに合うべく3か所に自身の五輪塔を造立したように、叡尊の五輪塔も西大寺奥院叡尊五輪塔の他にも造立された可能性を示唆しています。 伊派の石工集団 鎌倉時代から南北朝期にかけての巨大五輪塔は、その殆どが伊派石工集団による製作と考えられますが、大乗院の五輪塔もまさに叡尊とその石工集団によって造立されたものと思われます。八幡大乗院は寛治二年(1088)石清水八幡宮別当頼清が建立しましたが、弘安四年(1281)閏七月の蒙古襲来に際しての叡尊の祈祷の功により、西大寺末寺の真言律宗寺院となりました。 はたして八幡大乗院五輪塔は誰の墓塔あるいは供養塔なのか、気になります。 筥崎八幡宮(福岡市)の石燈籠 福岡市の筥崎八幡宮の境内に八幡大乗院にあった石燈籠があります。花崗岩製で、高さ261cmに及びます。伊 行長の作で、重要文化財に指定されています。 火袋底裏の銘文には以下の記載が見られます。 「奉起立 八幡大乗院金堂燈炉事 右志者 当寺開山 尊霊 迎三十三年之逮忌 為奉資彼普賢行願 起立 燈炉而己 観応元年(1350)庚寅六月廿八日 勧進 尼了法幷一結衆等 敬白 大工井行長」(井はママ) 参考文献:感身学正記1 叡尊 細川涼一訳注 平凡社東洋文庫
by y-rekitan
| 2014-08-28 10:00
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