◆会報第53号より-02 木田醤油

「ひょこり訪問記」
木田醤油株式会社社長
―木田芳郎さんの巻―


 夏の盛りの七月の末、伏見区の淀美豆(みず)町にある木田醤油店を訪ね、社長の木田芳郎(きだよしろう)氏(今年81歳)にお会いしました。f0300125_1272033.jpgそして、創業が安政2年(1855)と云う店の来歴や醤油作り、なぜ木津川沿いで製造・販売したのかなどのお話を伺ってきました。 
 淀美豆町といえば、今でこそ京都市伏見区に編入されていますが、木津川が明治初年につけかえられる前は、石清水八幡宮の神領である外四郷の一つである美豆郷にありました。旧木津川が西に急カーブする内側の地が美豆郷です。ちなみに、八幡の外四郷と呼ばれる際目郷、生津郷、川口郷が、右の図のように、木津川の西側に沿って並んでいました。醤油会社の名物社長として知られ、一度訪ねてみたいと思っていましたが、一念発起、この夏に実現しました。会見には歴探の幹事であるA氏と同伴しました。

河内屋佐助と美豆の里

 事前に、電話で連絡を入れてはいましたが、初対面の私たちに気軽に応じてくださった木田さんは、こちらの問に率直に応えて下さいました。以下、その日に頂いたパンフレットなどをもとに私の印象もふくめて紹介します。
 木田醤油の初代は、河内屋佐助といい、奉公先の醤油醸造業の浮田氏の美豆村で働き、浮田氏の田を貰い受け、もとの木下姓を木田姓にしたとのことです。商号は「河佐(かわさ)」。清酒と醤油の販売を生業としていました。
 ところで、「美豆(みず)」とは読みの通り水を連想します。ところが、元来「醤油」の意味があるとのことです。元禄期に書かれた『本朝食鑑』は醤油の語源について述べ、「醤油」は中国名であり、その日本名が「豆久利美豆(つくりみづ)」というのです。平安中期の百科事典である『和名抄(わみょうしょう)』にも関連した記述があるとのことです。となれば、美豆とは醤油のことを指すではありませんか。なるほど、醤油は大豆を原料にします。美なる豆=醤油というのは理に適います。
 現在、醤油の大生産地といえば、千葉県の野田・銚子、兵庫県の竜野、和歌山県の湯浅があります。しかし、千葉県の醤油は湯浅が発祥と言われ、江戸で人気の醤油は泉州・堺のものでした。ことほど左様に醤油は近畿圏が発祥の地であったようです。京の洛中・洛外にも醤油業者は沢山あり、その中で、山科の元禄醤油が最も有名であったとのこと。続いて「マルタケ」醤油、「マルカ」醤油(浮田氏)、その次に木田氏の「ヤマカ」醤油が京の醤油醸造の中心であったとのことです。しかし、京都にある醤油醸造元は「ヤマカ」(木田醤油)以外は消えてしまいました。
 応接室での会見の後、さっそく、味噌・醤油を製造する蔵に案内していただきました。そこに入るなり、味噌の香ばしい香りが漂ってきました。

伝統を受け継いだ醤油作り

 醤油の作り方を簡単に言えば、大豆を蒸煮して、小麦を炒って、これに麹を入れ塩水を合わせて自然発酵させるというものです。木田醤油の製造は、総て昔のままの手作り、自然発酵で生じた麹菌は、もろみだけではなく蔵全体に住み着くようになるとのこと。f0300125_1133337.jpg蔵の樽を始め木の柱や壁、階段など百五十年以上この蔵に住み着いているのだそうです。そして、新しい醤油を作っても、この麹菌が勝手に降りてきて大樽の中に入り込むのだそうです。もちろん、麹菌は別にちゃんと仕込むときに入れるのですが、この不思議な生命体が、大豆と小麦を仲良くさせて「もろみ」となり、「生揚げ」(醤油のもと)となるのです。
 材料を仕入れてから商品になるには一年以上かかります。酒が産地や業者によって風味が変わるように、醤油も麹菌の生かし方や、製造法により業者それぞれの特色を持ちます。昔の伝統を守り、新しい味を求めて行くため常に研鑽が必要だとも述べます。

美豆、瑞々しい淀川(旧木津川)の流れと共に

 美豆の地名は古く、平安期には、「美豆の御牧」として歌枕にもなっています。但し、明治初期の村誌には「土地卑湿ナレトモ反テ食水ニ乏シ」(『八幡地域の古文書と石清水八幡宮の絵図』京都府立大学文化遺産叢書、第3集)とあります。確かに浅い地下水では、水は出るが金気(かなけ)の水で不味く、手拭を使えばすぐに黄土色に変わるとのことです。
 ですから、木田醤油では今でも井戸水を使っています。そのため77mも掘り下げたとのことです。一番の良水は50mあたりから出る軟水で、普通、軟水は飲料水に適しませんが、こちらの水は甘みがあって、カルシウム・マグネシウムを含む硬水とは違って素材の味を生かしてくれるとのことです。例えば宇治茶も美味しくいただくことができると言います。
f0300125_1141828.jpg 江戸時代、美豆の前は木津川が流れていました。蔵の前に石段がありますが、これは船着き場に至る石段でした。その前に木津川が流れ、当時は船での輸送が最盛期であったので、水運を利用して商品や原材料が運ばれ、いろいろの商家が多く繁盛したとのことです。明石の鯛や蛸がその日のうちに洛中まで入ったとのことです。それというのも、昔から対岸の淀は魚市で賑わっていたという事情もあるのでしょう。
 ともかく、多くの舟がこの石段の前で賑わったとのこと。目を閉じると、今にも船頭さんが「荷が着いたぞ」と叫ぶ声掛け声が聞こえてくるとのことです。

明治時代以後の醤油醸造業の発達

 明治15年(1882)以降、理化学的な研究が進み、製造技術が進歩を遂げてゆきました。醤油産業が近代的な大量生産時代に移行したのは、大正7年(1918)の第一次世界大戦後に訪れた好況時代。この好況が近代化に拍車をかけ、企業の合同も行われました。f0300125_11592795.jpg
 ところが、昭和12年(1937)以後、原料の入手難から質の向上よりも量の確保が先決になってしまいました。本醸造醤油はほんの僅かしか作られず、代用品として「アミノ酸醤油」が生産の主流になる時代を迎えてしまったのです。
 醤油業者が再び品質の向上を目指すことが出来るようになるのは、戦後の昭和25年(1950)、配給制度が廃止され、自由販売が認められるようになってからです。その後、半世紀以上経た現在では、品質に優れた本醸造醤油が大量に生産されるようになりました。
 そう語る木田さんですが、「木田醤油株式会社も私の代で終わりですわ。息子である6代目は他の仕事に精を出しておりますさかいに、私の代で店も閉めるということですわ」と寂しく語るのが印象的でした。    (黒沢建治 記)

     
     神領の絵図(部分)の出典は、
     『石清水八幡宮 境内の遺跡』(八幡市教育委員会発行)です。
 
by y-rekitan | 2014-08-28 11:00 | Comments(0)
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